2010年06月

2010年06月10日

国分 拓著『ヤノマミ』(NHK出版)

2009年06月08日、本blogにアップしたNHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」に、《取材クルーたちは150日間ヤノマミと同居し、彼らと同じものを食べ、彼らの言葉を覚えようとした。その150日間の生活ぶりを本にしてくれることを、わたしは願う》と記した。
3月の新聞広告で、NHK出版から国分拓著『ヤノマミ』が刊行されたことを知り、さっそく入手した。
一気に読んでみて、番組を観たときの衝撃を超える内容だった。
映像でしか表現できない世界と、活字でしか表現できない世界のちがい、ドキュメンタリー番組が「作品」なのだということを、あらためて認識した。

本書で劇場版(113分)の存在を知った。

劇場版を観たひとのblog「嗚呼、テレ日トシネマ−雑記−」を興味深く読んだ。。

上記によると、上映後に30分ほどティーチインが行われ、NHKの国分拓ディレクターとNHKエンタープライズの西村崇が登壇したという。
わたしは国分拓ディレクターに興味があるので、参加できなかったのが残念だ。

ハイビジョン特集「ヤノマミ〜奥アマゾン 原初の森に生きる〜」が第35回(平成21年)放送文化基金賞において、テレビドキュメンタリー番組で優秀賞を、菅井禎亮氏が個別分野で映像賞を受賞した。
受賞のことばはこちら

わたしはNHKスペシャル(59分)しか観ていなかったが、5/16(日)と5/23(日)にハイビジョン特集(109分)が再放送されたので、録画して観ることができた。
さらにうれしいことに、劇場版(113分)のDVDが8月4日に発売されるので、Amazonに予約注文した。

  *

以下、本書を引用・要約しながらわたしの感想を述べる。

2007年11月から2008年12月まで、国分ディレクターたちは4回、合計150日、ヤノマミ族の集落〈ワトリキ〉(風の地)に同居した。
その集落はブラジル最北部・ネグロ川上流部に広がる深い森の中にある。
メンバーは、2〜4回目は、国分拓(ディレクター)、菅井禎亮(カメラマン)、エドワルド・マキノ(スチール、撮影補助)の3名で、1回目のみ彼ら3名を含む7名。
3名に減らした理由は、同居・同化を目指すには、ヤノマミがプレッシャーを感じないようにとの判断による。
ヤノマミが〈シャボノ〉と呼ぶ直径60メートルの巨大な家には38の囲炉裏があり、167人が共同で暮らしていた。
シャボノにはプライバシーがまったくない。
シャボノから数キロ先にあるFUNASA(ブラジル国立保健財団)の保健所(僻地医療の一環として1998年に設置)には、ドイツのNGOが寄付した旧式のソーラーパネルがあり、機材はその電力で充電した。
滞在中のカロリー摂取量は、一日平均1000キロカロリーで、体重は10〜20キロ減った。
国分ディレクターと菅井カメラマンは立ちくらみに悩まされ、エドワルドは空腹の余り幻聴と幻覚に襲われた。

おもしろいのは土産についての話だ。
ヤノマミの世界では、招かれた者は土産を持参する必要があり、国分ディレクターたちは彼らを無用に文明化しない品物を選んだ。
配布方法についていくら工夫しても、満足する者がいる一方で、不満をもつ者があらわれるのだ。
われわれも同じだなあと思う。内心不満があっても、ヤノマミのように露骨に表現しないだけだ。

〈ヤノマミ〉とは「人間」という意味で、〈ナプ〉とは「ヤノマミ以外の人間」「人間以下の者」を指すヤノマミの言葉で、最大級の蔑称。
病人が出た時、出産に手間取った時、嵐が止まない時、ナプのせいにされ、その度に集落を追い出されるのではないか、最悪殺されるのではないかと、国分ディレクターは心底不安になった。
同居して60日が過ぎる頃、「ナプ攻撃」を避ける方法を編み出した。
問題が起きると、数キロ先にある政府の保健所に隠れ、彼らとの神経戦が始まり、やがて再同居。
その繰り返しにより、緊張を解くことのできない居候生活を続けた。

