2006年09月

2006年09月23日

にんげんドキュメント「大仏に挑む〜平成の仏師 技と心〜」

9/22に放映された、にんげんドキュメント「大仏に挑む〜平成の仏師 技と心〜」(NHK総合/22:00〜22:50)を観て感銘を受ける。
クレジット表記の制作・著作はNHKとマイ・プラン
〈再放送〉NHK総合:9/26(火) 00:00〜00:50

8/28にハイビジョン特集として放映されたときのタイトルは、「仏心大器 平成の仏師・大仏に挑む」となっている。このタイトルのほうが冴えている。
放送時間は21:00〜22:50(110分)なので、本番組は半分近く短縮されている。

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〔NHKのホームページより〕

 松本明慶(まつもとみょうけい)さん(61)は、日本を代表する仏師のひとり。
 鎌倉時代の運慶、快慶の流れを汲む“慶派”の仏師として44年間で数千体の仏像と9体の大仏を手がけてきた。京都市西京区に工房を持ち40人近い仏師集団を率いて年に150体を超える仏像を生み出している。松本さんの仏像作りは10代のころ弟が急死し仏とは何か自問することから始まった。今も「仏来い」と心の中で叫びながらノミを振るう。
 松本さんは平成18年の春まで、広島県宮島の寺院から依頼された大仏の制作に取り組んできた。身の丈およそ5メートルの不動明王には初めて百檀(びやくだん)を大胆に採り入れた。仏が宿るとされる木で大仏を作ることは長年の夢だったが、素材が非常に硬くこれまでになく神経と力を使う作業が続いた。
 多くの弟子の先頭に立ってひと彫りひと彫りに妥協を許さない松本さん。4年間の精進を経て慈悲と憤怒を併せ持つ不動明王に眼が入った。制作過程を1年近く克明に追い、手を合わせる人ひとりひとりの思いを映す仏像を、とノミを握る平成の仏師の心に迫る。

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近ごろ、なまなましいドキュメンタリーを観つづけてオーバーフローだったので、本番組で一息ついたという感じが強い。
仏像が好きなので、それを彫る仏師については以前から興味があった。
仏像は本体からエネルギーがでていて、それを撮った写真からも同じエネルギーがでているといわれている。ということは、仏師のからだからもエネルギーがでているのであろうか。

松本明慶が広島県宮島にある大願寺から不動明王の制作を依頼されたのは、20歳のころだった。「勉強させてくれ」といい、実際にとりくむまで40年の歳月を要した。
松本明慶の振るうノミの動きに魅せられた。「木のなかに仏が宿っている」というのが伝わってくるような感触。仏が宿る木といわれる百檀はとても硬く、ついにノミの刃が欠けた。
最も緊張したのは「眼きり」(仏にいのちを吹きこむ)の場面。松本明慶は大仏を仰ぎみ、精神を集中させてからノミを入れた。

「仏像は器」という松本明慶の言葉が印象的だった。
手を合わせるひとびとの祈りとともに、仏像は成長してゆく。


〔参照〕

仏師―フリー百科事典(Wikipedia) 

松本明慶 八百年の伝承者

人間劇場 炎の仏師・松本明慶

何百年もの間 思いを込めて 拝まれ続ける仏様






2006年09月21日

新日曜美術館「悲しみのキャンバス 石田徹也の世界」

束芋についてはこちらにアップしたが、NHK教育の番組「新日曜美術館」ではとりあげられていないようだ。しかし8/20放映の本番組〈アートシーン〉で、束芋の個展「ヨロヨロン」がとりあげられ、ガラスごしの原美術館の庭をバックにして、束芋が立ったまま短くコメントする姿が紹介された。

新日曜美術館「悲しみのキャンバス 石田徹也の世界」(2006/9/17)を観て、衝撃を受けた。
較べるのもおかしいが、石田徹也は束芋を軽く超えている。

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〔NHKのホームページより〕

2005年に31歳で亡くなった無名の画家、石田徹也。今、遺作集と有志による展覧会によって、その作品が注目を集めている。石田の作品には、必ず石田自身の自画像と思われる人物が登場する。しかしその人物が学校の校舎に閉じこめられる男に変身したり、葬式の場面ではプラモデルのように回収されるなど、現代社会が生みだす抑圧感や日常の中に潜む怖さ、危うさなどの負のイメージを鏡のように鮮やかに浮き上がらせる。

