2006年08月

2006年08月28日

NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」(2006/8/7) ―前篇

2006年8月15日

わたしは靖国神社に参拝したことはないのだが、それが近道だという理由で、靖国神社の境内を横切っていた時期がある。閑散とした空気のなか、右翼の街宣車が境内に静かに駐車しているのをみたときには異様な感じがした。
境内は広々としているし、周囲の環境も静かで落ちつく。
小泉首相が「公約は生きています」といって靖国神社に参拝した8月15日、約25万8000人(同神社まとめ)が訪れ、若者の姿が目立ったいうのが気になる。

同日、朝日新聞・朝刊に全面広告が掲載された。硫黄島の戦いを日米の視点から描いたふたつの映画について。公開は、アメリカからみた「父親たちの星条旗」が10月28日、日本からみた「硫黄島からの手紙」が12月9日。
クリント・イーストウッド監督の「日本のみなさまへ」というメッセージの末尾にある一節。

《どちらの側であっても、戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在です。だから、この2つの映画は彼らに対する私のトリビュートなのです。
 日米双方の側の物語を伝える2本の映画を通して、両国が共有する、あの深く心に刻まれた時代を、新たな視点で見ることができれば幸いです》

なお、映画製作報告記者会見(2006/4/28)によると、クリント・イーストウッド監督は、日本の若い兵士が死を覚悟して戦争にむかうのに共感できないという。
新藤義孝メールマガジン「週刊新藤」第96号(2006/3/20)に、栗林忠道を演じる渡辺謙について記されている。(新藤氏の母方の祖父が栗林忠道)

《渡辺 謙さんは、「ラストサムライの撮影の時にも、『人を守るために自分が犠牲になる』という武士道精神は、騎士道精神を文化に持ったヨーロッパの人たちには理解してもらえたが、アメリカ人にはなかなかわかってもらえなかった」と語っていました。
 日本人として、そうした心情を表現しなければならない、と熱い思いを私に語ってくれました。
 対談から数日後、役を演ずる前にお墓参りをしたいという渡辺 謙さんを、長野市松代の明徳寺にある栗林家の墓にお連れしました。遺族を気遣っていただくと共に、今回の役づくりにかけるトップ俳優としての心意気に、私は感心しました》

映画の予告編(合計時間 1:33)はこちら

TV出演した梯久美子

昨年の8月、梯久美子著『散るぞ悲しき〜硫黄島総指揮官・栗林忠道』を読み、感想をエントリーしたのがことしの5月7日だった。

その著者・梯久美子が、「週刊ブックレビュー」(2006/8/7・BS2)の特集に出演した。
顔は写真でみたとおりだったが、やや人工的にみえる柔和な笑顔が意外だった。キレのよい文体とは対照的な表情である。洋服もちょっとかわいらしいものを着用していて、バリバリ仕事をしているというイメージではない。肩の力が抜けている。
栗林忠道に魅かれたのがわかるような気がする。
梯久美子の話した内容は著書に記されたものだったが、耳新しかったのは、丸山健二と話していたとき、「女性が栗林中将を書いたらおもしろいのではないか」といわれたということ。

NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」(2006/8/7)

(NHKスペシャルのホームページより引用)

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太平洋戦争の最激戦地となった硫黄島で何が起きていたのか。戦後61年目にして改めて歴史の光が当たろうとしている。

昭和20年2月から1か月の死闘の末、2万人の日本軍守備隊は援軍や補給を断たれて「玉砕」、その戦いは本土決戦に向けて国民を鼓舞する象徴とされた。しかし兵士たちはどのように玉砕戦を戦い、命を落としていったのか、これまでその詳細が語られることはほとんどなかった。負傷した結果、米軍の捕虜となり、奇跡の生還を遂げた元兵士もいたが、犠牲者への配慮から口をつぐんできたためだ。

