2005年10月10日

ク・ナウカ演劇公演「王女メディア」

昨夜10/9、NHK教育TVの芸術劇場で「王女メディア」(原作・エウリピデス)を観た。
以下、NHKの番組案内から引用する。

○劇場中継 ク・ナウカ公演「王女メディア」
  後10・30〜深夜0・15
 「王女メディア」は1999年初演。海外8カ国15都市で上演されたク・ナウカの代表作。明治の日本、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として描かれる「メディア」ではセリフは宴席の男たちに限られ、仲居が演じる女たちはセリフに操られて動いてゆく。
 鮮やかな衣裳をまとい、打楽器の生演奏を用いながら、語りと動きを分ける独特の“二人一役”の手法で演じられるク・ナウカ版「王女メディア」を放送する。

≪内容≫
 時代は明治。日本橋あたりの料亭、裁判官らしき男たちの宴席で、仲居の女を巻き込み、座興のギリシャ劇「メディア」が演じられることになる。配役は男たちの互選で決められ、男が選んだ仲居に衣装が着せられる。
 劇中劇。ギリシャの王子イアソンとその妻メディア。苦難を経て異国の地で夫婦となり子供ももうけた二人だが、夫の心は妻メディアから離れ、コリントスの王女に傾いている。芝居は、メディアが夫に裏切られた場面から始まり、追放令で窮地に陥ったメディアの夫への復讐が始まる。やがて、芝居が子殺しの場面で終幕を迎え、宴席を囲む法律書の壁が崩壊。現れたメディア役の仲居たちは、男による言葉の支配に対して反撃を開始する。

[原作] エウリピデス
[演出] 宮城 聰
[出演] 美加理、阿部一徳、吉植荘一郎 ほか、シアター・カンパニー「ク・ナウカ」
(平成17年7月28日 東京国立博物館・本館内特設舞台にて収録)

  *

はじめはパソコンにむかいながら観ていたのだが、途中から集中して観てしまったほど舞台に惹きつけられた。
舞台の色彩が鮮やかで、レトロ感が漂う。メディア役の女性の能面のような顔が気に入った。どこかしら黄泉のような空間が構築されている。
演じるのは女たちで、セリフをいうのは男たちという「2人1役」のおもしろさがある。しかも男たちは憑かれたようにセリフをたたきつけるので、狂気じみてくる。
芝居のテンポが速く、飽きさせない。
演出の宮城聰氏は脚本も手がけているが、芝居がさほど好きではない若者をも視野に入れているのではないかと思う。

ラストシーンで、正体不明の褐色の壁にはさまれた法律書がなだれ落ちる。男たち(=裁判官)に抑圧されつづけていた女たち(=仲居)が反乱を起こし、男たち全員を殺すのが圧巻だった。
なにを意味するのだろうか。
いままで有用だった法律(=規範・価値観)は通用しなくなったという意味か。これからの女は男なしで生きてゆく、という宣言なのか。
宮城氏の演出したメディアは、男社会で抑圧されていても、こころは売り渡していないという秘められた意思を、能面のような動かぬ顔で表現しているようにみえた。

「王女メディア」は2005年5月に、(わたしの好きなホールである)シアターコクーンで、蜷川幸雄演出で上演されたらしい。メディア役は大竹しのぶ。
芝居好きでないわたしがいうのは僭越だが、蜷川幸雄がどうにも好きになれない。どこがいやかと訊かれたら、すべてが好きになれないのである。
「メディア」皆川知子によると、大竹の肉感がリアルだったらしい。そうだとしたら、わたしの苦手な世界だ。

そんなわけで、終演後の宮城聰氏のトークを愉しみにしていた。聞き手は内野儀氏。
宮城氏の姿が画面にあらわれたとき、華奢な肉体に驚いた。これで重労働らしい演出という作業によく堪えられるなあと、妙に感心する。理論的だが、それを超える感覚的センスがあり、気負いのないところがいい。芝居大好き人間というオーラが発散している。
宮城氏にわたしは好感をもち、同時になぜ蜷川氏が好きになれないかが、よくわかった。私見では、反対のタイプにみえる。
それにしても、「クマさん」みたいな宮城氏の口髭には笑える。

録画していたので、宮城氏のトークをつぎに要約する。
   
上演場所として東京国立博物館を選んだ理由

天井が高いので、ギリシャ悲劇のスケール感をだせるから。
明瞭な目的のためにつくられた空間と、自分たちの作品が真正面からぶつかりあうたたかいのなかで、最終的に空間を味方にするということをやっていくことが、俳優と脚本家の修業になる。自分たちを鍛えていくことになるのかなあと。

なぜ明治時代の日本に設定したのか
 
アジアを蔑視し、女性を蔑視したセリフの多さに、原作者の負い目を感じ、そういうメンタリティーについて考えた。2500年まえのギリシャ人が、明治時代の日本人のメンタリティーと似ているのではないかということに気づいた。
文明では周りの国から先んじ、国民皆兵というシステムによってアジアとの戦争に勝つ。法律によってものを裁いてゆく。でも、もともとの文化・芸術においては輸入国だったという古代ギリシャと明治の日本が似ている。

