2006年05月

2006年05月30日

NHKが永田氏・長井氏を左遷

2006/5/27付け朝日新聞に小さな記事をみつけた。 永田氏、長井氏に対する不当な人事異動である。

01年に放送直前に改変された番組のチーフ・プロデューサーだった永田浩三・衛星放送局統括担当部長が、ライツ・アーカイブスセンターのエグゼクティブ・ディレクターに、担当デスクで内部告発した長井暁・番組制作局教育番組センターチーフ・プロデューサーは放送文化研究所(メディア研究)主任研究員に異動。

◆「NHK受信料支払い停止運動の会」が永田浩三氏、長井暁氏に対する不当な人事異動を止めるよう求める緊急の申し入れ書を2006/5/26付けでNHKに送付した。全文はこちら

◆「情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士」
2006/3/31のエントリーから、永田浩三氏の法廷での証言を引く。

「我々を律しているルール,放送に携わる人間を律しているルールというのは幾つかあるんですけれども,もし2つ挙げるとすれば,真実を希求する不断の努力ということ。これは野球をやる方がボールを追いかけたり,山登りをされる方が山の頂を目指すのと同じぐらい当たり前のこととしてあって,私はそのことを大事に思ってやってきましたし,若い人たちにも,真実というものを追い求める仕事なんだというふうに言ってきたわけです。もう1つ,やはり声を挙げられない人のことを我々は大事にして,放送という形でそれを紹介していくと,立場の弱い人のために放送はあるんだというふうにずっと信じてきましたので,そのことの2つに照らし合わせてみて(みるならば),(松尾放送総局長や伊東番組制作局長は)彼ら(慰安婦)が言っていることが信憑性がないという判断でしたけれども,それをご本人の前で本当に今でも言えるのかということを申し上げたい。やはり,弱い人の立場に立って,やる仕事というのを,根本的に毀損する判断だったんじゃないでしょうか」

上記の永田氏の発言は、番組制作者として至極まっとうだ。
なお、朝日新聞の本田雅和記者は、ことしの4月、「アスパラセンター」に異動したという。
これらの動きに慣れてしまうわれわれの感性が怖い。
長井氏が内部告発をした直後、紙媒体に属するジャーナリストが、ラジオで長井氏の左遷を当然のように予想していた。わたしはそのことに、激しい違和感を感じたのだった。






BSドキュメンタリー「国境地帯の避難民を救え〜シンシアと国際医師団〜」

06/05/27(12:10〜13:00)、BS1放映の「国境地帯の避難民を救え〜シンシアと国際医師団〜」(再放送)を観た。制作・アマゾン。語り・昼間敬仁。

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〈NHKのHPより番組案内を引用〉

 ミャンマーと国境を接するタイ西部のジャングル地帯。ミャンマー軍事政権下の経済危機を逃れて市民が国境を不法に越えている。その数は200万人とも言われ、ジャングルの中で飢えと病気に苦しんでいる。
 この大量の避難民に対して無料で医療を施している診療所がある。ミャンマー人の女医シンシア・マウンさんが率いるメータオ・クリニックだ。自らも避難民であるマウン医師は17年前、人々の惨状に接し、この地に踏みとどまって小さな診療所を開いた。彼女の意思に共感し世界各国から無償のボランティアたちが集結。今では医師8人、スタッフ100人余りが毎日300人を越える避難民の診察に当たっている。
 数々の賞に輝き国際的な評価を得ているクリニックの活動だが、乏しい資金と貧弱な設備の中、救える命を救うことが出来ず厳しい現実に立ち尽くすことも多い。必死の医療活動を続けるスタッフたちの姿を定点取材した。


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重いテーマの本番組を観るだけの精神力に欠ける状態だったので、途中でやめるつもりで録画を観たのだが、最後まで見入ってしまった。過剰なナレーション・音楽・テロップがないので、映像が脳裡に焼きつく。
NHK臭さのない自然なカメラワークが心地よい。
一方で、BBCなら同じテーマをどのように撮るだろうか、という余計なことも考えた。
こういう番組を観ると、TVというのはいいものだなあと思う。わたしのような無知な人間にとって、知らない世界を知り、それを契機に考えさせられることが多い。

シンシア医師の表情がいい。淡々としていて寡黙である。弛緩した表情の人間が多く登場し、空疎な言葉を垂れ流すTV画面を日々眼にしているので、とても新鮮だ。
シンシア医師は自宅で10数人の孤児を育てている。彼らを実際に生んだといわれてもおかしくないほど、彼女は豊かな体躯である。
野菜がたっぷり入ったチャーハンをつくって食べさせている映像が流れた。ふつうのお母さんという風情だ。医師として活動しているときと、チャーハンをつくっているときの彼女の表情・動きが同じにみえる。
常に自然体なのだろう。

とくに「バックパック診療活動チーム」の映像には瞠目した。国内避難民を診療するために編成されたチームが、それぞれ20キロ(と記憶している)のリュックを背負ってジャングルに入ってゆく。

ラストは、無料診療所「メータオ・クリニック」での出産シーン。
本番組に限らず、わたしは出産シーンを観るのが嫌いだ。ワンパターンの撮りかたも気に入らないし、女性が誇らしげな顔で出産に臨んでいるのに閉口する。すべての動物が行なう出産に対して、人間を特別扱いするのに抵抗がある。
わたしの感覚がおかしいのだろう。この世に誕生することがそんなにすばらしいことなのか、という懐疑からわたしが解放されていないからにちがいない。

しかしそんなわたしの勝手な思惑は、この「メータオ・クリニック」では通用しない。
国籍のない親から生まれた子は出生届けをだせないが、それでも出生証明書を発行しているという。人間の尊厳を、悲惨な生活のなかで貫こうとする思想のあらわれである。
マラリアと栄養失調の蔓延した世界で生命が誕生しているにもかかわらず、奇妙な明るさが漂っているのはなぜなのか。

本番組から、日本では妙な動きがある愛国心について考えさせられた。
番組では触れなかったが、日本は難民支援に熱心ではないらしい。
シンシア医師のように多様な民族の価値観を尊重できる人間が、真の愛国心をもてるのだろう。


〔参照〕

ビルマにおける紛争・地雷・医療

シンシア・マウンさん

「アリンヤウン」(ビルマ市民フォーラム ニュースレター 特別号 2002年10月発行)――ドクター・シンシアに聞く  文:山本宗補(ビルマ市民フォーラム運営委員)