今回、捕虜尋問記録をはじめ米軍資料やわずかに残る生還者の証言から浮かび上がった真実。それはいわゆるバンザイ突撃のような玉砕ではなく、兵士一人ひとりが楯となり、米軍の占領を遅らせ皇国に寄与する、という凄まじい持久戦だった。命令系統は崩壊し、水も食料もない中、兵士たちは降伏を拒み孤立した戦いを続けながら壮絶な死を遂げていったのである。

一方、死傷者2万8千人を出す史上最悪の戦闘となったアメリカでは衝撃を受け、空襲を中心とする「味方に犠牲を出さない戦争」へと傾斜を深めていくことになる。

日米双方の兵士の証言、人が住めない島になった硫黄島の現況、新発掘の資料を徹底取材し、近代戦争の転換点と言われる硫黄島の戦闘の真実を明らかにする。

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8月7日に放映されたNHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」を興味深く観た。54分の番組だが、活字では表現できない衝撃的なフィルムの力に圧倒された。いまも重苦しい気分が消えない。
前回の更新が7/24だった。硫黄島の戦いについて書こうとすると、動けなくなってしまう。アタマのなかではいろいろな想いが交錯しているのだが、キーボードを叩けない。かといって、ほかのテーマのエントリーをアップする気分にもなれない。そんなわけで、あっという間に1ヵ月がすぎていった。
一方、以前に入手したまま放置していた『レイテ戦記』(大岡昇平・中公文庫)に、遅ればせながら眼を通しはじめた。そのことで硫黄島の戦いを、別の角度から検証したい。

なお、5月7日のエントリーにリンクした「硫黄島探訪」に、〈硫黄島戦における朝鮮人軍属について 〉という項がある。

上記によると、硫黄島戦において朝鮮人軍属が300〜1000名(推定)動員され、創氏改名により日本名を名乗った軍人を加えると、さらに数は多くなるという。
また台湾人軍属については、守備隊に所属していた可能性はあるが、不明とのこと。
《1945年6月、ハワイのパールシティ収容所へ送られた捕虜28人の中に、硫黄島で捕虜になった台湾出身の海軍軍属が1名含まれていたことが確認されている》

また「祖父の硫黄島戦闘体験記」で、「兵隊にも軍属にも朝鮮人は沢山いた」と証言している。

日本人ではないのに、過酷な硫黄島の戦いを体験しなければならない境遇は、二重の意味で理不尽である。
この件については、梯久美子もNHKスペシャルでも触れていなかった。

2万余の日本軍のうち、生還者は1033名。いまや、そのうちの生存者は20名ほどだという。
顔と名前をTV画面に晒して証言するということは、相当の覚悟を要する。
本番組に登場する証言者たちは70〜80代となり、自分が生き延びたことに対する罪障感とともに、戦友の死の意味について答えのない問いを発しつづける。
それは自らの生がピリオドを打つまで終わらない……。
救いはどこにもないのである。

本番組で、硫黄島の全景と画面一杯に拡がる海の映像を観たことで、視覚的に硫黄島が絶海の孤島であることを受けとめた。
ナレーションはなかったが、温泉が湧きだしているような池の映像があった。
戦争がはじまるまえに住んでいた島民は、1000人ほどだったという。温泉に入っていたのだろうか。

過去に制作された硫黄島についてのTV番組を、再放送してもらえないものか。
以下、本番組を順に追ってゆく。

  *

日本兵21000人のうち、生還したのはわずか1000人。

「死ぬ間際の人間に体をつかまれたときなんか、もうどうしたらいいかわからないですもんね。結局は、そういう人も死なしてあげたというか、あれしましたけどね。自分で苦しむよりも、早く逝けと」
(この時点で発言者は不明だが、のちに大越晴則さんの発言だと判明)

アメリカ・ワシントンにおけるパレードの映像が挿入される。
夏になると巨大な硫黄島の記念碑のまえで、海兵隊の栄光を讃えるパレードが行われる。
第二次世界大戦の歴史に残る死闘となった硫黄島の戦い。
60年を経てもアメリカのシンボルでありつづけている。

