2005年11月

2005年11月25日

三島由紀夫の自決

1970年(昭和45)11月25日、午後零時15分、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。
没後35年・生誕80年を迎え、来月には『決定版三島由紀夫全集』(新潮社)の補巻が刊行されるという。
三島由起夫が生まれた1925年(大正14)に富永太郎は他界した。没後80年は見事に黙殺されたのである。

三島由紀夫が自決したとき、わたしは高校3年生で、学校の教室にいた。
つぎの授業をする教師が入ってくるのを生徒は着席して待っていた。
教室に担任教師Hが一歩足を踏み入れたので、みんなは何事かと緊張して注目した。
彼はひとことだけことばを残して立ち去った。
「先ほど三島由起夫が割腹自殺しました」

「ええーっ!!」という驚きの声とともに、大半の生徒が立ちあがった。
わたしは座りながら、担任教師Hの苦悩に満ちた蒼ざめた顔をみつめていた。
Hは東大卒という噂の政経の教師で、年格好も三島に似ていた。HRがとても短く、担任としての親近感をほとんど感じさせない。人間として嫌味はないが、なにを考えているのかわからない風情があった。授業内容もほとんど記憶にないほど凡庸なものだった。その高校は自由な校風で、変わった教師が多かった。
そんなHが、自分が受けもつクラスの生徒に、わざわざ三島の自決を知らせにきたのはなぜなのか。わたしには不思議でならなかったし、いまもその理由がわからない。
その後のHは、HRでも政経の授業でもそのことを話題にしなかったが、そのほうが彼らしかった。

中・高と同じ学校に通ったHさんとは、卒業後に急速に親しくなった。彼女の誕生日が三島が自決した11/25なのを気にしていた。そして彼女の母親が三島文学に傾倒していた。
ちなみに彼女とわたしの名前が同じで、わたしの誕生日は4日後の29日である。
ちがうのは、彼女の血液型がA型だということ。(わたしはB型)

わたしは三島の作品をほとんど読んでいないが、三島由紀夫という人間には興味をおぼえる。『三島由紀夫おぼえがき』(澁澤龍彦・中公文庫・昭和61/11/10)はくりかえし読んだ。とりわけ巻末に収められているつぎの対談がじつにおもしろい。

‖价漫.織襯曚寮こΑ併暗舁概夫/澁澤龍彦)
対談 三島由紀夫――世紀末デカダンスの文学(出口裕弘/澁澤龍彦)

,僚藹个蓮1970年、中央公論社刊『日本の文学第34巻・内田百痢λ厂鄂一・稲垣足穂』付録76で、新文芸読本「稲垣足穂」(河出書房新社・1993/1/15)所収。
△僚藹个蓮◆屮罐螢ぅ」(昭和61年5月)で、文藝別冊 総特集「三島由紀夫」(河出書房新社・2005/11/25)所収。

また「すばる」に掲載された美輪明宏と瀬戸内寂聴の対談がとてもおもしろかったのだが、手許にあるはずの雑誌が、どういうわけかみあたらない。

本日の朝日新聞の天声人語、そして11/21付け朝日新聞の「時の墓碑銘」(小池民男・本社コラムニスト)で、小林秀雄の三島由紀夫評が紹介されている。

「率直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね……ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな」

上記,里覆で三島は、稲垣さんに会わないでいたい二つの理由を、あからさまに述べている。

「一つの理由は、稲垣さんの昔からの小説をずっと愛読しておりますから、稲垣さんを、いまだに、白い、洗濯屋から返ってきたてのカラーをした、小学校の上級生だと思いたいんですよね、どうしても。そういう少年がどこかにいて、とんでもないものを書いているというふうに思いたいんです。つまり美少年がとんでもない哲学体験を持っているという夢を持っているわけ。また、向こうからこっちを見ても、こんなむさ苦しい男が出ていって、稲垣さんに対談を申し込むというのは、はばかりがあるんです。それが第一の理由でお目にかかりたくない。僕は固く心に決するところがあって、一生お目にかからないでいようと思うんですね。
 もう一つは、非常に個人的な理由ですけれども、僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。まったく蓋然性だけの問題で、それが政治上のことか、私的なことか、そんなことはわからないけれども、僕は自分の中にそういう要素があると思っている。ただ、もしそういうことをして、日本じゅうが笑った場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣さんだという確信が、僕はあるんだ。僕のうぬぼれかもしれないけれども。なぜかというと、稲垣さんは男性の秘密を知っているただ一人の作家だと思うから。僕はこの巻の解説にも書きましたが、ついに男というものの秘密を日本の作家はだれも知らない。日本の作家は、男性的な作家は主観的に男性的であるだけで、メタフィジカルに男性の本質がなんであって、男はなんのために生まれて、なんのために死ぬかを知らない」
(昭和45年5月8日 赤坂シドにて)

稲垣足穂についても三島由起夫についても不勉強なわたしだが、上記の三島の弁は、三島にとって自分の作品の最大の理解者であった澁澤龍彦との関係とともに、強く印象づけられる。
なお、『仮面の告白』を三島由起夫に書かせたのは、編集者・坂本一亀である。

  *

三島由紀夫の『文章読本』は、レクトゥール(普通読者)であったことに満足していた人を、リズール(精読者)に導くことを意図して書かれている点がユニークである。

●レクトゥールの定義
小説といえばなんでも手当たり次第に読み、「趣味」という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人。

●リズールの定義
その人のために小説世界が実在するその人。文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人。




miko3355 at 23:53|この記事のURLTrackBack(0)文学 

2005年11月23日

奥本大三郎の課外授業「作ろう! ぼくらの昆虫記」を観る

10/19放映の菊地信義編につづいて、11/16放映の奥本大三郎編「課外授業ようこそ先輩」について、感じたままを記しておきたい。同じく小田昭太郎氏の率いるオルタスジャパン制作である。

本番組がはじまるまでドタバタしていて、こころの準備ができないまま臨んだにもかかわらず、集中して観ることができた。それだけの牽引力があったということ。
なんといっても映像がうつくしい。虫が苦手なわたしでも大いに愉しめた。
カメラについては疎いのだが、光の量が多い画面なので、野外撮影の場面ではいいが、教室で画面がまぶしく感じられたのは、眼の錯覚だろうか。

