TV・ラジオ

2014年09月18日

NNNドキュメント「兄(おにい)   妹『筋ジスになって絶望はないの?』」

9月15日(0:50〜1:20)、日テレで放映された「兄〜おにい〜」を、なんの先入観もなく観た。
感動という言葉が薄っぺらく感じるほどのドキュメンタリー作品だった。

本作はNNNドキュメント44年の歴史上初の、監督が現役の学生だという。
大阪芸術大学映像学科の米田愛子さんが兄を描いた本作は、「第18回 JPPA AWARDS 2014」でシルバー賞を受賞した。

以下、記憶にまかせて印象に残ったことを書く。

妹の鋭いインタビューに対し、兄(おにい)は終始、笑顔で受け答えしている。
彼の透明な表情をみていると、現実世界やTVで人相の悪い顔をみてうんざりしているわたしには、救われる想いだった。
あと、部屋が整然としているのも心地よい。
肩に負担がかからないように工夫して服を着る映像がある。
裸の上半身は筋肉が衰えていて、痛々しい。

体操部に入った高校生の兄(おにい)は、いくら練習しても上達しなくて、先生に「からだがおかしいから、病院へ行け」といわれる。
筋ジストロフィーだと診断した医師に、「小学校のときからですよ」といわれた。
そのときは、「ほっとした。これでもうゲロを吐かなくてすむ」。
筋力の衰えに抗して激しい練習をしたため、からだが悲鳴をあげていたと、観る側は容易に想像できる。

自殺も考えたが、やはり生きていたい。
兄(おにい)の哲学は「忘れること」。
いま、自分の周りにいる友だちも、いずれは家庭をもつ。
そのときには、自分のことを忘れてほしい。
わたしには「自分のことを忘れて幸せになってほしい」というふうにも聞こえる。
日々の筋力の衰えに対し、自分が過去にできたことさえ忘れることによって、病状とのバランスをとる精神力が不可欠だということだろう。

恋愛については、仕事をして家族を養うことはとても考えられない。
likeでいい、と。

家族旅行の映像が流れた。
自分は盛りたて役なので、あとでからだが痛くなることがわかっていても動いてしまう、と語る。
誰に対してもサービス精神旺盛な兄(おにい)だが、孤独感に裏打ちされた克己心が透けてみえる。

仕事については、現実はきびしい。
このくらいできるだろうと思われる仕事でも、あとでからだが痛くなる。
いまは友だちの紹介で仕事がみつかったらしいが、兄(おにい)はどこまでもポジティブシンキングなひとなのだ。
わたしには妹についても、そうみえる。
その根拠は、本作のラストだ。
兄(おにい)に対して語りかけた妹のナレーションに、ユーモアを感じたからだ。

それにしても、どうして兄(おにい)のような好青年が、過酷な病気になってしまったのか。
わたしは天を仰ぎ嘆息する。

諦めることではなく、忘れること。
わたしのなかで「忘れる」と語った兄(おにい)の笑顔が、残像として消えない。

miko3355 at 11:19|この記事のURLTrackBack(0)

2014年06月22日

映画天国「あるスキャンダルの覚え書き」

2014/06/16の深夜、日テレで放映された映画「あるスキャンダルの覚え書き」を観た。
わたしの好きな映画だ。
省略が効いていて、観る人間の想像力にゆだねる構成が心地よい。

以下のあらすじはわたしの記憶によるので、まちがっているかもしれないことをお断りしておく。

定年間近な歴史教師・バーバラは、新任の美術教師・シーバ(ケイト・ブランシェット)に惹かれ注視するうち、シーバと15歳の教え子の少年との悦楽現場を目撃してしまう。
バーバラはシーバの秘密を守ることで共犯者となり、シーバを支配しようとする。
バーバラはシーバに関係を絶つようアドバイスするが、シーバは断行できない。
ある日、バーバラの飼い猫が死に、哀しみをシーバと共有したいと切望する。
が、シーバはダウン症の息子が学芸会で演じるのを家族と観るほうを優先させる。
その決断がバーバラの逆鱗に触れ、相談のため自宅を訪れた同僚男性にシーバの秘密を口にすることで、噂が校内に拡がることを画策する。

すべてを失ったシーバは、バーバラに助けを求める。
バーバラの家で自分のことを克明に綴った日記を発見したシーバは、バーバラの裏切りを知り、罵倒する。
シーバはやむなく夫のもとに帰り、夫は家のなかに迎え入れる。
夫はいつかこのようなことが起こると予想していた。
シーバは彼の教え子であり、年長だから。
15歳を相手にしたことが致命的だった、という考えらしい。

バーバラは平然と新しいノートを買い求める。
日記を綴ることが、バーバラが生きることを意味する。
そしてベンチに座る若い女性に声をかける。
つぎの獲物を密かに狙っているのが、見事なラストシーンだ。

バーバラは怖い人間だが、妙にリアルだ。
それはわたしの周囲やわたし自身の体験から、バーバラやそれ以上に怖い人間が多く存在するから。
しかもフツウの人間の顔をしているから厄介なのだ。
バーバラは同性愛者のようだが、行為に及んでいるとは想像しにくい。
バーバラの最大の親友は日記帳だったのではないのか。

バーバラの入浴シーンは唐突だが、わたしは好きだ。
自分の孤独感はシーバにはとうていわかりえない、という意味のことを呟くのだが、ジュディ・デンチの演技が淡々としていて、好感をもてる。
ストーカーの素質のあるバーバラを嫌みなくみせているのは、特異な演技力が観るものの共感を呼ぶからだと思う。

この映画のなかで最も怖かったのは、15歳の少年だ。
シーバに執拗に近づき、母親が病気で、父親に暴力を振るわれているというウソを平気でつき、シーバの同情を誘発する。
スキャンダルが発覚したあと、シーバに対しても冷酷だ。
どんなシーンでも眼に表情がない。
少年の内面は明らかに病んでいる。

わたしはジュディ・デンチの演技力に圧倒され、ケイト・ブランシェットにはあまり興味がなかった。
ただ彼女が演じたシーバが悦楽に耽溺するのは、単に肉体面だけではないこころの空洞があるように感じた。
ダウン症の息子の育児や家事に加え、美術教師としても懸命なシーバが、ふと羽を休められるのが少年だったのではないか、というのは邪推だろうか?

いずれにしても、観るがわの妄想をたくましくさせる映画である。





miko3355 at 23:22|この記事のURLTrackBack(0)

2009年06月08日

NHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」

2009/04/12に放映されたNHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」を録画していたのを観た。
なんの予備知識も期待感もなかったが、オープニングシーンからエンディングまで惹きつけられた。
なまなましいのに詩的な映像世界を構築している。
本番組は59分に編集されたものだが、03/23にハイビジョン特集で放映されたのは110分。
NHKのホームページによると、ブラジル政府、部族の長老7名との10年近い交渉の末、TV局としてはじめて長期の同居が許されたという。
ディレクターの国府 拓とはどういう人物なのか、大いに興味がある。

田中 泯の重いナレーションに一瞬笑いそうになったが、笑えなかった。
妙に明るく制作された番組の多さに、自分が毒されていることに気づかされたからだ。
田中 泯はNHKのドラマ「ハゲタカ」で加藤幸夫役を演じていた。
声に独特の存在感がある田中 泯は、ナレーターとしても異色だ。
田中 泯は、本番組スタッフの情熱に打たれてナレーションを引き受けたという。

余計な音はほとんど挿入されず、深閑とした森に自然界の音が響き渡る。
眼力で演技する役者のように、カメラの眼力による鋭く豊かな表現力には感心する。
BS世界のドキュメンタリーに時折みられるカメラワークだ。
取材クルーたちは150日間ヤノマミと同居し、彼らと同じものを食べ、彼らの言葉を覚えようとした。
その150日間の生活ぶりを本にしてくれることを、わたしは願う。
ナレーションの言語感覚から推察すると、いい本になるにちがいない。

不気味なオープニングシーン

カメラが女の顔をアップにする。
女が白蟻の巣を焼き払っている。
無表情だが、瞳にかすかな憂いを帯びている。
白蟻の巣のなかには、生まれたばかりの子どもが納められている。
子どもの亡骸を白蟻に食べさせたあと、巣ごと焼き払うことで天に送る、という弔いの儀式である。
子どもを殺めたのは、母である女自身だった。

ヤノマミとナプを明確に区別

ブラジルとベネズエラにまたがる深い森のなかでヤノマミは暮らしている。
ヤノマミがアマゾンの森に住みはじめたのは、1万年まえだと考えられている。
彼らは独自の文化や風習をもつ、きわめて稀な部族だ。
不思議な雲がかかる岩山の麓に、ヤノマミがシャボノと呼ぶ丸い家がある。
ひとつ屋根の下に150人が暮らす。

同居1日目、取材クルーたちは奇声で迎えられた。
そこへ突然、トランクスをはき、腹のでた男が立ちふさがる。
「敵なのか、ナプなら殺すか」
ヤノマミとはニンゲンという意味で、ナプとはヤノマミ以外のニンゲン、あるいはニンゲン以下の者を指す。
その男は呪文のようななにかを唱えつづけたあと、「もういい 行け」という。

岩山が雲に覆われると雨が降る。
シャボノのなかには家族ごとのいろりがあり、取材クルーたちもいろりをつくった。
集団で捕った食べ物は公平に分けられ、自給自足の生活。
10年まえ、政府の僻地医療が本格化し、パンツ・サンダル・ナイフがすこしずつ配られるようになった。
ヤノマミは人口がふえると、分裂するといわれている。
政府の僻地医療がはじまって以来、人口は倍近くに膨らんでいた。
宣教師がやってきたこともあった。
立ち入り禁止先住民保護区となったいまは、訪れる者はほとんどいない。

