2005年10月24日

富永太郎の詩篇「影絵」がよびさます心象風景

当blogにむかうときのわたしの心象風景は、詩篇「影絵」から拡がっているので、その詩篇をおいておきたいと思っていた。
はからずも小田昭太郎版の心象風景が加わったのを記念し、ここにおくことにする。

それはまた、富永太郎について蜿蜒とやりとりを重ねた小向氏と、その空間の提供者であるサイト管理者への感謝の念をこめて。
上記サイトの掲示板が、当blogをはじめることになった直接的要因である。
そんなわけで、どこまでもネット上を彷徨しているのである。


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影絵    
                 
              
半缺けの日本(にっぽん)の月の下を、
一寸法師の夫婦が急ぐ。

二人ながらに 思ひつめたる前かゞみ、
さても毒々しい二つの鼻のシルヱツト。

生(なま)白い河岸をまだらに染め抜いた、
柳並木の影を踏んで、
せかせかと――何に追はれる、
揃はぬがちのその足どりは?

手をひきあつた影の道化は
あれもうそこな遠見の橋の
黒い擬宝珠の下を通る。
冷飯草履の地を掃く音は
もはや聞えぬ。

半缺の月は、今宵、柳との
逢引の時刻(とき)を忘れてゐる。




大正11年(1922)3月18日、「一高受験の夜」と注した詩篇。太郎、21歳。


【「影絵」の背景】

大正8年(1919)
 3月、府立第一中学校を卒業。
 9月、仙台の第二高等学校(現東北大学教養部)理科乙類(ドイツ語)に入学する。

大正10年(1921)
 10月、仙台の医師の妻H・Sと恋愛関係がはじまり、2ヵ月後に破局。姦通罪のある時代ゆえ(姦通罪に該当する意味での姦通はなかった)、H・Sの母親は、太郎に二高退学を要求。
 (太郎の両親は、太郎とH・Sを結婚させる意思があったが、H・Sが恋愛関係を否定)
 12月15日の朝、正式に二高を中退した太郎は、H・Sとの恋愛事件のために来仙した両親とともに、東京代々木富ヶ谷の家に到着。夜行なので、仙台を離れたのは14日。太郎は15日付けの書簡を正岡忠三郎宛に送っている。
 (忠三郎は、太郎と同時に二高理科甲類入学。3月末、ふたりとも落第。この頃よりフランス文学を読み、親しくなる)

大正11年(1922)
 3月、両親からさんざん説かれて一高の仏法を受験するが、失敗。
 4月、東京外国語学校仏語科入学。
 12月15日付け、正岡忠三郎宛書簡で、太郎は記す。
 「きのふは俺の一周忌だつた。夜中椅子に腰かけたばこを吸つてばかりゐた。俺にはふさはしい一周忌の法要かも知れない。酒が飲みたい」

大正12年(1923)
 3月、出席日数不足のため落第。以後、実質的に休学状態。



miko3355 at 07:05│TrackBack(0)富永太郎 

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この記事へのコメント

1. Posted by 小向   2005年10月24日 10:03
今回アップされた「影絵」をあらためて読んで、太郎の失恋の怨み節を感じるとともに、H・S夫妻(一寸法師の夫婦)と太郎(柳)が登場する月夜の情景を描いた立派な象徴詩だと感心しました。
学生時代からわけのわからぬままに富永太郎の詩と人柄に惹かれて、共通の話題の相手のいないまま来ましたが、mikoさんの熱意ある情報提供とメールのやり取りによって、太郎の本当のイメージに少しは近づけた気がします。大変感謝します。
2. Posted by miko   2005年10月24日 16:21
小向さま

消滅したはずのやりみずさんのサイトにアクセスできるアドレスを発見したので、お知らせしましたね。あそこにおかれている詩篇「影絵」を流用しないで、自分で打ちこんでアップしました。
そして【「影絵」の背景】を添えました。

太郎は忠三郎への書簡で、「半缺けの月をみた」と書いてましたね、そんな記憶があります。そのときに、きっとH・Sのことを想ったのでしょうね。

「秋の悲歎」は、いうまでもなく傑作です。しかし「影絵」の真価は、小向さんとのやりとりによって余儀なくされた精読によって、ようやくわかりました。洗練されたアイロニーとユーモアが感じられます。