2007年06月

2007年06月27日

「ネットカフェ漂流」

「起きて半畳寝て一畳」というが、ネットカフェ難民においてはその一畳分のスペースがない。小さく仕切られた窒息しそうな個室でパソコンをまえにし、リクライニングシートに身を沈めて眠るのである。
わたしが最初に「ネットカフェ難民」に関するTV番組を観たのは、2007年1月28日深夜に放映されたNNNドキュメント’07「ネットカフェ難民―漂流する貧困者たち」(日本テレビ)だと記憶している。
その後、NHKで放映された番組も観たし、その他のメディアでとりあげられているのを見聞きしたが、格差社会をみせつけるだけで、取材する側の意図が伝わってこない。いつもやりきれなさだけが残った。
そんななか、6月24日(日)の深夜2:35〜3:30に放映された第16回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品 「ネットカフェ漂流」(制作:フジテレビ)は秀逸だ。
たまたま同日(正確には6/25)0:50〜1:20に前述のNNNドキュメントで「ネットカフェ難民2」が放映された。

「ネットカフェ漂流」では、まず松田洋治のナレーションがいい。制作者の真摯な態度が伝わってくる。わたしはドキュメンタリー番組において、ナレーションの内容にも注目するが、ナレーターの声質に不協和音があると興ざめなのだ。
ディレクターの高橋龍平(20代)が、取材を重ねながら自分の膚で感受したことを元に、混乱しながらも自分の頭で考えようとしている姿勢に好感をもった。

わたしが最も印象に残ったのは、日雇い派遣の仕事をしているTさん(番組では本名が明かされ、顔にぼかしは入っていない)である。
高橋ディレクターと同世代のTさんは、小学生時代に離婚した両親からひどく裏切られたことで、こころに大きな傷をもっている。身綺麗にしているので、高橋と並ぶと、一見どちらがディレクターかわからない。
孤独地獄に陥っているTさんは、ネットカフェでblogを書いている。ということは、なんらかのかたちで不特定多数の他者とのコミュニケーションを求めているのだろう。
取材を重ねるうちにうち解けてきたTさんは、カメラのまえで生い立ちを語りはじめる。
そしてさらに困窮したTさんに高橋ディレクターは、おずおずと自立生活サポートセンター「もやい」を紹介する。

その後、連絡が途絶えたことで、高橋ディレクターは、自分が「もやい」を紹介したことでTさんを傷つけてしまったのではないかと悩む。
しばらくしてTさんから携帯にメールが入り、約束の場所にあらわれたTさんは、「もやい」を訪ねる意思を固めていた。頑ななTさんがこころを開いた瞬間に、思わず目頭が熱くなった。わたしにしては珍しい現象だが、それほど「ネットカフェ難民」は深刻なのだ。ポーカーフェイスのTさんは、それでも笑顔をみせるには至らない。そこがかえってリアルだ。
身内に裏切られたTさんが他人のサポートで救済されるところに、わたしは安堵する。

「もやい」で的確なアドバイスを受けたTさんは、ネットカフェ難民によるムダな出費を排除し、労働に堪えられる身体を確保するためにアパートを借りることを提案され、こころが動いたようだ。「もやい」が連帯保証人になり、多角的に支援するのだ。まず生活保護を受け、アパートの敷金をつくる。その後、仕事が決まった時点で生活保護を打ち切るという提案に、Tさんは不承不承ではあるが同意するつもりらしい。Tさんは最後のプライドを捨てなければ生きていけないほど切迫していたのだろう。しかしアパートを借りても、日雇い派遣では楽観視できないだろうと、心配になった。しかしいまは、プラス思考をするしかない。
都会では当面のお金があれば住居がなくても暮らせる。お金が尽きたとき、ホームレスの道へ転落する。

高橋ディレクターは、現代日本の社会問題の縮図がネットカフェ難民に集約されている、という視点に立つ。そこが新鮮だった。取材を経てそこにたどりついたところに、この番組の重さがある。
30代のサラリーマンにうつ病が拡がり、退職や休職に追いこまれているという。企業が20代の雇用を控えたために、30代の社員に過重な負荷がかかっているらしい。うつ病という病歴があると、よほど企業に理解がないと再就職はむずかしいだろう。
効率主義と弱者斬り棄ての社会は、いま、社会から脱落していないひとびとの心身をも蝕んでいるにちがいない。
だからこそ、高橋ディレクターの30代、40代の姿をみたいと強く思った。
またTさんのその後も追ってほしい。


2007年06月23日

「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」

5/28に渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」を観た。
図録の内容がとても充実している。
会場に足を運ぶまえに図録はホームページから注文して入手していたので、眼を通していた。しかし実際に作品を展観してから読んでみると、よく理解できたのは不思議だ。

