2006年06月

2006年06月22日

山崎 貴の課外授業「豊かさって何だろう」

2006/06/03 放映の課外授業(NHK総合)は、山崎 貴さん。
1964/06/12 生まれ。41歳にはみえない若々しさがあり、カッコいい映画監督だ。
2005年、監督第3作目「ALWAYS三丁目の夕日」において日本アカデミー賞の監督賞を受賞。
ナレーター・三浦友和の声がちょっと重い。
制作・オルタスジャパン

本番組トップの画面を眼にした瞬間、気づいた。TVではなく映画の画像だなあと。しかもノスタルジックな西岸良平・作「三丁目の夕日」の世界なのだ。
専門的なことは知らないが、画像を工夫することで昭和30年代を彷彿とさせる視覚効果を狙っているのだろう。
ついでながら、数年まえに放映された村上龍脚本のドラマ「最後の家族」(テレビ朝日)も、映画の画像だとわたしには感じられたので、不思議な気分になったのを憶えている。

山崎 貴というパーソナリティーから、つぎのような感じを受けた。

.▲ティブでラフ、かつテンションが高い。
∋劼匹發燭舛搬佚に接していて、先輩面しない。
子どもたちの反応をおもしろがっている。
ね招廚別榲意識を感じさせないぶん、軽やか。
ス板のまえの山崎さんを囲むように机が配置されているので、座談の雰囲気。
ν靴售恭个亮業。

以下、番組を順に追ってゆく。

映画館で「ALWAYS三丁目の夕日」鑑賞

番組は、山崎さんがつくった映画「ALWAYS三丁目の夕日」(2005年公開/2時間13分)を子どもたちに観せるシーンからスタート。
映画の舞台はいまから48年まえ、昭和33年の東京。こころが豊かな時代。
おもしろそうに顔を輝かせ、映画に魅せられる子どもたち。

映画を観た感想

北アルプスを臨む長野県松本市が山崎さんのふるさと。
松本市立本郷小学校の教室に移動。ドアを開いて教室に入る恒例のシーンがカットされている。わたしはあのシーンをみるのが苦痛だ。わたしの独断と偏見によると、教室のドアを開いたときの体感は、映像で表現できないと思うので。

山崎  「お疲れさまでした。映画はどうでしたか。あそこの世界のひとは、どう思ったかな」
男の子 「のんびり暮らしてて、そこら辺に歩いているひとが知りあいとか友だちとか、そんな関係でよかった」
山崎  「いいなあと思った。うん、うん、うん。ほかにありますか」
加奈子 ……(聞きとれないので、テロップが必要)
山崎   「あそこはいやだ、というひといる?」
大樹  「いまだったらおいしいもの食べれるし(笑)、ゲームとかもできる」

映画を観て感じたことを、子どもたちが黒板に書きだす。山崎さんの敏捷な動きにつられたのか、映画の余韻が残っているのか、子どもたちの動きもすばやい。
子どもたちは、家族とかひとの関係に注目している。
家族のもつやさしさや友情の大切さ。この映画をつくるなかで、山崎さんがあらためてかみしめたことだった。

山崎 「いまの生活とちがうある種の豊かさみたいなものに、みんなが反応していると思うんです」

映画「ALWAYS三丁目の夕日」の撮影風景が挿入される。課外授業の山崎さんとあまり変わらず、監督然としていないようにみえる。

[映画のキャッチコピー]……空き地で数人の子どもたちがフラフープで遊んでいる映像

    携帯もパソコンもTVもなかったのに、 
    どうしてあんなに楽しかったのだろう。  

山崎さんが制作スタッフに語る 
「便利さゆえに、ずいぶんいろんなことにこころが動かなくなったなあと。携帯もパソコンもTVもあるのにつまらないよね、という状況を打破して、閉塞感をくずしていく方法のひとつがみつかればいいかな、と思ってたんです」

昭和30年代はじめの世相 

黒板のまえ。白いボードに貼られたモノクロ写真を、子どもたちにみせる。
映画と同じ昭和30年代はじめの世相を映した写真。

山崎 「じつはぼくは昭和39年生まれなんで、昭和33年には生まれてなくて、『ALWAYS』の世界はぜんぜん知らなかったんですよ。こういう資料をいろんなところから集めてきて、勉強してつくりました。きみたちにも、この時代のことを調べてもらいたいんだよね」

写真を3つのテーマに分ける。
[家族] [友だち] [近所]
それぞれ、いまとはなにがちがうのか。発見することからはじめる。
グループに分かれて、みつけたちがいを書きだす子どもたち。

