2007年03月

2007年03月13日

「悪人」 (作・吉田修一/画・束芋)

朝日新聞・夕刊に連載されていた吉田修一の小説「悪人」は、2007/01/29で完結した。
こちらにアップしたように、はじめは束芋の挿画に惹かれて読みはじめたのだが、次第に吉田修一の描く小説世界にひきこまれていった。
束芋の挿画を保存したくて、面倒な作業ではあったが、キリヌキをA4版のノートに貼りつけていた。読みはじめた2006/07/01の82回から最終の250回まで、ちょうど1冊に収まった。

束芋の挿画がマンネリ化に陥ったのに比して、吉田修一の筆は冴えていった。
しかしクライマックスにおける場面転回によって肩すかしを喰らわされる、というのが数回あった。意図的なのだろうが、この生理的不快感は不必要だと思う。
タイトルの「悪人」から、単純に「だれが悪人なのか」と問いながら読み進んでいったのだが、途中から愛についての考察に移行していった。その問いはわたしのなかで、いまもつづいている。

ひとを愛するというのはどういうことなのか?

  *

小説「悪人」に登場する人物のなかで、悪人は福岡の大学生・増尾啓吾、小悪人は一方的に増尾に好意を寄せている石橋佳乃だろう。
増尾は東公園で偶然再会した石橋佳乃を「肝試しに」とドライブに誘い、福岡と佐賀の県境・三瀬峠で佳乃を助手席から蹴り出した。
日常生活において、ひとびとが攻撃的になっていると感じはじめてから久しい。
それがネット上で具現化したのか゛"炎上"だろう。
それにしても、増尾の内部に潜む凶暴な苛立ちの正体はなになのか?
動く密室である車内で、脳天気に自分に好意を寄せる佳乃を冷眼する増尾を、作者は巧みに描いている。

《あれは何度目に佳乃がリピートボタンを押そうとしたときだったか、とつぜん「こういう女が男に殺されるっちゃろな」と増尾は思った。本当にふと思ったのだ。
 こういう女の「こういう」が「どういう」のかは説明できないが、間違いなく「こういう」女が、あるとき男の逆鱗に触れて、あっけなく殺されるのだろうと》

同じ東公園で、清水祐一は出会い系サイトで知り合った佳乃と待ちあわせていた。
「ごめん。今日、ちょっと無理。お金、私の口座に振り込んどって。あとで口座番号とかメールするけん」といいすて、見知らぬ男の車に乗りこんだ佳乃をみた祐一は、置き去りにされたという怒りでその車を追う。それは紺色のアウディで、車好きの祐一には手の出なかったA6だった。

助手席から蹴り降ろされた佳乃を目撃した祐一は、自分の車に乗せて送ろうとしたが、拒絶される。そればかりか、佳乃は醜く叫ぶ。

「人殺し! 警察に言ってやるけんね! 襲われたって言ってやる! ここまで拉致られたって!
 拉致られて、レイプされそうになったって! 私の親戚に弁護士おるっちゃけん。馬鹿にせんでよ! 私、あんたみたいな男と付き合うような女じゃないっちゃけん! 人殺し!」

祐一は幼いころ、フェリー乗り場で母親に置き去りにされた。
長崎市郊外に住む母方の祖父母に育てられ、いまも一緒に住んでいる。
祐一は、自分のことを息子のように思うおじ・憲夫の会社で働いていて、クレーン免許を取る気もあったという。
佳乃に「人殺し!」と罵倒され、周囲の人間に無実を叫びつづける自分の姿が見えたとき、「母ちゃんはここに戻ってくる!」とフェリー乗り場で叫んだ幼い自分と重なる。
「早く嘘を殺さないと、真実のほうが殺される」という論理のもとに、祐一は佳乃の喉を必死に押さえつけていた。
結果として、祐一は佳乃を殺めてしまう。

