2007年01月

2007年01月30日

共同通信石山委員会編『コンポンスプーに楽土を見た〜戦場に消えた石山幸基記者の記録』

さきの更新から2ヵ月もの空白ができてしまった。更新していないにもかかわらず本blogにアクセスしてくださったみなさまに感謝しながらも、雑用に追われてどうにも時間を捻出できなかった。
本エントリーについては昨年末にアップしたいと思いながら、きょうに至ったという次第。

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さきにアップした馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト』は、かなり無理をしながら書いたのだが、先日、「馬渕直城のアジア情勢報告」で本blogが紹介されていることを知った。
ありがたく思うと同時に、恥ずかしくもある。

さきのエントリーに追記したように、入手した共同通信石山委員会編『コンポンスプーに楽土を見た』(三草社/1982.11.15)を読了。濃密な内容であるにもかかわらず、一気に読ませる力が本書にはあった。
わたしが本書を読みたいと思ったのは、編集責任者・伊東正のレポート(『噂の眞相』/1983年2月号)に刺激されたからだ。そこからはジャーナリストとしての熱がストレートに伝わってきた。あつくるしくない上質の熱である。

知的人間ではなく感覚人間であるわたしは、日常生活においても、他者の発した言葉より、その人間がからだから発している"空気"を重視する傾向が強い。馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト』のp.57に掲載されている石山幸基(共同通信プノンペン支局長/1973年9月)の写真をみて、同年10月10日に単身でクメール・ルージュ解放区に潜入取材を試みた、という事実に違和感があった。その石山の太った体躯と柔和な笑顔から、イメージが膨らまなかったのである。この写真は、本書のp.195にも掲載されている。
無意識下とはいえ、その違和感を解明したいという想いが本書を読む行為の底流にあったのだと、いまにして気づく。

本書は石山幸基のプノンペン日記・陽子夫人への手紙・論文、追悼文(馬渕氏の一文も掲載されている)、石山記者捜索日誌(社外秘の資料)などで構成されていて、どれもが一読に値する内容になっている。とくに巻末の捜索日誌は臨場感があり、胸に迫ってくる。
よく練られた内容構成になっていて、本書に注いだ共同通信石山委員会の膨大なエネルギーは、「日本のインドシナ報道に強い不満を見せていた石山のジャーナリズムのあり方への考察と告発」に応えようとする姿勢なのだろう。
石山の問いかけは2007年現在にも通用すると思う。

『噂の眞相』で伊東は記している。
1973年5月、休暇で一時帰国した石山はつぎの"事件"以降、東京デスクとの距離が開いていったらしい。
《不用意に「カネが余ってしようがない。先輩たちは汚職でも……」と口走ったことが引き金になり、オンナを買わないからだ、それでカンボジア人の心がわかるもんかいといったやりとりになっていったという》

この場合のカネは、自費ではなく社費なのか?
いずれにしても「女を買うことでカンボジア人の心がわかる」という認識を、わたしは肯定できない。

1972年12月7日の日記に石山は、《女を買うのはこの地域の遅れた経済状態につけこむことではないのか》と記している。
12月10日には、《生まれてはじめてアヘンをすってみたが、どうってことない。口とノドの奥になにか、あまい感じがのこっているだけ》と。
そして12月27日には、《おれはアヘンのことは、日本人のだれにもはなしていないけれど、目の色かえて女を漁る日本人の「まっとうな」社会よりも、リーやシルバーナ、ロランたちのヤクザなアヘンの世界の方が、よっぽど上品に思われる》。

上記『噂の眞相』の末尾に伊東が記している一節は、石山と共同入社同期生のジャーナリストとして鋭い問いかけである。
《出発の時点では、確かに彼は職業人であった。しかし、解放区入りした後、劣悪な生活条件の中で、腐敗したロン・ノル政権と戦う善良な農民ゲリラに接したとき、果たして職業意識を貫けただろうか》

このテーマに別の角度から鋭く斬りこんでいるのが、本書に掲載されている土井淑平の一文である。(p.167〜p.173)
土井は石山と同期入社で、共同通信社内の有志が発行した「メディアの反乱」というタイプ印刷の雑誌を編集した中心人物。1969年12月に創刊号、71年12月に第4号を出して廃刊。石山はすべての号にジャーナリズム論を寄稿。
土井の一文から引用する。

《革命や戦争の現場にじかに立ち会うという圧倒的な臨場感に幻惑されると、自らの位置をついつい見失ってしまい、どうしてもロマンチックな気分になるのが人情なのかも知れない。石山君にしても、少し後にテヘランで客死した竹沢護君にしても、たとえ、それが病死や交通事故という形をとったにせよ、彼らの死は、そこらへんの判断の甘さというか不用意さの帰結といえはしないか。彼らも、また、それと意識せず職業意識の陥穽にはまり、殉職というかたちであたら貴重な人生を棒に振ってしまったのではないか》

石山幸基は1年間の任期中、49通の私信を陽子夫人に書き送った。1973年8月26日付け書簡で、つぎのように記している。
《毎晩バッハ、モーツアルト、チャイコフスキーをきくことを慰めにしているような、あえていえば卑小な生活形式では、カンボジアに立ちうちできないのです。もちろん、任期満了まではせいいっぱいやるつもりだし、十分の一の確率で活路がひらけてくる可能性もないわけではないですが、しかし、やっぱり今回はまちがっていたでしょう。オレのいまの最高の魂のよろこびは、クメールそのものとのまじわりのなかにはない、ということを知った以上》