「メータオ・クリニックに見るビルマの現実」(タイ・ビルマ国境の無料診療所) [週刊金曜日2002年8月2日号掲載] 写真・文 山本宗補

  




2006年05月22日

ザ・ノンフィクション「愛と笑いをください」

日曜日/14:00〜15:00/フジテレビ放映の「ザ・ノンフィクション」という番組は、NHK放映のドキュメンタリーにはない泥臭さを買っているので、よく観ている。
2006/01/12放映の「司馬遼太郎が小学生に託した日本」は秀逸だった。NHKで放映されてもおかしくない内容だったのが異色。制作協力・ドキュメンタリージャパン。

2006/05/07放映の「愛と笑いをください〜女子高生漫才子育て記 別れの舞台〜」は、制作協力・オルタスジャパン。語りは宮あおい。
なお細かいことだが、「愛と笑いをください」はいいタイトルだが、新聞の番組欄には記されていない。それをみてわたしが録画するかどうかの判断をしているということもあり、大切な要素ではないかと思う。
本番組に限ったことではないが、最近の番組制作の常態として、過剰なナレーションとテロップには閉口する。観る側の想像力のなかで自由に遊ばせてほしい。そこまでの"親切"をしないと、視聴率が下がるのだろうか。

オープニングシーン

番組のトップで主要な場面の映像とナレーションが流れる。これはどのような効果を狙っているのだろう。わたしは観る愉しみが削がれてしまったので、不必要に思えるのだが。

漫才コンビ「たんたん」

2005年春、スタッフははじめて姉妹漫才をしている姉の夕佳さん(19)と妹の有希(18)さんを訪ねた。ふたりは大阪市淀川区で同居している。
小学生のころ両親は離婚。施設で暮らすことになった日、ふたりの眼を釘付けにしたのは漫才だった。

有希 「半年ぶりぐらいにメッチャ笑った。こんなにどん底でも笑うことってできると、はじめて思って。ほんま幸せな気分になった、あのとき、ふたりで」

ふたりは「なにがなんでも漫才師になろう」と決意し、大手プロダクションの養成所に通う。
2004年、「新人お笑い尼崎大賞」で大賞受賞。
コンビの名は「たんたん」。虎視眈々と幸せをつかもうという願いがこめられている。
ふたりの大きな目標は、高校生のお笑い選手権「M-1甲子園」に優勝すること。一昨年、決勝戦まで勝ち進んだのに、姉の夕佳さんが学費滞納のために高校中退していたことがわかり、失格になってしまった。高校生らしく、お得意の遅刻ネタで挑戦。妹がつっこみ、姉がぼける。ときどきお姉ちゃんが天然ぼけ。ネタも台本もふたりで考え、稽古しながら練りあげていく。

姉の夕佳さんは、2005年3月9日に乃海(のあ)くんを出産後、4月に通信制高校に入学。妹の有希さんは同じ高校の定時制に通う先輩。これで晴れて「M-1」に出場できる。
(番組のトップシーンで、出産の映像が流れた)

乃海くんは、生後3ヵ月をまえに首がすわった。夕佳さんは乃海くんが昼寝をしている横で、内職(お灸のもぐさを1つ詰めて30銭)をしながらいう。
「大学までわたしが出してあげようと。一応ですよ、思ってますから」

スタッフらしき男性がその理由を訊くと、女子高だったこともあり、親に甘えられるクラスメートが羨ましかった。乃海くんにはそんな想いをさせたくないからだという。

姉の夕佳さんが外出するときは、妹の有希さんが母親役に回る。でもケンカはしょっちゅうで、夫婦ゲンカみたいな感じ。すぐ怒る姉。すぐ謝る妹。

夕佳さんのボーイフレンド

2005年6月、姉の夕佳さんに、中谷公太くん(19)というボーイフレンドができた。実家は奈良県。いまは大阪のお姉さんの家から通っている。悲しい恋のはじまり。

2005年8月、中谷くんが住みこみ、子育てをしている。どうも夕佳さんが誘ったらしい。夏休みになって、いつも一緒にいる中谷くんに乃海くんもなついている。妹の有希さんも4人の暮らしを認めている。
中谷くんは母子家庭で育ち、父親の記憶がない。

中谷 「いいお父さんになりたいという気もちが強いんですよ」

「M-1甲子園」予選会

「M-1甲子園」予選会前日、3分のもち時間内に、何度繰りかえしても収まらない。ふたりはイライラをぶつけあう。愛する乃海くんのためにも、夢のデビューをしたい。

予選会当日、緊張している姉の夕佳さんに対し、悠然としている妹の有希さん。ネタの時間はなんとか3分に詰めた。あとはプレッシャーとの闘い。
しかし予選合格者に「たんたん」は入らなかった。
帰宅して今後についてふたりで話しあっているところへ、テレビ局からの出演依頼が携帯へ入る。深夜放送での路上ライブ。

不器用な恋

実家に夕佳さんを連れてゆき、母親に逢わそうとする中谷くんの気もちがうれしいのに、夕佳さんは決心がつかなかった。

中谷 「夕ちゃんはぜんぜん自分の家族とか大事じゃないし、いつでも切れるっていうけど、オレは無理やなあとか。家族に対しての価値観がちがうから」

夕佳 「元々ないぶん、わたしは依存心がないんですよね、家族に対して。やっぱそんなひともみてこなかったし、男のひとで」

ほんとうは彼のやさしさに思い切って飛びこみたい。でも、これまで親からも恋人からも裏切られてきた夕佳さんは、怖くて飛びこめない。「帰ってくる時間を教えて」というのが、精一杯だった。

その夜、中谷くんからメールが入った。

    「もう戻らない」

夕佳 「こんな広い部屋で、こんなにいっぱい中谷くんの想い出がつまった部屋でひとりでよう生活していかんと思う」

有希 「今回は見守るだけにします。(中谷くんに)電話してあげたいと思うけど、姉貴と中谷くんの問題やし」

スタッフが学校の近くで中谷くんに逢う。

中谷 「ふたりのなかでは急じゃないと思う。たぶんむこうもそう思ってると思うし」

数日後、夕佳さんを訪れたスタッフは驚く。夕佳さんが元気になっていたからだ。
夕佳さんは、相談した母親からいわれたことに納得していた。

夕佳 「あなたは子どももいて、ふつうの19歳じゃないのよ。そんなあなたを同じ19歳の男の子が一緒にいてくれた。それだけでも感謝しないといけないって。強がらずにいっぱい泣いて、いっぱい甘えていれば、わだかまりはなくなっていたかもしれへんけど、あなたは強がって自分で歩いていった。だからいまも、ずっと小さくわだかまっているのよ。それを大事なひとにぶつけてばっかりじゃダメって」