祐一の行動原理の根底にあるのは、幼いころに母親に置き去りにされた体験であり、人生の局面で極端なかたちで甦るという設定になっている。

  *

馬込光代は佐賀市郊外、国道34号線沿いにある紳士服量販店「若葉」の販売員。スーツコーナーを担当している。来年、30歳。双子の妹・珠代と2DKのアパートで暮らしている。周囲には田んぼしかない。
3ヵ月前、初めて出会い系サイトを覗き、新着欄にあった長崎に住む清水祐一と名乗る男を選んだ。そのときは「会おう」といわれたとたんに返事を出せなくなった。3日前、勇気を振り絞って出したメールに祐一は親切に応対し、メール交換が3日も続き、週末に佐賀駅前で会う約束をする。祐一の車でドライブし、灯台を見に行くのだ。
呼子の灯台に行くはずだったが、いきなり祐一は光代をホテルに誘う。
光代は珠代と暮らす不自由のない部屋に「今日は帰りたくない」と強く思い、承諾する。

祐一にしがみついたまま光代は、「本気で誰かと出会いたかったのだ」と告白する。
祐一は「俺も、本気やった」。
ふたりの共通項は、切実に"だれか"を求めているが得られないという渇きと、自分を変えたいという願望である。どう変えたいという輪郭はみえないが、とにかく変えたいという意味なのだろう。お手軽ともいえるが、ふたりにとっては切実なのである。
顔のみえない"だれか"を求めているから、出会い系サイトにアクセスするのだろうか。
わたしにはその辺の心理が、まったくわからない。

《祐一はまるで壊そうとでもするように乱暴に光代のからだを愛撫した。そして、まるで直そうとでもするように、強く抱きしめてきた》

上記は光代と人生をやり直したいという願望のあらわれか。それとも、佳乃を殺めたという事実を抹消したいという衝動なのか。
ともあれ、ふたりはいきなり肉体関係をもち、同時に恋愛関係に突入したようにみえる。

火曜日、仕事を終えた祐一は、職場にいる光代のケイタイに電話する。
会いたくてたまらない想いで、長崎から車で片道2時間の佐賀まで祐一はやってきた。
あさって長崎で会うことを約束し、祐一は光代をアパートまで送る。
祐一を見送ったあと、しばらくアパートの階段に座り込んでいた光代が二階の自室へ入った直後、祐一の車が猛スピードで滑り込んできた。
光代はバッグを反射的に取り、玄関を飛び出す。
車を降りてきた祐一は光代を助手席に押し込んだ。
翌朝、ふたりは仕事をさぼり、光代の案内で海沿いに立つ民宿兼レストランに入る。
店はかなり混雑していて、ほかに客のいない二階に案内される。
祐一は「俺、……人殺してしもた」と告白する。
ふたりは料理の途中で店を出た。
「これから警察に行くけん」という祐一に、「一人で行くの、怖かったとやろ? わたしが一緒に行ってやるけん」と光代はいう。
ところが唐津署の前で、光代は豹変する。
祐一と出会って、やっと幸せになれると思っていた光代は、「逃げて! 一緒に逃げて!」と叫んでいた。

ふたりはラブホテルを転々とし、車は佐賀と長崎の県境を出たり入ったりした。
有田で、光代が「灯台に行こうよ」と誘い、「今は使われとらん灯台がある」と、祐一はやっと車を捨てる決心をした。
有田から電車とバスでやってきたふたりは、灯台がある小さな漁港で降りる。
急な林道を抜けると小さな駐車場があり、その先がフェンスの張られた灯台の敷地だった。
廃墟と化した管理小屋の床に祐一はベニヤ板を敷き、捨てた車から持ち出した寝袋を投げ込んだ。
運よくトイレの水は止められていなかった。
清潔とはいえないトイレを光代は2時間かけて掃除し、祐一はその綺麗さに感心する。
食料や日用品は下のコンビニで買っていたが、店員のおばさんに怪しまれる。

祐一との特異な正月をすごしながら、光代は回想する。
去年の大晦日、光代は6時すぎに仕事を終え、いったん自転車でアパートに戻ってから実家に泊まった。元旦は母が作ったおせちを家族と囲み、近所の神社に初詣に行った。
明日からは仕事だが、時間をもてあまし、年中無休のショッピングセンターへ。
まず書店に寄ってからCDショップに入った。そこで一瞬、目がかすみ、自分が泣いていることに気づいた光代はトイレに駆け込む。
自分には、欲しい本もCDも、行きたいところも、会いたいひともいなかった。
理由もないのに涙が溢れ、気がつけば声を上げて泣いていた。

