2016年09月14日

村田沙耶香「コンビニ人間」

村田沙耶香「コンビニ人間」をおもしろく読んだ。
芥川賞受賞にふさわしい作品だと思う。

読みおえて感じたのは、「コンビニ人間」というのは「コンビニ人間」というロボットなのだ、と。
コンビニという職場空間で有能なロボットが、主人公である古倉という36歳の独身女性だ。
小説では「私」という一人称で語られているが、古倉には感情がなく、小説に登場する人間であるかのように自分自身をとらえている。
古倉の他者を観察する眼力は鋭いが、想いをぶつけることはない。

古倉は大学1年生のとき、1998年5月1日にオープンしたスマイルマート日色町駅前店にアルバイト店員として働きはじめる。
大学卒業後もそのままアルバイトをつづけ、勤続18年になる。
店長は交替して、いまは8人目だ。
古倉はコンビニの店員としてはマジメで有能だが、見下される職業として描かれている。

「針金のハンガーみたいな男性」と形容される白羽が、アルバイト店員として加わった時点で小説が加速しはじめる。
わたしが登場人物のなかで妙なリアルさを感じたのは、白羽という男だ。
婚活のためにコンビニを選んだという白羽は、コンビニ店員を差別しながら、本人は無能力である。
白羽は女性客にストーカーのような問題行動を起こすようになり、警察沙汰になるまえに店長の判断でクビになる。
履歴書によると白羽は、大学を中退して専門学校に行き、そこもすぐにやめている。

「使える道具として働いている」という自覚のある古倉は、白羽が異物として排除されたことを、他人事とは認識していない。
古倉は子どものころから、家族を含む他者から異物視されているという怯えをひきずっている。

ある日、店の外で女性客を待ち伏せしていた白羽をみつけた古倉は、近くのファミレスに誘う。
自分に対して差別発言を連発する白羽を冷静に観察する古倉は驚いたことに、白羽に自分と婚姻届を出さないかと提案する。
それがムラ社会に従うということになるなら、古倉にとっても好都合だという理屈である。
白羽は寄生虫として、古倉の古いアパートの浴室に引きこもる。
そしてエサを与えられながら、相変わらず空論を放ち、古倉を口撃する。

古倉は、家族や友人たちの安心のために、18年間勤務したコンビニ店員を辞めた。
店長を含む同僚たちは、白羽という無能力な男と同居している古倉を、なぜか祝福してくれた。
根拠のない安心感である。

指令のないロボットと化した古倉は、自堕落な生活を送るようになる。
自分を養うために古倉を定職に就かせようとして白羽がみつけた派遣社員の面接の日、古倉は暴走する。
トイレに行こうかと入ったコンビニで、「コンビニ人間」というロボットとしての古倉にスイッチが入り、雇われてもいない店で機敏に働きだす。
店員は怪訝な顔をしながらも、スーツ姿の古倉を本社の社員だと思ったらしく、古倉の有能さに驚嘆する。

「コンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」と古倉は白羽に宣言する。
新しい店で、「コンビニ人間」として働く古倉というロボットが復活したのである。

いまや、大学を卒業しても非正規社員として働く若者は多い。
白羽の背後にいる、自己肯定感をもてない若者の現実が気になったのが最大の読後感である。
これは性別を問わない。

一方、いま落合陽一の『これからの世界をつくる仲間たちへ』を読んでいる途中なのだが、コンピューターに陶太される人間が想定されている。



miko3355 at 16:19|この記事のURLTrackBack(0)文学 

2015年12月23日

ニキ・ド・サンファル展

昨年の9月にアップしたまま更新できずにいた。
気づくと、ことしも残り少ないのだ。
とにかく時間がないのだが、とり急ぎひとつだけアップすることにした。

ニキの生誕85年目に開催されたニキ・ド・サンファル展については、10月18日に放映されたEテレ「日曜美術館」を観た。
六本木にある国立新美術館まで足を運ぼうとは思わなかった。
ところが、縁あって招待券が2枚送られてきたので、友だちを誘って観にいったのが11月末だった。

美術展でわたしはいつも観る速度が速いので、友だちとは別に動いた。
出口に近づいたころ、突如、わたしの脳にマイナスのスイッチが入り、わたしのお腹が壊れたのを感じた。
脳と胃腸が深く結びついているとはいえ、からだは正直だった。
出口近くにショップがあったので、ポストカードを数枚急いで買い、ニキ展から脱出した。
出口の正面にあるイスに座っていると、友だちから携帯に電話があった。
ニキの絵を買いたいので、一緒にみてほしいと。

ショップに行くと、最近、家を建てかえた彼女は、玄関に飾る絵を探していたという。
カラフルな抽象画のなかから小さなサイズの絵を2点選んだものの、大きなサイズ1点にすべきか決めかねていた。
ショップの女性とわたしが大きなサイズを勧めたこともあり、かなり迷った末にそちらを選択した。
クリスマスまでには自宅に絵が届くらしい。
わたしはさらにポストカードを数枚と、のちにネットで注文しようと考えていた『ニキとヨーコ』(黒岩有希/NHK出版)を買い加えた。
美術展の図録は内容が充実しているので買うことにしているが、ニキについてはその必要性を感じなかった。

それにしても不思議だ。
ニキを知らなかった彼女が、ニキのカラフルな色彩に魅了されて買った絵を玄関に飾り、彼女の家を訪れたひとがそれを目にする……。

わたしにとってニキの作品はひとことでいうと「違和感」だ。
受け入れがたい要素がある。
《ナナ》にも親しみを感じられなかった。
最も印象が強かったのは、「日曜美術館」を観たときと同様、《赤い魔女》である。
正視できないインパクトがある。
京都を訪れたニキが日本文化から影響を受けた《ブッダ》は巨大な作品で、不思議なエネルギーに満ちている。
わたしが気に入った作品は小さいが、《黒は特別》。