番組の導入部で、奥本氏の発言として、いきなり"さわり"から入ってゆくのが意表を衝く。
(場所は、奥本氏の職場である大学の教官室だと推察する)

「人生って不条理なもの。自分には虫があるという気もちがあれば、なにも怖くないんですよね」

驚いたことに、奥本氏と子どもたちのあいだに、はじめから親和的空気が流れていて、担任の教師だといわれてもおかしくないくらいだ。あるいは小児科医にもみえる。子どもたちも、TVカメラを意識していないようにみえるほど自由闊達だ。
カメラは子どもたちが虫に興味を示すにつれて、輝きを増すそれぞれの表情を映しだすことに主眼をおいていたように思えた。そしてそれは、見事に成功していたのである。

授業の導入部として奥本先生は黒板に虫の絵を書かせたあと、顕微鏡を使って虫のもつ美の世界を徹底的に観察させたうえで、写生させる。つまり肉眼ではみえない世界へ子どもたちを誘うのである。視えている世界は、じつは視えていなかったということを体験させる。さらにその体験を、写生という手を使うことで脳に定着させることを意図しているのであろう。

このあと近くの山へ行き、子どもたちに虫捕りをさせる。この場面は臨場感がある。奥本先生もいきいきして、子どもたちに虫についての知識を披露したりして、"このひとはちがう"という雰囲気を打ちだしている。大阪の南に位置する土地柄ゆえ、山は尖っていなくて、奥本先生の人柄のように優美である。

2日めの授業で奥本先生は、虫を観察して感じたことを書かせる。そして子どもたちに、みんなのまえで発表させたあと、奥本先生はひとりひとりの美点をみいだしたコメントで応じたのち、みんなで拍手。

発表のあと、奥本先生は「齢とった先輩として」忠告する。

「生きものが生きていくのは、いやなことだらけ。好きなものがあれば、がまんできる。みなさんが胸に手をおいて、こころから自分が好きなものがなにか、よく考えてみてください」

「このまえあそこの山へ行って、あの細い道を歩いただけでも虫がいっぱいいたでしょう」と奥本先生はいい、「また行きたいひと?」と訊くと、ほとんどの子どもたちがだらだら挙手したなかに、数人、挙手しない子どもがいた。そこがおもしろかった。

「ではみなさん、ありがとう」ということばを残して教室から去った奥本氏が、廊下でコメントする。

「大学生よりずっと真剣に聴いてくれる。わかろうとして、じっとこちらをみてくれる。やっぱり眼がいいですよ。ぼくのしゃべっていることが、刻みこまれていくような気がしましたね」

終始ポーカーフェイスで飄々としている奥本大三郎氏に好感をもった。
あつくるしくない人間というのは、稀少価値があると思う。
虫から学んだことを、奥本氏は体現しているのである。
なお、カマキリ(?)を背中に乗せて得意がっている男の子には、笑えた。
いまどきこんな素朴な男の子がいるのかと驚いた。
それを撮ったカメラマンも、かつてそんな男の子だったのだろうかと思えるほど、カメラが同化して笑っているように感じた。

今回のナレーションの子ども(女の子)の声と、流れる音楽は(挿入箇所も含めて)、マッチしていて心地よかった。
季節感としては、夏休みに放映されたらぴったりという感じ。
前回の菊地信義編もよかったのだが、「どちらがよかったか?」という横暴な質問を設定すると、わたしは迷わず奥本大三郎編だと答える。
素人判断にすぎないが、今回のカメラマンの腕はかなり上等だと感じた。視点がはっきりしたカメラワークだった。映像もうつくしい。一方、教室のやや粗末な感じもよくでていた。
全体的に構成に工夫がみられたように思う。

NHKの番組としてではなく、オルタスジャパン独自の番組として制作したら、どのような作品になるのだろうと、余計なことを考えてしまった。
NHKの匂いがふわーっと漂いながらも、独自の世界を表現しようとする要素が、(菊地信義編に比して)あったと感じたのは、わたしの深読みだろうか。

  *

本番組でいきいきした子どもたちの表情と、それを映しだしたカメラワークに感心しながら、一方でわたしは数日まえにTV(BS1)で観たドキュメンタリー映画を想起していた。

以下より番組案内を引用。

…………………………………………………………………………………………
「児童労働のない未来へ〜NGO活動日記〜」

■NHK放映番組 BS世界のドキュメンタリー

僕たちも学びたい  貧困と闘う子ども労働者たち
11月9日(水) 21:10〜22:00 NHK BS1

国連の統計によると世界の子どもの6人に1人、2億5千万人が貧困のため
働くことを余儀なくされている。国際条約違反であるにもかかわらず世界中
に広がる児童労働はどのようにすれば廃絶できるのか。貧しい家庭の子ども
に賃金を保障し通学させるブラジルの補助金制度が中南米やアフリカに広が
りを見せる一方、ケニアのように政府が対外債務の支払いのために一時教育
予算の削減に踏み切り就学率が低下した国もある。学ぶ機会を失って働かざ
るを得ない貧しい子どもと、教育の機会を与えるために活動するNGOを取
材、さらに2004年ノーベル平和賞を受賞したケニアの環境運動家、ワン
ガリ・マータイ女史の訴えをまじえ、南北問題と深く関わった児童労働の問
題を考える。なおオリジナルのナレーターはメリル・ストリープ。

制作:Galen Films(ガレンフィルムズ)/アメリカ/2004年
原題:Stolen Childhoods
http://www.nhk.or.jp/bs/wdoc/ より
…………………………………………………………………………………………

クレジットによると、撮影は「ロバート・ロマノ」とある。
「カメラ=人間の眼」というのはあたりまえなのだが、この映画ではことに映像がうつくしく、子どもの眼と足元(裸足)に力点をおいていた。
これほどカメラに強い意思が宿っているのを感じさせられる映像は、わたしには珍しい。とくに子どもの眼をえぐるように映しとったワンカットに、カメラマンの強い意思を感じた。技術的にそれが可能だということに、わたしは驚愕した。しかもその時間が絶妙なのだ。2秒強くらいか。3秒だと長すぎて冗漫になる。強烈な余韻を残してつぎのシーンに移るところがたまらない。
貧しさと過重な労働で、猜疑心と屈折した孤独感を顕わにしつつ、カメラを構えているおとな(=その映像を観ている人間たち)を射抜くように凝視する大きな眼の少女のうしろに、生活に疲れ果て、無気力になった影の薄い子どもがいた。
親の借金のために着飾って街角に立ち、売春をさせられている少女には胸を突かれた。利潤は悪辣なおとなに吸いあげられるという。