モディリアーニというと、わたしにとっては映画「モンパルナスの灯」(1958年/フランス/108分/モノクロ)のジェラール・フィリップである。モディリアーニも美男子だというが、ジェラール・フィリップのほうが断然いい。内面に秘めた芸術家としての苦悩を抱えながらキャンバスにむかうモディリアーニを、顔の表情だけであらわしているのには驚愕した。演技を超えていたように思う。
ジェラール・フィリップは、「モンパルナスの灯」上映の翌年1959年、肝臓ガンにて36歳で早逝。モディリアーニが結核性脳膜炎で急逝したのは35歳である。ジェラール・フィリップは、モディリアーニを演ずるために生まれてきたような錯覚に陥る。
同じくジャンヌを演じたアヌーク・エーメも、実在のジャンヌよりすてきだ。
モノクロの画面がうつくしい。
なお本展にともない、Bunkamuraル・シネマで「モンパルナスの灯」が特別上映された。好評だったらしい。
「芸術新潮」(2007年5月号)の特集「モディリアーニの恋人」に、中条省平が【「画家映画」を超える『モンパルナスの灯』】と題する一文を寄せているが、一読に値する。

ちなみに詩人・富永太郎(1901.5.4〜1925.11.12)はモディリアーニ(1884.7.12〜1920.1.24)とほぼ同時代に生き、24歳で夭折。また太郎は会場のBunkamuraザ・ミュージアムに近い代々木富ヶ谷(現・渋谷区神山町)の家で亡くなり、1988年に渋谷区立松濤美術館で「大正の詩人画家富永太郎」展が開催された。
太郎はムンクの画が気に入っていたが、モディリアーニ、ムンク、富永太郎に共通しているのは、恋愛の対象として知的で才気溢れる女性を選択していることだと思う。
なおモディリアーニの身長は160センチだったそうだが、富永太郎は182センチほどあったといわれている。両方ともわたしには意外だったので記しておく。

  *

本展では、モディリアーニの最後のパートナー、ジャンヌ・エビュテルヌ(1898.4.6〜1920.1.26)の遺族が秘蔵していたコレクション(日本初公開)を中心に、モディリアーニ、ジャンヌそれぞれの油彩、水彩、素描作品と写真等の資料が展示されている。
1916年12月に出逢ってから死ぬまでの3年間を、ふたりの作品から検証することができる。
ジャンヌの遺品の存在が明らかになったのは2002年、本展の監修者でもある美術家マルク・レスリーニ氏が当時館長を務めていたパリのリュクサンブール美術館で、モディリアーニ展の準備を進めていたとき、ジャンヌの兄アンドレが秘蔵していた作品群を引き継いだ子孫から、連絡があったという。(前掲「芸術新潮」)

1920年1月24日、慈善病院で急逝したモディリアーニのあとを追い、妊娠8ヵ月のジャンヌは1月26日の朝5時、両親のアパルトマンの6階から身を投げた。
1918年11月29日に生まれた娘は、2歳で孤児となった。
ジャンヌは娘を乳母に預けっぱなしで、モディリアーニの世話にかかりきりだったという。
母親と同じ名前の娘ジャンヌ・モディリアーニは、1920年1月、モディリアーニ家に引きとられてイタリアで成長し、美術研究家の道に進む。著書はこちら
なおモディリアーニは娘を認知していない。結婚によって状況を正常化する用意はあると事あるごとに認め、書き残してもいたが、当時の劣悪な通信事情により、イタリアで手続きをしなくてはならない書類がいろいろなことを遅らせている結果、何ヵ月も経ってしまったのだと、ジャンヌの両親の口から伝えられている。(図録)
ジャンヌ・エビュテルヌの娘ジャンヌとして戸籍に登録されたあと、どういう経緯があったのか、上述のようにモディリアーニ家に引きとられたのである。

ジャンヌの両親の、愛しあっているふたりを尊重する、という中立性というか客観性は、富永太郎の両親が人妻H・Sとの恋愛関係に示した姿勢でもあるが、かなりの理性を必要とするだろう。国や状況は異なるが、両者が同時代のできごとだという点に注目したい。
1917年7月からジャンヌとモディリアーニは同棲をはじめたが、ジャンヌの両親にはこの事実を隠していた。翌年の3月に妊娠の事実を隠し通せなくなり、モディリアーニから不安を完全に取り除く宣誓を受けて、両親はモディリアーニの過ちを許したのだという。1919年7月7日、モディリアーニはジャンヌと結婚することを文書で誓約。このときジャンヌはふたたび妊娠していた。(図録)