男性スタッフ 「お母さん、ようわかってるなあ」

夕佳さんは、男性スタッフの言に満足げにうなずきながらいう。
「なんぼいうても、母親やなあと思いましたね」

上記のやりとりに対してわたしが異議を唱えるのもおかしいが、ほんとうに母親のいうとおりなのだろうか。正直なところ、男性スタッフの言にわたしはムッとしたのだ。そんなに簡単にわからないでほしい。
たしかに夕佳さんは中谷くんの胸に飛びこめなかった。中谷くんは自分の母親と夕佳さんがうまくいくといっていたが、母親に反対されたとき、中谷くんに母親の反対を押し切れるだけの靱さがあるのだろうか。
それらの不安材料の行く末を、夕佳さんが無意識下でわかっていたから動けなかったといえないか。過去の裏切られた体験が障壁になっているだけなのだろうか。本気で夕佳さんが飛びこんできたとき、中谷くんに受けとめるだけの度量があるのか。
同時にわたしは思う。ふたりが若くて未熟だからという理由で片づけられない要素がある。何歳になっても男女関係はむずかしいし、学習によってうまくなるとも思えない。相手が変われば最初から構築しないといけないし、人間は簡単には変わらない。組みあわせとしてうまくいくかどうかが、大きく左右するようにも思える。
夕佳さんと中谷くんには、救命ボートの役目を果たす材料がないぶん、関係性の内実が鋭く問われる。
一方、中谷くんは夏休みの"家族ごっこ"で、なにをつかんだのだろう。乃海くんの世話をしながら、父親の感触に触れようとしたのか。息子のためなら強くなれる夕佳さんを横にして。

家庭の愛に恵まれなかった夕佳さんは、早く自分の家庭を築きたいと願った。同じ境遇の妹の有希さんは同じ動きをしていない。ふたりの差異はどこにあるのだろうか。

別れ〜夏の終わり

中谷くんからメッセージが入った。

    「置いてあった荷物をとりにいきます」

乃海くんはつかまり立ちをし、ハイハイしている。
キッチンでふたりは話しあう。

夕佳 「ほんま、自分ひとりで立ちたいと思ってる。乃海のこともひとりでみたいし。つぎ誰かとつきあっても、乃海ちゃんのあれやって、これやってじゃなくて、自分が公ちゃんにこうしてよ、ああしてよと、ずっといいつづけとったと思うんやけど、今度は自分で一生懸命立って、今度は夕佳が相手のうれしい顔みるために、なにかしてあげたいなと思ってるんや。(「ほおーっ」という中谷くんの声)。けっこうな、ほんま、へこんでないんや。寂しいけど、公ちゃんと離れるの。(「うん」という中谷くんの声)。自分がひとつでもふたつでも大きくなれる状況つくってもらえて、すごい感謝してるんや」

玄関でふたりは向きあう。
ふたりとも微笑をたたえている。

中谷 「なんぼでも仲よくするで」

夕佳 「ほんまぁ?」

中谷 「ぜんぜん嫌いじゃないし。まあ、あえて好きとはいわんかったけど、夕佳はずっと好きやった」

夕佳 「抱っこせんでええの?」(乃海くんを左手で抱っこしながら)

中谷 「抱っこせんでいい」(笑顔できっぱりと)

中谷くんは乃海くんに「ありがとう」といいながら握手し、「鼻みずでてるよ」とやさしく声をかけ、「じゃあ」と夕佳さんの顔を正視し、笑顔が貼りついたまま玄関ドアを閉める。
夕佳さんは「気をつけてね」といい、バイバイと手を振る。

夕佳さんは笑顔で「泣きませんよ。絶対泣きませんよ。女の意地です」と強がる。つづけて「あんな言葉残していくの、卑怯ですよね。聞きました?」といいながら、中谷くんが最期に残した言葉をつぶやく。
うつむいて涙をこらえる姿が痛々しい。
ここから先は、だれも入りこむことができない世界だ。

有希さんはイラストの道へ

京都精華大学オープンキャンパスを訪ねた有希さんは、イラストの世界に刺激を受けて眼を輝かせる。
もともとイラストを描くのが好きだった有希さんは、その道に進みたいと密かに願っていた。でも、どうしても漫才をつづけたいお姉さんにはいえなかった。
有希さんは一大決心をする。コンビを組んで3年の夕佳さんに、自分の考えを話してみようと。

有希 「ここ何日間でいろいろあって、よりいっそう、姉妹間的に絆が深まった。お笑いじゃなくてもふたりでおられるんやと思ったら、一気に楽になったっていうか、ふたりでなにかするんやったら、お笑いじゃなくてもいいやろうし。乃海が大きくなって落ち着くまで待ってみてもいいかなと思うし。正直、いまはお笑いより大学行きたいほうが気もちが大きい」

夕佳 「メッチャいいだしにくかったんちゃう、きょう。ありがとう」

姉の夕佳さんが笑顔なのに対し、妹の有希さんが涙顔なのが、ふたりの立ち位置をよくあらわしている。
1歳ちがいの姉妹だが、わたしには妹の有希さんのほうが精神年齢が上のように映る。姉の夕佳さんを立てることで、ふたりの関係のバランスをとっているように思える。

観客のいない最後の舞台

ふたりにとって生きる力そのものだった漫才。
路上ライブをしたときと同じ舞台で、ふたりは客のいない漫才をする。最後に選んだネタは「家族」だった。

夕佳 「家族とはつくるもんやなくて、自然とできあがっていくもの」

有希 「自分の意見をいえるようになったのは、成長かなあと」

ふたりの5年後、10年後をみたいと思う。
おそらく別居して、それぞれ別の道を歩みながら支えあってゆくのだろう。
TVカメラが姉妹をとらえたことは、ふたりにとってどのような波及効果があったのだろうか。