わたしには、奥本先生の授業を受けていきいきしている子どもたちと、貧困と闘う子どもたちとが、同じにみえた。後者の子どもたちが、うつくしい映像として描かれていたせいも大きい。それはカメラマンのこころの眼なのだろうか。その場に自分が立ち、異臭を含めたすさまじい空気のなかなら、自分はどのような感想をもつだろうか、と考えてしまう。
とはいえ、わたしの脳裡に焼きついた残像は、こちらを射抜く挑戦的な大きい黒眼である。







2005年11月15日

富永太郎と中原中也の異質な関係

当blogでは基本的に富永太郎については書かないつもりでいたので、11/12の祥月命日についてもそのつもりでいた。だれかのお墓に参りたいと思ったことのないわたしが、11/12を意識してきた。結局は実行に移せなかったのだが、来年の11/12の自分はどうしているだろうと想像したとき、富永太郎について記しておきたいと思い直したのである。

まえのエントリー のコメント欄 に杉本圭司さんから「正岡忠三郎日記」に関する佐々木幹郎(詩人・『新編中原中也全集』編集委員)の特別寄稿(「中原中也記念館」館報2001・第6号所収)をご紹介いただいた。
それを読み、忠三郎が大岡昇平に渡したのは、日記帖からピックアツプして原稿用紙に転写したものだったことを知った。現物をひとに渡せないほど太郎の手紙を大切にしていたことの証左でもあるし、ひとに読まれたくない内容が含まれていたのだろうか。
いずれにしても、富永太郎の全集が刊行されないと、事は進まないのだ。

今春、角川書店に問いあわせたら、刊行の予定はないとそっけない返事。同時に、「ユリイカ」で富永太郎の特集が組まれたのは1971年なので、今後の予定はないかと青土社にも問いあわせたが、「なにかきっかけがないとねえ……」という返事だった。
「きっかけ」があって全集が刊行されたとしても、富永太郎の詩を好きになる人間は少ないだろうと思う。残念だけれど。
商業ベースに乗らないところが、太郎にふさわしいようにも思える。

正岡忠三郎については司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』上下(中公文庫)に詳しい。
忠三郎より21齢下の司馬遼太郎が、忠三郎夫人のあや子さんに押しきられるようなかたちで葬儀委員長をつとめる。
この本が富永太郎に触れているということを教えてくれたのは、小向さんだった。あらためて感謝したい。
わたしの知人が、司馬遼太郎から聞いた話をしたあと、同書の単行本をプレゼントしてくれたので、想い出の書になっていたにもかかわらず、富永太郎については失念していた。彼は当時、司馬遼太郎と仕事上の関係があり、司馬遼太郎という人間をたいそう敬愛していた。その仕事が司馬遼太郎の著書として刊行され、これも彼から贈られた。彼はわたしにとって得がたい人物なので、幽かにではあってもどこかで富永太郎とつながっているような錯覚をおぼえるのである。我田引水だと嗤われるとしても。

司馬遼太郎によると、忠三郎は「世間でいう出世ということについて病的なほどに少年じみた嫌悪感をもっていた」。村井康男氏は、太郎が「えらくなれ、とおれに教えこんだ奴らはみんな打ち殺してやりたいような気持になる」と口走るのを聞いている。
ふたりはことばを交わさなくても、わかりあえる関係だったのだろうか。
そういえば太郎の書簡に、「目をみて退屈していることがわかる人間が近くにいないのがさびしい」というような主旨の一節があったのを憶えている。
臨終の床で忠三郎にワガママをいう太郎に、喜びながら対応している空気が、忠三郎の日記からうかがわれる。
司馬遼太郎のつぎの記述は鋭い。

《じかに忠三郎さんに会ったところで、忠三郎さんからどれほどのものを得られるかとなると疑問で、本来、京都にいるこの友人がそういう存在ではないことを太郎は知っていたはずであった。太郎の場合、忠三郎さんというのは一個の巨大なふんいきで、それにくるまれてさえいれば自己を解放でき、手紙を書きつづけることによって自己が剥き身になり、意外なものを自分の中に見出すことができるという存在であったろう。このため書簡の形式によってでもよく、また絵を描いてそれを送りつけてもよかった。ついでながら太郎はこの前年から川端画塾などに通っていて、自分の中にある詩情のもとの赤脹れしたようなきわどいものをあらわに造形化するという表現の場ももっていた》

  *

つぎに富永太郎の詩が少数の人間にしか読まれない理由を考える一助として、わたしが好んで読んできた梶井基次郎の作品と対比させて考えてみたい。

〔参照〕
「梶井基次郎の世界」

上記サイト管理者の未発表原稿「梶井基次郎研究」のなかに
〈終章 梶井基次郎の文学史的位置〉
がアップされている。
そこに昭5・9・27付け北川冬彦宛書簡で、梶井が東大の後輩である小林秀雄(梶井は英文科で小林は仏文科)の"悪口"を書いているのが紹介されている(梶井は富永と同じ1901年生まれで、小林より1歳上)。それなのに梶井は同人雑誌を小林に贈っていたはずだ、わたしの記憶ちがいでなければ。

梶井は富永と同じ肺結核で1932年3月24日、午前2時、母親と弟夫婦に見守られながら死ぬ。母親ひさは息子の『看護日誌』を1冊のノートに、1932年元旦より1日も欠かさず記し、葬儀当日までつづけられたという。(『梶井基次郎の肖像』小山榮雅・皆美社新書・昭和61年)

上記日誌の3月12日、「今日は呼吸困難を訴へて酸素を欲しがる。即と酸素吸入をやる」と記されている。
この描写だけではなく、肺結核という病いへの対応が、梶井と富永では著しい差がみられる。いかに富永が特異であるかということを、逆にわたしは知ることになったのである。
「國文學」特集・作家論の方法(平成2年6月号)で磯貝英夫氏が〔感性の形式〕と題して梶井基次郎について興味深い論を展開している。
以下、引用。

