2008年10月28日

『いのちの初夜』を書いた北條民雄と川端康成の稀有な関係 

さきにアップした藤本としは1929年(昭和4年)、深恵園からの友だちとふたりで大阪の公立外島保養院に入院し、1934年(昭和9年)の第一室戸台風で壊滅するまで同院で暮らす。
患者達たちは出身地別に他の園にあずけられることになり、藤本としは東京の全生園に行く。
1938年(昭和13年)、外島保養院は岡山の邑久光明園として再建され、藤本としは同園に帰る。
その往復は特別仕立ての貨物みたいな貸切列車にて。駅までは、八方にテントをかぶせて内外を遮断したトラックで移動した。
東京から岡山まで大雨かなんかで1週間近くかかったが、一生汽車には乗れないので藤本としはうれしかったという。
※この貸切列車を揶揄して"お召し列車"と称し、1963年(昭和38年)ごろまで存続する。

『地面の底がぬけたんです』で、藤本としはつぎのように語っている。
(東京・多磨全生園の四年間――p.280〜p.284より抜粋)

《北条民雄さんてご存知でしょう。あの方と全生園で一緒の時期がありましてね、結核病棟におられましたけど、何度かお見舞いに行きました。というのは、あたしたちは委託患者ですから、時々全員が集まっていろんな話があるわけなんです、その委託患者の代表さんから。例えば、注意とか、しなければならないこととか。そうした折に、病室には必ず時々はお見舞いに行ってくれ、あたしたちはこうやってお世話になっているんだから、ということでしたから、何人かずつ病室を見舞うのです。
 北条民雄さんは、本病は軽いお方でしたよ。なんですか、声をかけても返事もしない人で……。ベッドのそばにまいりますと、上をむいて目をあけておられるから、いかがですかとかって伺うでしょう。すると、クルッと背中をむけて、むこうむいてしまいなさる。
 ある時、やはりお見舞いに行った時でしたが、ちょうどお医者さんが診察なさっていたことがありましてね、北条さんに小言を言ってなさってでしたよ。
 あんたは確かに文学者としては優れた人だ、文章も立派な腕をもっている、だけど人間としてはゼロだぞって。まあ、あたしにはどうこう言えませんけど、とにかく、とりつく島がない人でした。頭の中は文章のことでいっぱいで、他のことで口をきくのは、もうめんどうくさいってことだったのでしょうか。何か、いつも考えておられたんでしょうねえ》

医者から「人間としてはゼロ」といわれた北條民雄に、わたしは興味をもった。
そして「人間としてはゼロ」といわれた人間の書いた作品を、読みたくなったのである。
ハンセン病に冒された北條民雄が『いのちの初夜』という衝撃的な小説を書いたということは知っていたが、わたしには遠い存在だった。
で、つぎの本を入手し、憑かれたように読了。
 悗い里舛僚虧襦(北條民雄/角川文庫/昭和30年初版)
◆慊賈棔)黙衞瑛坐棺検拆絏軸(創元ライブラリ/1996年初版)
『火花 北条民雄の生涯』(高山文彦/角川文庫/平成15年初版)

  *

高山文彦については、かつて朝日新聞に連載された神戸の少年Aに関する一文を読み、惹きつける文体と独特の視点に注目していた。
高山文彦『火花 北条民雄の生涯』には一気に読ませる熱気がある。
大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞をダブル受賞した作品だが、それにふさわしい。
濃厚な内容なので、読みかえすたびに発見がある。
佐野眞一とは文体がちがうが、ノンフィクション作家として同じ資質をもっているように思う。
1978年夏、ある学生組織の執行委員をつとめていた高山文彦は、下宿に帰らず寝泊まりしていた学生会館の地下の固い寝台の上ではじめて『いのちの初夜』を読み、「単純で冷厳な生命肯定の大いなる讃歌」を受けとめる。
以後、北條民雄を書きたいと願いつづけ、東海教育研究所の月刊誌「望星」に連載した『霖雨 北条民雄の生と死』を『火花 北条民雄の生涯』と改題し、改稿と加筆をおこなって1999年、飛鳥新社より刊行。2002年、角川文庫に。

北條民雄はペンネームで、北條は母方の姓。
執筆しなくても、ハンセン病の療養所に入ると本名を棄て、自分でつけた名をなのることを強要された。
いまだに北條民雄の本名は明かされていないし、出身地も徳島県那賀郡としか明らかにされていない。
現存する差別の根深さに慄然とする。
高山文彦は北條民雄の本名を知っているが、『火花』のなかで公表していない。

