2006年01月11日

小田昭太郎著『クンサー』を読む

小田昭太郎著『クンサー』(情報センター出版局・1987/7/7)を読了。
なかなか時間がとれないのに加え、小田氏独特の堅牢な重い文体と濃密な内容のせいで遅々として進まなかった。が、残りの3分の2を一気呵成に読みおえたときには、ヘロヘロになったのである。

長篇の優れたドキュメンタリー番組を観たというのが読後感だが、臆面もなくいおう。
小田昭太郎はなんて魅力的な男なんだろう。

わたしがイメージしていた小田昭太郎像そのままが本書からたちあがってきたのは当然ともいえるし、稀有なことにも思える。
本書を読みはじめてすぐにわかったのは、小田氏が直感に秀でた映像人間だということ。そして思想が生理的感覚に裏打ちされていることから派生する強靱さがある。その生理的感覚は生来のものだろうし、身から落ちることがないぶんアテになるのである。
かつて石牟礼道子の『苦界浄土』を読んだとき、石牟礼道子はシャーマンだと感じたのだが、小田昭太郎も同列だという新しい発見をした。

1985年12月15日、小田氏は単身バンコクに飛ぶ。日本テレビのディレクターとして、クンサーを取材するためである。
クンサーはヘロインの生産地ゴールデントライアングルに君臨し「麻薬王」の異名をとる、幻の軍隊を擁する謎の人物で、これまで大勢のジャーナリストが彼へのインタビューを狙って動いてきたが、過去10年以上それを果たせたものはいないし、死者までだしているという。

取材スタッフは4人で、小田氏以外はフリーランス。馬淵直城(カメラマン・写真家)、キム・グウーイ(ジャーナリスト)、押原 譲(写真家)。馬淵氏を媒体として、それぞれがつながっている。日本テレビはこの企画を渋々了承し、小田氏以外のスタッフの身に何が起きても一切責任はとらないという契約書が馬淵氏との間に交わされたという。

当初はマレーシア政府が派遣する特使に同行取材すると聞かされていたが、現地で小田氏はキム氏から知らされる。4人は単独でタイ国境を隠密裡に越え、ビルマのシャン州に潜入するのだ。4人の身の安全をマレーシア政府は保障しない。

クンサー基地への案内人は、馬煊(マシヤン)氏という60年輩の中国人。この人物には滑稽な怪しさがある。わたしは馬氏が登場するたびに不安になった。

P.76より引用。
《ボクは死地に身を晒したい欲望に取り憑かれてはいたが、この取材で決して命を失いたくはなかった。ただ、命を賭すだけの価値をこれからの旅の中に発見できれば、それはそれで満足だと考えていた》

予定より延びていた出発日だったが、「翌朝、出発だ!」と"突然"知らされる。

タイの国際警備警察の検問所で、長いやりとりの末、キム氏と小田氏のパスポートを取り上げられ、他のスタッフの氏名・パスポートナンバーを書き留められたあと、ビルマには越境しないという建て前のもとに通行を許可された。(その手前にある検問所でも予想通りの厳重さだったが、結局は700バーツ徴収されたことで話がついた。この額は兵隊たちの約1ヵ月分の給料に近い)
その夜泊まった粗末な一軒家(アジト)で、不安材料には事欠かないのだが、とりあえず難関の検問所を通過できたという日の深夜。スタッフ全員が疲れ切ってすぐに寝息を立て始めたなか、小田氏だけが神経が妙に興奮しつつ外界に耳をそばだてている。部屋の片隅で、クンサーの兵隊が1名、護衛のために眠っている。
つぎの記述が妙に尾を引く。小田氏の心象風景がわたしの琴線に触れたからにちがいない。
p.104より引用。
《タイに来て以来、極度の緊張と興奮の連続するあわただしい毎日を送り、日常とあまりにもかけ離れた異次元の世界に浸っていたボクだが、この夜、初めて東京にいる二人の我が子のことを思った。日頃、東京にいてもその子らとあまり接する努力もせず過ごしてきた己の情の薄さと身勝手な愛の深さを知った。胸を締めつけられながらボクは寝袋の中に頭をもぐり込ませ、じっと息を詰め続けた》

