2006年01月

2006年01月23日

ガイアの夜明け「青森を世界に売れ」

テレビ東京の「ガイヤの夜明け」はテーマに興味がある場合だけ観ているが、アップテンポの番組である。2006/1/17放映の「青森を世界に売れ」はオルタスジャパン制作。テレビ東京、22:00〜22:54。

青森県庁内にひとつの商社「青森ブランド」が生まれた。商売人への転身である。

世界へ挑むベビーホタテ

主役は青森県職員(総合販売戦略課)の藤森洋貴(ひろたか)さん、40歳。
2004年のホタテ生産量は、青森が全国2位で約9万5000トン。8割が北海道産。安い中国産も入ってきているが、青森産は甘みがあり味がぜんぜんちがう。1年もののベビーホタテを、1日に7トン加工する。
経済発展が著しいアジアは巨大胃袋。青森県の招きでやってきたのは、鄭(てい)建仁さん。台湾・食品メーカーバイヤーである。
青森は初めてだが、よい製品があれば輸入も考えているという鄭さんを、水産市場へ案内する。
鄭さんのベビーホタテについての感想。
「台湾の消費者が買うかどうか。ぼくはおいしいが、みんなは買えない」

片山りんご園

片山寿伸さん(45歳)は嘆息する。
「安い果物がいっぱいある。りんごだけ高く売れない。だれもりんごを食ってくれない。わしらは見棄てられた」
味や質がよくても値段が張る青森りんごの売り上げは、年々落ちている。安い輸入果物に押されているのだ。
片山さんは40年つづくりんご農家の2代目。
「日本国内では売り余すときがくる。ヨーロッパや中国にいまから売っておけば、農家が助かる道になるかもしれん」
毎年10月になると、弘前のりんご農家の1年の売り上げが決まる。片山さんは個人のインターネット販売もはじめた。
昔は獲れた分を全部市場に出荷していた。いまは、スーパーや量販店への直接販売が6割以上を占める。
「おそらく生産原価を割るよ、黙って市場にだしていたら。量販店や生協と直接契約しなければ、食っていけねえのよ」と片山さん。

片山さんはパソコンにむかう。手許には英語の辞書。ヨーロッパにりんごを売り込むことにしたのである。1992年、スペインの果物商社に勤め、世界を相手にりんごの取り引きをしていた。1年間スペインで働いていた経験から片山さんは思いつく。
「日本人が食ってくれないなら、ヨーロッパにだしてみよう」
手づくりのパンフレットでイメージしたのは日の丸。トップに大きく NIPPON 1-BAN とある。

ヨーロッパ最大の果物見本市

昨年2月、ドイツのベルリンでが開かれたフルーツ・ロジスティカ (Fruit Logistica) 2005/ 国際果実・野菜・マーケテイング専門見本市
1400社もの果物会社が集まるなかで、りんごは最も競争の激しい商品のひとつ。
中国産ふじは、1キロ約80円。片山さんの日本産ふじは、1キロ280円。

ブースでの評判。
イタリア人バイヤー「おいしいが高い」
中国人バイヤー  「高い」
スペイン人バイヤー「ヨーロッパ人は1本のワインに1万円以上払う人はいます。りんごに280円だす人はいません」

ベルリン青空市場にて片山さんの感想。
「日本と全然品種がちがいますね。日本と同じ品種は、ジョナゴールドと中国産ふじだけ。どれもこれも酸味のある品種ばっかりだ」
ヨーロッパで売られているりんごは、1キロ約140円。
片山さんは、ピンクレディーという新しい品種のりんごをみつける。ニュージーランドで開発された高級りんごで、1キロ約550円。
片山さんに一条の光が射す。
「これなら日本の小玉りんごが販売できるかもしれない。高級店なら可能性はあります」

おいしくて珍しい品種なら高くても売れる!

帰国した片山さんを迎えたのは、17年ぶりの大雪。りんごは自然との闘い。
ユーレップギャップというヨーロッパの生産基準をクリアしないと、ヨーロッパに輸出できない。日本でユーレップギャップ認証を取得したのは、片山さんを含む2軒だけ。

9月。りんごの葉をていねいに摘みとる作業をする。ひとつひとつのりんごに日光を当てて真っ赤に色づけるため。海外ではほとんど行われていない。こうした手間暇かけた作業が、品質のよい日本のりんごを作っている。

シナノゴールドで勝負

7年前に開発された品種。甘さも十分で瑞々しい。しかも片山さんたちの実験で、1年間保存してもおいしさが変わらないということがわかった。長期保存できるということは、船便での輸送に堪えられる。まさにヨーロッパにうってつけの商品。
さっそくサンプルをスペインの商社にもちこむ。
出荷で忙しい片山さんの代わりに、相棒の山野豊さん(青森りんご品質管理担当)がスペインでの商談を任される。
交渉するのは、果物卸商社・サンチェス。ヨーロッパ全土と取り引きがあり、4割がりんご。吟味した販売の責任者のシナノゴールドに対する反応は、「すごく瑞々しい」。

台湾・高雄での青森物産展

人々の食に対する関心が高い台湾で「青森物産展」が開かれることになった。日系の大手デパート「大立伊勢丹」開業13周年の目玉である。
開店と同時に台湾の客が殺到したのは、りんご売り場。台湾では青森のりんごは、高級りんごとして人気が高い。

一方、2トン以上もちこんだベビーホタテは、ぜんぜん売れない。目のまえで調理してみせる作戦で客の足が止まり、試食に手が伸びる。おいしくて簡単に食べられるとわかると売れはじめた。さらに客どうしのクチコミで売れはじめる。
物産展のあとで設けられた商談会場に、台湾のバイヤーたちがこぞってやってくる。春に商談を断った鄭さんもやってきた。
藤森「こういうおいしい味で値段は高い」
鄭 「チャンスができるかもしれない」

藤森さんは明るい顔でいう。
「少しでも可能性があれば、チャンスをみつけて改めていく」

青森でスペインからの朗報を待つ片山さん

会社でコンピューターにむかう片山さんに、山野さんから電話が入る。
山野「みせた。買ってもらった。値段に見合う販売先を探してくれると思う」
1ヵ月後、スペインの高級スーパーに、片山さんのりんごを卸す話が進みはじめた。価格は1キロ2.5ユーロ(約350円)。