会場でわたしが驚いたのは、ほとんどがYoko増田静江のコレクションだったこと。
本展では86%だという。

『ニキとヨーコ』という本を、とてもおもしろく読んだ。
ヨーコというのは増田静江の別名である。
絵を描き始めた増田静江が、雅号を「二樹洋子」YOKO NIKIとし、ふだんからヨーコと名乗のると宣言したのだ。
ニキが呼びやすい名前にしたい、との思いもあった。

ヨーコ増田静江の夫・通二はパルコの元会長で、父親は日本画家。
子どもたちが幼いころ通二に、「自分の給料は自分の好きに使いたい。自分の好きな絵を好きな時間に描くために、別のアパートにアトリエとして部屋を一室借りたい」といわれ、静江は受け入れた。
以後、同志としての関係はつづくが、通二が現役を引退するまで子どもの教育費を含めて、静江は経済的に自立している。
これだけでも偉業だが、静江はニキの世界最大のコレクターとして、那須に「ニキ美術館」を建てたのだ。
そして「ニキ美術館」建設には、通二の威力が発揮される。

「ニキ美術館」は1994年10月6日にオープンし、ヨーコの没後2年を経て、惜しまれながら閉館した。
2002年、ニキは71歳の生涯を閉じ、2007年には通二も亡くなった。
そしてニキの死から7年後の2009年、ヨーコは78歳で他界。
残されたのは、ヨーコが買い集めたたニキの膨大な作品と、ふたりが交わした500通の手紙である。

わたしが最も感銘を受けたのは、ニキとヨーコという女性同士の関係である。
ニキは自分が前世で魔女として火あぶりにされたと感じていて、ヨーコには自分がニキを火あぶりの刑に処した裁判官だったと思えた。
現世でどのように関係が修復されたかを知るために、『ニキとヨーコ』が多くのひとに読まれることをわたしは強く願う。
1998年、体調不良のなか来日したニキが、「ニキ美術館」を訪ねたときのニキとヨーコの場面は圧巻だ。



miko3355 at 15:25|この記事のURLTrackBack(0)美術 

2014年09月18日

NNNドキュメント「兄(おにい)   妹『筋ジスになって絶望はないの?』」

9月15日(0:50〜1:20)、日テレで放映された「兄〜おにい〜」を、なんの先入観もなく観た。
感動という言葉が薄っぺらく感じるほどのドキュメンタリー作品だった。

本作はNNNドキュメント44年の歴史上初の、監督が現役の学生だという。
大阪芸術大学映像学科の米田愛子さんが兄を描いた本作は、「第18回 JPPA AWARDS 2014」でシルバー賞を受賞した。

以下、記憶にまかせて印象に残ったことを書く。

妹の鋭いインタビューに対し、兄(おにい)は終始、笑顔で受け答えしている。
彼の透明な表情をみていると、現実世界やTVで人相の悪い顔をみてうんざりしているわたしには、救われる想いだった。
あと、部屋が整然としているのも心地よい。
肩に負担がかからないように工夫して服を着る映像がある。
裸の上半身は筋肉が衰えていて、痛々しい。

体操部に入った高校生の兄(おにい)は、いくら練習しても上達しなくて、先生に「からだがおかしいから、病院へ行け」といわれる。
筋ジストロフィーだと診断した医師に、「小学校のときからですよ」といわれた。
そのときは、「ほっとした。これでもうゲロを吐かなくてすむ」。
筋力の衰えに抗して激しい練習をしたため、からだが悲鳴をあげていたと、観る側は容易に想像できる。

自殺も考えたが、やはり生きていたい。
兄(おにい)の哲学は「忘れること」。
いま、自分の周りにいる友だちも、いずれは家庭をもつ。
そのときには、自分のことを忘れてほしい。
わたしには「自分のことを忘れて幸せになってほしい」というふうにも聞こえる。
日々の筋力の衰えに対し、自分が過去にできたことさえ忘れることによって、病状とのバランスをとる精神力が不可欠だということだろう。

恋愛については、仕事をして家族を養うことはとても考えられない。
likeでいい、と。

家族旅行の映像が流れた。
自分は盛りたて役なので、あとでからだが痛くなることがわかっていても動いてしまう、と語る。
誰に対してもサービス精神旺盛な兄(おにい)だが、孤独感に裏打ちされた克己心が透けてみえる。

仕事については、現実はきびしい。
このくらいできるだろうと思われる仕事でも、あとでからだが痛くなる。
いまは友だちの紹介で仕事がみつかったらしいが、兄(おにい)はどこまでもポジティブシンキングなひとなのだ。
わたしには妹についても、そうみえる。
その根拠は、本作のラストだ。
兄(おにい)に対して語りかけた妹のナレーションに、ユーモアを感じたからだ。

それにしても、どうして兄(おにい)のような好青年が、過酷な病気になってしまったのか。
わたしは天を仰ぎ嘆息する。

諦めることではなく、忘れること。
わたしのなかで「忘れる」と語った兄(おにい)の笑顔が、残像として消えない。

2014年08月08日

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2014年06月22日

映画天国「あるスキャンダルの覚え書き」

2014/06/16の深夜、日テレで放映された映画「あるスキャンダルの覚え書き」を観た。
わたしの好きな映画だ。
省略が効いていて、観る人間の想像力にゆだねる構成が心地よい。

以下のあらすじはわたしの記憶によるので、まちがっているかもしれないことをお断りしておく。

定年間近な歴史教師・バーバラは、新任の美術教師・シーバ(ケイト・ブランシェット)に惹かれ注視するうち、シーバと15歳の教え子の少年との悦楽現場を目撃してしまう。
バーバラはシーバの秘密を守ることで共犯者となり、シーバを支配しようとする。
バーバラはシーバに関係を絶つようアドバイスするが、シーバは断行できない。
ある日、バーバラの飼い猫が死に、哀しみをシーバと共有したいと切望する。
が、シーバはダウン症の息子が学芸会で演じるのを家族と観るほうを優先させる。
その決断がバーバラの逆鱗に触れ、相談のため自宅を訪れた同僚男性にシーバの秘密を口にすることで、噂が校内に拡がることを画策する。