  50年前はぼうずとおかっぱが多かった

  昔の地面は土でできている


【発表】

家の外にある水道のまえにそれぞれのタライを並べ、数人の女性が洗濯している写真 

女の子 「50年まえは、みんなで集まって洗濯をしている」
山崎  「なんでだと思う?」
男の子 「みんなで情報を集めていたんじゃないか(笑)」

和室で家族そろってTVに見入っている写真 

男の子 「50年まえは、みんなで口とかあけて、真剣にTVを観ている(笑)」
山崎  「鋭いね(笑)。これは鋭いね。TVを観ている姿勢がちがうよね、食い入るように」

数人の子どもたちが竹馬で遊んでいる写真

大樹  「50年まえは、遊び道具が少なかった」
山崎  「なるほど。でも愉しそうだよね」

【宿題】

山崎 「きょう帰ったら、当時のことを知ってるひとたちに、いまとちがってよかったと思うことを、できるだけたくさん探してきてもらいたいんです。取材をしてきてください。あした、それを発表してもらいます。できる?」

山崎さんは子どもたちに、自分の体験を語ることで、子どもたちに宿題の意味を理解させようとする。
「ALWAYS」という映画をつくるときに、昭和30年代はどうだったかと、取材をしてみた。昭和33年というのは、東京が戦争で焼け野原になって、バラックという小屋みたいなものを建てて暮らしているうちに、だんだん社会ができあがっていったという時期だから、達成感の途中。みんなが国をつくろうと思ってつき進んでいった時期なんで、そこが愉しい気もちにつながったんじゃないかなあということを発見して、「ALWAYS」という映画をつくった。

「じゃあ、あした、宿題愉しみにしています。お疲れさまでした」と山崎さんはいい、一礼。
子どもたちも「ありがとうございました」といいながら一礼。

授業2日目 

校庭を歩いて教室にむかう山崎さん。制作スタッフにきのうの授業の手応えについて訊かれ、歩きながら応える。
「体感できるかどうかがむずかしいテーマなので、うまく伝わっているかなと思うんですけど、きのうの宿題にかかってますね。面白味をみつけてくれてればいいんだけど」

ごく自然に「おはようございます」と山崎さんはいいながら、開いているドアからするっと教室に入る。朝一番らしく、山崎さんのあとからランドセルを背負って入ってきた男の子がいた。着席していない子どももいて、教室の空気はリラックスしている。
山崎さんはさっそく子どもたちがスケッチブックに書いてきた宿題に眼を通し、言葉をかける。

  家族みんなでご飯を食べたい

  一番年上のひとが《親方》になって、めんどうを見てくれた

  料理を作ったら、ご近所にあげたり、もらったりしていた

  兄弟が多くてにぎやかだった

  仲間はずれにしなかった

  地域のみんなで子育てをした  

制作スタッフに感想を述べる山崎さん。
「家族の横のつながりとか、近所の横のつながりとか、あと、子どもたちの縦のつながり。コミュニケーションへの憧れが多いような感じでいってましたけどね、うん」

山崎さんは、子どもたちに新たな課題をだした。
「なにがあの時代はよくて、いまの世界でそういうふうになるためには、なにをどうしたらいいのか、ということを考えてみてください」

子どもたちは教室をでて、想いおもいの場所で考える。
子どもたちのスケッチブックを個別にみながら、山崎さんはアドヴァイスを与えることで、より深く考えさせようとする。

【発表】

子どもたちを昭和30年代のはじめにタイムトラベルさせようと、山崎さんは合成システムを用意していた。選んだ写真のなかにひとが立っているように映る。
山崎さんが実演すると、喜ぶ子どもたち。

山崎 「よかった。受けたね(笑)。じゃあ、よろしくお願いしま〜す」(拍手)

チホさん (←名札がみえない)……合成写真=竹馬で遊ぶ子どもたち

「一番わたしがいいなあと思ったのは、自分たちが遊ぶ道具を工夫してつくったということです。工夫したおもちゃが完成したとき、とても達成感を感じると思うからです。それを実現するには、なんでもモノを買わないで、お父さんやおじいちゃんなどにきいてみて、つくってみたいと思います」(拍手)

山崎さん→満足げにうなずく

諒くん……合成写真=5人家族がそろって食事をしている

「家族みんなで食べるとにぎやかで、ひとりで食べるよりはすごく愉しいと感じたので、家族みんなで食べるという昔やっていたのを、いま実現したいと思いました。ぼくがお父さんに『ご飯の用意ができたよ』と電話して、『もう少しで帰る』といったら、しんぼうすれば、1〜2回でも家族みんなでご飯を食べられると思いました」(拍手)

山崎さん→うれしそうに肩を揺らして笑う

奈々さん……合成写真=木製の台を囲み近所のひとが遊びに興じている(夜店?)