《梶井は、感性面においても、ごく普通の、健康な資質の人である。そういうかれを、常人をこえた鋭敏な、それだけに特異とも感じられる感性の世界へ追いこんだのは、肉体の病いである。一般的生の欲求、行動の欲求が遮断された結果として、生エネルギーが感覚面に集中し、あの鋭角的な感性世界が出現したのである。かれの表現しえた感性世界に、常人にわかりにくいナゾの部分、人をあっと言わせ、不安にさせるような要素は、まったくない。だれもが持っている原感覚、普段は、さまざまな欲求にまぎれて見失われている原感覚を、純化し、追いあげて、鮮烈に呈示してくれたのが、梶井の感性の文学である。梶井文学が、特定のタイプをこえて、広汎なファンを持つのは、そのせいだと言ってよいだろう。
 さらに、梶井が表現した感覚が、すべて快の感覚であることも、ここで強調しておく必要があるだろう》

同誌の特集・梶井基次郎テクストの発見(昭和63年12月号)に鈴木貞美氏が〔六峰書房『梶井基次郎全集』の周辺〕と題しておもしろいことを書いている。(昭和9年、六峰書房版内容見本の写真が掲載されている)
小林秀雄は梶井について「病気でなければ書けぬ、きわめて健康な文学」と評したらしいが、鈴木氏は本誌の別枠で、梶井の内容見本に寄せた小林秀雄の短文の全文を引用し、「小説に背を向けた」小林秀雄についても言及している。

  *

なんか「小林秀雄實記」掲示板に書きこみをしている気分になってきたが(笑)、つぎのことを書いておきたい。
富永太郎と中原中也の関係について。

佐々木幹郎氏は富永太郎について語りながらも、最後は中原中也に結びつけるところが感じられ、中也のこととなると客観性を失うように思える。
これは掲示板でもテーマになったのだが、小向さんのなかでは太郎と中也が共存するらしい。そういうひとのほうが多いが、わたしは共存しない。それはわたしが太郎を愛しすぎているせいではないと思っている。

有名な帽子をかぶった中也の顔写真に、わたしは10代のころから魅せられていたのだが、最近、大岡昇平が「あの写真は何度も修整されている」と記しているのを読み、愕然とした。わたしの手許にある『中原中也――言葉なき歌』(中村稔・筑摩叢書・1990年)の表表紙は中也の帽子をかぶった写真の大写しだが、修整されていないらしく、例の写真とはかなり印象がちがう。顔の角度もすこしちがっている。
なんのために修整したのか、大いに疑問だ。

わたしが呪縛されている太郎の死に顔の写真が修整されていたとしたら、わたしは卒倒するにちがいない。
中也は太郎の死に顔の写真を郷里の母フクに「詩人の死顔です」と付記して送り、山口に帰省したときには、写真を弟たちに見せ、「これは偉い人だったんだよ」と何度も繰り返し話したという。(「中原中也記念館」館報2002、第7号〔企画展〕秋の悲歎・富永太郎――私は私自身を救助しよう。)

ウソくさいじゃないか、太郎について中也が記した文章から判断するなら。詩人として立ちたかった中也のデモンストレーションとしか思えない。
そんな経緯があるからかもしれないが、『中原中也詩集』佐々木幹郎編には、太郎の死に顔の写真が収められている。わたしには不協和音しか聴こえてこない。

太郎が村井康男宛書簡(大正13年11月14日附)に、
「ダヾイストとの嫌悪に満ちた友情に淫して四十日を徒費した」
と記し、臨終の床にも近づかせなかった中也という存在について、善意に解釈しないでほしいと思う。

「ユリイカ」増頁特集・大岡昇平の世界(1994年11月号)所収の〔徹底討議・大岡昇平の世界〕はとてもおもしろかった。討議者は、樋口覚・佐々木幹郎・加藤典洋。
p.190に佐々木氏が中也の「玩具の賦」という大岡昇平を批判する詩について、「本当に言葉で遊ぶというのはそんなものではないんだよ」といい、いい詩だといっている。加藤氏も「なかなかいい詩ですよ」。
掲示板で小向さんがこの詩の価値を訴えておられたので、遅ればせながら記す。わたしはやはり好きな詩ではないけれど。

小林秀雄と長谷川泰子について語っている箇所を引く。

加藤 小林があの時に黙って、「思えば中原とは奇怪な三角関係で協力し合った」とか何とか書かずにいれば、ああいうふうな話はオフレコの形では言い伝えられてもあんな伝説というか物語にはならなかったと思うんです。

佐々木 それは僕も不思議だったんです。それで年譜を調べたら昭和二十二年に大岡昇平が中也論を書くために長谷川泰子のところへ行って、長谷川泰子のところに残っている中也関係の書簡とか小林秀雄から来たものとかを全部持って帰るでしょう。その中に江藤淳の「小林秀雄」の種になった小林の自殺未遂前の手記があったわけです。その手記を大岡さんは保管したままで、ある時小林秀雄がそれを返してくれと言うんです。その時に、「いや、俺は返さない」と大岡さんが言って、「返すのならその前に写しをとるぜ」と言ったんです。そうしたら小林秀雄が「勝手にしやがれ」と怒った。つまり小林が戦後に「中原中也の思ひ出」を書くのはそういうことがあってからなんです。〔『聲』同人雑記参照〕》

上記を読んで、

「二人の関係について、僕に質問しにきた者はいない」「聞かれれば全部、話すよ」
(〔小林秀雄座談:郡司勝義〕「新潮」小林秀雄追悼記念号、昭和58年4月臨時増刊)

が浮かんだ。「二人の関係」とは、小林秀雄と長谷川泰子の関係だが、これを読んだときに、なぜ小林秀雄は自分で記さなかったのだろうと思った。そこらへんの小林秀雄のおかれた(祭りあげられた)窮屈さについて、杉本さんに言及してもらいたい。

なお、わたしの勝手なイメージだが、小林秀雄が唯一その才能に嫉妬したのは富永太郎だったのではないか、という仮説を立てている。
お門ちがいだろうか。


〔追記 2005/11/16〕
本日、コメント欄で杉本氏からご指摘いただきました。
本エントリー末尾の「二人の関係」とは、小林秀雄と長谷川泰子の関係ではなく、小林秀雄と中原中也の関係です。
訂正するとともに、引用を追加します。