りんご農園でりんごの木の芽に触れながら、片山さんは自らにいいきかせるようにつぶやく。
「この芽をみたら、やらざるをえねえのよ」

■感想
りんご農家が苦境に立っていることを、本番組を観るまで知らなかった。それにしても、青森県の職員が商社マンに変身せざるをえないとは驚かされる。どこを向いても生き残りに躍起な世界が展開されていて、窒息しそうになる。
日本人がみかんを食べなくなったのは、家族が集まる居間でみかんを食べるという文化が失われたことと関係があるという説がある。りんごについても同列なのだろうか。

海外のりんごに酸味が強いのは調理して食べるからだという。日本のりんごを売り込むには、生で食べておいしいということと同時に、健康によいという要素を強調したらよいのではないか。
わたしが最も好きなりんごは「つがる」である。味も姿もよい。酷暑のあとに「つがる」を店頭にみつけると、生き返ったような気分になる。最も多く食するのは「ふじ」。知人の信州出身者から送られる「ふじ」は、他と比較にならないほど美味。ところが、都内に住む友人が送ってくれた青森の「ふじ」は、彼女の母親の出身地が青森の故か、上記の信州産を超えるほどの絶品だった。信州産より青森産のほうが瑞々しいように思う。
信州の産地直送の無農薬「ふじ」を友人が送ってくれたが、驚くほど美味ではなかった。りんご農家の熱意が伝わる長い文章が添えられていた。
生協のりんごはおいしかったのだが、6年ほどまえから急にまずくなった。なぜなのか。
片山さんのりんごを通販で求めてみようかと思う。ちがいを確かめてみたくなった。

日本の果物や野菜の味が、どんどんまずくなっている。昔に比して栄養価も劣っているらしい。それらを食する子どもたちの身体に、どのような変化があるのだろか。

〔参照〕
「りんご〜Apple〜」

「ユーレップギャップ」(EUREPGAP:欧州小売業組合適正農業規範)

「農業情報コンサルティング株式会社」

待望のりんご中性種「シナノゴールド」



〔追記 2006/1/27〕
片山林檎園に注文したサンふじ(無袋ふじ)が昨日届いた。
さっそく食してみたところ、生協で求めるのと同じ味である。昨日より本日のほうが甘みとこくのようなものが、すこし加わったという感じがする。
私事だが、2月の亡父の祥月命日に、片山林檎園のりんごを送ってもらうよう手配した。いつもは和菓子を送っているのだが、本番組を観た記念として。
余談だが、百貨店から贈られる高価な産地直送の果物セットも感心しない。わたしの食生活はいたって質素なのだが、子どものころより味覚が鈍くないので困ることが多い。
いまの日本では、「高価だから美味」といえないケースが多いと思う。海外では通用しないことが、わが国なら通用するのが不思議だ。



矢崎滋編「課外授業ようこそ先輩」

2006/1/11放映の「課外授業ようこそ先輩」(NHK総合)は、矢崎滋氏(俳優)の「自分を見つめる自己紹介」だった。これまで多くの「課外授業」を観てきたなかで最も短く感じられたのは、平坦な内容だったからである。しかも「自己紹介」が苦手なわたしには抵抗感があった。そんなわけで今回はパスするつもりでいた。ところが数日後、にごり酒のようにじんわり利いてきたものがあったので、それを記しておこう。オルタスジャパン制作なのだから。

今回の先生である矢崎氏はじつに落ちつきがなく、緊張しながら世田谷区立祖師谷小学校、6年2組29名の子どもたちが待つ教室のドアを開く。カメラはそんな矢崎氏の視線とぴったり寄りそう。
前回の奥本氏が背広にネクタイという格好のわりにはラフな感じが立ちのぼっていたのに対し、矢崎氏はジーンズの上下というラフなスタイルとは裏腹に、どこまでも硬い。
岸田今日子のナレーションが矢崎氏の内面を代弁するのだが、わたしにはこれがうるさく感じられたし、矢崎氏の風体と岸田今日子の声に最後まで違和感があった。

矢崎氏は教壇に立ち、やおら黒いスポーツバッグを開け、中身について開陳する。メインは中1のときに買ったという国語辞典である。自分は「緊張しい」だといい、両手をまえにさしだす。アップになった両手が小刻みに震えている。子どもたちは驚く。

「自分をアピールすることが自分を救った」という体験をもつ矢崎氏は、子どもたちひとりひとりに黒板のまえで自己紹介をさせる。それを聴くためにすぐさま子どもたちのいる席に矢崎氏が場所移動すると、なぜか笑いが起こる。この仕草の滑稽さが矢崎氏のもち味なのだろう。

矢崎氏は子どものまえで自己を語る。
人見知りが激しくて幼稚園を退園させられた。その一方で目立ちたがりで、高校時代に演劇部へ。臆病で人前で負けてしまう。それをひっくり返さなきゃあと思い、20歳のとき劇団四季の試験を受ける。
(ここでわたしの好きなバレーダンサーの首藤康之を連想した。彼の内向的な性格が舞台ではじけたとき、うつくしく開花するのである)

フィルムを交えた矢崎氏のプロフィールが挿入される。
1868年、東大英文科を中退して、劇団四季に入団。
43歳のときに、仕事を整理してロンドンへ旅立つ。本場の演劇を観て、1年間考えつづける。
帰国後、納得できる芝居をする。

矢崎氏は子どもたちに、自分の長所・短所を画用紙に書かせる。
「観察と表現、自己紹介は役を演じるのと同じ」と矢崎氏はいい、
「考えて書いている作業が大事であり、1行も書けなくてもよい」と。
つぎに宿題を発表。
「自分を見つめる、前向きに苦しむ」
矢崎氏はバッグに入っていた古い辞書で〔苦しむ〕を引く。ここで授業のはじめにバッグからこの辞書をとりだしたことが、伏線だったことを匂わす。同時に、辞書を読むことが日常化していることもみせつける。
「心や気持ちを使う」とあり、立ち向かうことが大事だ、と矢崎氏は諭す。

2日目の授業。
矢崎氏は別室で子どもたちの作文を読みこむ。その部屋へ小玲(さり)さんというチャーミングな女の子が相談にくる。矢崎氏は軽い口調で、「好きなことをいえば?」とアドヴァイス。ここで観る側に、小玲さんの変化に対する期待感が発生する。

再度、黒板のまえで発表。
わたしはふたりの女の子の発言が印象に残った。
直美さんと小玲さんである。じつはわたしがこの感想を書こうと思った動機は、直美さんの存在が大きい。

◆直美さん
「田舎者であるということと、ヘンに訛って話すこと」
(実際におかしな日本語でしゃべったので、矢崎氏は笑いながら拍手)