ジャンヌの遺髪が展示されていたのに、軽い衝撃を受けた。
たまたま前週に「中原中也と富永太郎展」で観た富永太郎の遺髪との差異に驚く。太郎の遺髪は黒くて繊細で、小さな円形状に品よくまとめられていた。わたしの記憶にまちがいがなければ、かわいらしい桃色の柄の千代紙が貼られた、小さな長方形の箱がそえられていた。
しかし忠三郎が、遺髪をこの小箱に収めて保管していたのかどうかはわからない。忠三郎の妻が、夫が亡くなったときに太郎の遺髪を棺に入れ、残りをそのような形状にして保管したのではないか、などという妄想を膨らませて愉しんでいる。
一方、ジャンヌの遺髪は赤みをおびた茶色で、意外と太くてぱさついている。量的に多いので、まるで生きているようにグロテスクだ。
図録(p.172)に掲載されている遺髪の写真は、展示されていたものとちがう。実物はもっと赤みをおびていて、艶がない。
前掲の「芸術新潮」(p.82)に掲載されている遺髪の写真は、展示されていたのと同一にみえる。

  *

わたしが最も惹かれたのは19歳のジャンヌのモノクロ写真だ。
16歳の写真のようなふっくらした体躯と意思的な強い眼をもつジャンヌとはほど遠い。眼に力はあるものの、虚ろである。上半身は痩せているが、腹部がふっくらしているので、身ごもっているのがわかる。貧困のなかで酒と麻薬に溺れ、健康状態の悪化したモディリアーニとの生活は、内向的なジャンヌのこころを侵蝕したにちがいない。
モディリアーニのあとを追って自死したジャンヌは、彼女自身のなかにそこへ結びつく要素があったのだろうか。

図録(p.168〜p.172)で解説されている、ジャンヌの遺作(連作4点/水彩)には物語性があり、ジャンヌがモディリアーニから独立した優れた画家だったことを示している。
4つのステージでジャンヌは自分の人生を分析し、総括している。これらの作品がいつ制作されたのかさだかではないが、自死の直前だとすると21歳のとき。驚くべき洞察力である。
とくに最後の1点である《自殺》は、ベッドの上で服を着た長い髪の痩身の女性が、右手に血染めのナイフをもち、左手で血の滴る心臓に手を当てている。腹部がふっくらしていて、身ごもっているようにみえる。
心臓に手を当てているところから、そこに最も大切な宝が内蔵していて、それが壊れたあとも護りつづけているようにもみえる。また、傷みを和らげるために手を当てているようにもみえる。この傷みは、存在の傷みである。

ジャンヌが最も大切にしたかったのは、なにだったのだろう。
「ひとりでは生きていけなかったから身を投げた」というだれにでも納得できる解釈ですませてよいのだろうか。
モディリアーニに絶望していた、という仮説も成立する。
子育てを他人任せにし、身を粉にしてモディリアーニの世話をしたジャンヌ。そればかりではなく、作品を制作していたのだ。
ふたり目の子どもを身ごもり、2歳の娘を遺して自死したということは、母よりもモディリアーニのパートナーとしての自己、そして画家としての自己を優先させたということなのか。
ジャンヌの作品のなかで、《黒い服を着たブルターニュ女性》がわたしは好きだ。妙に存在感がある。静物画もいい。

会場でわたしは携帯ストラップとキーホルダーを買い求めた。
ポスターや図録の表紙になっているアメディオ・モディリアーニ《大きな帽子を被ったジャンヌ・エビュテルヌ》(1918年/油彩)が形どられている。
どうしてこの油彩が選ばれたのか知らないが、優美さが漂っているからだろうか。
この年にジャンヌは娘を生んでいる。
生身のジャンヌは、モディリアーニの描く肖像画とはちがう風貌だったというのがよくわかる。
ジャンヌより14歳上のモディリアーニは、実生活で理想の女性像をジャンヌに押しつけたことはなかったのだろうか。
ジャンヌのサイドから、あるいは孤児となった娘の視点により、モディリアーニ神話が崩れたらおもしろい。

  *

じつはジャンヌより女性彫刻家カミーユ・クローデル(フランス/1864-1943)のほうがわたしは好きなのだ。本展と同時期に「二人のクローデル展」(川口市立アートギャラリー・アトリア)が開催されていたので、観にゆくつもりでいたのだが、かなわなかった。「分別盛り」を観たかったのだ。
カミーユはロダンの弟子ということになっているが、彫刻作品はロダンより優れていたという説もある。
同じことはジャンヌにもいえるわけで、芸術家として作品を正当に評価してほしい。
それにしても、愛しすぎたほうがより悲劇的な結末を迎えるという原理は、時代を超えて不変だということにあらためて気づく。
そして他者の存在を喰らうことで自己を太らせ、作品化してゆく芸術家という種族に、怖れさえ感じるのである。
換言すると、優れた芸術作品の裏側には、生け贄になった人間が貼りついているということだろうか。









miko3355 at 15:07|この記事のURLTrackBack(0)美術 

2007年06月13日

富永太郎が書いた「惚れ証文」

「さきにアップした「中原中也と富永太郎展」で、父・謙治の日記に登場する「証文」について追記する。
そのためには人妻H・Sとの恋愛事件について記す必要がある。

※以下は、大岡昇平「富永太郎―書簡を通して見た生涯と作品」「面影」「『「問わずがたり』考」を参考にしている。
(以前に読んだ「問わずがたり」も、このたび読みかえしたが、フィクションなので混乱が生じるため引用できない)

