2005年11月15日

富永太郎と中原中也の異質な関係

当blogでは基本的に富永太郎については書かないつもりでいたので、11/12の祥月命日についてもそのつもりでいた。だれかのお墓に参りたいと思ったことのないわたしが、11/12を意識してきた。結局は実行に移せなかったのだが、来年の11/12の自分はどうしているだろうと想像したとき、富永太郎について記しておきたいと思い直したのである。

まえのエントリー のコメント欄 に杉本圭司さんから「正岡忠三郎日記」に関する佐々木幹郎(詩人・『新編中原中也全集』編集委員)の特別寄稿(「中原中也記念館」館報2001・第6号所収)をご紹介いただいた。
それを読み、忠三郎が大岡昇平に渡したのは、日記帖からピックアツプして原稿用紙に転写したものだったことを知った。現物をひとに渡せないほど太郎の手紙を大切にしていたことの証左でもあるし、ひとに読まれたくない内容が含まれていたのだろうか。
いずれにしても、富永太郎の全集が刊行されないと、事は進まないのだ。

今春、角川書店に問いあわせたら、刊行の予定はないとそっけない返事。同時に、「ユリイカ」で富永太郎の特集が組まれたのは1971年なので、今後の予定はないかと青土社にも問いあわせたが、「なにかきっかけがないとねえ……」という返事だった。
「きっかけ」があって全集が刊行されたとしても、富永太郎の詩を好きになる人間は少ないだろうと思う。残念だけれど。
商業ベースに乗らないところが、太郎にふさわしいようにも思える。

正岡忠三郎については司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』上下(中公文庫)に詳しい。
忠三郎より21齢下の司馬遼太郎が、忠三郎夫人のあや子さんに押しきられるようなかたちで葬儀委員長をつとめる。
この本が富永太郎に触れているということを教えてくれたのは、小向さんだった。あらためて感謝したい。
わたしの知人が、司馬遼太郎から聞いた話をしたあと、同書の単行本をプレゼントしてくれたので、想い出の書になっていたにもかかわらず、富永太郎については失念していた。彼は当時、司馬遼太郎と仕事上の関係があり、司馬遼太郎という人間をたいそう敬愛していた。その仕事が司馬遼太郎の著書として刊行され、これも彼から贈られた。彼はわたしにとって得がたい人物なので、幽かにではあってもどこかで富永太郎とつながっているような錯覚をおぼえるのである。我田引水だと嗤われるとしても。

司馬遼太郎によると、忠三郎は「世間でいう出世ということについて病的なほどに少年じみた嫌悪感をもっていた」。村井康男氏は、太郎が「えらくなれ、とおれに教えこんだ奴らはみんな打ち殺してやりたいような気持になる」と口走るのを聞いている。
ふたりはことばを交わさなくても、わかりあえる関係だったのだろうか。
そういえば太郎の書簡に、「目をみて退屈していることがわかる人間が近くにいないのがさびしい」というような主旨の一節があったのを憶えている。
臨終の床で忠三郎にワガママをいう太郎に、喜びながら対応している空気が、忠三郎の日記からうかがわれる。
司馬遼太郎のつぎの記述は鋭い。

《じかに忠三郎さんに会ったところで、忠三郎さんからどれほどのものを得られるかとなると疑問で、本来、京都にいるこの友人がそういう存在ではないことを太郎は知っていたはずであった。太郎の場合、忠三郎さんというのは一個の巨大なふんいきで、それにくるまれてさえいれば自己を解放でき、手紙を書きつづけることによって自己が剥き身になり、意外なものを自分の中に見出すことができるという存在であったろう。このため書簡の形式によってでもよく、また絵を描いてそれを送りつけてもよかった。ついでながら太郎はこの前年から川端画塾などに通っていて、自分の中にある詩情のもとの赤脹れしたようなきわどいものをあらわに造形化するという表現の場ももっていた》

  *

つぎに富永太郎の詩が少数の人間にしか読まれない理由を考える一助として、わたしが好んで読んできた梶井基次郎の作品と対比させて考えてみたい。

〔参照〕
「梶井基次郎の世界」

上記サイト管理者の未発表原稿「梶井基次郎研究」のなかに
〈終章 梶井基次郎の文学史的位置〉
がアップされている。
そこに昭5・9・27付け北川冬彦宛書簡で、梶井が東大の後輩である小林秀雄(梶井は英文科で小林は仏文科)の"悪口"を書いているのが紹介されている(梶井は富永と同じ1901年生まれで、小林より1歳上)。それなのに梶井は同人雑誌を小林に贈っていたはずだ、わたしの記憶ちがいでなければ。

