2009年03月30日

長谷川泰子(村上 護編)『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』

前回の更新は2008/10/28。
雑用に埋没しているうちに、桜の季節になってしまった。
この間、更新していないにもかかわらずアクセスしてくださったみなさまには、ほんとうに申しわけなく思う。

2月初旬、『中也が愛した事務局』からメールをいただいた。
2007/06/03にアップした「中原中也と富永太郎展」を読まれたということで、「中也が愛した女」の舞台公演の案内である。
上演は2009年4月15日(水)〜19日(日)、赤坂レッドシアター
それから数日後、書店で長谷川泰子(村上 護編)『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』(角川ソフィア文庫)をみつけたので入手した。わたしが書店にいた時間は短かったのだが、たまたま買おうとした文庫本の隣りに本書があったのである。
1974年、講談社から刊行され、平成18年(2006年)に文庫化。
本書の編者・村上 護は、中原フク『私の上に降る雪は――わが子 中原中也を語る』の編者でもあり、両書とも聞き書きである。
長谷川泰子については、20代のわたしには神秘的な女性にみえていた。小林秀雄と中原中也の「奇怪な三角関係」や、中也の恋愛詩を読んで。
しかしいまでは、泰子や中也については興ざめである。
『ゆきてかへらぬ』を一気に読み、手許にある関連書を読みかえした。
そして久しぶりに富永太郎と、その周辺の世界にひたったのである。

本書を読んでまず感じたのは、長谷川泰子は基本的にパラサイト人間で浪費家だということ。自分を援助してくれる人間を直感的に嗅ぎ分け、ひとりでは行動しない。晩年はひとりぼっちだったようだが、わたしはそのころの泰子に最も興味がある。
本書の聞きとりが行われた1974(昭和49)年、70歳の泰子の写真が一葉掲載されている。
若いころから短髪だったというが、70歳でも短髪である。

  *

『ゆきてかへらぬ』を参考にした長谷川泰子略年譜

1904(明治37)年  5月13日、広島県広島市にひとり娘として生まれる。
1911年(7歳)    6月に父親が死去。その後、母親とは別居し、義兄にひきとられ、祖母に育てられる。
1923年(19歳)   8月、女優を志して家出。「大空詩人」の永井叔とともに上京。9月、関東大震災に遭い、永井とともに京都へ移る。劇団表現座(成瀬無極主宰)に所属。のちマキノ映画制作所に入社。永井の紹介で立命館中学3年の中原中也を知る。
1924年(20歳)   4月、中原中也と同棲。富永太郎や正岡忠三郎と知りあう。
1925年(21歳)   3月、中也とともに帰京した富永太郎を追って上京。4月、富永の紹介で小林秀雄(23歳)を知る。11月、中原と離別し、小林と同棲。
1928年(24歳)    5月、小林と離別。9月、陸礼子の芸名で松竹キネマ蒲田撮影所に入社。映画「山彦」(清水宏監督)に出演。
1930年(26歳)   12月、山川幸世(築地小劇場の演出家)とのあいだに望まぬ子を生み、中也が茂樹と命名。
1931年(27歳)    10月、「グレタ・ガルボに似た女性」(時事新報社内、東京名映画鑑賞会主催)に応募し、当選。中原から青山二郎を紹介される。
1932年(28歳)    青山二郎の紹介で、京橋の酒場「ウィンゾアー」、銀座「エスパニョール」、中野の「暫(しばらく)」などに勤める。
1936年(32歳)    中垣竹之助と結婚。
1937年(33歳)   12月22日、中原中也が鎌倉で死去。24日の告別式(鎌倉の寿福寺)に中垣竹之助、茂樹とともに参列。焼香の段になって激しく泣く。
1939年(35歳)    中垣竹之助の基金により中原中也賞(第一次/第三回で終了)が創設される。
1945年(41歳)   敗戦直後に中垣と別居。12月、世界救世教に入信。
1959年(55歳)     世界救世教本部(静岡県熱海市)に転居。
1961年(57歳)    東京に移り、日本橋でビル管理人になる。
1993(平成5)年    湯河原の老人ホームにて死去。享年88歳。