国分ディレクターたちはヤノマミとの会話を書き留めながら、意思疎通に必要な単語を覚えていった。
それを囲炉裏に遊びにくる子どもたちに聞いてもらうと、アハフーと笑った。

  *

「ヤノマミ」という番組のなかでわたしの最も印象に残ったのは、14歳の少女の出産シーンだった。
国分ディレクターが最も衝撃を受けたローリというその少女の出産について、本書に詳しく記されている。
ローリは複数の男と交わり、父親のわからない子どもを身籠もっていた。
陣痛から45時間、眠らず痛みで泣き続けた末に、ローリは子どもを産み落とした。
暗い顔をしたローリは子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を絞めはじめた。
とっさに国分ディレクターは目を背けてしまったが、菅井カメラマンは物凄い形相で撮影を続けていた。
憔悴しきったローリは表情をほとんど変えず、暗い瞳を子どものほうに向けながら絞め続けていた。

子どもを精霊のまま天に送るという儀式が終わっても、国分ディレクターたちの混乱と動揺は収まらなかった。
菅井カメラマンは、今を生きる子どもたちを狂ったように撮りはじめた。
国分ディレクターは、何かが崩れ落ちそうで、考えれば考えるほど、何かが壊れてしまいそうだった。
うまく眠れず、心身は憔悴していった。
立っていることさえ辛くなり、歩けば木の根に躓いてよく転んだ。

昨年アップしたエントリーで、わたしはつぎのように記した。
《たしかなのは、少女は14歳にして少女ではなくなったということだ。出産を経て、弟らしき小さな男の子を抱っこしてかわいがっている少女の姿は、母親のようにみえる。というか、そのようにカメラが映している》
本書を読んでわかったのだが、その男の子はローリの弟ではなく、夫と別れて同居していたローリの姉の子どもだった。
少女の姿が母親のように映ったのは、自分の子どもを精霊のまま天に返したが、母性愛のようなものがたしかに少女のなかに育っていると、わたしは解釈した。
そのカメラアイは菅井カメラマンの祈りのようなものなのか、ご本人ににそこのところを訊いてみたい。

ワトリキには身体障害者がひとりもいない。
生まれた子どもに障害があった場合は、精霊として天に返すのだろう。
育つ過程で重傷を負ったり、障害がみつかったときには、森に捨てられるらしい。
較べるのもおかしいが、生まれた直後の子どもを殺めるより、育った子どもを森に捨てるほうが、わたしには恐怖だ。
かつて日本にも「間引き」という子殺しがあったし、障害児が生まれた場合に殺めたケースがあったという。
ヤノマミだけが野蛮ではないのだ。

ローリの出産から5日後、シャボノから女たちの姿が消えた。
女たちは森を2時間歩き、漁のポイントとなる川べりに着いた。
毒草を川に流し、痺れて浮かんでくる魚を捕る。
ローリも腰巻きがずぶ濡れになりながら、真剣に川面を見つめていた。
その瞳には、浮かんでくる魚を1匹も逃さないという強い意志があった。

女たちは2時間かけてゆっくりと川を下った。
途中、川べりにあった大きな白蟻の巣を見ながら、菅井カメラマンが「彼らは森を食べて、森に食べられるんだなぁ」と言った。
この呟きが、番組エンディングの呪文のようなナレーションにつながったのだ。

  *

ワトリキのヤノマミ語を翻訳できる人間は、世界に2、3人しかいない。
1998年以降、何度かワトリキに滞在したことのある人類学者で、ヤノマミ族保護のNGOのメンバーでもあったルイス・フェルナンド氏と、妻のシモーネ・デ・ソウザ氏に取材テープを送り、翻訳を依頼した。
現場での短いインタビューは、ワトリキで最もポルトガル語を理解する男(ブラジル名モザニアル)に通訳をお願いした。
フェルナンド氏によると、文明を知ってから30年以上が経っているのに、これほど変わらない集団は珍しい。それはシャボリ・バタの存在が大きい。バタの死後、一気に文明化して、崩壊するか、分裂してしまうかもしれないという。