▼小林秀雄+郡司勝義
《昭和五十二年の正月、例によって酒がすすみ、雑談に花が咲いていた。
「君、中原中也は、よく売れているのかい」
「よく読まれていますよ」
「ずいぶん中原についても書かれているようだね」
「永遠の青春ですから。中也の詩は」
「どれを見ても、中原と僕との関係が論じられているんだよ。やっぱり、ここが要なのかね。ところが、今日まで一度だって、二人の関係について、僕に質問しにきた者はいないん
だ。一人ぐらい僕に話を訊きに来たっていいじゃないか。それをしないで、何が研究だい」
「それは、……こわくて聞きにくるなど出来ません」
「こわくて出来ないとは、何ごとかね」
「だいたい、中也を論じるのは、三十代、四十代が大半で、せいぜい五十前後ぐらいまでじゃありませんか。それなら皆、先生を尊敬していますし……」
「尊敬している? 馬鹿な。いいか、僕は、自分の原稿料で、自分の生活を必死になってやって来た男だよ。いい読者を得るためには、なんとかいい原稿を書かなくては駄目だと、一所懸命に工夫して来た男だよ。その僕のことを、中原を書きたいって時に、尊敬していますから訊きに行けませんとはなんだい。どこに人間の精神があるんだ、純粋さがあるんだ。要領よくあしらわれて、僕が嬉しがるとでも思っているのか」
「精神のありかたが……」
「ありかた? そんな弱気な言葉を、どうして君は平気で吐くの? 人間は精神そのものでなくて、一体、何があるの? どんなヘッポコ作家だって、作家である以上、精神そのものですよ。それを利いたふりして、何とか彼(か)とか、横から言って何の意味があるの?……もう僕は嫌だね」
「……」
「僕の話をきいて、それから傍証をするのが順当だろう。ところが、傍証を先に立てて僕を論じるんだ。……まあ、現代の病弊といったところだな」
「……しかし、聞きにきたら、全部お話になるんですか」
「話すよ、もうこの世と別れるのも近くなって、隠しておくことはないじゃないか。例の女と関係したのは、何時、何処で、どんな風だったか、聞かれれば全部、話すよ。僕は真剣だったからね。真剣にやったことを、人間は、本当に忘れることが、できるか」》

上記の座談を読んだのは最近だが、わたしの胸はざりざりした。
杉本氏のコメントによると、結局は、だれが訊きにいっても話さないという。
話さないのなら、黙っていてほしい。
わたしのような単純な人間には、とうてい理解できない小林秀雄なのである。

なお、わたしは長谷川泰子より坂本睦子と小林秀雄の関係のほうが謎である。
坂本睦子を描いた大岡昇平の『花影』について、出口裕弘(でぐち・ゆうこう/作家・フランス文学)の【『花影』の謎】(「ユリイカ」/1994年11月号)という一文を読み、眼の醒める想いをした。

蛇足ながら、文藝別冊・総特集「小林秀雄」(河出書房新社/2003年8月)所収の仲俣暁生(なかまた・あきお、1964年生まれ、フリー編集者・文筆家)の【遊星から墜ちてきた「X」の悲劇】が抜群におもしろかった。

※引用文に一箇所空白がありますが、元の文章はつながっています。
 幾度試みても、なぜかアップするとこうなってしまいます。










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miko3355 at 18:07|この記事のURLTrackBack(0)富永太郎 

2005年11月12日

富永太郎の祥月命日

80年まえの本日、午後1時頃、富永太郎は鼻にはめていた酸素吸入のゴム管を「きたない」といって自分の手でとりさり、「ちゅうさん、ちゅうさん」と二言。
2分後、絶命。
(註・「ちゅうさん」とは正岡忠三郎の意で、書簡では「太」「忠様」と記していた)

想念は時間と空間を超えるという。
かつて富永太郎について掲示板でやりとりを重ねた小向さんと、墓前にひざまずくような感覚で、太郎を偲びつつ記す。

富永太郎(1901〜1925)のいのちを奪ったのは奔馬性(ほんばせい)肺結核らしい。勢いよく走る馬のように急激に体を蝕むところから、その病名がつけられたという。それは樋口一葉(1872〜1896)と同じで、ともに24歳で散った。
24年というのは干支を2周している。なにか関連性があるのだろうか。還暦の60年は5周であり、厄年でもある。

たしか吉田松陰が「人間は何歳で死んでも春夏秋冬があり、生として完結している」という意味のことをいっていた。はじめは富永太郎の夭折を痛ましいと思っていたが、よくよく考えてみると、たしかに完結している。太郎は十分に地獄を味わった……もういいという感じ。

それは富永太郎の死に顔に顕れている。
"悲"そのものという感じで、眉と閉じた眼はうつくしすぎる。それは太郎の詩に登場する白くて冷たい陶器のような女性を想起させる。
大岡昇平の『朝の歌』に、太郎を看とった正岡忠三郎の日記が紹介されている。
死に顔の写真を撮ったのも忠三郎である。
しかも忠三郎は、黄泉へ旅立った太郎の黒髪を大切に保管していたのである。

角川書店から刊行する予定だった『富永太郎全集』全3巻は、大岡昇平の死によって宙に浮いた。この全集が刊行されないと、「正岡忠三郎日記」も陽の目をみないという。
「記録」され、それが保存されるという意味は大きい。

正岡忠三郎宛に太郎が書いた書簡(最晩年の4年あまりのあいだに156通)をもとに書かれた大岡昇平の『富永太郎――書簡を通して見た生涯と作品』(紹介されている正岡宛は76通)によって、われわれは多くのことを知ることができる。
その本を読むようすすめてくれたのが、上記掲示板の管理者である。
くどいようだが、感謝に堪えない。

富永太郎の詩にむかうとき、自ずからこころがからっぽになっている。
不思議なことだ。
そして太郎の詩も散文も、現代に通用する新しさがある。

小向さんとのやりとりはプリントアウトしてあるので、たまに読むと、それを書きこんでいた当時の自分の精神生活が甦ってきて、タイムマシンに乗ったようになる。
数ヵ月まえのできごとなのに、ずいぶん遠く感じられる。それはネット世界の特徴でもあるし、その間のわたしが、常ならぬ速度で富永太郎に没入していたからだ。
当然ながら、わたしの生活はめちゃめちゃになったのである。

