2006年11月

2006年11月29日

馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト キリングフィールズを駆けぬけた青春』

集英社から2006年9月10日に刊行された本書を知ったのは、朝日新聞の広告だった。
10月22日にBS2で放映された「週間ブックレビュー」で、本書がとりあげられたのを興味深く観た。
推薦人は西木正明(作家)で、ジャーナリストが現場にいることの重要性を強調していた。スタジオが異様な熱気に包まれたのは、司会が永田渚左(ノンフィクション作家)だったのも大きいと思う。

正直なところ、本書の感想を書くのは気が重い。わたしがインドシナ情勢にきわめて疎いからである。もちろんあまりにも有名な一ノ瀬泰造については知っていたけれど。
そんなわたしが本書を読み、「事実」とはなにか、「馬渕直城の見た事実は正しいのか」、ますますわからなくなったのである。
にもかかわらず、わたしは拙い感想を記そうとしている。
馬渕についてはこちらにアップしたように、クンサー会見の立役者として認識しているので、勝手な親近感を抱いているからである。
また、本日が馬渕の尊敬する一ノ瀬泰造の祥月命日らしいので、その記念としたい。
(蛇足ながら、わたしの誕生日である)
  
本書を読むのは骨が折れた。構成に難点があり、せっかくの馬渕直城の体験が存分に表現できていない、というのが率直な読後感である。
馬渕はあとがきに、友人と家族への感謝の念を記しているが、編集者はどういう対応をしていたのか。素人判断で恐縮だが、編集者によって内容構成に差がでてくると思うので、残念でならない。
あと、馬渕の人物像が浮かぶような書きこみがあれば、読者としてはもっと愉しめたと思う。

わたしは本書を馬渕直城の青春の書として読んだ。
馬渕の報道写真家としての原点がここに刻印されている。
共同通信社プノンペン支局長・石山幸基とフリーカメラマン・一ノ瀬泰造。戦地でいのちを奪われたふたりの魂に牽引されながら、激戦地で馬渕は生き延びる。そして、ふたりの死にどう「精神的決着」をつけるべきか問いつづけている。その答えをだそうとする営みが、馬渕直城の生の軌跡なのだろう。

  *

馬渕直城(1944年生まれ)の報道写真家としての目的地は、インドシナ半島。
1972年12月、カンボジアの戦場を本格的に取材するため隣国タイから陸路ポイペットの国境を越えた。
1973年、戦場で一ノ瀬泰造と知り合う。
すぐ近くにAP通信社のドイツ人カメラマン・ホルスト・ファースト(ピュリッツアー賞を受賞)がいた。あなたの写真に感銘を受け、カメラマンになりたくてカンボジアに来たのだ、と馬渕は自己紹介した。
泰造は攻撃シーンを至近距離から広角度レンズを使って撮っていたが、ホルスト・ファーストは糊の利いた白い半袖シャツを着て、遠くの安全レンズを付けた真新しいライカフレックスで撮っている。それを見た馬渕は裏切られた気がした。

この日に見た、銃弾が飛び交う路上に立って写真を撮っていた泰造の姿が脳裡から離れない馬渕は、戦場カメラマンとしての自己のあるべき姿について模索しはじめる。
やがて激戦地での体験から、「運の良し悪しを嗅ぎ分ける己の勘」という「身体の奥底にある不思議な感覚」に目覚める。
プノンペンでさまざまな戦場カメラマンと知り合うなかで、馬渕は独自のスタイルをみいだす。解放側に立った写真を撮るという理念を堅持しつつ。
  
  *

1973年8月、馬渕は石山幸基(共同通信社の記者)と一ノ瀬泰造(フリーカメラマン)とともに、国道4号線上の隣町コンポン・スプーへ取材に出かける。ふたりはその日のうちにプノンペンに戻ったが、馬渕は一泊してから帰ることにした。
翌日、帰路につく途中、政府軍の作戦に随行して兵士たちの写真を撮ろうとした馬渕は、解放軍の米国製M-79小型榴弾が目の前で爆発し、大地に叩きつけられた。

野戦病院で軍医の応急手術を受け、身体に潜り込んだ破片を摘出。馬渕が提げていた血だらけのカメラは、300ミリのレンズが壊れ、榴弾の破片を止めていた。
軍医は掌にある十字架のついたロザリオを見せた。それは別れたタイの恋人がくれたものだった。銀の十字架には、性質の悪い鋭利な破片が突き刺さり、十字架が心臓への直撃を喰い止めていた。
いまも、その時の破片が馬渕の体じゅうに残っているという。
ここでわたしは思う。なぜ馬渕は別れたタイの恋人がくれたロザリオを身につけていたのか。そこらへんを書いてもらえると、読者として馬渕直城へのイメージを膨らませることができるので、助かるのである。