梶井は富永と同じ肺結核で1932年3月24日、午前2時、母親と弟夫婦に見守られながら死ぬ。母親ひさは息子の『看護日誌』を1冊のノートに、1932年元旦より1日も欠かさず記し、葬儀当日までつづけられたという。(『梶井基次郎の肖像』小山榮雅・皆美社新書・昭和61年)

上記日誌の3月12日、「今日は呼吸困難を訴へて酸素を欲しがる。即と酸素吸入をやる」と記されている。
この描写だけではなく、肺結核という病いへの対応が、梶井と富永では著しい差がみられる。いかに富永が特異であるかということを、逆にわたしは知ることになったのである。
「國文學」特集・作家論の方法(平成2年6月号)で磯貝英夫氏が〔感性の形式〕と題して梶井基次郎について興味深い論を展開している。
以下、引用。

《梶井は、感性面においても、ごく普通の、健康な資質の人である。そういうかれを、常人をこえた鋭敏な、それだけに特異とも感じられる感性の世界へ追いこんだのは、肉体の病いである。一般的生の欲求、行動の欲求が遮断された結果として、生エネルギーが感覚面に集中し、あの鋭角的な感性世界が出現したのである。かれの表現しえた感性世界に、常人にわかりにくいナゾの部分、人をあっと言わせ、不安にさせるような要素は、まったくない。だれもが持っている原感覚、普段は、さまざまな欲求にまぎれて見失われている原感覚を、純化し、追いあげて、鮮烈に呈示してくれたのが、梶井の感性の文学である。梶井文学が、特定のタイプをこえて、広汎なファンを持つのは、そのせいだと言ってよいだろう。
 さらに、梶井が表現した感覚が、すべて快の感覚であることも、ここで強調しておく必要があるだろう》

同誌の特集・梶井基次郎テクストの発見(昭和63年12月号)に鈴木貞美氏が〔六峰書房『梶井基次郎全集』の周辺〕と題しておもしろいことを書いている。(昭和9年、六峰書房版内容見本の写真が掲載されている)
小林秀雄は梶井について「病気でなければ書けぬ、きわめて健康な文学」と評したらしいが、鈴木氏は本誌の別枠で、梶井の内容見本に寄せた小林秀雄の短文の全文を引用し、「小説に背を向けた」小林秀雄についても言及している。

  *

なんか「小林秀雄實記」掲示板に書きこみをしている気分になってきたが(笑)、つぎのことを書いておきたい。
富永太郎と中原中也の関係について。

佐々木幹郎氏は富永太郎について語りながらも、最後は中原中也に結びつけるところが感じられ、中也のこととなると客観性を失うように思える。
これは掲示板でもテーマになったのだが、小向さんのなかでは太郎と中也が共存するらしい。そういうひとのほうが多いが、わたしは共存しない。それはわたしが太郎を愛しすぎているせいではないと思っている。

有名な帽子をかぶった中也の顔写真に、わたしは10代のころから魅せられていたのだが、最近、大岡昇平が「あの写真は何度も修整されている」と記しているのを読み、愕然とした。わたしの手許にある『中原中也――言葉なき歌』(中村稔・筑摩叢書・1990年)の表表紙は中也の帽子をかぶった写真の大写しだが、修整されていないらしく、例の写真とはかなり印象がちがう。顔の角度もすこしちがっている。
なんのために修整したのか、大いに疑問だ。

わたしが呪縛されている太郎の死に顔の写真が修整されていたとしたら、わたしは卒倒するにちがいない。
中也は太郎の死に顔の写真を郷里の母フクに「詩人の死顔です」と付記して送り、山口に帰省したときには、写真を弟たちに見せ、「これは偉い人だったんだよ」と何度も繰り返し話したという。(「中原中也記念館」館報2002、第7号〔企画展〕秋の悲歎・富永太郎――私は私自身を救助しよう。)

