2005年12月

2005年12月31日

「ボクが現在、ディレクターをやめている理由」考

雑事に背を押されながら、本エントリーをアップしないとわたしにとって2005年が終わらない、という脅迫観念のもとにこれを書いている。

電子メールといういかにも頼りなげな媒体を介して届く小田昭太郎氏のひとりごとには、タイトルがない。ひとりごとにタイトルがないのはあたりまえなのだが、便宜上勝手にタイトルをつけさせていただいている。
10/21にアップした「ボクが現在、ディレクターをやめている理由」の最初のタイトルは「ボクがディレクターをやめた理由」だった。
アップしたあとで読んでみると、過去形と現在形が混在していることに気づいた。これは小さなことなのだろうか。考えたあげくに現在形に変更した。そのことを小田氏にメールで問うと、「どちらでも結構です。どうぞ良いと思うようになさってくださいますように」という返信が届いた。
小田氏にとっては些細なことにちがいないのだが、アップしたエントリーのタイトルを変更したのだから、わたしとしてはお訊ねしておかねばならなかった。

「ボクが現在、ディレクターをやめている理由」について小田氏が自己分析したのを読んだとき、釈然としなかった。小田昭太郎という人物についてほとんど知らないにもかかわらず、なにかちがうと思ったのである。。
小田氏がディレクターをやめていると知ったとき、少なからずショックだった。わたしは小田氏の制作したTV番組を残念ながら観たことがない。しかし1982年に「いま、人間として」に掲載された一文を読んだ限りにおいて、ディレクターであることが小田氏の存在理由だと思えた。
そのショックが完全に消失したわけではないけれど、10/13付けのメールにあらわれているように、小田氏が23年を経ても「すりきれたビデオテープ」時代から変わっていないことがなによりもうれしかったし、大切だと思ったのである。
ひとは刻々と変わってゆく。たいていは齢を重ねるとともに、感心できない方向に変わってゆく。そのなかで変わらずにいることは容易ではない。変わらずにいるということは、なにものかに抵抗する気概を棄てずにいるということだ。

不思議なのは、23年まえの小田氏の一文に衝撃を受けていたにもかかわらず、わたしの内部で深く潜伏していたことだ。こういう事例はわたしには珍しい。富永太郎についてもずいぶん永いあいだ近づかずに放置していたけれど、それとは意味がちがう。
要するに私にとっては、いま、小田昭太郎を再見する必然性があるということなのだろう。

20年ほどまえに小田氏の一文を読んだとき、不思議な文章だなと思った。いまでもそう思う。上野英信や松下竜一、そのほかのドキュメンタリー作家たちの重い文章とはちがう味わいの緻密な重さがある。それが小田昭太郎の文体だ、といわれたらそれまでなのだが。
小田昭太郎は繊細な神経をもつ野人だ。そして"懼れ"を知っているひとだと思う。自然に対して、人間に対して、世界に対して。そして自分自身に対して。
森達也が「ドキュメンタリーは嘘をつく」というのに対し、小田昭太郎は黙ってディレクターをやめている、というのは短絡すぎるだろうか。あるいは表現の場を提供するプロダクションの代表としての営みがあまりにも過酷なので、表現者として熟成すべき要素を奪われているのではないか。

いま、わたしは小田昭太郎著『クンサー』(情報センター出版局・1987/7/7)をゆっくりと読んでいるところだ。本書の出版を機に小田氏は20年在籍した日本テレビを辞めている。
同出版社から藤原新也の『東京漂流』が刊行されたのは、1983年である。
『クンサー』は、まるでドキュメンタリー番組を観ているように描写されている。映像が浮かぶ、独特の重さがあるいい文章である。

  *

1992年4月3日の夕刻、わたしは2年ぶりに径書房を訪ねた。前回は創立10周年のお祝いに立ち寄った。ドアを開くと先客がふたりいて、原田氏を交えて酒盛りがはじまっていた。不思議なことに、その瞬間から初対面の彼らのなかに入ってゆける空気が醸しだされていた。

