2009年12月

2009年12月24日

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(後篇)

中篇につづき、柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用(要約)しながら、わたしの感想を述べます。

映像作家・森達也

柴田哲孝は映画監督・井筒和幸に下山事件について話したところ、テレビのドキュメンタリーのほうがいいとの理由で映像作家を名乗る森達也を紹介された。
柴田哲孝が森達也と最初に会ったのは、1994年の春頃。
同年秋頃、森達也を介して初めて斎藤茂男と会う。

2004年新潮社から刊行された『下山事件(シモヤマ・ケース)』で、森達也が柴田哲孝の母親の証言を捏造したことを、本書で柴田哲孝は指摘している。(p.400〜p.403)

柴田昇からの情報

単行本『下山事件 最後の証言』の刊行から半年後、祖父の末弟・柴田旬の次男である昇から電話があった。
犯行に使われた亜細亜産業の車・ナッシュ47型らしい写真がうちにあり、ナンバーまで写っているという。
亡き大叔父・旬は180センチを超える長身で、彫りが深い顔立ちをし、ダンディーな人だった。
柴田哲孝が昇の家を訪ねると、旬の妻と三男が待っていた。
宏と旬は不思議な兄弟で、家族にも知られたくない話がある時には、英語を使っていた。
大叔父・旬の仕事は表向きは通訳で、GHQのショーの司会も英語でこなしていた。
旬の妻は、背が高かったし、外人みたいな顔なので、仕事じゃない時にも進駐軍専用列車に乗っていた、と証言。
押し入れから取り出した古い大きなアルバムに、外国車の写真はあったが、生前、大叔父・旬のお気に入りだったというナンバーの写った写真は剥ぎ取られていた。
残る2枚の写真をアルバムごと借り出し、専門家に鑑定してもらうと、ナッシュ47型に酷似しているが、1946〜7年に作られた、クライスラーの「プリムス・デラックス・4ドアセダン」だった。
旬はこう推論する。
あの写真の車が下山事件に使われたので、親父はナンバーの写っている写真だけを処分した。洗足の家が下山事件総裁の家に近かったのも偶然ではなく、7月5日の事件当日、親父があの車で尾行した。
下山総裁が外人みたいな男に囲まれていたという記事の、その男は親父だ。

祖母・文子の死

柴田哲孝の祖母・文子が1995年8月に89歳で他界。
ひと月ほどたったある日、母・菱子とともに遺品の整理をした。
押し入れの奥にあった古い手提げ金庫には鍵がかかっていた。
箪笥のなかにあった鍵の束から1本ずつ金庫の鍵穴に差し込んでゆくと、何本目かの鍵が合致した。
ぎっしりと詰まった書類の一番底に分厚い封筒があり、「亜細亜産業」関連の品々が保管されていた。
上海での活動を示す紙幣、昭和18年から24年にかけての亜細亜産業の辞令・給与明細など。
小さな箱がひとつ入っていて、中から数個の宝石が出てきた。
蒼白になった母は、宝石のことも、祖父・宏が上海に行っていたことも知らなかった。
祖父・宏のアルバムには昭和17から18年の12月にかけて、長い空白がある。
下山事件で暗躍した男たちは、上海の経歴を持っている。
矢板玄、児玉誉士夫、長光捷治、里見甫、真木一英、村井恵、田中清玄、三浦義一、関山義人、そして柴田宏。

昭和40年頃、変装が得意な祖父・宏が頬に含み綿を入れ、見馴れない眼鏡をかけて哲孝と弟を追いかけ回していた。
ふたりの叫び声を聞きつけた祖母は祖父に掴みかかり、眼鏡をむしり取り泣き伏した。
祖父は下山事件当時49歳で身長は175センチ。下山総裁とほぼ同じ。

五反野南町の末広旅館の長島フクの証言が、下山総裁の自殺説の論拠とされた。が、柴田哲孝の母・菱子の記憶によると、長島フクから柴田宏に年賀状が来ていた。
亜細亜産業が下山事件に関与していたなら、長島フクの偽証が明らかになる。
末広旅館に立ち寄ったという下山総裁の替え玉は、変装した柴田宏だったのか?