◆小玲さん
「気が強くてうるさくて、ふざけていることが多いです。みんなの前ではけっこういろいろやれるんだけど、前にでると(いまの状況を指す)、なんかしらないけど涙がでます。悲しくないんだけど、涙がでて緊張します。意地っぱりだから、悲しいときでも楽しくやったりするんだけど、ほんとうは涙もろくて弱い面もあります」
(洋服の袖口で涙をぬぐいながら語る小玲さんの姿に矢崎氏も涙ぐむ)

わたしは意外と小玲さんには感情移入できなかったし、直美さんに対しても、ただ笑っただけだった。ところが、しばらくしてカメラが直美さんの生き生きした横顔を捉えたのに驚愕したのである。彼女の内部でどのような変化があったのだろうか。おそらく九州方面から都内に転居し、東京の文化になじんでいないのだろう。自己を喪失し、教室でも居場所がないのかもしれない。みんなの前で自分をさらけだしたことより、TVカメラの視線(厳密にはカメラマンの資質も関係する)を受けたことのほうが大きな意味をもつのではないか。それが今後の彼女にどのように作用するのか、そこにわたしは興味をもったのである。

■最後に先生からひとこと。
「長所とか短所とか、言葉で説明できることじゃないんでしょうけど、それについてみんながすごい考えてくれて、すばらしかったです。最後にもうひとことつけ加えると、そうそう簡単に答えはでないと、長生きしてきて思ってるんで。自分を見つめ、前向きに苦しむことと同時に、答えは急がない。そんなことでお開きにしたいと思います。どうもありがとうございました」
矢崎氏は頭をさげる。
子どもたちがトドメの唱和。
「ありがとうございました」

このクラスの子どもたちは声が揃うのが特徴だ。矢崎氏はそれを「気持ちがいいねえ」といったが、わたしは気持ちが悪かったのである。日常的に「唱和」の訓練をしている姿を想像してしまったのだが、考えすぎだろうか。

ちなみに自己紹介の嫌いなわたしは、名前だけですますか、正直な想いを述べるかのどちらかだ。後者が意外と受けたりする。スピーチも苦手なのだが、想定外に笑いをとり、「おもしろいことをいうなあ」という顔をされたケースも幾つかある。(物議をかもす発言をしてしまうことが多いのは、少数意見だからだろう)。相手が友人なら笑いを予測できるが、不特定多数の人間がおもしろいと感じるかどうかは予測できない。それを予測できるのが喜劇役者なのだろう。
そんなことを考えさせられたのが、矢崎氏の授業を観た効用といえるのだろう。

最後に苦言を呈すると、「課外授業」が「プロジェクトX」のようにパターン化してきたと感じるのは、わたしだけだろうか。
本番組は30分枠だが、45分は必要かもしれない。

余談だが、授業巡礼をした故林竹二(哲学者)の授業では、子どもたちの表情が生き生きしてくるのが感動的だ。しかしわたしが興味をもったのは、優等生とみなされている男の子が、林竹二の問いかけによって次第に破綻し、うなだれる姿だった。自分自身を疑う地点まで追いつめるのも、教育の力だろう。










2006年01月21日

BS特集「"ツナミ"との戦い」〜インド洋大津波から1年〜

2005/12/26、BS1にて放映された番組で、3部構成。
午後7:10〜10:00(8:00〜8:10と9:00〜9:15でニュース中断)。
インド洋大津波発生時のニュースで、日本のように津波に対する知識があればこれほど多くの犠牲者がでなかった、と聴いたのが印象に残った。恥ずかしながら本番組のテーマについて知識がなかったので、教えられることが多かった。

〈NHKの番組案内より引用〉
23万人もの死者・行方不明者を出した昨年末のインド洋大津波から1年。今も各国で100万人以上の人々が避難生活を続けている。番組では、この1年間に被災したアジア各国の放送局が取材した復興への取り組み、防災システムの確立に向けた模索、対立する民族紛争の和解など津波が引き起こした多くの人々と国家への波紋を紹介。津波から1年を迎えるアジアの葛藤を多面的に追う。

第1部 被災国が記録した復興への模索

地元の放送局が現場を記録しつづけてきた番組が、ディレクターのコメントを交えて紹介されている。それぞれが、なまなましい内容である。

インドネシア
 制作 METRO TV  カマルーラ(ディレクター)
タイ
 「リゾート再建への挑戦」
 制作 MCOT    ノンラック(ディレクター)
スリランカ
 「マーダラ漁復活にかける」
 制作 SLRC    チャンダナ(ディレクター)
モルディブ
 「故郷の島を離れて」
 制作 TV M
 
第2部 災害に強いアジアを目指して

第3部 村に帰りたい〜インドネシア・アチェ

オルタスジャパン制作である。
自然なカメラワークのなかに人々の懸命さ、逞しさが描かれている点で、NHKよりBBCに近いという印象を受けた。テーマの性質からして感動したとはいえないが、ドキュメンタリー番組として高く評価されるにちがいない質のよさがある。それだけに、語りの男性の声が"他人事"という感じで、耳ざわりだったのが惜しい。なんとかならなかったのだろうか。
それにしても女たちの元気さには圧倒される。万国共通なのだろうか。
以下、順に追ってゆく。

GAM(自由独立運動)と国軍の間で30年つづいてきたインドネシア・アチェ州の独立紛争は終結した。巨大津波の被災、救援活動の迅速な展開などが大きな契機となった。
2005年8月15日、ヘルシンキでアチェ和平協定が調印された。
8月22日、国軍撤退。GAMは840丁の武器を放棄。
8月31日、GAM兵士1500人は釈放され、それぞれ故郷の家に帰る。GAMは政党をつくり、自治政府の選挙に備えることを表明。

2005年5月、死者・行方不明者16万5000人といわれるアチェに入る。

【クルンサベキャンプ】
ここでの生活は、NGOによる援助によってまかなわれている。月に1度の配給は、1人あたり、米12キロ・食用油・麺・豆の缶詰で、家族の人数に応じて配られる。出身の村ごとに住民が集まって生活している。108世帯、352人。
海岸から20キロ離れた山間部の村に暮らしていた、ツナミの被害が及ばない人々が、なぜこの難民キャンプにいるのか? ――この問いかけから番組はスタートする。まず、ふたりの男性を軸にして進んでゆく。