1974年7月、大岡昇平は瑞雲寺現住職の叔母・ 花子さん(67歳)と会う。花子さんは先代住職の妹で、大正10年3月から5月まで(当時15歳)母親と一緒に、離れに下宿していた富永の世話をしていた。6月に北海道に嫁いだ花子さんが、その年の暮れに実家に帰ったとき、太郎はH・Sとの恋愛事件を起こして帰京していた。その事件は当時評判で、花子さんはH・Sの名も住む町も母親から聞いていた。
H・Sは「毎日のように」俥で太郎を訪ねて来て、山門の近くの杉の木立の中でよく立ち話をしているのを、寺の山門わきの別棟に住んでいたKさんは見ている。Kさんは花子さんの従姉妹。
大岡が花子さんに会ったとき、花子さんは仙台に帰って、瑞雲寺近くの町に住んでいた。

1974年10月、大岡昇平は『富永太郎全集』(註・大岡の死により未刊)の共同編集者・吉田熈生とともにH・Sに会う。80歳にしては元気だったが、かなり耳が遠くなっていて、怒鳴り合うように話したという。
Sが開業していた医院は、親類が継いでいた。
大岡はそのときの話を短篇小説「問わずがたり」として発表(『新潮』1975年1月号)。これはフィクションだが、「富永太郎伝」を書いた大岡にとって、伝記の訂正に不都合が生じたため、事実とフィクションの関係、フィクションの根拠、その理由と経過を述べるために「『「問わずがたり』考」を発表(『群像』1976年1月号)。
それに先立つ1974年9月、大岡は『富永太郎―書簡を通じて見た生涯と作品』(中央公論社)を刊行。1974年11月21日、朝日新聞夕刊に「面影」―富永太郎伝への追加―を発表。

大岡は、太郎に「証文」を書かせたのはH女の母親だと推察している。「肉体の関係はないけれど、心から愛している。離婚されれば結婚する」というような文面で、太郎が二高を退学して仙台を去らないなら、この証文を学校へ提出するという。
当時は姦通罪のある時代で、太郎の両親は、それほど気に入っているのなら、S家がH女を離婚するなら、嫁に貰い受けようとしていた。
このあたりの事情は、大岡が聞いた太郎の弟・次郎と妹・百合子の証言に相違がみられ、不透明だ。
父・謙治は太郎の伝記を記そうとしていた大岡に協力的だったというが、H・Sについては語らなかったのだろうか。
いうまでもなく太郎の両親にとって、きわめて不愉快な事件だった。

  *

ここで太郎の「不幸な恋愛」についてまとめてみよう。
大正10年5月末から6月にかけて、太郎は正岡忠三郎とともに蔵王山麓温泉地、青根温泉に遊ぶ。東北本線白河から軽便鉄道があり、二高生がよく行った。旅館の娘「やっちゃん」に太郎は興味を示した。
7月暑中休暇、忠三郎は15日帰京、太郎は再び青根に遊び、「宿命の女」H・Sに出逢う。
瑞雲寺で太郎の世話をしていた花子さんは、5月に北海道野付牛勤務の鉄道吏員に嫁いだ。そこへ太郎は、夏休みに行くという葉書を出した。旅費を請求したら、母・園子に、新婚の家へお嫁さんの知合いの若い男が訪れるものではない、と叱られ、青根温泉に行ったのだった。
花子さんは大岡に、「あの時、北海道へ来ていたら、あんなことにならなかったでしょうに」といった。

H・Sの夫(開業医)は喘息持ちで、それに効くというので、毎夏一家で青根温泉に行った。
仙台に帰ったあとS家に遊びにきた太郎は、陸軍将校(Sの妹の夫で、砲兵大尉、当時東北帝大理工学部へ委託留学中)に「フランス語を教えてやろう」といわれ、通いはじめる。
そのうちに太郎が写生の帰りに寄ったり、H・Sが瑞雲寺を訪れて、山門傍の杉林で立ち話をするようになる。
太郎の母方の叔父・丹羽瀬基が、Sの義弟・陸軍将校の士官学校同期生で、当時名古屋第三師団勤務(歩兵第六連隊中隊長)だった。そこへ義弟からH・Sと太郎の関係について、警告の手紙が行った。ふたりが町を散歩する姿が将校の目に留まり、騒ぎ立てたので、事件が大きくなったらしい。
丹羽瀬基は、上述のような同期生のとった処置について憤慨していたという。
11月5日、忠三郎に東京外国語学校受験を告げ、帰京。H・Sの家に近い瑞雲寺の下宿を即座に引き払うことを命じられたらしい。8日、仙台に帰り、その日のうちに米ヶ袋広丁一四 三浦方に転居。忠三郎は、引っ越しの手伝いをしている。