柴田喬の証言

柴田哲孝は20年ぶりにジャズピアニストだった大叔父・喬(たかし)を訪ねる。
亜細亜産業で3年間事務員をしていた柴田八重子の元夫で、祖父・宏の弟。当時、80代なかばだが、若くみえる。

宏は7人きょうだいで、長男。あとは長女・和子、次女・寿恵子、次男・潔、三男・喬、四男・慶。
喬の話によると、宏が上海にいたのは昭和17年頃で、喬や潔と上海租界の同じ部屋に住んでいたこともあった。
その頃から宏は矢板玄といっしょに仕事をしていた。三菱商事の軍事物質の調達。
喬も上海で矢板玄と知り合った。
真木一英という殺し屋は矢板玄と柴田宏の仲間。
戦後、喬の妻・八重子が亜細亜産業に勤めていたので、喬も行ったことはある。
勤めないかと誘われたが、断った。あんなおっかない会社にはいられない。兄貴もよくいたと思う。

矢板玄は生ゴムや油を密輸していたといったが、喬の証言によると、亜細亜産業は麻薬を密輸していた。
下山事件は亜細亜産業が仕組んで、ライカビルに連れ込んだ。
殺害の実行犯として喬があげた名は、ひとりは日本人で、もうひとりはキャノン機関の日系二世の将校。

飯島進の証言

大叔母・寿恵子が1998年の年末に倒れ、恵比寿の厚生病院に入院する。
病院への見舞い帰りの夫・飯島に、柴田哲孝は斎藤茂男を紹介する。
恵比寿駅前の居酒屋で、飯島は台湾義勇軍の一件でも下山総裁と関わりがあったと証言。
斎藤茂男が下山事件に話を向けても、飯島はまったく乗らなかった。
飯島との話を終えて、柴田哲孝と斎藤茂男は喫茶店に席を移した。
斎藤茂男はそろそろ腹を割って話しませんか、真実が知りたいだけなんですよ、わたしにはもう時間がないんです……と訴える。とくにキャノンについての情報を斎藤茂男は聞きたい様子。
このとき柴田哲孝は「時間がない」という言葉の真意を知らなかった。
柴田哲孝は、ここだけの話で、メモを取らないことを条件に、約2時間、知りうる限りのことを斎藤茂男に話した。
斎藤茂男はそれらを噛みしめるように聞く一方で、積極的に自分の知識や意見を返してきた。
柴田哲孝は、下山総裁の拉致はキャノン機関の権限内の行動で、犯行グループにとっての保険であり、キャノン主犯説を主張しているのはCIAだという。
ふたりは、キャノンはスケープゴードにされたという共通認識をもつ。
その夜の斎藤茂男はいかにも楽しそうだった。
「下山病患者に効く薬は下山事件に関する情報だ」という斎藤茂男にとって、きわめて有効な薬だったにちがいない。

1999年5月7日、大叔母・寿美子が74歳で逝く。
3週間後の5月28日、斎藤茂男も71歳で逝く。

2000年の年が明けてまもなく、柴田哲孝は大叔父・飯島進から誘われた。
「おまえの知りたいこと、何でも教えてやるよ」
子どものいない飯島は世田谷区駒沢の広い邸宅でひとりで暮らし、見る影もないほど憔悴していた。
毒でもあおるように顔をしかめながら酒を飲みつづける飯島は、明らかに妻・寿美子の後を追いたがっている。

飯島の話では、下山総裁の首謀者は「×某」で、実行犯グループと目される亜細亜産業のサロンの主要メンバーの一人。G2のウィロビーやキャノン中佐とも密接に交友していた人物。下山総裁を「裏切り者」と呼び「殺してバラバラにしてやる」と公言。運輸省鉄道総局時代からその利権に深く食い込み、小千谷の発電所の入札やその他の公共工事の中止で莫大な損失を被った人物でもあり、松川事件でも関与が噂された。
殺害現場にいた二人の実名は、以前に柴田喬から聞いた人物と同一で、キャノン機関のMという二世の将校と、一人の日本人。
替え玉に関しても、飯島は一人の人物の名前を挙げた。

最後に、「ジイ君は関わってたのかな……」という柴田哲孝の問いに、飯島はこたえた。
「兄貴は人を殺せるような人間じゃないよ。矢板さんもね。二人は利用されたんだと思うよ」
そして小さな声で呟く。
「みんな逝っちまった……。残っているのはおれだけだ」


