2006年02月

2006年02月17日

仲畑貴志編「課外授業ようこそ先輩」

2006/1/25放映の「課外授業ようこそ先輩((NHK総合)は、コピーライターの仲畑貴志氏で、テーマは「見つけよう! 自分の言葉」。
制作 オルタスジャパン。ナレーター 吉田日出子。
仲畑氏には興味をもっていたので、期待感をもって観た。

オープニングシーンとして、つぎのコピーが画面いっぱいにあらわれるのが意表を衝く。

   生きるが勝ちだよ、
   だいじょうぶ。

コピーライター仲畑貴志氏(58歳)は37年間、人の心に届くコピーを創りつづけてきた。これまで手がけたコピーは2000本を超える。

かつてTVで流れたCMが挿入される。
市井のひとというイメージの70代後半の男が、決死の覚悟の面持ちで大車輪を軽々とやってのける。その苦しげな面相と若々しい身体のアンバランスが笑いを誘いつつ、妙な現実感を醸しだす。ひょっとしたら自分にも隠れたパワーが存在するではないかという虚しい錯覚。
リアルタイムでこのテレビCMを観た記憶があるが、なんの広告だったか失念。強壮剤だとしたらブラックユーモアだ。

◆自分にコピーをつける

仲畑氏が教室で、子どもたちの写真をはりつけたパネルをさし示す。全員のパネルを用意していて、ひとりひとりが自分にコピーをつけるのが課題である。

仲畑「上手にいおうと思ってる表現というのは心を打たないし、深度が浅いね。入っていかないよね。ほんとうだと思うことを表現すると、やっぱりいいコピーになるよね」

ここで時計が逆回転する。
番組制作スタッフの問いかけに仲畑氏は、
「どういうふうに気もちが届くかわからないからなあ。まあ、なりゆきだなあ」
といい、右手でステッキをつきながら京都市立新町小学校の門をくぐる。
6年1組34人の子どもたちが待つ教室のドアを開く。一見、リラックスしているようにみえる仲畑氏であるが、緊張感がにじみでている。
教室のドアを開くシーンが毎回登場するようだが、本番組の必須条件なのだろうか。わたしには疑問に思える。

◆もののなかに価値をみつける(仲畑流コピー)

教室にトマトが数コ運ばれる。

仲畑「これ、腐ったトマト。これを広告してみよう。このトマトのどこに価値があるのか。いいなあと思わせにくいよね、腐ってるから。そこをなんとかみんなの力で」

腐ったトマトの臭いに、キャーキャーいう声や、顔をしかめる子どもたち。

男の子「生き物がいっぱいなかにいそう」
女の子「動物のエサになる」
女の子「腐ってもタイの赤さ」
男の子「眠気も覚ますニオイ」
男の子「バツゲーム専用のトマト」(笑)

子どもたちが考えた結果を黒板に書きだす。

仲畑「これは、ぼくはいいと思うんだ、バツゲーム。すごいのは、すでにコピーになってるのね。価値が生まれてるよね。腐ったトマトでも、こういうひとつの視点を変えるだけで生きることができる。マイナスは逆転できるということと、つながるわけだね」

仲畑氏のプロフィールが挿入される。
22歳でコピーライターとなった。
喜怒哀楽を素直に表現してヒット作を連発。
34歳のときに、カンヌ国際広告映画祭金賞受賞。

   カゼは、社会の迷惑です。

   反省だけなら、サルでもできる。

   好きだから、あげる。

仲畑氏のオフィスを訪ねた番組制作スタッフに語っているふうにみえる場面。
仲畑「コピーライターとして狙撃型はカッコいいんだけど自信がなくて、オレは掻堀型。下からザルで掬うやり方なのよ。だから心にいかざるをえないね」

◆実感と共感がある言葉

教室で仲畑氏は、百貨店のポスターを示す。
白いイヌとネコの後ろ姿が仲よくならび、コピーが示される。

   私は、あなたのおかげです。

仲畑「イヌとネコ。これをなんとか仲ようさして。いばっている人ってきらいでしょ。いばってるお店ってきらいじゃない。"私はあなたのおかげです"という人は、つきあいやすい人でしょ。好意的な言葉だということが重要で、実感と共感がある言葉だということになるのね」

仲畑氏の板書→実感 共感

仲畑「実感と共感というのは、ふつうの心のなかにあるわけよ。コピー1コつくるのに、100コくらい、多いときは500コくらい文章書くんだけど、そのなかからこれでいこうと決めるんだけど、結局自分の心に正直にやるしかなくなってくるということでね」

コピーが書かれたパネルを仲畑氏は示す。

   生きるが勝ちだよ、だいじょうぶ。

仲畑「どういうふうに感じる?」
男の子「そういう言葉を聞くと、元気づく、励まされる」
男の子「それをいってもらえると、なごんだり、再出発の気もちを多く感じる」
男の子「"生きるが勝ち"とは、どういう気もちでつくったんですか?」
仲畑「生きるとか生きないということは、むずかしいことなんだけど……」

