社会全般

2007年08月07日

東電OL殺人事件から10年を経て

すべては佐野眞一著『東電OL殺人事件』からはじまった

5月28日、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」を仲間の女性3人で観たあと、至近距離にある円山町に立ち寄り、東電OLの足跡をたどった。
東電OL殺人事件については自分が書くべきことはないと思っていたが、実際に現場を歩いたことで、自分なりに書いてみようという気分になった。
Bunkamuraのシアターコクーンはわたしの好きなホールで幾度か足を運んでいたが、円山町は未踏であり、その異界ぶりをたしかめたかった。そう思いながら、すでに数年が経過してしまった。
円山町は京都の先斗町に土地のもつ空気が似ていると感じた。いずれも花街(かがい)だったのだから当然なのだ。
われわれが歩いたのは5月末の夕方だったので、まだ空は明るい。そのせいで円山町のホテル街は死んだようだったし、意外とわたしはそちらに眼がいかなかった。
わたしが東電OLの精神性に興味があるからだろう。

佐野眞一は円山町について、
《都会の隠れ里を思わせる小さな街区である。かりそめの空間ともいうべきその不思議な地理感覚が、円山町をなお一層、地上から浮遊した亜空間じみた色合いに染めあげている》
と記している。(『東電OL殺人事件』p.18〜p.19)
この感覚を体感できたことが、わたしにとって最も大きな収穫だった。ホテル街さえなければ、わたしには好もしい空間だった。「この世の外」という感じで、ひっそりとしている。
円山町も神泉駅近くの殺害現場(古びたアパートの空室)も、現世に居場所がないかのような東電OLにとって、居心地のよい異界だったのだろう。

1997年3月8日、東電OLこと渡辺泰子は、井の頭線・神泉駅の踏切近くにある木造モルタルの古ぼけたアパート・喜寿荘101号室で、最後の売春相手とおぼしき何者かに絞殺された。遺体が発見されたのは、11日後の3月19日。
この東電OL殺人事件が起きたころの記憶が、わたしにはない。したがってこの事件の報道が過熱し、被害者である渡辺泰子の母親がマスコミ各社に抗議の手紙を送ったことも知らなかった。世間は過剰な反応をしたらしいが、わたしにはまったく無縁だった。
わたしにとって渡辺泰子が忘れられない存在になったのは、佐野眞一著『東電OL殺人事件』(新潮社/2005年5月)を読んでからである。
444ページというけっこう部厚い本であるにもかかわらず一気に読みおえ、翌日、一気に再読したほどインパクトを受けたのである。以後、幾度読みかえしたか数えきれない。
なぜそれほど読みかえしてしまうのか? わたしには渡辺泰子の心理がまったく理解できないからである。それに加えて、円山町という土地の記憶に不可思議な興味をそそられた。

わたしはこの事件で佐野のように発情しないし、「黒いヒロイン」として渡辺泰子を崇める心理は解せない。佐野が彼女に「巫女性と予言性」をみいだそうとする姿勢には違和感しかない。もしわたしの周囲に彼女がいたら、友だちになりたいとは思わないだろう。
わたしの興味は、肉体的にも精神的にも娼婦として不向きな彼女が、どうして夜鷹のように円山町を徘徊していたのか、に尽きる。潔癖性だったという彼女が、反転して汚濁願望を実践する、その病理について考えさせられる。
拒食症で痩せほそった肉体で1日4人以上を相手に毎晩売春し、終電で帰宅する生活は、凄絶というしかない。おそらく仕事に集中するエネルギーは残されていなかっただろう。
彼女が売春をしていたことを、家族(母親と妹)や、東電の社員が知っていた、というのにも驚かされる。
一方、冤罪としか思えないネパール人・ゴビンダの行方が気になる。『東電OL殺人事件』には、警察の怪しい動きが記されている。

午後5時、勤務先の東電本社を退社した渡辺泰子は、地下鉄銀座線の新橋から渋谷駅で降り、109の女子トイレで変身する。泰子が変身して売春していた、素の自分ではないという点は重要だと思う。
泰子は手帳に「売春日記」をつけていたらしく、その行動には合理性が貫かれている。
なお泰子の自宅に残っていた最も古い手帳は1992年で、事件現場に残されたショルダーバッグのなかから発見された手帳には、1996年から事件当日の97年3月8日まで記載されていた。
泰子のアドレス帳には、東電時代の上司や東電の幹部も入っていたらしい。東電の泰子の机のなかから、ワープロで作成した顧客に対する売春行為の申し込み書や、ワープロ打ちされたホテルに対する詫び状などが見つかったという。
殺害された当時39歳の彼女は、「東京電力本社企画部経済調査室副長」という肩書きをもち、1000万円近い年収があった。また売春で得た1億円近いといわれているお金は、銀行に預けていたらしい。
ただ堕ちるだけではなく、しっかり経済活動をしている点にわたしは注目している。


