2007年09月

2007年09月18日

岡本愛彦著『放送の原点を問う――テレビよ、驕るなかれ』

さきにアップしたニッポン人・脈・記「テレビの情熱」に登場する岡本愛彦について知りたくなり、『テレビよ、驕るなかれ』(春秋社/1983年)を入手した。濃密な内容にもかかわらず一気に読みおえ、いろいろ考えさせられた。

本書の「私のなかのテレビ史」(p.29〜p.97)は、テレビという未知の世界で、「テレビとは何か?」という一点を凝視しながら番組をつくりつづけた岡本愛彦のテレビ史と自分史が、重厚にオーバーラップしていて興味深い。

岡本愛彦のプロフィール

◆1925年生まれ。
◆1945年、満19歳で、無条件降伏・敗戦を、陸軍航空士官学校航空通信兵科の第59期士官候補生として、信州・上田の卒業訓練地で迎える。
両親家族は中国東北部の大連にいた。自活を決意して旧制大阪高等学校に編入、GHQの「軍学徒一割制限」で追放されて東京に出、以降ほとんど肉体労働だけで慶応義塾大学経済学部(旧制)を独力で卒業。
1946年、日本社会党に入党。頭で考える前に、民主主義とは何なのかを行動のなかで掴もうとした。
戦争加担者としての自分自身を生涯糾弾しつづける決意もしたし、天皇を頂点とする軍部と独占資本の明治いらいの侵略戦争と残虐な植民地支配に対して、我々の世代こそが最も鋭い糾弾者の立場をとりつづけることの必要性を身にしみて感じていた。
ノーマン・コーウィン作『文書番号A-777』がNHKラジオから放送されたのを聴き、放送終了後もしばらく席を立てないほど激しい衝撃を受け、生涯を決定する契機になった。
就職試験で合格した某全国紙と大手出版社を捨て、あまり迷いもせずNHK(東京・港区内幸町)を選ぶ。
◆1950年、放送記者、社会報道番組ディレクターとしてNHK(東京)に入社。ラジオ時代の鳥取放送局に3年足らず、テレビの本放送開始のために東京に戻され、NHK大阪のテレビ本放送のため希望して大阪へ。
◆1957年にNHKを辞職し、TBSへ入社。
◆1963年、TBSを辞職。
◆記録映画監督、フリージャーナリスト。
◆2004年、前立腺ガンのため逝く。

上記は本書からわたしが勝手に引用してまとめたものだ。
実際の番組づくりについて記されている箇所はとてもおもしろいが、分量が多くて引用しきれない。
主体性を喪失したTV局という組織から離れた岡本愛彦だが、組織に属していたから技術が磨かれ、それが大きな作品に結実したという側面もある。

岡本愛彦の作品をほとんど観ていないわたしがいうのはヘンだが、本書を読むと、岡本の手がけた作品には、いずれも思想性が貫かれている。アクチュアリティー(今日的な問題性)を番組制作の必須条件としてTVドラマをとらえていたという。
とりわけ1958年に平和文化賞、芸術祭大賞を受賞した『私は貝になりたい』は、ライフワークだったようだ。
「正直に、自らの意志を貫き通すために」TBSを去った岡本だが、内部事情については関係者への配慮から詳述を避けている。NHKを去った理由についても同様である。

  *

本書の巻末で、岡本愛彦は「読者への質問」を投げかけている。つまりすべてのテレビ視聴者に対してである。
それを列記する。(一部要約)

………………………………………………………………………………………

,△覆燭蓮⊂Χ畔送(民放)がスポンサーの投下する広告費によって支えられており、その広告費は一つ一つ商品の原価の中に必ず組み込まれていることを知りました。商業放送(民放)は、ニュース、ドキュメンタリーを含めて、あなたの生活に必要な放送を、良識と社会正義に基づいてキチンと放送していると思いますか?

⊂Χ畔送(民放)は公正中立であり、且つ子供たちにとってためになる放送をしていると思いますか?

あなたは商業放送(民放)の主権者であり、NHKの主権者でもあります。では、主権者として商業放送やNHKなどに今の放送はおかしい――と、注文をつけたことがありますか? また、今後そうした注文をつける意志をお持ちですか?