日本が朝鮮半島や中国大陸に対して抱いていた感情と、(原作者)エウリピデスの時代のギリシャ人が抱いていた感情が、とても似ていると思って読んでみると、メディアという女性はアジアの女性であり、呪術の使い手で非合理的な力をもっていることになっている。そうものを代表しているメディアは、当時のギリシャ人にとって刺激的なヒロインだった。アジア出身だから芸術の源からきた女。でも、いまは自分たちのほうが文明において勝(まさ)っている。野蛮な国からきた女だといいたくなるという関係。

法律とか契約とか、言葉にあらわせる普遍的なものをもちだしたギリシャ人にしてみれば、メディアのものさしは、自然の気まぐれをそのままひきうけているような、シャーマニズムというか、占いで政治を行っている非近代的な原理を体現している。

明治時代は、士(さむらい)の原理をあてはめたので、女性の地位が下になってしまったところが、古代ギリシャと似ている。

いまは自分たちはこっちに立っているけれども、危ういものかもしれないという感覚がギリシャ悲劇には残っているというよさがある。オルターナティブについて敏感だった時代が、明治の日本におきかえると表現できるんじゃないかと。

なぜ語り手と身振りをする人間を分けたのか

われわれの眼の高さでいくら考えても解決しないこと。人間はなぜ死ぬのかとか、なぜ人間は戦争をするのかとか。神とはなにかとか。
われわれの眼の高さじゃないところから世界をみようとする想像力のいとなみが、人間を救うもうひとつの重要な機能。悲劇をやるためには、なにかシカケがいるから、身体を抽象化するために、言葉だけ、動きだけということをやってみた。

ギリシャ悲劇をやる理由

結論がでているのなら、演劇というかたちでやる必要はないし、この世のなかはもっとよくなっているはずですからね(笑)。

男か女かわからない「ウバ」がずっとみている――2500年メディアが生きていたらどうなったかと考えた。

想像力を働かせてもらうこと、そこを耕してもらいたい。

  *
  
余談。
以前に、新宿御苑の近くにある小さな感じのよいホールで、演劇集団「円」の公演を観たことがある。仲間の身内がその芝居の演出をしているというので、全員を招待してくれたのだった。
NHKのカメラがセットされていたので、わたしはカメラマンの右横に2席空けた座席に(そう指示されたので)着席した。仲間はかたまって前方に着席していて、こっちにきなさいと執拗に手招きするのに抗したのは、カメラマンの仕事に興味をもったからだ。
台本をみながらカメラを動かしていたが、サッカーの試合を撮るのに較べると悠長だろう。サッカーに台本はないわけだし。

芝居が終わって、集団となってエスカレーターで1階に降りてきた途中、下方に吉行和子が岸田今日子と弾んだ感じで話しているのが眼に入った。岸田が出演していたので、親しい吉行が訪ねてきたのだ、ということはすぐにわかった。無意識のうちに「あ、吉行和子だ」とわたしはつぶやいた。それを聴いて、ひとびとの視線がいっせいに吉行に集中し、彼女は見事に黙殺した。TVでみるより美しく、女優とは思えぬふつうのワンピース姿だった。
ホールからでたところで、仲間のひとりが「吉行和子はきれいだったねえ!」と興奮した口調でいった。

しばらくしてNHK教育でその芝居は放映されたので、あのカメラマンの仕事ぶりを検証することができた。動きの少ない芝居だった。なにしろ作・太田省吾だから。



miko3355 at 22:19│TrackBack(0)TV・ラジオ | 芝居

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この記事へのコメント

1. Posted by 小向   2005年10月14日 10:57
「メディア」はベッリーニの歌劇で有名ですし、映画でもマリア・カラスが主演したパゾリーニ監督の「王女メディア」が評判になりました。どちらも僕は体験していないのでなんとも言えませんが。
mikoさんの紹介された演劇の内容を読んでいて、男が作った社会に対する女性たちの反抗が描かれているような気がしました。
アメリカ映画では1970年代末頃から男の弱さ、女の強さを打ち出す映画が多く作られてきました。「エイリアン」が象徴的だと思います。宇宙船の乗組員が次々にエイリアンに襲われていくなか、シガーニー・ウィーバー演じる女性が必死にエイリアンと闘い、最後には勝利を収め、一人生き残る。
これからは女性の時代なのかと僕は「エイリアン」を観て思ったのですが、現実にはどうなのでしょう。すでに女性が強くなったことが定着していて特に取り上げることでもなくなったのでしょうか。
2. Posted by 小向   2005年10月14日 12:06
すみません。歌劇「メデア」の作曲者はケルビーニでした。「ノルマ」と勘違いしてしまいました。
3. Posted by miko   2005年10月15日 13:25
わたしの実感としては、女が強くなったというより男が弱くなり、男が両性具有化しているという感じ。
宮城聰演出・脚本では、男社会のゆきづまりの果てに、記号としての女社会に展望をみようとしているのではないかと。生物学的に女のほうが男より優性であるという、根源的な視野から未来への想像力を働かせよ、というメッセージですね。それが具体的になになのかについて、以前からわたしは考えつづけています。すすんだ女(少数派)に対峙できる男は、いないのではないでしょうか。もう20年まえからの現象ですが。
さらにいうと、舞台で女と男が使い分けられていますが、そこに宮城氏は両義性をこめていると、わたしはとらえています。

「世界のニナガワ」のほうをみていないのでわかりませんが、宮城氏は、世界に通用するユニークな演劇空間を構築していると思います。芝居好きでないわたしが、まったく退屈しませんでした。