道玄坂地蔵はみていた 

われわれは泰子がおでんを買ったというセブン-イレブン円山町店の店内には入らなかったが、わりに小さな店でひっそりしている。
そこからちょっと迷いながら神泉駅にきた。意外と渋谷駅から近い。殺害現場である喜寿荘は線路を渡ってすぐなので、迷いようがない。
喜寿荘は周囲の建物からとりのこされたような古びた建物で、1階の廊下は荒れていて、殺害された部屋にはひとが住んでいる気配がない。2階の窓が開いていた(網戸はない)ので、ひとが住んでいるのだろう。
地下にある「まん福亭」(真上が殺害された部屋)という居酒屋から中年の男性がでてきて、店の横にある発泡スチロールの箱から鰹を勢いよくとりだし、鮮度をたしかめるようにながめた。これからさばくのだろう。
連れのひとりが「道玄坂地蔵はどこにありますか」と訊くと、視線をわれわれからはずしたまま無表情で「知らない」という。ほんとうに知らないのか、説明するのが面倒なのか、わたしには判別できなかった。

わたしがみたいと念願していたのは、この道玄坂地蔵だった。
109で変身した泰子は道玄坂地蔵という小さなお堂のまえで、5年間日課のように客を引きつづけたという。
われわれは円山町をうろうろしたが、道玄坂地蔵を発見できなかった。
自然と道玄坂にでてしまい、道玄坂上の交番をみつけた瞬間、「まん福停」のまえで訊いたのと同じ彼女が勢いよく交番のなかに入り、道玄坂地蔵の場所を訊いた。
交番には20代の巡査が3人いて、いずれもさわやかな顔をしていた。そのうちのひとりが、一瞬やや意味ありげな笑みをみせ、すぐに職業人の顔にもどり、親切に交番から出て教えてくれた。それが職業だとはいえ、「まん福亭」の男性との差が際だつ。

交番のすぐ先を右折すると、驚くほど近くに道玄坂地蔵はひっそりと立っていた。
「ヤスコ地蔵」とひそかに呼ばれ、手を合わせにくる女性たちの姿が絶えないといわれていたお堂だが、事件から10年を経たせいか、それほど手入れがゆき届いているようにみえなかった。またその唇は塗られた口紅で赤く染まっていたらしいが、わたしがみた時点ではその痕跡はなかった。
中央に新しい仏花が2束供えられていて、左手にわりに大きなガラスの花瓶があり、水が濁っている。そこに持参していた花束を入れるのに抵抗があるので、しばらくみつめていたが、観念した。潔癖性のわたしは、自分の全身が汚濁したような気分になりながら花束を入れ、手を合わせた。「安らかにお眠りください」と念じて。
同行したふたりは、わたしより先に手を合わせていた。

『東電OL殺人事件』(p.340)によると、道玄坂地蔵は宝永3(1706)年、道玄坂上に建立された。円山町あたりは江戸時代火葬場があったため隠亡谷と呼ばれ、近くには地蔵橋という橋もあった。花街として発展するのは明治24(1891)年頃からで、新橋から赤筋芸者と呼ばれた客に不都合のあった16人の芸者衆が、花柳界を開いたという。
戦後、道玄坂から円山町に移されて以来、地蔵の前に設けられている賽銭箱の金は道玄坂地蔵の名義で近くの八千代信用金庫に預けてあり、慈善事業活動に役立てているという。
しかしわたしが眼にした限り、この賽銭箱はみあたらなかった。

ネット上には東電OLに関する画像がたくさんアップされているが、『COSMOPOLITAN』(2002年12月号)に掲載された、【開かれた「パンドラの匣」】と題された佐野眞一の一文に挿入されている、藤原新也の写真が抜群にいい。この雑誌が発売された当時から気に入っていたが、現場を眼にしたいまのわたしは、さらに彼の表現者としての手腕に感心する。
記事はp.129〜p.135にわたり、写真はつぎの3ページ全面。
p.131……闇のなかで円山町のホテル街を横切る猫
p.133……夜のまん福亭
p.135……灯りのともる夜の道玄坂地蔵


円山町・神泉という土地の記憶

『東電OL殺人事件』に佐野眞一は、作家の大岡昇平が日本人には珍しい精緻な地理的感覚の持主だったことも、幼少期を過ごした渋谷という町の地理的感覚とおそらく無縁ではない、と記している。
ちなみに大岡昇平の家に近い富永太郎の家は代々木富ヶ谷1456番地(現神山町22番地)にあった。太郎が道玄坂を散策していたことが、遺された手紙からわかる。
余談だが、大岡は太郎の弟・次郎と同い年で成城学園中等部で同級。ふたりが知り合ったのは太郎が死んだ1925年11月12日から1ヵ月もたたない12月の上旬で、太郎の死んだあとの雰囲気がまだ富永家にあったという。

佐野によると、円山町が花街から旅館街にかわる流れの先鞭をつけたのは、岐阜グループと呼ばれる、富山県境に近い岐阜の奥飛騨にある御母衣(みぼろ)ダムの工事にともなって水没した村の人々だったという。
ついでながら、「水になった村」(監督・撮影/大西暢夫)という映画が、8月4日から東京都中野区のポレポレ東中野で公開されている。舞台は日本最大のダム湖に沈んだ旧・岐阜県徳山村である。