ここで仲畑氏の顔写真が挿入される。
カード会社のコピーとして、40歳のときにつくった。ノイローゼになり、死ぬことばかり考えていた仲畑氏にとって、自分自身を支える言葉でもあった。

教室の場面にもどる。
仲畑「つらいなあと思うことって、みんなあるでしょ。いろんなときにさ。ぼくも40をすぎたころに、突然ものすごくつらくなっちゃったんだよね。なんだかわからないんだけど。大げさにいえば、生きるのがつらいぐらいの気もちになって、3年ぐらいつづいたんだよね。生きていて、うまくいくことばっかりじゃないし、壁につきあたったりするときに、しんどいなあ、つらいなあと思うときに、だけどまたがんばろうと思いたくて、自分がいってほしい言葉になってるね」

仲畑氏が心情を吐露するのを聞いているひとりの女の子の顔を、カメラがアップ。
うっすらと涙を浮かべながら、その口元は泣くまいとしてがんばっているように映る。それが、仲畑氏に感情移入しているというより、裸の心をみせたおとな(先輩)に対して心を揺さぶられているようにみえた。実際は彼女の体験から共感していたのかもしれないが、わたしにはそのように感じられた。

◆授業1日目の宿題

仲畑氏が、子どもたち全員の写真をはりつけたパネルをとりだすと、笑い声が起こる。
パネルに自分のコピーをつける前段階として、自分のいいところ、願望、いまの自分をみつめて書く、というのが宿題である。

仲畑氏のオフィスに場面が移り、制作スタッフにいう。
「なんか武器をもってほしい。生きていくために、なにかつかまるもの」

スタッフとのやりとりが数回挿入されるのだが、必要だろうか。(スタッフの後ろ姿が映っている)。画がなくて、そういうやりとりがあったということを視聴者に感じさせる演出のほうが、わたしには好もしく思える。
もっとも、あれが仲畑氏のオフィスだとしたら、モノトーン(黒)ですっきりと片づいた空間であるところに、わたしは興味をもったのだが。

…………………………………………………………………………………

授業2日目

◆自分のいいところを考える

授業をはじめるまえに、仲畑氏はスケッチブックに書かれた子どもたちの宿題に目を通す。

教室に入る仲畑氏。1日目よりリラックスしている。

仲畑「人のいいところは、みつけやすいでしょ。自分のは、一番近いのにわかりにくいのは、なんでだろうね」

男の子「自分で考えたときは、いっつもやってることやから、自分でほとんどわかると思ってたんやけど、書いていくうちに詰まったりして、お父さんにきいたりして、客観的にみてはる人のほうが、よくみてはる」

仲畑「自分のいいところを自分が気づかないのは、もったいないよね。松田くんは、どうして長所のところに自分の欠点も書いたの?」

松田くん「いいところを考えているときに、お母さんにぼくの悪いところを聞いて」

仲畑氏が「マイナスとプラスと、どっちが考えやすい?」と問いかけると、「マイナス」という声があがる。テレがあって、自分のいいところは書きにくいかもしれないので、逆をやることにする。

◆自分の悪いところを探す

子どもたちがスケッチブックに書いたなかから、ひとつだけ黒板に書かせる。

仲畑「自信がないとか勇気がほしいというのは、だれにでもあることなんだけど、自分の心の根っこのところの、自分を支えるところが弱いのを心配するわけ。ぼくら齢上のおとなからするとね。マイナスというのは逆転できる。欠点というのは踏み台になってくれることもあるのね。あなたたち、未来がいっぱいある人は、出発点になるから、自信のない人に勇気づける言葉、贈る言葉、そういうものをやってみよう」

◆欠点は出発点――自信がない自分を勇気づける言葉をさがす

カーテンのなかで考えていた西本さん。集中したいという心理のあらわれだろうか。恥ずかしげに、でもちょっぴり得意げな顔でカーテンからでてきて、彼女はいう。
「なんか発表しようと思っても、この答えがまちがってたらどうしようって思って、結局は(手を)あげられへんかったりとか。そういうのを直したいんやけど、なかなか直せへんから」