  *

1973年10月10日に解放区へ取材に入ることを、馬渕はその前日に石山から教えられる。石山は周囲に漏らすことなく、助手のトイと二人だけで潜入計画を練り、難しかった解放側との連絡を成功させていた。一緒に連れていってくれと頼む馬渕に、取材が成功したらカメラマンが来るといってやるといい、トイの運転する車に乗って出かけていった。

石山の出発から1ヵ月が過ぎた頃、プノンペン近郊のウドンの町からアンコール・ワット方面に取材に向かったようだという噂が流れた。
石山に先を越されるのではと焦ったのか、泰造(当時26歳)は、マラリアで40度近い熱があったにもかかわらず、再度のアンコール・ワットへの潜入を目指して、シアム・リアップの街へ向かった。
11月も終わりになる頃、シアム・リアップに行った泰造が、政府軍を振り切ってアンコール・ワットに入っていったことがわかった。しばらくすると、解放側で写真を撮っているという情報が漏れ伝わってきた。

石山が出発して2ヵ月が過ぎた頃、共同通信の本社から人が来て、周囲で慌ただしい動きがあった。何をしに来たのか教えてもらえない馬渕は、1、2ヵ月は向こうにいた方がいいと石山が言っていたのを思い出し、楽観視していた。
1981年7月、石山が解放区の取材中に病死していたことがわかった。当時31歳。埋葬されたのは、"カンプチア民族解放統一戦線兵士たちの共同墓地"。
(註・共同通信の現地調査により、1974年1月20日ごろ、解放区内山中で死亡していたことが判明)

1973年11月にアンコール・ワットへ単独潜行したまま行方不明だった一ノ瀬泰造については、1982年2月、両親がプラダック村の草原で遺体を確認。
当時の報道では、アンコール・ワットに入ってすぐに捕まり、10日から14日後にCIAのスパイということでポル・ポト派に殺された、となっている。
しかし本書によると(p.143〜p.144)、馬渕が偶然雇った運転手がベトナム人で、事件のことを知っていた。直接泰造に手を下したのはクメール・ルージュの司令官、同志(ムット)ルアンで、ハノイで教育されたクメール・ベトミンと呼ばれるベトナム派だという。当時のアンコール・ワットに駐留していた北ベトナム軍の命令あるいは許可の下で殺害されたにちがいないこともわかった。
この明らかな相違についてどう判断していいのか、わたしにはわからない。

  *

『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造/講談社文庫/1985年3月)の巻末に、馬渕の〔戦場での一ノ瀬君〕という一文が収められている。
それにつづく〔文庫版へのあとがき〕の末尾には《一九八四年十一月二十九日 泰造の祥月命日に記す  一ノ瀬清二 信子》とある。内容から推測して父親が記したようだが、その筆力には感心する。
1982年2月1日、行方不明になってから8年後、まさにカンボジアの土と化した我が子の亡骸と対面する場面が、冷静な筆致で描かれていて胸を打つ。
泰造にとって、いや戦場カメラマンにとって、最高の両親である。

1973年4月27日、泰造は一時帰国し、10日間日本に滞在する。両親への置土産は、ベトナムで撮影中に手榴弾が命中して内蔵のはみ出した1台のカメラ。
このとき朝日新聞の出版写真部の部屋に顔を出した泰造を、石川文洋が活写しているので、一部を引用する。

『戦場カメラマン』(石川文洋/朝日文庫/1986年6月)
(p.944〜p.960―「自由」と「存在感」を求めた泰造君の青春)


《戦場の泥がこびりついている野戦バッグとカメラを肩にし、硝煙がただよっているような姿を、私たちカメラマン仲間はある種の感動の目を持って見つめた。
 そこからは都会の人間にはない、荒野の中で生きる一匹狼のように、強さと孤独が共存する雰囲気が感じられた。それまでに『週刊朝日』に泰造君の写真が掲載されていたし、現地から送られてきたネガも見ていたので、泰造君の存在は、よく知っていた。
 泰造君の撮影した写真を見ながら、当時、出版写真部のデスクをしていた秋元啓一と「随分と危険なところで、写真を撮っているなあ」と心配をしたことがある。その泰造君が顔を見せたのである。私たちは、部屋の椅子に座った泰造君を囲んで、現地の話を聞いた。
 その時、私自身も数日後にはハノイへ向かい、解放区となったクアンチ省への取材に、東京を出発する予定になっていた。泰造君は、そのクアンチ省の、解放区とサイゴン政府地区の境界になっているタクハン川での、捕虜交換を取材して、『週刊朝日』に発表をしていた。
 決して雄弁ではないが、泰造君の南ベトナムでの戦場の話は、私にとって、大変刺激的だった。いや話よりも、泰造君そのものから受ける刺激の方が強かった、と言った方が良いだろう。軍服を着てあの暑い戦場で、サイゴン軍の兵士たちと、従軍している様子が、目に浮かんでくるようだ。
 泰造君の持ってきた銃弾で穴のあいたニコンを、みんなで驚きながら眺めた。秋元啓一は、早速そのカメラを『アサヒカメラ』の編集部に持って行って、「オイ、このカメラだけでも絵になるぞ」と説明をしていた》