ウソくさいじゃないか、太郎について中也が記した文章から判断するなら。詩人として立ちたかった中也のデモンストレーションとしか思えない。
そんな経緯があるからかもしれないが、『中原中也詩集』佐々木幹郎編には、太郎の死に顔の写真が収められている。わたしには不協和音しか聴こえてこない。

太郎が村井康男宛書簡(大正13年11月14日附)に、
「ダヾイストとの嫌悪に満ちた友情に淫して四十日を徒費した」
と記し、臨終の床にも近づかせなかった中也という存在について、善意に解釈しないでほしいと思う。

「ユリイカ」増頁特集・大岡昇平の世界(1994年11月号)所収の〔徹底討議・大岡昇平の世界〕はとてもおもしろかった。討議者は、樋口覚・佐々木幹郎・加藤典洋。
p.190に佐々木氏が中也の「玩具の賦」という大岡昇平を批判する詩について、「本当に言葉で遊ぶというのはそんなものではないんだよ」といい、いい詩だといっている。加藤氏も「なかなかいい詩ですよ」。
掲示板で小向さんがこの詩の価値を訴えておられたので、遅ればせながら記す。わたしはやはり好きな詩ではないけれど。

小林秀雄と長谷川泰子について語っている箇所を引く。

加藤 小林があの時に黙って、「思えば中原とは奇怪な三角関係で協力し合った」とか何とか書かずにいれば、ああいうふうな話はオフレコの形では言い伝えられてもあんな伝説というか物語にはならなかったと思うんです。

佐々木 それは僕も不思議だったんです。それで年譜を調べたら昭和二十二年に大岡昇平が中也論を書くために長谷川泰子のところへ行って、長谷川泰子のところに残っている中也関係の書簡とか小林秀雄から来たものとかを全部持って帰るでしょう。その中に江藤淳の「小林秀雄」の種になった小林の自殺未遂前の手記があったわけです。その手記を大岡さんは保管したままで、ある時小林秀雄がそれを返してくれと言うんです。その時に、「いや、俺は返さない」と大岡さんが言って、「返すのならその前に写しをとるぜ」と言ったんです。そうしたら小林秀雄が「勝手にしやがれ」と怒った。つまり小林が戦後に「中原中也の思ひ出」を書くのはそういうことがあってからなんです。〔『聲』同人雑記参照〕》

上記を読んで、

「二人の関係について、僕に質問しにきた者はいない」「聞かれれば全部、話すよ」
(〔小林秀雄座談:郡司勝義〕「新潮」小林秀雄追悼記念号、昭和58年4月臨時増刊)

が浮かんだ。「二人の関係」とは、小林秀雄と長谷川泰子の関係だが、これを読んだときに、なぜ小林秀雄は自分で記さなかったのだろうと思った。そこらへんの小林秀雄のおかれた(祭りあげられた)窮屈さについて、杉本さんに言及してもらいたい。

なお、わたしの勝手なイメージだが、小林秀雄が唯一その才能に嫉妬したのは富永太郎だったのではないか、という仮説を立てている。
お門ちがいだろうか。


〔追記 2005/11/16〕
本日、コメント欄で杉本氏からご指摘いただきました。
本エントリー末尾の「二人の関係」とは、小林秀雄と長谷川泰子の関係ではなく、小林秀雄と中原中也の関係です。
訂正するとともに、引用を追加します。