本番組の感想を記す作業のなかで、撮りかたによって内容に差異があるという、あたりまえのことについて考えさせられた。対象に耳をすませる深度が問われるのである。
昨夜、河内紀著『ラジオの学校』(筑摩書房/2004年)を読み了えたせいかもしれない。河内紀氏は、現在、TVドキュメンタリーを制作している。






2006年05月13日

課外授業「二十歳の同窓会 原田泰治とこどもたちの約束」

2006/5/6、NHK放映の「課外授業ようこそ先輩」は原田泰治(画家)の登場。オルタスジャパン制作。
毎回、番組を観ていて思うのは、番組内で子どもたちの変化をあらわすのには無理があるのではないか、ということ。というのも、子どもたちの変化や、いかに自信がついたか、ということに力点をおいているようにみえるからである。
本番組はその意味で、番組の放映から8年後に開かれた同窓会を映すことで、かつての授業を吟味する内容になっている。

わたしの個人的イメージとしては、原田泰治の超マザコンぶりに閉口していた。本番組を観て、メルヘンタッチの画風・画材は、故郷・伊賀良という母胎から生まれたのだということがわかった。
8年まえの授業をわたしは観ていない。本番組を観る限り、最も授業からインパクトを受け、自らが変容し、二十歳の眼で原田さんと対峙しているのは美由紀さんだと思う。

益岡徹のナレーションのすばらしさに驚愕。俳優としてセリフをいう益岡徹の声質とはちがうので、別人に聴こえる。俳優の益岡にあまり好感をもっていなかったわたしは、見直したのだった。
抑制のきいた凛然とした声には、人生のきびしさがにじみでていて好もしい。社会派ドキュメンタリーのナレーションにぴったりだと、つい余計なことを考えてしまった。
念のため検索してみたら、『そこに楽園は無かった〜ドミニカ移民 苦闘の半世紀〜』(鹿児島テレビ放送)というドキュメンタリーのナレーターをしている。逸材なので、もっと活躍してほしい。

以下、順に追っていこう。

同窓会への招待状

昭和28年に卒業した原田さんは、45年後の平成10年4月に課外授業を担当。出演後、まもなく招待状を贈られた。「二十歳になった2006年1月3日に同窓会をしよう」という子どもたちの熱い想い。
大きな画用紙に「原田のおじさんへ」と冠し、原田泰治の肖像画が描かれている。裏面には、子どもたちからのメッセージ。

原田 「逢いたくなるもん、ねえ。宝ですよ」

雪の舞う飯田市立伊賀良(いがら)小学校へ

平成18年1月3日。
足が不自由な原田さんは、雪道を右手で杖をつきながら歩く。

原田 「いいかな、雪とおんなじで、まっ白い気もちで子どもたちに逢えるというのは。愉しみだし」

ナレーション 「長野県の南、かつて伊賀良村と呼ばれていた一帯です。いまは合併により、飯田市となっています」

教室のドアごしに子どもたちの声を耳にして、「おとなの声だなあ」とつぶやきながらドアを開く原田さんを、子どもたちは拍手で迎える。
互いに新年の挨拶を交わす。
原田さんが、ポツンと立っている幼児(男)にむかって「おめでとうございます」というと、笑いが起こる。

原田(66歳) 「みんな大きくなったねえ。びっくりしちゃった。おじさんは、もうジジイになったからね(笑)。ほんと、うれしいなあ。みなさん、ありがとね。あ、こうやってみていると、想いだすなあ、顔だいたい。うーん、ほんとだ(笑)。あ、赤ちゃんがいるね。びっくりしちゃった。ふつうオレの顔みると泣くんだよね。だけどこの子は大物(笑)。なにくん?」

幼児の母親 「タケルです」

原田さんは、「みんな憶えてる?」といいながら、画用紙の招待状をみせる。子どもたちから驚きの声があがる。

原田 「想い出としてね、みんなの絵がす〜ごくじょうずだと思った。クラスがまとまってたし、みんなの眼がきらきら輝いてて、ほんとによかった」

原田さんは、個別に子どもたちを撮った8年まえの写真を、ひとりずつ手渡す。この日、39人のうち31人が集まった。

ナレーション 「原田さんは、1歳のとき小児麻痺にかかり、両足が不自由になりました。思うように走り回ることができない。でも、故郷の風景をじっくりみつめることができました。画家・原田泰治の原点です。以来、自分を育ててくれた伊賀良をはじめ全国各地の故郷の風景を描きつづけています」

平成10年4月の授業映像が流れる。
原田泰治の作品をクローズアップ。
「ただいま」 「モモの花」

美由紀さんの変容

奥に座っている子どもたちを自分のほうに引き寄せて、原田さんはいう。
「どんな8年間をすごしてきたか、おじさん聞きたいんだ、とても。みんなの話聞くよ、オレ、きょうは。それ愉しみにきたんだから」

A女 「いま、地元の女子短大に行ってるんですけど。高2のときに看護師になろうと思って、いまがある……みたいな感じです」

原田 「自宅から通ってるの?」

A女 「自宅です」

原田 「いいねえ。幸せだね。それで、いいひとは? 正直にいってくださいね、おじさんに(笑)」

(横に座っている女の子と顔を見合わせながら、困惑ぎみに応える)
A女 「ええ、まあ……います。いません(笑)」

A男 「大阪のほうで、救急隊員になるための勉強をしているんですけれども、この飯田市に帰ってきて、飯田市民だけは絶対に助けたいと思って、がんばろうと思っています」

原田 「すごいねえ!」

B男 「高校出てから美容師になろうと思って、いま名古屋にいるんですけど、シャンプーでメチャメチャ手が荒れるんですよ。肌がメチャ弱いんで。夜、毎日泣いていました」

原田 「そんなに手が荒れるんだな」

美由紀 「いまは家を出て、千葉県の大学で日本文化を勉強しています」

(8年まえ、課外授業を受けた美由紀さんの顔をクローズアップ)

ナレーション 「美由紀さんは小学生のころ、友だちづきあいが苦手でした。そのため不登校を繰りかえしていましたが、原田さんの授業には思い切って出席。忘れられない想い出となっています」

(そのときの授業で原田さんが、足のギブスをはずしてみんなにみせた姿をみて、泣きだした美由紀さんの映像が挿入される)

