2007年10月02日

ドキュメンタリー人間劇場『のんきに暮らして82年〜たぐちさんの一日〜』

河内紀(かわち・かなめ)を最初に知ったのは、季刊『いま、人間として』(径書房刊)に掲載された〔放送現場日誌〕である。第1巻(1982/06/20)は「ハレバレとメシを食ってみたい」、第2巻が「空(くう)をつかむ日々」(1982/09/20)。
同じコーナーに掲載されていた小田昭太郎の〔TV制作現場〕(こちら)ほどのインパクトは受けなかったが、河内紀の一文はずっと記憶に残っていた。『いま、人間として』は11巻まで刊行されたが、その内容についてほとんど失念しているのだから、わたしにとってはよほどのことなのだろう。

昨年、遅ればせながら河内紀著『ラジオの学校』をおもしろく読んだ。文体は重くないのに内容が深いので、一気に読みすすめることができず、数日にわたって味わいながら読みおえたのである。
わたしが最も印象深かったのは、自閉症児と呼ばれる子どもたちのドキュメンタリー『ヤッホー/かえってこないこだま』に関する記述だ。

(p.189)
《「自閉症児」を自分の問題として抱え込むことが出来るだろうか。それが出来なければ結局お涙頂戴の番組を作ってしまうだけなのではないか。自分を棚上げにして、一方的に正義感をふりまわし、世間の無関心を叱りつけるような》

(p.212)
《テレビ受像機の前で、もちろんラジオもそうだが、視聴者は完全に受け身にならざるを得ないという前提を、制作者がどう認識するか。その認識なしには、映像表現そのものも決定することは出来ないはずなのだ。
 この一方通行コミュニケーションが、「自閉的傾向のある情緒障害児」を生み出す状況にどこかで荷担しているのではないかと思い始めたのが、私が放送局をやめるところまで追いつめられた「どうして(理由)」だった》

「ラジオ局の大改革によって配転されることに決まった編成局や制作局の人々のラジオに賭けた最後のエネルギー」によって制作されたドキュメンタリー『ヤッホー/かえってこないこだま』は、70年、国際コンクール「イタリア賞」でグランプリを受賞する。
作品が完成した時点で、河内紀は新設された「ビデオ・パッケージ部」へ配属されていた。

(p.214)
《このドキュメンタリー番組が国際的な評価を受けたことが、はたして本当に「おめでたい」ことなのかどうか。それは、番組のテーマとなった自閉的なコミュニケーション状況が日本だけではなく、他の世界にも存在し問題になっているということの証明ではないのか》

  *

じつは、ことしの4月にわたしの属する集まりに講演会の講師としてあらわれたのが、『彷書月刊』編集長の田村治氏である。
講演会終了後の懇親会の席で、たまたまわたしは田村氏の横に座らされた(固辞したのだが)。インスピレーション人間であるわたしは、なんとなく田村氏のからだからそういうものを感じたので、いきなり訊いた。
「ドキュメンタリー映画はお好きですか?」
「好きです」
なぜかTVではなく映画だという感じを強くもったところが不思議だった。
いろいろ話していくうちにわたしと接点のある人物などがあらわれ仰天したが、最も驚いたのは河内紀についてだった。

「『ラジオの学校』はいい本です」とわたしがいうと、田村氏はそのときだけ子どものような表情になり、「それはうれしいなあ」とひとこと。
その時点で、田村氏が河内紀と親しいということが判明した。
会場でわたしは『彷書月刊』を入手しながら未読だったので知らなかったのだが、河内紀の連載があると田村氏はいう。
それは「尋ね人の時間」というタイトルで、(雑本探検家)として古本に造詣の深い河内紀の連載である。
田村氏の話がほんとうにおもしろくなったのは二次会の席だったが、お酒に極度に弱い体質らしく、話が進まなかったのがいまでも残念だ。無事に帰宅されたのか、ものすごく心配になるほどの酩酊状態だったのである。

  *

河内紀は1940年生まれで、62年にTBS入社。ラジオ部門に配属される。
ちなみに岡本愛彦がTBSを退社したのが1963年。さきごろ岡本愛彦の著書を読みおえたばかりなので、急速なテレビの普及によりラジオの聴取者が少なくなった時代にラジオ番組を制作する意味あいが、わたしなりに理解できる。
74年にTBSを退社した河内紀は、現在、制作プロダクションのテレコムスタッフでドキュメンタリー番組を制作。