「ぼくは原田さんに憧れて出版界に入りました」
まっすぐな眼でU氏が自己紹介がわりにいったのが印象的だった。
「●●●で◯◯の編集をしていました」とU氏はつづけた。
「『いま、人間として』に書かれてましたね」
というと、U氏はからだを揺らしながらうれしそうな顔つきで驚きを顕わにした。
「記憶力いいなあ」
間髪を入れず「〈すりきれたビデオテープ〉あれはいい」とわたしがいうと、U氏はやや誇らしげな顔でいった。
「彼にあれを書かせたのはぼくです」
そのとき、無意識下で小田氏の文章が深く刻みこまれていたことに、わたし自身が気づいたのだった。
いまは、某TV局で報道番組を担当しているとU氏がいった。それはわたしが注目している番組だったので、彼の思想背景がうかがわれた。
「小田さんに憧れてTV界に入りました」とU氏はいわなかったが、小田氏と同じ世界に転職したことになる。

横から原田氏の「小田昭太郎!」という声が聞こえたので、記憶にあった〈小田昭太郎〉という活字が刻まれたページを想起しつつ、わたしはU氏から原田氏のほうに視線を移した。
原田氏は恍惚とした表情でぽそっとつぶやいた。
「いい・オ・ト・コ」
このときわたしのなかで、小田氏の文章と原田氏の表情から小田昭太郎像が合成されたのだった。
これほどのインパクトを受けていながら、それ以後小田氏のことを想起することはなかったのである、8/28に当blogに書くまでは。
呆れるほど悠長なビデオテープの祟りではないか。

U氏がTVのドキュメンタリー番組を制作していると知ったので、わたしは知人の同業者について語った。
原田氏が「このひとはいつもいうんだから」と揶揄したので、もしかして原田氏は彼に嫉妬しているのかもしれないと思った。原田氏は偶然彼の制作した番組を観て、感銘を受けていたからである。
U氏の雰囲気が彼とどことなく似ていたので、わたしはU氏を凝視しながら「似てる」とつぶやいた。U氏はその視線に堪えられないという感じで、恥ずかしさに身をよじらせた。わたしは自分の不躾な視線を反省しながらも、視線をはずすことができなかった。どこが似ているのかを検証していたのだ。

もうひとりの客はU氏と親しい龍野忠久氏で、原田氏の親友だった。わたしは原田氏に対してさえ文学について語ったことがないにもかかわらず、いきなり龍野氏に文学についてあれこれ語ったのである。そのどれもに龍野氏は通じていた。

龍野氏は上梓した『パリ・一九六〇』(沖積社・1991/10/1)の書評が掲載された2種類の雑誌のコピーを持参して原田氏に説明していた。
いろいろ話が弾んだあとで、彼はそのコピーをわたしに突きつけ、「あなたにこの本を読んでほしい」と迫ってきた。
どちらかというと飄々としたイメージの彼の豹変ぶりに、わたしは抗する力を奪われた。この種のあつくるしくない迫られかたにわたしは弱いのだ。

U氏が仕事があるからと局にもどるべく立ち去った。当時の径書房が入っていたビルの門限は8時だったので、それ以後は近くの店で社員や来客と呑むのが慣例だった。いつのまにか隣室で仕事をしていた社員は消えていた。龍野氏を交えての3人の会話はおもしろくなるなあと期待しつつ、わたしは流しで原田氏と並んでグラスなどを片づけていた。
背後に視線を感じて振りむくと、龍野氏がさきほどとは打って変わった改まった顔つきで立っていた。
「いっしょに行かないんですか?」と問うと、龍野氏は万感の想いをこめて苦しげに言葉を吐いた。
「ぼくは食道を全部とったんです」
当然ながらわたしの頭には〈食道ガン〉という文字が浮かんだ。自然な流れで龍野氏に寄りそうように階段付近まで見送りにでた。
蹌踉とした足どりで階段を降りてゆく彼の背中には、ただならぬ寂寥感が漂っていた。そんな男の裸の背中をみせつけられたことの苦しさに、わたしは言葉を失ったままその場に呆然と立ちつくした。

原田氏から龍野氏との往復書簡集『死ぬことしか知らなかったボクたち』(径書房・1997/10/31)を贈られて、龍野氏が1993/10/15に逝ったことを知った。わたしが彼の背中をみてから1年6ヵ月後である。