すべてを失ったシーバは、バーバラに助けを求める。
バーバラの家で自分のことを克明に綴った日記を発見したシーバは、バーバラの裏切りを知り、罵倒する。
シーバはやむなく夫のもとに帰り、夫は家のなかに迎え入れる。
夫はいつかこのようなことが起こると予想していた。
シーバは彼の教え子であり、年長だから。
15歳を相手にしたことが致命的だった、という考えらしい。

バーバラは平然と新しいノートを買い求める。
日記を綴ることが、バーバラが生きることを意味する。
そしてベンチに座る若い女性に声をかける。
つぎの獲物を密かに狙っているのが、見事なラストシーンだ。

バーバラは怖い人間だが、妙にリアルだ。
それはわたしの周囲やわたし自身の体験から、バーバラやそれ以上に怖い人間が多く存在するから。
しかもフツウの人間の顔をしているから厄介なのだ。
バーバラは同性愛者のようだが、行為に及んでいるとは想像しにくい。
バーバラの最大の親友は日記帳だったのではないのか。

バーバラの入浴シーンは唐突だが、わたしは好きだ。
自分の孤独感はシーバにはとうていわかりえない、という意味のことを呟くのだが、ジュディ・デンチの演技が淡々としていて、好感をもてる。
ストーカーの素質のあるバーバラを嫌みなくみせているのは、特異な演技力が観るものの共感を呼ぶからだと思う。

この映画のなかで最も怖かったのは、15歳の少年だ。
シーバに執拗に近づき、母親が病気で、父親に暴力を振るわれているというウソを平気でつき、シーバの同情を誘発する。
スキャンダルが発覚したあと、シーバに対しても冷酷だ。
どんなシーンでも眼に表情がない。
少年の内面は明らかに病んでいる。

わたしはジュディ・デンチの演技力に圧倒され、ケイト・ブランシェットにはあまり興味がなかった。
ただ彼女が演じたシーバが悦楽に耽溺するのは、単に肉体面だけではないこころの空洞があるように感じた。
ダウン症の息子の育児や家事に加え、美術教師としても懸命なシーバが、ふと羽を休められるのが少年だったのではないか、というのは邪推だろうか?

いずれにしても、観るがわの妄想をたくましくさせる映画である。





2014年02月10日

佐村河内守騒動がもたらしたもの

さきのエントリーをアップしたのは2013年10月20日で、わたしは佐村河内守作曲のピアノコンサートを聴いた感想として彼を讃えた。
先日、2014年2月6日、桐朋学園大非常勤講師・新垣隆氏の会見があった。
18年間佐村河内守氏のゴーストライターとして20曲以上の曲を書き、報酬は買いとりで合計約700万円、印税には無関係だった、と。
さらに衝撃的なのは、佐村河内守氏は耳が聴こえているという。

ショックを受けながらこの問題について考えてきたが、いまの自分の考えを記しておきたい。
2月6日付で、通りすがりさまから「こっちが読んでて恥ずかしくなってきちゃいました!!」というコメントがあった。
具体的になにを意味しているのかわからないが、わたしへの批判だろう。
自分を安全圏に置いてこういう短いコメントを残すというのは、悪質だとわたしは思う。

佐村河内守氏がブレイクしたのは、2013年に放映されたNHKスペシャルが起因している。
本番組の企画者はフリーディレクターらしいが、NHKは佐村河内守氏が全聾ではなかったことを知らなかったという。
しかしそれだけではすまされないだろう。
NHKは会見を開いて、説明してほしい。
佐村河内守氏が広島の被爆者や東北の被災者、そして彼がかかわった子どもたちを欺いたのはほんとうに悪質だ。
わたしはNHKスペシャルより、自叙伝『交響曲第一番』のほうに感銘を受けた。
これはほんとうなのだが、本書を読みはじめてすぐにゴーストライターの存在を疑った。文章が手慣れていたからだ。
あとがきに「本書は、発作の合間を縫ってこつこつと筆を進め、書きあげたものです」とあったので、佐村河内守氏に文才があり、優秀な編集者がかかわったのだろうと思ったのだ。
わたしが入手したのは幻冬舎文庫だが、単行本は講談社から刊行されている。
NHKスペシャル以上に、自叙伝はフィクションである。
講談社は絶版にするだけではなく、説明責任があると思う。
ゴーストライターが存在するのかも含めて。

あらゆる芸術作品についてどう受けとるかは自由で正解はない、というのがわたしの持論だ。
作品を純粋に鑑賞して、作者の属性から切り離すことはできない。
わたしは今回の問題を考えていて、カミーユ・クローデルを想起した。
カミーユは精神を病み、「ロダンに才能を盗まれた」と思いこんでいたが、それはまったくの妄想ではなかったのだから。
師匠のロダンより弟子のカミーユのほうが優れた彫刻家だった、と評価する専門家がいるというのを、以前に新聞記事で読んだことがある。
わたしはカミーユという女性が好きだし、「分別盛り」という作品は好きだ。
芸術家が自身のマイナス体験をプラスへと転化させ、それが作品として結実したとき、ひとの魂に訴える大きな力となる。

佐村河内守氏が新垣隆氏に渡した図表には、交響曲第一番『現代典礼』とあり、1年間で作ってくれ」といわれ、完成してから数年後に「HIROSHIMA」というテーマで発表されたのには新垣隆氏が驚愕したという……。
佐村河内守氏の戦略は当たり、交響曲第一番《HIROSHIMA》のCDはヒットする。
広島市は2008年に佐村河内守氏が受賞した「広島市民賞」の取り消しを決定した。
福島県本宮市は佐村河内守氏に「市民の歌」の作曲を依頼し、先日届いたばかりの曲を3月11日の追悼式典で初披露する予定だったが、使わないことを決定した。
会見でこれについて質問された新垣隆氏は、初耳でそれには関わっていない、と発言した。
最近、ゴーストライターを辞めたいという意志を新垣隆氏が伝えたとき、それなら自殺すると脅していた佐村河内守氏は、つぎのゴーストライターをみつけていたということになるのだろうか。