スナルディーさん(32歳)
親族を36人亡くした。30年つづく紛争で、山間部のパンゴン村からインドネシア国軍に強制移住させられ、海沿いのキャンプに移り住んでいて、ツナミに襲われた。与えられたテントを改造して、手づくりの小屋に住んでいる。
アブバカルさん(32歳)
パンゴン村では雑貨商を営む。豊かな山村から切りだす木材を収入に当てていたが、ツナミでほとんどの家財を失う。村に帰れる日に備え、仕事道具のチェーンソーは大事に保管している。ここでカメラは、テントのなかでなにげなく鎮座しているチェーンソーを映しだす。かぶせるような語り、「ここでは仕事がない」。

GAM(自由アチェ運動)において、アチェの一般の人々まで戦闘の犠牲になった。GAMの支配下「黒地域」では強制移住させられ、山から20キロ離れたクタパンキャンプへ。パンゴン村住民の半数350人が死亡・行方不明。
パンゴン村の村長・ハイルディーンさん(50歳)は語る。
「6年前、突然GAMの部隊があらわれ戦場となった。GAMと国軍の板挟みで苦しい立場に追いこまれた」

【バンタヤンキャンプ】
153世帯、699人。ツナミで破壊された海辺の村から避難してきた。120隻あった船は壊れ、20隻が残った。漁師をしているが、ガソリンのコストがかさみ、収入のない日もしばしば。
8月、クアラシンパンウリムへ帰る準備がはじまった。NGOから援助された資金で生活に欠かせない漁船50隻をつくる。漁師たちにとって燃料費は重い負担になっていた。村人たちはキャンプを出て、すこしでもクアラシンパンウリムに近い場所に移住することを望んでいる。

村長・バスリサレさんは、地方政府の有力者を招いた。警察署長、郡長、軍司令官である。故郷へ帰るための足がかりをつけたいと考えている。政府はツナミが再び起きることを警戒し、海岸から300メートル以内に新たに家をつくることを禁止している。元のクアラシンパンウリムへ帰ることは許されていない。
村長の考える再建予定地に住めば、GAMを支援するのではないかと地方政府は警戒している。村人が希望する土地はクアラシンパンウリムに近く、政府が決めた土地はバンタヤンに近い。
8月30日、村長は村民会議を開く。

郡長「政府が指定する場所に家を建てたほうがいい」
村民(男)「漁師の仕事をしているのだから、山奥には住めないよ。クアラに帰る許可だけ出してくれ」
郡長「帰ったとしても、勝手に家を建てられない。そうなると漁師の仕事もできないだろう」
村民(女)「船があるんだから、できるわよ。信じられない。村のことはわたしたちが知っている。ウソをついてもダメ」
郡長「政府の移住のための援助はあと2〜3年。1年という話もある。文句をいえば、なにももらえなくなるかもしれない」
村民(男)「政府が作ってくれないなら、自分たちで作る。許可だけ出してくれ」
村民(大勢)「そうだ、そうだ。今日でもすぐに帰りたい」
村の宗教指導者(男)「自分たちで村を再建しよう。先祖からのものを海の残骸にしてはいけない」
彼の発言に村民は活気づく。

村民会議の結果、郡長のみ承認を得たが、最終的に援助金をもらうためには、県の承認を得ないといけない。村長は、村へ帰るための嘆願書を作った。軍司令官と警察署長は、最後まで協力を拒んだ。サインしたのは郡長だけだが、村長はそのまま県知事に申請した。
村長「クアラの避難民は、他の移住地に移されたくない。元の村に帰りたいんだ。県知事はこういった。なんのために避難民を元の村に帰すのか。それはGAMを喜ばせ、支援することになるのにと」

GAMの村とみなされたクアラシンパンウリム。国軍と警察の疑惑は消えていない。

9月、クルンサベキャンプを再び訪ねる。

村長・ハイルディーンさんと村の有志が、パンゴン村の状況を確かめるために山にむかう。クルンサベキャンプからパンゴン村まで20キロ。パンゴン村の入口にある国軍詰所。和平後、国軍の兵士は、制服から私服に変わっていた。村長一行は、身分証明書なしで村に入ることができた。

【パンゴン村にて】
破壊された廃屋だけが残されていた。壁一面の落書き。いずれもアチェ人を侮辱するもの。
さらに奥へ、村の中心だった集落を目指す。
道は荒れはて、橋は落ちたまま。かつての村の面影はみあたらない。家々はことごとく焼かれていた。
村は完全に破壊されている。

スナルディーさんの家は残っていなかったが、両親のために建てた家は焼かれずに残っていた。2人とも、ツナミで亡くなった。
スナルディー「悲しい。両親ももういないのに、いったいなんのための家なんだ。この紛争で被害を受けたのは村民だ。国軍とGAMが戦争をし、村民が損害を背負わされた」

森と化した村をみて、村長・ハイルディーンさんは座りこみ、遠くをみる眼をしてタバコを喫っている。この徒労感の漂う姿が、わたしには本番組で最も印象に残った。
そして彼はつぶやく。
「みてのとおりだ。もうなにもない。どうすればいいのか……。以前は賑わっていたのに」

和平が実現し、紛争が終わっても、村民には村の復興という課題が残されたまま。

一方、バンタヤンキャンプでは、村民たちは再建の一歩を踏みだした。小舟に分乗して村へむかう。9ヵ月ぶりの一時帰郷。

【クアラシンパンウリムにて】
みな自宅へ帰り、片づけをはじめている。
村民の顔は一様に明るい。
「わたしの家よ」とカメラにむかって笑う女。
村民のなかには、地方政府の許可を得ず住みつく人もあらわれた。
村の漁師たちのために、コーヒーの店も開いた。
コーヒーを盆にのせ、笑顔で運ぶ女。

9月30日、何者かによる村民への発砲事件が起きた。停戦監視団が、その調査のためにやってきた。

事件を目撃した若者の証言。
「国軍のボートがあの島に上陸したんだ。村の男が漁に使う木をもってあそこにいた。こういうふうに(長い木の枝を肩にもって実演)。これを武器だと思った国軍が撃ってきたんだ。われわれがここに戻ると同時に、国軍はやってきた。われわれがいなければ彼らは来ない。彼らの目的はなんだ。彼らはわれわれを村から追いだしたいんだ」

村長・バスリサレさんは苦笑しながらいう。
「安全になったら人はここに戻るし、紛争があればまた逃げる。なにも起こらなければ、ここに小屋を造った者たちは、おそらくすぐ戻ってくる。難民キャンプで暮らすのは、もうたくさんだ」