佐野は円山町という土地の記憶についてさまざまな角度からアプローチしているが、その意味で中沢新一著『アースダイバー』(講談社/2005年5月/装幀・菊地信義)は、とても興味深い。巻末に折り込み Earth Diving Mapがついている。
なお本書は『東電OL殺人事件』から5年後に刊行されている。
若い友人にコンセプトを伝えて、コンピューター上で描いてもらったお手製のアースダイバー用の「縄文地図」と現在の市街地図をもって東京を散策した中沢は、現代の東京が地形の変化の中に霊的な力の働きを敏感に感知していた縄文人の思考から、いまだに直接的な影響を受け続けていることを発見する。
わたしが『アースダイバー』を入手したのは円山町を歩いたあとなのだが、中沢新一の皮膚感覚に共感できる。
円山町と神泉に関する興味深い箇所を引く。(『アースダイバー』p.064〜p.065)

《渋谷はまず、この道玄坂の中腹あたりから発達しだした。
 ひとつには、そこに江戸の人々にとって最大の信仰であった「富士講」の本部がおかれたからである。この信仰では、富士山が巨大な幻想の女体にみたてられ、山麓に点在する「風穴」と呼ばれる洞窟にもぐりこんで、象徴的な死と生まれ変わりを体験して、気分も新しく江戸に戻ってくるという、とても不思議なことがおこなわれた。その死と生まれ変わりの空間にむけて、人々はこの渋谷から出発したのだった。
 しかし、興味深いことには、道玄坂の裏側の谷には、別のかたちをした死の領域への出入り口が、つくられてあった。うねうねと道玄坂を登っていくと、頂上近くに「荒木山」という小高い丘があらわれた。いまの円山町のあたりである。この荒木山の背後は急な坂道になっていて、深い谷の底に続いていく。そこに「神泉」(しんせん)という泉がわいていた。
 この谷の全域がかつては火葬場で、人を葬ることを仕事とする人々が、多数住みついていた。神泉の谷は、死の領域に接した、古代からの聖地だったので、このあたりには、聖(ひじり)と呼ばれた、半僧反俗の宗教者が住みついていた。彼らは泉の水をわかして「弘法湯」(こうぼうゆ)という癒しのお湯を、疲れた人々に提供していた。地下からわいたお湯につかることで、人は自然の奥底にひそんでいる力に、直接触れるのである。だから、お湯へつかることは、また別の意味の、「小さな生まれ変わり」を体験することでもあった。   
 道玄坂はこんなふうに、表と裏の両方から、死のテーマに触れている、なかなかに深遠な場所だった。だから、早くから荒木山の周辺に花街ができ、円山町と呼ばれるようになったその地帯が、時代とともに変身をくりかえしながらも、ほかの花街には感じられないような、強烈なニヒルさと言うかラジカルさをひめて発展してきたことも、けっして偶然ではないのだと思う。ここにはセックスをひきつけるなにかの力がひそんでいる。おそらくその力は、死の感覚の間近さと関係をもっている》

渡辺泰子は売春を重ねるたびに、死の領域に近づいていったのではないか。拒食症のせいで痩せほそり、さらにダイエット錠を常用していたという彼女にとって、売春は強力な死への牽引力だったのではないだろうか。
それにしても、そもそもセックスを商品化するとは、どういうことなのか?
わたしには本質的に商品化できないものとしか考えられないのだが。
エコノミストで合理主義者の彼女が、貧弱な自分の肉体を商品化していたところが、なんとも哀しい。


京王井の頭線・渋谷発0時34分の吉祥寺行き最終電車

渡辺泰子が殺害される日からさかのぼった約2年間、同じ終電によく乗り合わせていた女性がいた。彼女の自宅は井の頭線の西永福駅から徒歩5分で、渡辺泰子と同じ駅で降りていた。彼女はフリーライター・椎名玲で、『文藝春秋』(2001年6月号)に寄稿した【現代のカリスマ 円山町OL 淋しい女たちの「教祖」になるまで】と題する一文は、じつに興味深い。
渡辺泰子に思い入れが強いが面識のない佐野眞一には描けない、なまなましい渡辺泰子像が浮かんでくる。
上記から印象的な箇所を列記する。