ひとりになっても最後まで戦えと命じられていた。
それは玉と砕ける勇壮さとはかけ離れたものだった。
ひとりの日本兵の死体をクローズアップ。
しっかり脳裡に焼きつけろ、といわんばかりにカメラが視聴者に迫る。

元海軍下士官/金井 啓(かない・けい)さん(83歳)がこの60年間欠かさずつづけてきた日課は、戦友のために毎朝、仏前に冷たい水を供えること。数個の湯飲みに氷を入れ、そこに冷蔵庫で冷やした水を注ぐ。水は死ぬ間際に、一番戦友がほしがったもの。

『散るぞ悲しき』によると、島には川が1本もないので、栗林を含む2万余の将兵の飲み水は、貯水槽を設けて雨水を貯める方法しかなく、その水さえ汚染されており、兵士たちはパラチフスや下痢、栄養失調で次々に倒れた。1日の水の配給は、ひとり当たり水筒1本と定められ、栗林もこれを守っていた。
一方、米兵たちは、缶詰の水を飲料水とし、米軍の揚陸艇(計73隻)には18リットルの水が入った缶が、1隻につき6000本積み込まれていた。


金井さんは、島で23人の部下全員を失った。最後は地下壕ごと生き埋めにされ、餓死寸前のところを捕まった。
ともに生き埋めにされた部下の八木薫さんは、倒れてきた岩の下敷きになった。八木さんは拳銃で眉間を撃ってくれといったが、人情としてできない。八木さんは手榴弾で自決。その爆風でふさがれてた壕に穴があいた。
部下の死と引き換えにいのちをつないだ金井さんは、なぜ自分は生かされているのか、自らに問いつづけている。

元海軍兵士/大越晴則(おおこし・はるのり)さん(79歳)は、当時17歳の少年兵だった。昭和19年7月、硫黄島の航空基地に整備兵として配属された。
「夜2時ごろ目さめたら、もう眠れないんですね。涙がでてくるしね」と語る大越さんは、戦友のために全国の霊場めぐりをつづけてきた。
「半世紀すぎてこういう話をするのはなんか……」と絶句して泣きだす。
「わたしが話さなければ野垂れ死にした感じにされるじゃないですか。すごく苦労して戦死していったということを、みなさんに知っていただければ幸せだと思います」
そう語ったあと、自らにいいきかせるようにうなずく。

◎硫黄島の全景

1968年にアメリカから返還されたが、自衛隊の管理下におかれ、一般人の立ち入りはきびしく制限されている。
島のあちこちに日本軍の数百に及ぶ地下壕が残っている。
火山の地熱とガスのため、1万柱を超える遺骨がいまも未収集。

◎守備隊司令部壕の映像

穴はすべて手作業で掘られていた。かがんで通るのがやっとの通路。温度は40度以上。
網の目のように張り巡らされた壕は長さ18キロに達する。
持久戦のために全島を要塞化するという過去に例のない戦略。

◎最高指揮官・栗林忠道陸軍中将の写真

最高指揮官は、のちに名将と讃えられる栗林忠道陸軍中将。
本土への最期の防波堤として島を死守せよ、と命じられていた。

◎硫黄島守備隊の貴重な映像(昭和19年撮影)

2万人の兵士の多くは急遽召集された30〜40代の年配者や、16〜17歳の少年兵。
なかには銃の撃ち方さえ知らない者もいた。

『散るぞ悲しき』によると、日本のほとんどの将兵が全国から召集されてこの島に送られた市井の人々で、農民、商店主、サラリーマン、教師、出陣学徒。
それに対し、海兵隊は歴戦の将校と20歳前後の士気旺盛な志願兵で構成されていた。


◎硫黄島守備隊 戦闘心得

   負傷しても戦い虜となるな

   苦戦に砕けて死を急ぐな

※本番組では「戦闘心得」の実物が映され、テロップで上記の2行だけが流れた。
『散るぞ悲しき』(p.194〜195)で、栗林が作成・配布した「膽兵の戦闘心得」が全文引用されている。