「わたしが知ったことは、近所どうしの関係が、いまよりもずっとずっと濃いということです。いまはほとんどありえないことでも、昔はふつうにやっていたことがすごいと思いました。近所の交流があると、すごく温かい感じがするからです。どうすればそういう行事をいっしょにやれるか、助けあいができるか。わたしはあいさつに関係があると思います。大きな声であいさつをすると、より仲よくなって、新しい関係をつくることによって、広いこころをもつことができると思います。広いこころをもつことが助けあいにつながると、わたしは考えています」

奈々さんの発表に対する感想を制作スタッフに語る山崎さん。
「ほんとに、ああ〜っと、眼からウロコの感じだったんです。あいさつすると顔みしりになるし、そうすると、ちょっとしたことでも話ができるし、す〜ごいシンプルなことだけど、な〜るほどと思ったんです。コミュニケーションの一歩目だよねということを、す〜ごい思ったんですね」

加奈子さん……合成写真=集団登校する子どもたち

「おばあちゃんの時代では、ケンカをしてもすぐに仲直りをしたといってました。これはやっぱり相手を思う気もちがたくさんあったからだと思いました。どうすればいいか。それはとってもむずかしかったです。わたしの考えは、自分から行動する、いろいろなひとに話しかけるようにする。これはどれも勇気がいると思います。でも勇気があったほうが、挑戦したりできるような気がします。でもふつうに、気楽にできるような方法は、まだわかりませんでした。けど自分を探すような感じで、この2日間はとても愉しかったです」(拍手)

山崎さんのコメント

山崎さんは子どもたちに、ほほえみながら語りかける。
「ALWAYS三丁目の夕日」のノスタルジーあふれる主題歌が、小さめの音量でバックに流れつづける。

「この2日間で、昭和30年代ということをテーマにして、いろいろ考えてきたと思うんですけど、なにを伝えたかったかというと、昔にいいことはすごくあった。いまも、もちろんいいことがいろいろある。で、ぼくらはタイムマシーンもってないから、昭和30年代には返れません。だから昭和30年代に返ってあそこで暮らしたいということよりは、いまこれから、とくにきみらは未来をつくっていく世代だから、どうやって生きていったらいいのか、どういうことに気をつけてやっていったら、いまよりもっといい世のなかになるのか。そういうものにむかっていくためのヒントみたいなものが、昭和30年代には隠されているんじゃないかなというふうに思ってたんです。それをみんなに発見してもらった。ひとから教えてもらったことじゃなくて、自分のなかでどうしたらいいのかということをみつけた。自分でつかまえたことというのは、なによりおっきなことだから。ぼくも気づいてなかったようなことを、いろいろなひとが気づいてくれたんで、すごくよかったと思います」

ラストシーン 

校舎を背にして足早に校庭を横切る山崎さんに、「さよなら」という子どもたちの元気な声が降りかかる。山崎さんがふりむくと、校舎の出入り口付近に豆粒ほどの人影となった子どもたちが手を振っている。
その遠景に「バイバイ」と大声を発し、手を振る山崎さん。

本郷小学校に一陣の風が吹きぬけた……


〔参照〕 

山崎 貴

「ALWAYS 三丁目の夕日」(フリー百科事典『ウィキペディア』)

「ALWAYS 三丁目の夕日」公式ホームページ










2006年06月13日

ETV特集 「もういちどつくりたい〜テレビドキュメンタリスト・木村栄文の世界〜」

ETV特集「もういちどつくりたい」(2006/06/03・NHK教育・22:00〜23:30)を興味深く観た。
恥ずかしいことに、わたしはドキュメンタリスト・木村栄文を知らなかった。
NHK福岡局制作の本番組は、2006年1月13日に九州ブロックで放映された、ふるさと発ドキュメント「もういちどつくりたい〜テレビディレクター 木村栄文の闘い〜」(NHK総合/19:30〜19:55)が、同年3月5日に全国放送(NHK総合/10:05〜10:30)されたのをもとに、取材をはじめた木村栄文を収めて再編集したという経緯らしい。
わずか25分だった番組が90分にわたって放映されたということは、視聴者の反響が大きかったのだろうか。

「ドキュメンタリーとは創作である」――その信念で40年TVをつくりつづけてきた男、木村栄文(きむら・ひでふみ)さん、通称エイブンさん、71歳。福岡・RKB毎日放送の名物ディレクターだった。
からだと言葉の自由をパーキンソン病で奪われながら、5年ぶりに1本のドキュメンタリーをつくろうとしている。

栄文 「うつくしくて哀しいものは視聴者に伝わりやすい」

「しょうがないんで、ギャグでもやるかい」といって、エイブンさんが眼を大きく見開きニッと笑う顔をズームアップ。
オープニングにこの映像を配置したところに、わたしは本番組の方向性を受けとった。