―電の最後尾より二両目の後方ドア前が定位置だった。
何度か、車中で酒のつまみのようなものをむさぼるように食べている姿を見かけた。
9いショルダーバッグをゴソゴソとかき回して口紅を取り出し、電車の窓を鏡にして、唇の輪郭からはみ出すのを気にせず口紅を塗っていた。
じ領詭擇修了劼里茲Δ平燭断鬚げ従僂反燭胆屬文紅は、どこかレトロで生気のない顔を作りあげていた。腰までありそうな長い髪の鬘をかぶり、けだるくため息をつく。トレードマークのように真冬でもバーバリーのコート姿。コートの前はとめることなく、中の洋服が見えていた。印象的なブルーのツーピースを好んで着ていた。
チる電車の窓を見ながらよく笑みを浮かべていた。不思議な人だった。お世辞にもきれいとは言えないが、現世に魂がないかのようで、異質な吸引力があった。
ε甜屬陵匹譴如△海蹐咾修Δ砲覆辰身狃を支えたこともあったが、驚くほど軽い。足に包帯を巻いて辛そうに立っていときも「大丈夫ですか」と声がかけられない。やすやすと声をかけることができない、次元の壁を彼女から感じていた。
彼女の異変に気が付いたのは殺される半年ほど前からで、さらに激痩せして、頬の肉は削げ落ち、首筋が浮かび上がっていた。コートの下から見える足も異常にに細くなっていまにも折れそうだった。電車にゆられていると、呼吸さえも苦しそうに見えた。自宅のある西永福駅に到着し電車から降りたとたん、強風に煽られて反対側のホームの下へ落ちそうになったこともあった。
┛貪戞彼女の手に偶然触れたことがある。体温がまったくないような冷たい感触。この先この人は生きていけるのだろうかと、胸騒ぎを感じた。

109で変身した泰子は、帰りの終電の車内でもそのままの姿だったようだ。
自宅で長髪のカツラをはずし、濃い化粧を落とす。売春手帳に書きこむのが1日の締めくくりだったのだろうか。
そんな彼女の姿を想像していると、ダブルフェイスの境界線はどこに引かれていたのか、と考えてしまう。
売春行為によって自我のバランスをとっていたと思える泰子は、虚像が実像を呑みこんでしまう寸前に何者かによって生のピリオドを打たれた、という解釈もできる。
佐野によると絞殺されたとき抵抗しなかったらしいが、とうのむかしに渡辺泰子は死んでいたのだろう。
その時期を厳密にいうなら、過剰なまで尊敬していた父親を亡くした20歳のときだったのではないか。父親とは精神的な意味での近親相姦はあったらしいから。
東電の重役になる一歩手前で父親がガンで他界したとき、康子は慶応大学の学生だったが、このとき最初の摂食障害が起きている。そしてお嬢さん育ちの母親に代わり、一家の大黒柱として生きてゆくことを決意したという。


殺害された1997年3月8日(土)の渡辺泰子の足跡

『東電OL殺人事件』から事件当日の泰子の足跡をまとめてみよう。
11時25分、定期で西永福駅の自動改札口をくぐり、渋谷で下車。東急本店でサラダを買ったあと、山手線で五反田に向かった。西五反田2丁目のホテトル「魔女っ子宅急便」に着いたのは12時30分。「魔女っ子宅急便」につとめはじめたのは1996年の6月か7月で、源氏名は「さやか」。勤務日東電が休みの土・日・祝日。
5時30分頃まで客からの電話を待ったが、ひとりも客はつかず、5時30分過ぎに、すすけた感じのブルーのツーピースの上にベージュのコートをはおって退店した。「さやか」は退店後30分ほどしてから、客から電話があったかどうかを確かめるため、渋谷の公衆電話から必ず連絡してきた。だが、3月8日に限っては、その電話がなかった。「さやか」は仕事熱心というか積極的な娘で、「どんなお客さんでも回してね」といつもいっていたという。
なお、泰子がクラブホステスのアルバイトをはじめたのは1989年頃で、渋谷界隈で売春をはじめたのは、事件の6年くらいまえからだという。

6時40分頃、渋谷駅近くでかねてからの客(60がらみの風采のあがらない男)と待ちあわせた泰子は、渋谷109の前を右折して東急本店方向に向かい、東急本店側に渡らず、左側を道なりに歩いて、セブン-イレブン円山町店に立ち寄った。そこでシラタキやコンニャクなど油っこくない具を一つ一つ小さなカップに小分けして買い、いつもの通り「汁をたっぷりいれてね」とアルバイトの女店員に注文をつけた。
店を出て50メートルほど行って左折し、円山町のラブホテル街に向かった。初老の男と午後7時13分に円山町のラブホテル「クリスタル」(連れ込み旅館のようなたたずまい)に入って4万円で売春した。
(泰子が客を直引きしていた売春の最低価格は2000円まで落ちていたらしい)

午後10時16分に「クリスタル」をチェックアウトしたあと、泰子はラブホテル街をつっきり、初老の男を道玄坂上交番付近まで見送り、道玄坂から神泉駅方面に向かう路地を歩いていった。そのあと道玄坂方面に戻るという奇妙な行動にでて、「ねえ、遊びません、ねえ、遊びません」といって大っぴらに客引きをはじめた。
深夜の11時45分頃、喜寿荘101号室に東南アジア系の男と一緒に入ろうとしているところを目撃されている。
殺害される寸前まで、まことに"勤勉な生活"というほかない。


佐野眞一著『東電OL症候群(シンドローム)』

『東電OL症候群(シンドローム)』(新潮社/2001年12月)は、『東電OL殺人事件』の続編である。本書に「渡辺泰子さんというのは、すべての事象を透視して見るまなざしの持ち主だったんじゃないかというのが、私の仮説です」(p.191)という佐野の発言が記されているが、わたしには納得できない。
本書の末尾に、佐野はなぜ東電OL殺人事件に「発情」したかについて触れている。
《行間には私個人の親と子、兄弟にまつわる誰にも話せない闇と哀しみを潜ませたつもりである》《宇宙にたったひとりで放り出されたような極北の孤独が「発情」の根源だ》といわれても、なおさらわからない。