艱難辛苦を経て小田氏たちはクンサーの基地にたどりつき、クンサーと会見する。
「クンサーに対する敵意に満ち溢れていた」という小田氏だが、クンサーと愉しそうに談笑しているかにみえる写真が1葉掲載されている(p.139)。キャプションは「クンサーに対してボクなりの挑発と皮肉は繰り返し試みた」。この小田氏の顔は、裏表紙の写真とは別人と思えるほどいい男に写っているのはどういうわけか。しかもクンサーと互角にみえる。
1時間半に限定されていた会見が、3時間余にわたって行われたということは、なにか相通じる要素があったのだろう。しかし両者には絶対にクロスしない一点がある。小田昭太郎のジャーナリスト魂とクンサーの商人魂だ。
わたしには、クンサーはどこまでもうさん臭い男にしかみえないのだが。クンサーが小田氏に「今度は日本の女を連れてきてくれ」といったというのも、興ざめだ。

p.147より引用。
《クンサーはアヘンをやめるための条件として海外からの経済援助が必要であることを熱っぽく訴えていた。彼のその計画に協力してくれる者は神にも等しいとさえ語った。アヘンという切り札をアヘン廃業宣言と引き換えに経済援助を手に入れようというのが本心なのだろうか》

基地に来て5日目、突然、取材の準備をするようにと促される。クンサーが待っているという。案内されたのは宿舎からすぐ近くの畑で、十数名の兵隊たちに混じってクンサーが鍬を振るっている。私生活を取材したいと申し込んでおいた返答だという。
クンサーは経済援助を必要としていることを重ねて訴える。
クンサーが履いていたゴム草履を投げ棄て、「俺は裸足でも歩けるぞ。あんた方金持ちにはこんなことはできんだろうが」と大笑いした場面が、わたしには妙にリアルだった。芝居がかったなかに真実が含まれているような気がする。貧しさから這いあがった人間が巨万の富を得たケースに間々みられる、一種の哀しさを感じるのはわたしの偏見だろうか。まったく同情する気にはなれないし、クンサーの生い立ちの真実は知らないけれど。

p.296〜p.300に記されている小田氏のアヘン吸煙初体験とアヘンについての考察は、興味深い。

12月30日、小田氏たちスタッフは基地を離れる。
命よりも大事なクンサー取材のビデオテープは小田氏の手から離れ、アヘンルートでチェンマイのクンサーのアジトまで運ばれる。
小田氏の乗る馬を曳いたのは14歳の少年兵。出発が急だったため、前日、荷役に使われて休息をとっていないので、どの馬も疲れている。
和紙を漉いていたトーンアン村で一泊する。
翌朝、まだ薄暗いうちに起こされる。兵隊たちはすでに出発準備を整えている。
午後1時をすこし回ったころナップポーン村に到着する。少年兵は親切にも、農家の縁側前のコンクリートの上に降りられるように配慮してくれた。
いよいよ終わった。この一瞬の油断のため小田氏は落馬し、左腕を脱臼する。これは逆にいうと、小田氏の力量を超えて動こうとする衝動を抑制する意味で、のちにプラスに転化したようだ。
小田氏たちの馬を曳いていた5人の兵隊とは別に、何人かの兵隊が忍者のように護衛してくれていたことに、はじめて小田氏は気づく。

この村から四輪駆動のピックアップに乗り換えて、来た時と逆のコースを戻るのだが、難関はタイ警察軍のチェックポイント。あくまでもシャン州には潜入せず、タイ領の村々を取材したことになっている。馬淵氏はダミー用のビデオを撮影するために、休む間もなく村の中を飛び回っていた。
荷台に11人の男が乗り込む。スタッフ以外は、村人を装ったクンサーの兵隊たち。