〔参照〕

下山事件資料館

ぴゅあ☆ぴゅあ1949:下山事件


【追記  2010/01/16】

妻の寿恵子が亜細亜産業について語るのをいやがっていた飯島進がここまでの証言をしたということは、柴田哲孝のジャーナリストとしての姿勢・力量に打たれたからだろう。
飯島進以外の生き証人として、下山事件の実行犯のひとりだと目されるビクター・松井(元キャノン機関員)がいる。
朝日新聞の記者・諸永裕司は、「週間朝日」を担当していたときにアメリカに飛び、ビクター・松井のインタビューに成功する。
それが記されている諸永裕司著『葬られた夏――追跡 下山事件』について、近日中にアップする予定である。文庫本の解説を柴田哲孝が記している。











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2009年12月23日

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(中篇)

前篇につづき、柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用(要約)しながら、わたしの感想を述べます。

亜細亜産業総帥・矢板玄の証言

本書の圧巻は矢板玄(くろし)と柴田哲孝が対峙する場面だ。
矢板玄は亜細亜産業と称する貿易会社の総帥で、下山総裁が消息を絶った三越本店に近い東京・日本橋室町にあるライカビルに本拠地があった。
柴田宏は亜細亜産業の幹部で、宏の妹・寿恵子と宏の弟・喬(たかし)の妻の八重子は、事務員として勤務していた。
柴田哲孝の母・菱子は、下山事件発生当時は14歳で吉祥女子中等部2年生。学校の帰りに頻繁に亜細亜産業に遊びに行った。
矢板玄は菱子をずいぶん可愛がってくれた。背が高くて、かっこよかったし、いい人だった。
矢板玄の家族と社員とで旅行に行ったこともあり、矢板玄の息子たちと何度か遊んだことがある。
菱子が行くのは父・宏のいた2階の事務所だけ。宏に「3階にはお化けがでる」といわれていた。
ひとり娘として父・宏に慈しまれた菱子は、仕事が終わるのを待って、よくデートした。天ぷらを食べたり、銀ブラして買い物したり。三越にも歩いて5分もかからなかった。
菱子が父・宏がGHQの仕事をしているの知ったのは昭和22年。

恐ろしくて矢板玄に会えなかったジャーナリスが多いなか、1963(昭和38)年、斎藤茂男は三菱化成時代の矢板玄を訪ねたが、一蹴された。
柴田哲孝は大叔父・飯島進(寿美子の夫)に、「矢板玄に会いに行くのだけはやめろ」といわれていた。
飯島進の父・亀太郎は外務省の役人で、柴田哲孝の曾祖父・柴田震の同僚。
飯島進は戦時中に三菱商船の子会社「第一壮美」を起業したが、昭和29年の「造船疑獄事件」のあおりを受けて倒産。亜細亜産業の矢板玄とも親しかった。

  #

栃木県矢板市役所の中庭に矢板武(玄の曾祖父)の銅像がある。
柴田哲孝が住民課で矢板玄を捜していると伝えると、慌てた様子で市長室に案内された。
市長は矢板玄を「先生」と呼び、緊張した面持ちで玄の家に電話をし、来客がある旨伝える。
市長に電話にでるようにいわれた柴田哲孝は、亜細亜産業でお世話になった柴田宏の孫だと告げる。
矢板玄に、家は市役所の目のまえなので、いまから来いといわれる。
これまで仕事で数百人にインタビューしてきた柴田哲孝の信念は「一対一が基本」。

矢板家の屋敷に到着し、案内された10畳ほどの部屋で、柴田哲孝は矢板玄にいきなり抜き身の刀を突きつけられる。
鬼の形相で圧力をかけてくる矢板に、柴田哲孝は動揺しなかった。
矢板玄は急に大笑いし、「おまえは確かに柴田さんの孫だ。あの人も豪胆な人だったからな」。
身長は180センチ以上あり、鍛えあげられた筋肉をもつ矢板玄の第一印象は、戦国時代の武将。
サンルームに移動してからの矢板玄は、上機嫌で饒舌だった。
当時、78歳の矢板玄は毎朝、庭で木刀の素振りを欠かさない。
柴田哲孝は、自分がジャーナリストであること、祖父の過去と亜細亜産業に興味をもっていることを断り、メモをとることに許しを求めた。
矢板玄はその度胸のよさが気に入り、「柴田さんより自分のことを書いたほうが面白いぞ」と大笑いする。