「なぜフリーカメラマンはインドシナへ向かうのか」というテーマについて石川はつぎのように記している。

《アンコール・ワットのそばへ行きたい、という泰造君の気持ちは、それを撮影することによって、自分の存在感を自分自身で感じよう、としたのだと思う。そのことによって得られるかもしれない、収入や栄光や名声は、泰造君にとっては、手紙で書く程には問題にしていなかったのではないだろうか》

  *

ポル・ポト政権下で大虐殺はなかった、という馬渕の説は、とてもわかりにくい。
〔あとがき〕に《米軍やベトナム軍の侵略に抵抗するのは当然のことだけれど、戦争からの復興という難事業やそれを通じて理想社会をつくる過程で、人を殺めることがあったとしたら、それは理想に反することになります》と記されているのはどういう意味なのか。

上述の『戦場カメラマン』(p.799〜p.872)で、石川はカンボジア大虐殺について記している。
前文として、本多勝一編『虐殺と報道』(すずさわ書店/1980年11月)に収められている、アンケートに対する返答を転載している。
1979年、1980年と2度にわたってカンボジアを訪問、数ヵ所の虐殺現場を取材したという石川は、大虐殺があったのは事実だと信じていて、《もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟でいます》と。

  *

馬渕直城は1975年4月17日のプノンペン解放を取材した唯一の日本人である。
ポル・ポトに2回会見している。
1回めは1979年12月で、2回めは1998年1月。
2回めのときポル・ポトの体調が悪化し、馬渕は十分な話が聞けなかった。
このときポル・ポトは、「ユオン(ベトナム人に対する蔑称)が来なければ我々の闘争は起きなかった」と語ったという。
4月15日早朝、タイ軍がポル・ポト死亡のニュースを流した。
「ポル・ポトの遺体確認後、写真を撮る著者」(1998年4月16日、地元タイ紙撮影)というキャプションの写真が掲載されている。
つぎの記述に馬渕の写真家としての生理を感じた。

(p.280)
《傷心いちじるしい妻や、十四歳の娘をカメラの放列にさらすのは無神経だと思ったが、長い髪の下から、キッとこちらを見つめる娘の眼に引かれて私も思わずシャッターを押した》

ポル・ポトの葬儀に立ち合った馬渕が描いている、孤独なポル・ポトの最期も印象的だが、わたしが本書に登場する人物のなかで最も強烈な印象を受けたのは、悲惨な死を遂げたセイニーである。(p.133〜p.141)
背負いきれない哀しみに自滅してゆく人間に、わたしは共感する。
ここでふと考えた。強靱な肉体と精神を併せもつ馬渕に、"弱さ"はないのだろうか。
靱い男が弱さを垣間見せたとき、意外と魅力的である。

ユージン・スミス(フォト・ジャーナリスト)は、「生まれかわる前は日本人だったのではないか」と、妻のアイリーンに語ったという。
馬渕直城は、前世ではクメール人だったにちがいない。


〔追記 2006/12/03〕

『噂の眞相』(1983年2月号)に共同通信・記者の石山氏と同期入社の伊藤正氏が記した、「カンボジアの戦場に消え去った共同通信特派員・石山幸基の軌跡」が掲載されているのを、ネットでの検索により知った。こちらの電子書店からダウンロードして、さきほど読了。じつに興味深い内容だ。

伊藤氏は石山氏の遺稿集『コンポンスプーに楽土を見た―戦場に消えた石山幸基記者の記録 』(石山幸基著/共同通信石山委員会編/三草社/1982年) の編集責任者である。
上記遺稿集をオンライン書店で注文したので、近日中に入手できるだろう。馬渕氏の『わたしが見たポル・ポト』を拝読して刺激された事柄について、遅ればせながら自分なりに考えてゆくための材料にしたい。