シャボリ・バタは長い流浪の果てに、「文明」との共存を選択した。
ワトリキで暮らす167名のうち、およそ100名がシャボリ・バタと親戚関係にある。
国分ディレクターたちが同居した150日の間、シャボリ・バタは体調の優れない日が多く、ほとんどの時間をハンモックで臥していた。
ある日の深夜、シャボリ・バタが突然ハンモックから起き上がり、天に向かって叫び出した。
余りの突然さと声の鋭さに身体が震えた。
日本に帰り、その部分を記録したテープの翻訳があがった時、シャボノでその声を聞いた時以上に震えた。
シャボリ・バタは何度も何度も叫んでいた。
「私の精霊がいなくなってしまった!  私の精霊が死んでしまった!」

シャボリ・バタの存在が危うくなっているのに加えて、ワトリキは大きな転換点を迎えている。
7、8年前、NGOの指導・協力の下、ワトリキの長老たちは次世代を担う若者をブラジル社会に「留学」させることに同意した。
その3人の若者とは、モザニアル、ダリオ、アンセルモ。
アンセルモはワトリキに戻る度に「文明」の品々を持ち帰った。
ラジカセ、DVD、サッカーボール、塩、パソコン、携帯。
アンセルモより一世代若い者たちはそれらに引き寄せられ、ナプの文化は憧れの対象となり、それを認めない長老たちとの間に溝ができた。

ブラジル社会と戦っても武力では勝てないことを悟った長老たちは、言葉で訴えるしかないと考え、NGOが提案したポルトガル語の教育に同意した。
言語教育の始まりと軌を一にして、ブラジル文化の流入が始まった。
私有やプライバシーの概念が持ち込まれた。

150日の同居をお願いした時、長老たちが要求した対価は釣り針とかナイフだった。
アンセルモの時代になれば、DVDやパソコンが加わるかもしれなかった。

ワトリキでは、「文明」への依存が進む一方で、憎悪も深まっている。

  *

150日の同居が終わる日が近づいたが、国分ディレクターの体調は優れず、保健所に戻って寝込む日が続いた。
看護助手はマラリアを疑い、血液検査をしたが、陽性反応が出なかった。

2008年12月23日、国分ディレクターたちは、ワトリキを去った。
若者たちは滑走路まで見送りにきてくれたが、こない者も少なからずいた。
彼らと情を結んだ感じはあったが、涙の別れとはならなかった。
セスナからみた眼下のワトリキが、去る者の視点で印象的に描かれている。

東京に戻ってからも、国分ディレクターの体調は悪化する一方で、10キロ以上減った体重は、なかなか元には戻らなかった。
菅井カメラマンは子どもに手をかける夢を見るようになり、国分ディレクターは夜尿症になった。
自分を律していた何かと150日で見たものが余りにもかけ離れてたから、バランスがとれなくなってしまったようだった。

  *

〈あとがき〉に国分ディレクターはつぎのように記している。
映画監督の吉田喜重氏とヤノマミについて対談する機会があり、藁にもすがる気持ちで聞くと、「人間が解決のできない問題を提示することこそ、ドキュメンタリーなのではないか」といった。

2014年のサッカーW杯と2016年のリオ・デ・ジャネイロ五輪に向けて、先住民保護区の存在は風前の灯火になる。
ワトリキの人々が望むなら、保護区存続運動の力になりたいと思っている。

《番組は多くの人の力によって、僕が体験したもの以上となった》と記す国分拓ディレクターに、わたしは好感をもつ。

本書を読んでわかったのは、「ヤノマミ」という映像作品の貴重さと、ひとがなにかと深くかかわってしまうと、なにかが壊れるということだ。
得難いなにかを手にした場合、代償も限りなく大きい。

国分ディレクターは、死ぬまで「ヤノマミ」について考えつづけるのだろうか。









miko3355 at 11:02|この記事のURLTrackBack(0)