国境警備兵と"村人"の応酬が20分以上続けられた後、責任者と思しきタイ兵が四輪駆動の座席に、M16を手にしたもうひとりが荷台に荒々しく乗り込む。
メーホンソンの警察本部に連行されるまえに、そのタイ兵を買収できるかどうかに望みはかかっている。それはキム氏と馬氏の役目だ。
1時間以上の交渉の末、キム氏が小田氏のパスポートを持って現れた。1冊のパスポートにつき500バーツ、5人だから2500バーツで折り合いがついた。日本円にして2万円。タイ兵の給料は1ヵ月700バーツ。
責任者のタイ兵は、小田氏たちひとりずつに握手を求め、メーホンソンまで護衛していくという。メーホンソンまで車で2時間余り。途中にもう1ヵ所ある検問所は何事もなく通過できた。
12月31日の夜だった。

  *

翌年の1986年3月、小田氏はスタッフ4人がタイ軍の最高司令部から指名手配になっていることを知る。そして2週間にわたって放送した2時間余りのアヘン地帯の記録番組の放送を終えて2ヵ月経ったとき、クオンさん一家が何者かに惨殺されたという知らせが入る。

p.318〜p.319より引用。
《その番組は、麻薬地帯の現状を知らせると共に、クンサーの言い分を全面的に打ち出し、少数民族が大国の思惑に翻弄される姿を伝えようとしたものだった。それはつまり、アヘンがいかに政治的な存在であるかを語るものでもあった。そして番組の中にはクオンさんも王敢勤も登場している。いずれも顔は隠したが、関係者が調査すればその話の内容からそれがだれであるかは判明する可能性は大いにあるだろう。
 とすれば彼らがテレビ番組の中で、ある組織にとって都合の悪いことについてしゃべったり、アヘンの売買やアヘン精製など秘密の現場をボクたちに取材させたことなどが原因で殺されたと考えざるを得ない。何か他の理由で殺されたのだと思いたかったが、どう考えてみてもボクたちの取材が原因であることはほとんど間違いなかった。
 (略)
 ボクはうかつにも罪もない人たちを大勢殺してしまったのだ。クオンさんも王敢勤も生命に危険があることを承知し、それでも綱渡りのようにそれぞれの勢力のバランスの上を巧みに歩き続けていたのだが、ボクたちがおそらくその綱を切ってしまったのだ。殺害された人たちにはなんと詫びれば良いのか、また詫びて済むことではないのだが、麻薬を巡る世界が本当に恐ろしいことを改めて身に滲みて実感したのである》

小田氏たちがメオ族の住むケシの里・ウン村滞在中、宿泊から食事まで世話になり、ウン村を案内してくれたクオンさんから小田氏は、タイの風土に適した品種のメロンの種を調べて送ってほしいと頼まれていた。食事を作ってくれた奥さんは料理上手で、(殺された当時)7ヵ月の胎児を宿していたという。
クオンさんの家には、夫婦の他に流れ者の若者でアヘン中毒者の王敢勤、女房に逃げられた子連れのやもめが寄宿していて、クオンさんが面倒を見ていた。クオンさんは本名を馬烈光という中国系のタイ人で、電気も水道もひかれていない貧しいメオ族の村に不似合いな立派な家に住んでいた。山小屋風だが、水洗トイレから湯の出るシャワーまで完備されている。クンサーとの繋がりがあり、「童顔で朗らか、賢く機知に富んだ男」だと小田氏が形容している謎に満ちた人物だ。