NHKディレクター・渡辺考さんはTVの世界に入って15年。2年まえ、ずっと憧れの存在だったエイブンさんが渡辺さんの番組を観たのがきっかけで、エイブンさんに逢う。名ディレクターからなにかを学ぼう、そんな気もちからエイブンさんの家に通うようになった。

ナレーションは柴田祐規子。時折、取材者・渡辺さんのゆっくりした口調で、よく通る声が加わる。
じつは女性ナレーターのなかで、わたしが最も好きなのが柴田祐規子。
客観的な柴田祐規子のナレーションと、主観が入った渡辺考の声が交錯する。それによって映像の色が変わり、心地よいリズムを醸しだす。

渡辺さんにとって、"賞とり男"と称され、TVマンとして十分すぎる仕事を成し遂げたように思えるエイブンさん。その日常を、2005年7月からカメラで追いはじめた。

わたしにとって意外だったのは、エイブンさんの番組づくりにおいて、妻の静子さんの存在が不可欠だということ。渡辺さんも同じだという。そんなディレクターは多くないと思うが、現状はどうなのだろう。
TV番組に限らず、ひとがものを創造するとき、ただひとりの人間を想定している、というのがわたしの持論だが、それが常に配偶者であるというのは幸せなことなのか。

以下、感じたままを記す。

番組づくりに不可欠な妻の存在

エイブンさんの仕事場は食堂のテーブルやリビングルーム。そこで番組の企画を練り、ナレーションの原稿を書きあげてきた。相談相手はいつも妻・静子さん。

栄文 「渡辺さんなんかは、ドキュメンタリーつくっていて、だれに批評を求める?」

渡辺 「妻の言葉を一番大切にしていますね」

栄文 「わかる。ウチがそうだから。カミさんに観せて。とくにナレーションはね。それは的確だね。ゴマすったりすると、すぐわかる。ちょっと遠慮したり、ちょっと皮肉をいったりすると、そういうところをずばっと指摘する」

静子 「音楽とナレーションが入るまえに観せてくれる。どう思うかと」

栄文 「社会派ですよ、社会派。ぼくは人情派だから。女房は社会派なんだ」

静子 「一番強烈だったのは『鉛の霧』。タイまで出かけていくですよ」

(昭和49年6月29日放映の「鉛の霧」。迫力ある映像が部分的に挿入される。インタヴュアーのエイブンさんが映しだされるが、飄々としている。それは相手に心理的負担をかけない技なのか、天性のものなのか)

「あいラブ優ちゃん」

「あいラブ優ちゃん」が放映されたのは昭和51年11月8日。先天的に股関節と脳に障害のある長女・優ちゃんを、1年にわたって取材した番組。
作 木村栄文。制作・著作 RKB毎日。
昭和51年 ギャラクシー大賞受賞。
優ちゃん・11歳、エイブンさん・41歳、静子さん・37歳のとき。

栄文 「もっとかわいがってやるべきだったね。それがわからなかった。通り一遍のものはありましたよ。だけど女房みたいに献身的にはなれなかった。僕には仕事という逃げ場があった」

優ちゃんは自分が映っている番組を繰りかえし観ていたし、エイブンさんが買い与えた人形を宝物にしていたという。

長女・優  昭和40年生まれ
次女・愛  昭和45年生まれ
長男・慶  昭和48年生まれ

平成6年放映の「木村栄文の世界」(NHK)で、エイブンさんは語る。
「コンクールに出すべき作品じゃないんです。だけど賞をもらって、あのときほどうれしかったことはない」

「あいラブ優ちゃん」の続編をつくりたい

11年まえ、妻の静子さんは自宅の一角でクリーニングの取次店をはじめた。この店で優ちゃんは5年間働く。小学6年生から描きつづけた油絵。
6年まえ、優ちゃんは脳梗塞のため亡くなった。
優ちゃんの遺骨は、まだ納骨されていない。自分と一緒の納骨を、静子さんは考えているようだ。

栄文 「あれがいたから仕事ができたんです。あれが一家の宝だった。僕じゃなくて。親はあっても子は育つ。ほんとに優のおかげで家族が固まった。それから自由に仕事ができた。いつも幸運を優がもたらした」

「あいラブ優ちゃん」の続編というライフワークを成し遂げるため、エイブンさんは最新の治療を受けることにした。脳の奥に電極を埋めこみ信号を送ることで、再びからだを動かせるようにする手術。

ドキュメンタリーとは自分の想いを描く創作

足をエステするとオフのからだがオンになるというので、エイブンさんは次女・愛さんにエステを請う。
愛さんはエイブンさんの両足にクリームを塗りこみ、アルミホイルで覆う。

