2006年05月07日

梯久美子著『散るぞ悲しき〜硫黄島総指揮官・栗林忠道』

本書を知ったのは、新潮社のPR誌「波」に掲載された丸山健二の一文による。
丸山健二が絶賛していたので、著者の梯久美子は相当の書き手なのだろうと思ったが、その割にはこころは動かなかった。
ところが2005/8/17付け朝日新聞・夕刊に掲載された「文芸の風」第4部で、編集委員・由里幸子が、梯久美子にインタビューした記事を眼にし、読みたくなった。見出しは、〔「美学」と現実  言葉に酔った時代 抗した司令官に光〕。
ちょうどそのころ念仏の鉄さんのblogの戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。というエントリーに感心したわたしは、コメント欄で本書を紹介したのだった。1961年生まれの梯久美子も戦争を知らない世代に属するからである。そのときから感想を書きたいと思いつつ、内容の重たさにいままで放置していた。
本書が第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのをうれしく思ったのを機に、なんとか記しておきたい。読みおえたのが昨年の8月だから、もうすぐ1年になる。

わたしは、つぎの2本柱を軸にして読みすすめた。
〃林が新聞記者だったら、どんな仕事をしていたのだろうか。
◆崕々しい」栗林忠道を、どう肯定的に描いているのか。

,砲弔い討蓮∈能蕕縫┘團蹇璽阿鯑匹鵑任い燭らである。新聞記者になろうと思ったという栗林忠道は、上海東亜同文書院(当時ジャーナリストや外交官を多く輩出していた)を受験し、合格していたが、教師のすすめに従って陸軍士官学校に進んだ。とくに英語が得意で、外国回りの報道記者を志望していたという。
△砲弔い討蓮⊂綉新聞記事で、「お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です」という栗林忠道が家族にあてた手紙(遺書)を読んだ梯久美子が、
職業軍人とは男の美学を振りかざす。そう思っていたので、女々しいというか、その生活人ぶりにひかれたのです
と語っているからである。

梯久美子の文章は洗練されていて一気に読ませる筆力があるにもかかわらず、1日に数ページ読むのが限度だった。内容がとてつもなく重いからだ。
本を閉じるたびに、軍服には不似合いな穏やかな表紙の栗林忠道の顔写真にむかって、言葉にならない次元で話しかけている奇妙な自分がいた。
読みおえたときわたしの胸に迫ってきたのは、栗林忠道を貫いていたのは、ジャーナリスト魂ではなかったかという想いだった。梯久美子の筆は、軍人・栗林忠道の異色さを、さまざまな角度から検証している。
以下、印象深い箇所をあげてみる。

◆「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」

昭和3年から5年まで、36歳から2年間、軍事研究のためアメリカに留学し、国力の違いを実感していた栗林は、しばしば家族に「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」と語っていたという。
(昭和6年から8年まで、駐在武官としてカナダに滞在)

《栗林が硫黄島行きを命じられたのは、指揮能力を評価されてのことだというのが定説だが、アメリカ的な合理主義が嫌われ、生きて還れぬ戦場に送られたという見方もあるのだ》(p.62)

◆改変された栗林中将の訣別電報(昭和20年3月22日の新聞に掲載)

栗林の電文では、最初に将兵たちの戦いぶりが述べられているが、改変された電文では、「皇国の必勝と安泰」が強調され、「壮烈なる総攻撃」「将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ」という栗林の電文にはない言葉が挿入されている。
「宛然徒手空拳を以て」という部分が、完全に削除されている。

 国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

新聞に掲載された栗林の訣別電報の最後に添えられた3首の辞世の句のうち、1首目の最後「散るぞ悲しき」が、「散るぞ口惜し」と改変された。
梯久美子は「国の為」という語句にに言及していないが、栗林にとって「国の為」とは「国民の為」と同義であり、文字どおりではない。あえて強調しておきたい。

平成16年12月、梯久美子は、遺族らによる日帰りの慰霊巡拝に同行し、栗林が立てこもった司令部壕に入っている。訣別電報が書かれた場所である。
実際に地下壕の奥深く下りてみて、《栗林が選んだ戦法の過酷さが、あらためて胸に迫った》と記している。(p.155)