クオンさんの案内でウン村からさらに奥に入った、メオ族が住むパンケア村で案内してもらったケシ畑の光景を、小田氏はつぎのように記している。
p.47〜p.48より引用。
《これが麻薬地帯なのか!
 背丈一メートルばかりのスーッと真っ直ぐに伸びた細い茎に支えられて、その頂に深い赤と言えばいいのか濃いピンクなのか、チューリップのようでいて、それよりももっと可憐で清楚な花弁をつけ、一斉に招くように揺れている。それはいかにも儚く妖しい女たちの群れにも似ていた。そんな花々に混じってポツン、ポツンと所々に純白や紫の花弁が顔をのぞかせている。この美しい草花の精に魅せられて人は廃人と化していくのだろうか》

本書に登場する人物のなかでわたしが惹かれたのはふたりだ。
ひとりは、ナップコーン村からクンサーのいる基地まで小田氏の乗った馬(正確には騾馬)の手綱を曳いたタイシー(シャン人で15歳になったばかりの少年兵)。この10時間の地獄の行程は、読んでいて息が詰まった。
もうひとりは、シャン州のケシ畑を撮影させろと詰め寄った小田氏に、呆れたような、哀れむような表情で、「ミスター・オダ、オマエハ、プロダ」と捨てゼリフを残した、タイ革命軍兵士のクーンサイ中佐。その意味は、村で取材している時から小田氏が滅茶苦茶に疲れているにもかかわらず(当人は疲労度に無自覚)、歩いて3時間かかっても良いから別のケシ畑に案内しろと強引に抗議したことに呆れたと同時に、その意気込みに惚れたとのこと。
本書を読んでいてわたしが唯一笑ったのは、この場面だった。


小田昭太郎の骨子だと思える記述がある。
P.375〜p.379より抜粋。

《この取材の発端ではボクは、麻薬王クンサーなる怪しげなる人物と、一度足を踏み入れたが最後、生きては帰れないと噂されている黄金の三角地帯と呼ばれるケシ栽培地帯に魅き寄せられたにすぎなかった。
 しかし、そこで実際にボクが見、聞いたのは、単なる冒険小説の世界ではなく、必死になって生きようとしている生身の人々の群れだった。ビルマからの独立を願い長年闘い続けてきた闘志たちであり、貧困と略奪から逃れてきた若者たちであり、またボクが初めて眼にするような貧しい暮らしの農民たちの姿である。
 ボクたちの馬を曳いて何キロもの険阻な山道を黙々と歩き続けたタイシーら少年兵たち、そして彼らが時折見せる笑顔からこぼれる白い歯、幼い肩。麻薬のためになど、妻や子と離れてどうしてこんな辺鄙な山奥で暮らしていけるだろう、と淡々と独立への夢を語ったカムクー中佐、そして彼の厚い唇。自分の国が欲しいと熱い眼差しをじっと返してよこしたシャン人の若者、ケシ栽培なしでは生活が成り立たない、と虚ろな目でポツリつぶやいた村長。そのだれもが幸せとは思えない。そしてボクがまだ見ぬシャン州五〇〇万人のアヘンの民たち。 
 これらの人々の頂点にクンサーはいる。彼ら一人ひとりの希望や願望をクンサーはその背に負っている。クンサーはその重い責務をどのように受け止め解決しようとしているのか。ボクには、クンサーと彼を取り巻く人たち、それにシャン州七〇〇万人の人々の行く末を見届ける義務がある。それは十数年ぶりといわれるシャン州潜入を果たし、これらシャン州の人たちの姿に触れ、そのじかの訴えに耳を傾けてしまったテレビ屋のこだわりでもある。
 (略)
 これら過去の例をあげるまでもなく、現在なお麻薬利用は国家の中枢と深い関わりを持ち、国家ベースで動いているのだ。表向きの政治もその本質を探れば暗黒世界の事情と何ら変わるところのない表裏一体の関係だ。麻薬はすなわち国家であるが故に、その持つ意味を、価値を、働きを意図的に覆い隠されている世界なのだ。
 麻薬撲滅へ向けての願いを持つ今、麻薬が本来持っているこうした国家間戦略の構図を具体的に掘り起こし明らかにしていく作業が必要だと思える。
 それらの理由に加えて、クオンさんの死がある。ボクたちの取材がクオンさんら一家を死に至らせたのではないか、との深い悔恨がある。人を殺してはその取材の価値は全くないに等しい、と日本テレビのある上司から厳しく非難されたが、それに対しては弁解の余地はない。しかし、ボクはクオンさん殺害に直接手を下した組織を憎む。そして、クオンさんを殺害しなければならなかった仕組みの、たとえ一端でも鮮明にすることが、いまボクにできるささやかな仇討ちだと信じている。
 結局ボクはBOの申し出を受け入れることにした》