づ吐箸蝋駝韻垢戮討里發痢△弔泙蠍共のものです。現在のすべての放送について、あなたは「公共放送」だと感じたことはおありですか? 商業放送はスポンサーがタダで見せてくれていると考えたことはありませんでしたか?

1953年(昭28)のテレビ本放送開始以来30年の間に、100本以上の作品が放送中止になっています。そうしたことについて、あなたはどうお考えですか?

商業放送は、経営が苦しくなると電波料や番組制作費を値上げし、その金は結局回り回って私たち消費者が支払うことになります。外国、殊にヨーロッパのように商業放送(民放)テレビ局を減らすべきだとか、いろんな意見があります。どうお考えですか?

番組制作に当たっている下請プロダクションのスタッフは、ひどい労働条件と安い賃金で働かされており、将来一人前のディレクターなどになれるかどうかさえはっきりしていません。こうした状況について、どうしたらいいとお考えですか?

NHKについて、あなたは身近な印象をお持ちですか?

NHKの経営を、どうしたらいいとお思いですか? ヨーロッパ並みに広告放送を許すべきだとお思いですか?

商業放送もNHKも、「皆さまの放送」と言いながら、なかなか一般の民衆を経営や番組編成に参加させてくれません。視聴者として、何を希望しますか?

商業放送免許を再考し、近い将来、商業放送のネットワークを2乃至3本に再編集して、1本のネットワークに対して幾つかのテレビ会社が番組を提供してゆくという、英国的方式に改めるべきだという声が、依然として根強くあります。それが商業放送の質を高めるための唯一の方法だというのですが、この意見についてどうお考えですか?

民衆を愚弄する番組を多数放送しているテレビ局からは、免許を取り上げるべきだという意見について、どうお考えでしょうか?

………………………………………………………………………………………

Г硫疾船廛蹈瀬ションの過酷な実態については、本書で数字をあげて詳述されている。この搾取の構図は他人事ではないとわたしはとらえてきたのだが、その姿勢を岡本愛彦に肯定されたような気がしてこころ強い。

本書は1983年に刊行されているが、内容は古びていない。
岡本愛彦の最もいいたいことは「おわりに」に記されているつぎの一節に集約していると思える。

つまり、政治や資本に勝手なことをさせないことが放送における民主主義のスタート台なのだということを、民衆の次元でせめて意志統一ができれば、放送はそこから変わりはじめるのだと思う




2007年09月17日

ニッポン人・脈・記「テレビの情熱」

朝日新聞・夕刊に連載された、ニッポン人・脈・記「テレビの情熱」を興味深く読んだ。
全12回、2007年8月8日〜8月24日。

8/08  「あなたの貧乏撮らせて」  
8/09  広島へ何しに? 答え求め
8/10  北国 高3 目凝らし1年
8/13  戦争の証言 背負う覚悟
8/14  大多ドラマ、時代をタイホ
8/15  アルバムの裏 妻の孤独
8/16  アポなし 突撃 眉毛切り
8/17  関西発の「必殺」・お笑い
8/21  伝えるのは自分の言葉
8/22  タブー破り 「やばい企画」
8/23  キー局覆す独立の意気
8/24  怪物の卵はどう育った?

担当  編集委員・川本裕司/写真・フリーの水村孝】

シリーズトップの?で、NHKスペシャル「ワーキングプア」のチーフプロデューサー・春原雄索(すのはらゆうさく・41歳)と、NNNドキュメント「ネットカフェ難民」の日本テレビのディレクター・水島宏明(みずしまひろあき・49歳)が紹介されているところに、いまの時代性があらわれている。

?では、68年のTBS闘争を経て、TBSを退職した13人を含む25人が70年に設立した制作会社テレビマンユニオンが紹介されている。
代表取締役会長・CEO/重延浩(しげのぶゆたか・65歳)の「受注する制作費が25年前より低い。テレビ局との関係から言いにくいのですが、事実です」という発言は、テレビ局の下請けではない会社を目指してきたテレビマンユニオンであるだけに、なおさら重い。