新垣隆氏の会見だけでは全貌は明らかになっていない。
今後の損害賠償額は佐村河内守氏が詐称によって得た額を超えるという。
新垣隆氏が買いとりではなく、印税を受けとっていたら、損害賠償する羽目になったのだろうか。
悪事をはたらいた人間が罰を受けるとは限らない。
その意味では、佐村河内守氏のケースは悪質度が低いともいえる。
わたしがコンサートで聴いたとき、ピアニストのソン・ヨルムは魂をこめて《ピアノ・ソナタ》を演奏していた。
希望のシンフォニーといわれた《HIROSHIMA》についても、演奏したオーケストラは魂をこめたと思う。
その祈りが聴衆に伝わったのだろう。

新垣隆氏の会見のなかで最も印象的だったのは、佐村河内守氏のことを「プロデューサーだった」ときっぱりいったことだ。
ふたりのやりとりのなかで作品ができあがっていったという一面があったのだろう。
新垣隆氏は桐朋学園大非常勤講師を引責辞任するらしい。
わたしは新垣隆氏がこれを機に、チャンスに恵まれることを祈る。

話は変わるが、昨年、新宿でバンダジェフスキー博士の講演を聴いた。
「チェルノブイリよりフクシマのほうが深刻」だというのが博士の見解だ。
ほんとうは避難すべき首都圏に住むわたしは、日々の食材を買い求めるのも大きなストレスだ。
フクシマの危機は現在進行形だし、底なしの不安がある。
日本の子どもたちは、これからどうなってゆくのだろうか?
3.11以後、いつもどんよりした心境にいるわたしにとり、佐村河内守氏の存在は大きかったのだ。
彼が被爆二世だというのはウソではないらしいが……。



miko3355 at 00:44|この記事のURLTrackBack(0)音楽 

2013年10月20日

佐村河内 守

2013年10月13日、東京オペラシティ コンサートホールで、《佐村河内 守作曲 ピアノ・ソナタ第1番&第2番 世界初全国ツアー》を聴いた。
ピアニストは第2番を献呈されたソン・ヨルム。

ピアノ・ソナタ第1番(36分)で黒いロングドレスであらわれたソン・ヨルムは、精神統一をはかるようにからだをぎこちなく動かし、ひどく緊張しているようにみえた。
ようやくという感じで最初の一音を弾いたとき、なぜかわたしの両眼にじわーっと涙が浮かんだ。
自分でも理解できない反応だった。
ソン・ヨルムは最初の一音をしくじればすべてがオジャンになるかのように、慎重に魂をこめたようにみえた。
ソン・ヨルムの緊張感は、最後まで持続していた。
わたしがピアノ・ソナタ第1番から受けとったのは、凶暴な怒りである。

20分の休憩があった。
『交響曲第一番』(幻冬舎文庫)という佐村河内 守の自叙伝が販売されていた。
だれも手にとっていなかったが、本書の存在を知らなかったわたしは、即座に買い求めた。

ピアノ・ソナタ第2番(36分)で白いロングドレスであらわれたソン・ヨルムは、はじめから緊張感がなく、愉しんで弾いているようにみえた。
第1番との落差が大きかったので、わたしはとても眠くなり、ぼーっとして聴いていた。

演奏後、佐村河内 守が登壇した。
サングラスをかけ、左手に包帯を巻き、杖をついている。
まさに満身創痍という感があるのは、NHKスペシャル「魂の旋律〜音を失った作曲家〜」(2013年3月31日)で放映された佐村河内 守を知っているからだ。
佐村河内 守が舞台でソン・ヨルムと抱擁し、腕を組んで歩くと、笑いが起こった。
おそらくほほえましいものを感じたからだろう。
ピアノ・ソナタがあまりにも激烈だったので。
35歳で両耳の聴力を失った佐村河内 守にこの笑いは聴こえない。
もちろん拍手の音も、ソン・ヨルムが紡ぎだすピアノの音も。
演奏後のソン・ヨルムの顔が柔らかく、満足げにほほえんでいたのが印象に残った。

帰宅して、自分がひどく疲れていることに気づいた。
あたりまえだが、佐村河内 守の抱える怒りが自分のそれをはるかに超えているからだ。
疲れたからだで、会場で買い求めた『交響曲第一番』を一気に読んだ。
本書は2007年10月に講談社から刊行され、2013年6月に幻冬舎から文庫として刊行。
本書からはNHKスペシャルには表現されていなかった佐村河内 守の抱える怒りが、息苦しいほど伝わってくる。
本書の刊行により2008年9月、秋葉忠利広島市長の尽力もあり、《交響曲第一番″HIROSHIMA″》が爆心地の近くにある広島市厚生年金会館で演奏され、CD化された。
多くのひとが佐村河内 守の存在を知ったという意味で本書より影響の大きかったのは、NHKスペシャルに登場したことだろう。
しかしわたしは、本書のほうがNHKスペシャルより衝撃を受けた。
230ページ記されているが、佐村河内 守は妻にこう伝えた。
「《ピアノ・ソナタ第一番》は最も私の姿をしている。もし、棺に一冊しか譜面がはいらないならこれを入れてくれ」

1999年に放映されたETV特集「フジコ〜あるピアニストの奇蹟〜」によりブレイクしたフジコ・ヘミングのコンサートを聴き、わたしはひどく失望した。
佐村河内 守にその心配はなさそうだ。