  #

柴田宏は元々関東軍の特務機関の将校だった。英語が話せて頭がいい奴がいると聞いて、亜細亜産業に来てもらうことにした。
ジャワに工場を建てることになり、柴田宏は英語ができたので、そこの責任者の一人として行ってもらった。ほんとうの任務はスパイ。軍の情報を収集したり、宣伝ビラを作ってばらまいたりというプロパガンダ。

矢板玄は横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を出て、代議士・迫水久常の紹介で昭和電工に入った。
森社長に頼んで大陸に行かせてもらい、満鉄をやっていた。
退屈なので、軍属になり、上海に矢板機関を作った。
矢板機関での仕事は陸軍の物資調達、金集め。
ごっそり金を儲け、日本に帰って亜細亜産業を作った。

児玉誉士夫は親父・玄蕃の仲間じゃ一番下っぱで、組んで仕事はしたが、騙されてばかりだった。
児玉は仲間の水田光義を殺している。自分でそういってたから間違いない。絶対に信用できない奴。
児玉は日本人じゃない。

矢板玄の後見人は三浦義一と東条英機。
亜細亜産業の業務内容はひとことでいうと軍需産業で、パルプは一部。
日本に帰ってから工場を次々に買収して、生産部門を作った。
工場は北千住や小菅、パルプは王子や十条にあった。
陸軍省の工場の中にあった。
工場の名前は、「亜細亜産業生産部」。
(下山事件は、誘拐現場の三越周辺から轢断現場の五反野まで、すべて亜細亜産業の領域内で起きたことになる)
戦後は千葉に、千葉銀行から取り上げた旭缶詰というのもあった。
(旭缶詰とは、矢板玄が元千葉銀行頭取・古荘四郎彦の戦犯容疑をもみ消した際、謝礼として譲り受けた「旭缶詰会社」のこと)

矢板玄は元々鉄道の電気技師で、昭和電工に入ったのも満鉄をやりたかったから。
亜細亜産業時代にも配電盤のコイルとかパンタグラフとか、いろいろなものを作っていた。
矢板家は鉄道一家。
曾じいさん(12代目・矢板武)は鉄道会社の役員で、いまの国鉄の東北本線や日光線の元になった。
東武伊勢崎線も親父・玄蕃が作ったみたいなもの。
親父は東武の大株主の一人だったから出資もしたが、ほんとうに線路をひいて作った。
満州事変当時、関東軍の最大の任務は満鉄の敷設と延長だった。親父・玄蕃が指揮してその訓練をやらせた。
軍隊が訓練で敷いた線路を東武が買い上げた。

  #

矢板玄の親父・玄蕃と三浦義一が、大蔵省の迫水久常と組んで金銀運営会をやっていて、その事務所がライカビルの4階にあった。
戦時中に国が国民から供出させた貴金属を潰して金の延べ棒にしたものが、4階の床下に百本以上あった。指輪からはずしたダイヤモンドや宝石もごっそりあった。
ダイヤ以外の宝石は小遣いとして使い、ダイヤは別にとっておいた。粉にして大砲の砲身を磨くので貴重だった。
終戦後、親父・玄蕃のところに山ほど残ったダイヤに、児玉誉士夫が大陸から持ち帰ったダイヤを混ぜた。
悪いほうをウィロビー(GHQのG2のチャールズ・ウィロビー少佐)に持っていって、いいほうを黒磯の山中に埋め、あとで児玉誉士夫と山分けにした。
ダイヤモンドは山から掘り出して少しずつ売ったが、児玉が巣鴨刑務所でGHQの奴らにしゃべり、ウィロビーにもだいぶ持っていかれた。
児玉誉士夫はA級戦犯ではなく、アメリカの策略だった。
児玉はダイヤ・プラチナ・ウランを隠し持っていたので、A級戦犯で逮捕しておき、物資の隠し場所を吐けば、命は助ける。
ウィロビーは、当時の金で数億円のダイヤをアメリカに持って帰ったはずだ。
金とダイヤモンドを、戦後は政治に使った。吉田茂内閣の政治資金。吉田はその金を使ってGHQによる公職追放を逃れて首相になった。岸信介の内閣までほとんどその金が使われた。

