2006年01月18日

踏切  【エッセイ】

 昨年末に忘年会があり、その日は家をでるときから早めに帰りたいと思っていた。ところが10時すぎにみなが一斉に帰りはじめ、わたしとひとりの女性がとり残された。彼女は「こんなにみんなが早く帰ったことはない」とさびしさと怒りをぶつけた。
 場所は彼女の家の近くにあるスナックである。
 30分ほど雑談した。
「うちに泊まってもいいのよ」と幾度か彼女はいう。あすが月曜日であるため、泊まるとかなりめんどうなことになるのだった。わたしは返答ができず、曖昧な笑みを浮かべる。
 帰ろうとして立ちあがったとたんに、彼女は足元がぐらつき、倒れそうになった。知り合いらしき女主人は近くにある踏切が心配らしく、
「あの踏切で何人ものひとが死んでいるのだから」
 というのを聞いて、わたしは慄然とした。
「家までわたしが送ってゆきますから」  
 わたしは女主人に声をかけて店をでた。
 
 すぐそこに踏切があった。
 わたしは細腕で彼女のからだを支えながら渡ろうとした。彼女の足の動きが、信じられないくらいのろい。遮断機が降りてくるのではないかという恐怖に襲われながら、ゆっくり渡りおえた。酔っぱらった彼女に危機感はない。

 安全圏に到達してから、わたしは笑いながらいった。
「あそこで死んでたら新聞に載るわよ」 
「わたしはいいけど、あなたはいやでしょう?」
 彼女がわたしの顔を覗きこんでそういうのを聞いて、どきりとした。真顔だったからだ。わたしはその問いをかわすように軽口をたたいた。
「わたしが死んでも泣いてくれるひとはいないけどね」
 人間はだれもが孤独なんです……といいたかったのだが、通じたかどうか。同時にふと考えた。
 悪いけれど、わたしは彼女と一緒に死ぬのは遠慮したい。いままでだれかと一緒に死にたいと考えたことはなかったが、だれとだったら死んでもいいのかと考えると、だれの顔も浮かばなかった。
 しかしいま、あらためて問うと、ひとりの人間の顔が浮かんできて、わたしはたじろぐ。そのひとはそんな誘いを他者に発する人間ではないし、ましてわたしがその対象になることなどありえない。だが、そんな誘いを受けたら、条件反射のように同意してしまいそうな自分がそこにいる。それは一緒に死にたいというより、それほどそのひとを肯定しているということの証しだと気づく。ベクトルは生にむかっているが、死の影が貼りついているといったほうが正確か。
 
 しばらく歩いていると駅があり、彼女はそこから帰るように促す。家まで送っていくといっても、なかなか承知しない。わたしは強引に駅の横を通りすぎる。
 突然、彼女が転んだ。あっ、と思ったが遅い。酔いのせいか、スローモーションのようにまえのめりに倒れこむ。しばらく起きあがれないので、わたしは焦った。やっと起こして、彼女の汚れた手のひらを、わたしは自分の手で払った。子どもに対してするような仕草で。潔癖性のわたしには信じられない行為だった。
 痛いところはないかと、幾度も訊ねる。
 「ない」という答えが返ってくるが、酔っぱらいの言なので信用できない。
 
 ようやく彼女のマンションに到着した。
 エレベーターに乗り、彼女の部屋のまえに立つ。時計をみながら、わたしが帰れる時間なのかどうか、しきりに気にしている。
 いやな予感がしたのだが、今度は鍵がみつからない。ふたつのバッグにはたくさんのポケットがあり、それらを酔った手で探る。わたしはひとのバッグに手をだすことができず、ただ見守っている。
 やっと鍵がみつかり、ふたりで安堵する。
 わたしはドアを開き、玄関の灯りをつける。
 彼女は玄関に入ってわたしの顔をみつめ、
「泊まってもいいのよ」となおもつぶやく。
 黙って彼女の顔をみつめていると、
「どうしてそんなにやさしいの?」
 という声には怒気が含まれていた。これしきのことで"やさしい"といえるのか。それほどひとびとは世知辛いのか。
 独身主義者のわたしが結婚をし、おまけにふたりの子を生んでいる。独身主義者にもみえない彼女が独身を通している。わたしが彼女であってもおかしくないのだ。逆の立場であれば、わたしはどんな人間になっていただろう。この場面で、どんな言葉を吐くのか。泊まってほしいと願っても、口にはださないだろうということだけは想像できる。

「ちゃんと鍵をかけてね」
 そう連発しながらドアを閉めた。カチャッという小さな金属音を耳にし、後ろ髪を引かれる想いを払拭するように人気のないエレベーターにむかう。

 翌朝、彼女から電話があった。会話については記憶にないと、あっさりしている。捻挫でもしていないかと案じたが、なんともないらしい。
「最近、酔うと転ぶので、幾度も肋骨にひびが入っている」
 と事もなげにいうのを聞いて驚愕する。
 
 呑兵衛なのだと彼女はいうが、わたしの知る呑兵衛をみていると、そうはみえない。もしかしたら呑兵衛の仲間入りをすることが、彼女の存在意義なのかもしれない。
 
 
 

miko3355 at 15:58│TrackBack(0)小品 

トラックバックURL