  *

「私はあまりによい環境のなかに入ると、いつでも潔癖性が頭をもたげます」という泰子は、小林秀雄と中垣竹之助との生活において潔癖性があらわれる。
中垣より小林に対してのほうが、潔癖症がひどかったのではないだろうか。
有能なプロデューサーである小林秀雄が泰子の狂気を引きだし、秀雄の狂気と泰子の狂気が呼応しているように、わたしにはみえる。
わたしは小林秀雄が好きにはなれないが、泰子に振り回されている姿は好もしい。
理不尽な泰子に徹底的な献身ぶりを発揮する小林秀雄には脱帽する。
何者でもなかった、批評家になるまでの小林秀雄に、わたしは親近感がある。
もともと家事が苦手らしい泰子は、潔癖性がひどくなったため、家でなにもしないでじーっと秀雄の帰りを待っていた。
小林秀雄の母親にすすめられて、泰子は21歳のとき佐規子と改名。
秀雄は泰子との生活を「シベリア流刑だ」といい、「心中するか逃げだすかだ」というところまで追いつめられていた。
ある夜、自制心をなくした泰子は、秀雄に「出て行け」と叫ぶ。
夜中の2時、秀雄は身ひとつで出て行く。
泰子にはそれが意外に思えたほど、徹底的に秀雄に甘えていた。

「もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした」と泰子は語っている。が、小林秀雄に対しては未練たっぷりだ。
泰子は中也の「田舎っぺ」なところを嫌悪し、東京人である小林秀雄のスマートさとやさしさが気に入ったようだ。
中也は「新しき男」である小林秀雄に泰子を奪われてから執心し、なにかと世話をやいている。
中也と泰子はよくケンカをし、立ち回りになるほどたったというが、わたしには近親憎悪にみえる。
小さくてやせていた中也が泰子に負けていたらしい。

中原思郎(中也の弟)がビル管理人になった晩年の泰子を訪ねてきて、「あんたも落ちるところまで落ちたね」。
即座に泰子はいった。
「とんでもない。私はいままで本当に働いたことがなかったけど、働きながら自分一人で生きていけるようになりました。それが、とってもすばらしいことのような気がするんです」
思郎は感心して「えらいこというね」といった。
「肝(きも)やき息子」と故郷でみなされていた中也が、中原家の財産を食い潰したという背景があるだけに、思郎の言葉には重い響きが感じられると同時に、滑稽でもある。
泰子が短命だったら、ほとんど働かないで一生を終えることができたのに……とわたしは思う。
中原中也は、30歳で夭折したから実家の財産で生きのびられたが、泰子のように長寿であれば悲惨だ。
それは24歳で夭折した富永太郎についても同様である。
中也や太郎とは対照的に、小林秀雄は泰子と同棲していたとき、学生の身で家を借り、アルバイトで生計を立てていた。泰子を養っていたのである。

 *

1924年2月、23歳の富永太郎は自活できず上海から帰国。6月、京都に遁走し、浄土寺の正岡忠三郎の下宿に滞在。9月、下鴨宮崎町に移転。この頃中原中也と交流。10月中旬、最初の喀血。12月、帰京。
翌年の1925年11月12日、24歳で永眠。