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北條民雄の略歴】(『火花』を参照)

●1914年(大正3年)9月22日、陸軍経理部配属の軍人を父に、朝鮮京城府(現在のソウル)で生まれる。
●1915年(大正4年・1歳)、母の急病死により両親の郷里徳島県那賀郡の母方の祖父母にあずけられる。
●1917年(大正6年・3歳)、父が退役によって帰郷、父と継母に引きとられる。
●1930年(昭和5年・16歳)、ハンセン病の兆候があらわれる。
●1931年(昭和6年・17歳)、3つちがいの兄が肺結核で他界。
●1932年(昭和7年・18歳)、17歳の遠縁の女性と結婚。
●1933年(昭和8年・19歳)、2月、妻と別離。3月、徳島市の病院でハンセン病の告知を受ける。
●1934年(昭和9年・20歳)、5月上旬、親友と華厳滝へ自殺に行き、親友だけが自殺。5月18日、父に伴われ全生病院に入院。8月、川端康成へ最初の手紙を書き、10月、好意的な返事を受けとる。
●1935年(昭和10年・21歳)、「間木老人」が「文學界」11月号に掲載。このときのペンネームは「秩父號一(ごういち)」。「十條號一」と書き送ったのだが、本名を知っている川端康成の配慮で変えられた。
●1936年(昭和11年・22歳)、「最初の一夜」が川端により「いのちの初夜」と改題され、「文學界」2月号に掲載。このときよりペンネームを北條民雄と定める。「文學界賞」を受賞(賞金100円)し、芥川賞候補となる。12月3日、生前唯一の作品集『いのちの初夜』を創元社より出版。初版2500部、1円50銭。出版から3ヵ月足らずで1万部を売り、1年未満で2万部を売った。
●1937年(昭和12年・23歳)、12月5日午前5時35分、九号病室にて安らかに息をひきとる。"癩"では死にたくない、といっていた北條民雄の願いどおり、死因は腸結核に肺結核を併発。院内での死者番号は1560番。
●1938年(昭和13年)1月、『いのちの初夜』14版を重ねる。4月、川端康成編纂『北條民雄全集』上巻、創元社より刊行。6月、下巻刊行。上下巻とも7500部で刊行され、2円20銭という高価な本なのに版を重ねていった。装幀は青山二郎。

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1933年(昭和13年)2月、小林多喜二が築地署内で虐殺される。
同年10月、川端康成、小林秀雄、武田鱗太郎ら同人8名が文化公論社より創刊した「文學界」は、経営面で難航する。そのことに『火花』は触れていて、文士としての小林秀雄が描かれている。
北條民雄は15歳のとき、小林多喜二の『不在地主』に衝撃を受け、18歳のとき葉山嘉樹に文学志望の手紙を書き返事をもらう。その3ヵ月後、友人らとプロレタリア文学同人誌「黒潮」を創刊。短篇「サディストと蟻」を掲載するが警察に回され、廃刊。
北條民雄はいずれ病が進行し、盲になったときのために女性が必要だと考えていた。そこに北條民雄の思想性をみて、わたしは失望する。

北條民雄が全生病院に入院した3ヵ月後、なぜ川端康成に手紙を書いたのかは不明だという。
療養所では、郵便物はすべて開封・検閲された。
最初の手紙を受けとった36歳の川端康成は、懇意にしている慶応病院の医師に"癩病"について詳しく話を聞いた。肺結核よりも感染率が低く、まったく問題がない、と知った。
川端康成は「才能は大丈夫小生が受け合います。発表のことも引き受けます」と北條民雄宛の手紙に書き、肉親のように情愛を注ぎつづけた。
北條民雄の「間木老人」「いのちの初夜」を、川端康成・小林秀雄および周辺の文学者たちは絶賛した。
芥川賞の選考委員をつとめていた川端は、第三回芥川賞候補になった「いのちの初夜」が受賞できぬことも承知していた。そうなれば北條民雄の身元が暴かれ、肉親縁者にとりかえしのつかない迷惑がかかるからである。