涙の理由を語る美由紀さん。
「怖かったし、申し訳なかったし……。原田さんもコンプレックスをもっていた時代って、たぶんあると思うんですよ。そういう自分のよくないところを、ああやって出せるっていうことに、たぶんびっくりしたんだろうなあ、うん」

ナレーション 「中学生でも不登校ぎみだった美由紀さんはイジメにあい、いっそう他人への恐怖心を強めてしまいます。(中学の制服姿の、硬い表情の美由紀さんの写真が挿入される)。高校では、こころを開いて話せる友人と出逢い、少しずつですが、ひとと向きあえるようになりました。(浴衣を着た笑顔の写真が挿入される)」

(美由紀さんが、友人と雰囲気のよい喫茶店で話す映像を流しながら)

ナレーション 「そして卒業後は、自立心を養いたいと飯田を離れ、千葉の大学に進みました。見知らぬ土地で新しい友人もできています」

ひととちゃんと話せるようになった美由紀さんは、苦労していない人間はひとりもいないと思うようになり、ひとを癒せる、安らいでもらえるような仕事に就きたいと漠然と思っているという。
20歳になった美由紀さんの言葉を選びながらの発言を聞いていると、感じやすく、純粋な人間の生きがたさが胸に迫る。

シングルマザー・久美子さんの苦悩

原田 「なんだと思う? みんなの描いた絵(笑)。ずいぶんあるよ。返しますね。記念にとっておかなければ。もう2度と描けないよ。もう戻れないんだもん」

8年まえ、原田さんは子どもたちに家族の絵を描いてもらった。返された絵をカメラのまえでみせながら、笑いあう子どもたち。

(久美子さんの絵がクローズアップ)

ナレーション 「仲のよい家族の絵を描いた久美子さんです。いつも明るい父と母。ひょうきんな姉とやんちゃな弟。久美子さんはいつか自分も、こんな笑い声の絶えない家庭をつくろうと思っていました。(車で保育所に息子を迎えにゆく映像が流れる)。そんな久美子さんは19歳で結婚し、息子を出産。しかし憧れていた結婚生活は、離婚によって終止符が打たれました」

久美子 「なるようになったみたい。なにも考えずにすごしたんで、こんなんでいいのかなと思うんですけど、たまに」

ナレーション 「いまは保険の外交員として働き、親子ふたりの生活をまかなっています」

自宅で息子の世話をしながら語る久美子さん。
「自分が悲しいことがあったときに泣いてたりすると、子どもが泣いちゃうじゃない。じゃあ、わたしも泣かないようにがんばろう、とか。一緒に泣いてたらダメだなあと思って。まえより強くなったかなと思いますね、自分が」

(場面が教室に戻る)

原田さんは眠ってしまった久美子さんの息子・タケちゃんを抱っこし、久美子さんに話すように促す。
足の悪い原田さんは、ずっとイスに座っていて、自分から動こうとはしない。

原田 「オレの孫(笑)。かわいいねえ」

久美子 「いまは子育てと仕事をとりあえずしてるんですけど、ウチのなかでいろいろあって、イザコザみたいな感じで。ウチ、いま微妙なんですけど、とりあえずいま、ひとりで仕事をしてて……、あ、ちょっとダメだ。やばいかも。あ、ちょっといいです(失笑)。なんかまずいわ。すいません、やばいっす……」

そういいながら、うつむいて泣きだしてしまった久美子さん。

原田 「切なくなっちゃう? うん、わかった。やめよう。ごめんね」

久美子さんは教室の隅に移動し、みんなに背を向けてしゃがみこむ。久美子さんの背をカメラが凝視。
同窓生たちは、それぞれ複雑な表情になる。

原田 「おじさん、ちょっと考えたんだけど、自分が二十歳のときにどうだったかと思ったときにね、一番悩んだときよね。人生の灰色のときなのかなあ。オレ、いま振りかえってみると、人間はみな二十歳のなかでとても悩んでる。でもね、そういう苦しいなかで自分が闘ってきたということが、とっても原田泰治をつくっていると思うの。苦しみを与えてくれるということに感謝して乗り超えていく、そういうパワーをもてるのが二十歳だと思う」

(平成10年の授業風景の映像が流れる)

ナレーション 「かつて行なった課外授業の最後に、子どもたちはそれぞれがもつ故郷・飯田のイメージを描きました。絵が完成したとき、原田さんはこんなメッセージを贈りました」

8年まえの原田 「どんなに自分たちが大きくなって故郷を離れても、きょうの出逢いもそうだけれども、"伊賀良で育ったこころ"を大事にしてもらいたい。鮭の稚魚が川を下って、大きくなったら、傷つきながらも自分の故郷の川へ上ってくるじゃない。それとおんなじように、自分たちが苦しくなったとき、悲しくなったとき、そういうときに必ず故郷を想いだして、がんばってやってゆく。ほんとにありがとう。ご苦労さんでした」

ナレーション 「あれから8年。同窓会に集まった31人のうち23人が、いまは伊賀良を離れています」

バスケットを断念したダイスケさん

B女 「いまは京都にいるんで、親も京都で就職していいよっていってるんで。まだ下に弟と妹がいるんで、自由に京都で就職したいなあと思います」

C女 「わたしはあまり帰ってくる気はないんです。親は大事だと思うんですけど、自分がやりたい仕事を考えると、東京とかの都会にいたほうがいろんな体験ができるから」

C男 「アパレル系なんで東京とか都会のほうがやっぱりいいんですけど、自分は独りっ子で長男なんで、どっちみち親のめんどうをみなきゃいけないかなあと思って。帰ってくるかどうかは、むずかしいところなんですけど、そういった点で悩んでます」

ダイスケ 「高校を卒業したあとに、やりたいことっていうのは、正直なかったんですよ。なので地元で就職したというのもあるんですけど、そういう自分らからしたら、やりたいことがあるひとは、すごい羨ましいというか、そういうことは大事にしてほしいなあと思うんで、ぜひやりたいことをがんばってもらいたい、って思ってます」

(高校でバスケットの試合に出たときの集合写真と、地元の工場で技術を磨くダイスケさんの映像が流れる)

ナレーション 「ダイスケさんは中学・高校と熱中してきたバスケットボールを、できれば大学でもつづけたいと考えていました。しかしバスケットでは食べていけない。そう考えて、熱い想いを封印しました。そしてまずは地元に根を張ろうと、地元の金属加工工場に就職。新たな生きがいを、じっくりとみつけていくつもりです」