 「撮られる側になったらどう?」

栄文 「ダメだね(笑)。サーヴィスしすぎると悪いと思うし、サーヴィスしないのも悪いと思うし。悩みですよ。ほとんどの仕事が、創った仕事でしょ。音楽ですよ、僕の場合。音楽が相当比重を占めますね」

静子 「『あいラブ優ちゃん』のとき思ったんですけど、ナレーションが重なって、音楽がそのひとの人生をうたう。でもふつうの生活は、音もナレーションもないんですね」

栄文 「ないよね。こういうときに、いいたいことや説明したいことがたくさんある。……いえない。言葉がつづかない」

オフになるとエイブンさんはカラオケでうたう。オンに切り替わることがあるからだ。
次女・愛さんがプレゼントしたというカラオケセットのまえで、エイブンさんは十八番の「石狩挽歌」(作詞・なかにし礼/ 作曲・浜圭介 /歌・北原ミレイ/昭和50年)をうたう。かすれた声で懸命に。

   ♪ 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
     赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
     雪に埋もれた 番屋(ばんや)の隅で
     わたしゃ夜通し 飯(めし)を炊(た)く 

九州大学病院にて手術(脳深部刺激療法)

2005年9月、手術室に入る直前の会話。

栄文 「さきを急ぐ。達者で暮らせ」

静子 「わかった、わかった。暮らすよ(笑)」

10時間後、エイブンさんが手術室からでてきた。
手術は成功。静子さんはつぶやく。
「あ〜あ。へたりこみたい」

1週間後、エイブンさんはうまく声をだせずにいた。
2週間後、退院。

2005年10月5日、からだの痛みはやわらいだが、思うように声はだせない。
ほとんど筆談。
エイブンさんは筆ペンで紙に書いたのを、みせる。

   焦燥感

息子との散歩で気分が好転

2005年11月19日、長男の慶さんがやってきた。東京の制作会社で、ワイドショーのディレクターとして勤めている。慶さんは、小柄で華奢な父親ではなく、大柄でがっちりした体格の母親に似ている。顔も母親似で、やさしい顔つきのエイブンさんとはちがい、ごつい感じ。

 「順調にあなたの息子は育ってますよ」

栄文 「そりゃ、おまえ、うれしいよ」

 「日々仕事をしていくなかで、お父さんはすごかったんだなあ、と思うんだね」

栄文(筆談) 「俺なんてペケ!」

 「親父はすごいひとだと思うんだけど、あんな時代はもうこないと、親父にいわれたんですよ。ドキュメンタリーは視聴率がとれない。スポンサーがつかないということは、番組がないんだと。いまの自分の悩み事をいうと疲れるのでいえないし」

静子さんが横から「家族なのだから、いうべき」という。

栄文(筆談) 「疲れた。それでは俺がつぶれる」

静子さんが「自分を奮い立たせるためには、昔つくった番組を観て、派手な服を着て」という。

慶さんはエイブンさんを散歩に誘う。
手術をして、歩けるようになったのだという。
鳥飼八幡宮(福岡市)にふたりは立ち寄る。
手術をして2ヵ月。この日を境に積極的に外出するようになった。

エイブンさんは、筆ペンで息子の肩につかまりながら散歩する絵を描く。自己をカリカチュアライズし、それを愉しんでいるようにみえる。

執刀医の九州大学助教授・宮城靖氏の診察を受ける。手術は成功したが、エイブンさんの言葉がうまくでるのはむずかしいという。
狭い診察室を歩いてみせるエイブンさんは、右足が震えるような感じ。宮城氏が「それは……」と笑いをこらえたような驚きの声。もしかしたらエイブンさんは、カメラを意識してサーヴィスしたのだろうか。
そのあとは、しっかり歩いていた。

優は俺だぞ

エイブンさんは優ちゃんを撮りつづけ、プライベイト用にまとめていた。油絵を通した人生。亡くなる1年まえまで絵筆を握りつづけた。

栄文 「僕らにとっては、優がいたことでどんなに幸せだったか。優に励まされ、優に女房みたいに感銘を受け、そして死んでいった」

2005年12月、エイブンさんの企画が民放で採択され、放送が決まった。
5年ぶりの取材に出かける朝、不安気な顔で緊張しているエイブンさん。

栄文 「おまえもこないか」
静子 「わたし、行かないよ。あのーって、横からいったらおかしいでしょう」

妻の腰の据わったリアクションに安心したのか、静子さんの肩を引き寄せて笑うエイブンさんの顔を、わたしは"カワイイ"と思った。
       
からだと言葉の自由を奪われても、優ちゃんの続編をつくろうとするエイブンさんについて、渡辺さんは「ドキュメンタリーを切り拓いてきた業のようなものを感じた」と語っていた。
正直なところ、わたしは「業」という表現を陳腐だと思ったのである。
民放の名ディレクターを、NHKのディレクターが取材して番組を制作する。そんな稀有なことに挑んだ渡辺さんに、もっと光る言葉を期待してしまうわたしは傲慢なのだろう。