光代は公衆電話から妹の珠代に電話をする。
昨日まで実家には刑事が張りついていたし、ワイドショーで光代と珠代の暮らすアパートの映像がボカシ入りで映ったという。
「でもね、私、こんな気持ちになったと生まれて初めてで、一日でもいいけん、一緒におりたくて」という光代に対して、珠代は「本当にその人のことが好きなら、いくら辛くても、アンタがその人を警察に連れていってやらんと」と諭す。

逃亡中の清水祐一の顔写真が公開され、マスコミが長崎市内にある実家に押し寄せる。
一緒に暮らす祖母の房枝はマスコミの理不尽な取材攻撃にあうが、頑なに口を開かない。
房枝の夫・勝治は市内の病院に入院している。
毎日見舞う病院までのバス代・往復980円は、1週間の野菜代を1000円で抑えたい房枝には贅沢な出費である。それだけの犠牲を払うのは勝治が見舞いを強要するからだが、行っても邪慳にされる。

  *

一方、ニュースになった殺人事件の犯人が自分だと思いこんでいる増尾は、名古屋市内にあるサウナに逃亡していた。
しかし佳乃の首に残っていた手の跡が、増尾の手よりも間違いなく大きかったという決定的理由で、一晩警察で事情聴取されただけで無罪放免される。
増尾は友人たちに「話を訊きたいヤツはすぐに天神のモンスーンに集まれ」というメールを一斉送信する。モンスーンは増尾の行きつけのカフェである。
増尾は、自分に一方的に好意を寄せる佳乃が携帯に送ってきた複数のメールを仲間にみせながら、警察での取り調べの様子を吹聴する。
増尾と大学の同級生である鶴田は、「まるで殺された女のからだが、男たちの手から手へ回されているようだった」と感じる。が、携帯が回ってきたとき、鶴田は読みたくないのに、「視線が勝手に手元に落ちる」。

理髪店を営む佳乃の父・石橋佳男は、妻の里子と久留米に住んでいる。
佳男は、娘の元同僚に教えてもらった増尾の住む豪華マンションを見つけ出し、チャイムを鳴らすが不在。そのあと路上で増尾を襲う。ジャンパーのポケットにはスパナを忍ばせている。が、増尾に肩を蹴られてガードレールに後頭部をぶつける。
佳男が目を覚ましたのは病院の簡易ベッド。
病院に佳男を連れてきたのは、偶然通りがかった増尾の親友・鶴田である。
鶴田は、佳男を増尾のいるカフェに案内する。

《雪の中、増尾の足にしがみついとったお父さんの姿を見て、うまく言葉にできんとですけど、生まれてはじめで人の匂いがしてたっていうか、それまで人の匂いなんて気にしたこともなかったけど、あのとき、なぜかはっきりと佳乃さんのお父さんの匂いがして。あのお父さん、増尾と比べると悲しゅうなるくらい小さかったんですよ》

並んで歩きながら、佳男は鶴田に話しかける。

「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うもんがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ」

このように諭す佳男自身が、自分の娘を三瀬峠で置き去りにした増尾をスパナで殴ろうとしているのだから、滑稽である。娘を殺した犯人より、娘の愛情を踏みにじった大学生を許せない。佳男は、娘が出会い系で知り合った男たちを相手に売春していたらしいことを、頭から否定する。
酷なようだが、わたしは佳男のような直情型の親が苦手だ。

到着した総ガラス張りの店で、増尾が仲間に対して自分の襲撃をあざ笑う姿を目撃する。佳男の登場に血の気が引いた増尾に、憎さが吹き飛んで途方もなく悲しくなった佳男はいう。

「……そうやってずっと、人のこと、笑って生きて行けばよか」

  *

コンビニの前で警官に声をかけられた光代は、パトカーで派出所に向かう。
派出所のトイレの窓から逃亡した光代と、山を下りる決心をして管理小屋を出た祐一は、真っ暗な藪の中で感動的な再会をする。
小屋に戻り、祐一はしがみつこうとする光代のからだを乱暴に倒し、首筋に手をかけた。
背後でドアが開き、追ってきた警官たちのさしだす懐中電灯がその光景をとらえた。
  