龍野氏の著書『パリ・一九六〇』を読むと、彼がフランス文学者・山内義雄の弟子としてひどく愛されていたことがわかる。
山内義雄は外語時代に富永太郎にフランス語を教え、「少年富永の眼は非常に澄んでいて、迂闊なことは喋れないような輝きを持っていた」と語ったという。胸が躍る話である。
また、龍野氏の著書から彼が小林秀雄と黒澤明の初対談に立ち会ったことを知ったことで、「小林秀雄實記」を運営する杉本氏とのかかわりができ、その掲示板で富永太郎を愛する小向氏との関係が生じた。その関連で予想もしなかったblogを、こうして書いているのである。

1992/4/3にわたしが径書房を訪ねていなければ、杉本氏、小向氏、そして小田氏とは無関係だったのである。この1年、ネット上とはいえ、彼らとの関係が濃密であっただけに不思議な気分になる。
なお、龍野氏は『パリ・一九六〇』の扉にこう記している。

「偶然はつねに必然の交差点に過ぎない」(何人の説であったか)


2005年12月14日

神の手  【エッセイ】

 20代の一時期住んでいたマンションは、阪急電鉄千里線のS駅から徒歩10分ほどの地点にあった。やや古びた落ちついた一戸建てが並ぶなか、すこし高台になった土地に大規模といえるマンションが建ったので、周辺の住民にとっては風紀を乱す迷惑な存在だったらしい。たしかに周囲の風景からは違和感のある建物だった。
 わたしの住む部屋の玄関まえに立つと、1970年に開催された「大阪万博」のシンボルである「太陽の塔」の正面を、なんの障害物もなく眺望することができた。その歪んだような顔に親しみと懐かしさがあった。

 わたしの高校時代に「大阪万博」は開催され、夏休みに同じ高校に通う友人Sさんに誘われて行ったのだった。Sさんもわたしもひとの多いのが苦手なので、並ばなくてもよいところばかりに入った。そのなかに「太陽の塔」があった。「太陽の塔」の内部に入ろうという人間はあまりいないらしく、深閑としていた。
 わたしの記憶では、まずエスカレーターで最上階まで昇り、階段で降りてゆくのだが、踊り場の周囲の壁に、モザイク状に幻灯のような感じのフィルムが埋めこまれていた。朱肉で捺印した印鑑のフィルムが映しだされた踊り場で、わたしはひとつひとつの印鑑の姓を頭のなかで読みあげて愉しんだ。単純だけれど、おもしろい。
 その下の踊り場のフィルムは日没で、それぞれの場所がちがうため、日没の顔に多様性がある。わたしは夢中になってそれらの差異に注目しながら、ぐるりとからだを一回転させた。つぎに平衡感覚をうしなったからだで踏みだした片足が、空を蹴った。そこはもう階段だったのだ。

 わたしは眼を閉じながらも意識ははっきりしていた。不思議なことに、どうにかしようという意思を完全に失いながら身をまかせていると、右半身を階段の数だけ打つので、自分のからだが一回転ずつしながら落ちているのだと知った。痛みがまったくなく、意識はどこまでも明晰だった。
 そろそろ終わりにしてくれないかなあ……とひとごとのように思っていると、最後にうつぶせになって両手をぱたっとついた。このときも痛みはなく、一貫して優雅な力に支えられているような感じなのだ。階段は8段くらいあったが、かすり傷ひとつなかった。
 Sさんが駆けよってきて、
「だいじょうぶ?!」
 と心配そうに声をかける図を想像し、恥ずかしさに襲われたわたしが耳にしたのは、意外にもSさんの呆れたようなひとことだった。
「猫みたい!」

 Sさんはとてもチャーミングだったので、男子生徒にもてていたが、どこか醒めているところがあった。また、Sさんと同じ中学校出身の男子生徒が自死した様子を、暗い顔でわたしに語ったときも感情を顕わにせず、いつもどおり放課後に図書館で勉強していた。性格がよくいつも笑顔なので、女子生徒からも教師からも好感をもたれていたが、淡々としていた。
 そんなSさんだったので、われわれは何事もなかったように「太陽の塔」をあとにしたのだった。

 自分が大けがをするのは自業自得だとしても、もしわたしのまえにひとがいたら、そのひとを巻きぞえにしていたと思うと、暗澹たる気分になる。
 それにしても、わたしが体感した巨きな柔らかい力はなんだったのだろう。いまでもその感触は身にまとわりついているのである。