太郎とH・Sの事件が起きたころ、子どものできなかったH・Sは、3週間ばかり実家に帰されていた。「3年子無きは去る」といわれた時代であり、その前年、父親が死に、家業は傾いていたらしい。太郎の同情ぶりからして、一家が路頭に迷うほどだったのかもしれない。
H・Sの郷里は仙台の南方の郡部で、市役所役人の引きで仙台に出て乾物屋を開き、市役所へその納入を引き受けて経営していたという。

  *

大正10年(1921)12月2日夜、太郎は母・園子にH女のことで来仙を依頼する手紙を書く。学校を変えさせてほしいというお願いも含めて。
つぎのように追記している。

《Sさんの奥さんのことゝ書いたので、私に御会ひになるまでは、いつかのご心配の様子では「法律上の罪人」などといふことまでも想像なさるかもしれませんが、そんなことは絶対にないのですから御安心の為書きそへておきます》

●9日、太郎の母・園子は単身来仙し、H・Sとその母親に会ったらしい。H・Sはこのとき実家に帰されていたはずだから、園子はそこを訪問したのだろうか。H・Sは太郎との恋愛関係を否定。このとき太郎はホテルで待機していた。
●10日、園子は太郎と共に帰京。父・謙治の説得にかかった。
●12日、両親は太郎を伴って、再び仙台へ赴き、S夫妻と面会。
●13日、父・謙治の日記によると(大岡もみていない)S夫妻が訪問してきて、H女は前言を翻し、太郎との恋愛関係を認めた。そしてSは、「証文」を火中に投じた。これはH女とは離縁しないという意味なのだろう。
●14日夜、仙台を決定的に離れ、翌15日朝、帰京。
●15日午前11時20分、帰京してすぐに、太郎は仙台の忠三郎宛ての手紙を書きおえる。

12月2日から15日という短期間のうちに事を運ぶ必要があるほど、事態は切迫していた。
この年の手帖に「私は久しく日記をつけるのを怠っていた。それほど混乱した日が続いたのだ」という句があるらしい。太郎は日記を残していない。それが保存されていたら貴重な資料になっただろう。

大正10年(1921)からはじまる正岡忠三郎の日記の12月13日、《晩仙台ホテルへTの家族を尋ね、Tと町へ出てあるく》とある。
(「中原中也と富永太郎展」図録より引用)

おそらく太郎はあるきながら忠三郎に事の顛末を語ったのだろう。
二高入学以来絶命するまで、常に太郎に伴走していたのが忠三郎である。
太郎の終焉を忠三郎は記録している。貴重な資料である。
臨終の床で、つききりで看病する忠三郎にワガママをいう太郎を受け入れる姿はほほえましい。

  *

ここからは私見である。
H・Sの結婚自体が家と家の関係により成立したもので、開業医の跡とりを生むこともなく、実家の経済状態が悪化したH・Sを、当のSよりも、Sの妹と、その夫が許さなかったのではないだろうか。
太郎が二高を中退し帰京したあと、H・Sは夫の家にもどっている。
もし太郎との恋愛事件がなければ、H・Sは離縁されていたのだろうか。
H・Sが、夫のもとにもどる道を選択しなければ、実家に居場所のないH・Sは、途方に暮れる。
太郎は20歳で、生活力に欠ける。
不妊の理由がH・Sにではなく夫にある可能性があるとしても、当時は女のせいにされていただろう。
負い目のあるH・Sは、たとえ太郎の両親が承諾したとしても、富永家に入ることには無理がある。妙にプライドの高い(わたしにはそう感じられる)H・Sには、マイナス面が多すぎる。また東京で暮らせば、仙台の母親をカバーすることはできない。
短篇「問わずがたり」では、H・Sには弟がいたことになっている。大岡はH・Sの戸籍を調べて、父親の死亡を確認している。弟がいるというのはフィクションだろうか。

H・Sは太郎に、自分と母親の窮状を訴えたのだろう。太郎はふたりにいたく同情している。
12月17日付けの正岡宛書簡に、太郎は「馬鹿な男だと思つて、河北新報の三面には毎日眼を通してくれる様に頼む」と記し、たまたま道で会った後藤吉之助(一中時代の同級生)に、「渋谷川に身投げ女が浮かんだら知らせてくれ」と頼んだという。これは絶望したH・Sが追ってきて、太郎の家の近くの渋谷川に身を投げるかもしれないとの危惧があったからだろう。
しかしそのころH・Sは、夫のもとに帰っていたのである。