ヤノマミは日本人からみて親近感をもつ顔をしているように、わたしにはみえた。
子どもたちは無邪気でかわいい。
本番組に登場したヤノマミをみると、小さな男の子は全裸だが、大きくなるとトランクスをはいたり、陰部に布をつけている。
女は子どもも含めて赤い布を陰部につけている。
サンダルをはいている小さな男の子がひとりいたが、あとはみんな裸足で上半身は裸だ。

ヤノマミのシャーマンは木の樹液からつくった幻覚剤の力を借りて、さまざまな動物の精霊を体内に呼びこむ。
それを病人に送りこみ、悪霊を追い払う。
村には8人のシャーマンがいたが、そのなかにシャボリ・バタ(偉大なシャーマン)と呼ばれる老人がいる。
老人は、自分はもうすぐ死ぬのだといい、死後の話をした。

   地上の死は死ではない
   魂は死なず精霊となる
   精霊も やがて死ぬ
   地上で生き 天で生き
   虫になって生きる
   ナプも知らねばならない
   誰もが 同じ定めを生きる
   

村人総出の狩り

同居して40日目。
村人総出の狩りがはじまる。
若い男が脇道に入る。
弓矢で獲物を狙う男の姿。
弓矢の先にある空間がアップになり、鳥の断末魔の叫び声が響く。
オウムの親鳥は道中の食料となる。
女たちも脇道に入る。
香りのある草を摘み、からだにつける。
女たちは色とニオイで身を飾る。

森を歩いて丸3日、狩りの拠点となる野営地に着く。
夜、偉大なシャーマンが語りだす。
  ヤノマミの祖先が動物になった
  それでも動物を殺し 食べよ

サル、バク、ワニ、アルマジェロなどの獲物を男たちがナイフで解体し、薫製にする。
めったに獲れない大物のバクをみて、驚いている取材クルーの男の声が挿入される。
ヤノマミは胎児を食べない。森に返す。
親をしとめられた子ザルは、森に返しても生きのびられない。
少女が自分のニオイを覚えさせるために、抱いた子ザルの口に自分の唾液を口移しするのをカメラが執拗に映す。

60日がすぎたころ、赤道直下の森に雨季がくる。
ヤノマミには50を超える雨の名前がある。
小さな子どもは、4〜5歳になるまで名前がない。
男の子は「モシ」、女の子は「ナ・バタ」と呼ぶ。
モシとナは生殖器のこと。
なぜか女子だけに「バタ=偉大な」という言葉がついている。
ナ・バタをみせてやると、子どもたちが誘う。
ナ・バタの大木は、シャボノの入口にある。

■出産直後に迫られる母親の決断

同居して90日目、ひとつの家族がシャボノから消えた。
村の男に訊くと、娘が妊娠して怒ってでていった、という。
妊娠したというのは、子ザルに唾液を与えていたあの少女だった。
少女は14歳、結婚はしていない。
この村では、14歳で出産することも、未婚のまま出産することも珍しくない。
同居120日目、少女の家族がシャボノにもどってきた。
なぜもどってきたのか、両親はなにも語らない。
少女に臨月が近づいていた。
この村では毎年、20人近くの子どもが生まれ、半数以上が精霊に返される。
子どもを人間として迎え入れるのか、精霊として返すのか、14歳の少女がひとりで決めねばならない。
周りの人間は理由を問わず、少女の決断を受け入れる。

精霊となった者のことは忘れねばならない。
子どもを天に返すときは白蟻の巣に納めて燃やす。
そして天で再会するまで待つ。

130日目、少女の出産を手伝うため女たちが森に入る。
女と子どもたちは、少女からすこし離れたところに立ち、見守っている。
陣痛から45時間後、少女が出産し、決断する。
少女が地面にしゃがんでいる。
血に染まった少女の足や草木をカメラは映す。
少女の顔は苦悩しているようにみえる。

胎児がバナナの皮で包まれる。
少女ではない女の手によって。
少女はわが子を精霊のまま天に送った。
その夜、少女は出血がつづいた。
少女は土の上に腰をおろしたまま一夜を明かした。
夜明けまえ、少女のいろりで、少女の隣りにいる父親がなにかつぶやいている。

少女の子どもは白蟻に食べられ、精霊のまま天に昇る。
子どもを食べた白蟻は焼かれて灰となり、土に返る。

少女の一連の動きについて、ナレーションがないのがいい。
ここで言葉による説明があるとぶち壊しだから。
少女がどんな想いで出産を体験したのか、すべては観るものの想像に委ねられている。
たしかなのは、少女は14歳にして少女ではなくなったということだ。
出産を経て、弟らしき小さな男の子を抱っこしてかわいがっている少女の姿は、母親のようにみえる。
というか、そのようにカメラが映している。

5日後、激しい雨のなか、女たちが川に入る。
毒草を川に流し、しびれて浮かんでくる魚を捕る。
子どもたちが魚を捕る。
臨月に近い女も魚を捕る。
少女も魚を捕る。
産後5日後に川に入って真剣な眼でしびれた魚を探す少女の映像に、わたしは驚愕した。

ヤノマミ、それはニンゲンという意味

ヤノマミがいった
万物は精霊から成る
精霊は動物の姿を借りて
何かを告げにやってくる
死者の伝言を運ぶ蝶もいる
ヘビの精霊は〈死の世界〉からくる
〈死の世界〉へ導かれぬよう
ヤノマミはヘビを殺す  

田中 泯のナレーションが、低いトーンで呪文のようにくりかえす。

   森で生まれ
   森を食べ
   森に食べられる

   森で生まれ
   森を食べ
   森に食べられる









miko3355 at 01:18|この記事のURLTrackBack(0)

2007年11月09日

BS世界のドキュメンタリー「ヘルクレス 初めての休日」

NHKのホームページより引用

BS1・10月25日(木)午前0:10〜0:59

 ポーランドテレビは、04年にある失業者の家族を取材した。人口19万人のバイトムと呼ばれるポーランドでも最も失業率の高い地域で、我が子に鉄くずを拾わせることで生計の糧としている親子である。息子のヘルクレス少年(当時11歳)は飢えないために必死に働いていた。そのドキュメンタリーを制作した1 年後に、ヘルクレスの境遇がどうなっているかをポーランドテレビが後追いした。 
 放送でヘルクレスの境遇を知ったワルシャワの裕福な夫婦がヘルクレスを自宅に招き、つかのまの休日を体験させる。学校にもほとんど通えず、食いつなぐだけの毎日を送ってきたヘルクレスは数日間の夢のような楽しい日々を送り、再び家族のもとに戻っていく。夫婦は、ヘルクレスの両親の元を訪れ、なんとかヘルクレスを学校に通わせるようにしてほしいと頼むが…。
 ヘルクレスを取り巻くやるせない日常が浮かび上がる。ヘルクレスのほかにも、同じような境遇の子どもたちが数多くいるであろうことが推測される。

 2007年バンフ審査員特別賞受賞作品 テレビポーランドにて放送。

[原題] Hercules Ven t ures
[制作] ポーランド/2005

……………………………………………………………………………………………………………………………

制作  テレビポーランド
      ディレクター    リディア・ドゥーダ
      プロデューサー  ジェリー・ジャクートヴィッチ
      撮影        ピオトル・ヴァソフスキ
      編集        アグニエシュカ・ポヤノフスカ


ナレーションがなく自然に動いているようにみえる人間たち

どうしてこんなに自然に撮れるのだろうか! 
さほど期待感もなく、録画していた「ヘルクレス 初めての休日」を観はじめたのだが、一気に観てしまった。
以前に坂東玉三郎が、BBCがやってきてこちらが自然にふるまっているのをどんどん撮ってゆくのに驚いた、と雑誌に書いているのを読んだことがある。本番組もそのような撮りかたなのだろうか。
ナレーションがなく、オープニングとエンディングに短いテロップが入るだけで、あとは会話の字幕のみ。じつにシンプルな番組である。
音楽は小さな音量でたま〜に挿入される。エンディングで流れるのと同じピアノの音が幾度か流れるが、とてもセンスがよい。これが主音調なのだろうと感じさせられる。
顔だけをアップにして、いかにもこの表情から読みとってください、という手法をわたしは好きではない。本番組では、顔だけのアップはない。からだつきを含めて表情を読みとるほうが自然である。
全体的に静かなのに、たしかなイメージで観る側に伝わってくる。
会話が中心だし、限られた場面であるにもかかわらず、想像をかきたてられるのである。
主役はヘルクレスであり、カメラの視点はヘルクレスに寄りそっている。
淡々とした描きかたなのに、手応えのある番組になっているのが不思議である。
ドキュメンタリー番組についてはテーマが重ければ重いほど、観る側は体力を奪われる。
「ヘルクレス 初めての休日」はそんなことを忘れるほど惹きつけられた。それでいて、こころに突きささるものがある。
演出が巧みなのだろうか。

経済の効率化にとり残されたバイトム

オープニングシーンは、鉄くずを素手で拾う子どもの両手のアップ。そこからカメラが引いてゆき、その手がヘルクレスのものだということがわかる。
線路ぎわでヘルクレスを含む3人の少年が、素手で鉄くずらしきものを拾っているのである。
列車がくると危険なので、急いで袋に入れて運びだす。からだの小さな少年が、肩に重い袋を乗せてよろけながら運ぶ姿は痛々しい。