  *

 阪急電鉄千里線のS駅は、車両とホームの間隔がひどくあいている箇所があった。当時わたしの息子は2歳だった。ふつうなら子どもを抱っこしてホームに降りるだろうが、わたしは息子の手をつないで、声もかけずに降りるというきわめて危ない方法をとった。危ないけれど、達成したあとの喜びは格別だった。
 その1歩を踏みだすとき、わたしの手に自然と力が入るのだろう。声はかけないが、わたしは子どもに最大限の注意を払っていたのだから。それを幸いにも子どもが感受してくれたから成功したといえる。逆にいうと、感受できる子どもであるという確信に似たものが、わたしの無意識下にあったのかもしれない。

 2回めに挑戦しようとしたとき、同じ車両にいたひとたちの「ああーっ……」という叫び声を聴き、わたしの集中力は一瞬そがれたが、なんとか達成できた。しかし他者のいかにも危ないという声を聴いたことでわたしは恐怖心をあおられ、以後は危なくない車両に乗ることにした。
 危ない橋を渡るとき、"危ないけれども渡りきれる"という予感がないと失敗する、ということだけはわかっていたのかもしれない。


〔追記 2006/1/28〕
「大阪万博 いま熱い」(2005/5/4付け朝日新聞・朝刊)より引用。

《大阪府吹田市の万博記念公園に残る太陽の塔の人気も高い。昨年11月から事前に申し込めば中に入ることができるようになった。3月までに2千人が見学している》

miko3355 at 21:19|この記事のURLTrackBack(0)小品 

2005年12月04日

小林〜富永〜中原〜大岡の濃密な関係

11/15にアップした「富永太郎と中原中也の異質な関係 」に、杉本氏からコメント
(12/2付け)をいただいた。
コメント欄が長くなったので、勝手ながら転記させていただく。

…………………………………………………………………………………
以下、ご参考までに。

「かつて私は、中原中也について、小林秀雄に聞きにきた者は、誰もなかった、と記したことがあった。しかし、これには、もっと詳しい説明を記しておくべきであった。小林秀雄は、しかるべき紹介者がいないと、初めての人には会わないことにしているのだが、この帰国後(※ヨーロッパ旅行から帰国したときに"過去はもう沢山だ"と漏らしたことを指す)は、さらに徹底してきたから、そこへ辿りつくことが、先ず一と仕事であること、(つづく)
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 00:04

たとえ会えたところで、誰にも肝腎のところは喋らないから、聞かれないと同じ効果を呈すること、今日のように、中原のすみずみまで探求が行われていなくて、当時はただ、ただ彼の作品を読むことで充足していた時代であった、小林・中原の問題については、大抵の読者は大岡昇平の著作で、充分に間に合せがついていたのである。いくつもの要因があったことを私は付加すべきであった。」(郡司勝義「大岡昇平遠望」)
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 00:04

ところで、ユリイカの鼎談で加藤典洋氏が大岡昇平から直接聞いたという証言によれば、昭46年に開かれた富永太郎展に小林秀雄は結局顔を出さなかったそうですね。小林秀雄はこのときのパンフレットに一文を寄せていて、今回の全集で初めて収録されましたけれど、その最後を、「懐かしさが油然と湧き上って来る。見たいと思う。」という言葉で結んでいるのです。それが、大岡氏が招待状を出して、今日来るか今日来るかと思って待っていたが最後まで来なかった。加藤氏には、「小林には詩とか小説を書く人間に対する嫉妬がある」と言ったそうですが、後に松涛美術館で富岡太郎展が開かれたときには、富永太郎の絵をちっとも見ようとしない小林秀雄は「少し異常です」とも書いています。
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 01:19

富岡太郎展->富永太郎展
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 01:23

…………………………………………………………………………………

上記の杉本氏のコメント(とくに前半部分)を読み、なぜか考えこんでしまった。
それを逐一ここに記すわけにはいかないが、ひとつだけ記しておこう。

かつてわたしが杉本氏に送信したメールに対して、

二人の人間関係が「すこしわかりやすくなる」という時点で、薄ら寒い虚偽を感じませんか?

