2006年11月12日

「大正の詩人画家 富永太郎」

図録「大正の詩人画家 富永太郎」を入手できる古書店を知人に教えられ、手許に届いたのは昨年の12月9日だった。
太郎の個展は渋谷区立松濤美術館で開催され、会期は昭和63年10月18日〜11月27日。祥月命日の11月12日を挟んでいる。
「富永太郎における創造」というタイトルの一文を大岡昇平が寄せている。

大正14年11月12日、肺結核で24歳6ヵ月で夭折した富永太郎の家と大岡昇平の家は、松濤美術館の至近距離にあった。
秋は太郎の好きなシーズンだったし、松濤公園は散文詩「秋の悲歎」の舞台とも思われ、大岡にはここで太郎の個展が開かれるのに、特別な感慨があるという。
大岡は「来年は詩画集全三巻が出ますので」と記しているが、直後の12月25日に他界したため、全集の刊行は実現しないまま今日に至っている。

大岡昇平から個展の案内状を受けとった青木健は、最終日の11月27日に松濤美術館を訪れた。そのときみた画の感想は、『剥製の詩学 富永太郎再見』(小沢書店/1996年)に収められている。
富永太郎に関する評論は驚くほど少ないので、本書は貴重な資料になっている。

図録に収められている富永太郎の詩稿は、写真といえどもなまなましく迫ってきて、正視するのに努力を要する。
モノクロの木版「Promenade」(1923/大正12年)が、わたしは気に入った。太郎にしては珍しい童話的構図である。
求龍堂版「富永太郎詩畫集」(大岡昇平編)の表紙には、この木版が使われている。

図録のトップに掲載されている画は「火葬場」(油彩/1921/大正10年)。
太郎が下宿していた仙台の瑞雲寺北側にあった共同火葬場の煉瓦の煙突を描いたものである。
無機質な画だが、大正10年の秋、富永太郎は8歳上のH・S夫人との恋愛関係が"事件"となり、直後の12月15日、二高を中退し帰京。
姦通罪のあった時代だが、ふたりの関係に姦通はなかったらしい。心中しようという話があった可能性があるが、謎である。
以前にわたしは、「小林秀雄實記」の掲示板にも書きこんだのだが、散文詩「秋の悲歎」には、「私たちは煙になってしまったのだらうか?」という一節がある。

図録では油彩「火葬場」は1921年になっているが、筑摩版「大岡昇平全集 17」(1995年)では、1922年10月になっている。正岡氏の日記によると太郎は1922年10月29日朝、仙台へ着き、31日、夜行で帰京している。四号板の裏には「Sendai,october 1922」と書かれている。

図録に掲載されている写真のなかでわたしの眼を惹いたのは、二高在学の頃、13人の仲間のひとりとして写っているものである。全員が学生帽をかぶっている。
その下には、わたしを魅了した臨終写真がある。
2005年11月12日にアップした「富永太郎の祥月命 」に、この臨終写真を撮ったのは正岡忠三郎だ、と記したところ、コメント欄で太郎次郎さんにまちがいを指摘された。「専門の写真館が撮影したものです」と。

長男・太郎に両親は、大きな期待と愛情を寄せていた。
昭和2年(1927)8月、村井康男編・家蔵版「富永太郎詩集」が刊行された。
昭和7年11月22日に母・園子が亡くなってから墓を作るまで、太郎の遺骨は両親の部屋に置かれていた。
多磨霊園には、富永太郎とともに大岡昇平が眠っている。

富永太郎の代表作「秋の悲歎」は、死の病と結びついている。
24年の短い生を駆けぬけた。

大正13年(1924) 
10月11日、京都で最初の喀血。23日、「秋の悲歎」創作。
12月1日付『山繭』創刊号に「橋の上の自画像」「秋の悲歎」を発表。
12月20日、レントゲン検査により肺尖を宣告される。

大正14年(1925)
1月7日、第2回喀血。22日、第3回喀血。
3月8日頃、母・園子と神奈川県片瀬に転地。
4月3日、代々木富ヶ谷の家に帰る。
10月25日、大喀血。
11月5日、危篤。12日午後1時2分永眠。


散文詩「秋の悲歎」を味読するため、「富永太郎の詩」より引用させていただく。

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秋の悲歎
 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 私はたゞ微かに煙を擧げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の靜かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかゞねいろ)の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光澤のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き亂してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都會を夢みはしない----土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都會などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る殘虐が常に私の習ひであつた......

 夕暮、私は立ち去つたかの女の殘像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひだ)を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状體に觸れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか?私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空氣を憎まうか?

 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ點檢しないで濟む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ----金屬や蜘蛛の巣や瞳孔の榮える、あらゆる悲慘の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の堅い斜面に身を委せよう。それといつも變らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう......私は私自身を救助しよう。

 





miko3355 at 16:45│TrackBack(0)富永太郎 

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この記事へのコメント

1. Posted by 小向   2006年11月21日 15:46
富永太郎の良い本を入手されたのですね。図録の印刷はいかがでしょうか。やりみずさんがアップされているのと色彩は違っていますか?
「秋の悲歎」はやはり美しい詩ですね。太郎の他の作品に見られない構成力がありますし、静かな威厳のようなものを感じます。今回気づいたのは太郎の自然科学を重んじる意識といったものです。「いつも變らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう」このあたりは自然界の秩序、美しさを最後のよりどころにした人の言葉ではないかと思ったりしました。
人間の世界ではつらい目に会い過ぎたから自然に逃げたなんて太郎に関しては到底言えません。男らしい理性と知性が底辺にあるから気持ちのよい詩になっているのだと思います。
2. Posted by miko   2006年11月21日 20:50
小向さま

秋が好きだった太郎が秋に逝ったのは感無量です。
やはりわたしは散文詩「秋の悲歎」が最も好きです。
京都で最初の吐血をし、そのことを正岡氏にも告げず、その直後に書いたのですね。
この散文詩には太郎の人生が織りこまれています。

油彩「火葬場」をやりみずさんがアップされたのと比較しました。図録のほうが画の横幅が長く、画像がぼやけています。わたしはこのほうが好きです。

とにかく太郎の自筆詩稿は、なまなましいです。

家蔵版「富永太郎詩集」にも、臨終写真が掲載されているのでしょうね。
まるで生きているような「悲歎」そのものという死に顔です。