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2006年11月12日

「大正の詩人画家 富永太郎」

図録「大正の詩人画家 富永太郎」を入手できる古書店を知人に教えられ、手許に届いたのは昨年の12月9日だった。
太郎の個展は渋谷区立松濤美術館で開催され、会期は昭和63年10月18日〜11月27日。祥月命日の11月12日を挟んでいる。
「富永太郎における創造」というタイトルの一文を大岡昇平が寄せている。

大正14年11月12日、肺結核で24歳6ヵ月で夭折した富永太郎の家と大岡昇平の家は、松濤美術館の至近距離にあった。
秋は太郎の好きなシーズンだったし、松濤公園は散文詩「秋の悲歎」の舞台とも思われ、大岡にはここで太郎の個展が開かれるのに、特別な感慨があるという。
大岡は「来年は詩画集全三巻が出ますので」と記しているが、直後の12月25日に他界したため、全集の刊行は実現しないまま今日に至っている。

大岡昇平から個展の案内状を受けとった青木健は、最終日の11月27日に松濤美術館を訪れた。そのときみた画の感想は、『剥製の詩学 富永太郎再見』(小沢書店/1996年)に収められている。
富永太郎に関する評論は驚くほど少ないので、本書は貴重な資料になっている。

図録に収められている富永太郎の詩稿は、写真といえどもなまなましく迫ってきて、正視するのに努力を要する。
モノクロの木版「Promenade」(1923/大正12年)が、わたしは気に入った。太郎にしては珍しい童話的構図である。
求龍堂版「富永太郎詩畫集」(大岡昇平編)の表紙には、この木版が使われている。

図録のトップに掲載されている画は「火葬場」(油彩/1921/大正10年)。
太郎が下宿していた仙台の瑞雲寺北側にあった共同火葬場の煉瓦の煙突を描いたものである。
無機質な画だが、大正10年の秋、富永太郎は8歳上のH・S夫人との恋愛関係が"事件"となり、直後の12月15日、二高を中退し帰京。
姦通罪のあった時代だが、ふたりの関係に姦通はなかったらしい。心中しようという話があった可能性があるが、謎である。
以前にわたしは、「小林秀雄實記」の掲示板にも書きこんだのだが、散文詩「秋の悲歎」には、「私たちは煙になってしまったのだらうか?」という一節がある。

図録では油彩「火葬場」は1921年になっているが、筑摩版「大岡昇平全集 17」(1995年)では、1922年10月になっている。正岡氏の日記によると太郎は1922年10月29日朝、仙台へ着き、31日、夜行で帰京している。四号板の裏には「Sendai,october 1922」と書かれている。

図録に掲載されている写真のなかでわたしの眼を惹いたのは、二高在学の頃、13人の仲間のひとりとして写っているものである。全員が学生帽をかぶっている。
その下には、わたしを魅了した臨終写真がある。
2005年11月12日にアップした「富永太郎の祥月命 」に、この臨終写真を撮ったのは正岡忠三郎だ、と記したところ、コメント欄で太郎次郎さんにまちがいを指摘された。「専門の写真館が撮影したものです」と。

長男・太郎に両親は、大きな期待と愛情を寄せていた。
昭和2年(1927)8月、村井康男編・家蔵版「富永太郎詩集」が刊行された。
昭和7年11月22日に母・園子が亡くなってから墓を作るまで、太郎の遺骨は両親の部屋に置かれていた。
多磨霊園には、富永太郎とともに大岡昇平が眠っている。

富永太郎の代表作「秋の悲歎」は、死の病と結びついている。
24年の短い生を駆けぬけた。

大正13年(1924) 
10月11日、京都で最初の喀血。23日、「秋の悲歎」創作。
12月1日付『山繭』創刊号に「橋の上の自画像」「秋の悲歎」を発表。
12月20日、レントゲン検査により肺尖を宣告される。

大正14年(1925)
1月7日、第2回喀血。22日、第3回喀血。
3月8日頃、母・園子と神奈川県片瀬に転地。
4月3日、代々木富ヶ谷の家に帰る。
10月25日、大喀血。
11月5日、危篤。12日午後1時2分永眠。


散文詩「秋の悲歎」を味読するため、「富永太郎の詩」より引用させていただく。

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秋の悲歎
 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 私はたゞ微かに煙を擧げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の靜かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかゞねいろ)の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光澤のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き亂してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都會を夢みはしない----土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都會などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る殘虐が常に私の習ひであつた......

 夕暮、私は立ち去つたかの女の殘像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひだ)を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状體に觸れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか?私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空氣を憎まうか?

 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ點檢しないで濟む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ----金屬や蜘蛛の巣や瞳孔の榮える、あらゆる悲慘の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の堅い斜面に身を委せよう。それといつも變らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう......私は私自身を救助しよう。

 





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