ダイスケ 「いま親と一緒にいるんですけど、お金の面では自分でなんとかしていこうかな、と思ったんで。もう二十歳にもなりました」

制作スタッフらしき女性の問いかけ。
「(8年まえに)原田さんのいった言葉を、いまのミヤシタくんはどういうふうに受けとめていますか?」

ダイスケ 「いまなら、いってたことがわかるとまではいかないと思うんですけど、わかってきたんじゃないかなあ、とは思います」

原田さんが贈った作品

原田 「あのね、用意してきたのね。めったにこういう絵、描かないんだけど、女のひとが男のひとに抱きついているという感じね。あんまりいやらしく思わないでね。これは青春の一コマを表現して描いてあります」

原田さんは、みんなのまえで筆をもち、絵の右側に言葉を書きこむ。「どんなに苦しくても支えあって生きてほしい」という願いがこめられているという。

   努力の種まかねば
   夢の花は咲かない。

みんなは黒のマジックをもち、原田さんから贈られた絵の周りに、将来への願いを書きそえる。

   おばあちゃんになっても、仲よく
   手をつなげるような夫婦が理想
                   久美子

最後に、女の子が赤のマジックで書きこむ。

   2016年
   みんなで
   また集まろう

拍手が起こり、「そのときはまた、原田さんもぜひ」と、女の子が原田さんに招待状を手渡す。

「いいんですか。また招待状いただいちゃった」といいながら、原田さんはカメラに招待状をみせる。
日付は「2016年1月3日」となっている。

裏門らしき場所で、原田さんは見送る。
ひとりひとりの子どもたちと握手しながら声をかける。久美子さんには励ましの言葉を。
いつもは子どもたちが先輩を見送るので、逆である。

母校を去ってゆく子どもたちの背中をカメラは追う。
最後尾にいるのは久美子さん。子どもを抱いていないらしく、身軽にみえる。本来は明るい性格であろう久美子さんの背に、さきほど泣きだした背がかぶさる。その前途多難な路を、だれかが見守っているようなカメラ目線を感じる。

原田 「いい子どもたちに逢えたということ、8年まえにね。それはあんまり変わってないし。はじめはびっくりするじゃない、大きくなっちゃってね。でもやっぱりどこかよきあのころの小学6年生のときの姿とかわかるし。それからあれだけこころを開いて、いろいろの悩みを話してくれるあの子どもたちのこころはほんとにきれいで、いい子どもたちですよ、ほんとに」

エンディングシーン

しゃれたシーンである。カメラワークがいい。
無人の教室の黒板に、原田さんから二十歳の子どもたちに贈った作品が置かれている。殺風景な教室に、夢の花が咲いたように映える。絵を子どもたちの夢がとり囲んでいる。
このシーンは余韻を感じさせるとともに、ひとりひとりの子どもたちの成長の重みのようなものが伝わってくる。
この教室で、いま、日常的にどんな授業が展開されているのか。
無人の教室はとり戻せない時間を想起させ、センチメンタルな気分を呼びさます。が、原田泰治の暖色系のメルヘンタッチの絵と造形美のある文字には、それらを払拭するやさしさと力強さがある。

趣向はちがうが、時を隔ててひとと逢う世界をシビアに描いた映画「舞踏会の手帖」(1937年・仏)の、モノクロのうつくしい映像が浮かんできた。








2006年05月07日

梯久美子著『散るぞ悲しき〜硫黄島総指揮官・栗林忠道』

本書を知ったのは、新潮社のPR誌「波」に掲載された丸山健二の一文による。
丸山健二が絶賛していたので、著者の梯久美子は相当の書き手なのだろうと思ったが、その割にはこころは動かなかった。
ところが2005/8/17付け朝日新聞・夕刊に掲載された「文芸の風」第4部で、編集委員・由里幸子が、梯久美子にインタビューした記事を眼にし、読みたくなった。見出しは、〔「美学」と現実  言葉に酔った時代 抗した司令官に光〕。
ちょうどそのころ念仏の鉄さんのblogの戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。というエントリーに感心したわたしは、コメント欄で本書を紹介したのだった。1961年生まれの梯久美子も戦争を知らない世代に属するからである。そのときから感想を書きたいと思いつつ、内容の重たさにいままで放置していた。
本書が第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのをうれしく思ったのを機に、なんとか記しておきたい。読みおえたのが昨年の8月だから、もうすぐ1年になる。

わたしは、つぎの2本柱を軸にして読みすすめた。
〃林が新聞記者だったら、どんな仕事をしていたのだろうか。
◆崕々しい」栗林忠道を、どう肯定的に描いているのか。

,砲弔い討蓮∈能蕕縫┘團蹇璽阿鯑匹鵑任い燭らである。新聞記者になろうと思ったという栗林忠道は、上海東亜同文書院(当時ジャーナリストや外交官を多く輩出していた)を受験し、合格していたが、教師のすすめに従って陸軍士官学校に進んだ。とくに英語が得意で、外国回りの報道記者を志望していたという。
△砲弔い討蓮⊂綉新聞記事で、「お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です」という栗林忠道が家族にあてた手紙(遺書)を読んだ梯久美子が、
職業軍人とは男の美学を振りかざす。そう思っていたので、女々しいというか、その生活人ぶりにひかれたのです
と語っているからである。

梯久美子の文章は洗練されていて一気に読ませる筆力があるにもかかわらず、1日に数ページ読むのが限度だった。内容がとてつもなく重いからだ。
本を閉じるたびに、軍服には不似合いな穏やかな表紙の栗林忠道の顔写真にむかって、言葉にならない次元で話しかけている奇妙な自分がいた。
読みおえたときわたしの胸に迫ってきたのは、栗林忠道を貫いていたのは、ジャーナリスト魂ではなかったかという想いだった。梯久美子の筆は、軍人・栗林忠道の異色さを、さまざまな角度から検証している。
以下、印象深い箇所をあげてみる。

◆「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」

昭和3年から5年まで、36歳から2年間、軍事研究のためアメリカに留学し、国力の違いを実感していた栗林は、しばしば家族に「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」と語っていたという。
(昭和6年から8年まで、駐在武官としてカナダに滞在)