小説のラストはそれぞれの供述が並べられている。
要約する。

●金子美保

(美保がファッションヘルスで働いていたとき、祐一は毎晩のように指名し、一緒に暮らそうと小さなアパートまで借りていた。しかし美保は、結果として祐一の気持ちを踏みにじった)

いつものようにあの人が作ってきてくれた弁当を店の個室のベッドで食べていたとき、「母親に欲しゅうもない金、せびるの、つらかぁ」「どっちも被害者になれんたい」といった。
そのときのあの人の顔がちらついてしかたない。
もちろん、あの人の供述通り、殺意を抱いたのかもしれないが……。

●清水祐一

逮捕された翌朝に祖父が死んだことは、刑事さんから聞かされた。
祖父に対しても、祖母に対しても、本当に申し訳ない。
祖母が石橋さんや馬込さんの家に謝罪に行って、まだ会ってもらえないことも知っている。
佳乃さんのご両親には、手紙を書いているが、返事はない。
自分は、女性を追いつめることに快感を覚えていた。
追いつめた女性が苦しむところを見ることで、性的に興奮していた。
馬込さんに人を殺したことを告白することで、自分が凶暴な男だと思わせて、服従させようとした。
自分は死んで詫びるべきだと思う。
馬込さんのことは初めからぜんぜん好きではなかった。一緒に逃げるときの金ヅルとしてそういうふりをしているうちに、自分でも本心だと勘違いしていた。
馬込さんには早く事件のことを忘れて、幸せになってくれと伝えてほしい。

●馬込光代

今さらあの人からの伝言なんか聞かされても、迷惑なだけ。
最近、また妹とアパートで暮らすようになり、会社の人たちの尽力で職場にも復帰。昔のまんまの生活。
馬鹿みたいに舞い上がっていた私をあの人が本当に利用しただけなのだろう。
最近では事件の記事を雑誌で読むこともあるが、自分じゃない誰か別の女性のことが書かれているようで……。
この前、初めて三瀬峠の石橋佳乃さんの亡くなった場所に花を供えた。
あの人が佳乃さんの人生を暴力で断ち切ったことを許した自分には、一生をかけて佳乃さんに謝り続ける義務がある。
佳乃さんが亡くなった場所に供えられた花は枯れていたが、目印のようにオレンジ色のスカーフが、ガードレールに巻かれていた。
これからは月命日には、必ず謝りに行くつもりだ。
あの人のおばあさんは何度も実家を訪ねてきてるそうだが、どんな顔で会えばいいのかわからない。おばあさんには何の責任もないことだけは伝えたい。
逃げ回って、灯台の小屋で凍えて怯えているだけの毎日が未だに懐かしく、思い出すだけで苦しい。

小説「悪人」は、光代の問いかけで終わっている。

世間で言われとる通りなんですよね? あの人は悪人やったんですよね? その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんですよね? ねぇ? そうなんですよね?

  *

「俺、もっと早う光代に会っとればよかった。もっと早う会っとれば、こげんことにはならんやった……」という祐一の述懐は、真実だと思う。
「暴力的に佳乃の人生を断ち切った祐一を許した自分には、一生をかけて佳乃に謝り続ける義務がある」という光代の認識には、上等な人間性を感じる。
祐一に対する光代の愛情もまた、暴力的に断ち切られた。
「早く事件のことを忘れて、幸せになってほしい」という祐一の伝言は、光代への精一杯の愛情表現なのだろう。

4月に単行本として刊行する「悪人」を入手したいとは思わないが、映画化されたらおもしろいだろう。
祐一と光代にだれが配役されるか興味があるし、彼らの演技を観たい。
祐一を含蓄のある複雑な人間のように作者は描いている。
そんなキャラクターの人間が、カッとなって危険な行動をとるのは不自然だ。しかし現実世界の人間も矛盾に満ちているから、それでいいのかもしれない。
たしかなのは、わたしたちが「悪人」に登場する人物を嗤えないということだ。














miko3355 at 16:10|この記事のURLTrackBack(0)文学