2006年09月11日

富永太郎の上海体験が中原中也に与えた影響

2006/8/10付け朝日新聞・夕刊に、【「中也の時代」鮮明にした詩人・富永太郎の上海体験】と題する署名記事(白石明彦)が掲載された。興味深く読む。
「中原中也の会」が東京都内で開いた「富永太郎と上海」をテーマにした研究集会について記している。

「当の中也についてはあえて論じず、彼に影響を与えた詩人富永太郎の上海体験を探ることにより、中也が生きた時代の文学的雰囲気を浮かび上がらせる刺激的な試み」だという。
とはいえ、この研究集会の軸足は中原中也にある、当然ながら。

上海出身の張競(明治大学法学部教授)は、散文詩「断片」についてつぎのように述べた。

卑近な情景がみごとに詩的イメージと化した。都市のイメージがこれほど鮮やかな言語感覚でとらえられた例は日本文学でもまれだ。文化的無国籍性をもつ上海で富永は異空間を体験した

  *

【時系列でみた富永と中原】

●1923年(大正12)
8月、富永太郎はひとりで仙台旅行し、上海旅行を思い立つ。
9月、関東大震災。
11月、永住のつもりで上海に渡る。

●1924年(大正13)
2月、自活の見込みなく帰国。
6月末、京都へ。正岡忠三郎の下宿に滞在。
7月、冨倉徳次郎の紹介で中原中也(立命館中学4年生)を知る。ふたりの友情には他の容喙(ようかい)を許さぬ緊張したものがあったと、正岡と冨倉が証言している。
10月11日、最初の喀血。
11月、村井康夫宛書簡で、中原について「ダダイストとの嫌悪にみちた友情に淫して四十日を徒費した」と記す。
12月20日、肺尖を宣告される。

●1925年(大正14)
1月7日、第2回喀血。22日、第3回喀血。
3月初旬、母とともに神奈川県片瀬に転地。中旬、中原は長谷川泰子とともに上京。
4月、中原はこのころ知りあった小林秀雄とともに片瀬に富永を見舞う。
5月3日、片瀬より脱走、代々木富ヶ谷の自宅に帰る。
6月末から肋膜炎を併発臥床。
10月25日、大喀血。
11月5日、危篤。11日、喀血。12日午後1時2分、永眠。夕刻、死顔の写真を撮す。13日昼、納棺。夕刻、中原が蒼い顔をして来る。14日、2時出棺、代々幡火葬場にて荼毘に付す。

現存する富永の手紙の最後は、1924年10月23日付け正岡忠三郎宛である。小林に絶交された中原が、ちょいちょい病床の富永を訪ね、小林の悪口をいう。そんな中原の饒舌に閉口している様子が記されている。
正岡は臨終の席で、面会が許されたことを中原に告げないよう富永に頼まれる。ただしその理由は複雑だと大岡昇平は説く。

  *

わたしが『富永太郎と中原中也』(大岡昇平/レグルス文庫/1975年)を入手したのは、筑摩書房版『大岡昇平全集 17』(1995年) を読んだあとだった。したがって内容の大半はすでに知っていたことだが、巻末に収められている岡庭 昇の解説がおもしろい。

岡庭が評伝『朝の歌』の熱烈な読者となった理由は、《「愛」以上に「憎」があるのではないかとおもえるほどの、その激しいパッションに魅かれたから》だという。
そして岡庭は、《大岡氏の体質は富永にやや近く、中也とは正反対であろう》が、《決定的な影響下に出発したというにせよ、大岡昇平という文学者(あるいは認識者としても)に、かれらの影響の痕跡はみじんもみられない》 という。わたしはこの説に同意できるのである。
末尾で岡庭は、《富永太郎にとって、「放蕩」とはいったい何であったのか》という要求を、大岡昇平に対してつけくわえている。カギカッコつきなのは、《けっして放蕩にとどきえなかった》という意味であり、この点について大岡に小説的な造形を期待している。

中原とは比較にならない教養をもっていた富永から、中原はあらゆることを学んだ。それを少しも学んだとは思わず、それら土台の上に、一生自分の独創性と信じるものを追求していったのが中原の個性だった、と大岡昇平は記している。

大岡は、中原と富永を世に知らしめるために情熱を傾けた。
中原については達成感があったのではないかと想像するが、富永については未完に終わった。
角川書店から刊行予定だった『富永太郎全集』全3巻は、大岡の死とともに消滅したに近い現状である。
しかし全集が刊行していたとしても、大岡は富永について自己追究をやめなかったのではないかと、わたしは考えている。
それはわたしが「富永太郎を愛しすぎている」からではない、と認識している。

かつて「小林秀雄實記」の掲示板に、大岡の中原と富永に対する重力がちがう、という書きこみをして、わたしは運営者の杉本さんから鋭くつっこまれた。当時もいまも、うまく説明できないのだが、中原と富永が対立軸として存在していることはたしかだろう。
大岡は富永のことを「大人(たいじん)」といっている。なるほどと思う。


※散文詩「断片」は、「富永太郎についてのページ」の「富永太郎の詩」にリンクさせていただきました。


miko3355 at 10:17│TrackBack(0)富永太郎 

トラックバックURL

この記事へのコメント

1. Posted by 小向   2006年09月11日 15:10
 おかげさまでこの機会に散文詩「断片」をじっくり読みました。わからない個所が多くあったけれど、僕なりに考えさせられました。めずらしく例の女性の面影が現われない詩だと思いましたが、けっしてそうではないですね。最も気になった詩句はこれです。「ああ、さまざまの日に、指先によつて加へられた柔(やさ)しさよ! 火よ! 失はれた畜群の夢よ! 」はじめよく意味がわからなかったのですが、これは太郎の叫びではないかと思い至りました。
2. Posted by 小向(続き)   2006年09月11日 15:12
 人生に失敗した人間と自分に断を下し、それを決定づけたのはH・Sとの恋愛の失敗、原因は好きな女性を獲得できなかった自分の弱さにある、そういう自分を生んで育てた母親をうらむ、優しく弱く育てられた日々こそ呪わしい、燃えて消えてなくなれ。こう解釈したのですが、いかがでしょうか。

 昇平の「成城だより」を読むと、富永太郎全集の編集作業に心血を注いでいた様子がうかがえますね。その努力がないがしろにされたままだなんて、角川書店のビルに昇平の幽霊が訪れるかもしれない、なんて脅かしたくなります。
3. Posted by miko   2006年09月11日 21:15
太郎が上海で最初に投宿したのは呉淞路(ウースンルー)の「日の丸館」で、11月27日に転居した有恒路(ユーハンルー)の下宿の主人は、ロシア人売笑婦の元締です。「日本人に会わずにすむ」ために、そんな悪所に入り込んだのですね。
窮乏のため火鉢を売り、また血まで売った太郎は、「この世の外」を希求しながら2ヵ月余りで帰国。
永住覚悟で上海に遁走した太郎の胸中に想いをはせます。

散文詩「断片」は難解ですね。
わたしがH・Sの影を感じたのは、「中年の太った夫婦は、もうぢき油臭い二つのからだを並べて眠るだろう」というところです。
夫婦という組み合わせに対する憎悪であり、トラウマです。