2006年04月07日

最終電車  【エッセイ】

 過日、おいしいお酒をのむ機会に恵まれ、時を忘れて語りあった。最終電車に間にあうかどうかという時間帯だったにもかかわらず、乗った電車がなぜか反対方向だった。いつもぼうっとしているわたしには、たまにこういうことがある。途中でそのことに気づいたが、最終電車だったため超満員だった。
「降ります、降ります!」
 わたしは無様な叫び声をあげた。
 周囲にいたドア付近の人間は、20代〜30代の男ばかりで、全員が黒の上着を着用している。すぐ横にいた男が、露骨にいやな顔をした。ほかの男たちは動く気配がなく、黙りこんでいる。
 同じような状況になったのは、もう15年ほどまえだっただろうか。そのときにはわたしの言葉にひとびとが反応し、降ろしてあげようという動きがみられた。今回は、ひとが黒い岩のように立ちはだかっている。
 もしここで人身事故が発生したら、舌打ちする人間がいても不思議はないという空気が、車内に充満している。

 もしかしたら降りられないかもしれない。帰るつもりの自宅からどんどん離れてゆく。どこまで連れていかれるのだろう……と、車外の闇に眼をやる。
 ようやく駅に到着した。ドアが開いたとき、わたしは黙していたにもかかわらず鈍いひとの動きがあり、さきほどのわたしの声は彼らに届いていたのだと知らされた。ホームに降り立つわたしの顔を、ホームに押しだされた男たちのひとりが確かめるようにみたが、悪意は感じられなかった。

 ホームで反対方向の電車を待つ。これも最終電車だ。自宅の最寄り駅の数駅手前だが、間にあっただけマシだ。すべてタクシーを利用すると、1万円ほどかかるだろうから。
 かなり長時間待ったのちに乗りこんだ電車のなかで、ふと東電OLのことを想起した。
 わたしには東電OLだった泰子さんのことがまったく理解できないけれど、ずいぶん遠回りしたなあという気分の車内で、彼女の"居場所のなさ"が身にしみた。というのも、わたしが泰子さんに関して読んだもののなかで最もなまなましかったのは、「文藝春秋」(2001/6)に掲載された椎名玲氏(フリーライター)の一文だったからだ。
 椎名氏は平成8年の10月から12月まで、ほぼ毎日のように泰子さんと同じ電車(京王井の頭線、渋谷発零時34分の吉祥寺行き最終電車)に乗りあわせ、彼女と同じ西永福駅で降り、同じ街で暮らしていた。泰子さんは平成9年の3月に殺されているので、生身の泰子さんを知る椎名氏の証言は、真に迫るものがある。

 藤原新也(作家・写真家)が東電OLについて言及したものを読んだことはないが、「COSMOPOLITAN」(2002/12)に掲載された夜の道玄坂地蔵のモノクロ写真は、妖しく、神秘的な生命力が感じられる。
 この道玄坂地蔵のまえで泰子さんは客を引いていたという。肉体的にも精神的にも娼婦にむかない彼女が、1日4人というノルマを自らに課し、毎日最終電車で帰宅していたというのは、なんとも傷ましい。そうして稼いだお金は、すべて貯蓄していたらしい。敬愛する父親を早くに亡くしたため、財力に対する執着があったのか。あるいはそれが泰子さんの金銭哲学だったのだろうか。   

 電車を降りると、「すべての路線において電車は終了しました」というアナウンスが流れた。なにやら世界に見放されたような自分をもてあます。わたしがほんとうに帰りたい場所は奈辺にあるのか。
 タクシー乗り場は閑散としていた。乗りこんだ瞬間、車内に澄んだ空気を感じ、安堵する。20代の運転手は清らかで端正な顔だちをしている。応対に卒がなく、驚くほど運転が巧い。肉体的に消耗していたので乗り物酔いするにちがいないと思っていたのだが、じつに快適だった。
 目的地に着くと、わたしは料金を上回る新券の2千円札を数枚さし示しながらいった。
「運転がお上手ですね。これだけお渡ししますから」
 彼は軽く驚きながらも、凛とした態度は崩さない。わたしがいままで乗りあわせた運転手のなかで最高に質がよい。言葉づかいを含め、一流のビジネスマンとしても通用しそうな雰囲気を醸しだしている。背広が似合いそうだ。なにか理由があって、一時的にタクシーの運転手をしているのだろうか。
 そんな彼への賞賛とともに、さきほどの満員電車でのマイナスエネルギーを払拭したかった。だが、彼にわたしの真意は伝わらなかっただろう。それでいいのだ。紙幣なのに市場に流通していなくて、手垢のついていない新券の2千円札は、彼に似つかわしい。中年になっても同じ職業に就いていたとして、彼が変質していないことを願うのみだ。

 わたしはタクシーのなかでお釣りをもらうのに抵抗があるので、「お釣りはけっこうです」というのはよくある。以前はあたりまえという反応だった運転手が、最近はそのことに驚くケースが多い。不況のせいで、そんな客が減っているのだろうか。しかしその夜のように、料金をかなり上回る額を払ったのは、はじめてだった。
 最近の中年のタクシー運転手は、当然知っているべき建物を知らないし、知らないということに対する恥じらいもない。そんな人間と密室に閉じこめられるのは、かなり苦痛だ。しかし彼らの劣悪な職場環境を考慮すると、立腹できない。
 事はタクシー運転手に限られないから、厄介なのだ。日本人全体の病いとして、プロ意識が失われているという時代性がある。それゆえ、たまにきっちりした仕事ぶりを眼にしたとき、感動してしまう。