本書に、東電OLのどこに女性読者が感応されたのを知りたい、という思いで佐野が会った女性読者が紹介されている。
小夜子さん(仮名)は、わたしが思うにはお門違いである。どちらかというと、ケッセルの小説『昼顔』に近いと思う。わたしは観ていないが、映画ではセヴリーヌをカトリーヌ・ドヌーブが演じたらしい。さぞかし妖艶だっただろう。ただし、セヴリーヌは夫を深く愛しながら売春宿で働いていたが、小夜子さんは夫に醒めている。
わたしが共感できたのは、1960年生まれで、父親が東電に勤めていたという柴田千晶さんの詩集『空室 1991-2000』(ミッドナイト・プレス/2000年10月)である。
柴田さんは佐野に手紙ではなく、この詩集を送ったという。
本書で一部が紹介されているのを読んで、すぐにわたしはこの詩集を入手した。が、いまは品切れらしい。
柴田さんは「泰子は私だ」と思って詩篇を書いたという。わたしは柴田さんの感性には惹かれるが、それはわたしがとらえている泰子の感性とは異なる。

佐野眞一が『東電OL殺人事件』を著していなければ、これほど話題にはなっていなかった、とわたしには思える。
読者たちはそれぞれの器量に応じて、渡辺泰子に共感しているのだろう。
いまのわたしは渡辺泰子に対する謎はさらに深まり、「ヤスコ地蔵」を崇めた女性たちのその後が気になる。


「週間新潮」2007年3月22日号に掲載された元大学教授の述懐

松田美智子(作家)が東電OL馴染みの元大学教授(経済学)から聞いた話が「週間新潮」に掲載された。東電OLが殺害されて10年後である。
印象に残った箇所を列記する。

〇件の3年前の夜、道元坂地蔵近くの路地で声をかけられ、最後に会ったのは事件前日の3月7日。3年間で彼女に支払った金の総額は168万円。
▲灰鵐機璽箸簇術館、京都で仏像巡りをなんども誘ったが、実現しなかった。
「私なんかリストラでいつ飛ばされるか分らない。あそこ以外では使い物にならないから」と言うので、経済調査室は情報の中枢をなす部署なんだから、無くなったりしないよ、と慰めた。
(註・『東電OL症候群』によると、泰子がつとめていた「経営企画室」は、組織改革されてなくなった)
に佑なによりひかれたのは彼女のクレバーさ、上品さ、気持ちのよさ。職業柄、ドクターコースの女性を大勢知っているが、きちんと理論が整理されているのは、彼女がトップ。
コ陲Δ海箸覆蕁彼女のお骨の前で懺悔したい。ご家族にもお詫びしたい。
事件から数ヵ月後、30年近く奉職していた大学を定年退職。彼女の冥福を祈りながら、余生を過ごしたい。
約1年後、彼女が葬られている墓地を見つけ、やっとお参りができた。大好きだったお父さんと同じお墓で、本当によかった。

彼の述懐を読んでわたしが疑問に思うのは、最後まで金銭が介在した関係だったところだ。
彼が渡辺泰子に対して親身に接していたとしても、彼女にとっては顧客のひとりでしかなかったのではないのか。
それでも、これほど泰子のことを死後も大切に思う人間が客のなかに存在していたとしたら、わたしは安堵する。
佐野眞一は彼に会わなかったのだろうか。


参照

東電OL殺人事件(新潮社のホームページより)

佐野眞一『東電OL症候群』(新潮社PR誌「波」2001年12月号より)
「ガラスの天井」を生きる女性たち
バレリー・ライトマン

ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめての中沢新一。

新たなランドマーク出現で変貌する 道玄坂坂上〜円山町周辺事情(シブヤ経済新聞)

渋谷三業地

雑誌における女性被害者報道の分析要約
武蔵大学:武蔵社会学論集「ソシオロジスト」No.1 
1999(平成11)年3月22日

東電OL殺人事件 無実のゴビンダさんを支える会








miko3355 at 13:10|この記事のURLTrackBack(0)

2006年09月14日

偽装請負

新聞をキッチリ読んでいるわけではないが、朝日新聞・朝刊がおもしろくないと感じてから久しい。夕刊と別刷り・beは、わりにおもしろい記事がある。
そんななか、2006/7/31付け朝日新聞・朝刊の1面に「偽装請負 製造大手で横行」という見出しを眼にしたとき、はっとした。
この違法な労働形態はたいへんな問題をはらんでいると思った。
3面にも関連記事があり、将来が見えない不安を抱えつつ漂う「偽装請負」の現場で働く若者たちの証言が記されている。
この3面記事で最も印象的だったのは、末尾の「冷たい視線」。そこから引く。

