2006年06月13日

ETV特集 「もういちどつくりたい〜テレビドキュメンタリスト・木村栄文の世界〜」

ETV特集「もういちどつくりたい」(2006/06/03・NHK教育・22:00〜23:30)を興味深く観た。
恥ずかしいことに、わたしはドキュメンタリスト・木村栄文を知らなかった。
NHK福岡局制作の本番組は、2006年1月13日に九州ブロックで放映された、ふるさと発ドキュメント「もういちどつくりたい〜テレビディレクター 木村栄文の闘い〜」(NHK総合/19:30〜19:55)が、同年3月5日に全国放送(NHK総合/10:05〜10:30)されたのをもとに、取材をはじめた木村栄文を収めて再編集したという経緯らしい。
わずか25分だった番組が90分にわたって放映されたということは、視聴者の反響が大きかったのだろうか。

「ドキュメンタリーとは創作である」――その信念で40年TVをつくりつづけてきた男、木村栄文(きむら・ひでふみ)さん、通称エイブンさん、71歳。福岡・RKB毎日放送の名物ディレクターだった。
からだと言葉の自由をパーキンソン病で奪われながら、5年ぶりに1本のドキュメンタリーをつくろうとしている。

栄文 「うつくしくて哀しいものは視聴者に伝わりやすい」

「しょうがないんで、ギャグでもやるかい」といって、エイブンさんが眼を大きく見開きニッと笑う顔をズームアップ。
オープニングにこの映像を配置したところに、わたしは本番組の方向性を受けとった。

NHKディレクター・渡辺考さんはTVの世界に入って15年。2年まえ、ずっと憧れの存在だったエイブンさんが渡辺さんの番組を観たのがきっかけで、エイブンさんに逢う。名ディレクターからなにかを学ぼう、そんな気もちからエイブンさんの家に通うようになった。

ナレーションは柴田祐規子。時折、取材者・渡辺さんのゆっくりした口調で、よく通る声が加わる。
じつは女性ナレーターのなかで、わたしが最も好きなのが柴田祐規子。
客観的な柴田祐規子のナレーションと、主観が入った渡辺考の声が交錯する。それによって映像の色が変わり、心地よいリズムを醸しだす。

渡辺さんにとって、"賞とり男"と称され、TVマンとして十分すぎる仕事を成し遂げたように思えるエイブンさん。その日常を、2005年7月からカメラで追いはじめた。

わたしにとって意外だったのは、エイブンさんの番組づくりにおいて、妻の静子さんの存在が不可欠だということ。渡辺さんも同じだという。そんなディレクターは多くないと思うが、現状はどうなのだろう。
TV番組に限らず、ひとがものを創造するとき、ただひとりの人間を想定している、というのがわたしの持論だが、それが常に配偶者であるというのは幸せなことなのか。

以下、感じたままを記す。

番組づくりに不可欠な妻の存在

エイブンさんの仕事場は食堂のテーブルやリビングルーム。そこで番組の企画を練り、ナレーションの原稿を書きあげてきた。相談相手はいつも妻・静子さん。

栄文 「渡辺さんなんかは、ドキュメンタリーつくっていて、だれに批評を求める?」

渡辺 「妻の言葉を一番大切にしていますね」

栄文 「わかる。ウチがそうだから。カミさんに観せて。とくにナレーションはね。それは的確だね。ゴマすったりすると、すぐわかる。ちょっと遠慮したり、ちょっと皮肉をいったりすると、そういうところをずばっと指摘する」

静子 「音楽とナレーションが入るまえに観せてくれる。どう思うかと」

栄文 「社会派ですよ、社会派。ぼくは人情派だから。女房は社会派なんだ」

静子 「一番強烈だったのは『鉛の霧』。タイまで出かけていくですよ」

(昭和49年6月29日放映の「鉛の霧」。迫力ある映像が部分的に挿入される。インタヴュアーのエイブンさんが映しだされるが、飄々としている。それは相手に心理的負担をかけない技なのか、天性のものなのか)

「あいラブ優ちゃん」

「あいラブ優ちゃん」が放映されたのは昭和51年11月8日。先天的に股関節と脳に障害のある長女・優ちゃんを、1年にわたって取材した番組。
作 木村栄文。制作・著作 RKB毎日。
昭和51年 ギャラクシー大賞受賞。
優ちゃん・11歳、エイブンさん・41歳、静子さん・37歳のとき。

栄文 「もっとかわいがってやるべきだったね。それがわからなかった。通り一遍のものはありましたよ。だけど女房みたいに献身的にはなれなかった。僕には仕事という逃げ場があった」