わたしは川端康成の「雪国」は好きな作品なので、創元社からの「雪国」刊行と北條民雄とのかかわりが同時期なのを知り、不思議な気分になった。
川端康成より2歳下の梶井基次郎(1901〜1932)は、1926年(昭和元年)の大晦日、肺結核の療養生活のため伊豆天城山中の湯ヶ島温泉にたどりついた。(このとき北條民雄は12歳)
翌日、1927年(昭和2年)の元旦、湯本館に投宿していた川端康成に面会を求め、親切にしてもらう。
毎日訪ねてくる梶井基次郎に、川端康成は『伊豆の踊子』の校正を依頼した。「作品の心の隙を校正した」梶井基次郎に狼狽した。
梶井基次郎は川端康成に批評してもらいたくて同人雑誌「青空」を持参した。しかし川端康成は、梶井基次郎の作品にまったく関心を示さなかった。
北條民雄に対する川端康成の親身な対応が強調されている『火花』を読みながら、梶井基次郎に対する冷淡さの意味を考えた。

  *

遅ればせながら「いのちの初夜」を読み、北條民雄の才気を感じた。まさに芥川賞にふさわしい作品だ。重苦しい世界を描いているにもかかわらず、北條民雄の筆が冴えているので、一気に読める。業病とされた"癩病"がハンセン病と呼ばれ、快癒するようになったいまでも、「いのちの初夜」は古びていない。
遺作となった「吹雪の産声」と「道化芝居」が、わたしは好きだ。

"癩者"を冷たくつき離した北條民雄の筆致は、同病者には受け入れられないだろう。北條民雄の作品には独特のユーモア感覚があり、創作の核となっているように思う。
「傲然を愛した」北條民雄には全生病院で友だちが少なかった。が、兄のように慕っていた東條耿一(こういち)と光岡良二というふたりの文学仲間との友情にはほっとする。
当然ながら友人たちは、北條民雄を鋭く観察しながらも好意的な解釈をしている。
東條耿一が描いた北條民雄の肖像画は遺影として飾られたが、『北條民雄全集』上巻の巻末に掲載されている。「昭和55年版付録」として。自己顕示欲の強そうな人相で、わたしはあまり好きになれない。

北條民雄の作品や日記を読むと、"癩者"である自己を拒絶したまま死んでいったことがわかる。
「文學界」の追悼特集(昭和13年2月号)に掲載された東條耿一の「臨終記」によると、《俺は恢復する、俺は恢復する、断じて恢復する》が北條民雄の最後の言葉で、息の絶える一瞬まで意識がはっきりしていた。そして《彼の死顔はじつに美しかった》。
光岡良二は同じく上記に掲載された「北條民雄の人と作品」の末尾で、《今にして私は、自分が北條の苦悩を食って生きていた事に気付くのだ。北條は何時までも私の中に、はげしく燃えながら残っているような気がする》と記した。
だが北條民雄のはじめての評伝『いのちの火影』のなかで光岡良二は、文学仲間として屈折した心情を吐露している。

《彼が死んでしまった今、私にはそれらの作品も新進作家としての文壇の評価も、一様に影の薄い、空しいものに思われてくるのであった。確かなものとしてあるのは、癩菌と結核菌に蝕み尽された、土気色に皺ばんだ亡友の死体だけであった。私は自分が彼にとっては結局よい友人ではなかったことをはっきりと感じないわけには行かなかった》

北條民雄の亡骸を眼にして「残忍な生者感」をもった光岡良二は、川端康成に「青年」を改稿し長編を書いてみないかと励ましの手紙を受けたが、自分には小説家としての苛烈なリアリズムが備わっていないと筆を折った。そして戦局がすすむなか、10年ぶりに社会復帰したが、昭和12年、再発により療養所にもどった。
その後、光岡良二は詩や俳句をもう一度書きはじめ、癩予防法改正の闘争にも身を投じ、平成7年、82歳で他界。
北條民雄は社会復帰した"癩者"をテーマに作品を書こうとしていたので、この光岡良二の体験は大いに参考になったであろうと、余計な空想をしてしまった。

東條耿一は北條民雄の遺骨を小さな箱に分骨して、日記とともに手元にもっていた。
眼に大きな不安をもつ東條耿一は、昭和11年に妹・立子の親友・文子と結婚した。
全生病院(明治42年開院)では、1915年(大正4年)、断種手術を条件に院内結婚が認められた。
文子は北條民雄の容体が悪化してからは、身のまわりの世話をしていた。
東條耿一は北條民雄の死後、とうとう盲目となる。
文子が昭和17年1月13日に急性肺炎で亡くなり、ひどく落胆した東條耿一は、同年9月4日に30歳で亡くなった。
東條耿一は熱瘤が内攻し、強い薬を常用したためはげしい下痢を起こし、腹膜を病んだ。さらに痔瘻のために膿が絶えず流れでた。
死の前夜、当直の看護婦に東條耿一は眠れる注射を求めた。しかし看護婦は、眠れる注射をするのは不要、という医師の言葉を冷たく伝えた。
妹の立子は廊下まで追いすがり、看護婦に何度も泣いてたのんだが、拒絶された。
東條耿一はその晩一睡もできないまま夜明けを迎え、朝の9時に息絶えた。死の床にあってもロザリオを手から離さず、祈りつづけながら逝った。