テロップ 《1998年に始まった炭鉱の合理化は、この町に大きな打撃を与えた。この地域だけで5つの炭鉱が閉鎖され、10万人以上が失業。子どもたちは鉄くずや石炭を拾い家族を支えている》

舞台はバイトムと呼ばれる炭鉱の町。
数年まえに失業したヘルクレスの父親は、無気力な日々を送っている。アルコール依存症なのか、足元がふらついているようにみえる。母親は、働かないのに傲慢な夫にいらだちながら、どうすることもできない。
父親に命じられて、ヘルクレスはアルミニウムの塊を売りに行く。袋に入った数個のアルミニウムは運びにくいらしく、途中で袋を捨て、自分の上着を引っ張って塊を包みこむ。無様な格好で悪い足をひきずりながら歩く姿は、いかにも理不尽なことをさせられているという印象を与える。
ヘルクレスは「盗んだものではない」と訴えるが、受領書に大人のサインが必要なので、子どもからは買えないと拒絶される。半泣きになりながら家へもどるヘルクレス。
その映像は前回に放送されたものなのだろう。
本番組は、それから1年後のヘルクレス(13歳)を描いたものである。

ワルシャワの夫婦宅へ招かれる

前回の放送でヘルクレスの境遇を知ったワルシャワに住む裕福なセルギウス・コッペルが、彼の父親とともに高級車でバイトムにあるヘルクレスの家にやってきた。ヘルクレスを自宅に招き、「初めての休日」をプレゼントするために。
ヘルクレスの夢は海水浴。
セルギウス・コッペルの父親もここの出身で、炭鉱には1年いたという。彼の職業はわからないが、教養があり、やさしそうな風貌のなかに厳格さも感じられる。
以下、セルギウス・コッペルの父親を「おじいさん」、本人を「おじさん」、その妻を「おばさん」と表記する。

ヘルクレスがワルシャワへ出かけてしまうと、母親は夫に「ヘルクレスがいないので昼食はつくらない。仕事に行って」という。息子がいない家を体験するのは、ふたりにとって刺激的だろう。とくに母親にとっては。

ワルシャワの家に到着。
おじさんの家は高級ですっきりと片づき、そこにはおばさんがいるが、おじいさんは近くに住んでいるらしい。40歳前後にみえる夫婦に子どもはいないようだ。
ヘルクレスはワルシャワにくるまえ、自宅で水を入れたタライのような器に入ってからだをスポンジでゴシゴシ洗ってきた。それが母親の気配りであるようにみえるほど貧しいのだ。
そんなヘルクレスは、おじさんの家でりっぱなお風呂に入ってはしゃぐ。
ヘルクレスはおじいさんとふたりで軍隊博物館に行く。
おじさんとおばさんの3人で、映画館や海に行き、ほんとうの親子のように愉しいひとときをすごす。
車中や家のなかでの会話で、ヘルクレスの生活ぶりが明らかになる。
ヘルクレスは、おばさんに買ってもらったらしいセンスのよい服を着ている。

【自宅に電話をするヘルクレス】

ヘルクレス    「信じられないくらい幸せなんだ」

ヘルクレスの父 「ワルシャワ人には気をつけろ。おれはあいつらが大嫌いなんだ」

ヘルクレス   「悪口言わないで」

父        「別に悪く言ったわけじゃない」

ヘルクレス   「お酒飲んじゃダメだよ」

        「酒は飲んでないぞ。おれをばかにするのか。お前が集めた鉄くずを売ったぞ」

(つづいて母親と電話で話したヘルクレスは「おじさんと話したい?」と訊き、「母さんが電話をかわってほしいって」とおじさんにいう)

おじさん     「彼はいい子ですよ。私たちを楽しませてくれてます」

ヘルクレスの母 「息子が気に入ったならあなたにあげるわ」

おじさん     「彼は家族のもとに帰るんですよ。彼は戻るんですよ」
 

【食卓でお茶を飲みながらの会話】

おじさん  「家計を支えているのは誰なんだ?」

ヘルクレス 「両親だよ」

おじさん  「本当かい?」

ヘルクレス 「母さんはいつも窓辺に座っている。昼を過ぎてもずっとね」

おばさん  「生活費はどうしているの?」

ヘルクレス 「母さんが……母さんがどこからか持ってくる。聞いたことはないけど。父さんが空き缶を集めて持ってくるんだ。でも食べ物はいつも冷蔵庫にあるよ」

おじさん  「おなかをすかせることはない?」

ヘルクレス 「ないよ。父さんも母さんもそれは許さないよ」

おじさん  「あの町の暮らしとここでは何が違うのかな?」

ヘルクレス 「バイトムにはないものがここにはあるよ」

おばさん  「たとえば?」

ヘルクレス 「あそこにはエレベーターがない。バイトムにあるのはね、性病と混沌と墓場だよ。あとはぼた山さ。ちゃんとしたサッカー場もないんだ。公園があったけど、遊具はみんな盗まれた。ブランコも引きちぎられた。噴水もあったけど、全部持っていかれたよ。悪夢みたいだ。きれいな木さえ切られた」

おじさん  「中庭が君たちのたまり場なの?」

ヘルクレス 「酒を飲んでいる子もいるよ」

おばさん  「あなたは飲んでない?」

ヘルクレス 「僕は飲まないよ」

ヘルクレスはお金がたまったらサッカーのユニホームを買い、みんなに自慢する、という。
自慢なんかするものじゃない、とおじさんにいわれると、ユニホームをもっていないのでバカにされているのだという。
おばさんは、そんなものなくてもあなたは素敵よ、という。

いよいよワルシャワの家を去る段になり、ヘルクレスは番組のオープニングシーンでみられたのと同じ半泣きの顔になる。


夢のような休日が終わり、現実生活にもどるヘルクレス

【帰宅する車中での会話】
(おじさんが運転し、おばさんは助手席、ヘルクレスは後部座席)

おじさん  「鉄くず集めで月にいくらになるんだい?」

ヘルクレス 「7ドルくらいかな」

おばさん  「毎日どのくらい集めるの?」

ヘルクレス 「たくさんだよ。体中が痛くなるんだ」

おじさん  「じゃあ約束しよう。君の稼ぎより少しだけ多い額を僕が支援するよ。君がちゃんと勉強するならね。君はまだ子どもだ。子どもとして過ごす時間が必要だ」

ヘルクレス 「月にいくらくれるの?」

おじさん  「これから3ヵ月で君が何冊本を読むかによるよ」

ヘルクレス 「それじゃ約束にならないよ」

【バイトムへ到着】

「わたしの坊や」とヘルクレスを抱きしめる母親。
「父さん!」と父親に飛びつくヘルクレス。
 
おじさん     「彼の視力はかなり悪い。ほとんど文字が読めない」

ヘルクレスの母 「読めるわ。メガネもあるのよ」

おじさん     「2年前に医者にかかっていますね。そのころよりかなり悪くなっていると思います。病院に行かないと。私が予約をします。新しいメガネをつくるつもりです。検査して原因を見つけないと見えるようになりません。これはまじめなお願いです。まずは字を読む訓練をしなければ。鉄くずを集めて一生暮らすんですか。そうはいかない」

ヘルクレスの父 「今は読めないが、新学期まで時間はあるさ」

ヘルクレス   「僕、勉強するよ」

        「そうだぞ」

おじさん    「彼が字を読むためにはメガネが必要です。真剣に聞いてください。僕らは彼を助けたい。僕らはこれからも彼を休暇に連れて行きますよ」

(おじさんは、自分の大切な話を聞く耳をもたず、息子のヘルクレスとふざけている父親をみて、首を振って失望を顕わにする)

おじさん    「彼のそばで本を読んであげてください」

       「無理にやらせるのか」

おじさん    「無理強いはしません。でも読めなければ、なにも成し遂げられません。あなただってわかっているはずだ。彼にはまだチャンスがある。チャンスが残されている」

       「そうだ学校に行かなければ」

おじさん    「あなたが言う学校とは何ですか。失礼な言い方で恐縮ですが、彼の持つ知識は、路上で身につけたものです。彼は生きる方法を路上で学んでいるのです。最大限自分に必要なものを得るためにね。でも彼が大人になったとき……」

       「そうさ。いつか必ずひとり立ちするときがくる。彼をしつけろということかね」

おじさん    「そうではありません。読めるようにしなければ!」

       「おれはふだん息子をたたいたりしない。たまにはムチでぶつこともあるが」

おじさん    「なぜ体罰をふるうのですか」

       「父親として許せないこともあるんだ」

おじさん    「読み書きのできない人間にしてはならない」

(上記のようにおじさんと父親が大切な話をしている背後に母親の姿がみえる。ヘルクレスがワルシャワで買ってもらった洋服を広げ、ヘルクレスに「これも買ってもらったの?」と訊いているらしい。満足げにひとつずつ広げてからたたんでいる。
いつのまにか父母はタバコの煙をくゆらせながら話に応じている。
おじさんと父親の話をハラハラしながら黙って聞いていたおばさんが口を開く)