番組を制作するプロセスで、エイブンさんの脳内にはドーパミンという報酬物質がでてくるだろう。それに自己のすべてを託すことで、エイブンさんは生き延びようとしているように、わたしにはみえる。
いま、エイブンさんは優ちゃんを輝かせることで、自己を生きなおそうとしている。「あいラブ優ちゃん」制作時より高次元で。
わたしが感銘を受けたのは、そんなふうにエイブンさんをとらえたからである。

本番組で紹介されたフィルムで、若いころの静子さんが語っていた。
愛がかわいいというエイブンさんに、優がかわいそうだといったら、「優は俺だぞ」といわれた。それ以来、愛がかわいいといわれても、気にならなくなったと。ということは、静子さんにとっても「優はわたし」なのだろう。

◆妻へのラヴレター

池田瑞穂絵画教室を取材したエイブンさんは、最後の授業で優ちゃんが青い空をじ〜っとみていた、その映像がず〜っと残っているという証言を得て、イメージを膨らませてゆく。

2006年4月17日、RKB毎日放送のスタッフ4人を率いてロケがはじまった。訪れたのは優ちゃんをよく知る画家の菊畑茂久馬宅。優ちゃんの絵の魅力についてインタヴューした。手放しで絵を賞賛する菊畑茂久馬氏。
この日、ロケは夜8時までつづいた。

渡辺 「ロケはいかがですか?」

栄文 「いいねえ。いいよ、やっぱり」

2006年5月9日。

白い模造紙をひろげ、番組の流れを筆ペンですばやく書きこんでゆくエイブンさんに、もの哀しい曲調「石狩挽歌」をカラオケでうたうエイブンさんのかすれた声がかぶさる。ナレーションはない。
泣かせる演出だ。しかしそれに素直に同調できないわたしの感性はおかしいのだろうか。なにかちがう……と感じてしまう。

   タイトルバック 優しいひとへ  
   
   あとは観てのお楽しみ


栄文 「実際に女房がいなかったら、つくれてないな。なにひとつね。『優しいひとへ』というのは、ラヴレターだよ、おまえの」


〔参照〕

木村栄文(フリー百科事典『ウィキペディア』)

民放プロデューサー 木村 栄文さん(読売新聞)
〈上〉(2003/02/01)
〈下〉(2003/02/08)

作れなかった企画「イサク・ベン・アブラハム」
――木村栄文(日本記者クラブ・2004年6月)





2006年06月08日

ガイヤの夜明け「巨大家具メーカー攻防」

2006/05/23、テレビ東京放映のガイヤの夜明け「巨大家具メーカー攻防」を観た。
制作協力・オルタスジャパン

全体的に音楽が過剰である。せめて音量を小さくしてもらえないだろうか。
「ガイヤの夜明け」は、案内役:役所広司、ナレーター:蟹江敬三ということで固定している。
オープニングとエンディングに登場するとぼけた口調の役所広司の案内に、いつもわたしは調子を狂わされる。アップテンポで、案内なしで通してくれたほうがすっきりする。どういう効果を狙っているのだろうか。

以下、番組内容を追っていく。

◆ライフスタイルに左右される家具業界の闘い

現代の居間はシンプルで、収納スペースをつくりつけにするのが主流。
空間を広くとるために、家具はできるだけ置かない。
家のなかから家具が減っていく。

◆ニトリのソファ新戦略

1967年、札幌で似鳥家具店として創業。
現在は135店舗。ことしはさらに20店舗近くふやそうともくろんでいる。
社長は似鳥昭雄さん、62歳。
ニトリはコストの安いアジアに工場をもち、自社開発商品をふやすことで低価格を実現してきた。安さを最大の武器にしてシェアを拡げ、10年で急成長。売り上げは6倍に伸びた。

昨年、インドネシアについで2番目の海外工場を、ベトナム・ハノイに造った。製造工程でできた小さな端材を、底板の補強などみえないところに使うことで、年間8000万円が浮く。
端材をつなぎあわせる作業を映していたが、わたしは強度に不安をおぼえた。

4月14日、ニトリ千葉・長沼店オープン。
4月24日、千葉・船橋に、世界最大の家具チェーン・イケヤ第1号店オープン。初日の来店者数は3万5000人。半径15キロの圏内にニトリの9店舗が入るかたちになった。