ライカビルは都心の一等地にあったし、集まりやすかった。金の臭いもするし。
あの頃の日本を作った梁山泊。
右翼関係者では、三浦義一、田中清玄、関山義人、児玉誉士夫、笹川良一、赤尾敏。
共産党の伊東律。
社会党の西尾末広。
よく来ていたのは白洲次郎、迫水久常。
政治家では吉田茂、岸信介、佐藤栄作。
吉田内閣を作ったのは親父・玄蕃と三浦義一。
佐藤栄作を代議士にしたのも三浦義一。

三浦義一と白洲次郎は蜜月の仲だった。
柴田宏と白洲次郎も仲が良かった。

矢板玄が最初にウィロビーと会ったのは、三浦義一の紹介。
三浦は英語が得意ではなく、ウィロビーに会うときには通訳がわりに矢板玄が連れていかれた。
矢板玄は英語・フランス語が話せた。
柴田宏が行ったこともある。
そのうちウィロビーに気に入られて、いろいろ相談されるようになった。
三浦義一はとてつもない大物で、ウィロビー、マッカーサー、吉田茂、財界の大物たちは、なにか問題がもちあがると三浦義一に挨拶に行った。

  #

キャノン機関のボス・ジャック・キャノン中佐に関しては、1971年、ジャーナリストの平塚柾緒(まさお)が、ルイジアナ州の自宅を訪ね、日本人として初の単独インタビューに成功した。
1977年、NHKが制作したドキュメンタリー番組「キャノンの証言」のなかで、キャノンは人脈を明かしたが、それらの人物はキャノンとの関係を訊ねられると、当惑したり否定した。
本郷ハウスでキャノンとともに写った写真が残っている白洲次郎も、付き合いを認めていない。
1981年、66歳のキャノンは自宅のガレージで射殺体で発見され、自殺他殺不明のまま事件は迷宮入りとなった。

矢板玄がキャノンと知り合ったのは昭和22年頃。最初は麹町の沢田ハウスで会った。
(キャノンが本郷の岩崎別邸にキャノン機関を開設したのは、昭和23年3月)
麹町も本郷も沢田美喜が厚意でウィロビーに貸した。
白洲次郎がキャノンていう面白い奴がいるといってきたが、なかなか紹介してくれないので、岩崎のお嬢さん(沢田美喜)に間に入ってもらった。美喜さんにいわせれば、キャノンなんかただの腕白坊主。
(斎藤茂男によると、沢田美喜が運営する孤児院エリザベス・サンダース・ホームはCIAの支部。美喜の私設秘書・真木一英は殺し屋)

矢板玄とキャノン中佐は親友だった。対等で、反共という目的で結ばれたファミリーだった。
柴田宏はキャノンのお気に入りだった。
日本人のエージェントは、ほとんど矢板玄がキャノンに紹介した。長光捷治、里見甫(はじめ)、阪田誠盛、伊東律、鍋山貞親、田中清玄など。
(里見甫はアヘン密売のエキスパートで、G2時代のキャノンはヘロイン中毒)
亜細亜産業はキャノンと組んで密輸をやっていた。
キャノンは金がなかった。G2から莫大な工作資金が出ていたというのは嘘で、足りない分は自分で工面した。むしろキャノンが稼いだ金をウィロビーに上納していた。
買った中古の漁船の管理を矢板玄がやり、警察と話をつけるのはキャノンの役目。利益は完全に折半。
日本から北朝鮮に日曜雑貨や古い工作機械なんかを持っていって、情報収集をやる。帰りに中国や東南アジアを回って、生ゴムやペニシリン、油などを買ってくる。
朝鮮や中国で、スパイになりそうなのを探して連れてくる。それをキャノンが教育して送り返した。みんな殺されたが……。

キャノンは自殺するような人間じゃない。殺されたんだ。
KGB(ソ連国家保安委員会)に殺されたと思う。キャノンの部下は、CIAにやられたといっていたが……。
キャノンはほんとうにいい奴だった。
昭和24年の春頃、ライカビルの事務所を朝鮮人に襲われたことがあった。黒磯から堀り出したダイヤを事務所に置いてあるのがばれた。矢板玄と林武と柴田宏の3人だけだった。銃は1丁しかなく、相手は7〜8人。ドアをはさんで睨み合いになった。
しかたなくキャノンに電話したら、本郷から5分で飛んできた。部下を連れて、両手にコルトを構えて、階段を駆けあがってきた。まるで騎兵隊みたいだった。

