2008年05月

2008年05月28日

マルグリット・デュラスの恋愛能力

マルグリット・デュラスの小説のなかでわたしが最も好きなのは『モデラートカンタービレ』(1958年)である。
「ユリイカ」のマルグリット・デュラス特集号(1985年)については、繰りかえし読んできた。
そんなわたしが、文芸漫談「マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』を読む」(奥泉光×いとうせいこう)が掲載されているという理由だけで、月刊文芸誌「すばる」(2008年5月号)を入手した。
たしかに漫談調ではあるが、なかなか深い内容で愉しめた。
『愛人 ラマン』(1984年)はデュラスが70歳のときに発表し、世界的ベストセラーになる。ノーベル賞にふさわしい作家がゴンクール賞を受賞したことでも話題になった。
真の意味で処女作といわれている『太平洋の防波堤』(1950年)は、ゴンクール賞に当選確実といわれながら落選した。
『愛人 ラマン』の受賞の知らせを受けたデュラスは、「ゴンクール賞の審査員たちが34年まえのあやまちをつぐなったのだ」と語ったことが、当時の新聞紙上で伝えられたという。

本エントリーを書くためにデュラスの本を読みかえしていたら、肉体がデュラスの毒素に侵されてしまった。ひどい疲労感をおぼえる。

  *

デュラスは1914年4月4日、仏領インドシナのギアダン(南ベトナム・サイゴンの近く)に生まれる。
デュラスの本名はドナディユ。
デュラスというのはフランスのパルダイヤンにある父親(エミール・ドナディユ)の故郷に近いロット・エ・ガロンヌ県の村の名前。

1921年、赤痢のためフランスに帰国した父親が死ぬ。
未亡人となった母親はデュラスとふたりの兄を抱え、現地人小学校の教師として働くが貧窮する。
(母親の故郷は北フランスのパ・ドゥ・カレ県で、彼女の両親は小作人。優秀だった彼女は奨学金を受けて小学校教員養成所で学んだ)

母親は20年間の貯蓄を注ぎこんで、カンボジアのカンポート近くに払い下げ地を買い求めた。しかし耕作できる土地を手に入れるためには、土地管理局の役人たちを買収しなければならないことを知らなかった母親に与えられた土地は、1年のうちの半分は海水に浸される土地だった。
母親は役所に抗議しつづける。彼女流の論理で現地人を説得し、さらに借金をして高潮を防ぐ防波堤を造るという暴挙にでる。が、防波堤はひと晩で崩壊する。
母親の狂乱ぶりは『太平洋の防波堤』でいやというほど表現されている。
母親は告訴するが、どの段階の役人でも賄賂をもらうことが当然になっていた役所機構で、軽くにぎりつぶされる。

デュラスは熱帯の僻地の人間として育つ。
ベトナム語を話し、靴をはかず半分裸になって暮らしていた。母親はベトナム語を話せず、靴を履いていた。
1932年、18歳のデュラスはフランスに帰国。ソルボンヌ大学で法律・数学などを学ぶ。
つらすぎる少女時代を隠蔽しようとしたデュラスは、18歳以後、海や森に恐怖をおぼえるようになる。

15歳の少女と富裕な男との愛人関係については、『太平洋の防波堤』(1950年)→『愛人 ラマン』(1984年)→『北の愛人』(1991年)と発展してゆく。
『北の愛人』で愛人が中国人だったと記しているが、こちらによると、デュラスが1943年〜1949年(29歳〜35歳)に書いていたノートが発見され、愛人は中国人ではなく、平均的安南人よりも醜い安南人だったという。
当時、ベトナムはフランスに支配された植民地で、コーチシナ(南部)・アンナン(中部)・トンキン(北部)の3地区からなっていた。
いずれにせよ、愛人が醜い能なしのアジア人であることが、デュラスの小説のなかでは強調されている。
愛人が金もちでなければ、デュラス一家との接点はなかったのだ。

デュラスの家族は愛人から金銭面での恩恵を受けながら、人種差別を顕わにする。
小説のなかで15歳の少女は母親や兄に対して、愛人とは肉体関係がないと主張している。お金のためだけにつきあっていることになっている。
上記のノートには、愛人の出現で少女が兄や母親から暴力を受け、汚い言葉で罵られたという事実が記されているという。
そんな彼らが愛人に食事をご馳走になる、当然という顔つきで。

『愛人 ラマン』(河出書房新社)の訳者である清水徹は、巻末の解説で『愛人 ラマン』が告白文学でも私小説でもない、と強調している。
樋口一葉の日記にしても事実のとおりではないらしいが、デュラスの小説について事実との関連性についてあらためて考えてしまった。
デュラスの場合、自身の語りにおいても正確さに欠けるらしい。