似鳥社長 「周りの店はイケアの影響を考慮した予算を立てたが、わたしたちが予想したほど業績は下がっていない」

3月27日、札幌・ニトリ本部にて、定例幹部会議。
春のシーズン、ニトリ全体で売り上げの伸びが落ちていた。
社長は、商品の種類を3分の2まで減らす決断をした。
2020年までに「目標1000店、売り上げ1兆円」を掲げ、海外進出までめざしている。

似鳥社長 「いままでの成功体験を全部否定しないといけない。これが一番の難問関門でね」

ニトリ商品開発担当の相澤修一さん(41歳)は、現在50種類あるソファの責任者。
「安くて質がよいものを作るのはたいへん」という相澤さんが、2004年に売りだしたリクライニングソファは、1万4000台を超す大ヒット。ふつうなら20万円近くするものを、はじめて10万円を切る値段。

相澤 「やっぱり未知の部分がありますので、はたして絞りこんだアイテムがほんとうに売れるのだろうか、という不安がまず一番先に」

相澤さんは、50種類あるソファを利益率の低い商品からふるいにかけていく。価格を下げることができないなら取り引きを中止せざるを得ない。開発の苦労を共にしてきたメーカーを切らなければならないという苦渋の選択を迫られた。

相澤さんは、個性の光るソファを選ぶ目的でタイ・バンコクにむかう。デザインに実績がある、ニトリと取り引きのある工場で相澤さんが選んだのは、丸みを帯びたデザインのソファ。座る位置の高さがニトリの基準に合っているか、入念にチェックする。ソファの弾力性を自分の足で確かめる。

ニトリ本部。
相澤さんが社長に提案する。
商品をタイプ別に分けて似ていないものを選び、50種類あったソファを半分に絞った。そこへ相澤さんが開発した新商品を入れた。
「たいへんけっこうだと思います」という社長のゴーサインが出た。

似鳥社長 「海外に出しても通用する商品開発をしていきたい」

相澤さんの顔が、終始きびしくて硬いのが印象的だった。ニトリの存続のために犠牲になった取り引き先のことが念頭にあるのか。あるいは気の抜けない立場に立たされた人間の顔つきなのか。元来の性格なのか。
いずれにしても、商品開発をするのは社長ではなく、相澤さんのような社員なのだ。

◆大塚家具本社ショールーム(東京・有明)

桐タンス「柳橋水車図」をカメラがゆっくりと映しだす。
10億円相当。職人が13年の歳月をかけて仕上げた。

大塚家具の売上高は700億円(2005年)。
200人余りの販売担当者はアドバイザーと呼ばれ、顧客1組に1人ついて案内をする。豊富な家具の知識とていねいな話術。一流ホテルなみのサービスが、大塚家具のモットー。
売るのは高級家具。スイス製のソファ、192万円。大理石でできたドイツ製ダイニングテーブル、220万円。イタリア製ソファ、483万円。すべて世界一流メーカーの商品。

大塚家具の前身は、埼玉県春日部にあった桐タンスの専門店。現在の大塚家具を築きあげたのは、大塚勝久社長(63歳)。すぐれたタンス職人だった父・千代三さんの失敗(いいものをその価値で売れなかった)から現在の接客が生まれた。いい家具の価値を、お客さんが納得するようにていねいに説明すれば、たとえ高くても売れるはずだ。

大塚社長 「やっと日本国内にいろんなランクの会社がそろった。全体をみたら、将来は共栄共存、みんながよくなるような気がする」

ショールームの受け付けカウンターの裏にあるアドバイザーの部屋にある貼り紙。

    自分が
      楽しくなかったら
    お客様も楽しくない


【アドバイザー・長尾道成さん(27歳)の巧みな接客術】

入社6年目。全国トップの長尾さんの個人売り上げは、約2億7000万円(2005年)。ことしは、さらに上回る勢い。先輩社員を追い越し、11人の部下を率いている。

.愁侫,魑瓩瓩詈譴般

大塚家具でとり扱っているソファはおよそ700種類。
長尾さんは、軽妙な会話のなかからお客さんのニーズと好みを読みとり、商品を絞っていく。50分が経過、ちょうどいいころあいで長尾さんは、あるソファのところへ案内する。狙いすましたかのように熱が入った商品説明を受け、「ほしいものをわかってくれた」という境地でお客さんは商品決定。1時間で25万円のお買い上げ。
長尾さんは、ソファに座っているお客さんに対し、片膝を床について商品説明する。目の高さを意識しているのだろう。

お見送りは、お客さんの姿がみえなくなるまで。
長尾さんは、未成約であっても成約であっても、手書きの礼状を心がけている。

¬だ約→成約

長尾さんは夜、車を走らせ、花村康子さんのお宅を訪問。子ども用のベッドを求めて来店したが、部屋にうまく収まるかどうかわからず買うのを迷っていた。
長尾さんは、ベッドの寸法どおりに切ったクラフト紙を子ども部屋に置く。その上に寝ころぶ男の子。
ベッドの売り上げは7万円。長尾さんは、すかさず別の商品の写真を数枚みせる。それは、花村康子さんが来店時にみていた商品の写真なので、思わず購買欲を刺激される。