  #

昭和疑獄事件は三者の利害が完全に一致した。吉田は芦田内閣を潰したかった。ウィロビー(G2)はケージスを追放したかった。矢板玄たちは昭電の森さんに恩があった。
最初に計画を練ったのはウィロビーと吉田と白洲次郎で、矢板玄と斎藤昇(国警長官)が動いた。
キャノンは全部知っていたが、直接はからんでいない。荒っぽいことが専門で、頭を使うことはあまり得意ではない。
ケージスが新聞社や警察に圧力をかけてきたので、ハリー・カーンのつてを使ってアメリカの新聞社に情報を流したのが柴田宏だった。
あの頃、柴田宏は顔が割れていなかったし、英語がうまかった。英語といえば、白洲次郎か柴田宏だった。それに柴田宏はいかにも紳士だから、外人記者はみんな柴田宏を信用していた。

  #

柴田哲孝が下山事件に触れると、矢板玄の形相が変わり、生きる仁王像のようになった。
追い込まれた柴田哲孝は、メモを取っていたノートを閉じた。
矢板玄は口数が少なくなり、下山総裁とは面識があり、自殺ではなく他殺、共産党勢力の犯行ではないことを認めた。

祖父が亜細亜産業時代(昭和18年から24年の夏まで)のことを克明に日記に残していた、と告げると、矢板玄は狼狽し、ほんの一瞬で10年の老いを重ねたようにも見えた。
そして突然、大声で笑いだし、「困ったもんだな、柴田さんは。そんなものを残していたのか」。
関係者も生きているので、おれが生きているうちは書かないと約束しろ、と矢板玄はいう。
柴田哲孝は、矢板玄が生きているうちは書かないと約束する。

矢板玄は柴田哲孝を長屋門まで送った。
肩に大きな手を置き、「また遊びに来い、今日は、楽しかった」。
しかしこの直後、驚いたことに矢板玄は脳梗塞を患い、痴呆になる。
屋敷から姿を消し、1998年5月、83歳で逝く。
柴田哲孝との対面から5年後である。

  #

柴田哲孝は書斎のデスクの引き出しにあった日記を何度も見ている。小学生の頃、祖父のまえで日記帳を開いたが、意味は理解できなかった。
そのとき祖父は、「この日記はおまえにやる。大人になって、英語がわかるようになったら、読んでみろ」といった。
祖父・宏の書斎には膨大な書類が残されていた。英語で書かれた6冊の日記帳、数十年分の書簡など。
祖父の死の直後、それらを祖母・文子は知人に託して焼却させた。

祖父・柴田宏が発表する目的ではなく克明な日記を書き、膨大な書類を保存していたのは、ジャーナリスト魂だとわたしは思う。
柴田哲孝が祖父の秘密を暴くことで、結婚に失敗したあと女手ひとつで自分と弟を育ててきた母を傷つけることになる。それがわかっていても、下山事件の真相を知りたいという衝動を抑えることができない。
ジャーナリスト魂という最大の共通項が、ふたりにはある。

本書によると、矢板玄は英語の日記が焼却されていることは知らないし、柴田哲孝がすでに日記を読んでいるととらえている。
これはわたしの妄想だが、矢板玄にとって柴田宏が書いた日記帳は、想像を絶するほどの脅威だったのではないだろうか。
痴呆というのは自己防衛ではないのか。仮病ではなく、ほんとうにそうなっているのである。
真剣を突きつけた矢板玄は、徒手空拳でたちむかった柴田哲孝との「真剣勝負」に破れたのではないか。
試そうとした人間が試された、ともいえる。
それは柴田宏の日記を公表するなといわず、「おれが生きているうちは書かないと約束しろ」といった矢板玄の発言にあらわれている。
柴田哲孝は矢板玄の変貌を聞いてショックを受け、「老い」だと記しているが、柴田哲孝との対決がなければ、矢板玄は元気でもっと長生きしていたように、わたしには思える。

(つづく)



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柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(前篇)