つぎの一節は気になる。

《活路を探り90年代半ば、通信衛星のデジタル放送で自らのチャンネルを持とうと乗り出した制作会社があった。しかし、契約数が目標に及ばず、社長は自己破産し放送界から姿を消した。「対等なパートナーに」という制作会社の長年の訴えは、なお目標のままだ》

関連があるので、河内孝著『新聞社 破綻したビジネスモデル』(新潮新書/2007年)から引く。

《『週間東洋経済』(〇六年一〇月七日号)の「当世時給番付」によると、フジテレビは七五八二円で第三位。一方、テレビ制作プロダクションは二〇〇〇円以下。もし、規制が緩和され、文字通りの「多チャンネル時代」が到来して、何百とある下請プロダクションが、それぞれ特徴を持ったテレビ局になったら――これが、独占的な国家免許で利益をむさぼっているテレビ経営者達の最悪のシナリオなのです。(ちなみに下請プロダクションの実態を調べた公取調査も、全マスコミが黙殺しました)》

本blogに2005年11月03日「テレビ制作会社について考える 」をアップしてからも、自分なりに考えつづけてきた。
「ワーキングプア」を報じるTV局が、制作会社の「ワーキングプア」によって支えられているというのは皮肉だ。
「経費削減のために番組制作を外注する」という局の発想自体が、まことに寒い。
受信料で経営しているNHKが、委託先の制作会社に正当な報酬を払わず、民業を圧迫しているのは解せない。いまのNHKの番組制作委託率を知らないが、公表しているのだろうか。
いずれにしてもインターネットの普及により、新聞社と同じくTV局も安穏としていられない時代が到来しそうだ。

  *

このシリーズで最も印象に残ったのは、ラストの?に登場する岡本愛彦(おかもとよしひこ・2004年79歳で歿)である。
《外部の圧力に屈したテレビ界に絶望した》岡本は、《2年連続で芸術祭賞を受けながら63年、TBSを退社する》
TBSドラマ「私は貝になりたい」(58年)についてはあまりにも有名なので知っていたが、制作した岡本愛彦について、わたしはまったく知らなかった。岡本は生前、「あのとき戦争責任を追及できなかったら、一生できないと思った。このドラマを作れればテレビをやめてもいい、と命がけだった」と語っていたという。

《TBSで最後のドラマの演出助手をつとめた村木良彦(71)に退社後、ふと打ち明けた。「『貝になりたい』について、若い頃からの在日韓国人の友人から『加害者としての日本人像がなく、アジアの民衆の視点が欠落している』と言われてショックだった」
 岡本は多額の借金を背負い、在日韓国人政治犯の記録映画を製作した》

村木良彦は上記のテレビマンユニオン設立メンバーのひとり。1984年、代表取締役社長を辞し、非常勤の取締役へ。朝日新聞社の川本氏から取材を受けたことが、「村木良彦ブログ」に記されている。

亡くなる3年前の01年に岡本が語ったという一節が、いまもわたしのこころに突きささっている。

テレビは人間の歴史の中で、毒にも薬にもならないものになってしまった

折しも2007/08/24、「終戦記念特別ドラマ」として【真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」】(日本テレビ)が放映された。
わたしも観たが、あまり感銘を受けなかった。夫婦愛、家族愛が軸になっているのに加え、主人公・加藤哲太郎役の中村獅童が好きでないわたしには、感情移入できなかった。感動したのは哲太郎の妹の勇気と思想性だ。
以前から更新のたびに閲覧している「醍醐聰のブログ」(08/26)に「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?というエントリーがアップされている。

それによると、上記の番組「私は貝になりたい」(日本テレビ)について加藤哲太郎の妹・不二子さんから「ぜひ視てほしい」という電話があり、日本テレビの下請けの制作会社の若いスタッフが原作を読んで感銘し、ぜひ取り上げたいといって取材に訪れたいきさつを聞いた、という。
その企画者の満足できる番組内容になっているとは思えない。
「真実の手記」とうたいながら、番組のラストに「フィクションです」という断りがあったと記憶している。整合性に欠けるのではないか。
このドラマは原作とは別物、といってさしつかえないと思う。

岡本愛彦が、「終戦記念特別ドラマ」と冠した07年版「私は貝になりたい」を観たら、
テレビは人間の歴史の中で、毒にも薬にもならないものになってしまった
と、繰りかえしいうのであろうか。