おばさん     「学校を変えたら?」

ヘルクレスの母 「息子は特殊学級に行っているの。生まれつき足が不自由なのよ。でも脳には影響ないわ」

おばさん     「それなら特殊学級に行く必要はないわ。頭に問題がないなら、普通クラスでやっていけるわ」

       「息子は左利きだし、勉強についていけない」

おばさん    「すばらしい知性があるのに字が読めないなんて」

       「我々だって息子のことを考えてるさ」

おばさん    「彼はとても賢い子よ。してあげられることはたくさんあるわ」

        「あの子が賢いと? でも家から通えないと……」

(仕事から帰って酒場に行くと、息子が心配して様子をみにきてなかなか家に帰らない、という話をする父親に、おじさんは深いため息をつき、頭を振る)

【別れに際し、ヘルクレスの家のまえで】

おばさんが母親に「息子さんの世話をしてあげて」という。
ヘルクレスの母は、「大切にしなきゃね。さっき車から出てきた時、息子は私にそっと8ドル渡したのよ。母さん、パン代だよ、ってね。父さんに渡すまえに取っておいて、とね」。

おばさんは手で涙をぬぐう。

(数メートル先に、荷車に鉄くずらしきものを乗せて運ぶ少年たちが通りすぎる)

ヘルクレスの父 「これがここでの生活なんですよ。この先もずっとね」

おじさん    「わかってる。でも彼の人生は変えられるかもしれない」

母親はタバコを手にしながら、おばさんに「ある女が細いタバコをくれたんだよ」といい、「なぜ泣くんだい?」と訊く。
おばさんは「泣いてないわ」といい、母親のタバコに火をつける。自分もタバコを手にしている。

「おれはよく本を読むんだ。酒を飲んで何にもしたくないときにね。まずは新聞を読み、そして本を手に取る」というヘルクレスの父親。
その肩をおじさんは右手で引きよせ、親愛の情を示しながら笑顔でいう。
「ごまかさないで。あの子に読む訓練をしてくれ。文字を読めるようにしなくちゃ」

ヘルクレスの父は「時々母親が息子の宿題をやってるんだ。おれが文字を読めないと思っているやつもいるがな」と屈折した顔で笑いながら、「元気でな」。

別れが迫り、おじさんはヘルクレスを抱きあげながら、「約束を守られるな?」という。
「うん、今度は山登りだね」というヘルクレス。

車の助手席に座っているおばさんにヘルクレスが「泣かないで」と近づく。
おばさんは「泣いてなんかないわ」といいつつ、ヘルクレスを膝に抱きよせキスをする。
「僕は泣きそうだよ。いつ迎えに来てくれるの? さようなら」といいながらヘルクレスはドアの外に出る。

【自宅でのヘルクレス】

カメラはヘルクレスの日常生活を映しだす。母親とのやりとり。父親は不在。
サッカーボールを抱えてソファーに座るヘルクレスに、例のピアノの音がごく短く流れ、テロップが入ってエンド。

   ヘルクレスは現在
   様々な人々の支援で
   学校に通っている


■感想

あまりにも生活レヴェルがちがうのでヘルクレスが混乱するのではないか、と案じながら番組を観はじめたが、ワルシャワの夫妻は賢明だった。
ヘルクレスをわが子のように心配し、彼の両親を気づかいながらも、彼の将来を真剣に考え、実行しようとしている彼らの姿に打たれる。
ヘルクレスの母親は支援を喜んでいるが、父親には妙なプライドがあり頑なである。

ヘルクレスがひとり立ちできるまで支援をつづけなければ、残酷なことになると思えるので、エンディングのテロップには深く安堵した。と同時に、ヘルクレスと同じ境遇の少年・少女たちの存在が気になる。

ヘルクレスが父親の額に自分の額をゴツンゴツンと音を立てて打ちつけ、「頭のなかが空っぽだ」という場面が2回あったのが印象的だった。
「お父さん、ぼくが稼いだお金でお酒ばかり飲まないで、しっかりしてよ」とでもいいたいのだろう。






miko3355 at 00:02|この記事のURLTrackBack(0)

2007年10月02日

ドキュメンタリー人間劇場『のんきに暮らして82年〜たぐちさんの一日〜』

河内紀(かわち・かなめ)を最初に知ったのは、季刊『いま、人間として』(径書房刊)に掲載された〔放送現場日誌〕である。第1巻(1982/06/20)は「ハレバレとメシを食ってみたい」、第2巻が「空(くう)をつかむ日々」(1982/09/20)。
同じコーナーに掲載されていた小田昭太郎の〔TV制作現場〕(こちら)ほどのインパクトは受けなかったが、河内紀の一文はずっと記憶に残っていた。『いま、人間として』は11巻まで刊行されたが、その内容についてほとんど失念しているのだから、わたしにとってはよほどのことなのだろう。

昨年、遅ればせながら河内紀著『ラジオの学校』をおもしろく読んだ。文体は重くないのに内容が深いので、一気に読みすすめることができず、数日にわたって味わいながら読みおえたのである。
わたしが最も印象深かったのは、自閉症児と呼ばれる子どもたちのドキュメンタリー『ヤッホー/かえってこないこだま』に関する記述だ。

(p.189)
《「自閉症児」を自分の問題として抱え込むことが出来るだろうか。それが出来なければ結局お涙頂戴の番組を作ってしまうだけなのではないか。自分を棚上げにして、一方的に正義感をふりまわし、世間の無関心を叱りつけるような》

(p.212)
《テレビ受像機の前で、もちろんラジオもそうだが、視聴者は完全に受け身にならざるを得ないという前提を、制作者がどう認識するか。その認識なしには、映像表現そのものも決定することは出来ないはずなのだ。
 この一方通行コミュニケーションが、「自閉的傾向のある情緒障害児」を生み出す状況にどこかで荷担しているのではないかと思い始めたのが、私が放送局をやめるところまで追いつめられた「どうして(理由)」だった》

「ラジオ局の大改革によって配転されることに決まった編成局や制作局の人々のラジオに賭けた最後のエネルギー」によって制作されたドキュメンタリー『ヤッホー/かえってこないこだま』は、70年、国際コンクール「イタリア賞」でグランプリを受賞する。
作品が完成した時点で、河内紀は新設された「ビデオ・パッケージ部」へ配属されていた。

(p.214)
《このドキュメンタリー番組が国際的な評価を受けたことが、はたして本当に「おめでたい」ことなのかどうか。それは、番組のテーマとなった自閉的なコミュニケーション状況が日本だけではなく、他の世界にも存在し問題になっているということの証明ではないのか》

  *

じつは、ことしの4月にわたしの属する集まりに講演会の講師としてあらわれたのが、『彷書月刊』編集長の田村治氏である。
講演会終了後の懇親会の席で、たまたまわたしは田村氏の横に座らされた(固辞したのだが)。インスピレーション人間であるわたしは、なんとなく田村氏のからだからそういうものを感じたので、いきなり訊いた。
「ドキュメンタリー映画はお好きですか?」
「好きです」
なぜかTVではなく映画だという感じを強くもったところが不思議だった。
いろいろ話していくうちにわたしと接点のある人物などがあらわれ仰天したが、最も驚いたのは河内紀についてだった。

「『ラジオの学校』はいい本です」とわたしがいうと、田村氏はそのときだけ子どものような表情になり、「それはうれしいなあ」とひとこと。
その時点で、田村氏が河内紀と親しいということが判明した。
会場でわたしは『彷書月刊』を入手しながら未読だったので知らなかったのだが、河内紀の連載があると田村氏はいう。
それは「尋ね人の時間」というタイトルで、(雑本探検家)として古本に造詣の深い河内紀の連載である。
田村氏の話がほんとうにおもしろくなったのは二次会の席だったが、お酒に極度に弱い体質らしく、話が進まなかったのがいまでも残念だ。無事に帰宅されたのか、ものすごく心配になるほどの酩酊状態だったのである。

  *

河内紀は1940年生まれで、62年にTBS入社。ラジオ部門に配属される。
ちなみに岡本愛彦がTBSを退社したのが1963年。さきごろ岡本愛彦の著書を読みおえたばかりなので、急速なテレビの普及によりラジオの聴取者が少なくなった時代にラジオ番組を制作する意味あいが、わたしなりに理解できる。
74年にTBSを退社した河内紀は、現在、制作プロダクションのテレコムスタッフでドキュメンタリー番組を制作。

ナマ河内紀と、彼の制作したドキュメンタリー番組を観たいという願望、それが同時に実現するチャンスがあった。テレコムスタッフのホームページ(blog)で知ったのである。
で、9月23日(日)、上野公園にある国立博物館の敷地に建てられた映画館「一角座」で、演出・河内紀『のんきに暮らして82年〜たぐちさんの一日〜』(45分)と『八ヶ岳山麓 地下足袋をはいた詩人』(45分)を観た。(テレビ東京/テレコムスタッフ)
そのあと、秋山道男・南伸坊・河内紀の〈トークライブ〉に参加した。
つぎの上映時間が迫るなか、30分ほどの〈トークライブ〉はまとまりに欠けた。が、帰宅してから反芻していると、それなりにおもしろかったことに気づいた。
ほんとうは9月15日(土)の菊地成孔と河内紀のトークを聴きたかったのだが、上映作品が『陽炎座』なのであきらめたのだった。