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石田徹也の作品に必ず登場する自身の分身とおぼしき人物は、いずれもうつろな視線をなげかけている。にもかかわらず、みるものにストレートに訴えかけてくる。
シュールだけれど、リアルなのだ。
本番組では、石田が克明に記した「創作ノート」と「夢日記」、友人たちの証言から、創作の鍵を掘り起こしている。
「夢日記」がそのまま作品のモチーフになった画が紹介され、なるほどと思った。

石田はひとと話さなくてもいいアルバイトをしていた。それらは個性を必要としない、過酷な肉体労働である。アルバイト先に提出した履歴書に記された職歴は、それを物語っている。
おかしかったのは、履歴書に貼付された石田の写真が、画に登場する分身とそっくりだったこと。
肉眼でみた石田はどんな顔だったのだろう。知りたかったという想いにかられる。当然ながら、石田は自分の肉眼で自分の顔をみることはできない。鏡でみた自画像が、作品に投影されている。

経済的援助をしようかと申しでた母親に、「そうすると自分がダメになるから」と断ったという。

石田の友人(男)が、石田はカップラーメンやパスタばかり食し、すべて絵の具に回していた、と証言。娯楽に時間を費やさず、画を描きつづけたという。
別の友人(女)は、2003年に重い肝臓病になった石田の不安について語っていた。

本番組では、街で数人に『石田徹也遺作集』をみせ、感想を求めている。
石田徹也の素性を知らない彼らが、画から強烈なメッセージを受けている。
画をみるまえは弛緩した表情の青年が、感想を述べたときには、真摯な顔に変貌していた。
かんじんなことを意識から除外することで生活するのに便利な道を選択している自己に、「それでいいのか」と突きつけられたのではないか。
母親と一緒の小学生の女の子は、母親よりも的確な感想を述べていた。

番組で紹介される石田の画をみて、わたしは世界に通用すると思った。
石田の画には、それだけの哲学がある。
現実世界に対する鋭敏な観察と批判精神。
地べたを這う視線。
たとえば売春でエイズを発症したタイの少女は、石田の画をみてどのような感想をもつだろう。貧困のため学校に行けずに労働している子どもたちは、どうだろう。

石田は国際的舞台を夢み、語学を勉強するスケジュールを記していた。

2005年5月23日、踏切事故で逝去。享年31歳。
不謹慎だが、その事故現場が描かれた石田の最期の画が、わたしの脳裡に浮かぶ。死に際しても、あのうつろな眼をしていたのではないだろうか。
そんな夢をみた石田が現実世界で実行した、という解釈も成立するのではないか。
生死を分けた踏切だが、石田の内面世界において、生と死に境界線はなかったように思う。

石田徹也によって、芸術の凄みをあらためて感じることができた。


〔参照〕

石田徹也追悼展 「漂う人」




2006年09月18日

公共放送・NHKの存在意義

NHKの番組改変問題については、本blog で2005/10/192006/05/30にエントリーした。

NHK民営化の声もあるなか、公共放送について自分なりに考えてきた。
わたしは、公共放送としてNHKが存続してほしい。

朝日新聞・夕刊に、7月から9月にかけて「公共放送像を語る」というタイトルで、8回にわたって談話が掲載された。
7回・門奈直樹(立教大学教授)は、BBCとNHKがほぼ同時期に公共放送をめぐる議論が起きたのは、「インターネットの普及など、世界的に放送の価値が問われている共通の背景がある」と語っている。

最後の8回・永井多恵子(NHK副会長)は、受信料支払率が7割だという現況について、「罰則なしで、この数字はすごい」という感想をもち、「最終的には視聴者のみなさんの判断を信じている」と語る。
永井多恵子はNHK総合にしばしば登場する。それを観ていて、NHKは変わらないなあという気分になるのは、わたしだけだろうか。

上記の新聞記事よりおもしろかったのは、NHKラジオ第1で3夜(8/9〜8/11)にわたって放送された「世界の公共放送」というタイトルの番組。

  *

憲法メディアフォーラム」の匿名座談会「現場記者が見た小泉政治」を興味深く読む。

座談会ゲスト

大手新聞社編集委員
大手新聞社社会部記者
NHK報道局記者
在京キー局政治部記者

司会

岩崎貞明(『放送レポート』編集長)
丸山重威(関東学院大学教授)

