2005年09月05日

背中の眼    【エッセイ】

 タクシーというのは、見知らぬ他者に自分のいのちを預けていることを痛感させられる、奇妙な箱である。
 わたしの場合、こちらから話しかけることはまずないのだが、むこうから話しかけられたときは、なにがしかの会話を求めていると判断し、気もちよく応対することにしている。たいていの運転手は不機嫌に黙りこくっているのだから、話しかけられること自体が珍しいのである。


 乗車して一呼吸してから、その運転手は話しかけてきた。あたりさわりのない内容だった。それに対してわたしは、ひとことではあったが、なぜか自分の社会をみる視点が判明するような発言をした。それを聴いた彼は、無言のうちに背中全体で大きくうなずいた。そのリアクションに驚いていると、彼はおもむろに語りはじめた。 
 広島で被爆した。学徒動員で広島へ行き、そこで被爆したのだと。
 思わず彼の横顔に眼をやった。全身に諦念があふれるのを感じとったとき、彼の声にならない声がわたしに聴こえたような気がした。
  ――あのとき、広島へ行っていなかったら……。
 彼は右手でハンドルを握りながら、左手で備えつけのボックスから手帳をとりだし、後部座席のわたしに渡した。そのときちらっと彼の横顔がみえた。彼の行為に迷いはなかった。その空気に圧倒されるようにして受けとったものの、その行為には、はかりしれぬ想いを抱いた。ここで受けとるのを拒否することは、彼の自尊心を著しく傷つけてしまうということだけは、明白に伝わってきた。
 ずっしりと重い被爆者手帳の手応えが掌に残った。手帳を開くことは、彼のなにかを侵すような気がして、わたしにはできなかった。というより、受けとるだけで精一杯だったのだ。
 黙ったまますぐに返した。
 それを受けとろうとして左側に半身を返したので、彼の顔の大半がみえた。一瞬、テレたような表情がよぎった。
 それにもかかわらず、わたしはしたり顔でいった。
「原爆の場合は、何年もたってから症状がでてくるのが怖いですね」
 しまったと思った。この発言は誤解を招くにちがいない、とわたしは想像した。が、彼は拍子ぬけするほど明るい声で応じた。
「そうなんです。ぼくも時々ノドの調子がおかしくなるんです!」


 いままで最も怖かったのは、ノイローゼの運転手のタクシーに乗りあわせたときだ。
 走りだしてすぐに、「待ってました」といわんばかりに彼は話しかけてきた。最近ある宗教団体から脱退したのだが、自分の親戚も妻の親戚も同じ宗教団体に属しているので、とても疎外感がある。また、脱退した人間は必ず不幸になると脅されているというのだ。信仰しながら日常生活がまるでなっていない妻とも離婚したという。
 憑かれたように熱弁をふるいながら、途中で道に迷ってしまい、脇道にタクシーを止めた。それから彼はハンドルにおいた両腕に顔を埋め、低い声でつぶやいた。
「ここはどこかなあ……」
 ひたすら彼を励まして精神を高揚させることしか、わたしに残された道はなかった。ここで降りてしまいたいという衝動に襲われたが、その行為がただでさえ壊れやすくなっている彼のこころを刺激してしまったら、元の黙阿弥なのだ。彼のこれからの人生の展望よりも、わたしには自分のいのちのほうが大事だった。ノイローゼの運転手のタクシーに乗りあわせて事故死――なんて、あまりにも自分がかわいそうではないか!
 そんな胸中でいながらも、うかつに声をかけられないので、わたしは黙って彼を見守っていた。しばらくして職業的習性からか、彼は再びハンドルを握り、タクシーはゆっくり走りだした。
「でも、早くその宗教からぬけだせて、奥さんとも早く別れることができてよかったじゃないですか、これからの人生にとって」
 わたしが軽い口調で、それでいて真剣な面持ちを崩さずにそういうと、
「そうなんですよね!」
 ひときわ明るい声で彼は同調した。
 1時間もうろうろと走ったあげくに、タクシーはやっとの想いで自宅に到着した。いつもなら30分で着いている距離だ。当然ながら料金は確実に増えている。
「おまけしておきます。○○○○円でいいです」
 と彼は意を決したようにいったが、それでもかなりの増額である。
 わたしは黙って、おまけしてくれた料金を払った。
 降りようとすると、
「きょうは、よいお話をありがとうございました」
 真人間になったような声でそういい、彼はわたしの顔をみないで、まっすぐまえを向いたまま礼儀正しく頭をさげた。


 ある読書会の帰りだった。わたしがある男性に声をかけて、その読書会が開かれたといういきさつがあった。
 わたしは駅からタクシーに乗った。自宅まで20分ほどの距離である。その日、ちょっといやなことを耳にしたことで、わたしのこころは固く沈んでいた。夜景を眺めながら、わたしはそのことについて考察していた。10分ほど走ったところで、それまで押し黙っていた初老の運転手が、唐突に口を開いた。
「きょう、なにかあったん?」
 どきりとした。だが、自分の父親に近い年齢の男の口調に、ある種の親密さを感じとったわたしは、当たらずとも遠からずといった答えを返した。
「きょうは読書会の帰りなんですが、初回だったので、はじめて会ったひとばかりで、ちょっと疲れたんです」
 男は半ば安堵し、半ば腑に落ちないという背中をみせながら、こういい放ったのだ。
「わたしらは商売柄、うしろにも眼がついているんだ。いままでいろんなひとを乗せてきたけど、お客さんのような影の薄いひとははじめてだ!」
 この種の不躾さに対しては、常々ひとこと発さずにはいられないわたしは、怒りを内包した静かな声でいった。
「人間はだれもが、どうにもならないものを抱えているのではないでしょうか……」
 そのとたんに、あつくるしく迫っていた男の背中がさあっとむこうにひいてゆき、謙虚に並んだ雛人形のような貌になった。
 男は、自分もまた客にみられているという事実に気づいたのだろうか。あまりいい気にならないほうが身のためではないですか、というわたしの親密なメッセージを感受できるだけの神経はもちあわせていたということか。
 男の背中は、急速に影が薄くなったまま沈黙を保ちつづけた。
 
 
※これは1989年に、某所から「4日以内に書いてほしい」という無茶な依頼を受けて書いたものです。当時、いろいろな反応があり、愛着のある小品なので再掲します。推敲する時間がなかったわりには手を入れる必要を感じなかったのですが、今回、すこしだけ手を入れました。笑っていただけると、うれしいです。


miko3355 at 23:31│TrackBack(0)小品 

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