◆リベラリストだった栗林忠道

栗林は息子を陸軍幼年学校にいれず、陸軍士官学校の受験も勧めなかった。長男・太郎は、建築の道に進んだ。
太郎の証言では、52歳で出征した栗林のその直前の様子は、特に変わったこともなく、淡々としていたという。
「今度は骨も帰らないかもしれないよ」と告げられた妻・義井(よしゐ)も、そのときの夫の顔があまりにも穏やかだったので、それほど深刻には考えなかった。
陸軍中尉・栗林忠道が硫黄島へ向けて出発したのは、昭和19年6月8日である。家族に行き先は知らされなかった。

陸軍大学校を2番で卒業した栗林に持ち込まれた上司の娘との縁談をすべて断り、同郷の13歳下の義井と結婚した。大正12年12月8日、栗林32歳、義井19歳のとき。
硫黄島からの手紙には、いずれも妻への優しい言葉があふれている。

《なおこれから先き、世間普通の見栄とか外聞とかに余り屈託せず、自分独自の立場で信念をもってやって行くことが肝心です。 (昭和19年9月4日 妻・義井あて)》(p.233)

《栗林家に女中がいたのは東京の留守近衛第二師団長時代だが、ある日の夕食どきに栗林の自宅を訪ねた軍属の貞岡信喜は、女中も一家と同じ食卓についているのを見て驚いたという。当時ではまずあり得ない光景だった》(p.106)

◆"バンザイ突撃"を栗林は厳しく禁じた

硫黄島を奪取すれば、米軍は日本中のあらゆる都市に大規模な空襲を行うことができる。
栗林が着任したとき(昭和19年6月8日)、島に住んでいた1000人ほどの住民を、栗林は内地へ送還する。7月3日から始まり、14日までに完了。
硫黄島に慰安所が設けられなかったのは、栗林が難色を示したという説がある。

栗林が作成し全軍に配布した6項目の「敢闘の誓(ちかい)」は2万余の将兵に深く浸透し、その戦い方は米兵たちを震撼させた。
栗林が選んだ方法はゲリラ戦だった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。
しかし地下陣地の構築は、困難をきわめ、昭和20年2月19日に米軍の侵攻が始まったとき、地下陣地の完成度は約7割だったという。

硫黄島が陥落すれば、日本の都市が大規模な空襲に見舞われることを警告する内容の手紙を、栗林は妻に書いている。

◆握りつぶされた意見具申書?

昭和19年8月に大本営陸海軍部作戦部長の真田・中沢両少将が視察にやってきた際、栗林が早期終結を具申した書状を大本営に届けるよう依頼した、という逸話がある。信憑性は高いらしいが、真偽のほどはわからない。

昭和20年2月6日の時点で、大本営は「結局は敵手に委ねるもやむなし」と、戦う前に硫黄島の放棄を決定している。

◆栗林が発した最後の戦訓電報(昭和20年3月7日)

大本営宛に書かれるべき戦訓電報が蓮沼蕃侍従武官長(栗林の陸軍大学時代の兵学教官で、同じ騎兵科出身)に宛てて書かれ、大本営の方針に対する率直な批判を行っている。

《「取扱注意」―――細かな文字がびっしりと並ぶこの電報の冒頭には、筆文字で大きくそう記されている。大本営の手によるものである。栗林の戦訓が、この後の日本軍の戦いに役立てられることはなかった》(p.208)

◆勇猛果敢な指揮官・栗林がみせた"弱さ"

生還者の中で栗林をごく近くで見ていた龍前新也軍曹は、昭和20年3月17日の夜半、司令部壕脱出時の栗林の姿を「田舎の老爺が子供らに連れられて行く状態であった」と証言している。この夜、出撃拠点である来代工兵隊壕への転進だけが行われた。

梯久美子は栗林の気力をくじいたものが何だったかについて、つぎのように考察する。
・部下将兵に凄惨な戦いを強いなければならなかったこと。
・東京が前例のない無差別戦略爆撃を受けた事実を知ったこと。留守宅の家族の全員無事を栗林が知る術はなかった。