NHK報道局記者は、番組改変を内部告発した長井チーフプロデューサーたちの配転問題について、現場では「いきなり記者会見してしまったのは我々も驚きました。他にやりようがあったんじゃないかと思う人は多いです」「本音では、片が付いたと思いたいのです」と発言。
「NHKの組織自体がガタガタしてきてリストラを組合が認める状況」であり、「とても外部に向けてアピールするところまでいかない」。

末尾で大手新聞社社会部記者がつぎのように発言している。

《その「支持を得られる」ということですが、読者・視聴者の支持を得られそうになければ、正しいと思ったことでも報道しないのか。実は、そこが問われているのではないか、とも思います》

  *

2006/9/5付け朝日新聞・朝刊に小さな署名記事(岩本哲生)をみつけた。

ネット事業を広げても…TV番組制作会社 単価落ち利益縮小

全日本テレビ番組製作社連盟による二つのアンケートで、中小テレビ番組制作会社の経営実態がわかった。有効回答は、会員総数(テレビ局を除く正・準会員89社)の半数程度。
 
インターネット向けの動画にも事業を広げているが、地上波テレビ局の番組制作費削減で厳しい状況。

昨年秋から今年春にかけて番組制作費の削減を元請けから要請されたケースが42社中17社あり、NHKと民放の情報番組やドキュメンタリーが多い。

テレビ局だけに頼る現状では、制作会社の厳しい状況は簡単には変わりそうにはない、と結んでいる。


〔参照〕

情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士:ワシントンタイムズ(統一協会系)がNHK圧力問題などで安倍批判!〜WHY?(2006/09/17)

Cityscape Blog: 安倍政権の徴農政策−自由民主主義から極右全体主義へ(2006/09/17)

世界を覆い隠すメディアウォール「NHK番組改変問題」を問う(石田英敬)
初出:『世界』岩波書店 2005年4月号





















2006年09月14日

偽装請負

新聞をキッチリ読んでいるわけではないが、朝日新聞・朝刊がおもしろくないと感じてから久しい。夕刊と別刷り・beは、わりにおもしろい記事がある。
そんななか、2006/7/31付け朝日新聞・朝刊の1面に「偽装請負 製造大手で横行」という見出しを眼にしたとき、はっとした。
この違法な労働形態はたいへんな問題をはらんでいると思った。
3面にも関連記事があり、将来が見えない不安を抱えつつ漂う「偽装請負」の現場で働く若者たちの証言が記されている。
この3面記事で最も印象的だったのは、末尾の「冷たい視線」。そこから引く。

日本の製造業復活の陰で、顧みられることのない無数の若者たち。若い労働力をかき集めてメーカー側に供給する請負会社は、この10年で大きく成長したが、利益の源である彼らへの視線は冷めている。「仕事に不満があっても実際に声を上げることはほとんどない」と請負会社の元幹部。
 別の請負会社幹部も皮肉を込めて語った。
「最近の若者は、実力主義を『時給が100円高くなる工場へ移ること』と、はき違えていたりする。一生こんな賃金で使われ続ける彼らの将来は大丈夫かねえ。我々にとってはありがたい存在だけど……」


上記を読んでわたしは、20年近くまえ、「ゆとり教育」について聴いた講師の話が甦った。
それは当時わたしが住んでいた都内の図書館で開かれた集会だった。
「ゆとり教育」というのは、「みなさまのNHK」と同じくらいわたしにはわかりにくい。
その講師の説では、国が必要としているのは超エリートと従順な労働者である。
「ゆとり教育」によって授業ががわからなくなった子どもたちは、教育のシステムが悪いのではなく、授業がわからない自分が悪いのだと思いこむようになる。やがて彼らは従順な労働者に移行する。
一方、超エリートの養成として、大学院よりハイレベルの教育機関を新設する。

ゆとり教育は1977年にはじまり、1989年、1999年と段階的に授業時数が削減されている。
学力低下を懸念した親たちは子どもを塾に通わせ、そのことが公立学校の荒廃を招いた。
また経済力のない家庭の子どもは、塾に通うこともできないまま放置された。
いま、格差社会が大きくクローズアップされているが、それは用意周到だったのではないか。