優ちゃんは自分が映っている番組を繰りかえし観ていたし、エイブンさんが買い与えた人形を宝物にしていたという。

長女・優  昭和40年生まれ
次女・愛  昭和45年生まれ
長男・慶  昭和48年生まれ

平成6年放映の「木村栄文の世界」(NHK)で、エイブンさんは語る。
「コンクールに出すべき作品じゃないんです。だけど賞をもらって、あのときほどうれしかったことはない」

「あいラブ優ちゃん」の続編をつくりたい

11年まえ、妻の静子さんは自宅の一角でクリーニングの取次店をはじめた。この店で優ちゃんは5年間働く。小学6年生から描きつづけた油絵。
6年まえ、優ちゃんは脳梗塞のため亡くなった。
優ちゃんの遺骨は、まだ納骨されていない。自分と一緒の納骨を、静子さんは考えているようだ。

栄文 「あれがいたから仕事ができたんです。あれが一家の宝だった。僕じゃなくて。親はあっても子は育つ。ほんとに優のおかげで家族が固まった。それから自由に仕事ができた。いつも幸運を優がもたらした」

「あいラブ優ちゃん」の続編というライフワークを成し遂げるため、エイブンさんは最新の治療を受けることにした。脳の奥に電極を埋めこみ信号を送ることで、再びからだを動かせるようにする手術。

ドキュメンタリーとは自分の想いを描く創作

足をエステするとオフのからだがオンになるというので、エイブンさんは次女・愛さんにエステを請う。
愛さんはエイブンさんの両足にクリームを塗りこみ、アルミホイルで覆う。

 「撮られる側になったらどう?」

栄文 「ダメだね(笑)。サーヴィスしすぎると悪いと思うし、サーヴィスしないのも悪いと思うし。悩みですよ。ほとんどの仕事が、創った仕事でしょ。音楽ですよ、僕の場合。音楽が相当比重を占めますね」

静子 「『あいラブ優ちゃん』のとき思ったんですけど、ナレーションが重なって、音楽がそのひとの人生をうたう。でもふつうの生活は、音もナレーションもないんですね」

栄文 「ないよね。こういうときに、いいたいことや説明したいことがたくさんある。……いえない。言葉がつづかない」

オフになるとエイブンさんはカラオケでうたう。オンに切り替わることがあるからだ。
次女・愛さんがプレゼントしたというカラオケセットのまえで、エイブンさんは十八番の「石狩挽歌」(作詞・なかにし礼/ 作曲・浜圭介 /歌・北原ミレイ/昭和50年)をうたう。かすれた声で懸命に。

   ♪ 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
     赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
     雪に埋もれた 番屋(ばんや)の隅で
     わたしゃ夜通し 飯(めし)を炊(た)く 

九州大学病院にて手術(脳深部刺激療法)

2005年9月、手術室に入る直前の会話。

栄文 「さきを急ぐ。達者で暮らせ」

静子 「わかった、わかった。暮らすよ(笑)」

10時間後、エイブンさんが手術室からでてきた。
手術は成功。静子さんはつぶやく。
「あ〜あ。へたりこみたい」

1週間後、エイブンさんはうまく声をだせずにいた。
2週間後、退院。

2005年10月5日、からだの痛みはやわらいだが、思うように声はだせない。
ほとんど筆談。
エイブンさんは筆ペンで紙に書いたのを、みせる。

   焦燥感

息子との散歩で気分が好転

2005年11月19日、長男の慶さんがやってきた。東京の制作会社で、ワイドショーのディレクターとして勤めている。慶さんは、小柄で華奢な父親ではなく、大柄でがっちりした体格の母親に似ている。顔も母親似で、やさしい顔つきのエイブンさんとはちがい、ごつい感じ。

 「順調にあなたの息子は育ってますよ」

栄文 「そりゃ、おまえ、うれしいよ」

 「日々仕事をしていくなかで、お父さんはすごかったんだなあ、と思うんだね」

栄文(筆談) 「俺なんてペケ!」

 「親父はすごいひとだと思うんだけど、あんな時代はもうこないと、親父にいわれたんですよ。ドキュメンタリーは視聴率がとれない。スポンサーがつかないということは、番組がないんだと。いまの自分の悩み事をいうと疲れるのでいえないし」

静子さんが横から「家族なのだから、いうべき」という。

栄文(筆談) 「疲れた。それでは俺がつぶれる」

静子さんが「自分を奮い立たせるためには、昔つくった番組を観て、派手な服を着て」という。

慶さんはエイブンさんを散歩に誘う。
手術をして、歩けるようになったのだという。
鳥飼八幡宮(福岡市)にふたりは立ち寄る。
手術をして2ヵ月。この日を境に積極的に外出するようになった。