日本の製造業復活の陰で、顧みられることのない無数の若者たち。若い労働力をかき集めてメーカー側に供給する請負会社は、この10年で大きく成長したが、利益の源である彼らへの視線は冷めている。「仕事に不満があっても実際に声を上げることはほとんどない」と請負会社の元幹部。
 別の請負会社幹部も皮肉を込めて語った。
「最近の若者は、実力主義を『時給が100円高くなる工場へ移ること』と、はき違えていたりする。一生こんな賃金で使われ続ける彼らの将来は大丈夫かねえ。我々にとってはありがたい存在だけど……」


上記を読んでわたしは、20年近くまえ、「ゆとり教育」について聴いた講師の話が甦った。
それは当時わたしが住んでいた都内の図書館で開かれた集会だった。
「ゆとり教育」というのは、「みなさまのNHK」と同じくらいわたしにはわかりにくい。
その講師の説では、国が必要としているのは超エリートと従順な労働者である。
「ゆとり教育」によって授業ががわからなくなった子どもたちは、教育のシステムが悪いのではなく、授業がわからない自分が悪いのだと思いこむようになる。やがて彼らは従順な労働者に移行する。
一方、超エリートの養成として、大学院よりハイレベルの教育機関を新設する。

ゆとり教育は1977年にはじまり、1989年、1999年と段階的に授業時数が削減されている。
学力低下を懸念した親たちは子どもを塾に通わせ、そのことが公立学校の荒廃を招いた。
また経済力のない家庭の子どもは、塾に通うこともできないまま放置された。
いま、格差社会が大きくクローズアップされているが、それは用意周到だったのではないか。

話題になったNHKスペシャル 「ワーキングプア〜働いても働いても豊かになれない〜」が放映されたのは、2006/7/23だった。
なお、この番組をテーマにNHKは9/9に「NHKふれあいミーティング」(視聴者とNHK番組担当者の対話の場)を実施したらしい。ホームページで参加者を募っていた。

朝日新聞の記事は以下のようにつづく。

■8/1・朝刊
 松下系社員 請負会社に大量出向 
 偽装是正昨年指導 違法性回避索か
 労働局、実態調査へ

 「合法」なら広がる恐れ
 松下系の大量出向 派遣移行嫌う企業

■8/2・朝刊
 派遣採用への補助金
 受給後、請負に変更
 松下系工場 兵庫県から2億円
 
■8/9・朝刊
 偽装請負「経団連、是正を」
 連合会長 労組、目をつぶっていた 
      大量出向は一種の脱法

■8/13・朝刊
 トヨタ系が労災隠し
 愛知の工場 偽装請負 背景に

 労災隠し 偽装請負 発覚恐れ
 製造業で急増 「氷山の一角」

■8/22・朝刊
 製造請負 「労災増、下請け把握を」
 厚労省 発注元に協議会求める

■9/5・朝刊
 偽装請負の監督強化
 厚労省、悪質業者は処分


〔参照〕

偽装請負(asahi.com)


偽装請負(フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)







 


miko3355 at 11:53|この記事のURLTrackBack(3)

2005年09月20日

狂言回しとして存在意義のある小泉首相

謙遜ではなく、文字どおり政治に疎いわたしだが、以前から、TVに登場する政治評論家のなかで唯一風格を感じていたのが、森田実氏だった。何者なのだろうと思っていたのだが、最近、森田氏のサイトがあるのを知った。
小泉首相のメディア戦略について、メディアや幾つものblogが分析しているのをみききし、わたしは釈然としない気分になった。ところが下記を読み、溜飲がさがったのである。

2005.9.17(その1)
2005年森田実政治日誌[345]
早くも始まった“小泉個人崇拝”の大宣伝――小泉首相を神格化する愚劣な行為はやめなさい

(註・左側の「森田実の時代を斬る」というコンテンツから入ってください)
というのを読んでいたら、つぎのような記述があった。

「小泉人気さえ高めれば、小泉内閣が日本人にとってどんなひどい政治を行っても日本人は受け入れる」という考え方がブッシュ政権の対日戦略担当者にはある――という話を、日米関係にタッチしている知人から聞いたことがある。
「小泉人気を煽るために、ウォール街を通じて、多額の広告費を日本の広告独占企業に供給し、日本のマスコミを支配した」という話も聞いた。
 何人かの日米関係者に聞いてみると、誰もあからさまには口にしないが、上記のことは「日米関係者の間では常識になっている」ようだった。そのうちの一人はさらにこう付け加えた。
「ブッシュ政権の日本担当者は、日本人はバカだと考えている。マスコミ(とくにテレビ)を煽て上げ、広告費を出せば、なんでもする。日本のテレビは放送法に違反する行為を平然と行う。小泉政権の支持さえあればどんなことでもできると考えている。マスコミが小泉人気を高め、小泉を偉大な政治的大天才と思い込ませれば、小泉がどんなにひどい政治を行っても日本人は小泉についていく。日本人をアメリカのために働かせるためには、マスコミを使って小泉人気を高めればよいと、アメリカ側は考えている。日本のマスコミは日本国民の利益など考えていない。危険ですね。ほかにもあります。アメリカ側の日本における宣伝誌の一つが『ニューズウィーク日本版』。これは注意してみておいたほうがいいですよ」