話題になったNHKスペシャル 「ワーキングプア〜働いても働いても豊かになれない〜」が放映されたのは、2006/7/23だった。
なお、この番組をテーマにNHKは9/9に「NHKふれあいミーティング」(視聴者とNHK番組担当者の対話の場)を実施したらしい。ホームページで参加者を募っていた。

朝日新聞の記事は以下のようにつづく。

■8/1・朝刊
 松下系社員 請負会社に大量出向 
 偽装是正昨年指導 違法性回避索か
 労働局、実態調査へ

 「合法」なら広がる恐れ
 松下系の大量出向 派遣移行嫌う企業

■8/2・朝刊
 派遣採用への補助金
 受給後、請負に変更
 松下系工場 兵庫県から2億円
 
■8/9・朝刊
 偽装請負「経団連、是正を」
 連合会長 労組、目をつぶっていた 
      大量出向は一種の脱法

■8/13・朝刊
 トヨタ系が労災隠し
 愛知の工場 偽装請負 背景に

 労災隠し 偽装請負 発覚恐れ
 製造業で急増 「氷山の一角」

■8/22・朝刊
 製造請負 「労災増、下請け把握を」
 厚労省 発注元に協議会求める

■9/5・朝刊
 偽装請負の監督強化
 厚労省、悪質業者は処分


〔参照〕

偽装請負(asahi.com)


偽装請負(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)







 


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2006年09月11日

富永太郎の上海体験が中原中也に与えた影響

2006/8/10付け朝日新聞・夕刊に、【「中也の時代」鮮明にした詩人・富永太郎の上海体験】と題する署名記事(白石明彦)が掲載された。興味深く読む。
「中原中也の会」が東京都内で開いた「富永太郎と上海」をテーマにした研究集会について記している。

「当の中也についてはあえて論じず、彼に影響を与えた詩人富永太郎の上海体験を探ることにより、中也が生きた時代の文学的雰囲気を浮かび上がらせる刺激的な試み」だという。
とはいえ、この研究集会の軸足は中原中也にある、当然ながら。

上海出身の張競(明治大学法学部教授)は、散文詩「断片」についてつぎのように述べた。

卑近な情景がみごとに詩的イメージと化した。都市のイメージがこれほど鮮やかな言語感覚でとらえられた例は日本文学でもまれだ。文化的無国籍性をもつ上海で富永は異空間を体験した

  *

【時系列でみた富永と中原】

●1923年(大正12)
8月、富永太郎はひとりで仙台旅行し、上海旅行を思い立つ。
9月、関東大震災。
11月、永住のつもりで上海に渡る。

●1924年(大正13)
2月、自活の見込みなく帰国。
6月末、京都へ。正岡忠三郎の下宿に滞在。
7月、冨倉徳次郎の紹介で中原中也(立命館中学4年生)を知る。ふたりの友情には他の容喙(ようかい)を許さぬ緊張したものがあったと、正岡と冨倉が証言している。
10月11日、最初の喀血。
11月、村井康夫宛書簡で、中原について「ダダイストとの嫌悪にみちた友情に淫して四十日を徒費した」と記す。
12月20日、肺尖を宣告される。

●1925年(大正14)
1月7日、第2回喀血。22日、第3回喀血。
3月初旬、母とともに神奈川県片瀬に転地。中旬、中原は長谷川泰子とともに上京。
4月、中原はこのころ知りあった小林秀雄とともに片瀬に富永を見舞う。
5月3日、片瀬より脱走、代々木富ヶ谷の自宅に帰る。
6月末から肋膜炎を併発臥床。
10月25日、大喀血。
11月5日、危篤。11日、喀血。12日午後1時2分、永眠。夕刻、死顔の写真を撮す。13日昼、納棺。夕刻、中原が蒼い顔をして来る。14日、2時出棺、代々幡火葬場にて荼毘に付す。

現存する富永の手紙の最後は、1924年10月23日付け正岡忠三郎宛である。小林に絶交された中原が、ちょいちょい病床の富永を訪ね、小林の悪口をいう。そんな中原の饒舌に閉口している様子が記されている。
正岡は臨終の席で、面会が許されたことを中原に告げないよう富永に頼まれる。ただしその理由は複雑だと大岡昇平は説く。