 そういえば、一昨年の秋、わたしは親切な若者に遭遇した。。
 車内はほどよい混みかげんだった。わたしはドア付近に立ち、いつものように車外の景色をぼうっと眺めていた。右肩を親しげにたたかれたので、どきりとした。知りあいが乗っていたのかと思ったのだ。振りむくと、おしゃれな毛糸の帽子をかぶった演劇青年のような背の高い若者が、さわやかな笑顔を浮かべていった。
「あちらが空いてますよ」
 2メートルほど先にたしかに空席はあったが、その付近に数人のひとが立っている。その距離までわたしがのこのこ歩いてゆくのは不自然だ。
「すぐに降りますから」
 わたしがそう応えると、彼は笑顔で受けた。
 気が重くなる所用の帰りだったので、彼の親切にわたしの気もちは和んだのだが、それが彼に伝わるはずがない。不意打ちを食らった場合、ひとはぶっきらぼうになるのかもしれないが、想いを伝達するのは意外と困難だ。また、ひとの表情から内面を読みとるのも、限界があるように思う。内面とは裏腹な表情もあるのだから。


〔参照〕
東電OL殺人事件を契機に書き継がれた連作詩篇
空室(1991──2000)』(柴田千晶/ミッドナイト・プレス)

上記詩篇は、東電OLを詩的に昇華させながらリアリティーがある。
柴田千晶氏の感性がわたしは好きだ。氏が詩人として正当な評価をされる日を待ち望んでいる。

miko3355 at 23:25│TrackBack(0)小品 

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この記事へのコメント

1. Posted by 小向   2006年04月10日 12:44
 こんにちは。東電OL事件は非常に気になりました。この事件は事件名しか知らなくて東電とは電車の路線名のことかと思っていました。
 1日に4名の客を取ることを日課にしていたというのが不思議です。子供の頃から目標を掲げて実行することを生き方の第一にしてきたからではないかと思いました。
 東京電力という大企業の社内の雰囲気がかなり影響しているのではないかと思います。人との暖かいふれあいがなく、男性も魅力的な人は少なかったのではないか、そんな気がします。
 顔写真を見ると普通の美人と言ってもいい人で、「私が幸せになれないなんておかしい」と本人はいつも感じていたのではないでしょうか。頑張り屋さんみたいなので、頑張る方向を間違ってとんでもない状況を作り出してしまったという気がします。
 
2. Posted by miko   2006年04月10日 20:54
小向さま

東電OL殺人事件については、発生当時は知りませんでした。遅ればせながら、佐野眞一著『東電OL殺人事件』(新潮社)を一気に読みまして、ほんとうに不思議な気分になりました。円山町という土地のもつ記憶には、侮れないものがあると思います。
現場には簡単に行ける距離に住みながら、なかなか足がむきません。文化村にあるコンサートホールには幾度か行きましたが、円山町については知りませんでした。
わたしには泰子さんの心理は理解しがたいのですが、なにかが潜んでいるように思い、探っているところです。年齢を問わず、女性に共通するテーマがあるような気がします。
3. Posted by 小向   2006年04月11日 11:20
 帰宅拒否衝動が原因だという見方もあるのですね。
http://www.porsonale.net/2006/02/ol_5cf1.html
 母親との関係が良くなかったという考えは説得力があります。
 社会の基本単位である家庭が居たたまれないものであるということは非常につらいと思います。
 父親をとても尊敬していて父親が亡くなってからの家庭の変化がそもそもの始まりかもしれませんね。
4. Posted by miko   2006年04月11日 12:18
小向さま

泰子さんについては、ひととおりのアングルから検証してみましたが、ますますわからなくなった、というのがわたしの正直な感想です。
エリートということになっていますが、泰子さんの目標が高かったぶん、挫折感は大きかったと想像します。
冤罪もからんでいますので、複雑な事件です。
佐野眞一著『東電OL殺人事件』をおすすめします。わたしは単行本で読みましたが、文庫になっています。
5. Posted by シャンティcoco   2006年04月14日 12:47
終電のけだるさ、思い出しながら読んで、酔っ払っている気になってしまいました^^
6. Posted by miko   2006年04月14日 16:55
シャンティcocoさま

柴田千晶氏の『空室』という詩集、ちょっと高価ですが、とてもいいです。
怖い詩的世界を構築しています。そこここに東電OLが潜伏しているという感じです。
表紙の円山町の写真は芸がないので、感心しません。


7. Posted by シャンティcoco   2006年04月22日 22:24
ありがとうございます。探してみます^^。
8. Posted by シャンティcoco   2006年04月27日 17:45
本屋で注文できたけれど、手に入らないということで注文を勝手に取り消されました(苦笑)。古本屋ででも出会ったら、見てみます^^。
9. Posted by miko   2006年04月27日 20:05
シャンティcocoさま

品切れだということですね。それは残念でした。でも、読みたいと思っていただいて、とてもうれしいです。
柴田千晶氏の詩篇の底にあるのは、触れると血が吹きだしそうな孤独感です。音のない世界。