花村康子の夫 「僕も営業しているので、今後参考になることが多々あった。そういう面でもよかった」

花村康子 「すごく気もちよくしてくださる、うまい営業。こんなに楽しく買い物できるのかなと。やみつきになっちゃって」

後日、待ちこがれていたベッドが届き、喜んで寝ころぶ男の子。長尾さんは笑顔で満足げにながめている。
長尾さんは、いつも搬入の際に立ち会っているのだろうか。

◆日本の伝統家具メーカー

【東洋美術家具】

広島県府中市で、いまも桐タンスを作りつづける。婚礼家具で全国一の生産量を誇る。
昭和の最盛期に較べて、家具工場は半分に減っている。製造より修理の依頼がふえている。

タンス職人・山崎文弘 「母親、父親が買ってくれたものだから大事にしていた。一種の形見分けだから。タンスよりお金ちょうだいという、いまの時代では考えられないこと」

【松創】

同じく広島県府中市にある。
桐タンスの製造に早くから危機感を感じていた。どんなにいいものを作っても、婚礼家具を必要としない時代の変化。
松岡佳二社長は、テーブルやイスなどの西洋家具の製造を手がけることに決断。とまどったのは職人たち。桐タンス用の大きなカンナから慣れないカンナにもちかえて、美しい曲線を削れるようになるまで10年かかった。
いまでは、日本有数の高級家具メーカーに生まれ変わった。

松岡社長 「やりはじめたときはタンスが主流だから、なにをしてるんだといわれた。結果的には、そのとき蓄えた技術やノウハウが生きている」

◇感想

最も印象的だったのは、大塚家具のアドバイザー・長尾道成さん(27歳)の笑顔と接客方法。一応イケメンの部類に入る長尾さんには、ホスト精神が身についている。同じことをむさくるしいオジサンがした場合に、女性客の反応がどうちがうのかを較べてみたい。
おそらく大塚家具のアドバイザーの平均年齢は低いだろう。
家のような大きな買い物を含め、消費の選択権は女性が握っているといわれている。女性のハートを直撃する販売戦略を研究する必要があるのだろう。

ニトリは通販にも力を入れているようだ。その点、高級家具を接客を神髄にして販売している大塚家具は、通販が不可能。
富裕層相手の販売とはいえ、大塚家具の豊富な在庫管理、人件費とショールーム維持費について、不安はないのだろうか。

ニトリについては、イケア・ジャパンとの競争がどのような展開をみせるのか。


〔参照〕

ニトリ(フリー百科事典『ウィキペディア』)

イケア( フリー百科事典『ウィキペディア』)

世界最大級の家具店「イケア」が日本上陸、ローコスト経営の秘密が明らかに(日経ビジネス)




2006年06月01日

『楢山節考』のラストシーンで雪が降るワケ

映画「楢山節考」の監督・今村昌平が5月30日、亡くなった。79歳。

わたしは原作者・深沢七郎の作品については、『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)しか読んでいない。これは深沢七郎の『風流夢譚』が引き起こした嶋中事件(1961/2/1)より3年まえの1958年10月に刊行されたエッセイ集だが、タイトルから嶋中事件後だと錯覚していた。

「楢山節考」で想いだすのは、『文學界』(1998年2月号)に掲載された宮内勝典氏の「なぜ雪が降るのですか?」というタイトルの一文だ。

上記によると、宮内氏は深沢氏を2度訪ね、私信の往復も何度かあったという。宮内氏がニューヨークに住んでいたとき深沢氏の訃報に接し、その年の暮れ、コリーヌ・ブレ氏が宮内氏を訪ねてきた。ブレ氏はフランスの新聞の特派員をしていた頃、深沢氏にインタヴューしたことがあり、「楢山節考」について質問した。

「最後のところで、なぜ雪が降るのですか?」

深沢氏の答えは、「雪が降れば、なんの苦しみもなく凍死できるから」だったという。

おりんは苦しみながら餓死したのではなく、眠りこんで凍死したのである。

深沢七郎は1987年8月18日、《ラブミー農場の葡萄棚の下で、理髪店用の椅子に横たわったまま静かに亡くなった》。当時、いかにも渋沢七郎らしい最期だと報道されたのを憶えている。

以前に、ある家を取材で訪ねたとき、理髪店用の椅子が楽だという理由で、1脚だけ居間で使用しているのをみたことがあった。わたしはその椅子をすすめられて、座ったと記憶している。



miko3355 at 08:55|この記事のURLTrackBack(0)