恥ずかしがりの改森くん。

しっかり者の淺野くんは、友だちを励ます言葉を考える。

仲畑氏は、この3人に対して、それぞれのスケッチブックから核となる言葉を発見し、アドヴァイスする。

制作スタッフに仲畑氏が語る場面が挿入される。
「不器用なほうが、その人の個性をだして、いいのを書いてるね。必ずいいワードがなかに入ってるのがすごいね」

◆発表

黒板のまえに進みでて、自分の写真がはられたパネルを掲げ、自作のコピーを披露する。

〈久保田さん〉
ちょっとの勇気が希望にかわれるから

〈改森くん〉
はずかしがっても何も起こらない。

〈西本さん〉
君達だって主役さ。
――主役が輝いて見えるのは、かげで君達が支えてるからだよ。
        
〈足立さん〉
とびらを開けたしゅんかん元気づけたりはげましてくれる友達がいる。
      
〈湯浅さん〉
あなたも私も地球上で1人しかいないから大切なの。
      
〈淺野くん〉
自分の心に自信を持って心の花を咲かせよう。
      
◆6年1組の子どもたちへ

仲畑氏は子どもたちに、ひとつのコピーを贈った。
黒板に書きはじめる。

   私は、もっと私になれる。
   もっとチャーミングな私がいるから。

仲畑「りっぱに装ったコピーです。そんなにいいものだと思ってもらわなくていいです。残念なことに、ある技術でりっぱなことって書けちゃうんだよね。人間って、そういう怖いとこもあるね。テレビなんかみて、ヘンなおじさんがでてきて、りっぱなことをいっても、ぜんぜん感じないことって、きっと君たちいつも感じてると思う。そのおじさんはりっぱなこといってるけど、そういうふうにみえないということは、なんか問題があるわけでしょ。りっぱな言葉を感じさせるだけの人柄をもってなきゃいけないね。たった2日でなんにもできないんだけど、みんな相当うまくできてるから、1回こういうのをつくったのは、ひとつの記念みたいなものだから、あなたたちの今後のプラスになればよかったと思います。以上です。きょうは、ありがとうございました」

子どもたちの「ありがとうございました」が返ってくるが、感きわまっているのか、滑舌が悪いのか、はっきり聞きとれない。

仲畑氏が教室をでたところに、子どもたちが走り寄ってくる。「なんや、おまえら」と笑いながら、「年寄りを泣かすなよ」という感じでメガネをとる仲畑氏。男の子に話しかける内容から、仲畑氏がそれぞれの個性を把握していることがうかがえる。

校門をでて、解放感に満ちた仲畑氏が、姿なきスタッフに笑顔で語る。
「疲れたねえ。オレ、こんなんもう2度とやりとうないわ。疲れながらも、息苦しいのもあったわ。"心"だから。きつかったです。だけど、よかったです。最高でした。ありがとうございます。失礼します」

  *
  
■西本さんという女の子

番組のラストで西本さんがいう。
「あしたからがんばって発表したりして、変わっていきたいなあと思って」

この西本さんの発言に、わたしは異議を唱えたくなるのである。発表できるようになることが変わることだろうか。西本さんには表現者としての資質があるように思えた。それを伸ばすことのほうが大切ではなかろうか。

余談だが、わたしは小学生のころから、わかった者が挙手して発表するというシステムに違和感があり、わかっていても挙手しなかった。たいていの教師が、誤答をした子どもを否定する点においても納得できなかった。また、教師に当てられて誤答をした子どもを立たせたり、罰を加える教師が多いのにも辟易していた。それらは教えることではなく、単なるチェックにすぎない。
唯一それをしなかったのが、中学校の国語教師だった。彼女はユニークな授業を展開し、誤答をした生徒を肯定し、一方で褒めてもよい生徒を褒めることもなかった。卒業まえにサインをお願いしたら、「よい教師とは、いかに平等に子どもを愛せるかだ」と書かれていた。

■サントリー宣伝部

仲畑氏を最初に知ったのは、『ドキュメント サントリー宣伝部』(塩沢茂・日本経済新聞社・昭和58年)という本のなかだった。そこから引く。

《四十一年に京都の洛陽工高を出て、青果市場の店員などを経験したあと、サン・アドのコピーライター募集に挑戦、合格して開高、山口らに仕込まれ、売れっ子になった。だが、仲畑は「事務所や講座で覚えた技術より、店員時代のタコ部屋のような寮で、さまざまな人間と寝食をともにして、いろんな生き方と接した」経験こそ、コピー哲学の「広告することは人間を語ること」の根源になっている、と述懐する。トリスのテレビCM「雨と犬」で、一九八一年度カンヌCM映画祭グランプリを受賞している》

上記にあらわれている仲畑氏の人間観と、授業の最後に子どもたちに贈ったメッセージは符号する。
「カゼは、社会の迷惑です。」というコピーが仲畑貴志作だということを本番組で知った。感冒薬の広告だったと記憶している。
このCMがTVで流れたとき、わたしは「なんというセンスの悪いCMをつくってくれたのか」と驚愕した。いまもその想いに変わりはない。なぜなら、社会で忌みきらわれ排除されている被差別者の存在を、瞬間的に想起したからである。邪推だろうか。
いずれにしても、わたしはこの仲畑氏のコピーだけは、いまでも感心しないのである。
仲畑氏がこのコピーに込めた想いとは、なにだったのだろうか。
蛇足だが、わたしが観たいのは多田琢氏(CMプランナー・1963年生まれ)の「課外授業」である。

