2007年09月07日

お宝TVデラックス「熱きライバルたち」

2007年 7月14日(土)午後8:00〜午後10:00、BS2にて放映されたお宝TVデラックス「熱きライバルたち」をおもしろく観た。
オルタスジャパン制作。

【ゲスト】山本學/瀬古利彦/五大路子/角盈男/安倍麻美/ジェームス三木/小林俊一
【司会】 麻丘めぐみ/高山 哲哉

とりあげられたTV番組は、「白い巨塔」「巨人の星」「天と地と」。
このなかでわたしが観ていない番組は「天と地と」だ。
わたしが歴史に疎いということもあるが、NHKの大河ドラマはほとんど観ていない。
「天と地と」(第7作/1969年/全52回)が初のカラー作品だということで、スタッフの苦労話が紹介された。
本番組で、「天と地と」のなかで唯一現存しているフィルムの一部が流れた。クライマックスの川中島の合戦シーンである。
主役の上杉謙信を石坂浩二、武田信玄を高橋幸治が演じているが、映画のような迫力がある。福島県相馬で撮影。制作スタッフ150人、トラック10台に中継車、空にはヘリコプターが待機し、エキストラ300人以上、馬50頭が使われたという。
わたしは石坂浩二の謙信より、高橋幸治の信玄が気に入った。ふてぶてしい、抑制された演技に感心したのである。

ジェームス三木の「昔のほうが、ちゃんと間がある。ごらんになるみなさんが想像できる。いまは、伝えすぎてしまっている。ドラマに限らず、あらゆる番組がそうですけど」というコメントには同意する。
視聴者をそこまで低俗だとみなしている根拠を、NHKを含めたTV関係者に問いたい。
あるいは視聴者が想像力を奪われる番組を観つづけることで、批判精神が衰えた人間の養成を狙う"だれか"が存在するのだろうか。

「天と地と (NHK大河ドラマ) - Wikipedia」によると、
《当時は放送局用ビデオテープ(2インチVTR)が非常に高価で大型だったために、テープは放送終了後に消去されて他の番組に利用されるのが通常だった。そのため再放送および全話収録の完全版の販売は絶望的である。現存している第50話「第5回〜川中島の章〜その四」は「NHK想い出倶楽部2〜黎明期の大河ドラマ編〜(5)天と地と」としてDVDで販売されている。総集編前編はNHKアーカイブスで視聴でき、個人からの寄贈を復元したものでモノクロ(当時の市販ビデオはモノクロだった)で冒頭20分が欠落しており、残念ながら画質状態もよくない》

たしかに本番組でモノクロのフィルムが流れたが、画質がよくなかった。
「ビデオテープが貴重品だった時代に、放送後に消去して他の番組に利用していた」というのは、吉田直哉もなにかに書いていたと記憶している。

  *

圧巻は「白い巨塔」だ。
本番組でとりあげられたのは田宮二郎版で、1978年6月3日〜1979年1月6日(土曜の夜9時)にフジテレビで放映された。全31回。
フジテレビ開局45周年記念ドラマとして前評判の高かった唐沢寿明版は、第一部(全10回)が2003年10月9日〜12月11日まで、第二部(全11回)が2004年1月8日から3月18日まで放映された。
田宮二郎の鬼気迫る演技が脳裡に焼きついているので、はじめはものたりなさを感じた唐沢版だった。が、回を追うごとに番組の秀でた演出を愉しめるようになった。
そのころ書店の店頭に平積みになっていた原作の『白い巨塔』(山崎豊子/新潮文庫・全5巻/2002年)を入手して読んだ。
原作はまず1963年9月15日号から1965年6月13日号まで『サンデー毎日』に連載され、続編が1967年7月23日号から1968年6月9日号にかけて連載された。新潮社から単行本として刊行されたのは、正編は1965年、続編は1969年。
山崎豊子の骨太な文体と、古びていない作品の力に魅了された。
原作を読みながら、田宮版や唐沢版のドラマからは得られない想像の世界を愉しんだのである。

当時、閲覧した「僕たちの好きな『白い巨塔』」は、読み応えがある。
とりわけ「小林俊一インタビュー 全3回」は、興味深い。
小林俊一は田宮版「白い巨塔」でプロデュース・演出を務め、本番組で山本學とともにゲストとしてスタジオにあらわれ、貴重な証言をしていた(その内容は上記サイトにも収められている)。なぜか遠慮がちに座っていた彼が印象的だった。
「白い巨塔 (テレビドラマ 2003年) - Wikipedia」によると、小林は唐沢版にも企画段階で関わっていて、企画の和田行が監修としてクレジットに入れようとしたが、小林は断ったという。その理由は、「田宮版にかかわった多くの人が亡くなっているのに、自分だけ名を連ねるわけにはいかない」。

医事裁判を扱うドラマのため各病院からロケを断られていたが、田宮が東海大学病院に許可してもらったという。
上記サイトの小林俊一の証言によると(本番組でも語っている)、《編集したものを教材テープとして大学に差し上げるという約束のもと、患者と患者の身内の了解を取って、実際の噴門癌の手術を5時間撮った》という。
つぎの小林の証言はじつになまなましい。患者の肉体に最初のメスを入れるシーンよりも、わたしには臨場感がある。

カメラマンの一人は「自分は血を見るのがダメだ」って言ってたのに、ファインダーを覗くとそんなことはどこか吹っ飛んでしまったみたいで、必死に撮り続けていました。でも、切開部が一番良く見えるポジションというのは、当然執刀している教授の場所になる。それで、カメラマンがついその位置に立とうとして、教授さえも押しのけようとするんです(笑)。その度に教授の肩にカメラマンの肩が触れて、何度も教授の肩を看護婦が消毒していたね。そういうことがあって、あの手術シーンの映像は当時のテレビドラマのリアリズムの最たるものになったんだと思う。撮影も編集もみんながプロ根性と尋常じゃないこだわりを持ってやっていたから

田宮二郎は1978年12月28日、家族と別居してひとりで住んでいた自宅で猟銃自殺を遂げた。
「白い巨塔」の終わり2話がオンエアされたのは翌年のはじめである。
田宮は躁鬱病に苦しみながらの撮影だったらしいが、文字どおり田宮二郎こと柴田吾郎(本名)は財前五郎と心中したのだろう。
同じく小林俊一の証言によると、田宮は30話で財前が癌で倒れるシーンの撮影前、3日間絶食し、最終話で財前の遺体が解剖室に運ばれるシーンの撮影では、自らストレッチャーに乗り、白布の下で泣いていたらしい。
最終話のプレビュー(試写)を見た田宮は、「いい出来です。役者冥利に尽きます」と喜んでいたという。

その田宮の死を嘆いた太地喜和子(財前五郎の愛人・花森ケイ子役)が、伊豆下田の海に車ごと飛び込んで水死したのは1992年10月13日。
田宮は43歳、太地は48歳という短命であった。

  *

ジェームス三木はいつも気の利いたことをいうので期待していたのだが、わりと寡黙だったので、ものたりなかった。ところが番組のラストでのコメント「軽い番組だと思って、きたんですけどね。意外と重い番組だったんですね」には笑えた。
最近のNHKの番組が中途半端に軽くなっていることを苦々しく思っているわたしにとって、このコメントには溜飲が下がったのである。
ジェームス三木のもち味は、軽いトーンで真実を突くところだろう。
たしかにいままでの「お宝TV」のなかでは、今回の番組は重い内容になっている。
田宮二郎のいのちがけの演技のまえでは、そうならざるをえないのである。








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