  *
  
■2006年1月14日(BS1、21:40〜22:00)
地球街角「被災地は今・アチェ」

日本電波ニュース制作。
12万戸の住居が必要だが、村によって援助の格差が拡がっている。村長の存在が大きく、リコールされて新しい村長に変わった村もある。が、そこには不自然な動きがあった。
援助についてどう報道すべきか。
巨額の援助金をめぐっての新たな問題を、本番組は投げかけている。
家とは不釣り合いにしかみえない立派な家具を、手放しに喜んでいる女性をカメラは映しだしていたが、なんとも複雑な心境になった。

■2006年1月17日(NHK総合、午後7:30〜8:00)
クローズアップ現代
「津波1年 子供たちは今」
 〜大石芳野 被災地を撮る〜

 
インドネシア・アチェ州とインド東岸を訪ねて、被災地に暮らす子どもたちを撮影した写真家の大石芳野さんがスタジオで語る。

インドネシアだけで3万5000人の子どもたちが親を失ったという。
紹介される子どもたちはいずれもトラウマを抱え、小さな胸を痛めている。学校に行きたいと思いながら、働かざるをえない子どももいる。食料不足のため親戚の家を転々としている子ども。住む家さえない子どもたちもいる。
ここでも世界からの支援の配分が問題になっている。
復興を急ぐことで、子どもたちのこころのケアが忘れられているという。
「苦難を自分のものにして乗り超えてほしい」という大石さんの訴えに対し、それを子どもに求めるのは酷だと思ったのは、わたしの甘さだろうか。

子どもたちが写真を通して訴える瞳が胸に痛い。


〔参照〕
「スマトラ沖地震 被災地ルポ」(ビデオ・ジャーナリストMK)

「インドネシア民主化支援ネットワーク(ニンジャ)」














2006年01月18日

踏切  【エッセイ】

 昨年末に忘年会があり、その日は家をでるときから早めに帰りたいと思っていた。ところが10時すぎにみなが一斉に帰りはじめ、わたしとひとりの女性がとり残された。彼女は「こんなにみんなが早く帰ったことはない」とさびしさと怒りをぶつけた。
 場所は彼女の家の近くにあるスナックである。
 30分ほど雑談した。
「うちに泊まってもいいのよ」と幾度か彼女はいう。あすが月曜日であるため、泊まるとかなりめんどうなことになるのだった。わたしは返答ができず、曖昧な笑みを浮かべる。
 帰ろうとして立ちあがったとたんに、彼女は足元がぐらつき、倒れそうになった。知り合いらしき女主人は近くにある踏切が心配らしく、
「あの踏切で何人ものひとが死んでいるのだから」
 というのを聞いて、わたしは慄然とした。
「家までわたしが送ってゆきますから」  
 わたしは女主人に声をかけて店をでた。
 
 すぐそこに踏切があった。
 わたしは細腕で彼女のからだを支えながら渡ろうとした。彼女の足の動きが、信じられないくらいのろい。遮断機が降りてくるのではないかという恐怖に襲われながら、ゆっくり渡りおえた。酔っぱらった彼女に危機感はない。

 安全圏に到達してから、わたしは笑いながらいった。
「あそこで死んでたら新聞に載るわよ」 
「わたしはいいけど、あなたはいやでしょう?」
 彼女がわたしの顔を覗きこんでそういうのを聞いて、どきりとした。真顔だったからだ。わたしはその問いをかわすように軽口をたたいた。
「わたしが死んでも泣いてくれるひとはいないけどね」
 人間はだれもが孤独なんです……といいたかったのだが、通じたかどうか。同時にふと考えた。
 悪いけれど、わたしは彼女と一緒に死ぬのは遠慮したい。いままでだれかと一緒に死にたいと考えたことはなかったが、だれとだったら死んでもいいのかと考えると、だれの顔も浮かばなかった。
 しかしいま、あらためて問うと、ひとりの人間の顔が浮かんできて、わたしはたじろぐ。そのひとはそんな誘いを他者に発する人間ではないし、ましてわたしがその対象になることなどありえない。だが、そんな誘いを受けたら、条件反射のように同意してしまいそうな自分がそこにいる。それは一緒に死にたいというより、それほどそのひとを肯定しているということの証しだと気づく。ベクトルは生にむかっているが、死の影が貼りついているといったほうが正確か。
 
 しばらく歩いていると駅があり、彼女はそこから帰るように促す。家まで送っていくといっても、なかなか承知しない。わたしは強引に駅の横を通りすぎる。
 突然、彼女が転んだ。あっ、と思ったが遅い。酔いのせいか、スローモーションのようにまえのめりに倒れこむ。しばらく起きあがれないので、わたしは焦った。やっと起こして、彼女の汚れた手のひらを、わたしは自分の手で払った。子どもに対してするような仕草で。潔癖性のわたしには信じられない行為だった。
 痛いところはないかと、幾度も訊ねる。
 「ない」という答えが返ってくるが、酔っぱらいの言なので信用できない。
 
 ようやく彼女のマンションに到着した。
 エレベーターに乗り、彼女の部屋のまえに立つ。時計をみながら、わたしが帰れる時間なのかどうか、しきりに気にしている。
 いやな予感がしたのだが、今度は鍵がみつからない。ふたつのバッグにはたくさんのポケットがあり、それらを酔った手で探る。わたしはひとのバッグに手をだすことができず、ただ見守っている。
 やっと鍵がみつかり、ふたりで安堵する。
 わたしはドアを開き、玄関の灯りをつける。
 彼女は玄関に入ってわたしの顔をみつめ、
「泊まってもいいのよ」となおもつぶやく。
 黙って彼女の顔をみつめていると、
「どうしてそんなにやさしいの?」
 という声には怒気が含まれていた。これしきのことで"やさしい"といえるのか。それほどひとびとは世知辛いのか。
 独身主義者のわたしが結婚をし、おまけにふたりの子を生んでいる。独身主義者にもみえない彼女が独身を通している。わたしが彼女であってもおかしくないのだ。逆の立場であれば、わたしはどんな人間になっていただろう。この場面で、どんな言葉を吐くのか。泊まってほしいと願っても、口にはださないだろうということだけは想像できる。

「ちゃんと鍵をかけてね」
 そう連発しながらドアを閉めた。カチャッという小さな金属音を耳にし、後ろ髪を引かれる想いを払拭するように人気のないエレベーターにむかう。

 翌朝、彼女から電話があった。会話については記憶にないと、あっさりしている。捻挫でもしていないかと案じたが、なんともないらしい。
「最近、酔うと転ぶので、幾度も肋骨にひびが入っている」
 と事もなげにいうのを聞いて驚愕する。
 