昭和58年(1983)、サントリーローヤルのランボーのテレビCMをみたときの衝撃を、わたしはいまでも鮮明に憶えている。感じのいい音楽が鳴り、「アルチュール・ランボー あんな男ちょっといない」というコピーだった。
こんなCMをつくってもいいのか、と驚愕しながら感心した。このCMがサントリー宣伝部を二分したという書評を読み、上記の本を読んだのである。
本を読んだあと、わたしはサントリー宣伝部に手紙を書き送った。いままで企業に手紙を書いたのは、これきりである。それほどランボーのCMが斬新だったのである。
しばらくして、サントリー宣伝部から返信がきた。女性らしい文章で、冒頭に「あれは外部の人間の書いた本ですから」という感じの体温の低い文章だった。末尾に「サントリーの商品をご愛飲ください」とあったのは、わたしがエビスビール(生の瓶入り)を買っていると書いたからだった。

■「BSふれあいホール 出会いのコンサート」

BS2で1/24〜1/26に放映された辛島美登里編は、オルタスジャパン制作らしいが、クレジット表記はそうなっていなかった。
3回とも愉しめたが、最後の回が最もよかった。

「鳥の歌」
 オカリナ奏者 宗次郎
 
「明日も会えるように」
 詞 辛島美登里
 曲 千住 明
 
「サイレント・ラブ」
 詞・曲 辛島美登里
 編曲  千住 明
 
「鳥の歌」は好きな曲なので、はじめて聴くオカリナの演奏もよかった。
「サイレント・ラブ」は、辛島の歌、千住のピアノ、宗次郎のオカリナが絶妙の世界を醸しだしていた。千住明には注目しているので、活躍を願っている。

「プロフェッショナル 仕事の流儀」

NHK総合の「プロジェクトX」のあとにはじまった新番組である。テーマ曲もいいし、意欲的な番組だが、NHK内部にプロフェッショナルを感じさせてもらいたいと、つい思ってしまう。正直なところ、いまの会長の顔をみていると、いつも暗い気分になる。トップを本番組に登場する人間のような挑戦的な顔に変換しないと、視聴者の支持は得られないだろう。

2006/1/31に登場したアートディレクター・佐藤可士和氏の発想はおもしろかった。いまの時代感覚を磨いている人物のひとり。佐藤氏のオフィスもシンプルで、見事に片づいていた。
同じ広告の世界に生きる仲畑氏と佐藤氏を比較して、考えを巡らした。

すみきちのキャスターコラムがおもしろい。モギケン(茂木健一郎)より、柔軟な脳を感じる。



2006年02月14日

世界 時の旅人「サガン その愛と孤独」〜瀬戸内 寂聴」―後篇

◆サガンと寂聴の対話

寂聴は1973年、51歳で出家、得度。
1978年、サガンと対話したときの映像が再び流れる。

寂聴は当時の映像を懐かしそうに観ながら、うれしそうに語る。
「このあと、もっと話しましょうというんで、場所を変えてカメラに映さずに気楽に話したとき、なぜ出家したかという話になりまして、この人にはいわなきゃあと思って、一生懸命に話したんですよね。そしたら、よくわかった、いまのあなたが羨ましいわ、っていったんです。とてもうれしかったですね」

サガンはこのころ薬物に依存するようになっていた。80年代の後半から両親や親友が相次いで亡くなり、サガンは精神的に追いつめられてゆく。
ここで1葉の写真がアップになる。
サガンは面やつれし、全身の神経が露出しているような感じで、正視できないくらいに傷ましい。わたしは眼をそむけたくなるのに抗しつつ凝視した。
なお寂聴は当時56歳ということになるが、いまのほうがいい顔をしている。

◆1988年3月18日付「ル・フィガロ」紙
【麻薬 サガンをめぐる論争】

サガン 30人もの検挙リストの中でメディアは私だけを話題にしています。

――麻薬の所有を認めるんですね。

サガン ええ。でも私の個人的な問題ですから。

◆ジュネビーヌ・モルさん(サガンの伝記を書いたジャーナリスト)

サガンが生前よく通ったカフェ、フフェ・ド・フロールで、寂聴はモルさんから話を聞く。

【モルさんの話の要約】

・若くして有名になり大金を稼いだことで、自由をはばむ障壁をすべてとりのぞいた。無制限の自由が叛乱を起こした。

・最後のインタビューで「とんでもない生活を送ってきたわね」というと、サガンは「そうよ。でも仕事もたくさんしたわ」と答えた。

・サガンは小さいときから、すでに他の子どもとはちがっていた。(伝記に掲載されている9歳のときの本を読む写真を示しながら)彼女はこの写真のなかで完全に外の世界と切り離されている。これこそフランソワーズ・サガン。彼女は自分以外であることができなかった。