それから約2ヵ月後の10月10日、石山は2、3週間の予定で解放区入りした。11月のはじめには、任期を満了して帰国するはずだった。1974年1月20日ごろ、カンボジア中西部のゲリラ基地、クチョール山中で死亡していたことが判明したのは、1981年7月。マラリアに腸チフスを併発したと予想され、発病から約20日後だったらしい。傷ましい最期である。
1981年7月、共同通信の現地調査に同行した石山夫人と母親は、現地の風土を一目みるなり、「ここでは幸基は生きられない」と、その死を覚悟したという。

石山が馬渕直城のような強靱な肉体をもっていたら生還できたのかもしれない。しかし本書に寄せられたコーン・ボーン(石山の助手でカンボジア人。通称トイ。石山に依頼され、解放区に入る認可証を入手)の一文には、《ただティからの情報のなかには生命の安全を保障するという部分はなかった。私はこの事実を松尾文夫氏がこの関係でプノンペンに来たときに報告しておきました》という記述がある。
ティというのは、トイがウドン地区で会った男で、上級司令部とのパイプ役を果たした。松尾文夫は、当時、共同通信バンコク支局長で、本書に「なぐりつけても止めるべきだった」という一文を寄稿。

石山はジャーナリズムの本質にこだわりつづけ、「ジャーナリズムの方法は不定型」であり、ジャーナリストは本来アマチュア精神に立脚している、と考えていたという。そんな石山なら、ネットジャーナリズムを肯定し、おもしろがっていただろう。
石山は論文のなかで、ジャーナリストの要件として、「主体的な思想者でありつづけること」をあげている。そして、「いま六十代の左翼あるいは自由主義者、あるいは共産主義者のなかで、内心で勲章をほしがっている人は結構いるようなのだ」と記している。

本書に寄せられた一文はどれもがすばらしいが、そのなかでも印象に残るのは、上記の土井淑平とエリザベス・ベッカー(73年当時、ワシントン・ポスト特約記者)である。
わたしには彼女が石山の素顔を最もよくキャッチしていたように思えてならない。
わたしの勝手な解釈では、ジャーナリストという共通項をもつふたりには、ユーモアの通じる男女間の友情が育っていたのではないか。

  *

石山の解放区取材の直接的契機は、1973年8月に競合区(昼間は政府軍が支配、夜間は解放側の天下)に一泊二日という短時間訪問した山田寛(読売新聞社・サイゴン特派員)で、このスクープが共同通信本社を刺激したという。
このときの体験は山田寛著『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』(講談社/2004年7月)に記されている。
また馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト』の末尾に記されているポル・ポトの後妻と娘のその後についても、山田は記している。

石山幸基と同じくジャーナリズムにこだわりつづけているのが辺見庸である。石山が1942年生まれで、65年に共同通信社入社なのに対し、辺見は1944年生まれで、70年に同社入社、96年退社。
最近読んだ辺見庸著『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社/2006年7月)の冒頭は、四半世紀以上前の、タイ・カンボジア国境付近の記憶の描写であり、「私の知るかぎり最悪の難民キャンプがそこにあった」と記している。
本書を貫いている辺見庸のジャーナリズムへの鋭い問いかけは、石山幸基のそれとリンクしている。

本書で、辺見がノーム・チョムスキーについてやや批判的にとらえている。2002年の対談(『プレイボーイ』に掲載)をわたしはネットで読んでいただけに、興味深い。

p.132の記述は痛快である。
《若いときには「反戦」を唱えていた文化人が老いてから紫綬褒章かなにかを受勲して、平気で皇居にもらいにいく。旧社会党の議員でも反権力と見なされていた映画監督でも平気でいく。晴れがましい顔をしていく。ここには恥も含蓄も節操もなにもあったものではない》

ちなみに馬渕直城とともに1986年、麻薬王クンサーの取材を成し遂げた小田昭太郎(オルタスジャパン代表)が、当時在職していた日本テレビで制作したドキュメンタリー番組「故郷は戦火のなかに 」(1979年芸術祭優秀賞)はこちらの卒論(平成14年)で番組分析されている。「タイ国境にある難民キャンプ・カオラン収容所が舞台」とのこと。


〔参照〕

「カンボジアの悲劇を生んだ国際的背景-ポル・ポト裁判の今日的意味を考える」―日本国際問題研究所・所長 友田 錫 (2006年7月21日記)


「日本の若い人たちへ〜山田寛さんへのインタビュー〜」
(2001年6月26日 日本外国特派員協会にて)



〔追記 2007/02/10〕

本文末尾で紹介した卒論(平成14年)の「カンボジア関連番組表」にある【10. 月曜特集「潜入ドキュメント 揺れるカンボジア」(1993.4.26 /テレビ東京)】は、こちらにあるようにオルタスジャパン制作で、第31回ギャラクシー賞選奨を受賞している。


〔追記 2007/03/27〕

上記の卒論(平成14年)は、その後削除されている。
わたしの記憶ではサイト運営者が無断転載を禁じていたので、必要な箇所をここに引用することができない。残念である。