2005年09月30日

ぶらんこ原体験   【エッセイ】

 どういうわけか子どものころ、ぶらんこが好きだった。ぼうっとして揺られているのが性にあうのだろうか。知らない街の公園の片隅にぶらんこをみつけると、胸が躍った。
 おとなになってからも、読書や音楽を聴きながらではなく、なにもしないでぼうっとする時間をもたないと自己を再生できない。そんな時間は、ぶらんこに乗っているときの心象風景と同じだ。そのせいで、ただでさえ短い睡眠時間がさらに短くなる、という生活を永年つづけている。

 小学1年生のころの情景である。
 放課後、わたしは校庭の片隅にあるぶらんこの横木に座り、ゆらゆらと揺れていた。いつものように頭を空っぽにして愉しんでいた。鎖を両手で握りしめながら、ふいにある誘惑にとらわれた。鎖の一番下に大きめの輪があり、そこを接点として横木と結びついている。その輪の部分を両手でもったら、わたしのからだはどうなるのだろう……。即座にぶらんこから転落し、尻餅をつくであろうということは、子どもごころにも想像できた。しかしそれを実行したいという誘惑に、わたしは勝てなかった。 思いついてから10秒後に、ごく自然にわたしは実行に移した。
 一瞬、眼を閉じていた。気がつくと、わたしは想像どおり地面に尻餅をついていた。そのときわたしが眼にしたのは、振動により無人のまま往復運動をはじめた横木が自分に向かってきているという現実だった。無防備のままわたしは横木で右のこめかみを軽く打った。小さな痛みが走った。

 そうなんだ。大きな輪を両手でもつと、こめかみを打つのだ。不様な恰好とひきかえに、なにか豊かなものを手に入れたような気分になっていた。
 よくよく考えてみたら、おとなになっても同じことを性懲りもなく繰りかえしているではないか。死ぬまでつづけるのだろうか。不様さのなかでなにかを掴むという愚行を。それをわたしは、「転んでもタダでは起きない」といいたくない。「マイナスをプラスに転化させる」という芸術的行為でもない。不可抗力な衝動なのである。なんの役にもたたない豊かさが、そこにはある。

 このぶらんこのエピソードについてあるひとに語ったあと、わたしはいった。
「それがわたしの原型です」
 しばらくして彼は、不愉快そうな顔でいった。
「さっき、黙っててくれないかなと思ったんです。自己の原型という、そんな大切な話をして、どうしてぼくに考えさせる時間を与えてくれないんです!」
 それからさっと顔を元にもどして、わたしの眼を見据えながら彼は斬りこんできた。
「サーヴィス精神じゃないんですかぁ……」

 わたしは言葉を失っていた。けれども不快感はなかった。むしろこの地点まで他者であるわたしを理解しようとする彼に、感動すらおぼえていた。沈黙をたもっていてもわたしの顔を彼に晒している以上、透視力のある彼の眼によって、わたしのリアクションはほぼ正確にキャッチされているという安心感がともなっていた。
 その話のまえに彼は「対話ですから」と念押しするようにいい、〈対話〉の意味するところを強調していた。対話とはどういうものなのか、わたしは彼によって教えられたような気がする。
 後日、彼は京都の街をぶらついていたとき、たまたま「味戸ケイコ展」をみつけて入り、ぶらんこに乗った少女の画をみた。そのときわたしのぶらんこ原体験を想いだし、奇妙な感覚に襲われた、と手紙に書いてきた。

 では、ネット世界で〈対話〉は成立するのだろうか。
 それは現実世界の〈対話〉とどうちがうのか。
 ネット世界では黙ったまま存在することはできない。言葉を発することが存在を意味する。ネット上で無言のうちになにかを掴むためには、半端ではない想像力が求められるのだろう。現実世界の住人ではないから清潔な関係がもてるかというと、意外となまなましい。人間の本質が露呈するのである。

 いま、わたしが〈対話〉が成立していると認識している数少ないひとたちとの関係を、これからも育てていけたらうれしい。もしかしたら幻想ではないのかという恐怖に怯えつつ、彼らの影響でわたしの現実世界が変わっているという事実は、わたしを圧倒するのである。


[追記 2005/10/1]
コメント欄で、小向さんがボードレールの散文詩「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」(いずこなりとこの世の外へ)に触れておられますので、補足します。

■『ボードレール全詩集供戞憤ど良雄訳・ちくま文庫)より引用 ― p.462
 英語の題はボードレールが一八六五年に訳したトマス・フッド(英国の詩人、一七九九―一八四五)の詩から取られたもので、一語に綴るべき、ANY WHERE が二語になっているのは誤記もしくは誤植である。


miko3355 at 14:34│TrackBack(0)小品 

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この記事へのコメント

1. Posted by 小向   2005年09月30日 17:09
恐いと知りながら、まずいことが起こると予感しながら、やってみてしまうということは僕にもあります。
それはきっと、やらないと無難に収まってしまうことへの反抗なのではないか。
ANYWHERE OUT OF THE WORLDを志向する心が人間の中にはあります。(太郎やボードレールは特にその性向が強い)
でも何でもやってみればいいというものではない。取り返しがつかなくなることもある。
もっとも、そういう分別ができるのは歳を取ってからのことですね。僕もいい歳ですから。
ネット上のやりとりは、おっしゃるとおり内面が露わに出ます。
それだけに嘘をつけない世界ですし、人から影響を受けることも大きいですね。
2. Posted by miko   2005年09月30日 23:54
小向さま

思い起こしてみると、「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」の世界に、わたしはものごころついたころから親しんでいました。おとなになると、生活のなかに雑用の占める割合が急激に増加し、それにガマンできないこころが文学を求めるという、しごくあたりまえの原理でわたしも動いています。
富永太郎に惹かれるのは、分別のないところもそのひとつです。

わたしは社交的な人間ではないのですが、現実世界でひとと親しくなる速度はかなり速いです。小向さんとは、ネット上でそれを体験したような気がします。もっともあの磁場は特異ではありましたが。
「いい歳」などとおっしゃらないでください……なんて、無責任発言でしょうか。


3. Posted by シャンティcoco   2005年10月01日 21:01
こんにちは。秋の空気が硬くなって参りました。このブログを教えてくださってありがとうございます。相変わらず精力的な文章ですね。
私はブランコの太いワッカを掴むなどという無謀なことは一切しないのに、首をのけぞらせ、のけぞらせ、空を吸うのか、空に吸われるのかわからない恍惚感に、気がつけば地面に落ち、振り向いて横木に思いっきりどつかれた少女でした。(笑)こんな私ですが、よろしくお付き合いください。
4. Posted by miko   2005年10月01日 22:06
シャンティcocoさま

不様さの程度を競う趣味はありませんが(笑)、コメントありがとうございます。

小向――シャンティcoco――miko
上記3名のコメントがこの空間に並ぶのは、ちょっと胸が騒ぎます。共通項が「小林秀雄・中原中也・富永太郎」でありながら、三者三様だからです。ちがうということに、ほんとに不思議なおもしろさを感じます。

なかなか更新できませんが、見守ってくださいませ。