▼小林秀雄+郡司勝義
《昭和五十二年の正月、例によって酒がすすみ、雑談に花が咲いていた。
「君、中原中也は、よく売れているのかい」
「よく読まれていますよ」
「ずいぶん中原についても書かれているようだね」
「永遠の青春ですから。中也の詩は」
「どれを見ても、中原と僕との関係が論じられているんだよ。やっぱり、ここが要なのかね。ところが、今日まで一度だって、二人の関係について、僕に質問しにきた者はいないん
だ。一人ぐらい僕に話を訊きに来たっていいじゃないか。それをしないで、何が研究だい」
「それは、……こわくて聞きにくるなど出来ません」
「こわくて出来ないとは、何ごとかね」
「だいたい、中也を論じるのは、三十代、四十代が大半で、せいぜい五十前後ぐらいまでじゃありませんか。それなら皆、先生を尊敬していますし……」
「尊敬している? 馬鹿な。いいか、僕は、自分の原稿料で、自分の生活を必死になってやって来た男だよ。いい読者を得るためには、なんとかいい原稿を書かなくては駄目だと、一所懸命に工夫して来た男だよ。その僕のことを、中原を書きたいって時に、尊敬していますから訊きに行けませんとはなんだい。どこに人間の精神があるんだ、純粋さがあるんだ。要領よくあしらわれて、僕が嬉しがるとでも思っているのか」
「精神のありかたが……」
「ありかた? そんな弱気な言葉を、どうして君は平気で吐くの? 人間は精神そのものでなくて、一体、何があるの? どんなヘッポコ作家だって、作家である以上、精神そのものですよ。それを利いたふりして、何とか彼(か)とか、横から言って何の意味があるの?……もう僕は嫌だね」
「……」
「僕の話をきいて、それから傍証をするのが順当だろう。ところが、傍証を先に立てて僕を論じるんだ。……まあ、現代の病弊といったところだな」
「……しかし、聞きにきたら、全部お話になるんですか」
「話すよ、もうこの世と別れるのも近くなって、隠しておくことはないじゃないか。例の女と関係したのは、何時、何処で、どんな風だったか、聞かれれば全部、話すよ。僕は真剣だったからね。真剣にやったことを、人間は、本当に忘れることが、できるか」》

上記の座談を読んだのは最近だが、わたしの胸はざりざりした。
杉本氏のコメントによると、結局は、だれが訊きにいっても話さないという。
話さないのなら、黙っていてほしい。
わたしのような単純な人間には、とうてい理解できない小林秀雄なのである。

なお、わたしは長谷川泰子より坂本睦子と小林秀雄の関係のほうが謎である。
坂本睦子を描いた大岡昇平の『花影』について、出口裕弘(でぐち・ゆうこう/作家・フランス文学)の【『花影』の謎】(「ユリイカ」/1994年11月号)という一文を読み、眼の醒める想いをした。

蛇足ながら、文藝別冊・総特集「小林秀雄」(河出書房新社/2003年8月)所収の仲俣暁生(なかまた・あきお、1964年生まれ、フリー編集者・文筆家)の【遊星から墜ちてきた「X」の悲劇】が抜群におもしろかった。

※引用文に一箇所空白がありますが、元の文章はつながっています。
 幾度試みても、なぜかアップするとこうなってしまいます。












〔付記――杉本圭司というひと〕

じつは杉本さんは小向さんと富永太郎についてやりとりを重ねた「小林秀雄實記」というサイトの運営者である。ただいま改訂中ということで閉鎖しているので閲覧できない。ご本人のコメントをいただいたので、ここにお名前を明記した次第である。
小林秀雄の愛読者でもないわたしが「小林秀雄實記」とひょんなことでかかわりをもったのは、杉本さんが自他ともに認める"小林秀雄おたく"であるにもかかわらず、小林秀雄批判や、小林秀雄以外の話題についての投稿を受け入れる度量があったからにちがいない。
頻繁に掲示板に醜態を晒していることに対し、ジレンマに苦しんだわたしの投稿に対する杉本さんの返信を、勝手ながら転載させていただく。
だからといってわたしのジレンマが消失したわけてではない。が、サイト管理者のひとつの姿勢をみたと思ったし、杉本さんの"得体のしれない柔軟さ"を再認識したのである。

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投稿者 : 杉本(2005/4/4)

> 「小林秀雄實記」掲示板という磁場で、小向さんとの共犯関係のなかで富永太郎を育てあげるという傍迷惑な作業は、大岡氏の文章を精読することをわたしに迫ってきます。結果として、大岡氏の太郎へのまなざしがダイレクトに伝わると同時に、その洞察力にはしばしば圧倒されました。評論家にはない、作家の眼力です。