1993年、貴重なエヴァ・デマルチクの公演にゆき、舞台で歌うエヴァをみながら「求道者だ」と感じた。
佐村河内 守も「求道者」だ。

3.11以後、世界は変わった。
福島原発の爆発により、日本は底なしの恐怖にさらされている。
被爆二世の佐村河内 守の存在は限りなく重い。





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2013年03月20日

水谷修に逢いにゆく

2013年3月18日、夜回り先生こと水谷修の講演を拝聴した。
たまたまバナー広告で講演を知り、聴講券を2枚入手できたので、友だちを誘った。
社団法人全日本不動産協会の一般消費者むけの無料講演会だった。
水谷修の講演会は公表していないらしいが、もしかしたら無料講演会を水谷修は選んでいるのかもしれない。
会場は千駄ヶ谷駅の至近距離にある津田ホールで、18時00分〜19時40分。
津田ホールは小さくてわたしの好きなホールだ。
水谷先生の講演らしく時間厳守で、講演時間は18時10分から90分間。

開演よりかなり早く着き、3階まで階段をあがると、驚いたことに水谷先生が数人の男性とともに著書を並べていた。
わたしの立つ地点から3メートルくらい離れていたのにすぐにわかったのは、なにかフツウとはちがうオーラを放っていたのに加え、いきいきとした表情ですばやく手を動かしていたからだ。
友だちとトイレに行ったあと、著書を買うために近づこうとしたら、水谷先生は売り場からすこし離れたところに座り、少女の話を聴いていた。
寄り添うように黙って話を聴いている姿が印象的だった。
話を終えた水谷先生がわたしの横を通りすぎる瞬間、「どうも」と声をかけられた。

高文研という出版社が運営する水谷修の掲示板「春不遠」(はるとおからじ)を閲覧していた時期があった。
自分の苦しみをひたすら訴える多くの若者に真摯に対応する水谷先生に痛ましさを感じるようになり、耐えられなくなったので遠ざかっていた。
同時に、水谷先生は彼らとは較べようもなく重いものを抱えているのではないか、と思えてならなかった。
そうでなければとても対応できないからだ。
しばらくして閲覧してみると、2002年6月にはじまった「春不遠」はさまざまな理由から閉じられていた。
2005年11月10日が、水谷先生からの最後の書き込みだった。

2012年、水谷先生はホームページを開設した。
9月17日、水谷修オフィシャルブログ「夜回り先生は、今!」を開始している。
いままで水谷修の著書を数冊入手し、いくつかのドキュメンタリー番組に出演した水谷修を観た。
けれども「なま水谷修」は、まったくちがってみえた。
胸腺リンパ腫を患ってからの映像や写真はやつれてみえていたが、実像は神がかっているとしか思えぬほど生命力にあふれていた。
こんなにカッコよく、背広の似合う男性は稀だ。

  *

講演の冒頭で、水谷先生はいった。
胸腺リンパ腫が安定したかと思った矢先、転移がわかった。
昨年の12月に腸を切り、さらに胃を切ったばかりなので、いまも出血がつづいている。
授業や講演のときには立ってするのだが、血圧が低くなっているので、苦しくなったらイスに座らせてほしい。
悲愴感漂う感じではなく、苦笑いしながら。
わたしはブログを閲覧していたので知っていたが、14日に入院し、胃の悪性腫瘍を内視鏡手術していた。
退院は19日である。
そんな体調にもかかわらず、迫力に満ちた講演だった。
結局、イスに座ることはなかった。
水谷先生は実践派だが、ほんとうは論客なのだと確信するほど頭脳明晰だ。

講演の内容は著書を読めばすむわけだが、とくに記憶に残ったことを記してみよう。
聴衆は若者が多く、春休みに入ったためか小学生もいた。
夜回りをひとりではじめた時代の「元気な若者」の非行とはちがう、リストカットやいじめによる引きこもり・自殺といった、生命力の希薄な若者が増加している。
日本の行く末が憂慮される。
3.11は水谷先生にとっても衝撃的で、それまでに築いたネットワークを駆使して東日本大震災復興支援にとりくんでいる。
さだまさし、鎌田實、坂東玉三郎、菅原文太なども水谷先生の仲間だという。
水谷先生はカトリックのクリスチャンらしいが、さまざまなの宗教の支援によって建物を開放してもらい、若者の心身の復活につなげようとしている。
お寺のような神聖な場所では、リストカットはできない。
わたしが感心したのは、水谷先生がかかわった若者たち(暴走族の総長を含む)が、社会的ネットワークを形成していることだ。
水谷先生は着実に荒れ地を耕し、種をまいている。

  *

講演が終わり、わたしには珍しく水谷先生にサインを求める長蛇の列に加わった。
いままでサインがほしいと思ったのは、坂田明のみだったから。
わたしは水谷先生との縁をなにかに刻んでおきたかった。
声をかけるひとに対して、水谷先生は笑顔でスマートに応対していた。
「上智大の学生です」と声をかけた男性もいた。
サインが終わると、水谷先生はひとりひとりに「ありがとうございました」といいながら深く一礼した。
とにかく所作が美しいのだ。
わたしは買い求めた2冊にサインしてもらうページを広げていた。
1冊目にサインしながら、水谷先生は「そちらにもしますからね」と声をかけてくれた。
水谷先生が「ありがとうございました」といって一礼した後頭部を目にしながら、わたしは「ありがとうございました」といった。
水谷先生は座っていて、こちらは立っているので、そういう位置関係になる。
サインしている水谷先生の手はとてもきれいだった。
国分拓との共通項は、手がきれいなことと、一見草食系だということ。

きっちりていねいに仕事をしている人間のすがすがしさを、水谷先生が身をもって教示してくれたような気がする。
それはとても稀有な体験だった。

水谷先生はいまも全国で夜回りをつづけていて、そのことでエネルギーをもらっているという。


miko3355 at 16:52|この記事のURLTrackBack(0)講演 

2012年10月24日

わたしがみた「国分拓」(後篇)