5月から6月にかけて下山事件に関する本を読んだ。
日本が占領下にあった1949(昭和24)年7月5日、初代国鉄総裁・下山定則(さだのり)が出勤途中に失踪し、翌日の7月6日午前零時20分ころ、常磐線五反野(ごたんの)駅近くの線路上で轢死体で発見された。
つづいて発生した三鷹事件、松川事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件という。

いまから4年まえ、「週間ブックレビュー」(BS2・2005/10/17)の特集に登場した、『下山事件 最後の証言』の著者・柴田哲孝にわたしは好感をもっていた。
単行本(2005年/祥伝社)に柴田哲孝が大幅に加筆・修正した、祥伝社文庫の『下山事件 最後の証言』(2007年)を入手し、気になりながら手つかずのまま放置していた。
わたしには苦手な分野だとの先入観があったからだ。
それから2年後、なにげなく読みだしたところ、おもしろすぎるのである。
わたしは人間と同様に本とも出逢いがあると思っている。
わたしには2009年に下山事件と出逢う必然性があったのだろう。

興に乗り、つづけて読んだ本はつぎのとおり。
『葬られた夏――追跡 下山事件』(諸永裕司・朝日文庫・2006年)
『下山事件(シモヤマ・ケース)』(森達也・新潮文庫・2006年)
『謀殺 下山事件』(矢田喜美雄・祥伝社文庫・2009年) ※単行本は1973年講談社刊
『夢追い人よ――斎藤茂男取材ノート1』(斎藤茂男・築地書館・1989年)

白洲次郎が下山事件の周辺に存在していたことを知り、入手したまま未読だった文藝別冊『白洲次郎』(河出書房新社・2002年)を読む。
加えて、以前から興味があった『おそめ 伝説の銀座マダム』(石井妙子・新潮文庫・2009年)を入手し、白洲次郎関連の本としても読む。
白洲次郎は「おそめ」の常連客だった。
三浦義一は「おそめ」のママである上羽秀(うえば・ひで)にぞっこんで、秀のまえでは少年のようだった、という話には笑えた。

下山事件からことしはちょうど60年。人間でいうと還暦である。
奇しくも8月の総選挙で政権交代し、下山事件の周辺にいた日米の人間たちによってつくられ、脈々とつづいてきた自民党はようやく寿命が尽きた。
鳩山政権は自然の流れとして、対米従属から脱する方向を示した。
いま、与党となった民主党の政治家たちには緊張感が感じられ、迅速に動いている。
ひとにやさしい社会を構築するのはむずかしいが、そちらに方向転換しようとしているようにみえる。
一方、いまもなお自民党の政治家たちの顔は弛緩している。
自民党が政権奪回する日はやってこないだろうと、政治に疎いわたしは思うのである。

柴田哲孝・諸永裕司・森達也の三者は交流があった。
行動をともにした場面を描いても、三者に差異があるところがおもしろい。
著作の刊行順は重要な要素で、諸永裕司→森達也→柴田哲孝である。
この三者だけでも複雑な関係性がある。
下山事件には彼らと較べようもない複雑な利権が絡んでいて、想像を絶する。

彼らに加えて斎藤茂男が重鎮として存在する。
共同通信の記者だった斎藤茂男(1928〜1999)は朝日新聞の記者・矢田喜美雄(1913〜1990)と、社の枠を超えてともに下山事件を追っていた。
両者は下山事件が時効をすぎても、真相究明に対する熱意が衰えることはなく、ともに「重篤な下山病患者」を自認していた。
自分の死期が近いことを自覚していた斎藤茂男は、「一方的に発表したり自分の取材に取り込む気はない、真相を知りたいだけなんだ」と訴えた。
斎藤は自分の病気のことを隠していたらしく、彼らは唐突に斎藤の死(1999年)を知らされ衝撃を受ける。
斎藤が生き延びて彼らの著作を読んだら、どのような感想をもつだろうか。

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』

圧倒的におもしろく、幾度も読みかえした。
重くて切れのよい文体に魅了された。
会話の部分が活写されているので、小説を書けるひとだと思った。
人間を立体的に描いているので、愉しめるのである。
のちに知ったが、やはり小説も書いている。
アウトドア派で多才である。

本書はおもしろく読めるが、いざblogに書くとなると意外とむずかしい。文庫版で602ページという分厚い本に盛りこまれた緻密な内容と、下山事件の奥深さがその理由だ。
加えて、パソコンにむかってキーを打ちはじめると、猛烈な睡魔に襲われて作業をつづけることができない、という日々の連続だった。
下山事件には魔物が棲んでいるのかもしれない。