『火花』の序章と終章は、東條耿一の妹・渡辺律子の回想である。
高山文彦は多磨全生園(1941年・昭和16年、全生病院が厚生省に移管され、多磨全生園となる)に暮らす渡辺律子の四畳半の小さな部屋に上げてもらい、2時間話をうかがったという。当時、多磨全生園で北條民雄を知る唯一の人間だった渡辺律子は、2003年、86歳で肺炎にて急死したので、これは貴重な証言となった。
東條耿一は1933年(昭和8年)4月21日に20歳で全生病院に入院し、同年、妹も入院。同年3月に東京帝国大文学部に籍を置く光岡良二も入院していた。

『火花』で印象的なのは、徳島市内に住んでいる高山文彦の友人が昵懇にしている喫茶店のあるじの妻に、北條民雄の墓地を教えてもらい、たどりつく場面だ。
北條民雄の実名の一字が盛り込まれた戒名を刻んだささやかな墓があったが、ある北條研究家が墓を訪れ、写真を撮り、雑誌に発表した。戸籍抄本までとり、役場や小学校、級友たちを訪ねまわり、実父にも会った。それらが親族のこころを傷つけ、墓石から実名の部分を削りとったという。
近くで畑仕事をしていた老婆に北條民雄の墓についてたずねると、実名をあっさり口にし、案内してくれた。
つぎの老婆の発言に、わたしはぎょっとした。ひとの口というのは侮れない。
「そう、たしかに北條民雄という小説家がそこの家から出て、東京のほうで立派な小説を書いて有名になったらしい。もう随分むかしの話やわ。その人はまだ若かったんやけど、なんていうたかのう……。皮膚病、そう、重い皮膚病に罹って死んだと聞いてるわ。顔や手やらが腐る病気らしいわ」

上記の研究家の軽薄さが作用しているのだろうが、それがなかったとしても、どこからともなく北條民雄の消息は漏れるのではないかと思う。
民雄が全生病院に入院するとき、父親は本籍から籍を抜いた。
民雄の死の翌日、遺骨を引きとるために来院した父親は、民雄の友人たちにすすめられて鎌倉の川端邸を訪ねた。
父親は昭和47年、85歳で他界。

  *

1938年12月6日、光岡良二が打った電報で民雄の死を知らされた川端康成(38歳)は、創元社の小林茂(35歳)とともに弔問。川端が生前の民雄と会ったのは1回だけで、前年の2月、鎌倉駅前の蕎麦屋にて。
川端はお葬式の費用を準備してきたが、事務員に費用は病院で負担し、遺族からはいっさい受けないといわれる。
ふたりは霊安所で民雄の死に顔をみて、「綺麗じゃありませんか」「綺麗ですね」とささやきあった。
「綺麗」というのは、癩の結節や斑点があらわれていないという意味である。
いままで弔問にやってきた数少ない人びとのなかで霊安所にまであがったのは、ふたりだけだと知らされた。
川端康成は『寒風』という小説で、北條民雄の遺骸について巧みに表現している。

《小柄の故人はおかしいほど小さく寝ていた。子供のように小さいと言うより、安物の人形でも棄てたようだった。「死ぬ時はずいぶん痩せていました」と事務の人が言うとおり、人間の体らしい厚みはなかった。銘仙の袷(あわせ)を着せられていたが、長くて足はかくれていた。……全く衰えきって力つきて死んだ顔だった。瞼は深く窪み、眼球の形が突き上がっていた。貧相な顔が異常に小さくなっていた。眉も髪も薄い感じだ。可哀想にと言って、むしろ笑いたくなる。骨ばかりの小さい手を胸に合わせていた》