「硫黄島の場合は、自分の陣地を死守しろというんですね。うしろに下がったら、硫黄島は小さいですから、海に落っこちちゃいますからね。栗林中将は"一人十殺"といって、1人で10人殺せば必ず勝てるっていう」
そう語るときの大越さんの眼は輝いているようにみえる。17歳の少年兵だったころにもどったように、わたしには感じられる。

大越さんについては『散るぞ悲しき』でも紹介されている。(p.192)

《硫黄島で負傷し米軍の捕虜となった大越晴則は、サンフランシスコ、シカゴ、ハワイなどの捕虜収容所を経て昭和22年1月に復員した。海軍特別年少兵だった彼は、硫黄島で戦ったとき、まだ17歳だった。捕虜として最も若かったが"イオージマ・ソルジャー"であることが知れると、どの収容所でも米軍人から一目置かれた。大越は言う。
「"カミカゼ・ソルジャー"と"イオージマ・ソルジャー"は特別だ―――ある米軍人からそう言われました」》

硫黄島に特攻隊が来援したときの描写。(p.216)
2月21日。千葉県の香取基地を飛び立った第六○一海軍航空隊の第二御楯特攻隊。
故障機などを除く21機が、硫黄島を取り囲んだ米艦船に体当たりを敢行。
硫黄島の海軍司令部では、米軍の無線電話を傍受。
「カミカゼ! カミカゼだ!」という狼狽した声。
日本軍の特攻隊によって沈んだ空母は太平洋戦争を通じて3隻のみで、そのうちの1隻がこのとき。


◎昭和20年2月16日  日本軍を襲う3昼夜にわたる砲爆撃→カラーフィルム

地形が変わるほどのすさまじい攻撃に、ひとりひとりの兵士は地下で堪えていた。

◎2月19日朝  米軍上陸

日本軍の猛反撃に、米軍は大混乱に陥った。
「5日で落ちる」といわれた硫黄島。
連戦連勝の海兵隊が苦戦を強いられた。
(日本軍は36日間にわたってもちこたえた)

元海兵隊軍曹/ピーター・ベナーベッジさん(84歳)
「夜になると日本兵は必ずバンザイ突撃をしてくるはずでした。われわれはそれを期待して待ちかまえていました。しかし彼らは戦いを長びかせようとしていた」

元海兵隊兵士/アル・ペリーさん(81歳)
「多くの仲間が戦いで倒れていきました。朝になると、周りは海兵隊の死体だらけでした。これは生きて還れないと思いました。敵がどこにいるのか、わかりませんでした。手榴弾でやっつけたと思っても、すぐに別の穴からやってくるのです」

海兵隊の戦死者は戦闘の半ばで4189人。衝撃を受けたアメリカ。
米軍は待機させていた部隊をすべて投入し、硫黄島奪取に全力を注いでゆく。
次々と強力な兵器をつぎこんだ。
とくに威力が大きかった火炎放射器で、日本軍の壕の入り口を焼きつくしていくカラーフィルムが挿入される。

大本営は危機的状況をただ見守るだけだった。
米軍の上陸直前、硫黄島の支援方針は、「敵手に委ぬるの止むなき」(昭和20年2月6日策定)。
国民むけには昭和19年に撮影した映像を使って、硫黄島が健闘していると宣伝した。→白黒フィルム挿入 「日本ニュース 昭和20年3月」
すでに捨て石とされていることは国民も兵士も知らされていなかった。
劣勢のなかで戦う硫黄島守備隊の姿は、敢闘精神の鑑として国民の意識高揚に利用されていく。

大本営の「あまりにも一貫性を欠く、行き当たりばったりの作戦方針」を梯久美子は批判し、つぎのように記す。『散るぞ悲しき』(p.114)
《そして、36日間にわたる抗戦の後に将兵たちは玉砕した。その敢闘ぶりを知る日本人は今ではほとんどいない。栗林と彼の部下がどんな地獄をくぐったのかは、歴史の中に埋もれてしまっているのである》