富永太郎によって侵蝕されたわたしのからだを、さらに小田昭太郎に襲撃されているという現実がある。どうでもいいことだが、このあいだ気づいた。昭太郎って、"昭和"に生まれた"太郎"なのか。ちなみに小田昭太郎の顔は著書の裏表紙の写真しか知らないが、富永太郎には似ていない。意外と眼がやさしくて、遠くをみている感じ。からだからラフな感じがたちのぼっている。これは日本テレビに属していたころの顔だろう。


〔参照〕
富永太郎が眠る多摩霊園

富永太郎についてのページ

「親愛なる愚か者へ……」(2005/3/31)

「フランスへの目差し、日本への目差し」 宇佐美 齋

「松岡正剛の千夜千冊」 富永太郎詩集

「正岡忠三郎」 正岡浩


〔参照追加 2005/11/27〕
「中原中也記念館館報」

【2001・第6号】
◇特別寄稿
「富永太郎の書簡と正岡忠三郎日記」
――正岡家資料について
佐々木幹郎

【2002・第7号】
◇特別寄稿
「我家のダダさん」
富永一矢(1935年生まれ。富永太郎の弟次郎の子息)
◇企画展
秋の悲歎・富永太郎――私は私自身を救助しよう。


〔追記 2005/11/28〕
▼死に顔の写真を撮ったのも忠三郎である。

上記の記述について、コメント欄で太郎次郎さんからご指摘いただきましたので、訂正します。
つぎに太郎次郎さんのコメント(11/28)を再掲します。

……………………………………………………………………………………………

「死に顔の写真を撮ったのも忠三郎である。」とお書きになっていますが、どこでこの確証を得られましたか? 「正岡日記」には、太郎の死んだ日に死顔の写真をとる、という記述はありますが、忠三郎が撮ったとは書かれていません。中原家および正岡家に保存されていた太郎の死顔の写真は、専門の写真館が撮影したものです。

どうか、富永再評価をなさりたいのでしたら、原典、原資料にあたってください。どうも、富永太郎を愛するあまりに、すべての記述が妙に歪んでいるように思えるのですが。

……………………………………………………………………………………………

大岡昇平の『朝の歌』に紹介されていた「正岡忠三郎日記」に《夕方死顔の写真を撮す》とあるのを読み、自分の妄想にまかせて記したのはわたしの誤りでした。
というのも、太郎の死に顔の写真には、撮った人間の念が転写しているように感じられたからです。まったく根拠はありませんが。
実際に写真を撮った写真館の人物は、どういうひとだったのでしょう。富永家とは関係がなかったのでしょうか。










miko3355 at 17:10|この記事のURLTrackBack(0)富永太郎 

2005年11月11日

藤原道山(尺八演奏家)

NHK-FMの「私の名盤コレクション」(月〜金・0:20〜1:00、再放送は翌週の9:20〜10:00)をわりに聴いている。先々週はわたしの好きな藤原道山(尺八奏者)で、先週の再放送を録音できた。DJの島田律子とのトークも愉しめた。

最もよかったのは、つぎの回。

”靄徹/朱鷺によせる哀歌〈8分30秒〉
  (大友直人指揮/日本フィルハーモニー交響楽団)                 
同/デジタルバード組曲 第5楽章〈5分15秒〉
  (外山雄三指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)                
F/ランダムバード変奏曲〈6分35秒〉
  (外山雄三指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)
す藩奸2分10秒〉
  (藤原道山演奏)

上記のなかで最も気に入ったのは,如藤原道山の演奏する尺八の世界と通ずるものがあるように感じた。自分が大切にしている感覚を刺激されることにより、リラックスできた。こんな曲に中学生時代から親しんでいたという藤原道山の精神史に納得。

藤原道山のトークはさりげなく聴かせるし、NHKの「課外授業」に出演したらおもしろいのではないだろうか。(以前にNHKの「トップランナー」に出演したのを観たが、これもよかった)。若いイケメン先生の登場に、女の子たちがはしゃぐかもしれないが、それもよし。いや、もしかしたら彼はおばさんキラーのクチか?
いい授業が展開されると思う。「課外授業」の先生に、若者が登場するのもアリだと思う。
「こころを耕す」というのがテーマだが、それをことばにせずに、授業が終わったときに自然と子どもたちのこころに伝わるような授業が、藤原道山なら成立すると思う。

8/18のエントリーで、坂田明の「課外授業」が最もよかったと書いた。それは先日、菊地信義の「課外授業」を観たあとでも変わっていない。
坂田明の授業の細部は憶えていないのだが、坂田は広島の海に子どもたちを連れてゆき、ボートに乗せる。そして坂田自身が、いかにも愉しそうにボートを漕ぐ。子どもたちは困惑ぎみの顔で、ボートには乗っているが、気分は乗っていないという感じ。学校に帰ってきてから、子どもたちに体感として海をイメージしながらリコーダーを吹くよう指導する。これだけのシンプルなものだと記憶しているが、わたしの記憶ちがいがあるかもしれない。

だが番組の終了と同時に、それが授業として成立していることにわたしは驚愕したのである。クレジット表記をみなかったが、どこが制作したのだろうか。
8/18にも書いたが、あのとき「坂田さんの『課外授業』が一番よかったです」というひとことをいえなかったことを、いまでもわたしは悔やんでいる。わたしがそういったとしても、おそらく坂田明は無言だろう。しかしそのときの彼の表情から、わたしの意が伝わったかどうかがわかると思うので、それを確かめておきたかったのである。

わたしは坂田明のいいかげんなふうで、繊細なところが好きだ。(山下洋輔も好きだけれど)
わたし自身が典型的なB型人間で、気まぐれだからかもしれないが、いいかげんな人間をおもしろいと思ってしまう。骨があって、それでいていいかげんなひとが好きである。
(骨がなければ、単なるいいかげんなひとだから、おもしろくないのはいうまでもない。また、いいかげんを自称しながら、じつはきっちりしているというのはいただけない)
血液型と性格の関係について信憑性があるのかどうかは知らないが、B型・射手座はブレーキが壊れているという説がある。わたしとわたしの親友(女性)についてなら、その説は当たっているのである。

坂田明ののちに山下洋輔の「課外授業」が放映されたが、それは菊地信義と同じ形態だった。用意周到な授業である。体育館で行われた授業で、子どもたちの「ドオン!」が見事に成功したのを聴き、山下洋輔は感動する。子どもに教えたことで、子どもより豊かなものを先生自身が受けとり、いかにも仕事に応用しそうな気配が感じられるところも、菊地信義と同じである。