Sが妻を離縁しなかった理由が判然としないが、太郎との事件がなければ離縁していたのだろうか。太郎との仲がうわさになったのが実家へ帰されたきっかけのようだが、大正2年に盛大な婚礼が行われたあと、太郎との恋愛事件が起きる大正10年まで、子どもができなかった。これが伏線になっていたのはまちがいないだろう。開業医のSには、跡継ぎが必要だっただろうから。
SやH女の側からの資料がでてきたら、べつの視点から眺めることができるだろう。

このたびの「中原中也と富永太郎展」にも展示されていた油彩「火葬場」(1922年/大正11)は、太郎が下宿していた瑞雲寺の裏にあり、H・Sとのあいだに心中話がでた可能性がある。
太郎の家族は油彩「火葬場」をみて、気味が悪いと感じたらしい。が、心中話は連想しなかっただろう。
太郎はH・Sと別れたあと、仙台を訪れてこれを描いたらしい。
そのことでなにかを超越したかったのだろうか。
だとしたら、油彩「火葬場」は象徴的な画になる。
また散文詩「秋の悲歎」(1924年/大正13)の「私たちは煙になつてしまつたのだろうか」という一節は、心中を暗示しているのではないか。

大岡昇平の「富永太郎伝」を読む限り、太郎と両親が精一杯の誠意を見せているのに対し、H・Sとその周辺の人物たちにはそれが感じられない。
偽りの自己を生きることで、H・Sはその生をまっとうしたようにみえる。
というより、太郎と燃えあがった2ヵ月が、H・Sにとって例外的な時間だったのかもしれない。
80歳のH・Sは、大岡たちに会うことをどんな想いで承諾したのだろう。
仙台市宮城学院の蒲生芳郎氏のとりなしで会うことができたそうだが。
大岡の「何かあなたとのうわさが立って、二高を中退しなければならなくなった、といわれていますが、いかがですか」という問いに、笑って「いやですよ。こんなお婆さんにそんな話」といったH・Sを、わたしはどうしても受け入れられない。
こんなつまらない女性に、太郎は死ぬまで苦しめられたのか……。
来仙した太郎の母親に、「お友達としてつきあっていました」とつっぱねた28歳のH・Sが甦るのである。
太郎がH女との失恋によって死ぬまで苦しんだのは、この落差だったのではないか。
そんな想いで散文詩「影絵」を読むと、身に沁みるのである。

  *

富永太郎の無二の友・正岡忠三郎は、加藤拓川の三男として東京に生まれ、12歳のとき、正岡子規の妹・律の養子になった。子規は父方の従兄弟に当たる。正岡子規に思い入れの強い司馬遼太郎は、『ひとびとの跫音』で正岡忠三郎について記し、そこに富永太郎の書簡も登場する。
司馬は忠三郎の葬儀で、葬儀委員長を務めた。
忠三郎の家族にとって、司馬は別格の存在だったらしい。
司馬遼太郎は『ある運命について』(中公文庫/昭和62年)で、恋愛を定義している。その箇所を引く。

《恋愛というものを古典的に定義すれば、両性がたがいのなかにもっとも理想的な異性を見出し、性交という形而下的行為を介在させることなく――たとえなにかのはずみでその行為があったとしても――その次元に双方の格調をひきさげることなく欲情をそれなりの芸術的戒律まで高めつづける双方の精神の作用をいう、とでもいうほかない》

富永太郎が苦しめられたのは、「立ち去ったマリア」の残像である。
神経衰弱に悩まされ、血を吐くような想いで、H・Sとの失恋を詩篇や画に結実させた。失恋を芸術作品を生みだすことで昇華させた。
恋愛にも才能がいるが、失恋にはそれ以上の才能が求められるのだということを、わたしは富永太郎から教えられたのである。
太郎の父・謙治は、大岡に「失恋というものは、ひどいものですなあ」とつくづく述懐したという。
大正10年10月10日付け正岡宛の書簡で、太郎は帰京していた忠三郎に「どうか自分をごまかさない様に」と書きそえている。忠三郎は当時、東京の加藤家の隣家の令嬢に夢中だった。
この太郎の肉筆をこのたびの「中原中也と富永太郎展」で観たとき、わたしは脳裡に刻みつけた。
自分をごまかさない生き方を貫いた富永太郎は、最期まで失恋の傷みから解放されなかった。
早々と現世を立ち去った富永太郎は、「人工天國」の住人になっているのだろうか。