『のんきに暮らして82年』では、なんといっても82歳の田口さんの表情がいい。このようないい顔で齢を重ねる人間は稀有だろう。
番組全体に音が強調されている。音楽ではなく、生活音である。河内紀がラジオ番組の制作で鍛えられたせいもあろうが、もともと格別に耳のいいひとにちがいない。
映画に詳しくないわたしなので当たっていないかもしれないが、小津安二郎の作品を想起する構図があった。全体的に映画のような画面構成である。薄っぺらい感じがなく、奥が深い。
〈トークライブ〉で河内紀は、「やらせがどのくらいあるかというと、全部やらせです」と語った。田口さんのような齢のとりかたが自分の理想だ、と。
田口さんの一日の生活(24時間)を企画書に書いたが、企画を通すのがたいへんだったという。
なお、ドキュメンタリー人間劇場『のんきに暮らして82年』(テレビ東京/テレコムスタッフ/1996年5月22日)は、第34回ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞第14回 ATP賞ドキュメンタリー部門奨励賞を受賞している。

ところでナマ河内紀をみた感想は、その文章から想像していた人間像から意外性はなかったが、わたしには編集者にみえたのである。
いずれにしても、河内紀は黒子だなあという感じがそのからだから発散していた。
一角座は小さな空間だし、わたしは最前列に座っていたので、河内紀は至近距離でGパンをはいた足を組んで座っていた。
ナマ河内紀と文体は似ていて、一見軽そうな感じを受けるが、じつは重い。
自己を消そうとしているにもかかわらず、自己がにじみでてしまっているところが、田口さんに似ているように感じた。

  *

一角座で『彷書月刊』(特集・河内紀の眼と耳/2007年5月号)と、CD「サウンドトラック DEEP SEIJUN」を入手した。河内紀が音楽監督として参画した鈴木清順監督作品『ツィゴイネルワイゼン』『陽炎座』『夢二』 。これらの映画を観ていないわたしが「サウンドトラック DEEP SEIJUN」(リトルモア・レコーズ)を聴くのは妙だが、胸がしめつけられるほど懐かしい感覚に襲われ、たじたじになる。

河内紀は天才ドラマー・富樫雅彦のラジオドキュメンタリーを演出しているらしい。
わたしは以前に、都内にできたばかりのセンスのよいホールで、山下洋輔と富樫雅彦のデュオを聴いたことがある。そこはわたしの自宅から徒歩15分ほどの距離にあったのだが、このふたりのデュオにはぴったりの空間だった。
富樫雅彦は交通事故で車いすの身になってあらわれ、両手でドラムセットを器用に打ち鳴らした。内に秘めた激しさが表出したようにドラムを叩いたとき、なぜか羞じらうような表情になった。
舞台から退場するとき、じつにていねいにお辞儀をした。まるでそれが最期の演奏であるかのように。
そのあと、アンコールで山下洋輔が弾いた「枯葉」が印象的だった。
「枯葉」だとわからないほど音が解体されていたが、かすかに「枯葉」なのだった。
富樫雅彦は8月22日、心不全のため67歳で他界。



miko3355 at 00:07|この記事のURLTrackBack(0)

2007年09月17日

ニッポン人・脈・記「テレビの情熱」

朝日新聞・夕刊に連載された、ニッポン人・脈・記「テレビの情熱」を興味深く読んだ。
全12回、2007年8月8日〜8月24日。

8/08  「あなたの貧乏撮らせて」  
8/09  広島へ何しに? 答え求め
8/10  北国 高3 目凝らし1年
8/13  戦争の証言 背負う覚悟
8/14  大多ドラマ、時代をタイホ
8/15  アルバムの裏 妻の孤独
8/16  アポなし 突撃 眉毛切り
8/17  関西発の「必殺」・お笑い
8/21  伝えるのは自分の言葉
8/22  タブー破り 「やばい企画」
8/23  キー局覆す独立の意気
8/24  怪物の卵はどう育った?

担当  編集委員・川本裕司/写真・フリーの水村孝】

シリーズトップの?で、NHKスペシャル「ワーキングプア」のチーフプロデューサー・春原雄索(すのはらゆうさく・41歳)と、NNNドキュメント「ネットカフェ難民」の日本テレビのディレクター・水島宏明(みずしまひろあき・49歳)が紹介されているところに、いまの時代性があらわれている。

?では、68年のTBS闘争を経て、TBSを退職した13人を含む25人が70年に設立した制作会社テレビマンユニオンが紹介されている。
代表取締役会長・CEO/重延浩(しげのぶゆたか・65歳)の「受注する制作費が25年前より低い。テレビ局との関係から言いにくいのですが、事実です」という発言は、テレビ局の下請けではない会社を目指してきたテレビマンユニオンであるだけに、なおさら重い。

つぎの一節は気になる。

《活路を探り90年代半ば、通信衛星のデジタル放送で自らのチャンネルを持とうと乗り出した制作会社があった。しかし、契約数が目標に及ばず、社長は自己破産し放送界から姿を消した。「対等なパートナーに」という制作会社の長年の訴えは、なお目標のままだ》

関連があるので、河内孝著『新聞社 破綻したビジネスモデル』(新潮新書/2007年)から引く。

《『週間東洋経済』(〇六年一〇月七日号)の「当世時給番付」によると、フジテレビは七五八二円で第三位。一方、テレビ制作プロダクションは二〇〇〇円以下。もし、規制が緩和され、文字通りの「多チャンネル時代」が到来して、何百とある下請プロダクションが、それぞれ特徴を持ったテレビ局になったら――これが、独占的な国家免許で利益をむさぼっているテレビ経営者達の最悪のシナリオなのです。(ちなみに下請プロダクションの実態を調べた公取調査も、全マスコミが黙殺しました)》

本blogに2005年11月03日「テレビ制作会社について考える 」をアップしてからも、自分なりに考えつづけてきた。
「ワーキングプア」を報じるTV局が、制作会社の「ワーキングプア」によって支えられているというのは皮肉だ。
「経費削減のために番組制作を外注する」という局の発想自体が、まことに寒い。
受信料で経営しているNHKが、委託先の制作会社に正当な報酬を払わず、民業を圧迫しているのは解せない。いまのNHKの番組制作委託率を知らないが、公表しているのだろうか。
いずれにしてもインターネットの普及により、新聞社と同じくTV局も安穏としていられない時代が到来しそうだ。

  *

このシリーズで最も印象に残ったのは、ラストの?に登場する岡本愛彦(おかもとよしひこ・2004年79歳で歿)である。
《外部の圧力に屈したテレビ界に絶望した》岡本は、《2年連続で芸術祭賞を受けながら63年、TBSを退社する》
TBSドラマ「私は貝になりたい」(58年)についてはあまりにも有名なので知っていたが、制作した岡本愛彦について、わたしはまったく知らなかった。岡本は生前、「あのとき戦争責任を追及できなかったら、一生できないと思った。このドラマを作れればテレビをやめてもいい、と命がけだった」と語っていたという。

《TBSで最後のドラマの演出助手をつとめた村木良彦(71)に退社後、ふと打ち明けた。「『貝になりたい』について、若い頃からの在日韓国人の友人から『加害者としての日本人像がなく、アジアの民衆の視点が欠落している』と言われてショックだった」
 岡本は多額の借金を背負い、在日韓国人政治犯の記録映画を製作した》

村木良彦は上記のテレビマンユニオン設立メンバーのひとり。1984年、代表取締役社長を辞し、非常勤の取締役へ。朝日新聞社の川本氏から取材を受けたことが、「村木良彦ブログ」に記されている。

亡くなる3年前の01年に岡本が語ったという一節が、いまもわたしのこころに突きささっている。

テレビは人間の歴史の中で、毒にも薬にもならないものになってしまった

折しも2007/08/24、「終戦記念特別ドラマ」として【真実の手記 BC級戦犯 加藤哲太郎「私は貝になりたい」】(日本テレビ)が放映された。
わたしも観たが、あまり感銘を受けなかった。夫婦愛、家族愛が軸になっているのに加え、主人公・加藤哲太郎役の中村獅童が好きでないわたしには、感情移入できなかった。感動したのは哲太郎の妹の勇気と思想性だ。
以前から更新のたびに閲覧している「醍醐聰のブログ」(08/26)に「私は貝になりたい」(日本テレビ放映)はBC級戦犯の叫びをどこまで伝えたか?というエントリーがアップされている。

それによると、上記の番組「私は貝になりたい」(日本テレビ)について加藤哲太郎の妹・不二子さんから「ぜひ視てほしい」という電話があり、日本テレビの下請けの制作会社の若いスタッフが原作を読んで感銘し、ぜひ取り上げたいといって取材に訪れたいきさつを聞いた、という。
その企画者の満足できる番組内容になっているとは思えない。
「真実の手記」とうたいながら、番組のラストに「フィクションです」という断りがあったと記憶している。整合性に欠けるのではないか。
このドラマは原作とは別物、といってさしつかえないと思う。

岡本愛彦が、「終戦記念特別ドラマ」と冠した07年版「私は貝になりたい」を観たら、
テレビは人間の歴史の中で、毒にも薬にもならないものになってしまった
と、繰りかえしいうのであろうか。

本シリーズを担当した川本裕司は、つぎのように結んでいる。

《視聴率という名の神に従順な、同じ顔をした番組がテレビにあふれる。顔が見える制作者の命がけの作品を、私はもっと見たい》

  *

余談である。
本シリーズの?に登場するNHK大阪放送局の福田雅子が制作した「差別からの解放」は1985年、地方の時代「映像祭」で特別賞を受賞した。3年後の1988年、差別戒名をとりあげた「風よ陽よ墓標に」でグランプリを受賞。
「風よ陽よ墓標に」でスタッフのひとりだった佐多光春はわたしの知人である。佐多はその2年まえの1986年、「トモコの小さな声〜ユージン・スミスが水俣で見たもの〜」(ETV8/NHK教育)で、同じく地方の時代「映像祭」で特別賞を受賞している。
彼が授賞式で表彰状を受けとる姿を眼にしたのは、いまとなっては想い出のひとつとなっている。また受賞が決まったことを電話で知らせてくれたときの彼の弾んだ声は、いまも耳底に残っている。