生活における皮膚感覚に訴えるという意味で、坂田明とすこし似た授業を展開したのは、松原英俊(鷹匠)だった。雪の八甲田山での撮影はたいへんだったと思う。終始緊張しながら観たのを憶えている。松原英俊と子どもたちのことば(方言)が似ていたのが、意外と新鮮に感じられた。いままでそんな先生が少なかったからかもしれない。



2005年11月09日

「エリックとエリクソン」〜ハイチ・ストリ−トチルドレンの10年〜

「エリックとエリクソン」〜ハイチ・ストリ−トチルドレンの10年〜で検索して、「NHKのDNAとは?」にアクセスされたかたがあり、わたしも検索して当番組について再考してみた。

わたしが観たのはBSドキュメンタリー(BS1・2004/4/3)で、録画したビデオテープがみあたらないので、保存しなかったのかもしれない。惜しいと思うが、そんな気分を味わうのも好きである。
「NHKのDNAとは?」の末尾ですこし触れたが、当番組について印象に残ったところを追記する。

.侫薀鵐垢箸いβ膵颪硫K宗ハイチの独立を許すかわりに4兆円を要求し、すでに3兆円を支払ったという。4兆円はハイチの40数年分の国家予算。
働き者だった兄は銃弾を受けて働けなくなり、近所から残り物をもらう。1日にそれだけの食物を犬に分けながら食す。貧しさの極限で、与えることを知っている人間の豊かさ。
D錣虜覆1日にバナナの煮たのだけを食したからだで、赤ん坊にお乳を与えている。
っ太犬帆鮗阿鯊臉擇砲垢襯魯ぅ舛里劼箸咾函D錣録物を与えられずに育ったにもかかわらず、義父をゴッドファーザーとして、わが子の洗礼を受ける。そのときの正装した弟一家の姿がまぶしい。
ツ錣論車を仕事にしているが、競争が激しく、バツグを売る商売をする。そのなかからひとつのバツグを妻に与えるが、妻はバッグのなかを何度ものぞいて、「お金が入っていない」とつぶやき、落胆をあらわにする。
α仍劼里佞燭蠅蓮∪長するにしたがって生活に差異がでてくる。そんなふたりが河で童心にかえったように水浴びをする姿が、うつくしい。音のない世界で、カメラがふたりを遠景として切りとりながらエンド。
Т僂訛Δ慮鎚未寮犬冒覆┐詢呂鰺する作品として結実している。

わたしはNHK制作だと思いこんでいたのだが、山崎裕(カメラマン)の「知りたいこと」より「知らないこと」を読み、ドキュメンタリージャパン制作だと知った。山崎裕によると、「ディレクターの五十嵐久美子はこの10年間の間、彼らとのコンタクトを絶やすことは無かった」
山崎裕のカメラワークはすばらしい。ラストシーンの残像はわたしの脳裡から消えないだろう。そこにエリックとエリクソンの"それぞれの悲惨な現実"を収斂させた手法は見事である。

視聴者のなかには、わたしのようにNHKが制作した番組だと勘ちがいしたひともいるだろう。クレジット表記をみても、NHKが主になって制作しているような感じを受けると思う。いまごろこんなことに気づくわたしが愚かなのだが、TVジャーナリズムについて疑問をもつ。
ドキュメンタリージャパンのHPによると、当番組は第42回ギャラクシ−賞上半期奨励賞を受賞したらしい。

さて、ドキュメンタリージャパンというと、NHKの長井氏が内部告発した番組を制作した会社でもある。「NHKのDNAとは?」を書いたとき、ドキュメンタリージャパンのHPを閲覧し、下記の記事にも眼を通していた。
2005年1月12日付け「朝日新聞」記事以降のいわゆる「NHK問題」
 に関する報道について



〔ハイチについて参照〕
益岡賢のページ
(左側の場所別その他→ラテンアメリカ/カリブへ入ってください)

ハイチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハイチ:民主主義に対する拷問
フェイズ・アフマドによるノーム・チョムスキーへのインタビュー(全文)
2003年1月25日

(益岡賢のページ所収/2003年1月28日)


2005年11月03日

テレビ制作会社について考える

10/19にアップした「NHKのDNAとは?」を書いているとき、同時にわたしはテレビ制作会社のことを考えていた。制作会社に興味をもったのは、もちろん小田昭太郎の存在が大きいが、「制作プロダクションの現実」(「創」1993年6月号)を読んだからだ。これは上記エントリーでも紹介した〈ジャーナリスト坂本 衛のサイト〉所収の取材記事だが、秀逸。
                         
坂本氏によると 制作会社の劣悪な環境の元凶は、「局が出す番組制作費が著しく安い」ことにあるという。

「放送局にもプロダクションにも"商品"という概念がない」「プロダクションはビジネスになっていない」「企業の体をなしていない」というのも、誰に聞いても返ってくる自嘲の声である

1992年7月に朝日放送が放送した番組の"やらせ"に、制作プロダクションのタキオンが深く関与していた件について、坂本氏は放送局と制作プロダクションの歪んだ関係を普遍的なものとして提示する。そして《いい番組を作ったときは局の手柄にし、悪い番組を作ったときはプロダクションに責任を押しつけて逃げるという本音が明らかになった》と記す。

タキオンが順調に成長している時期に起きた事件ということもあり、まったくやりきれない。局側がタキオンにプレッシャーをかけた可能性が大きいという外部の声もあったらしい。
タキオンの稲塚秀孝は社名をゼットに変更し、再起を図ったが、いまはタキシーズの代表。
「放送レポート」に〈98年夏/銀行とのわが闘争〜番組制作会社「ゼット」はこうして倒産した/稲塚秀孝〉という記事を書いているようだ。

このなかに登場するプロダクション経営者はいずれも魅力的だが、わたしが最も気に入ったのはクリエイティブネクサスの藤井潔。(註・現在は会長)
NHKのドキュメンタリー・ディレクターとしては吉田直哉(※)に親しみをもっていたが、藤井潔については知らなかった。
藤井潔の言を引く。

《しかし藤井は自らを、
「僕はテレビが心底好きで、関心の第一はテレビにある。テレビと心中するつもりの古い作り手だ」
 と語りながらも、
「プロダクションとしては、売り上げに占める地上波の比率を減らし、非テレビ部門を増やす方向を目指す。これはうちに限らない。売り上げの八割とか九割をテレビに依存しているプロダクションの多くが、その比率を五割とか六割まで下げたいと思っているはずだ」
 と断言する》