 呑兵衛なのだと彼女はいうが、わたしの知る呑兵衛をみていると、そうはみえない。もしかしたら呑兵衛の仲間入りをすることが、彼女の存在意義なのかもしれない。
 
 
 

miko3355 at 15:58|この記事のURLTrackBack(0)小品 

2006年01月11日

小田昭太郎著『クンサー』を読む

小田昭太郎著『クンサー』(情報センター出版局・1987/7/7)を読了。
なかなか時間がとれないのに加え、小田氏独特の堅牢な重い文体と濃密な内容のせいで遅々として進まなかった。が、残りの3分の2を一気呵成に読みおえたときには、ヘロヘロになったのである。

長篇の優れたドキュメンタリー番組を観たというのが読後感だが、臆面もなくいおう。
小田昭太郎はなんて魅力的な男なんだろう。

わたしがイメージしていた小田昭太郎像そのままが本書からたちあがってきたのは当然ともいえるし、稀有なことにも思える。
本書を読みはじめてすぐにわかったのは、小田氏が直感に秀でた映像人間だということ。そして思想が生理的感覚に裏打ちされていることから派生する強靱さがある。その生理的感覚は生来のものだろうし、身から落ちることがないぶんアテになるのである。
かつて石牟礼道子の『苦界浄土』を読んだとき、石牟礼道子はシャーマンだと感じたのだが、小田昭太郎も同列だという新しい発見をした。

1985年12月15日、小田氏は単身バンコクに飛ぶ。日本テレビのディレクターとして、クンサーを取材するためである。
クンサーはヘロインの生産地ゴールデントライアングルに君臨し「麻薬王」の異名をとる、幻の軍隊を擁する謎の人物で、これまで大勢のジャーナリストが彼へのインタビューを狙って動いてきたが、過去10年以上それを果たせたものはいないし、死者までだしているという。

取材スタッフは4人で、小田氏以外はフリーランス。馬淵直城(カメラマン・写真家)、キム・グウーイ(ジャーナリスト)、押原 譲(写真家)。馬淵氏を媒体として、それぞれがつながっている。日本テレビはこの企画を渋々了承し、小田氏以外のスタッフの身に何が起きても一切責任はとらないという契約書が馬淵氏との間に交わされたという。

当初はマレーシア政府が派遣する特使に同行取材すると聞かされていたが、現地で小田氏はキム氏から知らされる。4人は単独でタイ国境を隠密裡に越え、ビルマのシャン州に潜入するのだ。4人の身の安全をマレーシア政府は保障しない。

クンサー基地への案内人は、馬煊(マシヤン)氏という60年輩の中国人。この人物には滑稽な怪しさがある。わたしは馬氏が登場するたびに不安になった。

P.76より引用。
《ボクは死地に身を晒したい欲望に取り憑かれてはいたが、この取材で決して命を失いたくはなかった。ただ、命を賭すだけの価値をこれからの旅の中に発見できれば、それはそれで満足だと考えていた》

予定より延びていた出発日だったが、「翌朝、出発だ!」と"突然"知らされる。

タイの国際警備警察の検問所で、長いやりとりの末、キム氏と小田氏のパスポートを取り上げられ、他のスタッフの氏名・パスポートナンバーを書き留められたあと、ビルマには越境しないという建て前のもとに通行を許可された。(その手前にある検問所でも予想通りの厳重さだったが、結局は700バーツ徴収されたことで話がついた。この額は兵隊たちの約1ヵ月分の給料に近い)
その夜泊まった粗末な一軒家(アジト)で、不安材料には事欠かないのだが、とりあえず難関の検問所を通過できたという日の深夜。スタッフ全員が疲れ切ってすぐに寝息を立て始めたなか、小田氏だけが神経が妙に興奮しつつ外界に耳をそばだてている。部屋の片隅で、クンサーの兵隊が1名、護衛のために眠っている。
つぎの記述が妙に尾を引く。小田氏の心象風景がわたしの琴線に触れたからにちがいない。
p.104より引用。
《タイに来て以来、極度の緊張と興奮の連続するあわただしい毎日を送り、日常とあまりにもかけ離れた異次元の世界に浸っていたボクだが、この夜、初めて東京にいる二人の我が子のことを思った。日頃、東京にいてもその子らとあまり接する努力もせず過ごしてきた己の情の薄さと身勝手な愛の深さを知った。胸を締めつけられながらボクは寝袋の中に頭をもぐり込ませ、じっと息を詰め続けた》

艱難辛苦を経て小田氏たちはクンサーの基地にたどりつき、クンサーと会見する。
「クンサーに対する敵意に満ち溢れていた」という小田氏だが、クンサーと愉しそうに談笑しているかにみえる写真が1葉掲載されている(p.139)。キャプションは「クンサーに対してボクなりの挑発と皮肉は繰り返し試みた」。この小田氏の顔は、裏表紙の写真とは別人と思えるほどいい男に写っているのはどういうわけか。しかもクンサーと互角にみえる。
1時間半に限定されていた会見が、3時間余にわたって行われたということは、なにか相通じる要素があったのだろう。しかし両者には絶対にクロスしない一点がある。小田昭太郎のジャーナリスト魂とクンサーの商人魂だ。
わたしには、クンサーはどこまでもうさん臭い男にしかみえないのだが。クンサーが小田氏に「今度は日本の女を連れてきてくれ」といったというのも、興ざめだ。

p.147より引用。
《クンサーはアヘンをやめるための条件として海外からの経済援助が必要であることを熱っぽく訴えていた。彼のその計画に協力してくれる者は神にも等しいとさえ語った。アヘンという切り札をアヘン廃業宣言と引き換えに経済援助を手に入れようというのが本心なのだろうか》