  *

わたしが『富永太郎と中原中也』(大岡昇平/レグルス文庫/1975年)を入手したのは、筑摩書房版『大岡昇平全集 17』(1995年) を読んだあとだった。したがって内容の大半はすでに知っていたことだが、巻末に収められている岡庭 昇の解説がおもしろい。

岡庭が評伝『朝の歌』の熱烈な読者となった理由は、《「愛」以上に「憎」があるのではないかとおもえるほどの、その激しいパッションに魅かれたから》だという。
そして岡庭は、《大岡氏の体質は富永にやや近く、中也とは正反対であろう》が、《決定的な影響下に出発したというにせよ、大岡昇平という文学者(あるいは認識者としても)に、かれらの影響の痕跡はみじんもみられない》 という。わたしはこの説に同意できるのである。
末尾で岡庭は、《富永太郎にとって、「放蕩」とはいったい何であったのか》という要求を、大岡昇平に対してつけくわえている。カギカッコつきなのは、《けっして放蕩にとどきえなかった》という意味であり、この点について大岡に小説的な造形を期待している。

中原とは比較にならない教養をもっていた富永から、中原はあらゆることを学んだ。それを少しも学んだとは思わず、それら土台の上に、一生自分の独創性と信じるものを追求していったのが中原の個性だった、と大岡昇平は記している。

大岡は、中原と富永を世に知らしめるために情熱を傾けた。
中原については達成感があったのではないかと想像するが、富永については未完に終わった。
角川書店から刊行予定だった『富永太郎全集』全3巻は、大岡の死とともに消滅したに近い現状である。
しかし全集が刊行していたとしても、大岡は富永について自己追究をやめなかったのではないかと、わたしは考えている。
それはわたしが「富永太郎を愛しすぎている」からではない、と認識している。

かつて「小林秀雄實記」の掲示板に、大岡の中原と富永に対する重力がちがう、という書きこみをして、わたしは運営者の杉本さんから鋭くつっこまれた。当時もいまも、うまく説明できないのだが、中原と富永が対立軸として存在していることはたしかだろう。
大岡は富永のことを「大人(たいじん)」といっている。なるほどと思う。


※散文詩「断片」は、「富永太郎についてのページ」の「富永太郎の詩」にリンクさせていただきました。


miko3355 at 10:17|この記事のURLTrackBack(0)富永太郎 

2006年09月03日

NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」(2006/8/7) ―後篇

前篇(2006/08/28)

降伏を拒否し捨て身の地上戦を挑んでくる日本人に対し、アメリカは味方の犠牲をできるだけ減らすため空軍力の増強。
日本軍から奪った飛行場は、B-29の護衛戦闘機の基地となった。
日本本土への空襲は、より激しくなっていく。
無謀な徹底抗戦に対し、都市への絨毯爆撃で応じたアメリカ。

最高指揮官が戦死したあとでも、島の地下壕には数千人の兵士たちが潜んでいたといわれる。
生還者にとっての新たな地獄はここからはじまった。

元海軍通信兵/秋草鶴次(あきくさ・つるじ)さん(79歳)は、いまも設備管理の仕事をしているが、島での記憶がこころを離れない。
「残酷だったんですよね。日本人同士のね。ほんとに家族の人に聞かせたくないっていう話もありますしね」

秋草さんは最近になって、硫黄島の体験を手記に残そうと考えるようになった。
戦後すぐにとったノートには、歯止めをなくした戦争のむごたらしさが、こと細かに記録してある。
「玉砕」の一語では、あの島で苦しんだ仲間の想いが、だれにも知られることなく消えてしまう。
それに堪えられるのか?

秋草 「堪えられないでしょうね。だけどそんなにやっても、それが頭から否定されたら話にならないというか、その間に生きた時代、すごした時代はなんだったのか、ということになるからねえ。その間は、じゃあ空だったのか」

秋草さんは右手と左足に重傷を負い、玉名山の大型地下壕に身を寄せていた。
その壕の入口を、のちに米軍が撮影していた。
南方諸島航空隊本部壕……凄惨な事件の舞台となった場所
米軍の調査見取図

本部壕の食料や水を目当てに兵士たちが集まってきた。
貯えはたちまち底をつく。

壕内部のフィルム。
むせかえるような高温。腐敗する死体。
泥水や蛆を口に入れてしのぐ日々がつづいた。
秋草さんは、傷が悪化し動くこともできぬまま、近づく死の恐怖と闘っていた。

秋草     「どうしたと思いますか?」
ディレクター 「いやあ……」
秋草     「通信隊は火をつけて逃げたんですよ。そこに残った炭を食べて……」
ディレクター 「"炭"って、焼いた?」
秋草     「(大きくうなずく)それを想いだすとね、ほんと涙がでてくる。食べるもの、ない」
ディレクター 「"炭"は食べられるんですか?」
秋草     「食べる。ないんだ、入るものが。耐久試験だ、人間の。そういう想いだったね。でも、がんばるんだ。このことを、だれがいうんだと。だから、オレは生きなくちゃならない。そういう気もちです」

"炭"の正体とは?  