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■戦場カメラマンの馬淵直城氏は、『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造・講談社文庫・1985年)の巻末に「戦場での一ノ瀬君」という一文を寄せているので、読みかえしてみた。いい文章だ。『クンサー』を読んだことで、以前とはちがう視点で馬淵氏をとらえた。

■『阿片』(角川文庫・昭和27年)は、レーモン・ラディゲの死に打ちのめされたジャン・コクトーが阿片に救いを見いだし、解毒治療の過程を克明に綴った自己究明の書である。以前に読んだとき衝撃を受けたのは、訳者の堀口大學の「あとがき」だった。コクトーは解毒治療が成功したのちも、適当に阿片を愛用し、中毒に悩んだ様子はどこにもないという。
コクトーの回想。
「当時の僕は、絶対絶命の窮地にあった。僕は二つの自殺のうち、手軽な方を選んだ」

「 Drug War 」(2002年8月6日)
上記はクンサーを取材したというMK氏のサイトの一部だが、そこから引く。
悪事を働く人間は頭がよすぎる、という人類にとっての不幸がつづく。

《会議で出た情報で注目したいのは、麻薬の主流が、ケシを原料とするヘロインから、化学薬品エフェドリンを原料とするメタアンフェタミンに移行していることである。気候や土壌に左右され見つかりやすいケシ栽培から、エフェドリンさえ手に入れば簡単な機材でどこでも作れてしまうメタアンフェタミンへ、麻薬商人たちは乗り換えつつある。つまり、官憲の手の及ばぬ秘境ゴールデン・トライアングルが麻薬生産の本拠地である必要がなくなったということである。ワ州統一軍などが5年の猶予期間をもってケシ栽培をストップしたとしても、麻薬市場の大勢に影響がないほどにメタアンフェタミンは流通しているという。メタアンフェタミンはゴールデン・トライアングルでも生産されているが、その他にタイ・マレーシア国境近くの無人島などで生産工場が摘発されるなど、裾野の広がりが懸念されている》

■日本の若者に拡がっているドラッグ乱用を考えるとき、『クンサー』を読んでヘロヘロになっている自分が、優雅だとさえ思うのである。
そんな若者と格闘している水谷修という類い稀な人物について、以前から書きたいと思いながら打ち棄てている。近いうちに書くつもりではいる。


〔参照〕
クン・サーのミャンマー政府への「投降」

BurmaInfo――軍事・麻薬問題(メーリングリストがある)

アヘンとケシの科学
上記は「帝京大学薬学部 木下武司」のホームページの一部で、ホームはこちら


〔追記 2006/1/20〕
本エントリーに関する小田昭太郎氏の声を紹介させていただきます。
当の小田氏や閲覧者にとって、はたして意味があるのだろうか、という疑念を抱きつつアップしましたので、うれしく思った次第です。
2006/1/16付けメールより引用。

《クンサーを読んでいただきありがとうございました。またまた遥か遠い記憶の彼方にあった昔の自分に再会させて頂きました。気恥ずかしいけれど、妙に新鮮でした。あんな風に生きていたことがあったのだなあ。わずか二十年ほど前のことですのにね。ほんとうにご苦労をお掛けしました》










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