基地に来て5日目、突然、取材の準備をするようにと促される。クンサーが待っているという。案内されたのは宿舎からすぐ近くの畑で、十数名の兵隊たちに混じってクンサーが鍬を振るっている。私生活を取材したいと申し込んでおいた返答だという。
クンサーは経済援助を必要としていることを重ねて訴える。
クンサーが履いていたゴム草履を投げ棄て、「俺は裸足でも歩けるぞ。あんた方金持ちにはこんなことはできんだろうが」と大笑いした場面が、わたしには妙にリアルだった。芝居がかったなかに真実が含まれているような気がする。貧しさから這いあがった人間が巨万の富を得たケースに間々みられる、一種の哀しさを感じるのはわたしの偏見だろうか。まったく同情する気にはなれないし、クンサーの生い立ちの真実は知らないけれど。

p.296〜p.300に記されている小田氏のアヘン吸煙初体験とアヘンについての考察は、興味深い。

12月30日、小田氏たちスタッフは基地を離れる。
命よりも大事なクンサー取材のビデオテープは小田氏の手から離れ、アヘンルートでチェンマイのクンサーのアジトまで運ばれる。
小田氏の乗る馬を曳いたのは14歳の少年兵。出発が急だったため、前日、荷役に使われて休息をとっていないので、どの馬も疲れている。
和紙を漉いていたトーンアン村で一泊する。
翌朝、まだ薄暗いうちに起こされる。兵隊たちはすでに出発準備を整えている。
午後1時をすこし回ったころナップポーン村に到着する。少年兵は親切にも、農家の縁側前のコンクリートの上に降りられるように配慮してくれた。
いよいよ終わった。この一瞬の油断のため小田氏は落馬し、左腕を脱臼する。これは逆にいうと、小田氏の力量を超えて動こうとする衝動を抑制する意味で、のちにプラスに転化したようだ。
小田氏たちの馬を曳いていた5人の兵隊とは別に、何人かの兵隊が忍者のように護衛してくれていたことに、はじめて小田氏は気づく。

この村から四輪駆動のピックアップに乗り換えて、来た時と逆のコースを戻るのだが、難関はタイ警察軍のチェックポイント。あくまでもシャン州には潜入せず、タイ領の村々を取材したことになっている。馬淵氏はダミー用のビデオを撮影するために、休む間もなく村の中を飛び回っていた。
荷台に11人の男が乗り込む。スタッフ以外は、村人を装ったクンサーの兵隊たち。

国境警備兵と"村人"の応酬が20分以上続けられた後、責任者と思しきタイ兵が四輪駆動の座席に、M16を手にしたもうひとりが荷台に荒々しく乗り込む。
メーホンソンの警察本部に連行されるまえに、そのタイ兵を買収できるかどうかに望みはかかっている。それはキム氏と馬氏の役目だ。
1時間以上の交渉の末、キム氏が小田氏のパスポートを持って現れた。1冊のパスポートにつき500バーツ、5人だから2500バーツで折り合いがついた。日本円にして2万円。タイ兵の給料は1ヵ月700バーツ。
責任者のタイ兵は、小田氏たちひとりずつに握手を求め、メーホンソンまで護衛していくという。メーホンソンまで車で2時間余り。途中にもう1ヵ所ある検問所は何事もなく通過できた。
12月31日の夜だった。

  *

翌年の1986年3月、小田氏はスタッフ4人がタイ軍の最高司令部から指名手配になっていることを知る。そして2週間にわたって放送した2時間余りのアヘン地帯の記録番組の放送を終えて2ヵ月経ったとき、クオンさん一家が何者かに惨殺されたという知らせが入る。

p.318〜p.319より引用。
《その番組は、麻薬地帯の現状を知らせると共に、クンサーの言い分を全面的に打ち出し、少数民族が大国の思惑に翻弄される姿を伝えようとしたものだった。それはつまり、アヘンがいかに政治的な存在であるかを語るものでもあった。そして番組の中にはクオンさんも王敢勤も登場している。いずれも顔は隠したが、関係者が調査すればその話の内容からそれがだれであるかは判明する可能性は大いにあるだろう。
 とすれば彼らがテレビ番組の中で、ある組織にとって都合の悪いことについてしゃべったり、アヘンの売買やアヘン精製など秘密の現場をボクたちに取材させたことなどが原因で殺されたと考えざるを得ない。何か他の理由で殺されたのだと思いたかったが、どう考えてみてもボクたちの取材が原因であることはほとんど間違いなかった。
 (略)
 ボクはうかつにも罪もない人たちを大勢殺してしまったのだ。クオンさんも王敢勤も生命に危険があることを承知し、それでも綱渡りのようにそれぞれの勢力のバランスの上を巧みに歩き続けていたのだが、ボクたちがおそらくその綱を切ってしまったのだ。殺害された人たちにはなんと詫びれば良いのか、また詫びて済むことではないのだが、麻薬を巡る世界が本当に恐ろしいことを改めて身に滲みて実感したのである》

小田氏たちがメオ族の住むケシの里・ウン村滞在中、宿泊から食事まで世話になり、ウン村を案内してくれたクオンさんから小田氏は、タイの風土に適した品種のメロンの種を調べて送ってほしいと頼まれていた。食事を作ってくれた奥さんは料理上手で、(殺された当時)7ヵ月の胎児を宿していたという。
クオンさんの家には、夫婦の他に流れ者の若者でアヘン中毒者の王敢勤、女房に逃げられた子連れのやもめが寄宿していて、クオンさんが面倒を見ていた。クオンさんは本名を馬烈光という中国系のタイ人で、電気も水道もひかれていない貧しいメオ族の村に不似合いな立派な家に住んでいた。山小屋風だが、水洗トイレから湯の出るシャワーまで完備されている。クンサーとの繋がりがあり、「童顔で朗らか、賢く機知に富んだ男」だと小田氏が形容している謎に満ちた人物だ。

クオンさんの案内でウン村からさらに奥に入った、メオ族が住むパンケア村で案内してもらったケシ畑の光景を、小田氏はつぎのように記している。
p.47〜p.48より引用。
《これが麻薬地帯なのか!
 背丈一メートルばかりのスーッと真っ直ぐに伸びた細い茎に支えられて、その頂に深い赤と言えばいいのか濃いピンクなのか、チューリップのようでいて、それよりももっと可憐で清楚な花弁をつけ、一斉に招くように揺れている。それはいかにも儚く妖しい女たちの群れにも似ていた。そんな花々に混じってポツン、ポツンと所々に純白や紫の花弁が顔をのぞかせている。この美しい草花の精に魅せられて人は廃人と化していくのだろうか》

本書に登場する人物のなかでわたしが惹かれたのはふたりだ。
ひとりは、ナップコーン村からクンサーのいる基地まで小田氏の乗った馬(正確には騾馬)の手綱を曳いたタイシー(シャン人で15歳になったばかりの少年兵)。この10時間の地獄の行程は、読んでいて息が詰まった。
もうひとりは、シャン州のケシ畑を撮影させろと詰め寄った小田氏に、呆れたような、哀れむような表情で、「ミスター・オダ、オマエハ、プロダ」と捨てゼリフを残した、タイ革命軍兵士のクーンサイ中佐。その意味は、村で取材している時から小田氏が滅茶苦茶に疲れているにもかかわらず(当人は疲労度に無自覚)、歩いて3時間かかっても良いから別のケシ畑に案内しろと強引に抗議したことに呆れたと同時に、その意気込みに惚れたとのこと。
本書を読んでいてわたしが唯一笑ったのは、この場面だった。