《藤井潔は、最後にこんなことも付け加えた。
「放送局、それもNHKという局にいた人間の目から、制作プロダクションの人たちを見ると――こういう言葉が当たっているかどうか、でも――ほんとに一生懸命で、いじらしいというか。ほんとに″虫″ですね。彼らは局のやり方を知らないが、知っている人間からみると、よくここまでやるなと。NHKでも、ここまで虫じゃないし、純粋ではなかった。だからこそこの人たちを、いまのような状態においてはおけない。正当な報酬と拍手が得られるようにしなくては」

  *

上記を読んで藤井潔について知りたくなり、以前に読んだ『「NHK特集」を読む』(小林紀興・光文社・1988年)を読みかえした。
読後感としては、とにかく熱い。1988年当時に読んだときには感じられなかった時代の熱さが感じられる。そういえば、あのころはNHKや民放のディレクターが、TVのトーク番組に登場していた。TVが元気で、深夜にもトーク番組が多かった。

藤井潔がいいだした"サムシング・ニュー"は「NHK特集」のモチーフになったことばだが、藤井がNHKを辞めて設立した制作会社、クリエイティブネクサスに継承されているようだ。
「クリエイティブネクサス」ごあいさつ

以下、『「NHK特集」を読む』より引く。

●小型VTRカメラを見て閃いた藤井潔(p.235〜p.238より抜粋)

昭和52年3月3日に放送された『永平寺』は、スペシャル部内での評判はよくなかった。ところが、この作品がその年のイタリア賞テレビドキュメンタリー賞をさらう。
受賞理由は「寺の僧の意識の流れを表現するのに小型VTRを使用したのはクレバーな選択だった」というものだった。当時、ヨーロッパのテレビ局はまだ小型VTRを採用していなかったが、VTRの優位性を素直に認める度量が彼らにはあった。

「ボクたちも、最初は番組を"作る"つもりで取材に行った。が、そんなことはおこがましいことがわかった。われわれが受けた感動を、音と映像を通じて視聴者にどう"伝える"かが問われている、と思った。つまり"作る"のではなく、"伝える"のが新しいドキュメンタリーの使命ではないのか、と」

●組織に風穴を開けた男・掘四志男(p.225〜p.227より抜粋)

『NHK特集』がスタートしたのは昭和51年4月。生みの親は、当時、放送総局長だった掘四志男。
型にはまった番組が視聴者にとって面白味を欠くのは当然で、昭和40年代半ばになるとNHKに対する視聴者の風当たりは相当強くなっていった。視聴者のNHK離れは相当深刻になり、料金不払い運動にNHKは悩まされるようになった。
堀が重視したのは、クロスカルチャーを実現することと、それまでいわば無風状態だった官僚機構のNHKに競争原理を導入することであった。
たとえ負けても(視聴率)ファミリーアワーで民放に挑戦すべきだ、ということで質の高い教養番組に力を入れることにした。

●『NHK特集』のシステムをつくりあげた尾西清重(p.246〜p.250より抜粋)

「確かにNHKはニュースから娯楽番組まで幅広く放送しているけど、そのレーゾンデートル(存在価値)のコアはジャーナリズムにあると思う。面白くなければテレビじゃないとか、視聴率さえとればいいとか、当てればいいとかいった考え方は、ボクに言わせればマスコミュニケーションとしては邪道ですよ。それはジャーナリズムではない。
 ただしボクは、ジャーナリズムという言葉を報道番組というふうに狭く限定して使っているんじゃないんです。もっと広い、たとえばドラマであっても、時代や社会をうつす鏡というか、そこに人間の生活があり感情があって現代に通じるものがなければいけない。そういうものも含めてジャーナリズムとボクは規定しているんですよ」


  *

NHKの真相」(イースト・プレス、2005/5/15)を読了。
全編おもしろく読んだが、「NHKに訴えられたただ一人のジャーナリスト」だという浅野健一の【名誉毀損!――「やらせ報道」をめぐるNHKとの九○○日闘争】は圧巻だった。

また、安井陽(フリーライター)の【君は『NHKに言いたい』を見たか?】は、おもしろすぎる。
〔鳥越俊太郎の大暴走〕という小見出しの末尾から引く。

《鳥越氏の場合、批判の中身が証拠を丹念に積み上げて問題点を指摘する類のものではなく、直感的、感情的であり、非論理的な部分が少なくない。それでも頭ごなしに厳しい言葉を浴びせてくるから、視聴者のガス抜きになるし、それが過ぎると、逆に海老沢会長に同情心が芽生える。この日の鳥越氏の役割は、派手に吼えかけて、最後は噛まれる噛ませ役。鳥越氏の出演を決めた担当者の見識には敬服するしかない》

全体的におもしろいのだが、結語がキマッていて笑える。
鳥越氏がラジオで得意気に語っていたのは、じつはそういうことだったのかと納得。

NHK現役記者へのインタビュー記事は興味深かったが、とくに注目したのはつぎの発言。

海老沢さんは、NHK営業という日本放送協会の中で最もアンタッチャブルな暗黒部分に触ろうとして刺されたのかもしれない。だとすると、シナリオが別にあり、私たちはしょせん踊らされているというか、芝居を演じさせられているだけなのかも、と思うことがある。
 もちろん、政治部や社会部など報道部分も改革が必要だが、本当に改革が必要なのはNHKの営業部門だと思います。これには、まだ誰も手をつけていない



〔参照〕

「J考現学」 カテゴリー〔ジャーナリズムの定義〕

「ジャーナリズム論」野村一夫

「ATP インタビューシリーズ」


※吉田直哉著 私伝・吉田冨三『癌細胞はこう語った』(文春文庫・1995年)にひどく感心した。当時、医師(名医)、医学部受験生などに、べつに買い求めて渡した。本はすすめるにとどめているので、例外的行為。なお富三は直哉の父親で、「吉田肉腫」を発見した世界的病理学者。
直哉は、強い酒を継続的に呑んだため食道ガンに罹患する。手術後の手記(たしか「文藝春秋」所収)は、父親を意識するあまりガンでは死ねないとの信念に貫かれていて、壮絶。