そうすると、小泉は″狂言回し″ということになる。
「脱欧入亜」の時代にアメリカ追随というのは、時代に逆行しているし、「日本人をアメリカのために働かせるためには、マスコミを使って小泉人気を高めればよいと、アメリカ側は考えている」のだとしたら、単純に考えて、国益とは真逆な小泉政権を国民は支持したということになる。

また上記サイトで、森田氏は、朝日新聞および朝日新聞発行の雑誌の内容のひどさに憤り、《朝日新聞の記者や編集者を「知識人」と見るのはやめたほうがいいと思う》と述べている。そしてこう訴える。

報道関係の諸君。「ジャーナリストにとって、政治権力の手先になるほど恥ずべき堕落はない」――これが、戦後日本のジャーナリストの誓いだったことを思い起こしてほしい

2005.9.17(その2)
2005年森田実政治日誌[346]
「憂国の声」特集(40)

(註・左側の「森田実の時代を斬る」というコンテンツから入ってください)

上記には9/16に寄せられた意見が紹介されている。いずれもすぐれた内容である。
とりわけ強く共感できたのは、つぎの3点。
(森田氏のサイトの読者にはブロガーが多いらしい。紹介してほしいものだ)

【3】MYさんの意見「風が吹かなかった新潟より」
【6】MMさんの意見「50年来の朝日購読をやめました」
【12】Kさんからのメール「することがなくなったの歌をつくりました」


さて、「国立大学独立行政法人化の諸問題」というサイトがある。
自衛隊のイラク派兵についてセンスのよいアプローチをしていたので、そのころから注目していた。そこに、 黒田清「批判ができない新聞」が紹介されている。

黒田清(1931〜2000)についてはこちら

上記によると、黒田氏は亡くなる数日前に、うわごとで「福倖酒(ふっこうしゅ)が飲みたい」といい、霊前に供えられたという。
福倖酒とは、阪神大震災で多大な被害を受けた神戸・長田が震災からの復興を願い、製造した地酒。

わたしは、(嫌味のない)みるからにシャープなひとも好きだが、黒田清のようなひとにも魅了されるので、すい臓がんのために69歳で逝ったと知ったときはショックだった。手術後にみせた姿を含め、どこか不死身のような風貌だった。
そのひとの死が、なにかの終焉を告げるケースがある。黒田清もそのような存在だったと思える。





miko3355 at 15:00|この記事のURLTrackBack(0)

2005年09月15日

粛正

天木直人氏の存在を知ったのは、「噂の眞相」(いまは休刊)誌上だった。
ほどなく『さらば外務省!』(講談社)を読み、力強い筆力と内容にこころを揺さぶられた。
その後、田原総一郎のTV番組「サンデープロジェクト」に天木氏が出演したのを観て驚愕した。「ひとのいいオジサン」にみえ、筆力から受けるイメージとはほど遠い。そのときの彼の発言は記憶に残っていない。
その後、天木氏のサイトを閲覧し、メルマガを読むようになった。文章はいつも迫力があったし、内容についても同意できるものばかりだった。それにもかかわらず、しだいに虚しさをおぼえるようになった時点で、天木氏の出馬を望んでいる自分に気づいた。

今回、天木氏が小泉首相と同じ神奈川11区から立候補されたのを知ったとき、熟慮の末だということはわかるが、不可思議だった。
平和への勝手連」の【2005/08/29 出馬の意味】によると、

天木さんの会見には新聞がほぼ全社、テレビもNHK,TBS、神奈川 テレビなどが来ていて、横須賀市庁舎4階の狭い記者会見室は満杯で、 質問も活発でした。当然、みなさんがおっしゃっている「主張が正しいのは分かるが、民主党の票を奪うだけで、無意味な挑戦ではないか」と か「ドンキホーテでは」という質問も出ましたが、天木さんは自分が神奈川11区で出ることでメディアと国民の関心を引きつけ、選挙の争点 を郵政ではなくイラクからの自衛隊撤退に絞り、日本がアメリカ追従の戦争への道を選ぶのか、それとも平和の道へ立ち戻るのかの選択を有権者に問いたい、と答えました。そしてその主張は各紙に取り上げられました。風が起こり始めた、と私は捉えています

とある。
結局のところ、メディアは天木氏を黙殺したように思われる。
かつて天木氏をTV番組に出演させた田原総一郎も、同様だったと。では、なんのために小泉純一郎と刺しちがえる覚悟で(小泉氏はまったく疵を負っていない)外務省を辞した天木氏を出演させたのか?
視える刺客に国民は発情したようだが、視えない刺客のほうが怖ろしい。

神奈川11区の確定得票。

小泉純一郎(自 前) 197,037
斉藤  勁 (民 新)  50,551
瀬戸 和弘 (共 新)  11,377
天木 直人 (無 新)  7,475
羽柴 秀吉 (無 新)  2,874