なぜそんなことを記しているのかというと、わたしは彼との出逢いによって、TVのむこう側に番組を制作している人間の存在を意識するようになったからである。したがっていい番組を観ると、制作した人間について想像してしまう。
それだけではなく、当時、彼の制作した番組について番組評を書き送っていたのだ。彼にそれを求められたからだが、彼の番組制作にかける情熱に圧倒された。虚勢を排して感じたままを記すという行為は、わたしにとっても貴重な体験だった。
ちょうどそのころから家庭用ビデオが普及しはじめたので、多くのドキュメンタリーを録画し、今日まで観つづけているのである。
佐多光春の名前をここに明記するのはかなり躊躇したが、2007年が彼にとってひとつの転機なので記すことにした。
本blogで、小田昭太郎に頼まれてもいないのにオルタスジャパン制作のTV番組について幾つか記しているが、じつに20年ぶりなのである。
佐多宛の番組評は私信なので本人しか読んでいないはずだが、ネット上に公開すると、少数といえども不特定多数が読むことになる。怖いのと同時に、予想できないことが起こりうるのがおもしろい。

じつは、つぎにアップするつもりで下書きの途中で止まっているのが、【岡本愛彦著『テレビよ、驕るなかれ』】なのだ。
先日、小田昭太郎にメールしたときに岡本愛彦について触れたところ、小田の日本テレビ時代から岡本が亡くなるまでの30有余年、大変お世話になった、という返信に驚いた。
それを受信するまえに読んでいた森口豁・「さよなら 岡本愛彦さん」(2004年11月13日)に描かれている岡本愛彦像と、小田昭太郎が返信に記していたそれとは合致する。
ちなみに岡本愛彦著『ジャーナリズムを叱る』(大阪経済法科大学出版部/1988年)には、小田昭太郎ディレクター(日本テレビ)や、上記の「風よ陽よ墓標に」が登場する。また岡本は、「ETV8」に注目していたという。これはNHK教育で(月〜金、午後8時)良質のドキュメンタリーが放映されていた番組である。いまは「ETV特集」になっている。
なお、岡本愛彦は記録映画「川越 ’82」で地方の時代「映像祭」第1回自治体部門賞を受賞している。

  *

遅ればせながら『私は貝になりたい』(加藤哲太郎/春秋社)を入手した。
初版は1994年10月25日で、わたしの手元にあるのは、2007年7月30日/新装版第二刷である。
巻末に「著作権紛争の経過資料」が収められている。

「加藤哲太郎略年譜」によると、1958年10月31日および12月21日の2回、橋本忍作、岡本愛彦演出「私は貝になりたい」を放映したTBSに対し、59年1月23日、橋本忍作「私は貝になりたい」は題名も筋立ても加藤哲太郎の原文を演釈し引き伸ばしドラマの各人物を配したものにすぎないことに気づき、社団法人日本著作権協議会仲裁委員会に申立書を提出し著作権の主張と解釈のための斡旋を依頼。
60年11月、TBSと和解覚書を交わし、タイトル表示を入れることを申し合わせる。

       原作 
           物語・構成  橋本  忍
           題名・遺書  加藤哲太郎

加藤哲太郎が記した詳細な「著作権紛争の経過資料」を読む限り、橋本忍とTBSにはあまり誠意が感じられない。加藤哲太郎のような「名もない作者の著作権」が認められるためには、闘争しなければならないということなのか。

なお、映画版「私は貝になりたい」(福澤克雄監督、2008年冬公開予定)では、こちらによると、橋本忍(89)が書き直した脚本は「より反戦メッセージが伝わりやすく、そして夫婦愛と家族愛を深く描いたものになった」という。


参考

私は貝になりたい - Wikipedia

加藤哲太郎 - Wikipedia


















miko3355 at 23:48|この記事のURLTrackBack(0)

2007年06月27日

「ネットカフェ漂流」

「起きて半畳寝て一畳」というが、ネットカフェ難民においてはその一畳分のスペースがない。小さく仕切られた窒息しそうな個室でパソコンをまえにし、リクライニングシートに身を沈めて眠るのである。
わたしが最初に「ネットカフェ難民」に関するTV番組を観たのは、2007年1月28日深夜に放映されたNNNドキュメント’07「ネットカフェ難民―漂流する貧困者たち」(日本テレビ)だと記憶している。
その後、NHKで放映された番組も観たし、その他のメディアでとりあげられているのを見聞きしたが、格差社会をみせつけるだけで、取材する側の意図が伝わってこない。いつもやりきれなさだけが残った。
そんななか、6月24日(日)の深夜2:35〜3:30に放映された第16回ドキュメンタリー大賞ノミネート作品 「ネットカフェ漂流」(制作:フジテレビ)は秀逸だ。
たまたま同日(正確には6/25)0:50〜1:20に前述のNNNドキュメントで「ネットカフェ難民2」が放映された。

「ネットカフェ漂流」では、まず松田洋治のナレーションがいい。制作者の真摯な態度が伝わってくる。わたしはドキュメンタリー番組において、ナレーションの内容にも注目するが、ナレーターの声質に不協和音があると興ざめなのだ。
ディレクターの高橋龍平(20代)が、取材を重ねながら自分の膚で感受したことを元に、混乱しながらも自分の頭で考えようとしている姿勢に好感をもった。

わたしが最も印象に残ったのは、日雇い派遣の仕事をしているTさん(番組では本名が明かされ、顔にぼかしは入っていない)である。
高橋ディレクターと同世代のTさんは、小学生時代に離婚した両親からひどく裏切られたことで、こころに大きな傷をもっている。身綺麗にしているので、高橋と並ぶと、一見どちらがディレクターかわからない。
孤独地獄に陥っているTさんは、ネットカフェでblogを書いている。ということは、なんらかのかたちで不特定多数の他者とのコミュニケーションを求めているのだろう。
取材を重ねるうちにうち解けてきたTさんは、カメラのまえで生い立ちを語りはじめる。
そしてさらに困窮したTさんに高橋ディレクターは、おずおずと自立生活サポートセンター「もやい」を紹介する。

その後、連絡が途絶えたことで、高橋ディレクターは、自分が「もやい」を紹介したことでTさんを傷つけてしまったのではないかと悩む。
しばらくしてTさんから携帯にメールが入り、約束の場所にあらわれたTさんは、「もやい」を訪ねる意思を固めていた。頑ななTさんがこころを開いた瞬間に、思わず目頭が熱くなった。わたしにしては珍しい現象だが、それほど「ネットカフェ難民」は深刻なのだ。ポーカーフェイスのTさんは、それでも笑顔をみせるには至らない。そこがかえってリアルだ。
身内に裏切られたTさんが他人のサポートで救済されるところに、わたしは安堵する。

「もやい」で的確なアドバイスを受けたTさんは、ネットカフェ難民によるムダな出費を排除し、労働に堪えられる身体を確保するためにアパートを借りることを提案され、こころが動いたようだ。「もやい」が連帯保証人になり、多角的に支援するのだ。まず生活保護を受け、アパートの敷金をつくる。その後、仕事が決まった時点で生活保護を打ち切るという提案に、Tさんは不承不承ではあるが同意するつもりらしい。Tさんは最後のプライドを捨てなければ生きていけないほど切迫していたのだろう。しかしアパートを借りても、日雇い派遣では楽観視できないだろうと、心配になった。しかしいまは、プラス思考をするしかない。
都会では当面のお金があれば住居がなくても暮らせる。お金が尽きたとき、ホームレスの道へ転落する。

高橋ディレクターは、現代日本の社会問題の縮図がネットカフェ難民に集約されている、という視点に立つ。そこが新鮮だった。取材を経てそこにたどりついたところに、この番組の重さがある。
30代のサラリーマンにうつ病が拡がり、退職や休職に追いこまれているという。企業が20代の雇用を控えたために、30代の社員に過重な負荷がかかっているらしい。うつ病という病歴があると、よほど企業に理解がないと再就職はむずかしいだろう。
効率主義と弱者斬り棄ての社会は、いま、社会から脱落していないひとびとの心身をも蝕んでいるにちがいない。
だからこそ、高橋ディレクターの30代、40代の姿をみたいと強く思った。
またTさんのその後も追ってほしい。


miko3355 at 11:38|この記事のURLTrackBack(0)

2007年04月10日

BS世界のドキュメンタリー「追跡 ヘロイン・コネクション」

2007/02/21にBS1で放映されたBS世界のドキュメンタリー「追跡 ヘロイン・コネクション」は秀逸である。
TV画面ではなく、映画のようにみえる。
音楽は必要最低限に抑えられていて、NHKのドキュメンタリー番組に時折みられるおどろおどろしい音楽は、もちろんない。
淡々と撮るべきものを撮り、アップテンポな編集が心地よい。
かんじんな映像にナレーションがないので、観る側の想像力が問われる。それだけ映像に牽引力がある。
またナレーションと映像がセットになっていないケースが幾つかあった。それは別の世界を同時に想起することを観る側に要求するので、重層的な表現になる。


原題:Afghanistan: The Heroin Connection 

制作:フランス Ampersand/2006年
       ディレクター  ブリュノ・エヴヌ
                アントニア・フランシス
       撮影      ジャン・ピエール・ギユレズ