1時間の休憩ののち、石川文洋のコーナーに入った。
わたしが会場の出入り口付近に座っていたのでわかったのだが、石川文洋は「いやあ、多いですね。20人くらいかと思った」といいながら、リラックスした感じであらわれた。
(ちなみに国分拓は会場のまん中から登壇しようとしてわたしの左横に立ったのだが、ひどく緊張しているのがわかった。スタッフに右側からと促され、そちらに移動してから登壇した)
石川文洋は穏やかで長老の風格がある。
口調は著書『戦場カメラマン』の文体と同じだ。
TVでみるより実物のほうが魅力的だ。
10分ほど話した時点で、自分の鞄をもってきてくれと、会場のうしろにいるスタッフに声をかけた。
鞄のなかからとりだしたのは降圧薬。毎日、3回降圧薬をのんでいるが、急に高くなったときにのむ薬だという。
話しはじめるとつい力が入り、血圧が上がるのだという。
みんなが心配そうにみつめるのに対し、笑顔で「だいじょうぶです」という姿にユーモアが漂う。
「心臓が止まりました」という医者の声が聞こえて、5回の電気ショックで生還したと、こともなげに付け加えた。
が、石川文洋はいたって健康そうにみえた。

石川文洋が撮った写真を映しながら、立って説明。
それにしても石川文洋の記憶力には驚愕した。
作家には記憶力が必要らしいが、写真家にもそれはいえるのかもしれない。
石川文洋が従軍カメラマンだったときにうなされ、兵士たちが敵の襲撃かと銃をかまえたので、「恥ずかしかった」。
いまでも、うなされるという。
臆病で、いまでも血をみたり交通事故の現場をみるのは怖いが、戦場で死体をみるうちに慣れてくる。
「わたしも兵士だったらひとを殺します。戦争とはそういうものです」とクールな口調で断言。
(自分の年金額を名言したのには驚いたが)、宝くじが当たったら、かつて写真を撮った場所を再訪してみたい。
機械に弱く、パソコンもできないので、よくそれで写真を撮るなあといわれる。
いまはフォトジャーナリストが発表できる場がない、と訴えていた。
80歳までは撮りたい。
校長に頼まれて、学校で講演しているという。
すべては平和な世界を築くために。

わたしはこちらで石川文洋著『戦場カメラマン』から引用しているが、カンボジアでの大虐殺について訊いてみたかったと、帰宅してから思った。
石川文洋は、「もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟でいます」と同書に記している。
2011年10月、千葉のホテルで入浴中に倒れて死亡した馬渕直城が、ポル・ポト派の虐殺を否定していたことについて、訊いてみたかった。
病死した共同通信プノンペン支局長・石山幸基こちらについても訊いてみたかった。

講座終了後の石川文洋は、語り足りないような顔をしていた。
写真にまつわる話になると自然と熱が入り、キリがないようにみえた。

 *

石井光太が「石川さんも国分さんも、まだいらっしゃいますので、お話ししたいかたはどうぞ」と発言したので、質問できなかったわたしにもチャンスがあるかもしれないと思った。
国分拓を探すが、姿がない。
イスに座ったままの石川文洋を、数人の若い男女がとり囲んでいた。
女性が石川文洋とのツーショットを携帯に撮るのを、石井光太に頼んでいた。
ほほえましい光景だなあと思い、さきほど「兵士たちと仲よくなった」といった石川文洋の戦場での光景と重なり、人徳じゃないのかと思った。
帰ろうとして部屋をでたら、スタッフらしき若い女性が立っていた。
「国分拓さんはもう帰られましたか?」と訊くと、「さきほどタバコを吸っておられたので、探してきます」。
いまにも走りだしそうだったので、「もういいです、帰りますから」。
ここにいないということは、なにか用事があるのだろう。
そんな国分拓を呼びだすのは醜悪だ、とわたしは思った。
彼女は同情的な顔で「ほんとうにいいんですか」と無言で訴えたので、誠意を感じた。
ああ、国分拓とは縁がなかったなあ……と感じながら狭い外階段を降りると、狭い踊り場に国分拓の背中がみえた。
踊り場に灰皿があったので、そこでタバコを吸っていたのだろう。もう吸いおえていた。
国分拓の左側に若い男性が立っていたが、講座に参加したかたのようにみえた。

驚くと同時に、ごく自然に話しかけていた。
「さきほど質問者が多かったので……」
まず「カメラワークがいいですね」というと、国分拓は完璧なポーカーフェイスで無言。
「NHKもそうですが、ステレオタイプの出産シーンにうんざりしているので、ヤノマミはよかったです。いのちを生みだす側は、いのちに対する畏れが必要じゃないでしょうか?」
わたしがそう問いかけると、またもやポーカーフェイスで無言。
「ナレーションで、少女は……、少女は……とありますが、もう少女ではありませんね」
「それは妊娠してからですか?」と迫ってきた。
「子どもを精霊のまま天に返してからです。天に返すかどうか、その葛藤を経て成長したのではないか」
わたしが発した「成長」という単語に反応して、国分拓の頬の筋肉がかすかに動いた。
国分拓は急に真顔になり、
「そういってくださると、うれしいです」
うれしそうではない顔と口調でそういうところが、国分流なのだろうか。
「わからないから撮れたんです」と国分拓が付け加えたのに対し、
「それはちがうと思います」
と断言してしまった。
しかしそれが国分拓の言を否定したのではないことは、伝わったようだ。
最もいいたいことをいったあと、わたしはつづけた。
国分拓の全身を上から下へさし示しながら、
「一見、草食系なのに……」というと、
不意を衝かれたような驚きを全身であらわした。
不躾なことをいってしまったような気がして、言葉を繋ぐことができなかった。
わたしは国分拓が若松監督のような風貌だったら、ここまで惹かれないのだ。
「NHKの番組の質が落ちつづけています。ちょっとくらい受信料を下げるのではなく、いい番組をつくってください」
それに対しては無反応。
「サッカー少年の番組もよかったです」というと、国分拓はポーカーフェイス。
(その番組はBS世界のドキュメンタリー「ファベーラの十字架 2010夏」)
「最近、NHKは再放送が多いですが、そう明記してください」
「どういう感じですか?」と怪訝そうに訊かれたので、
「騙されたという気がします」と答えると、無言でいたずらっぽく笑った。
5分間ほどのやりとりだったが、自然と「ありがとうございました」と深く一礼した自分に驚いた。
少女(ローリ)をめぐって、一瞬でも国分拓となにかを共有できたことがうれしかったし、「ヤノマミ」という映像作品と、著書を発表してくれたことに対する感謝の念なのだろうと、いまは思う。