一方、9/14にTBSラジオ「ストリーム」出演中の勝谷誠彦氏が「勝谷誠彦の××な日々。」おいて、管理人から以下のようなメールがきたが、無視していると語っている最中に削除されたことがわかった。削除された時間は判明しないが、当日の朝は削除されていなかったという。まことに臨場感があった。いつも過激なことを書いているが、そんなことははじめてだという。

2005/9/13の日記より引用。

勝谷誠彦 様
アカウント:31174

『さるさる日記』をご利用いただき、有り難うございます。
『さるさる日記』の管理人です。

勝谷誠彦様の日記には、当サイトの利用規約の禁止行為に
触れる内容が書かれております。

■ 規約
http://www.diary.ne.jp/rule.html

・特定の個人や団体、国や人種などを中傷する表現があった場合。

「2005/09/12 (月) まだこれは終わりの始まりの第一段階に過ぎないのだ。」

本来、このような内容の日記は、連絡無く削除いたしますが、
今回は「警告」とさせて頂きます。

9/13の17:00に再度確認させていただき、対応が
されていない場合は即刻削除させていただきます。

今後も、規約に反する内容が確認された場合は
事前の連絡なく、削除させて頂きますのでご了承ください。


「粛正」されるのは自民党議員や有名人だけではない、ということを思い知らされた。そしてその自民党を圧勝させたのは、われわれ国民なのである。

削除されるまえの2005/9/12の日記はこちら

ちなみに勝谷氏を最初に知ったのはラジオ番組での発言だった。録音して聴きつづけたが、共感できる部分が多いので注目していた。ところがイラク戦争において、勝谷氏が一貫して武装勢力を日記にテロリストと書いたり、TVやラジオでそう発言するのにガマンできなくてメールしたが、返信はなかった。最初にべつの用件でメールしたときには、反論の返信があった。
(わたしは有名人にメールしたことがなく、この2度のメールは特別である。また勝谷氏は写真家でもあり、戦争中のイラクにも行って、危ないところを助かっている。凶弾に倒れた橋田信介は彼の師匠だという)

参考までに、2004/4/14(水) TBSラジオ「ストリーム」における勝谷誠彦氏の発言の一部をメモしたものを記す。パーソナリティは小西克哉氏だが、勝谷氏の発言はかみあっていない。

小西 総理大臣はテロリストといういい方はやめたほうがいいと思う。アメリカでも叛乱軍(はんらんぐん)といういい方はしても、テロリストといういい方をするのは、ブッシュと政権内部の人間だけですよ。ジャーナリストはそういうことはいわないですから。平気でテロリストという政治家は、その帰結を考えていない。これはマズイですよ。

勝谷 それは、いかにアメリカの意図を受けて、小泉さんと福田さんがすぐに話したか、だと思うんですよね。



miko3355 at 17:38|この記事のURLTrackBack(0)

2005年09月09日

欲望という名の電車

「益岡賢のページ」は、読み応えのあるサイトである。益岡氏の視点が明瞭で気もちがよい。2005/9/8ニューオーリンズは、ハリケーン・カトリーナについて的確に表現されている。キーワードは《米国にべったりとついて行っている小泉政権の行く末にある社会現象》だ。
2004年のイラク人質事件における「自己責任論」は、布石だったのだ。これからはわわれわれの生活を脅かす「論理」として、本領を発揮するだろう。

『さらば外務省!』――私は小泉首相と売国官僚を許さない(講談社・2003年10月)を書いた天木直人氏が、神奈川11区から無所属で立候補した。
*「日刊ベリタ」小泉強権政治を変えるための一石に 天木前駐レバノン大使が立候補の弁

益岡氏の一文の末尾に、

ニューオーリンズの電車(Street Car)は、テネシー・ウィリアムズ 『欲望という名の電車』のモデル

とある。にわかにニューオーリンズに親近感がわいた。以前に観た映画(1951年・米)と原作は、わたしのなかで共存している。ブランチ役はビビアン・リー。

新潮文庫版・小田島雄志訳『欲望という名の電車』の冒頭はつぎのとおり。

ニューオーリンズ市の〈極楽〉という名の街路に面した、ある町角の二階建ての建物の外側。その街路は、L&N鉄道の線路と、ミシシッピ河のあいだを通っている。そこは貧しい地区ではあるが、アメリカのほかの都市にある貧民地区とはことなり、一種の卑俗な魅力をそなえている

巻末に記された小田島氏の解説によると、「欲望という名の電車」の初演は、1947年12月3日、ブロードウェーのバリモア劇場。舞台は、ニューオーリアンズのフレンチ・クウォーター。
ウィリアムズは、1938年春、27歳でアイオア州立大学演劇科を終えたあと、居所を転々とする流浪の生活をはじめたが、このニューオーリアンズという南部の港町に魅せられ、何度もフレンチ・クウォーターのアパートを借りている。そのロイヤルという通りに、昔、「欲望」と「墓場」と書かれた二系列の電車が走っていた。

9/11の選挙を目前にしたいま、この「欲望」「墓場」という二系列の電車が、日本の地にも走っているのではないだろうか。





miko3355 at 14:03|この記事のURLTrackBack(0)