……………………………………………………………………………………………………………

パリの若者たちを蝕むヘロイン

オープニングシーンは、フランス・パリで開かれる闇のパーティー。
狂乱じみた音楽が流れる。
主役は麻薬、とくにヘロイン。
ヘロインは効きめが強く、比較的手に入りやすい。この若者たちはヘロインのほかにも、大麻の樹脂であるハシシやコカイン、エクスタシーといった麻薬を大量に摂取する。
アヘンを精製してつくられるヘロインは、若者たちの心身を蝕む危険な麻薬。一度使うと急速に常習性が進み、過剰摂取の恐れがある。


アフガニスタンの首都カブール

世界で流通するヘロインの90%以上は、アフガニスタンが原産だといわれる。
ミシェル・ダネ(世界税関機構/事務局長)は、大きな地球儀を指し示しながらいう。

「ヘロインの密輸ルートは、大きく分けてふたつあります。ひとつはバルカンルート。イラン・イラクを通ってトルコへ。そこから南ヨーロッパのイタリア・フランス・スペインに到達します。もうひとつは古くからあるルートで、シルクロードを通るものです。アフガニスタンからカザフスタンをぬけてロシアに入り、北ヨーロッパに達します」

ヘロインの密輸貿易の中心、アフガニスタンの首都カブール。
アメリカ軍の侵攻によって瓦礫の山となった街は復興が遅れ、いまもそのまま。街をゆく女性たちは相変わらずブルカに身を包んでいる。
唯一の変化はタリバンが去り、多国籍軍の部隊が常駐するようになったこと。そしてもうひとつ、街のいたるところに麻薬常習者の姿がみられるようになったこと。タリバンの支配下では麻薬を使用すれば、死刑だった。
麻薬常習者の多くは、元ムジャヒディン(イスラム義勇兵)。かつての戦友が、いまでは麻薬仲間。

ゴミ溜と化した河のほとりでスタッフは、ひとりの男性に出会った。
ファヒーム、28歳。この河の壁穴を住まいにしている。
現実世界から逃れるように、等身大の壁穴に入るファヒームの映像。

朝6時、最初にヘロインを打つ時間。
前戦にいたころ、飢えや痛みから逃れるためヘロインをはじめた。
1日に2回ヘロインを打つには、日本円にして300円が必要。

髭は伸び放題だが、なぜか退廃的な空気の感じられない、端正といえる顔だちのファヒームは語る。

「以前はカブールで家族と暮らしていました。そのころはハシシを吸っていました。地方の兵営に送られてから、友人とヘロインを使いはじめました。戦いに参加するためカブールにもどりましたが、家族はいなくなっていました」

突然、黒い乗用車があらわれた。政府のナンバープレートをつけている。
スタッフが「こんにちは。あなたの車ですか? 麻薬の密売について取材しているのですが」と声をかけると、ふたりの男は「酒はいいのに、なぜヘロインを売ってはいけないんだ?」という。
住民らしき若い男は、「あんな黒塗りの車をもっているのは、シークレットサービスか政府関係者だけですよ。麻薬の売買を仕切っているのは、政府の内部で働く人間なんですよ」と証言する。

苦労の末なんとか金を手に入れ、ヘロイン1グラムを手に入れたファヒームは、河の土手にもどる。ここは麻薬を打つのにうってつけの場所。ゴミと排泄物の悪臭が立ちこめるここなら、だれもじゃましようとはしない。
仲間らしき男が、慣れた手つきでファヒームの腕に注射針を刺す。
土手の上に集まった野次馬に嘲笑されながら、ファヒームは心情を吐露する。

「みんなはわたしの頭がおかしいと思っていますが、そんな生やさしいものじゃありません。すっかり麻薬漬けで、こんな生活をつづけるくらいなら、死んだほうがましです」

ファヒームはそれ以上話すことはできなかった。
ヘロインが体中を駆けめぐり、数分間は禁断症状の苦しみから解放される。
地面に捨てられた1本の注射器をクローズアップ。
音楽もナレーションもないぶん、訴求力のあるカットである。

カブールには6万人以上の麻薬中毒者がいる。
荒涼としたカブールの街並み。
住民の大半は1日300円以下で暮らしている。子どもたちの4人に1人は5歳まで生きられない。しかし一部の地域には豪邸が建ち並び、周囲は厳重に警備されている。
スタッフが警備員に「資金はどこから?」と訊くと、「ヘロインの密輸」だという。
豪邸に住んでいるのは欧米人。企業の重役や外交官たちが、1ヵ月90万円〜300万円の家賃を支払い、密売人たちから借りている。

カブールにあるアメリカ人基地を訪問したフランス国防相/ミシェル・アリヨマリ(女)は、この地域の部族の首長たちに面会を求めた。
集まった20人の男たちのなかには、麻薬密輸への関与を疑われる人物もいる。
首長たちが基地に入るのははじめて。
麻薬取引の拡大を止めるには国際社会の長期的な支援が必要だと訴えた男はハーミド・カルザイ大統領の弟、アフマド・カルザイ。実力のある部族の出身で、アフガニスタン最大の麻薬密売人であるとも噂されている。
しかしアフマド・カルザイは、TVカメラのまえでその噂を全面否定する。


カンダハル近郊のケシ畑

アフガニスタンでは、麻薬は先祖から受け継がれた伝統でもある。
タリバンの根拠地・カンダハルは2001年、連合軍の爆撃で大きな被害を受けた。現在、麻薬密輸の利益はテロ組織の資金源になっている。

カンダハルの近郊でケシ畑を探す。ケシはアヘンやヘロインの原料となる植物。
カブールに向かう道を北へたどる。途中の小さな町でひとりの男が待っている。
ケシ栽培者のアリは自分の畑に案内することを承諾したが、2つの条件をつけてきた。訪問料として60ドルを支払うことと、運転はアリがすること。
意外なことに、畑は幹線道路からわずか数百メートルの場所にあった。
アリは23歳だが、村一番の金もち。富をもたらすのは2ヘクタールのケシ畑。
10人前後で作業をしている。
「この国には工場もないし仕事もないので、アヘンを生産するしかありません。小麦や米では生活できないのです」とアリはいう。

ケシの実をひとつひとつ切りつけていく映像。
切り口からしみだす乳液がアヘンやヘロインの原料となる。
ケシは1年に2回収穫できる。

スタッフと作業をしているふたりの男とのやりとり。
彼らとアリについては、顔にボカシは入らない。

スタッフ 「これは何になる?」
    「市場で売られます」
スタッフ 「何のために」
    「わかりません」
スタッフ 「乳液は何の原料?」
    「さあね、僕らには関係ない」
スタッフ 「ハシシ? アヘン?」
    「ヘロインだ」
    「言うなよ」(苦笑)
    「みんな知ってることだ」
スタッフ 「ヘロインを使ったことは?」
    「使わないよ。からだに毒だ」
スタッフ 「じゃあどうするの?」
    「イランに送る」
スタッフ 「その後は?」
    「さあ知らないよ」

ケシの実を慣れた手つきで切りつける動きをクローズアップ。その顔は映さない。
畑にいる数人の子どもたちが、スタッフを興味深げにみている。その眼は、日常化したケシ畑にスタッフの闖入という非日常を物語っているようにみえる。
アリはスタッフにできるだけ早く立ち去ってほしい様子。
政府とは良い関係ができているが、タリバンは恐ろしい、政府に協力していると分かれば殺されるだろう、とアリはいう。
アリは取材を受けたことをタリバンに知られたのではないかと恐れ、神経質になっていた。

取材のつぎの目的地はカンダハルから西へ200キロ。政府軍の力の及ばない地域。
収穫を終えたケシ畑で、元タリバン兵のサミールに会う。

ケシ畑、ケシの実をクローズアップ。

サミールの生活は豊かではない。麻薬で得た金はタリバンに渡すから。
サミールは、枯れたケシ坊主を手でもてあそびながらいう。

「麻薬を売って大金を稼いでいるのは外国の密売人です。アメリカでは、ヘロイン1グラムが金1グラムより高く売れると聞きました。ここではそんなことはありません」

サミールが取引仲介人・ハビブラを紹介してくれた。
(顔にボカシが入れられた)ハビブラは、自分は密売人ではないというが、麻薬についてかなりの知識をもっているようだ。
枯れたケシ坊主を両手でくだき、掌で粉を器用にかき集め、口に放りこむハビブラの映像。

ハビブラはいう。

「あそこを越えるとパキスタンで、むこうがイランです。麻薬はイランを経てクウェートにいきます。それからトルコ、ブルガリアをぬけてチェコやスロバキアに流れます。たいていは果物や石鹸と一緒に運ばれますが、セメントのトラックで運ばれることもあります。砂漠を通るので、気づかれずに通過することはできません。だれかが本気で密輸を阻止したければ、トラックを止められるはずです」

みわたす限り一面のケシ畑。
この地域でどれだけのアヘンがつくられているのか、想像に難くはない。

枯れたようにみえる数本のケシの実と茎を、カメラは地面から天空にむけてとらえる。落日ではなく、太陽を布で覆ったような光線が射しこみ、どこか怪しげな空気を醸しだす。
ケシという植物を、このように動的に表現できるカメラワークに感心した。ケシ畑から一歩でると、おどろおどろしい世界へ変容するという暗示なのか。
わたしが本番組で最も印象深かったのは、このカットだ。