この掲示板で、小林秀雄以外の話題で盛り上がりがあることは、管理者としては、とても喜ばしいことだと思っています。この掲示板は、街中の公園みたいなもので、好きな時に勝手に入って、遊んだり、一服したり、ひとりごちたり、あるいは、トランペットの練習をするなり、野宿するなり、何でもご存分にご利用ください。外から飛んできた種が実を結ぶっていうのはいいものです。
……………………………………………………………………………………………

miko3355 at 18:07│TrackBack(0)富永太郎 

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この記事へのコメント

1. Posted by 杉本   2005年11月16日 11:29
司馬遼太郎の言う「太郎にとっての忠三郎」ですが、私にもそういう友人が一人おりますので、よくわかります。彼にしてみても、まあ似たようなところはあるのでしょうが、私の方がはるかに我儘だから、「煙突」役になってくれるのは大抵彼の方です。(「煙突」というのは、学生時代の小林秀雄が河上徹太郎を評した言葉、つまり「君がいるとよく燃える」という意味)

梶井基次郎の手紙も興味深かったです。ご紹介ありがとうございます。
2. Posted by 杉本   2005年11月16日 11:30
さて、私に振られたテーマについてですが、まず、小林秀雄のこういう発言は、字面どおりそのまま受け取ってしまってはいかんのです。実際に聞きに来た人がいたとしても小林秀雄はおそらく話さなかったはずです。何より、当の郡司さんにさえ話さなかったのですから。郡司さんも、あれだけ身近にいて、信頼を得ながらも、辛抱強く、じわりじわりと、搦め手搦め手で、やっとあれだけのことを聞き出したのです。最晩年に、「自伝」を書く約束をしたというエピソードなどもあるのですが、もっと長生きしていたとしてもやはり書かなかったと思います。

「祭り上げられた窮屈さ」ということについては、小林秀雄自身はそういうものはおそらく全然感じていなかったのではないかと思います。それよりも、晩年になるにしたがい、我が道を進もうとすればするほど愈々孤独になっていく自分というものを痛切に感じていたと思います。
3. Posted by 杉本   2005年11月16日 11:31
最後に蛇足ですが、そこの「二人の関係」というのは「中原中也と小林秀雄」の関係のことです。その後で、「あの女」との関係も全部しゃべると言っていますが。
4. Posted by 杉本   2005年11月16日 11:36
と思ったら、私のことが……

いや実際、今度は私が一服させてもらっているわけです。
5. Posted by 小向   2005年11月16日 13:19
mikoさんは中原中也がお気に召さないみたいですね。太郎との仲は二人だけにしかわからないことですが、僕はお互いに尊敬し合っていたのではないかと思います。
以前にも書きましたが、中也の散文はとても魅力的です。
「我が生活」では秀雄に泰子を取られた直後のことが書かれています。リアリティがありますよ。
http://www.asahi-net.or.jp/~sd5a-ucd/freetexts/NAKAHARA_Chuuya/wagaseikatu.htm.sjisx0213
6. Posted by miko   2005年11月16日 17:27
杉本さま

じつはあの箇所は全文引用するつもりだったのですが、本エントリーはまとめるのに手間どりまして、引用する余力を失いました。ご指摘の箇所はあとで挿入し、自分でもアレ? と思いながら、流してしまいました。
ご指摘ありがとうございました。
そういうわけで、エントリーに追記しました。

最近、livedoorの検索機能をつけたのは、アテにならないのに、おもしろい動きをするからなのです。
そういうアテにならないのも好きですが、畏るべき人間検索エンジンの杉本さんも好きです。
やはり辣腕刑事のような執念がありますね。(本日のMLの感想)

7. Posted by miko   2005年11月16日 17:30
杉本さま 

このコメント欄は窮屈なので、まとまった文章のケースは、メールで送っていただけませんか。
カテゴリを新設したいのです。
「杉本圭司雑記帖」なんていかがですか。
同意してくださるのなら、ご自分でお考えください。

よその公園で遊ぶのもいいものですよ。
杉本さんに、ぶらんこは不要だと思いますけれどね(笑)。

「小林秀雄實記」が再開しても、ふらーっとやってきて、一服していってください。


8. Posted by miko   2005年11月16日 17:43
小向さま

中原中也については、わたしの体内にアレルギー因子がインストールされてしまったという感じです。
わたしは生理的感覚で生きている人間ですので。

杉本さんにも提案したのですが、コメント欄に字数制限がありますので、よろしかったら小向さんのカテゴリも新設させていただけませんか。
カテゴリ名はお好きなのをお願いします。