miko3355 at 15:42|この記事のURLTrackBack(0)富永太郎 

2007年06月03日

「中原中也と富永太郎展」 二つのいのちの火花

横浜市中区の神奈川近大文学館で、2007年4月21日から開かれていた「中原中也と富永太郎展」の最終日は、本日6月3日である。
本特別展は、ことしが中原中也生誕100年、歿後70年を迎えるのを記念して開かれた。
中原中也の文脈で富永太郎を語られるのにわたしは嫌悪感があるし、「二つのいのちの火花」というサブタイトルから、ふたりのあいだに火花が散ったかのような印象を受けるのにも閉口していた。
怠惰と上記の理由から、気にはなりつつなかなか足が向かなかった。
図録と富永太郎版画絵はがきセット(4枚組)は、すでにホームページから注文して入手していた。版画絵はがきに、わたしの好きな「Promenade」(1923年/木版)が含まれているのがうれしい。
そんなわたしの背中を一気に押したのは、「小林秀雄實記」(閉鎖中)を運営する杉本圭司氏である。
わたしが本特別展に足を運んだのは5月22日である。
杉本氏はわたしより一足早く行かれ、小林秀雄に焦点を当てて観ておられる。

  *

本特別展はわたしの予想を裏切り、富永太郎関連の資料を最大限に展観できたように思う。
関係者の熱意が凝縮している。
富永太郎のコーナーを念入りに観た直後にわたしを襲ったのは、「富永太郎はいい男だなあ」という素朴な感慨だった。
同時に、かつて「小林秀雄實記」掲示板で富永太郎について小向さんと延々と書きこんだ内容が甦った。
わたしが行った日は、中原中也のコーナーより富永太郎のコーナーを熱心に観ているひとが眼についた。これは富永太郎の資料を観る機会が少ないからだろう。
図録についても64ページという薄さにもかかわらず、内容が充実しているのに感心した。
編集委員は中村稔で、編集協力は中原豊。
p.33に掲載されている、中原豊氏のつぎの一節はいただけない。ほんとうにそうなのだろうか。

《太郎の代表作ともいえる「秋の悲歎」「鳥獣剥製所」などの密度の高い散文詩は、詩人として伸びていこうとする中也の生命と、結核に蝕まれながら最後の輝きを放とうとする太郎の生命との交錯の中で生み出されていった》

図録の冒頭に中村稔・樋口覚・宇佐美斉の一文が寄せられている。
以前からわたしは宇佐美斉の見解に注目している。
宇佐美は《二人は共通の知人を介して知り合い、たちまちのうちに交友を深めた。というよりは知識や感性において優位に立つ相手に、中也の方がほとんど一方的に密着して、さまざまなことを貪欲に吸収しようとした》と記している。
そして《フランス詩を介したこの二人の詩人の絆は思いのほかに強かった、と言わざるを得ないのである》と結んでいる。

樋口覚は《富永の豪気はみずから酸素吸入器をはずしたことにもあらわれている》と記しているが、わたしは富永太郎の筆跡に「豪気」を感じる。
その筆跡が、死に近い詩稿において乱れているのをみたとき、胸が痛んだ。それでも文字の輪郭は維持している。
死の床で酸素吸入器を調節する友人たちに、「自殺倶楽部のわかる奴でなくちゃ、酸素は扱えないよ」と笑い、臨終前日の朝、医師のすすめで病室に集まった家族に「こうみんなに来られちゃ、死ななきゃいけないようだね」といった太郎に、わたしは諧謔とユーモア精神を感じ、好もしく受けとめている。
この精神は散文詩「影絵」において発揮されていると、わたしはとらえている。
仙台のS夫妻に対する怨念が洗練されているので、悲痛さとともに透明な笑いを誘う。S夫妻がなんともいえず滑稽である。
一高受験の前日に書かれたというが、太郎が勉学に不熱心になったのは、H・Sのせいではなく、出逢うまえからその兆候があらわれている。

  *

本展でわたしの足を釘付けにしたのは、太郎の父・謙治の閉じられた日記(手帖)と、太郎の遺髪だ。
添え書きによると、大岡昇平も読んでいない資料だという。
固有名詞の箇所は空白になっていたが、その日記の箇所が活字で記されていた。
わたしの記憶に基づくので、日記の内容について事実誤認があるかもしれないことをお断りしておく。大切な資料なのでメモしたかったが、遠慮したのだ。
たしか大正10年(1921)12月12日と13日の日記だった。
12日、太郎の両親はS夫妻と面会し、翌13日、S夫妻が訪ねてきて、H女は太郎がいったのと同じだと、前言(註・お友達のつもりで付き合っていた)を翻し、Sは証文を火中に投じた、という。
(この両日の様子は、大岡昇平の記述とは相違がある)
この日記を幾度も読みながら、眼を疑った。
H女は太郎との恋愛関係を、夫や太郎の両親のまえで肯定していた。その場に太郎もいたのだろうか。