階段を降りようとしたら、意外にも背後から友人の声が聞こえた。
「カラダがきれい!」
「きれいでしょう!」と語尾を上げ、国分拓は大きくからだを揺らしながら同意した。
「獲物は平等に分けるといいますが、サルの頭はどういうふうに分けるのですか?」
このときの国分拓の答えを失念したので、あとで彼女に訊くと、「サルの頭は食べられる部分が少ないので、装飾品」とのこと。
彼女がいうには、サルの頭に特別な意味があるのかと思ったとのこと。
 
わたしにとって最も印象に残ったのは、少女(ローリ)だ。
ローリは子どもを天に返したことで、より豊かな母性を獲得したと、わたしは解釈している。
わたしは巷にあふれている母性を信用していない。
エゴイズムの要素が強すぎるから。
親というのは子どもの成長とともにやせ衰えてゆくものだ、と考えている。
しかし子どもを食って親が肥え太り、子どもが死に体というケースが多いのではないのか。
わたしはふたりの子どもを生んだが、初産のとき「母体にとって胎児は異物であり、その闘いが悪阻だ」ということを知り、感動したのを憶えている。

  *

国分拓の作品には、なにか哀しみの塊が胸底に残る。
とくに「ファベーラの十字架 2010夏」はそうだ。
わたしが好きな作品は2007年にアップしたBS世界のドキュメンタリー「ヘルクレス 初めての休日」こちらだ。
骨太なテーマがありながら芸術性の高いドキュメンタリーになっている。
NHKにそんな番組を制作してほしいと思っていた。
なぜNHKかというと、視聴率を問わない番組を制作できるからだ。
最近のNHKは視聴率を重視するあまり、本来の存在意義を忘れている感じがして残念だ。
国分拓には「ヘルクレス 初めての休日」に通じる資質がある。
ぜひそんな番組を制作してほしい。
ちなみにフクシマ関連の番組で最も感心したのは、ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」だ。
その番組の取材班が記した『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(2012/02/13・講談社)も、とても興味深く読んだ。

  *

なま「国分拓」をみてから数日後、信じられないことがわたしの身に起こった。
わたしは感覚人間なのだが、国分拓もそうらしい。
わずか5分間なのに、一対一で国分拓と対峙したせいで、「ヤノマミウイルス」といかいいようのないものに感染したらしい。
こんなふうな生きがたい感覚は、はじめての体験だ。
インフルエンザウイルスに感染したときと、似ている。
なにか自分で制御できない力が作用しているという感じだ。
わたしの内部で大きな問い直しが必要らしい。
仕事にも生活するにも不都合な状態がつづいていて、困惑している。
このエントリーをアップするのも、いままでで最も時間がかかり、なかなか進まなかった。
齢を重ねるごとにわからないことがふえていく、という認識は以前からあったのだが、大きなところでわからなくなってしまった。
これをアップすることで、つぎの段階に進みたいと願っている。
ちょうど転機となる年齢でもあるので。





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わたしがみた「国分拓」 (前篇)

書きたいことはあるのだが、その時間も元気もなく、1年以上更新できなかった。
かなり無理をして本エントリーをアップしたのは、国分拓や「ヤノマミ」に興味をもつかたにすこしでも参考になれば、という想いからだ。
わたしが記憶したままを記しておこう。
メモをとっていないので、記憶ちがいがあるかもしれない。

10月7日の日曜日、ノンフィクション連続講座「ノンフィクションとこの世界」こちらに友人を誘って、女性ふたりで参加した。
場所は表参道にあるシナリオセンター。すぐ近くにクレヨンハウスがある。
プログラムをみて、贅沢な内容に驚くと同時に、ヘビーな一日になるなあと思った。

時間は11:00〜17:30で、13:00〜14:00は休憩。
国分拓について「出演できない場合は、関係者を代理としてお招きする」という一文があり、いかにも現役のディレクターという感じだった。
総合ナビゲーターは石井光太(ノンフィクション作家)。

●第1部
国分拓監督「ヤノマミ〜奥アマゾン・原始の森に生きる〜」〔劇場版〕上映――(2時間)
国分拓(TVディレクター)×石井光太――(1時間)

●第2部
 石川文洋(報道カメラマン)×石井光太――(1時間30分)

  *

石井光太は、ナビゲーターとして完璧だった。
絶対貧困をテーマに執筆しているのに注目していたが、まだ著書を読んだことはなかった。
8月に放映されたTBS「情熱大陸」に登場した石井光太をみて、釜石の遺体安置所で活動する姿に感銘を受けた。で、『遺体』(新潮社)を会場で買い求めた。