本シリーズを担当した川本裕司は、つぎのように結んでいる。

《視聴率という名の神に従順な、同じ顔をした番組がテレビにあふれる。顔が見える制作者の命がけの作品を、私はもっと見たい》

  *

余談である。
本シリーズの?に登場するNHK大阪放送局の福田雅子が制作した「差別からの解放」は1985年、地方の時代「映像祭」で特別賞を受賞した。3年後の1988年、差別戒名をとりあげた「風よ陽よ墓標に」でグランプリを受賞。
「風よ陽よ墓標に」でスタッフのひとりだった佐多光春はわたしの知人である。佐多はその2年まえの1986年、「トモコの小さな声〜ユージン・スミスが水俣で見たもの〜」(ETV8/NHK教育)で、同じく地方の時代「映像祭」で特別賞を受賞している。
彼が授賞式で表彰状を受けとる姿を眼にしたのは、いまとなっては想い出のひとつとなっている。また受賞が決まったことを電話で知らせてくれたときの彼の弾んだ声は、いまも耳底に残っている。

なぜそんなことを記しているのかというと、わたしは彼との出逢いによって、TVのむこう側に番組を制作している人間の存在を意識するようになったからである。したがっていい番組を観ると、制作した人間について想像してしまう。
それだけではなく、当時、彼の制作した番組について番組評を書き送っていたのだ。彼にそれを求められたからだが、彼の番組制作にかける情熱に圧倒された。虚勢を排して感じたままを記すという行為は、わたしにとっても貴重な体験だった。
ちょうどそのころから家庭用ビデオが普及しはじめたので、多くのドキュメンタリーを録画し、今日まで観つづけているのである。
佐多光春の名前をここに明記するのはかなり躊躇したが、2007年が彼にとってひとつの転機なので記すことにした。
本blogで、小田昭太郎に頼まれてもいないのにオルタスジャパン制作のTV番組について幾つか記しているが、じつに20年ぶりなのである。
佐多宛の番組評は私信なので本人しか読んでいないはずだが、ネット上に公開すると、少数といえども不特定多数が読むことになる。怖いのと同時に、予想できないことが起こりうるのがおもしろい。

じつは、つぎにアップするつもりで下書きの途中で止まっているのが、【岡本愛彦著『テレビよ、驕るなかれ』】なのだ。
先日、小田昭太郎にメールしたときに岡本愛彦について触れたところ、小田の日本テレビ時代から岡本が亡くなるまでの30有余年、大変お世話になった、という返信に驚いた。
それを受信するまえに読んでいた森口豁・「さよなら 岡本愛彦さん」(2004年11月13日)に描かれている岡本愛彦像と、小田昭太郎が返信に記していたそれとは合致する。
ちなみに岡本愛彦著『ジャーナリズムを叱る』(大阪経済法科大学出版部/1988年)には、小田昭太郎ディレクター(日本テレビ)や、上記の「風よ陽よ墓標に」が登場する。また岡本は、「ETV8」に注目していたという。これはNHK教育で(月〜金、午後8時)良質のドキュメンタリーが放映されていた番組である。いまは「ETV特集」になっている。
なお、岡本愛彦は記録映画「川越 ’82」で地方の時代「映像祭」第1回自治体部門賞を受賞している。

  *

遅ればせながら『私は貝になりたい』(加藤哲太郎/春秋社)を入手した。
初版は1994年10月25日で、わたしの手元にあるのは、2007年7月30日/新装版第二刷である。
巻末に「著作権紛争の経過資料」が収められている。

「加藤哲太郎略年譜」によると、1958年10月31日および12月21日の2回、橋本忍作、岡本愛彦演出「私は貝になりたい」を放映したTBSに対し、59年1月23日、橋本忍作「私は貝になりたい」は題名も筋立ても加藤哲太郎の原文を演釈し引き伸ばしドラマの各人物を配したものにすぎないことに気づき、社団法人日本著作権協議会仲裁委員会に申立書を提出し著作権の主張と解釈のための斡旋を依頼。
60年11月、TBSと和解覚書を交わし、タイトル表示を入れることを申し合わせる。