・彼女はまず作家であり、その生活は小説を書くためにあった。

・彼女があなた(=寂聴)を羨ましく思っただろうということはわかる。なぜかというと、彼女はあなたのように、こころの安らぎをみつけることができなかったから。サガンは心配性で、いつも不安にかられていた。孤独や沈黙、倦怠をすごーく怖がって、ひとりではいられなかった。おそらく書くことが唯一彼女の背骨になっていたのだろう。

1994年、59歳のサガンははじめて死をモチーフにした作品『愛をさがして』を発表する。永年のアルコールや薬物依存でからだが蝕まれ、歩くこともできなくなってゆく。

◆イクグリッド・メシャラムさん(サガンの友人)

オンフルール――ノルマンディー地方の小さな港町。サガンが亡くなるまでの4ヵ月間をすごした別荘は、港からすこし離れた森のなかにあった。サガンは若いころカジノで得た1億6000万円でこの別荘を買った。この土地を気に入り、1年のうち3ヵ月は必ず訪れていた。
最後の作品を書いたのは1998年。
負債をかかえたサガンがこの別荘を差し押さえられそうになったとき、メシャラムさんが買いとり、無償で住まわせた。
(メシャラムさんは微笑をたたえた、うつくしく上品な女性である)

メシャラム 瀬戸内さんはフランソワーズにお会いになられたのですよね。

瀬戸内 1度しかお会いしなかったんですけれども、とてもいいかたで懐かしくって、大好きになりました。

メシャラム そうでしたか。何か通じ合うものがあったのでしょうね。

寂聴がメシャラムさんに案内される部屋の様子をカメラが追う。変えたのは絵画の位置くらいで、すべてが当時のままに保存されている。

狭かったので、寝室からトイレに行くときにこすった車イスの痕が壁に残っている。
サガンの寝室にかけられている絵は、お気に入りの1枚。彼女は船が大好きだった。最後の4ヵ月、サガンはこのベッドに寝たまま、新しい小説の構想を書きつけた。このときの写真がアップになる。老いたサガンだが、微笑を浮かべているのに救われる想いがする。

カバーもかけずに並べられた洋服。

陽あたりのいい居間を書斎がわりに1日の大半をすごした。お気に入りのクッションには自らが書いた小説のタイトルが刺繍されてあった。そのそばには、かつて世界中に翻訳された著書が無造作におかれていた。

サガンが仕事をしていた机。物にはあまりこだわらない人だったと、メシャラムさんはいう。
タイプを打つ力を失ったあともサガンが使っていた筆記用具。「わたしにはたくさんの主人公が待っている」とサガンはいっていた。

寂聴はサガンのタンスを撫でる。それは心身ともに病んだサガンを、いとおしむように映る。
タンスに背をくっつけるようにして、寂聴は白いハンカチで眼や鼻を押さえつつ、涙声で絞りだすように語る。

「なんか、ほんとに胸が一杯になってきた。かわいそうで。もっと書きたかったでしょうね。物は残さないでいいというふうに思ってたんですけれども、やっぱりこういうふうに残されているものをみると、本を読んで感じるものとはまたちがったものを感じますね。(略)
物に囲まれているけれども、そしてああいうやさしい友情に守られているけれども、でも、彼女はとても孤独だったと思います。物のあることが、かえって彼女の孤独を語っているような気がします。
人間て、いつ死ぬかわからないし、どういう死に方をするか、死を選ぶことはできません。もう運命で、ある日死んでいくんですけれども、その人の生き方というものは、精一杯自分に忠実に、自分のしたいことをして、矢折れ刀尽きて死んでいくときに、成功しようが成功しまいが、そういうことは問題じゃないと思います。文学を選んだ以上、その道一筋に書きつづけ、世評がどうであろうと、書きつづけて死んでいったサガンというものを、あらためてきょう、とっても強く感じました」

2004年9月24日、フランソワーズ・サガン死去。(享年69歳)


◆カジャール

サガンは両親と兄の元に眠っている。
1字の銘もない白い墓。
寂聴がまとう僧衣の黒がうつくしい。サガンと対話した当時と較べて、僧衣がからだの一部のようにぴったりしている。
墓石に右手を置き、左手に数珠をもち、頭をさげて祈る寂聴。
それにしても寂聴のさくさくした足どりは、82歳とは思えぬほど達者だ。

  *

本番組は映像でしか表現できない世界を描いている。
サガン(1935〜2004)の意外な晩年をみせつけられたことで、わたしはデュラス(1914〜1996)を想起した。
デュラスの作品をわたしはほとんど読んでいる。「愛と孤独」というサガンとの共通テーマがありながら、まったくちがう生き方をしたふたりを対比させると両者に迫れるように思う。
寂聴はデュラスについても文章を書いていたけれど、サガンに対する愛の深さを本番組で知った。

  *

【知るを楽しむ――水曜日 なんでも好奇心】(NHK教育)で、2005年12月に4回にわたって放映された「世阿弥の佐渡を歩く」も秀逸だった。これも瀬戸内寂聴が案内役で、同じくスローハンド制作である。
古海裕子のナレーションがとてもよい。