ナマ河内紀と、彼の制作したドキュメンタリー番組を観たいという願望、それが同時に実現するチャンスがあった。テレコムスタッフのホームページ(blog)で知ったのである。
で、9月23日(日)、上野公園にある国立博物館の敷地に建てられた映画館「一角座」で、演出・河内紀『のんきに暮らして82年〜たぐちさんの一日〜』(45分)と『八ヶ岳山麓 地下足袋をはいた詩人』(45分)を観た。(テレビ東京/テレコムスタッフ)
そのあと、秋山道男・南伸坊・河内紀の〈トークライブ〉に参加した。
つぎの上映時間が迫るなか、30分ほどの〈トークライブ〉はまとまりに欠けた。が、帰宅してから反芻していると、それなりにおもしろかったことに気づいた。
ほんとうは9月15日(土)の菊地成孔と河内紀のトークを聴きたかったのだが、上映作品が『陽炎座』なのであきらめたのだった。

『のんきに暮らして82年』では、なんといっても82歳の田口さんの表情がいい。このようないい顔で齢を重ねる人間は稀有だろう。
番組全体に音が強調されている。音楽ではなく、生活音である。河内紀がラジオ番組の制作で鍛えられたせいもあろうが、もともと格別に耳のいいひとにちがいない。
映画に詳しくないわたしなので当たっていないかもしれないが、小津安二郎の作品を想起する構図があった。全体的に映画のような画面構成である。薄っぺらい感じがなく、奥が深い。
〈トークライブ〉で河内紀は、「やらせがどのくらいあるかというと、全部やらせです」と語った。田口さんのような齢のとりかたが自分の理想だ、と。
田口さんの一日の生活(24時間)を企画書に書いたが、企画を通すのがたいへんだったという。
なお、ドキュメンタリー人間劇場『のんきに暮らして82年』(テレビ東京/テレコムスタッフ/1996年5月22日)は、第34回ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞第14回 ATP賞ドキュメンタリー部門奨励賞を受賞している。

ところでナマ河内紀をみた感想は、その文章から想像していた人間像から意外性はなかったが、わたしには編集者にみえたのである。
いずれにしても、河内紀は黒子だなあという感じがそのからだから発散していた。
一角座は小さな空間だし、わたしは最前列に座っていたので、河内紀は至近距離でGパンをはいた足を組んで座っていた。
ナマ河内紀と文体は似ていて、一見軽そうな感じを受けるが、じつは重い。
自己を消そうとしているにもかかわらず、自己がにじみでてしまっているところが、田口さんに似ているように感じた。

  *

一角座で『彷書月刊』(特集・河内紀の眼と耳/2007年5月号)と、CD「サウンドトラック DEEP SEIJUN」を入手した。河内紀が音楽監督として参画した鈴木清順監督作品『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』 。これらの映画を観ていないわたしが「サウンドトラック DEEP SEIJUN」(リトルモア・レコーズ)を聴くのは妙だが、胸がしめつけられるほど懐かしい感覚に襲われ、たじたじになる。

河内紀は天才ドラマー・富樫雅彦のラジオドキュメンタリーを演出しているらしい。
わたしは以前に、都内にできたばかりのセンスのよいホールで、山下洋輔と富樫雅彦のデュオを聴いたことがある。そこはわたしの自宅から徒歩15分ほどの距離にあったのだが、このふたりのデュオにはぴったりの空間だった。
富樫雅彦は交通事故で車いすの身になってあらわれ、両手でドラムセットを器用に打ち鳴らした。内に秘めた激しさが表出したようにドラムを叩いたとき、なぜか羞じらうような表情になった。
舞台から退場するとき、じつにていねいにお辞儀をした。まるでそれが最期の演奏であるかのように。
そのあと、アンコールで山下洋輔が弾いた「枯葉」が印象的だった。
「枯葉」だとわからないほど音が解体されていたが、かすかに「枯葉」なのだった。
富樫雅彦は8月22日、心不全のため67歳で他界。



miko3355 at 00:07│TrackBack(0)TV・ラジオ 

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