地下壕にまだ多くの日本兵が潜伏していることを知った米軍は、島中で大がかりな掃討作戦を開始した。その様子を分単位で詳細に記録した資料。→米軍戦闘記録のフィルム

拡声器を使った投降の呼びかけに、日本兵は応じない。
掃討作戦に参加した元米陸軍兵士/ジェラルド・クラッチさん(82歳)はいう。

「ある意味では彼らの勇敢さ、国への想いの強さに感心しました。しかし、でてきて生き抜くことをしないのはバカげていると思いました、これ以上殺すつもりも傷つけるつもりもない。キミらはこの島を生きてでられる。日本にもどれるのだと約束していたのです。それなのになぜなんだ。いったいどんな想いが彼らのなかをよぎっているのか、と思いました」

カメラは地下壕内部のクモの巣をクローズアップ。
日本の兵士たちを呪縛している投降できぬ理由を、クモの巣で形容しているように映る。

金井 「でていけば、何日かすれば必ず呼びだされて、銃殺されるということは、教育されているんです。どうせ生きて還れないのなら、最期までみとどけて死のうという考えが起きてきちゃうわけです。助かろうとは思ってない」

ジェラルド・クラッチ 「ボロボロの軍服を身にまとった憔悴しきった兵士が姿をあらわしました。おそらく下級兵士だったのでしょう。洞窟の入り口から5メートルほどでてきました。そのとき突然、髭も剃ったきちんとした身なりの将校がでてきました。そしてこの下級兵にむかって拳銃を抜くと、迷わず兵士の肩を打ち抜いたのです」

大越 「捕虜になったら国賊といわれて、戸籍謄本に赤バッテンで書かれるらしいんですね。そういう教育を受けてきたんです。1回、チョコレートとか携行食品もってきた兵隊がいたんです。(壕の)なかに入ってきてね、むこうの待遇がいいからでろよ、といったけど、いや、でられない。その兵隊は国賊になるから、かわいそうだからといって、うしろから撃った。で、這いあがっていったらしいんだけど。死体はなかったですけどね」

3月、4月、5月と、南方諸島航空隊の壕では籠城がつづいた。
ほかの壕を焼けだされた兵士たちで膨れあがっていた。
元海軍少尉/竹内昭(たけうち・あきら)さん(82歳)も逃げこんだ1人だった。
地下壕では日本人同士の衝突が起きるようになった。

竹内 「150人のうち、約半数は負傷兵でしたね。寝たきりに近い。3人1組の小部隊をつくって、でていけと。帰ってくるなと。食糧が限られているでしょ」

大越 「人間という感じじゃないですよね。畜生になってますからね」
 
大曲 「理性があれば、いま死ぬという人間に、一滴でも水飲ませてあげようとかと、こうなりますよ、人間として。それが起きないんですから。わたし1人ではなく、全部がそうなんです。水のために殺しあいするわけですから」

  *

5月7日、南方航空隊壕に対し、本格的な攻撃がはじまった。
投降の勧告に応じない日本兵に対し、発煙弾での燻りだしがはじまった。→カラーフィルム

でてこない日本兵に、米軍は抑制を失っていく。
壕の入り口から爆薬を投入。→カラーフィルム

それでも日本兵は奥にのがれて生き残った。
攻撃はさらにエスカレートする。

ジェラルド・クラッチ 「兵士として任務は果たさなければなりません。それに、いま思えばおぞましいことですが、当時はそれほど抵抗を感じてはいませんでした。責任を問われるべきは、日本の指導者たちです。彼らが長い時間をかけて、戦争の実践や投降についての考えを上からゆがめてしまったのですから」