余談だが、【知るを楽しむ】はわたしの知人(NHK職員)が新番組の開発にかかわったらしい。
彼は好奇心が刺激されると、瞳がきらきらと輝く。教養の塊のような人間なので、彼の額を眺めながら「このひとの前頭前野はどうなっているのだろうか」と想像した記憶がある。
かつてディレクターだった彼は、わたしにこう語った。
「給料をもらったときに、千分の一の割合で、こんなおもしろい仕事をしていて、お金をもらってもよいのかと思う」
わたしが「どうしていまのお仕事を選ばれたのですか?」と問うと、困惑ぎみの顔つきで「なんかずるずると……」という答えが返ってきたのが、わたしは気に入ったのだった。

ところで【知るを楽しむ】は、曜日ごとにテーマが分かれていて、25分×4回という細切れなので、ちょっと疲れる。2夜連続として放映してほしい。
中村幸代のテーマ音楽が、太鼓のように好奇心を刺激するので、いつも妖しい気分になる。




世界 時の旅人「サガン その愛と孤独」〜瀬戸内寂聴」― 前篇

昨夏、なにげなくTVをつけると興味深い番組が映った。偶然にもBS2にセットされていたのが幸いした。
世界 時の旅人「サガン その愛と孤独〜瀬戸内寂聴」である。秀逸だったので録画しておきたく、再放送を願っていた。2005/11/22にBS2で再放送されたので、録画することができた。
(2005/4/29にNHKハイビジョンで放映されたのが初回)

NHK臭も含めて、さすがNHKだな、といいたいところだが、スローハンド制作である。

全体的にクラシック音楽が効果的に挿入されているのに感心した。サガンはジャズが好きだったらしいが、本番組の格調高いトーンにはクラシックが合う。主にピアノで、一音、トランペットが驚きを強調するために鳴る場面があった。
夏木マリのりきんだ語りはイマイチだったが、本田貴子の朗読(サガンの小説の一節)にはしびれた。じつにいい声だ。

フランソワーズ・サガンは2004/9/24に69歳で亡くなった。本名、フランソワーズ・クワレーズ。そのニュースを知ったときはショックだったし、69歳という年齢に感慨があった。わたしのなかでは、18歳のときに書いた処女作『悲しみよこんにちは』の口絵写真のサガンが脳裡に焼きついている。"少女"というイメージは、わたしにとってはサガンのこの写真以外には考えられない。ちなみに森茉莉は自分のことを"少女"だと認識していたらしいが、その容姿がわたしには受け入れられず、醒めた気分になる。森茉莉の作品は好きだし、人間性に興味もあるのだが。
わたしは"文学青年"を識別できるが、なぜか"文学少女"を識別できない。唯一"文学少女"を感じるのがサガンの容貌とほっそりした肢体である。日本人で強いて挙げるとしたら、久坂葉子だろうか。

幾度も読みかえした新潮文庫の『愛と同じくらい孤独』(インタビュー集)の表紙写真は上記の口絵写真と同じだがポーズが異なる。
モーリヤックがサガンを評して「小さな悪魔」といったらしいが、そんなイメージとは裏腹なサガンの孤独感が、謎としてわたしにつきまとっていた。
サガンのすべての小説を読んだわけではないが、やはり処女作にサガンの本質が貫かれているように思える。

サガンの死の直後、2004/9/30付け朝日新聞夕刊に作家・小池真理子氏が追悼文を寄せている。そこから引く。

《真の洗練とは、人生における否定的要素をいかに軽やかに表現できるか、ということに尽きると思うが、サガンは絶望や孤独、裏切りや心変わり、人生の悲劇をあくまでも淡々と、突き放すようにして優雅に明晰に描き続けた。私にとっては目を見張るばかりの新鮮な作家であった》

上記の記述が吹きとぶほど、晩年のサガンが孤独地獄に陥っていたことを、本番組は提示している。
晩年のサガンに冷徹な光を当てているのを評価したい。

瀬戸内寂聴(2005年当時82歳)にとって、サガンは永年憧れつづけてきた女流作家だった。
27年まえに出逢ったときの映像が流れる。
1978年9月10日、サガン43歳、寂聴56歳。
『悲しみよこんにちは』が世にでたころ、寂聴(当時は晴美)は32歳。サガンとの比較年表を寂聴は作成。
『悲しみよこんにちは』の印税は5億フラン(360億円)。生活は一変し、毎晩のように上流社会と交流。アルコール依存症。カジノで億単位のお金を使う。最初の結婚は20歳上の出版社の大株主で、サガンが口説いた。2番めの夫は彫刻家で、離婚。
寂聴は、サガンが生きて書いた証しを全身で感じたくてフランスへ。
サガンとかかわりの深い人物に逢うことによって、その内面に迫るという番組構成になっている。

◆ドニ・ウェストホフさん(42歳)