《栗林が硫黄島行きを命じられたのは、指揮能力を評価されてのことだというのが定説だが、アメリカ的な合理主義が嫌われ、生きて還れぬ戦場に送られたという見方もあるのだ》(p.62)

◆改変された栗林中将の訣別電報(昭和20年3月22日の新聞に掲載)

栗林の電文では、最初に将兵たちの戦いぶりが述べられているが、改変された電文では、「皇国の必勝と安泰」が強調され、「壮烈なる総攻撃」「将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ」という栗林の電文にはない言葉が挿入されている。
「宛然徒手空拳を以て」という部分が、完全に削除されている。

 国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

新聞に掲載された栗林の訣別電報の最後に添えられた3首の辞世の句のうち、1首目の最後「散るぞ悲しき」が、「散るぞ口惜し」と改変された。
梯久美子は「国の為」という語句にに言及していないが、栗林にとって「国の為」とは「国民の為」と同義であり、文字どおりではない。あえて強調しておきたい。

平成16年12月、梯久美子は、遺族らによる日帰りの慰霊巡拝に同行し、栗林が立てこもった司令部壕に入っている。訣別電報が書かれた場所である。
実際に地下壕の奥深く下りてみて、《栗林が選んだ戦法の過酷さが、あらためて胸に迫った》と記している。(p.155)

◆リベラリストだった栗林忠道

栗林は息子を陸軍幼年学校にいれず、陸軍士官学校の受験も勧めなかった。長男・太郎は、建築の道に進んだ。
太郎の証言では、52歳で出征した栗林のその直前の様子は、特に変わったこともなく、淡々としていたという。
「今度は骨も帰らないかもしれないよ」と告げられた妻・義井(よしゐ)も、そのときの夫の顔があまりにも穏やかだったので、それほど深刻には考えなかった。
陸軍中尉・栗林忠道が硫黄島へ向けて出発したのは、昭和19年6月8日である。家族に行き先は知らされなかった。

陸軍大学校を2番で卒業した栗林に持ち込まれた上司の娘との縁談をすべて断り、同郷の13歳下の義井と結婚した。大正12年12月8日、栗林32歳、義井19歳のとき。
硫黄島からの手紙には、いずれも妻への優しい言葉があふれている。

《なおこれから先き、世間普通の見栄とか外聞とかに余り屈託せず、自分独自の立場で信念をもってやって行くことが肝心です。 (昭和19年9月4日 妻・義井あて)》(p.233)

《栗林家に女中がいたのは東京の留守近衛第二師団長時代だが、ある日の夕食どきに栗林の自宅を訪ねた軍属の貞岡信喜は、女中も一家と同じ食卓についているのを見て驚いたという。当時ではまずあり得ない光景だった》(p.106)

◆"バンザイ突撃"を栗林は厳しく禁じた

硫黄島を奪取すれば、米軍は日本中のあらゆる都市に大規模な空襲を行うことができる。
栗林が着任したとき(昭和19年6月8日)、島に住んでいた1000人ほどの住民を、栗林は内地へ送還する。7月3日から始まり、14日までに完了。
硫黄島に慰安所が設けられなかったのは、栗林が難色を示したという説がある。

栗林が作成し全軍に配布した6項目の「敢闘の誓(ちかい)」は2万余の将兵に深く浸透し、その戦い方は米兵たちを震撼させた。
栗林が選んだ方法はゲリラ戦だった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。
しかし地下陣地の構築は、困難をきわめ、昭和20年2月19日に米軍の侵攻が始まったとき、地下陣地の完成度は約7割だったという。

硫黄島が陥落すれば、日本の都市が大規模な空襲に見舞われることを警告する内容の手紙を、栗林は妻に書いている。

◆握りつぶされた意見具申書?

昭和19年8月に大本営陸海軍部作戦部長の真田・中沢両少将が視察にやってきた際、栗林が早期終結を具申した書状を大本営に届けるよう依頼した、という逸話がある。信憑性は高いらしいが、真偽のほどはわからない。

昭和20年2月6日の時点で、大本営は「結局は敵手に委ねるもやむなし」と、戦う前に硫黄島の放棄を決定している。

◆栗林が発した最後の戦訓電報(昭和20年3月7日)

大本営宛に書かれるべき戦訓電報が蓮沼蕃侍従武官長(栗林の陸軍大学時代の兵学教官で、同じ騎兵科出身)に宛てて書かれ、大本営の方針に対する率直な批判を行っている。

《「取扱注意」―――細かな文字がびっしりと並ぶこの電報の冒頭には、筆文字で大きくそう記されている。大本営の手によるものである。栗林の戦訓が、この後の日本軍の戦いに役立てられることはなかった》(p.208)

◆勇猛果敢な指揮官・栗林がみせた"弱さ"

生還者の中で栗林をごく近くで見ていた龍前新也軍曹は、昭和20年3月17日の夜半、司令部壕脱出時の栗林の姿を「田舎の老爺が子供らに連れられて行く状態であった」と証言している。この夜、出撃拠点である来代工兵隊壕への転進だけが行われた。

梯久美子は栗林の気力をくじいたものが何だったかについて、つぎのように考察する。
・部下将兵に凄惨な戦いを強いなければならなかったこと。
・東京が前例のない無差別戦略爆撃を受けた事実を知ったこと。留守宅の家族の全員無事を栗林が知る術はなかった。

栗林は留守宅へ便りを出すことと送金することを奨励していた。
多くの遺族が戦地からの便りを形代(かたしろ)として大切に保管している。兵士たちもまた、家族からの手紙を心待ちにしていた。
栗林も兵士たちと同様に、妻子を守るために過酷な戦いができたのである。しかし一時的に憔悴した栗林であっても、最後の総攻撃に挑むエネルギーが減ずることはなかった。

◆最後の総攻撃(昭和20年3月26日)

指揮官は陣の後方で切腹するという当時の常識を破り、栗林は陸海軍約400名の先頭に立ち、自らが突撃。

《約3時間におよぶ激烈な近接戦闘の末、米軍に与えた損害は死傷者約170名。生き残った日本兵は元山、千島飛行場に突入し、そこでほとんどが戦死を遂げた》(p.230)

《戦闘の後、敵将の敢闘ぶりに敬意を表した米軍が遺体を捜索したが、階級章を外していたため発見できなかったという》(p.149)