エイブンさんは、筆ペンで息子の肩につかまりながら散歩する絵を描く。自己をカリカチュアライズし、それを愉しんでいるようにみえる。

執刀医の九州大学助教授・宮城靖氏の診察を受ける。手術は成功したが、エイブンさんの言葉がうまくでるのはむずかしいという。
狭い診察室を歩いてみせるエイブンさんは、右足が震えるような感じ。宮城氏が「それは……」と笑いをこらえたような驚きの声。もしかしたらエイブンさんは、カメラを意識してサーヴィスしたのだろうか。
そのあとは、しっかり歩いていた。

優は俺だぞ

エイブンさんは優ちゃんを撮りつづけ、プライベイト用にまとめていた。油絵を通した人生。亡くなる1年まえまで絵筆を握りつづけた。

栄文 「僕らにとっては、優がいたことでどんなに幸せだったか。優に励まされ、優に女房みたいに感銘を受け、そして死んでいった」

2005年12月、エイブンさんの企画が民放で採択され、放送が決まった。
5年ぶりの取材に出かける朝、不安気な顔で緊張しているエイブンさん。

栄文 「おまえもこないか」
静子 「わたし、行かないよ。あのーって、横からいったらおかしいでしょう」

妻の腰の据わったリアクションに安心したのか、静子さんの肩を引き寄せて笑うエイブンさんの顔を、わたしは"カワイイ"と思った。
       
からだと言葉の自由を奪われても、優ちゃんの続編をつくろうとするエイブンさんについて、渡辺さんは「ドキュメンタリーを切り拓いてきた業のようなものを感じた」と語っていた。
正直なところ、わたしは「業」という表現を陳腐だと思ったのである。
民放の名ディレクターを、NHKのディレクターが取材して番組を制作する。そんな稀有なことに挑んだ渡辺さんに、もっと光る言葉を期待してしまうわたしは傲慢なのだろう。

番組を制作するプロセスで、エイブンさんの脳内にはドーパミンという報酬物質がでてくるだろう。それに自己のすべてを託すことで、エイブンさんは生き延びようとしているように、わたしにはみえる。
いま、エイブンさんは優ちゃんを輝かせることで、自己を生きなおそうとしている。「あいラブ優ちゃん」制作時より高次元で。
わたしが感銘を受けたのは、そんなふうにエイブンさんをとらえたからである。

本番組で紹介されたフィルムで、若いころの静子さんが語っていた。
愛がかわいいというエイブンさんに、優がかわいそうだといったら、「優は俺だぞ」といわれた。それ以来、愛がかわいいといわれても、気にならなくなったと。ということは、静子さんにとっても「優はわたし」なのだろう。

◆妻へのラヴレター

池田瑞穂絵画教室を取材したエイブンさんは、最後の授業で優ちゃんが青い空をじ〜っとみていた、その映像がず〜っと残っているという証言を得て、イメージを膨らませてゆく。

2006年4月17日、RKB毎日放送のスタッフ4人を率いてロケがはじまった。訪れたのは優ちゃんをよく知る画家の菊畑茂久馬宅。優ちゃんの絵の魅力についてインタヴューした。手放しで絵を賞賛する菊畑茂久馬氏。
この日、ロケは夜8時までつづいた。

渡辺 「ロケはいかがですか?」

栄文 「いいねえ。いいよ、やっぱり」

2006年5月9日。

白い模造紙をひろげ、番組の流れを筆ペンですばやく書きこんでゆくエイブンさんに、もの哀しい曲調「石狩挽歌」をカラオケでうたうエイブンさんのかすれた声がかぶさる。ナレーションはない。
泣かせる演出だ。しかしそれに素直に同調できないわたしの感性はおかしいのだろうか。なにかちがう……と感じてしまう。

   タイトルバック 優しいひとへ  
   
   あとは観てのお楽しみ


栄文 「実際に女房がいなかったら、つくれてないな。なにひとつね。『優しいひとへ』というのは、ラヴレターだよ、おまえの」


〔参照〕

木村栄文(フリー百科事典『ウィキペディア』)

民放プロデューサー 木村 栄文さん(読売新聞)
〈上〉(2003/02/01)
〈下〉(2003/02/08)

作れなかった企画「イサク・ベン・アブラハム」
――木村栄文(日本記者クラブ・2004年6月)





miko3355 at 21:53│TrackBack(0)TV・ラジオ 

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