2番目の夫であるロバート・ウェストホフとのひとり息子で、離婚後も成人するまで一緒に暮らす。サガンは28歳のとき出産。目元がサガンによく似ていて、好青年という感じ。
彼と寂聴は、サガンが18歳まで暮らしていた家を訪ねる。彼は語る。成功してからはひっこしを繰りかえした。10回〜12回。環境を変えることが好き。鳩が嫌いで、窓から空気銃で狙い撃ちしていた。脅かすだけ。
つぎに1970年代、40代半ばのころ暮らした家を訪ねる。家賃100万円、3階建ての一軒家。中庭は当時のまま。サガンは小さな庭が気に入っていた。この家には各界の著名人が夜ごとやってきた。友人たちを招く。マーロン・ブランドも。家のまえにはカメラマンが押しかけていた。
「母は健康がすぐれず、金銭的にも多くの問題を抱えていました」

つづけてひとり息子である彼は語る。
母の相続人になるかどうかは、まだ決めていない。晩年はあまり仕事をしていなかったので、国税局から莫大な額を請求されている。相続人になると、権利と同時に借金も相続することになるから。そのうえ、作品の管理をきちんと行っていなかったため、その情報の収集だけでも苦労している。
遺言はおそらくないだろうが、まだわかっていない。母に対してもっている愛情や想い出と相続上の問題とを切り離して考えることは、とても重要なことだ。母の想い出はかけがえのないものだから。

晩年のサガンの姿を、寂聴は知らなかった。

◆アンドレ・ロックさん(72歳)

パリから南へ500キロ。山あいの小さな村カジャール。サガンが幼いころをすごした生家。石造りの家。村で暮らしているサガンの幼なじみが証言。
かわいかった。おてんば娘。当時の写真は、男の子ばかりで、女の子はサガンひとり。よく戦争ごっこをした。
のどかで静かな空気。幸せな少女時代。
9歳のとき、両親とともにパリへ。

◆フローレンス・マルローさん(72歳)

アンドレ・マルローの娘。サガンが亡くなるまで交際がつづいた。
18歳のとき同じ高校へ通っていた。サガンはヘンにつっぱるわけでもなく、だれよりも自由で、本のことしか話さない。プルーストを完読していた。当時のふたりはそっくりで、見分けがつかない。ふたりとも、子どものとき戦争を経験している。
フローレンス・マルローさんのサガン評。
「とてもかわいらしく、おどけた少女でいながら、齢を重ねて学んだのではなく、18歳ですべてを知っていたのです」

五月革命(1968年)

狭い上流社会を舞台にして恋愛小説を書きつづけるサガンに批判が浴びせられる。そんな声に対し、サガンはこういい放った。
「わたしは貧困や金銭的な難問題を経験したことがない以上、自分の知らない、あるいは自分が直接感じたことのない社会問題を語ったりして、うまく金儲けをすることはしないと思うのです。わたしの作品にはテーマがふたつあります。たしかにいつも同じです。恋愛と孤独」
                                       (つづく)









2006年02月07日

ハムスターの死  【エッセイ】

 娘が中学1年生のときだから、いまから11年まえに遡る。同じクラスの友だちが飼っているジャンガリアンハムスターが子を生んだので、1匹譲ってもらうといいだした。わたしの家族は息子を含めて4人なのだが、わたし以外は動物好きで、以前にイヌを飼うという話がもちあがったとき、わたしは真顔で宣言した。
「イヌを飼うのなら、わたしは家をでてゆきます!」
 自分が動物と生活を共にするということを、わたしの生理的感覚はどうしても許容できない。ちなみに花を家のなかにに置くのも好まない。花は呼吸していて刻々と変わってゆく、そういうなまなましい存在が身の周りにあるのは、どうにも息苦しいのである。もちろんそれらを客観的に眺めるぶんには問題はない。生活空間に存在されるのが困るのだ。

 ハムスターの場合はケージに入っているし、当時住んでいた家が、和室以外の部屋がすべてフローリングであったという点でわたしは妥協した。絨毯敷きの部屋で動物を飼うのは、潔癖性であるわたしの神経に障るのである。幸いにも娘の部屋はベランダに面していて陽あたりがよく、8畳近い大きさだったので、ハムスターにとっても好条件に思われた。わたしは人間のつごうで動物が不幸になるのが許せなくて、動物園で動物をみるたびに、はたして彼らは幸福なのだろうかと、子どもごころに考えたものだ。
 ひとつだけ娘に約束させたのは、自分で世話をすること。娘の性格からして、持続力に欠けることが懸念されたからである。
 