小田昭太郎の骨子だと思える記述がある。
P.375〜p.379より抜粋。

《この取材の発端ではボクは、麻薬王クンサーなる怪しげなる人物と、一度足を踏み入れたが最後、生きては帰れないと噂されている黄金の三角地帯と呼ばれるケシ栽培地帯に魅き寄せられたにすぎなかった。
 しかし、そこで実際にボクが見、聞いたのは、単なる冒険小説の世界ではなく、必死になって生きようとしている生身の人々の群れだった。ビルマからの独立を願い長年闘い続けてきた闘志たちであり、貧困と略奪から逃れてきた若者たちであり、またボクが初めて眼にするような貧しい暮らしの農民たちの姿である。
 ボクたちの馬を曳いて何キロもの険阻な山道を黙々と歩き続けたタイシーら少年兵たち、そして彼らが時折見せる笑顔からこぼれる白い歯、幼い肩。麻薬のためになど、妻や子と離れてどうしてこんな辺鄙な山奥で暮らしていけるだろう、と淡々と独立への夢を語ったカムクー中佐、そして彼の厚い唇。自分の国が欲しいと熱い眼差しをじっと返してよこしたシャン人の若者、ケシ栽培なしでは生活が成り立たない、と虚ろな目でポツリつぶやいた村長。そのだれもが幸せとは思えない。そしてボクがまだ見ぬシャン州五〇〇万人のアヘンの民たち。 
 これらの人々の頂点にクンサーはいる。彼ら一人ひとりの希望や願望をクンサーはその背に負っている。クンサーはその重い責務をどのように受け止め解決しようとしているのか。ボクには、クンサーと彼を取り巻く人たち、それにシャン州七〇〇万人の人々の行く末を見届ける義務がある。それは十数年ぶりといわれるシャン州潜入を果たし、これらシャン州の人たちの姿に触れ、そのじかの訴えに耳を傾けてしまったテレビ屋のこだわりでもある。
 (略)
 これら過去の例をあげるまでもなく、現在なお麻薬利用は国家の中枢と深い関わりを持ち、国家ベースで動いているのだ。表向きの政治もその本質を探れば暗黒世界の事情と何ら変わるところのない表裏一体の関係だ。麻薬はすなわち国家であるが故に、その持つ意味を、価値を、働きを意図的に覆い隠されている世界なのだ。
 麻薬撲滅へ向けての願いを持つ今、麻薬が本来持っているこうした国家間戦略の構図を具体的に掘り起こし明らかにしていく作業が必要だと思える。
 それらの理由に加えて、クオンさんの死がある。ボクたちの取材がクオンさんら一家を死に至らせたのではないか、との深い悔恨がある。人を殺してはその取材の価値は全くないに等しい、と日本テレビのある上司から厳しく非難されたが、それに対しては弁解の余地はない。しかし、ボクはクオンさん殺害に直接手を下した組織を憎む。そして、クオンさんを殺害しなければならなかった仕組みの、たとえ一端でも鮮明にすることが、いまボクにできるささやかな仇討ちだと信じている。
 結局ボクはBOの申し出を受け入れることにした》

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■戦場カメラマンの馬淵直城氏は、『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造・講談社文庫・1985年)の巻末に「戦場での一ノ瀬君」という一文を寄せているので、読みかえしてみた。いい文章だ。『クンサー』を読んだことで、以前とはちがう視点で馬淵氏をとらえた。

■『阿片』(角川文庫・昭和27年)は、レーモン・ラディゲの死に打ちのめされたジャン・コクトーが阿片に救いを見いだし、解毒治療の過程を克明に綴った自己究明の書である。以前に読んだとき衝撃を受けたのは、訳者の堀口大學の「あとがき」だった。コクトーは解毒治療が成功したのちも、適当に阿片を愛用し、中毒に悩んだ様子はどこにもないという。
コクトーの回想。
「当時の僕は、絶対絶命の窮地にあった。僕は二つの自殺のうち、手軽な方を選んだ」

「 Drug War 」(2002年8月6日)
上記はクンサーを取材したというMK氏のサイトの一部だが、そこから引く。
悪事を働く人間は頭がよすぎる、という人類にとっての不幸がつづく。

《会議で出た情報で注目したいのは、麻薬の主流が、ケシを原料とするヘロインから、化学薬品エフェドリンを原料とするメタアンフェタミンに移行していることである。気候や土壌に左右され見つかりやすいケシ栽培から、エフェドリンさえ手に入れば簡単な機材でどこでも作れてしまうメタアンフェタミンへ、麻薬商人たちは乗り換えつつある。つまり、官憲の手の及ばぬ秘境ゴールデン・トライアングルが麻薬生産の本拠地である必要がなくなったということである。ワ州統一軍などが5年の猶予期間をもってケシ栽培をストップしたとしても、麻薬市場の大勢に影響がないほどにメタアンフェタミンは流通しているという。メタアンフェタミンはゴールデン・トライアングルでも生産されているが、その他にタイ・マレーシア国境近くの無人島などで生産工場が摘発されるなど、裾野の広がりが懸念されている》

■日本の若者に拡がっているドラッグ乱用を考えるとき、『クンサー』を読んでヘロヘロになっている自分が、優雅だとさえ思うのである。
そんな若者と格闘している水谷修という類い稀な人物について、以前から書きたいと思いながら打ち棄てている。近いうちに書くつもりではいる。


〔参照〕
クン・サーのミャンマー政府への「投降」

BurmaInfo――軍事・麻薬問題(メーリングリストがある)

アヘンとケシの科学
上記は「帝京大学薬学部 木下武司」のホームページの一部で、ホームはこちら


〔追記 2006/1/20〕
本エントリーに関する小田昭太郎氏の声を紹介させていただきます。
当の小田氏や閲覧者にとって、はたして意味があるのだろうか、という疑念を抱きつつアップしましたので、うれしく思った次第です。
2006/1/16付けメールより引用。

《クンサーを読んでいただきありがとうございました。またまた遥か遠い記憶の彼方にあった昔の自分に再会させて頂きました。気恥ずかしいけれど、妙に新鮮でした。あんな風に生きていたことがあったのだなあ。わずか二十年ほど前のことですのにね。ほんとうにご苦労をお掛けしました》