常に自殺願望があり周囲を騒がせながら、23年の短い生涯を生ききった北條民雄だった。
一方川端康成は、1961年、文化勲章を受章し、1968年、ノーベル文学賞を受賞。
1972年4月16日、逗子のマンション・マリーナの仕事部屋でガス自殺。
こちらで、1961年より1972年の自裁まで川端康成の担当編集者だった伊吹和子が、川端康成の人物像について記したのを読むことができる。
以前にわたしは、NHKラジオ第2で伊吹和子の講演を録音したのを聴いたことがある。その内容と重なる部分がある。
自分の小説は編集者との共同作業だと、川端康成は考えていたという。
ノーベル賞の受賞式にでかけるすこしまえ、源氏を訳してみようかと思っているので手伝ってほしい、と川端康成にいわれた伊吹和子は夢中になる。しかし勤務していた中央評論社の上司に、ノーベル賞のお祭り気分のなかで冗談をいわれたのだと鼻であしらわれる。
源氏訳に5年はかかるのだが、川端康成の自裁はそれから3年半後である。
伊吹和子は川端康成がいかに骨身を削って作品を生みだしていたかについて記し、川端康成の死に顔について、つぎのように表現している。

《先生は、白い布の中で眠っておられた。はっと声を呑むほど安らかで、幼児のようなあどけない寝顔であった。父の死を見た七歳の時以来、私はどれほど多くの死顔に逢っただろう。しかし、こんなにうつくしい、こんなに穏やかな死顔は初めてだと思った》

  *

余談だが、臼井吉見『事故のてんまつ』(筑摩書房/1977年)を読みかえした。
本書は「展望」(1977年5月号)に掲載、同年5月30日に単行本として刊行。
川端康成とおぼしき「先生」がひどく気に入った縫子という少女を、熱心に頼みこんで家のお手伝いとして迎える。
11月2日、気のすすまぬ縫子は周囲の説得に負け鎌倉長谷の先生宅に行く。5ヵ月の約束だから、来年の3月までと自分にいいきかせて仕事をしていたが、先生や周囲の説得で4月いっぱいまでに延長した。
さらに、翌年の秋に京都で開かれる国際ペン大会があり、忙しくなるからそれまでいてほしいという先生と奥さまの懇願を縫子は拒絶した。
この縫子の拒絶が自殺のひきがねになった、という一点を柱にして、先生の孤独感と変人ぶりが漂う小説である。
縫子の語りになっているが、病的な先生と、どこまでも健全な精神をもつ縫子との対比がおもしろい。わたしは太宰治『お伽草紙』の「カチカチ山」をちょっと連想した。

北條民雄は死の1ヵ月ほどまえ、院内で療養生活を送っている10代後半の、親しく話したこともない少女への求婚の仲介を光岡良二に頼む。
「もし彼女が受け容れてくれるなら、それだけでも俺は希望をもって闘病していけると思う」というのが、民雄の勝手な論理だ。
11月5日、希望が潰えたことを光岡から知らされた民雄は、「自殺は考えるな。川端先生の愛情だけでも生きる義務がある」とその日の日記に記した。
川端康成にとって、最期の砦がお手伝いとして強引に身辺においた少女だったのだろうか。
少女との自殺願望があったといわれる川端康成は、ほんとうにその少女との心中を考えていたのだろうか。
いずれにしても、わたしに迫ってくるのは川端康成の孤独地獄である。

本書は川端康成の遺族から1997年7月、販売差しとめを要求されたが、8月に和解が成立。
本件について筑摩書房の編集責任者としてかかわっていた原田奈翁雄は、『職業としての出版人』(鈴木均編/中経出版/1978年)で記している。
「展望」1977年10月号に掲載された出版社としての見解(原田奈翁雄が起草)とは別の、原田奈翁雄の個人的見解は、公権力に訴えた川端康成の遺族に対し、「表現者の真の孤独や悲しさに、また、どんな誤解であろうと、表現者をめぐってはあり得るものであるというつき放した認識に、少しく身を寄せてお考えいただきたかった」。
さらに「部落解放」(1977年9月号)に掲載された木藤明の文章「『事故のてんまつ』は長野の部落に何をもたらしているか」で『事故のてんまつ』の少女が育った被差別部落の現状を具体的に描かれているのを読んだ原田奈翁雄は、編集者として自分のいたらなさに気づく。

ついでながら『職業としての出版人』は紙質が悪く装幀も感心しないが、内容は濃い。
ここに執筆した出版人のなかで、わたしが最も興味深かったのは、寺田博が「文芸誌――先輩編集長の薫陶」と題して、坂本一亀とおぼしき編集長について記している一文である。
大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したとき、「サルトルのように辞退すればいいのに」と憮然としていいはなった寺田博が、TVニュースで映された。一瞬の映像だったが、そのときの寺田博の顔をいまだに憶えている。


参照

ガラクタ箱

日本のハンセン病問題(ウィキペディア)

多喜二ライブラリー・ブログ










 

miko3355 at 17:16│TrackBack(0)文学 

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