       原作 
           物語・構成  橋本  忍
           題名・遺書  加藤哲太郎

加藤哲太郎が記した詳細な「著作権紛争の経過資料」を読む限り、橋本忍とTBSにはあまり誠意が感じられない。加藤哲太郎のような「名もない作者の著作権」が認められるためには、闘争しなければならないということなのか。

なお、映画版「私は貝になりたい」(福澤克雄監督、2008年冬公開予定)では、こちらによると、橋本忍(89)が書き直した脚本は「より反戦メッセージが伝わりやすく、そして夫婦愛と家族愛を深く描いたものになった」という。


参考

私は貝になりたい - Wikipedia

加藤哲太郎 - Wikipedia


















2007年09月07日

お宝TVデラックス「熱きライバルたち」

2007年 7月14日(土)午後8:00〜午後10:00、BS2にて放映されたお宝TVデラックス「熱きライバルたち」をおもしろく観た。
オルタスジャパン制作。

【ゲスト】山本學/瀬古利彦/五大路子/角盈男/安倍麻美/ジェームス三木/小林俊一
【司会】 麻丘めぐみ/高山 哲哉

とりあげられたTV番組は、「白い巨塔」「巨人の星」「天と地と」。
このなかでわたしが観ていない番組は「天と地と」だ。
わたしが歴史に疎いということもあるが、NHKの大河ドラマはほとんど観ていない。
「天と地と」(第7作/1969年/全52回)が初のカラー作品だということで、スタッフの苦労話が紹介された。
本番組で、「天と地と」のなかで唯一現存しているフィルムの一部が流れた。クライマックスの川中島の合戦シーンである。
主役の上杉謙信を石坂浩二、武田信玄を高橋幸治が演じているが、映画のような迫力がある。福島県相馬で撮影。制作スタッフ150人、トラック10台に中継車、空にはヘリコプターが待機し、エキストラ300人以上、馬50頭が使われたという。
わたしは石坂浩二の謙信より、高橋幸治の信玄が気に入った。ふてぶてしい、抑制された演技に感心したのである。

ジェームス三木の「昔のほうが、ちゃんと間がある。ごらんになるみなさんが想像できる。いまは、伝えすぎてしまっている。ドラマに限らず、あらゆる番組がそうですけど」というコメントには同意する。
視聴者をそこまで低俗だとみなしている根拠を、NHKを含めたTV関係者に問いたい。
あるいは視聴者が想像力を奪われる番組を観つづけることで、批判精神が衰えた人間の養成を狙う"だれか"が存在するのだろうか。

「天と地と (NHK大河ドラマ) - Wikipedia」によると、
《当時は放送局用ビデオテープ(2インチVTR)が非常に高価で大型だったために、テープは放送終了後に消去されて他の番組に利用されるのが通常だった。そのため再放送および全話収録の完全版の販売は絶望的である。現存している第50話「第5回〜川中島の章〜その四」は「NHK想い出倶楽部2〜黎明期の大河ドラマ編〜(5)天と地と」としてDVDで販売されている。総集編前編はNHKアーカイブスで視聴でき、個人からの寄贈を復元したものでモノクロ(当時の市販ビデオはモノクロだった)で冒頭20分が欠落しており、残念ながら画質状態もよくない》

たしかに本番組でモノクロのフィルムが流れたが、画質がよくなかった。
「ビデオテープが貴重品だった時代に、放送後に消去して他の番組に利用していた」というのは、吉田直哉もなにかに書いていたと記憶している。

  *

圧巻は「白い巨塔」だ。
本番組でとりあげられたのは田宮二郎版で、1978年6月3日〜1979年1月6日(土曜の夜9時)にフジテレビで放映された。全31回。
フジテレビ開局45周年記念ドラマとして前評判の高かった唐沢寿明版は、第一部(全10回)が2003年10月9日〜12月11日まで、第二部(全11回)が2004年1月8日から3月18日まで放映された。
田宮二郎の鬼気迫る演技が脳裡に焼きついているので、はじめはものたりなさを感じた唐沢版だった。が、回を追うごとに番組の秀でた演出を愉しめるようになった。
そのころ書店の店頭に平積みになっていた原作の『白い巨塔』(山崎豊子/新潮文庫・全5巻/2002年)を入手して読んだ。
原作はまず1963年9月15日号から1965年6月13日号まで『サンデー毎日』に連載され、続編が1967年7月23日号から1968年6月9日号にかけて連載された。新潮社から単行本として刊行されたのは、正編は1965年、続編は1969年。
山崎豊子の骨太な文体と、古びていない作品の力に魅了された。
原作を読みながら、田宮版や唐沢版のドラマからは得られない想像の世界を愉しんだのである。

