2007年06月03日

「中原中也と富永太郎展」 二つのいのちの火花

横浜市中区の神奈川近大文学館で、2007年4月21日から開かれていた「中原中也と富永太郎展」の最終日は、本日6月3日である。
本特別展は、ことしが中原中也生誕100年、歿後70年を迎えるのを記念して開かれた。
中原中也の文脈で富永太郎を語られるのにわたしは嫌悪感があるし、「二つのいのちの火花」というサブタイトルから、ふたりのあいだに火花が散ったかのような印象を受けるのにも閉口していた。
怠惰と上記の理由から、気にはなりつつなかなか足が向かなかった。
図録と富永太郎版画絵はがきセット(4枚組)は、すでにホームページから注文して入手していた。版画絵はがきに、わたしの好きな「Promenade」(1923年/木版)が含まれているのがうれしい。
そんなわたしの背中を一気に押したのは、「小林秀雄實記」(閉鎖中)を運営する杉本圭司氏である。
わたしが本特別展に足を運んだのは5月22日である。
杉本氏はわたしより一足早く行かれ、小林秀雄に焦点を当てて観ておられる。

  *

本特別展はわたしの予想を裏切り、富永太郎関連の資料を最大限に展観できたように思う。
関係者の熱意が凝縮している。
富永太郎のコーナーを念入りに観た直後にわたしを襲ったのは、「富永太郎はいい男だなあ」という素朴な感慨だった。
同時に、かつて「小林秀雄實記」掲示板で富永太郎について小向さんと延々と書きこんだ内容が甦った。
わたしが行った日は、中原中也のコーナーより富永太郎のコーナーを熱心に観ているひとが眼についた。これは富永太郎の資料を観る機会が少ないからだろう。
図録についても64ページという薄さにもかかわらず、内容が充実しているのに感心した。
編集委員は中村稔で、編集協力は中原豊。
p.33に掲載されている、中原豊氏のつぎの一節はいただけない。ほんとうにそうなのだろうか。

《太郎の代表作ともいえる「秋の悲歎」「鳥獣剥製所」などの密度の高い散文詩は、詩人として伸びていこうとする中也の生命と、結核に蝕まれながら最後の輝きを放とうとする太郎の生命との交錯の中で生み出されていった》

図録の冒頭に中村稔・樋口覚・宇佐美斉の一文が寄せられている。
以前からわたしは宇佐美斉の見解に注目している。
宇佐美は《二人は共通の知人を介して知り合い、たちまちのうちに交友を深めた。というよりは知識や感性において優位に立つ相手に、中也の方がほとんど一方的に密着して、さまざまなことを貪欲に吸収しようとした》と記している。
そして《フランス詩を介したこの二人の詩人の絆は思いのほかに強かった、と言わざるを得ないのである》と結んでいる。

樋口覚は《富永の豪気はみずから酸素吸入器をはずしたことにもあらわれている》と記しているが、わたしは富永太郎の筆跡に「豪気」を感じる。
その筆跡が、死に近い詩稿において乱れているのをみたとき、胸が痛んだ。それでも文字の輪郭は維持している。
死の床で酸素吸入器を調節する友人たちに、「自殺倶楽部のわかる奴でなくちゃ、酸素は扱えないよ」と笑い、臨終前日の朝、医師のすすめで病室に集まった家族に「こうみんなに来られちゃ、死ななきゃいけないようだね」といった太郎に、わたしは諧謔とユーモア精神を感じ、好もしく受けとめている。
この精神は散文詩「影絵」において発揮されていると、わたしはとらえている。
仙台のS夫妻に対する怨念が洗練されているので、悲痛さとともに透明な笑いを誘う。S夫妻がなんともいえず滑稽である。
一高受験の前日に書かれたというが、太郎が勉学に不熱心になったのは、H・Sのせいではなく、出逢うまえからその兆候があらわれている。

  *

本展でわたしの足を釘付けにしたのは、太郎の父・謙治の閉じられた日記(手帖)と、太郎の遺髪だ。
添え書きによると、大岡昇平も読んでいない資料だという。
固有名詞の箇所は空白になっていたが、その日記の箇所が活字で記されていた。
わたしの記憶に基づくので、日記の内容について事実誤認があるかもしれないことをお断りしておく。大切な資料なのでメモしたかったが、遠慮したのだ。
たしか大正10年(1921)12月12日と13日の日記だった。
12日、太郎の両親はS夫妻と面会し、翌13日、S夫妻が訪ねてきて、H女は太郎がいったのと同じだと、前言(註・お友達のつもりで付き合っていた)を翻し、Sは証文を火中に投じた、という。
(この両日の様子は、大岡昇平の記述とは相違がある)
この日記を幾度も読みながら、眼を疑った。
H女は太郎との恋愛関係を、夫や太郎の両親のまえで肯定していた。その場に太郎もいたのだろうか。

14日夜、仙台を離れ、15日朝、帰京。同日、二高を退学。太郎、20歳。
退学が受理された書類も展示されていた。時を経ると、実務的な書類がかえってなまなましい。
そこに父・謙治の落胆ぶりや、H・Sとのわずか2ヵ月のつきあいを連想してしまうからだろう。