「硫黄島探訪」
戦闘詳細の項に、日本軍には珍しく部隊単位で整然と投降した事例が、ふたつ紹介されている。
 〆成第二旅団野戦病院(長:野口巌軍医大尉)
 ⇒弸彪築勤務第五中隊


5月14日午前11時、米軍は最後の行動にでた。海水を壕のなかに注ぎはじめた。
海水の表面をおおっていたのは、大量のガソリン。

秋草 「そこへ手榴弾かなんか落ちたんですね。爆発したんです。ざあーっと火の海。水が燃えてるんですよ。人がいたでしょ。皮がぶらさがってるんですよ、からだじゅうが」

大越 「7人ぐらいはまだ生きてたんですよ。自決しろといって、手榴弾、2人に1発ずつやって。1人1発じゃ、もったいない。ところが手榴弾自体が、湿気で不発になってますからね。で、苦しまないほうがいいだろうというので、銃で撃って(自分のこめかみを指さす)、自決させましたけどね」

大曲 「生きるわけがないわけですね。医療施設もないし。上半身やけどになって。じゃあ、機関銃で殺しちゃおうかと、そういうのがでてくるわけですよ。極限というか、理性なんてぜんぜん働かないですよ、そりゃあ。もうガソリン入れて、火つけられただけでも、右往左往しちゃうわけですから」

5月17日、米軍資料には、「最後の日本の集団が掃討された」とある。

   63人拘束、20人死亡。

捕らえられた日本兵は、栄養失調と酸欠で意識混濁に追いこまれていた。

17歳の少年兵だった大越さんは壕からでた直後、米軍から足を撃たれ気を失った。

手足に重傷を負っていた秋草さんは、意識をなくして水に浮いていた。

洞窟の惨状には、米軍ですら言葉を失った。→折り重なる死体のようにみえる写真

なぜそこまでつづけねばならなかったのか。
硫黄島玉砕戦――それは極限の戦争だった。

アル・ペリー 「戦争に勝者も敗者もありません。われわれがやった殺しあいは、なにもかもがバカげています。戦争が終わったあと、日本軍の洞窟に入ってみました。負傷者を寝かせていた台がありました。そこですごしていた兵士たちの気もちを考えてみました。いったいどんな想いで死を迎えたのだろうかと。まさに戦争は地獄です。ほんとうに怖ろしいことです」

アル・ペリーさんの発言に対し、わたしにはNHKスペシャル「調査報告・劣化ウラン弾〜米軍関係者の告発〜」(2006/8/6)が浮かんできて嘆息する。
戦争が引きおこす地獄は、硫黄島戦のころより較べようもなく深化しているのだから。

大越 「(ハンカチで目頭を押さえ苦しげに顔をゆがめながら)こうやって話できるのは、ひとつの供養だと思ってます」

硫黄島(ことし6月)、遺族らによる戦没者慰霊祭(小笠原村主催)が行われた。→フィルム
この島の地下には、いまも1万柱を超える遺骨が収集できぬまま眠っている。

秋草さんの自宅に植えられた百合(?)のつぼみをクローズアップ。
それはなにを意味するのか。
戦地で散った若者たちをわたしは連想した。一方で、庭に妻と立つ穏やかな秋草さんの表情から、つぼみが開いていく時間の推移を静かに見守る秋草さんのいまの生活に想いを馳せた。

秋草 「死んでねえ、意味があるんでしょうかね。だけど、無意味にしたんじゃ、かわいそうですよね。ひどいですよね。そしてどんな意味があったかというと、これはむずかしいんじゃないですか。オレはこういう生き方しかできなかった、勘弁してくれというだけじゃないでしょうか。これで許してくれ、これで精一杯なんだ、という気もちですね」

秋草さん夫妻が、自宅まえでスタッフに手を振りながら、番組スタッフに別れの挨拶。

ラストシーン。
最寄り駅の周辺らしき雑踏で、自転車で番組スタッフを見送る金井さん。
車や道行くひとびとが金井さんとは無関係に動いてゆく画面に、金井さんの孤絶感のようなものが迫ってくる。
人波にはさまれながら、金井さんは帽子を高く頭上にあげ、番組スタッフに別れの挨拶。そして深く一礼。

戦争犠牲者の上に、いまの日本の平和が築かれている。そのことにわれわれは鈍感になっているのではないか。そんな感じを、わたしはこのラストシーンから受けとった。