◆『硫貴島の星条旗』の著者、ジェイムズ・ブラッドリー

平成16年秋、梯久美子はニューヨーク州ライにブラッドリーを訪ねた。

わたしが本書のなかで最も戦慄したのは、つぎのくだりである。これが戦争なのだと、背筋が寒くなった。

《昭和20年8月6日午前5時55分。すでに米軍の手に落ちて久しい硫黄島の上空を、北マリアナ諸島のテニアン島から日本全土に向かう一機のB―29爆撃機が通った。
「パイロットは、ただ通り過ぎるのではなく、島の上空を何度か旋回したそうだ。そこで命を落とした7000人近いアメリカ兵に敬意を表してね」
 そうブラッドリーは教えてくれた。
 爆撃機の名はエラノ・ゲイ。目的地は広島であった》(p.75)

◆謝辞

本書の巻末にある謝辞の末尾に、わたしは胸を打たれた。

《最後に、私たち次世代のために、言葉に尽くせぬ辛苦を耐え、ふるさとを遠く離れて亡くなったすべての戦没者の方たちに、あらためて尊敬と感謝を捧げたい》(p.241)

  *
  
クリント・イーストウッド監督が硫黄島の戦いを2部作で描いた映画が、日本で公開されるという。
アメリカの視点でみた「父親たちの星条旗」は10月に、日本の視点でみた「硫黄島からの手紙」は12月。
栗林忠道を演ずるのは渡辺謙である。
写真でみる限り、渡辺謙の眼は栗林忠道より強すぎる。戦場での栗林忠道は、どんな眼をしていたのであろうか。
話が飛躍するが、難易度の高い手術をする脳神経外科医や心臓外科医が、意外とやさしい眼をしていて、リラックスしているようにみえる。わたしには、栗林忠道も同列だという気がするのだが。
わたしがイメージしている栗林忠道像を、渡辺謙を通して検証してみたい。

  *
  
余談だが、石牟礼道子は、大宅壮一ノンフィクション賞第1回(1970年)『苦界浄土』での受賞を辞退している。自分なりにその理由を考えてきた。

坂本堤弁護士の母さちよさんが、1995年に第43回菊地寛賞を受賞した江川紹子さんについて、「あのひとは、わたしが一番つらいときに受賞した」と叫ぶのをTVで観たとき、軽い衝撃があった。それまで勇ましかったさちよさんが、息子一家の遺体が発見された直後に気落ちした姿は傷ましかったのだが、それにプラスされたという感じだった。これはわたしにとって、ひとつの盲点だった。

〔参照〕

石井顕勇「硫黄島探訪」

硫黄島の戦い―Wikipedia

硫黄島協会

メールマガジン「週間新藤」第54号(2005.04.25発行)
クリント・イーストウッド監督が映画化〜 祖父 栗林大将と硫黄島戦


同第96号(2006.3.20発行)
映画 硫黄島からの手紙〜祖父 栗林大将のこと


クリント・イーストウッド監督による前例のない2部作
『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』製作報告記者会見!!(2006/04/28)










miko3355 at 22:44|この記事のURLTrackBack(0) 

2006年05月01日

「小早川伸木の恋」

最近のTVドラマはほとんど観ていないが、フジテレビの「小早川伸木の恋」は愉しめた。軽いタッチなのだが、観るものをひっぱってゆく力がある。
主題歌・ナナムジカの「くるりくるり」が気に入ったので、珍しくCDを入手した。
歌詞にある
《惜しみなく抱きしめて 心が眠れる場所を与えつづけよう》
が、ドラマのテーマと重なる。

大学病院に勤務する外科医・小早川伸木(唐沢寿明)は、嫉妬深い妻の妙子(片瀬那奈)から得られぬ「心が眠れる場所」を、盆栽教室の作田カナ(紺野まひる)にみいだし、離婚を決意する。
妙子の狂気じみた嫉妬深さは、子ども時代のトラウマから生じているのだが、それを解決する意思・力量は、伸木にはない。
伸木の友人である弁護士・仁志恭介(藤木直人)は、伸木がカナとの人生の再出発を決意し、カナが自分ではなく伸木に惹かれていることを悟った時点で、カナと伸木を結びつけることに尽力する。ひたむきに愛する対象にむかってゆく伸木とは対照的に、なにを考えているのかわからない不気味さと潔さを感じさせる藤木の抑制された演技がいい。ニヒルだけれど、熱い。
残念なのは、かんじんのカナ役の紺野まひるが幼稚すぎて、ミステリアスな要素に欠けるため、感情移入できない。適役はだれかと考えたが、思いつかない。

4人のなかで最も魅力的なのは仁志だ。愛する女性が友人に惹かれていると知り、それを優先させるというのは、よほど大きな愛がなくてはできない。それをクールにやってのけるところがいい。

妙子がようやく離婚を決意するが、カナは伸木から去ってゆく。そのときのカナのセリフから『クレーヴの奥方』(生島遼一訳・岩波文庫)を想起した。作者はラファイエット夫人(1634―1693)。
カナは伸木との結婚は"夢"だといった。夢なら、いつかは醒めるという意味なのか。ドラマのなかでは、簡単に処理されている。
クレーヴの奥方は、美貌の貴公子ヌムール公の熱烈な求愛を、男の愛は永遠につづかないという確信のもとに退ける。結婚後、公がよその女性にこころが移ったときの死ぬような苦しみを未然に防ぎたい、という強固な意思である。

クレーヴ殿は、会った最初の日から結婚後も変わらず奥方に激しく恋の炎を燃やしつづけているのだが、それは奥方に愛情がないと思ったから持続したのだと、奥方は認識している。
宮廷生活から遠ざかるためとはいえ、奥方は夫のクレーヴ殿によその男に恋しそうだと、前代未聞の告白をし、自己の恋心にブレーキをかけようとする。が、殿は激しい絶望のせいで病死する。

はっきりしているのは、クレーヴの奥方が殿に抱いていたのは敬意と感謝の域をでなかったということ。恋心はなかった。それを殿は知りつつ結婚したので、完全に幸福ではなかったという自覚があった。

一方、結婚後も愛を貫いた例として柳原白蓮と宮崎龍介のケースがある。
以前に永畑道子の『恋の華・白蓮事件』(文春文庫)を読んだが、白蓮の逞しさには感服する。
ふたりの関係性の根底に思想が貫かれていたから、愛は色褪せなかったのだろう。