NHKスペシャル「ヤノマミ」と国分拓著『ヤノマミ』については、かつて本blogにアップした。
自分が感銘を受けた作品がのちに受賞したのは、うれしかった。
(ハイビジョン特集「ヤノマミ」が2009年、第35回放送文化基金賞においてテレビドキュメンタリー番組で優秀賞を、菅井禎亮・カメラマンが個別分野で映像賞。『ヤノマミ』がで2010年、第10回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を、2011年、第42回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)
わたしが本講座に参加した目的は、〈なま国分拓〉を自分の眼でみておきたい、ということに尽きる。
わたしには活字人間だが、本から得られる以上の情報を生身の人間は発している、という持論がある。
それは一対一で相手と対峙するほうが効果があり、かつてごく少数の人間から教えられたことは、いまでもわたしには宝物だ。
なぜかわたしは国分拓というディレクターに強い興味がある。
優れたTV番組制作者は多い。が、わたしが本人をみたいという願望をもつのはすくない。
理由を考えてみると、国分拓の感性が好きなのと、一見草食系なのにそうではないTV番組を制作している、という落差が気に入っているからだ。感性については、番組よりも著書から伝わってくる。
劇場版「ヤノマミ」DVDに、国分拓がインタビューに答える映像が付加されている。
国分拓はの手は、とてもきれいで繊細だ。
その現場に参加していたかたのblogは、こちらにリンクした「嗚呼、テレ日トシネマ―雑記―」で閲覧できる。
そのコメント欄で国分拓が草食系だと、わたしに教えてくれたのだった。

  *

登壇した国分拓はラフな服装とは反対に、終始緊張していた。
実年齢は中年だが、青年という風貌だ。
著書からわたしがとらえた国分拓像は、「人間とNHKという組織に醒めていて、自己をカリカチュアライズできる」だったのだが、それが国分拓流だということがわかった。
ポーカーフェイスだが、これも国分拓流で、心理を読みとれないポーカーフェイスだ。
それと、浮き世離れした感じがある。
NHKの看板番組を制作している、という気負いはなく、どこか飄々とした感じ。
強烈な個性を発散させているひとではなく、穏やかで、言葉が常に誤解を招くということを認識しているらしく、言葉選びに慎重だ。
定員は100名だが、ほぼ満席にみえた。予想どおり若い男女ばかりで、わたしと友人は浮いていた。が、それが気にならないほど、会場には静かな熱気が漂っていた。
質問コーナーで質問したみなさんは、的確な内容だし時間配分もわきまえていて、話し慣れているのに感心した。
スマートな若者たちで、いかにも空気を読めているという感じ。

わたしの記憶に残った国分拓のトークはつぎのとおり。
視聴者から寄せられた感想は、ネット上の感想と同じ。
若いころから心酔している(心酔という単語は発しなかったが、そういう意味のことを早口で)藤原新也にひとを介して感想を求めたら、「ああいうひとは褒めないんですね。なにも起こらない時間をもっとみていたかった」と、満足げな口調。
シャボリ・バタ(偉大なシャーマン)の語りは、哲学が必要なので番組のはじめにおいたが、実際は同居取材の最後のほうだった。それ以外は、すべて時系列。
(著書によると、テレビカメラを嫌がっていたシャボリ・バタが、死後に取材テープを燃やすという条件で1回限りのインタビューに応じたのは、同居して140日を過ぎたころ)
「ヤノマミ」の続編をつくるつもりはないが、助けを求めているのなら、友人としてNGOといっしょに活動したい。
いま、再訪のためにお金をためている。

殺人者に興味があるらしく、それをテーマにした番組をつくりたいらしい。
それを聞いてわたしに浮かんだのはカポーティーの『冷血』で、このノンフィクション・ノベルを発表後、カポーティーの内面でなにかが崩壊したことだ。
(わたしは小説は読んだが、映画は観ていない)
国分拓が「きょう電車で席を譲ったひとが、あしたひとを殺す――それが人間だと思っている」といったのが、印象的だった。

全体的に国分拓は、著書からわたしがイメージしていた像と結びついた。
国分拓は、自己を脅かすテーマを追いつづけているように、わたしにはみえる。
生物学的に女性のターニングポイントは35歳で、男性はその10年後という説がある。
大厄がそれぞれ33歳、42歳というのもこれに重なる。
国分拓はヤノマミと150日同居して取材をしたことで、心身が壊れた。
わたしは国分拓に「心身が壊れるだけの能力があった」と認識している。
だれもがここまで壊れるわけではないだろう。
それが42歳に近いのが興味深い。
そして国分拓は、自身のターニングポイントを、ヤノマミ体験から生還することで、異次元に進化したようにみえる。
ほんとうに壊れてしまわなかったのは、表現者として不可欠な強靱な資質が国分拓に備わっていたということだろう。

菅井カメラマンはカメラを媒体にしてヤノマミの世界、とくに少女(ローリ)が難産のすえに生んだ女の子の首を両手で絞め、精霊のまま天に返した場面を凝視しつづけた。
菅井カメラマンの視点で書いた『ヤノマミ』が読めるとうれしい。
菅井禎亮のカメラワークはすばらしい。
わたしが最も好きで脳裏に焼きついているのは、シャボノを上空から撮った映像だ。
円形なのがいいし、宇宙を感じる。

国分拓の著書『ヤノマミ』が受賞したころ、フクシマを取材していたというので、どのような番組を制作するのか愉しみにしていた。
更新のたびに閲覧している「palopの日記」によると、2012年3月9日に放映されたNHKスペシャル「南相馬 原発最前線の街で生きる」が、「取材・撮影:菅井禎亮、ディレクター:国分拓」だという。
TV番組の制作者にこだわるpalopさんの考察はおもしろいし、考えさせられる。
あたりまえだが、TV番組にかかわらず、あらゆる作品は受け手の器量によってさまざまな感想を生む。
「正解」はないのだと思う。
わたしは録画し忘れたのか、1年がかりで国分ディレクターが制作した南相馬の番組を観られなかったので、『g2 ジーツー』vol.10(2012/05/01発行・講談社)を入手し、国分拓の記事「三〇三日後の成人式」を読んだ。
国分拓が「福島と福島以外の不公平」ではなく、原発事故が露わにした「南相馬の持つ者と持たざる者の不公平」に着目しているのが、興味深い。

miko3355 at 13:24|この記事のURLTrackBack(0)講演