当時、閲覧した「僕たちの好きな『白い巨塔』」は、読み応えがある。
とりわけ「小林俊一インタビュー 全3回」は、興味深い。
小林俊一は田宮版「白い巨塔」でプロデュース・演出を務め、本番組で山本學とともにゲストとしてスタジオにあらわれ、貴重な証言をしていた(その内容は上記サイトにも収められている)。なぜか遠慮がちに座っていた彼が印象的だった。
「白い巨塔 (テレビドラマ 2003年) - Wikipedia」によると、小林は唐沢版にも企画段階で関わっていて、企画の和田行が監修としてクレジットに入れようとしたが、小林は断ったという。その理由は、「田宮版にかかわった多くの人が亡くなっているのに、自分だけ名を連ねるわけにはいかない」。

医事裁判を扱うドラマのため各病院からロケを断られていたが、田宮が東海大学病院に許可してもらったという。
上記サイトの小林俊一の証言によると(本番組でも語っている)、《編集したものを教材テープとして大学に差し上げるという約束のもと、患者と患者の身内の了解を取って、実際の噴門癌の手術を5時間撮った》という。
つぎの小林の証言はじつになまなましい。患者の肉体に最初のメスを入れるシーンよりも、わたしには臨場感がある。

カメラマンの一人は「自分は血を見るのがダメだ」って言ってたのに、ファインダーを覗くとそんなことはどこか吹っ飛んでしまったみたいで、必死に撮り続けていました。でも、切開部が一番良く見えるポジションというのは、当然執刀している教授の場所になる。それで、カメラマンがついその位置に立とうとして、教授さえも押しのけようとするんです(笑)。その度に教授の肩にカメラマンの肩が触れて、何度も教授の肩を看護婦が消毒していたね。そういうことがあって、あの手術シーンの映像は当時のテレビドラマのリアリズムの最たるものになったんだと思う。撮影も編集もみんながプロ根性と尋常じゃないこだわりを持ってやっていたから

田宮二郎は1978年12月28日、家族と別居してひとりで住んでいた自宅で猟銃自殺を遂げた。
「白い巨塔」の終わり2話がオンエアされたのは翌年のはじめである。
田宮は躁鬱病に苦しみながらの撮影だったらしいが、文字どおり田宮二郎こと柴田吾郎(本名)は財前五郎と心中したのだろう。
同じく小林俊一の証言によると、田宮は30話で財前が癌で倒れるシーンの撮影前、3日間絶食し、最終話で財前の遺体が解剖室に運ばれるシーンの撮影では、自らストレッチャーに乗り、白布の下で泣いていたらしい。
最終話のプレビュー(試写)を見た田宮は、「いい出来です。役者冥利に尽きます」と喜んでいたという。

その田宮の死を嘆いた太地喜和子(財前五郎の愛人・花森ケイ子役)が、伊豆下田の海に車ごと飛び込んで水死したのは1992年10月13日。
田宮は43歳、太地は48歳という短命であった。

  *

ジェームス三木はいつも気の利いたことをいうので期待していたのだが、わりと寡黙だったので、ものたりなかった。ところが番組のラストでのコメント「軽い番組だと思って、きたんですけどね。意外と重い番組だったんですね」には笑えた。
最近のNHKの番組が中途半端に軽くなっていることを苦々しく思っているわたしにとって、このコメントには溜飲が下がったのである。
ジェームス三木のもち味は、軽いトーンで真実を突くところだろう。
たしかにいままでの「お宝TV」のなかでは、今回の番組は重い内容になっている。
田宮二郎のいのちがけの演技のまえでは、そうならざるをえないのである。