といいますのも、当blogは「小林秀雄實記」が閉鎖されていなければ、生まれていないのです。

小向さんのエントリーに対してわたしがコメントし、文章量が多い場合は、べつにエントリーするというスタイルを考えています。
おたがいに無理のないペースで、というのはいうまでもありません。
ご一考ください。
9. Posted by 杉本   2005年11月16日 22:41
 この小林秀雄の発言は、実際にしゃべるつもりか否か、ということよりも、自分の過去に対する態度というか覚悟の表明だと私には思えます。それは、この証言を読んだ感想というよりも、これまで読んできた小林秀雄の文章や発言などからの帰結です。例えば、小林秀雄が嘗て書いた次のような言葉の反映として「全部、話すよ」と言っているように思える、ということです。

”私の過去が、現在の私の心のうちに現存する実在であり、間違っていたからとか、嫌だからとか言って、これを忘れようとしても、向うで私を忘れてはくれない事をよく知っている。私は、過去を好都合に利用する僅かの自由は持っているが、過去の重さを勝手に軽くする力など、私には全くない事をよく知っている。誰もが、自分の全過去を背負って生きている。この重みに堪えている力が、そのまま未来へぶつかって行く力ではないか。断絶などは何処にもない。”
10. Posted by 杉本   2005年11月16日 22:47
 どんな文学者の場合でもそうですが、あるとき○○がこう言った、という発言(本人が言おうと他人の証言であろうと)を捕らえて、「だから…」と話を進めようとすると、ほとんど場合、誤りますね。「この人はこんなことを言っていたのか!」と驚いているうちは、とくにそうです。人は、日常生活ではそういうことを重々承知しているはずなのに、活字となると途端に躓くという習性がある、というようなことを(ちょっと違いますが)小林秀雄も言っています。とくに小林秀雄は、字面だけで読もうとするとあらゆる発言にそれと矛盾する発言が見つかる、といってもいいような人です。この郡司さんの証言にしても、同じ郡司さんに対して「一生ここのところは喋るまいと決心した」と言ったという証言もあるくらいです。
11. Posted by 杉本   2005年11月16日 22:50
 カテゴリ化の件は、せっかくですがご遠慮しておきます。「一服」した吸殻を集めて保存されても困ります(笑)
文字数もそうですが(これは管理者の設定?)、クッキーが効かないのが不便ですね。(名前やURLを毎回入力しないといけない)
12. Posted by miko   2005年11月17日 07:32
杉本さま

カテゴリ化の件は了解。お騒がせしました。
自分でも不自然さを感じていましたので、余計なことを提案したという自覚はありました。じつは、杉本さんがコメントをくださったこと自体に意外性がありました。ほんとですよ! 
【富永太郎の祥月命日】をアップしたせいではないかと、自分なりに考えていました。
とはいえ、杉本さんに対しては「提案→拒絶」だけが財産なのかもしれません、例の件も含めて。じゃあ無意味なのかというと、そうでもないと思っています。

コメント欄の「情報を記憶」をクリックしても、記憶されないみたいですね。
字数については設定できないみたいです。
「小林秀雄實記」の掲示板は、ほんとに重層的な構造でしたね。杉本さんの狙いがうかがわれました。

13. Posted by 小向   2005年11月17日 09:59
カテゴリに一つ入れていただけるという件ですが、何だかお恥ずかしいです。僕のブログは気が向いたときだけ書き込んでいますが、そんな感じでよろしければお願いしたいと思います。たいしたコメントはできないと思いますが、カテゴリ名等はmikoさんにお任せいたします。生活に無理のないペースで気長にやっていきましょう。
14. Posted by miko   2005年11月17日 11:58
小向さま

了承していただき、ありがとうございます。
恥ずかしいといえば、わたしもすべてが恥ずかしいのです。

「小林秀雄實記」の一時閉鎖にともない、杉本さんの計らいによって、われわれにはゆっくりしたペースでメールのやりとりがありましたね。
わたしの手許に『ヒットラーの子供たち』(ジリアン・ベッカー/昭和55年/日本工業新聞社)という本があります。もちろん杉本さんはヒットラーとは対極に位置していますが、小向さんとわたしは「杉本圭司の子どもたち」じゃないかという奇妙な錯覚に襲われることがあります。実年齢が飛んでしまいます。
事程左様に杉本圭司は年齢不詳です。

