2006年09月03日

NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」(2006/8/7) ―後篇

前篇(2006/08/28)

降伏を拒否し捨て身の地上戦を挑んでくる日本人に対し、アメリカは味方の犠牲をできるだけ減らすため空軍力の増強。
日本軍から奪った飛行場は、B-29の護衛戦闘機の基地となった。
日本本土への空襲は、より激しくなっていく。
無謀な徹底抗戦に対し、都市への絨毯爆撃で応じたアメリカ。

最高指揮官が戦死したあとでも、島の地下壕には数千人の兵士たちが潜んでいたといわれる。
生還者にとっての新たな地獄はここからはじまった。

元海軍通信兵/秋草鶴次(あきくさ・つるじ)さん(79歳)は、いまも設備管理の仕事をしているが、島での記憶がこころを離れない。
「残酷だったんですよね。日本人同士のね。ほんとに家族の人に聞かせたくないっていう話もありますしね」

秋草さんは最近になって、硫黄島の体験を手記に残そうと考えるようになった。
戦後すぐにとったノートには、歯止めをなくした戦争のむごたらしさが、こと細かに記録してある。
「玉砕」の一語では、あの島で苦しんだ仲間の想いが、だれにも知られることなく消えてしまう。
それに堪えられるのか?

秋草 「堪えられないでしょうね。だけどそんなにやっても、それが頭から否定されたら話にならないというか、その間に生きた時代、すごした時代はなんだったのか、ということになるからねえ。その間は、じゃあ空だったのか」

秋草さんは右手と左足に重傷を負い、玉名山の大型地下壕に身を寄せていた。
その壕の入口を、のちに米軍が撮影していた。
南方諸島航空隊本部壕……凄惨な事件の舞台となった場所
米軍の調査見取図

本部壕の食料や水を目当てに兵士たちが集まってきた。
貯えはたちまち底をつく。

壕内部のフィルム。
むせかえるような高温。腐敗する死体。
泥水や蛆を口に入れてしのぐ日々がつづいた。
秋草さんは、傷が悪化し動くこともできぬまま、近づく死の恐怖と闘っていた。

秋草     「どうしたと思いますか?」
ディレクター 「いやあ……」
秋草     「通信隊は火をつけて逃げたんですよ。そこに残った炭を食べて……」
ディレクター 「"炭"って、焼いた?」
秋草     「(大きくうなずく)それを想いだすとね、ほんと涙がでてくる。食べるもの、ない」
ディレクター 「"炭"は食べられるんですか?」
秋草     「食べる。ないんだ、入るものが。耐久試験だ、人間の。そういう想いだったね。でも、がんばるんだ。このことを、だれがいうんだと。だから、オレは生きなくちゃならない。そういう気もちです」

"炭"の正体とは?  

地下壕にまだ多くの日本兵が潜伏していることを知った米軍は、島中で大がかりな掃討作戦を開始した。その様子を分単位で詳細に記録した資料。→米軍戦闘記録のフィルム

拡声器を使った投降の呼びかけに、日本兵は応じない。
掃討作戦に参加した元米陸軍兵士/ジェラルド・クラッチさん(82歳)はいう。

「ある意味では彼らの勇敢さ、国への想いの強さに感心しました。しかし、でてきて生き抜くことをしないのはバカげていると思いました、これ以上殺すつもりも傷つけるつもりもない。キミらはこの島を生きてでられる。日本にもどれるのだと約束していたのです。それなのになぜなんだ。いったいどんな想いが彼らのなかをよぎっているのか、と思いました」

カメラは地下壕内部のクモの巣をクローズアップ。
日本の兵士たちを呪縛している投降できぬ理由を、クモの巣で形容しているように映る。

金井 「でていけば、何日かすれば必ず呼びだされて、銃殺されるということは、教育されているんです。どうせ生きて還れないのなら、最期までみとどけて死のうという考えが起きてきちゃうわけです。助かろうとは思ってない」

ジェラルド・クラッチ 「ボロボロの軍服を身にまとった憔悴しきった兵士が姿をあらわしました。おそらく下級兵士だったのでしょう。洞窟の入り口から5メートルほどでてきました。そのとき突然、髭も剃ったきちんとした身なりの将校がでてきました。そしてこの下級兵にむかって拳銃を抜くと、迷わず兵士の肩を打ち抜いたのです」

大越 「捕虜になったら国賊といわれて、戸籍謄本に赤バッテンで書かれるらしいんですね。そういう教育を受けてきたんです。1回、チョコレートとか携行食品もってきた兵隊がいたんです。(壕の)なかに入ってきてね、むこうの待遇がいいからでろよ、といったけど、いや、でられない。その兵隊は国賊になるから、かわいそうだからといって、うしろから撃った。で、這いあがっていったらしいんだけど。死体はなかったですけどね」

3月、4月、5月と、南方諸島航空隊の壕では籠城がつづいた。
ほかの壕を焼けだされた兵士たちで膨れあがっていた。
元海軍少尉/竹内昭(たけうち・あきら)さん(82歳)も逃げこんだ1人だった。
地下壕では日本人同士の衝突が起きるようになった。

竹内 「150人のうち、約半数は負傷兵でしたね。寝たきりに近い。3人1組の小部隊をつくって、でていけと。帰ってくるなと。食糧が限られているでしょ」

大越 「人間という感じじゃないですよね。畜生になってますからね」
 
大曲 「理性があれば、いま死ぬという人間に、一滴でも水飲ませてあげようとかと、こうなりますよ、人間として。それが起きないんですから。わたし1人ではなく、全部がそうなんです。水のために殺しあいするわけですから」