当時28歳だったH・Sが80歳のとき、大岡昇平は吉田生とともにH・Sの家を訪問している。通されたのは離れの六畳で、富永がフランス語を習いに通った陸軍将校がいた部屋。
そのときH・Sは、「富永の母親が仙台に来たことは知らない、会ったことはない。富永が退学して東京へ帰ったことは知らなかった」と言明したという。それでいて、「富永がその後外語へ入り、まもなく死んだ、ということは知っていた」。
ひとつウソをつくと、綻びがみえてくる。
大岡昇平はH・Sに対して、鋭い質問をなげかけるのを遠慮している。
けれども、対面したことで多くのことをキャッチしている。

太郎とH・Sには恋愛関係は成立していたが、肉体関係はなかったらしい。
大岡昇平は肉体関係を否定しているが、わたしもそれに同意する。
最初はそんなわけはないと思ったが、そんな自分自身を羞じたのである。
H・Sと別れてから臨終までの4年間、失恋は太郎の心身を蝕んだ。
そこがいかにも富永太郎らしい。
ひとを愛するには、創造性が必要なのだろう。
大岡昇平によると、太郎が表現している「立ち去ったマリア」「わが女王」と、H・Sとおぼしき鉛筆書きの和服姿の半身像は、縁遠いという。
そこに詩人と画家の富永太郎の視点が表出していて、おもしろい。
詩人としては崇めながら、画家としては現実の姿を描いている。
80歳まで自己を偽りつづけたH・Sには、それなりの必然性があったのだろうが、わたしは同情できない。
「問わずがたり」考に、大岡はH・Sについて《そのほか記憶はすべて鮮明で、話し方は巧みで、機智に富んでいた》と記している。

太郎の遺髪については、司馬遼太郎『ひとびとの跫音』(1981年/中央公論社)に記されている。ふたりの関係についても、司馬は鋭い作家の感性で分析している。
太郎の遺髪を、無二の友であった正岡忠三郎が宝物のようにしていたと、忠三郎の妻が証言している。
忠三郎は太郎と二高に同期入学。太郎は理科乙類で、忠三郎は理科甲類。
図録に遺髪の写真が掲載されていないのは、惜しい。
忠三郎に宛てて太郎が書いた手紙や詩稿の黄ばみが、歳月を感じさせる。
いうまでもなく、太郎の父・謙治や忠三郎が大切に保管していたから、われわれはそれらを眼にすることができるのである。

  *

そしてわたしを圧倒しつづけている太郎の臨終写真。
最上部に大きなサイズの写真が掲げられていた。
わたしはこのうつくしすぎる臨終写真を、人間「富永太郎」という作品だととらえている。散文詩「秋の悲歎」そのままの臨終写真にみえる。
最期まで自己を貫いた24年の生涯だった。

大正14年(1925)11月12日午後1時、鼻にはめた酸素吸入器のゴム管を「きたない」といってはずし、「ちゅうさん、ちゅうさん」と二言いいのこし、1時2分絶命。
「ちゅうさん」とは、つききりで看病していた正岡忠三郎の意で、手紙で「ちゅうさん」「太」とやりとりしていた。手紙だけではなく、常からそう呼んでいたのだろうか。あるいは、こころのなかでそう呼んでいたのか。

上記の写真の下に展示されていた、中也が故里の母に送った「詩人の死顔です」という添え書きのある臨終写真をみて、写真館が撮ったのだと確認できた。
中也の添え書きのある臨終写真だけが図録に掲載されているのが、わたしとしては不愉快である。
当時は写真館で写真を撮ること自体が珍しかったらしい。
死に顔を撮らせたのは父・謙治だろうか。
どのような想いだったのだろう。

私見だが、わたしは富永太郎の24年の生は完結しているとみている。
散文詩「秋の悲歎」「影絵」を生みだしたことで、詩人として不動の位置に到達した。
神経衰弱に苦しんだ太郎は、たとえH・S事件がなかったとしても、この世に永居することはできなかっただろう。
それにしても、死後、自分が詩人として認識され、遺品が展示されることを、太郎は想像していなかっただろう。
そんなことをぼんやり考えていると、散文詩「遺産分配書」の結句が浮かんだ。

   母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ返す。
  幼少時を被ふかずかずの抱擁(だきしめ)の、沁み入るやうな記憶と共に。





miko3355 at 23:13│TrackBack(0)富永太郎 

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この記事へのコメント

1. Posted by 小向   2007年06月07日 12:50
貴重な情報と記述ありがとうございます。太郎の父親の日記には驚きました。夫妻と面会した翌日に夫妻が訪ねてきて、太郎の言っていることは本当だと肯定したのですか。お友達のつもりで付き合っていたという言葉を翻して。このことを太郎は知らされていたのでしょうか。また分からなくなってきました。仙台での出来事は実に分かりにくい。太郎の一生を左右する出来事であっただけに重要この上ないのですが。父親が日記で嘘を書くはずがないので、二人の間で恋愛関係があったと彼女が言ったのは間違いないですね。
とにかくまた仙台での太郎を深く考えさせられました。僕が前から気になっていたのは、東京に戻ってから、女の自殺の記事に気をつけてくれ、と書いた書簡です。どういう真実があったのか想像してもよく分かりません。
2. Posted by miko   2007年06月07日 16:10
小向さま

大岡昇平は、自著に太郎の父親の日記を紹介しています。おそらく読んだのでしょう。来仙した折の日記を、大岡が読んでいなかったことにも驚きました。
じつは数日まえから、このエントリーのつづきを下書きしているところです。
「惚れ証文」について説明する必要があると思って書きはじめたら、考えが発展してゆきました。
H・Sの自殺の怖れについても言及しています。
もちろん私見にすぎないのですが、いろいろ考えて愉しんでいます。