栗林は、大本営に対してもさまざまな局面で伝達する努力をしていた。硫黄島で死を決意して戦わねばならなかった日本兵や、その家族への配慮でもあるし、硫黄島の戦いについての伝達の意味も含まれている。
同書のP.223には、自分たちの死後、なおも国民に惨状を伝えようとした栗林について記されている。

全員の死を前提としている最後の総攻撃の出撃前に、栗林は築城参謀の吉田紋三少佐に命じたという。
「貴官は本島に生を保ち、いつの日にか本島を脱出して、日本国民に対し、この惨状を伝えよ」
彼は筏に乗って島からの脱出を試みたが、失敗。米軍の飛行機を奪って日本に帰ろうとしたが、失敗。5月半ばに敵弾に斃れたという。


元海軍少尉/大曲 覚(おおまがり・さとる)さん(84歳)

海軍整備隊の少尉として120人の部下を率いていた。軍の組織が一気に崩壊していく現場に立ちあった。
米軍占領範囲を突破して摺鉢山を奪還せよという命令に、「これが総攻撃なのかと思った」と皮肉っぽい表情を浮かべながら大曲さんは語る。→硫黄島図(CG)により総攻撃の作戦を示す

地下壕から飛びだした日本兵は、米軍の狙い撃ちにあった。
もどる場所も部隊もなくした兵士たちは、孤独で凄惨なゲリラ行動へと追いこまれていく。

大曲 「死体のなかに入って戦車がくるのを待っている。戦死しても、弾(たま)よけになって戦争しなければならないのか」

上記の大曲さんの発言に、正直なところわたしは驚いた。
「弾よけ」というのは大曲さんの主観なのだから。
もしかして大曲さんは、総指揮官・栗林中将に批判的なのだろうか。
それとも無謀な戦争に国民を巻きこんだ、貌のみえない戦争指導者を批判しているのだろうか。
わたしには、証言者のなかで大曲さんだけが謎なのである。
生還者の栗林中将に対する評判はよかったらしい。当時の栗林は国民的人気があったという。しかし栗林批判があってもおかしくないだろう。
なお大越さんも、死体の下でじっとしていたと証言していた。

『散るぞ悲しき』によると、総攻撃前後の模様はつぎのとおり。
3月16日、ニミッツ大将が硫黄島作戦の集結宣言を行った。
3月17日夜、米軍の重包囲に出撃の隙が見つけられず、出撃拠点である来代工兵隊壕への転進だけが行われた。米軍の包囲がゆるんだのが19日頃。栗林は24日夕方に包囲網が解かれたのを見て出撃の好機と判断。
3月25日、栗林は陸海軍約400名の先頭に立った。部隊は海岸に沿って擂鉢山方面へ南下。
翌26日午前5時過ぎに海兵隊と陸軍航空部隊の野営地を襲撃。日本軍の組織的抵抗は終わったと思い込んでいた米兵たちはパニックに陥る。約3時間におよぶ激烈な近接戦闘の末、米軍の死傷者約170名。生き残った日本兵は元山、千鳥飛行場に突入し、戦死。栗林の最期を見届けた者は、一人も生還していない。
米海兵隊戦史「硫黄島」は、26日早朝の総攻撃を「万歳突撃ではなく、最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった」と評している。


3月16日、栗林中将が大本営に宛てて発した訣別電報から、大本営は「徒手空拳」を削除して発表した。

大本営発表(3月21日)→ラジオの音声が流れる

   硫黄島のわが部隊は
   戦局ついに最後の関頭に直面し
   17日夜半を期し 最高指揮官を陣頭に
   皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
   全員壮烈なる総攻撃を敢行す
   との打電あり 爾後 通信絶ゆ

大本営は、「壮烈」「総攻撃」など勇壮な言葉をつけ加えていた。

日本は沖縄戦、本土決戦と、国民総動員の戦いに邁進していく。

米軍撮影(3月26日)の白黒写真が挿入される。
敵陣を襲って全滅した栗林中将の部隊。多数の死体。
腹部を破壊された兵士の死体。

これら兵士たちの無惨な最期が、日本の国民に伝えられることはなかった。

                           (つづく)