 数日後の日曜日、娘は近くの百貨店Iでハムスターを飼うのに必要な品を買いそろえ、意気揚々としていた。わたしはハムスターに腫瘍ができやすいということを知っていたので、そうならないことを願いつつ、まずは書店で『ハムスターの飼い方』という本を買い求め、最低限の知識を身につけた。
 いよいよジャンガリアンハムスターがやってきた。家族全員が興奮し、わたしもかわいいなと思った。いそいそと世話をしていた娘だったが、1年近くたつと、ケージ内の掃除を怠るようになり、ついにエサを買うのも怠るようなったので、わたしがエサを買ってきていた。が、掃除をするためにはハムスターに触れなければならないので、どうしてもできない。娘に幾度も掃除をするよう催促した。砂漠からやってきたハムスターは、トイレの砂を新しくすると、全身砂まみれになって気もちよさそうにした。
 飼っていたハムスターは本に書かれていた好物と必ずしも合致しなくて、ゆでたブロッコリーやほうれん草の茎の部分が好きだった。そのうちにわたしが娘の部屋のハムスターのまえを通ると、ケージにしがみついてなにかを訴えるポーズをするようになり、わたしにはそれがゆでたブロッコリーを求めているように映ったのである。

 ある朝、娘が起きるやいなや、ハムスターが脱走したと騒ぎだした。普段は我関せずの息子も娘と一緒に探しはじめ、息子の部屋の収納庫のなかにいるのを発見した。隙間から進入したのだろうか。小さなからだで、家のなかを縦断したかと思うとおかしかったし、やはりケージのなかで生きるのはいやなのかと思ったりした。6時半には家をでていた高校生の息子が8時に家にいたということは、試験中だったのだろうか。
 遅刻した娘は、中学校の先生に理由を問われ、「ハムスターが脱走したので探していました」というと、納得してもらえたというのを聞き、大笑いした。

 ある日、わたしはS百貨店でハムスターのエサを買ったとき、ワラ製の巣箱とグレーの陶器のエサ鉢が気に入り、思わず買い求めた。帰宅して、さっそく新しいものと交換した。するとハムスターは発狂したかのように巣箱の縁を走り回り、エサも食べない。それをみた娘もわたしも驚愕した。すぐに古いものと交換したのだが、「刷りこみ」とはこんなにも激しいものだったのか。自分の浅はかさに嘆息した。

 ハムスターが生まれてから2年になろうとしていたころ、午前1時ごろになると回し車で遊ぶ音が娘の部屋から聞こえてくるのが途絶えた。
 わたしは深夜のリビングにひとりでいて、なにもしないでぼうっとした時間を1時間ほどすごすということで、かろうじて自己を再生していた。そんな時間帯にその音を耳にしていたのである。低血圧のわたしが毎朝、5時半に起床し、雑事に襲われる日常だったから、早く就寝したほうが身のためなのだが、そうすると、わたしのなかのなにかが壊れるのである。この性癖はいまでも変わっていない。ただし、いまは5時起床を余儀なくされている。
 数日後、ハムスターは巣箱からでなくなった。エサに困窮したDNAのせいかと思えるほど、エサに対してガツガツしていたのに、なにも食べなくなった。わたしは以前に喜んで食べてくれたチーズケーキを買いにケーキ屋に走った。鼻先にチーズケーキを置いても、巣箱からでてこないのを娘と眺めながら、わたしは「ほら、大好きなチーズケーキだよ!」と幾度も叫んだ。すると大儀そうに頭だけだし、ケーキの表面をペロッと舐めただけで、奥にひっこんでしまった。
 わたしはハムスターの死が近いことを悟った。

 数日後の朝、目覚めた娘が悲鳴をあげた。
 ひっそりとハムスターは息絶えていた。
 ケージを開け、ハムスターを巣箱からだそうとした娘が、死後硬直のためそれが不可能になっていることを知り、泣きじゃくっている。わたしは、はじめてハムスターに触れ、巣箱からとりだすという役まわりになった。 枯れ枝のような無機質な感触が、ただただ哀しかった。
 娘に請われてわが家にきたハムスターだったが、娘は十分な愛情を注がなかった。幸せだったのだろうか。腫瘍もできず自然死したことに、わたしは深く安堵していた。
 整体の創始者である野口晴哉氏によると、死期が近づいた動物は、だれもいない場所に移動し、食を断っていのちの終わりを待つという。近親者に手をとられながら死んでゆくのは人間だけだと。
 たしかにハムスターは見事に小さな生を了えた。そのことにわたしは感動をおぼえていた。

 2週間ほどが経過したころ、わたしは野菜売り場に立ち、ブロッコリーをとろうとした手がはたと止まった。――もうハムスターはいないのだ。家族のためではなく、ハムスターの喜ぶ姿がみたくてブロッコリーを買おうとしている自分がいた。わたしは、にわかにそれを買う気力を失い、野菜売り場から離れた。
 いまでも時折ハムスターを懐かしく想いだす。エサをガツガツ食べている元気な姿を、そして見事な死に様を。
 わたしのこころの片隅に、いまもハムスターは棲みつづけているのかもしれない。
 
 
 

miko3355 at 21:43|この記事のURLTrackBack(0)小品