小向さんの書きこみがひとつに集まることで、またちがう風景がみえてくるかもしれません。

わたしは当blogが、雑誌の様相を呈してきたような気がしています。
15. Posted by 名鹿   2005年11月18日 04:50
5 どうもお久しぶりです。
カプリの22号に掲載されたエッセイ読みました。
感想は暮れの合評会のときにでもまたお話しましょう。
そういえば、今日書店で「TOKYO STYLE」という雑誌を読んでいたんです。そしたら、小林秀雄の特集にでくわしました。
写真入りで四ページほどに渡って氏のことが書かれていました。
僕にとってはなかなか興味深い内容でしたよ。
MIKO殿はもうご覧になられたでしょうか。
11月も終わり、初島も肌寒くなりました。
こんなときこそ小説を、ということで毎日創作に勤しんでます。
MIKO殿はいかがでしょう。創作には取り組んでおられますか?
16. Posted by miko   2005年11月18日 06:34
名鹿さま

ごぶさたしています。
名鹿さんのフォトエッセイは愉しめました。
厨房の奥に侵入するような感じで、サイトの「創作日誌」を拝読しています。現実世界でもネット世界でも人気者の名鹿さんですが、表の貌と裏の貌とのギャップが、創作のエネルギー源ではないかと推察しています。

小林秀雄の情報ありがとうございます。この空間に名鹿さんと杉本さんのコメントが並んだとしても不思議はないのですが、ちょっと感動してしまいます。
創作については、痛いところを突かれました。根が怠惰なうえに、当blogに時間を奪われ、生活が破壊されつつあります。
宿題がどんどんふえてゆき、そのどれもが大切なのですが、悪戦苦闘しています。
それらの起点が「小林秀雄實記」(厳密には前身の「小林秀雄日記」)であり、そこから放射されてゆく世界を、いまみつめているというわけ。
とくに小田昭太郎については、大きなテーマです。
17. Posted by 杉本   2005年12月02日 00:04
以下、ご参考までに。

「かつて私は、中原中也について、小林秀雄に聞きにきた者は、誰もなかった、と記したことがあった。しかし、これには、もっと詳しい説明を記しておくべきであった。小林秀雄は、しかるべき紹介者がいないと、初めての人には会わないことにしているのだが、この帰国後(※ヨーロッパ旅行から帰国したときに"過去はもう沢山だ"と漏らしたことを指す)は、さらに徹底してきたから、そこへ辿りつくことが、先ず一と仕事であること、(つづく)
18. Posted by 杉本   2005年12月02日 00:04
たとえ会えたところで、誰にも肝腎のところは喋らないから、聞かれないと同じ効果を呈すること、今日のように、中原のすみずみまで探求が行われていなくて、当時はただ、ただ彼の作品を読むことで充足していた時代であった、小林・中原の問題については、大抵の読者は大岡昇平の著作で、充分に間に合せがついていたのである。いくつもの要因があったことを私は付加すべきであった。」(郡司勝義「大岡昇平遠望」)
19. Posted by 杉本   2005年12月02日 01:19
ところで、ユリイカの鼎談で加藤典洋氏が大岡昇平から直接聞いたという証言によれば、昭46年に開かれた富永太郎展に小林秀雄は結局顔を出さなかったそうですね。小林秀雄はこのときのパンフレットに一文を寄せていて、今回の全集で初めて収録されましたけれど、その最後を、「懐かしさが油然と湧き上って来る。見たいと思う。」という言葉で結んでいるのです。それが、大岡氏が招待状を出して、今日来るか今日来るかと思って待っていたが最後まで来なかった。加藤氏には、「小林には詩とか小説を書く人間に対する嫉妬がある」と言ったそうですが、後に松涛美術館で富岡太郎展が開かれたときには、富永太郎の絵をちっとも見ようとしない小林秀雄は「少し異常です」とも書いています。
20. Posted by 杉本   2005年12月02日 01:23
富岡太郎展->富永太郎展
21. Posted by miko   2005年12月04日 04:08
杉本さま

コメント欄が長くなって読みづらいので、勝手ながら本日のエントリーとして返信させていただきました。
そこで杉本さんからいただいたメールの一部を無断で引用しました。不都合でしたら削除いたします。
勝手なことばかりして、ごめんなさい。