以下、本書から印象的な箇所を引用(要約)しながらわたしの感想を述べる。

祖父・柴田宏は下山事件にかかわっていた

柴田哲孝の祖父・柴田宏(ゆたか)は1970年7月1日、69歳で他界。
柴田哲孝が幼いころから異常なくらい慕っていた祖父は、スポーツ万能で、近所の少年たちとともに「ジイ君」と呼ばれ、英雄だった。

柴田哲孝は1991年7月、祖父の23回忌の法要で、大叔母・飯島寿恵子から祖父が下山事件にかかわっていたと知らされる。
この日から柴田哲孝は下山事件という迷宮に足を踏み入れた。
そこには幼いころから慕っていた祖父のべつの顔を知りたい、という欲望も含まれていた。

祖父・柴田宏は昭和18年から24年の夏まで、矢板玄の経営する亜細亜産業の役員だった。
祖父の妹・寿恵子も昭和23年の春まで、数年間、事務員として勤めていた。
亜細亜産業は絶対に身内からしか事務員を雇わなかった。
寿美子も入る時、業務内容に関しては多言しないという念書を入れている。
あの会社は下山さん以外にも殺されたとか、消されたという噂はいくらでもあったので怖い、という寿美子を根気よくなだめ、説得して、柴田哲孝は寿美子の口を開かせてゆく。

寿美子の話によると、亜細亜産業は戦後、機関車の部品を東武鉄道や国鉄に納めていた。
元々矢板玄の実家は材木商だったらしいから材木も扱っていたが、ほとんどは南洋材(ラワン材)で、柴田宏が担当してインドネシアから輸入し、それを使って家具を作っていた。
家具の半分はGHQに納め、あとの半分は家具屋やデパートでも売っていた。
三越には大きな家具売り場があって、そこに亜細亜産業のコーナーがあった。
(下山総裁は失踪当日の午前10時頃に三越3階の家具売り場で姿を目撃されている)
亜細亜産業は大量の雑油の配給を国から配給されていて、年間に「ドラム缶で数10本の単位」だった。
大半は他の工場などに横流ししていた。
(下山総裁の衣服には大量のヌカ油が染み込んでいた)
亜細亜産業では染料も扱っていた。いつも見本が置いてあった。
(下山総裁の衣類や靴などから塩基性の染料の粉が検出された)
亜細亜産業がGHQと取り引きがあったのは、「大砲の弾の部品」などの鉄工製品、家具、材木、樹脂製品などで、GHQからは砂糖を買っていた。

ライカビルは異次元の空間だった。
終戦後の物資が欠乏していた頃、本物の日本酒、高級ウイスキー、外国タバコなどが並んでいた。
3階のサロンに出入りしていたのは亜細亜産業の社員でも一部の重役だけで、柴田宏もその一人だった。
異常なほど羽振りの良かった亜細亜産業は、昭和23年頃になって急に景気が悪くなりはじめた。

1991年当時、柴田哲孝はライカビルはすでに取り壊されたものと思い込んでいたが、数年後、当時、週間朝日の記者・諸永祐司が探し出した。
諸永に誘われ、柴田哲孝はライカビルに足を運んだ。
昔から三越の南口と室町3丁目は地下道で結ばれていたので、それを通れば、ほとんど人目に触れずに行くことができた。
(下山総裁は大西運転手に見られずに、三越の南口からライカビルに行くことができた)

ライカビルは5階建ての細長いビルである。
正面に蛇腹式ドアの古いエレベーターがあり、右手には木の手摺りの階段がある。
亜細亜産業のオフィスがあった2階は、英国式のパブになっていた。
サロンがあった3階は、麻雀屋になっていた。
4階はごく普通の会社のオフィスになっていた。
昭和24年当時、4階には三浦義一主宰の「国策社」の事務所が看板を掲げ、「日本金銀運営会」という事務所があった。
帰りはエレベーターに乗り、2階のパブに寄った。
柴田哲孝は諸永祐司と混んだ店の窓際の小さなテーブルに座り、かつてこの場所に現存した亜細亜産業時代のオフィスを空想する。

(つづく)

miko3355 at 23:47|この記事のURLTrackBack(0)