という返信があった。
この場合の「二人の関係」というのは小林秀雄と青山次郎のことだったのだが、相手がだれであっても同じことだろう。
いつなく激昂した杉本氏の口吻は、わたしだけにむけられたものではなく、「秋葉原で店頭販売している万能包丁」(杉本氏のメールの一節)で小林秀雄を斬ろうとするひとたちに対する密かな怒りだろう。わたしはそう解釈した。

その密かな怒りが杉本さんの核になっていると思えるし、ひとりの文学者についてこだわっている人間にとっては当然のことだろう。
しかし"得体のしれない柔軟性"を有する杉本氏は、

かなり生意気なことを書きましたが、見当はずれではないと思います

と軽やかな着地をするのである。

さて、以前に「小林秀雄實記」掲示板でテーマになった、「小林が富永について、もう書かないと"宣言"する必要があったというのが、ランボオとの別れとパラレルである」という杉本氏の説は、わたしが「ユリイカ」の富永太郎特集から引用した高橋英夫氏の文章に呼応するものであった。
この特集は全編すぐれた内容だが、とくに高橋氏の一文は、小林に傾倒した人間にしか書けないうえに、富永についても深い理解を示している点で一読の価値がある。また、高橋氏の人間をみる視座をわたしが好もしく思っているともいえる。
なお、高橋氏の見解を学者が記したのが、11/12にエントリーした「富永太郎の祥月命日」で参照とした宇佐美氏の共同研究である。


杉本氏が指摘された、大岡昇平の怒りと困惑を喚起した昭和46年と昭和63年の富永太郎絵画展に対する小林秀雄のリアクションの謎解きが、杉本氏が上記掲示板において"宿題"とされたテーマと一致すると考えられる。

※ただいま「小林秀雄實記」が改訂中につき閲覧できないので、掲示板とはリンクできないのをお許しいただきたい。


〔追記 2005/12/4〕
本日、杉本さんからコメントで指摘していただいた件については、完全にわたしのミスなので、訂正させていただきます。

本文において、

《杉本氏が指摘された、大岡昇平の怒りと困惑を喚起した昭和46年と昭和63年の富永太郎絵画展に対する小林秀雄のリアクション》

とわたしは書きましたが、昭和63年に開催された絵画展に、昭和58年に他界した小林氏が行けるわけもなく、大岡氏が昭和63年の絵画展のカタログに寄せた一文「富永太郎における創造」のなかで記した、昭和46年開催の絵画展に対する小林氏についての回想文でした。

大岡昇平は昭和63年の絵画展の直後に他界しており、そのことから「小林秀雄さま、」という大岡氏の病いと老齢によって乱れた筆による弔詞などを連想しているうちに、鬼籍に入ったひとたちが、なまなましく立ちあがってきて、わたしの頭は混乱した。
そんなわけで、ふたつの絵画展に小林氏がかかわっていたような錯覚に陥った。
わたしの手許にある『大岡昇平全集17』(筑摩書房)――本書を教えていただいたのも杉本氏である――に、カタログに寄せた大岡氏の一文「富永太郎における創造」が収められていて、過去に読んだにもかかわらず失念していた。

……というようなイイワケを書き連ねていると、取調室で敏腕刑事に自白を迫られている容疑者(→犯人)のような気分になってきた。

で、富永太郎展について整理してみる。

■昭和46年(1971)2月15日〜27日
東京・銀座のギャラリー・ユニバースにて
「富永太郎の絵」展……歿後46年

■昭和63年(1988)10月18日〜11月27日
渋谷区立松濤美術館にて
「大正の詩人画家富永太郎」展……歿後63年

□小林秀雄 昭和58年(1983) 3月1日歿
□大岡昇平 昭和63年(1988)12月25日歿
□富永太郎 大正14年(1925)11月12日歿
□中原中也 昭和12年(1937)9月22日歿

  *
  
杉本さんが紹介された「ユリイカ」所収の【郡司勝義「大岡昇平遠望」】につづく文章も興味深いので引く。

《しかし、小林秀雄は、一々具体的に例証を挙げて問いつめられるのを、最も苦手とし、嫌っていた。
 (略)
 大岡昇平は、小林秀雄との間にかもし出されているこの微妙な呼吸(いき)づかいを、敏感に察知していた。だから、氏は中原中也や富永太郎の評伝を書くについては、われわれの想像を絶するほどの苦心を払っていた筈である。あの外堀を片っぱしから埋め尽くして行く手法は、そこから発したものであろう》







miko3355 at 03:59|この記事のURLTrackBack(0)富永太郎