2015年12月23日

ニキ・ド・サンファル展

昨年の9月にアップしたまま更新できずにいた。
気づくと、ことしも残り少ないのだ。
とにかく時間がないのだが、とり急ぎひとつだけアップすることにした。

ニキの生誕85年目に開催されたニキ・ド・サンファル展については、10月18日に放映されたEテレ「日曜美術館」を観た。
六本木にある国立新美術館まで足を運ぼうとは思わなかった。
ところが、縁あって招待券が2枚送られてきたので、友だちを誘って観にいったのが11月末だった。

美術展でわたしはいつも観る速度が速いので、友だちとは別に動いた。
出口に近づいたころ、突如、わたしの脳にマイナスのスイッチが入り、わたしのお腹が壊れたのを感じた。
脳と胃腸が深く結びついているとはいえ、からだは正直だった。
出口近くにショップがあったので、ポストカードを数枚急いで買い、ニキ展から脱出した。
出口の正面にあるイスに座っていると、友だちから携帯に電話があった。
ニキの絵を買いたいので、一緒にみてほしいと。

ショップに行くと、最近、家を建てかえた彼女は、玄関に飾る絵を探していたという。
カラフルな抽象画のなかから小さなサイズの絵を2点選んだものの、大きなサイズ1点にすべきか決めかねていた。
ショップの女性とわたしが大きなサイズを勧めたこともあり、かなり迷った末にそちらを選択した。
クリスマスまでには自宅に絵が届くらしい。
わたしはさらにポストカードを数枚と、のちにネットで注文しようと考えていた『ニキとヨーコ』(黒岩有希/NHK出版)を買い加えた。
美術展の図録は内容が充実しているので買うことにしているが、ニキについてはその必要性を感じなかった。

それにしても不思議だ。
ニキを知らなかった彼女が、ニキのカラフルな色彩に魅了されて買った絵を玄関に飾り、彼女の家を訪れたひとがそれを目にする……。

わたしにとってニキの作品はひとことでいうと「違和感」だ。
受け入れがたい要素がある。
《ナナ》にも親しみを感じられなかった。
最も印象が強かったのは、「日曜美術館」を観たときと同様、《赤い魔女》である。
正視できないインパクトがある。
京都を訪れたニキが日本文化から影響を受けた《ブッダ》は巨大な作品で、不思議なエネルギーに満ちている。
わたしが気に入った作品は小さいが、《黒は特別》。

会場でわたしが驚いたのは、ほとんどがYoko増田静江のコレクションだったこと。
本展では86%だという。

『ニキとヨーコ』という本を、とてもおもしろく読んだ。
ヨーコというのは増田静江の別名である。
絵を描き始めた増田静江が、雅号を「二樹洋子」YOKO NIKIとし、ふだんからヨーコと名乗のると宣言したのだ。
ニキが呼びやすい名前にしたい、との思いもあった。

ヨーコ増田静江の夫・通二はパルコの元会長で、父親は日本画家。
子どもたちが幼いころ通二に、「自分の給料は自分の好きに使いたい。自分の好きな絵を好きな時間に描くために、別のアパートにアトリエとして部屋を一室借りたい」といわれ、静江は受け入れた。
以後、同志としての関係はつづくが、通二が現役を引退するまで子どもの教育費を含めて、静江は経済的に自立している。
これだけでも偉業だが、静江はニキの世界最大のコレクターとして、那須に「ニキ美術館」を建てたのだ。
そして「ニキ美術館」建設には、通二の威力が発揮される。

「ニキ美術館」は1994年10月6日にオープンし、ヨーコの没後2年を経て、惜しまれながら閉館した。
2002年、ニキは71歳の生涯を閉じ、2007年には通二も亡くなった。
そしてニキの死から7年後の2009年、ヨーコは78歳で他界。
残されたのは、ヨーコが買い集めたたニキの膨大な作品と、ふたりが交わした500通の手紙である。

わたしが最も感銘を受けたのは、ニキとヨーコという女性同士の関係である。
ニキは自分が前世で魔女として火あぶりにされたと感じていて、ヨーコには自分がニキを火あぶりの刑に処した裁判官だったと思えた。
現世でどのように関係が修復されたかを知るために、『ニキとヨーコ』が多くのひとに読まれることをわたしは強く願う。
1998年、体調不良のなか来日したニキが、「ニキ美術館」を訪ねたときのニキとヨーコの場面は圧巻だ。



miko3355 at 15:25│TrackBack(0)美術 

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