長谷川泰子が富永太郎について、つぎのように語っているのが興味深い。

《富永太郎さんはまったくの文学青年のようでした。もの静かな口調で、チェーホフのことなんか語られるんです。
 はじめて富永さんが出町に来られたときは、薄茶色の背広で、髪はわりあい長くしておられて、そのうえにお釜帽をかぶっていました。あの方の髪は赤毛で、こまかくちぢれた髪の毛だったから、お釜帽がよく似合うんです。ちょっと外人のようでした。
 富永さんは東京の人だし、上海などにも行ったこともあったんでしょう。なんとなく洗練されているって感じでした。髪をとくに意識的に長くしてみたり、わざとらしい恰好をつけてる、というのとは違うんです。洋服着てても自然で、いわば人柄で着るというんでしょう。あの人のおしゃれは、人柄の出たダンディズムというんですか、どことなく品がありました。
 あのころ、フランス製の陶器でできた白いパイプを売っていました。長さは三十センチぐらいでしたか、六銭ほど出せば手に入るんです。それを富永さんはいつも持っていて、しょっちゅう手でふいていました。それは素焼きだから、タバコを吸っているうちにタバコのヤニがしみて、いい色になるんです。だけど、長くたつと固まりすぎて割れるので、大事そうにあつかっていました。そんな長いパイプをくわえて街を歩くのが、また恰好いいんですね。京都は古典的な街ですけど、かえってダンディなものがよく似合うところもあるんです》

上記に「赤毛で、こまかくちぢれた髪の毛」とあるが、「中原中也と富永太郎展」でわたしがみた太郎の遺髪は黒い直毛で細かった。
東京人に憧れの強い長谷川泰子にとって、富永太郎は好もしかったのだろう。
夜遅くまで話していた富永は、泰子の手料理で夕食をともにしたらしい。
帰京の旅費(9円)を母親に送ってもらわねばならなかった経済力のない太郎にとって、この夕食は助かったのではないだろうか。当時はみんなが貧しかったので、質素な食事だとしても。

  *

白洲正子は『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)で、長谷川泰子を辛辣に描いている。
白洲正子の周囲では泰子をお佐規(咲)と呼んでいた。
白洲正子がお佐規さんと会ったときには、小林秀雄と別れて20年後で、中垣竹之助とも別れて、その日暮らしをしていた。
かつてグレタ・ガルボに似た美人だったお佐規さんは、「備前焼のビリケン様」に変貌していた。
「小林小林とお咲は言ふが、小林は昔お咲が見た小林ではない」と青山二郎がたしなめると、色をなしたという。
「仕事のない時は、友だちのところを托鉢して回るのよ」と話していたお佐規さんは、大岡さんや河上さんのところを何軒か廻ったあとで、必ず白洲正子の家へ来るようになった。
小林秀雄は「お願いだから止めてくれよ、お佐規のためにならないから」と再三再四いわれたが、断ることはできなかった。
ある日、お佐規さんは呟く。
「今、あたし、横浜の近くに住んでいるので、漁師のおかみさんたちといっしょに岩のりを採ってるの。だけど、あたしは空を眺めて、色んなこと考えてるでしょ、ちっとも仕事がはかどらないのよ。あたしほどの女が、なぜあんなおかみさんたちといっしょに働かなくちゃならないのかと思うと、馬鹿馬鹿しくて……」
このとき白洲正子は小林が「ためにならない」といった意味がわかり、いつものようにお金をせびられたが、渡さなかった。
神通力が役に立たなくなったと知ると、お佐規さんは二度と白洲正子の家には現れなかったという。

  *

長谷川泰子は57歳でビル管理人になり、12年半働いたあと、ホテルの帳場に半年ほど座り、そののちはひとり静かに暮らしていたという。
1974(昭和49)年、70歳のとき、『ゆきてかえらぬ 中原中也との愛』を講談社から刊行。
1976(昭和51)年、72歳のとき、映画「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督/佐々木幹郎脚本/シネマ・ネサンス制作)に出演。
それから88歳で老人ホームで死去するまでの16年の歳月は、どのような暮らしだったのだろう。
茂樹について泰子は語っていない。
語りたくない関係だったのだろうか。
結婚した中垣竹之助は、茂樹も自分の子どもとして籍に入れるといったが、それまでどこの籍にも入っていなかったので、手続きが複雑で弁護士に処理させたという。
そんなところにも長谷川泰子の無頓着さがあらわれている。







miko3355 at 22:57│TrackBack(0)文学 

トラックバックURL