14日夜、仙台を離れ、15日朝、帰京。同日、二高を退学。太郎、20歳。
退学が受理された書類も展示されていた。時を経ると、実務的な書類がかえってなまなましい。
そこに父・謙治の落胆ぶりや、H・Sとのわずか2ヵ月のつきあいを連想してしまうからだろう。

当時28歳だったH・Sが80歳のとき、大岡昇平は吉田生とともにH・Sの家を訪問している。通されたのは離れの六畳で、富永がフランス語を習いに通った陸軍将校がいた部屋。
そのときH・Sは、「富永の母親が仙台に来たことは知らない、会ったことはない。富永が退学して東京へ帰ったことは知らなかった」と言明したという。それでいて、「富永がその後外語へ入り、まもなく死んだ、ということは知っていた」。
ひとつウソをつくと、綻びがみえてくる。
大岡昇平はH・Sに対して、鋭い質問をなげかけるのを遠慮している。
けれども、対面したことで多くのことをキャッチしている。

太郎とH・Sには恋愛関係は成立していたが、肉体関係はなかったらしい。
大岡昇平は肉体関係を否定しているが、わたしもそれに同意する。
最初はそんなわけはないと思ったが、そんな自分自身を羞じたのである。
H・Sと別れてから臨終までの4年間、失恋は太郎の心身を蝕んだ。
そこがいかにも富永太郎らしい。
ひとを愛するには、創造性が必要なのだろう。
大岡昇平によると、太郎が表現している「立ち去ったマリア」「わが女王」と、H・Sとおぼしき鉛筆書きの和服姿の半身像は、縁遠いという。
そこに詩人と画家の富永太郎の視点が表出していて、おもしろい。
詩人としては崇めながら、画家としては現実の姿を描いている。
80歳まで自己を偽りつづけたH・Sには、それなりの必然性があったのだろうが、わたしは同情できない。
「問わずがたり」考に、大岡はH・Sについて《そのほか記憶はすべて鮮明で、話し方は巧みで、機智に富んでいた》と記している。

太郎の遺髪については、司馬遼太郎『ひとびとの跫音』(1981年/中央公論社)に記されている。ふたりの関係についても、司馬は鋭い作家の感性で分析している。
太郎の遺髪を、無二の友であった正岡忠三郎が宝物のようにしていたと、忠三郎の妻が証言している。
忠三郎は太郎と二高に同期入学。太郎は理科乙類で、忠三郎は理科甲類。
図録に遺髪の写真が掲載されていないのは、惜しい。
忠三郎に宛てて太郎が書いた手紙や詩稿の黄ばみが、歳月を感じさせる。
いうまでもなく、太郎の父・謙治や忠三郎が大切に保管していたから、われわれはそれらを眼にすることができるのである。

  *

そしてわたしを圧倒しつづけている太郎の臨終写真。
最上部に大きなサイズの写真が掲げられていた。
わたしはこのうつくしすぎる臨終写真を、人間「富永太郎」という作品だととらえている。散文詩「秋の悲歎」そのままの臨終写真にみえる。
最期まで自己を貫いた24年の生涯だった。

大正14年(1925)11月12日午後1時、鼻にはめた酸素吸入器のゴム管を「きたない」といってはずし、「ちゅうさん、ちゅうさん」と二言いいのこし、1時2分絶命。
「ちゅうさん」とは、つききりで看病していた正岡忠三郎の意で、手紙で「ちゅうさん」「太」とやりとりしていた。手紙だけではなく、常からそう呼んでいたのだろうか。あるいは、こころのなかでそう呼んでいたのか。

上記の写真の下に展示されていた、中也が故里の母に送った「詩人の死顔です」という添え書きのある臨終写真をみて、写真館が撮ったのだと確認できた。
中也の添え書きのある臨終写真だけが図録に掲載されているのが、わたしとしては不愉快である。
当時は写真館で写真を撮ること自体が珍しかったらしい。
死に顔を撮らせたのは父・謙治だろうか。
どのような想いだったのだろう。

私見だが、わたしは富永太郎の24年の生は完結しているとみている。
散文詩「秋の悲歎」「影絵」を生みだしたことで、詩人として不動の位置に到達した。
神経衰弱に苦しんだ太郎は、たとえH・S事件がなかったとしても、この世に永居することはできなかっただろう。
それにしても、死後、自分が詩人として認識され、遺品が展示されることを、太郎は想像していなかっただろう。
そんなことをぼんやり考えていると、散文詩「遺産分配書」の結句が浮かんだ。

   母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ返す。
  幼少時を被ふかずかずの抱擁(だきしめ)の、沁み入るやうな記憶と共に。





miko3355 at 23:13|この記事のURLTrackBack(0)富永太郎