栗林は留守宅へ便りを出すことと送金することを奨励していた。
多くの遺族が戦地からの便りを形代(かたしろ)として大切に保管している。兵士たちもまた、家族からの手紙を心待ちにしていた。
栗林も兵士たちと同様に、妻子を守るために過酷な戦いができたのである。しかし一時的に憔悴した栗林であっても、最後の総攻撃に挑むエネルギーが減ずることはなかった。

◆最後の総攻撃(昭和20年3月26日)

指揮官は陣の後方で切腹するという当時の常識を破り、栗林は陸海軍約400名の先頭に立ち、自らが突撃。

《約3時間におよぶ激烈な近接戦闘の末、米軍に与えた損害は死傷者約170名。生き残った日本兵は元山、千島飛行場に突入し、そこでほとんどが戦死を遂げた》(p.230)

《戦闘の後、敵将の敢闘ぶりに敬意を表した米軍が遺体を捜索したが、階級章を外していたため発見できなかったという》(p.149)

◆『硫貴島の星条旗』の著者、ジェイムズ・ブラッドリー

平成16年秋、梯久美子はニューヨーク州ライにブラッドリーを訪ねた。

わたしが本書のなかで最も戦慄したのは、つぎのくだりである。これが戦争なのだと、背筋が寒くなった。

《昭和20年8月6日午前5時55分。すでに米軍の手に落ちて久しい硫黄島の上空を、北マリアナ諸島のテニアン島から日本全土に向かう一機のB―29爆撃機が通った。
「パイロットは、ただ通り過ぎるのではなく、島の上空を何度か旋回したそうだ。そこで命を落とした7000人近いアメリカ兵に敬意を表してね」
 そうブラッドリーは教えてくれた。
 爆撃機の名はエラノ・ゲイ。目的地は広島であった》(p.75)

◆謝辞

本書の巻末にある謝辞の末尾に、わたしは胸を打たれた。

《最後に、私たち次世代のために、言葉に尽くせぬ辛苦を耐え、ふるさとを遠く離れて亡くなったすべての戦没者の方たちに、あらためて尊敬と感謝を捧げたい》(p.241)

  *
  
クリント・イーストウッド監督が硫黄島の戦いを2部作で描いた映画が、日本で公開されるという。
アメリカの視点でみた「父親たちの星条旗」は10月に、日本の視点でみた「硫黄島からの手紙」は12月。
栗林忠道を演ずるのは渡辺謙である。
写真でみる限り、渡辺謙の眼は栗林忠道より強すぎる。戦場での栗林忠道は、どんな眼をしていたのであろうか。
話が飛躍するが、難易度の高い手術をする脳神経外科医や心臓外科医が、意外とやさしい眼をしていて、リラックスしているようにみえる。わたしには、栗林忠道も同列だという気がするのだが。
わたしがイメージしている栗林忠道像を、渡辺謙を通して検証してみたい。

  *
  
余談だが、石牟礼道子は、大宅壮一ノンフィクション賞第1回(1970年)『苦界浄土』での受賞を辞退している。自分なりにその理由を考えてきた。

坂本堤弁護士の母さちよさんが、1995年に第43回菊地寛賞を受賞した江川紹子さんについて、「あのひとは、わたしが一番つらいときに受賞した」と叫ぶのをTVで観たとき、軽い衝撃があった。それまで勇ましかったさちよさんが、息子一家の遺体が発見された直後に気落ちした姿は傷ましかったのだが、それにプラスされたという感じだった。これはわたしにとって、ひとつの盲点だった。

〔参照〕

石井顕勇「硫黄島探訪」

硫黄島の戦い―Wikipedia

硫黄島協会

メールマガジン「週間新藤」第54号(2005.04.25発行)
クリント・イーストウッド監督が映画化〜 祖父 栗林大将と硫黄島戦


同第96号(2006.3.20発行)
映画 硫黄島からの手紙〜祖父 栗林大将のこと


クリント・イーストウッド監督による前例のない2部作
『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』製作報告記者会見!!(2006/04/28)










miko3355 at 22:44│TrackBack(0) 

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