  *

5月7日、南方航空隊壕に対し、本格的な攻撃がはじまった。
投降の勧告に応じない日本兵に対し、発煙弾での燻りだしがはじまった。→カラーフィルム

でてこない日本兵に、米軍は抑制を失っていく。
壕の入り口から爆薬を投入。→カラーフィルム

それでも日本兵は奥にのがれて生き残った。
攻撃はさらにエスカレートする。

ジェラルド・クラッチ 「兵士として任務は果たさなければなりません。それに、いま思えばおぞましいことですが、当時はそれほど抵抗を感じてはいませんでした。責任を問われるべきは、日本の指導者たちです。彼らが長い時間をかけて、戦争の実践や投降についての考えを上からゆがめてしまったのですから」

「硫黄島探訪」
戦闘詳細の項に、日本軍には珍しく部隊単位で整然と投降した事例が、ふたつ紹介されている。
 〆成第二旅団野戦病院(長:野口巌軍医大尉)
 ⇒弸彪築勤務第五中隊


5月14日午前11時、米軍は最後の行動にでた。海水を壕のなかに注ぎはじめた。
海水の表面をおおっていたのは、大量のガソリン。

秋草 「そこへ手榴弾かなんか落ちたんですね。爆発したんです。ざあーっと火の海。水が燃えてるんですよ。人がいたでしょ。皮がぶらさがってるんですよ、からだじゅうが」

大越 「7人ぐらいはまだ生きてたんですよ。自決しろといって、手榴弾、2人に1発ずつやって。1人1発じゃ、もったいない。ところが手榴弾自体が、湿気で不発になってますからね。で、苦しまないほうがいいだろうというので、銃で撃って(自分のこめかみを指さす)、自決させましたけどね」

大曲 「生きるわけがないわけですね。医療施設もないし。上半身やけどになって。じゃあ、機関銃で殺しちゃおうかと、そういうのがでてくるわけですよ。極限というか、理性なんてぜんぜん働かないですよ、そりゃあ。もうガソリン入れて、火つけられただけでも、右往左往しちゃうわけですから」

5月17日、米軍資料には、「最後の日本の集団が掃討された」とある。

   63人拘束、20人死亡。

捕らえられた日本兵は、栄養失調と酸欠で意識混濁に追いこまれていた。

17歳の少年兵だった大越さんは壕からでた直後、米軍から足を撃たれ気を失った。

手足に重傷を負っていた秋草さんは、意識をなくして水に浮いていた。

洞窟の惨状には、米軍ですら言葉を失った。→折り重なる死体のようにみえる写真

なぜそこまでつづけねばならなかったのか。
硫黄島玉砕戦――それは極限の戦争だった。

アル・ペリー 「戦争に勝者も敗者もありません。われわれがやった殺しあいは、なにもかもがバカげています。戦争が終わったあと、日本軍の洞窟に入ってみました。負傷者を寝かせていた台がありました。そこですごしていた兵士たちの気もちを考えてみました。いったいどんな想いで死を迎えたのだろうかと。まさに戦争は地獄です。ほんとうに怖ろしいことです」

アル・ペリーさんの発言に対し、わたしにはNHKスペシャル「調査報告・劣化ウラン弾〜米軍関係者の告発〜」(2006/8/6)が浮かんできて嘆息する。
戦争が引きおこす地獄は、硫黄島戦のころより較べようもなく深化しているのだから。

大越 「(ハンカチで目頭を押さえ苦しげに顔をゆがめながら)こうやって話できるのは、ひとつの供養だと思ってます」

硫黄島(ことし6月)、遺族らによる戦没者慰霊祭(小笠原村主催)が行われた。→フィルム
この島の地下には、いまも1万柱を超える遺骨が収集できぬまま眠っている。

秋草さんの自宅に植えられた百合(?)のつぼみをクローズアップ。
それはなにを意味するのか。
戦地で散った若者たちをわたしは連想した。一方で、庭に妻と立つ穏やかな秋草さんの表情から、つぼみが開いていく時間の推移を静かに見守る秋草さんのいまの生活に想いを馳せた。

秋草 「死んでねえ、意味があるんでしょうかね。だけど、無意味にしたんじゃ、かわいそうですよね。ひどいですよね。そしてどんな意味があったかというと、これはむずかしいんじゃないですか。オレはこういう生き方しかできなかった、勘弁してくれというだけじゃないでしょうか。これで許してくれ、これで精一杯なんだ、という気もちですね」

秋草さん夫妻が、自宅まえでスタッフに手を振りながら、番組スタッフに別れの挨拶。

ラストシーン。
最寄り駅の周辺らしき雑踏で、自転車で番組スタッフを見送る金井さん。
車や道行くひとびとが金井さんとは無関係に動いてゆく画面に、金井さんの孤絶感のようなものが迫ってくる。
人波にはさまれながら、金井さんは帽子を高く頭上にあげ、番組スタッフに別れの挨拶。そして深く一礼。

戦争犠牲者の上に、いまの日本の平和が築かれている。そのことにわれわれは鈍感になっているのではないか。そんな感じを、わたしはこのラストシーンから受けとった。



miko3355 at 16:52│TrackBack(0)TV・ラジオ 

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