フランス・イギリス合作の映画「愛人 ラマン」(監督・ジャン=ジャック・アノー)が公開されたのは1992年1月で、日本での公開は同年5月。
わたしはこの映画を銀座の映画館で観た。たまたま公開直後の初回だったせいか長蛇の列で、しかも高校生のような男女が多かったのには閉口した。主人公が15歳の少女だったからだろう。
さらに上映まえ、映画評論家のおすぎがまっ白のスーツで舞台にあらわれたのには驚いた。
彼の登場を知らなかったからだが、その白がやけに反射しながら肉体から遊離していた(=ぜんぜん似合っていない)のと、映画に関するコメントには同意できなかったことを憶えている。
映画にはまったく失望したのだが、上記の文芸漫談を読んだとき、なぜか映画で観たインドシナの情景が甦ったのだ。映像力の大きさをあらためて認識した。
当然ながら、現地の暑さや空気の匂いなどは体感できない。

1982年、デュラスはアルコール依存症で入院する。ヤン・アンドレアがそのときの闘病生活を記録したのが『M・D』(1983年)である。アンドレアはデュラスより38も齢下の恋人で、ホモセクシャル。
『M・D』にはデュラスという人間が活写されていて、一気に読了した記憶がある。
デュラスの肝臓はアルコールによって限界状態に達していて、入院による荒療治によって細胞の破壊を阻止し得た。ちなみにアンドレアもデュラスと同じくアルコール依存症である。
熱烈なデュラスの読者だったヤン・アンドレアがはじめてデュラスの家を訪ねたのが1980年の夏で、この日からふたりは同居。1996年にデュラスが自宅で死ぬまで16年間つづいた。
デュラスが口述し、アンドレアがタイプを打つという共同作業を含め、アンドレアがデュラスを支えつづけた。

38歳の年齢差のあるデュラスとアンドレアの関係を、「デュラスがアンドレアの生き血を吸って再生し、生き延びた」とわたしはとらえている。
作家に限らず、表現者にはそのような側面があるのではないだろうか。
デュラスはアンドレアの書いた『M・D』によって自分の野性味を再認し、『愛人 ラマン』の新しい文体を得たらしい。
『愛人 ラマン』を書くまでの10年間、デュラスは執筆していなかったという。

1996年3月3日、デュラスは81歳で逝く。死因は咽頭癌。
葬儀は3月7日、パリのサン=ブノワ街の家のすぐ近くにあるサンジェルマン教会でとりおこなわれた。
デュラスの柩の左右には、ヤン・アンドレアとひとり息子ジャン・マスコロが脇侍していたという。このふたりには確執があったらしい。
デュラスの遺志で、版権はアンドレアに移行している。
デュラスの遺体はモンパルナス墓地で朽ちてゆく。

  *

最近、アンドレアがデュラスの死後に書いた『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』(2001年)を入手した。繰りかえしが多いのが難点だし、あまり感銘を受けなかった。
デュラスの死後、廃人のようになってひきこもっていたアンドレアは、母親に電話をして泣きながら助けを求め、ようやく生還する。
デュラスがセーヌの流れをじっとみつめながら「ここはメコン河」と低く呟いたり、死ぬまえに、家族と離れてひとりで死んだ父親のお墓参りがしたい、というくだりは印象的だ。
アンドレアは旅先でデュラスが死ぬことを懼れて決行できなかった父親のお墓参りを、デュラスが死んでから実行する。

アンドレア原作の『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』が「デュラス 愛の最終章」として映画化されたころ、「すばる」に連載された荻野アンナの「私、マルグリット・デュラス」をとてもおもしろく読んだ。2003年1月号〜5月号までつづき、「以下次号」のまま途絶えた。わたしは「すばる」をほとんど買わないので、その後については知らないが、加筆して単行本として出版してほしい。
荻野アンナは、映画「デュラス 愛の最終章」の監督・脚本のジョゼ・ダヤンと主演のジャンヌ・モローが揃って来日した際にインタビューし、それについても上記の「すばる」に記している。
わたしはこの映画にはあまり興味がなく、観ていない。

ここのところ頭のなかがデュラスで溢れていたのだが、デュラスとアンドレアの関係を含めますますわからなくなった、というのが正直な感想だ。
ひとついえることは、デュラスという生身の人間をわたしはあまり好きにはなれないということだ。
とくにアンドレアを口汚く罵ることがデュラスの愛情表現だ、というのは理解できない。
デュラスがアンドレアから殴られたことがあった、というのには驚くほかない。
デュラス、デュラスの家族(父親については不明)、そしてアンドレア、すべて過剰で異様なひとたちである。
作品においても実生活でも、愛憎半ばの世界にデュラスはどっぷりと浸かっていた。
メコン河を偏愛し、多くの作品が生まれたインドシナより、父親の故郷のほうがデュラスの精神を形成しているのかもしれない。
『太平洋の防波堤』の末尾でシュザンヌが「わたしはここから出てゆくわ」「それ以外どうしようもないのよ」というのがとても印象的だ。

  *

カンボジアというと、どうしても石山幸基(共同通信・元プノンペン支局長)が浮かぶ。
防波堤のあったカンポートと、石山幸基が埋葬されたとされるクチョール山は、地図でみるとわりと近い。
こちらによると、2008年1月27日、石山記者没後34年にして遺族がコンポンスプー州の山岳地帯周辺をはじめて訪ね、慰霊式を行ったという。







miko3355 at 00:00|この記事のURLTrackBack(0)文学