アヘン市場と密売人

ハビブラの案内で数キロ先にあるアヘンの市場へ行くことになった。

スタッフ 「市場にはどんな危険が?」
ハビブラ 「ヘタをすれば"死"です」

ハビブラは電話をかけ、アヘンを買いたがっている外国人がいると話している。
「これから市場に客をふたり連れて行く。少し情報をほしいという外国人でね。色々見せてやってほしい」

この市場にカメラが入るのははじめて。
ひとりの男に注目した。手にはアヘンの袋が握られている。
隠しカメラをもってハビブラのあとにつづく。
捕まれば、いのちはないが、ハビブラは緊迫した状況を楽しんでいるようだ。
アヘンの入った袋が無造作に置かれている。

一軒の店に入り、スタッフは客を装う。

説明する男。顔にボカシが入っているが、カメラは個人を特定できないぎりぎりまで男を映しだす。
「これはアヘンです。ヘロインとは違います。もっと安くてよいものがあれば、5000アフガニー上乗せしますよ。取り引きですから、無理にとは言いませんがね」

この袋ひとつ分、5キロのアヘンの値段は日本円にして4万5000円。
突然、ガイドがきびすを返した。車へもどるよう合図をしている。
正体を覚られた恐れがあるため、急いで立ち去る。
急いで車に乗りこみ、ドアを閉める映像を、車の内側よりとらえる。
画面の乱れが、緊迫感をあらわしている。

その夜、ヘロインの密売人と会うことになった。
密売人のうしろ姿をカメラはとらえる。
密売人は訪問者が記者だということは知っているが、手ぶらでやってこなかった。
袋に詰められているのは、10キロのヘロイン。
生産者が同じであることを証明するため、ひとつひとつにスタンプが押されている。

スタッフ 「10キロいくら?」
密売人  「これか? 2万ドルだ」
スタッフ 「どこへ運ばれる?」
密売人  「運ぶ人間はほかにいる。我々には関係ない。まずイランに運ばれ、さらに別の場所へ行くらしいが、それがどこかは知らない」

ターバンで覆われた密売人の横顔を、人物を特定できないようにカメラはとらえる。
密売人のむかい側に座っている18歳くらいの息子を、正面からカメラはとらえる。左足を立て膝にし、右手を床について全身を支えているようにみえる。ターバンと同じ色柄の布で顔は覆われていて、眼と鼻の上部だけがむきだしになっている。
「密売人の息子はすっかり麻薬が効いている様子」というナレーションが入り、息子の眼をクローズアップ。とろんとした眼で瞬く。

スタッフ 「最近、商売は厳しい?」
密売人  「ああ、厳しいね。捕まると状況が悪くなるから、慎重にしなきゃならない」
スタッフ 「これが禁止薬物なのは知ってる?」
密売人  「もちろん。だが、やるしかない」
スタッフ 「麻薬は多くの人の命を奪っているか?」
密売人  「誰だっていつかは死ぬんだ。知ったこっちゃない」

密売人は買うつもりがないことを悟り、それ以上は語らなかった。
密売人の息子が右手に麻薬の入った袋をもち、すばやく立ち上がる。
つづいて立ち上がった密売人の足元を映し、つぎに不在になった場所をクローズアップ。
インパクトのある手法である。


巨大な麻薬密売組織

首都カブールにもどり、アフガニスタン麻薬取締警察を取材。
アメリカ麻薬取締局(DEA)が指揮を行うエリート部隊。
この日はカブールの近郊でみつかったアヘンの精製所を捜査。
スタッフは同行を許可されなかったが、隊員のひとりが撮影を引き受けてくれた。

撮影されたフィルムにナレーションが入る。
30人の隊員が動員される。アメリカ人、イギリス人、フランス人の混成部隊。
隊員のうしろ姿をカメラはとらえる。顔を映すときにはボカシが入る。
深い谷底にある簡単な羊小屋が麻薬製造所。
すでに所有者は立ち去ったあとだったが、麻薬を製造する設備が発見された。
化学薬品や50キロ以上のヘロインも残されたままだった。
隊員たちは製造所にむかって発砲し、爆弾がしかけられていないことを確認する。
最後に二度と製造所が使えないように設備を破壊する。
赤い炎をあげて燃える製造所。
任務は終了。犯人を捕らえることはできなかったが、麻薬を押収し、調査のためカブールにもち帰る。飛び立つヘリコプターが映しだされる。

国内で押収された麻薬は、すべてアフガニスタン内務省にもちこまれる。
この日も北部地方でアフガニスタン警察が押収した大量の麻薬が運ばれてきた。450キロのアヘンと150キロのヘロイン。
倉庫にはアヘンやハッシシ、ヘロインなど、数億円に相当する麻薬が保管されている。
ここには1500キロ以上のヘロインがあり、密売人は独自のスタンプをもっている。
押収した麻薬が再び出回ることのないよう、袋は封印される。
保管庫も閉ざされるが、南京錠に帯状の紙を貼りつけるだけというごく簡単なもの。

巨大な麻薬密売組織を操るのは、いったいだれなのか。手がかりになりそうな人物をみつけ、面会した。あらわれた人物は、自分は麻薬ネットワークのリーダーだ、と名乗った。
男はビデオカメラを手にもっている。
顔を除いた男の全身をカメラはとらえる。

スタッフ 「なぜカーテンを?」
    「ヘロインの話をするからです」

男は語る。横顔を映すが、正面にはボカシが入る。

「政府が本気で麻薬売買を阻止しないのは、自分たちもかかわっているからです。タリバン政権のころ、麻薬製造所はパキスタンにしかありませんでした。(男の右瞼をクローズアップ。なまなましい)。いまは国内でもヘロインがつくられています。外国人だけではなく、アフガニスタン人も麻薬を買います。
 ビデオをおみせしましょう。
 ここはアメリカ兵や政府が破壊した製造所です。完全に壊されたので、所有者はすこし離れた場所に新しい製造所をつくりました。
 つぎの映像で、アヘンからヘロインをつくる方法を説明します。
 まずアヘンを製造所に運びます。ロバに積んでもっていくこともあります。もちこまれたアヘンを7キロずつ缶に入れます。あとはそれを火にかけ、加熱するだけです。
 これはアヘンをかきまぜているところです。
 こちらでは、車のジャッキで製品を圧縮し、固めています。シートの上にある茶色い物質がヘロインです。
 こうしてできあがったヘロインは海外に売られます。最近はタジキスタンに流れることが多くなりました。イランとの国境の取り締まりがきびしくなり、運ぶのがむずかしくなったからです」


国境の街・ヘラート

密売人がイランに入るのは、ほんとうにむずかしいのか。スタッフは真相をたしかめるため、国境の街・ヘラートをめざす。
ヘラートはアフガニスタンで最も美しく、商業の活発な街。
ヘラートを経由して年間5000億円規模の貿易が行われているが、その4分の3は麻薬の売買だといわれる。
税関を監督するアメリカ陸軍/トニー・オリバー少佐に案内してもらう。
トニーは車内で語る。

「ヘラートは温暖で緑が美しい街なので、仕事で外出する機会が多いのはうれしいことです。外国で働く場合、まずその国の文化を知ることが大切ですが、なかなか自由時間がとれないし、行事に参加するヒマもありません。ここでの任務は多く、毎日が月曜日のように忙しいんです。
 みてのとおりヘラートの街に入るおよそ1キロ手前から、道の両側には数えきれないほどのトラックが止まっています。イランからアフガニスタンへと、ありとあらゆる商品が運びこまれてきます。ここでの商売は、すべて物々交換です。現金での取り引きは一切ありません麻薬取り引きも例外ではなく現金を通さないため、足がつきにくく厄介です。
 たとえばあそこに穀物のようなものと車を2台積んだトラックがみえるでしょう? あれは麻薬の密売人がアヘン200キロと交換に、車2台と16トンの米がほしいといって取り引きした結果かもしれません。先に品物が到着し、数ヵ月後に麻薬と交換されるのです。
 計算では毎日、1トン以上のアヘンが国境を通過しています。
 無法地帯に法律をもちこむのは、大変です」

トニーの任務は麻薬の取り締まりだが、密輸に対してはなす術がない。
トニーのアメリカ人の同僚は2人だけ。現地の取締官は200人いるが、監視する国境は1200キロに及ぶ。

この日、トニーは重要な訪問者を迎えた。国連薬物犯罪事務所のトップ/ドリス・ブッデンバーグ(女)。アフガニスタン国境警備隊長/ラフマン将軍も同行している。
「大変な任務についている皆さんの勇気には頭が下がります」とブッデンバーグはいう。敵の手強さを十分に把握している彼女は、つぎのように語る。

「もしこちらが大規模な麻薬製造所を取り締まれば、麻薬組織は小さな製造所をつくるでしょう。麻薬の密売人たちはじつにしたたかで、高い適応能力をもっています。情報網と製造技術を兼ね備え、さらに自由に使える資金もあります。だからといって負けを認めるわけにはいきません。少なくとも闘ってみなければわかりませんから」

国境警備隊の駐屯地を視察。
アメリカがアフガニスタンから撤退すれば、国境警備隊が頼れるのは国連だけ。

スタッフ      「アメリカが撤退したらどうします?」
ブッデンバーグ 「わかりません。考えも及ばないわ(笑)」

国境警備隊長/ラフマン将軍も危惧している。麻薬との闘いは、武力で解決できるものではない。

ラフマン将軍 「腐敗が続く限り、密売も続くでしょう」
スタッフ    「腐敗はどの程度まで進んでいるのでしょうか?」
ラフマン将軍 「かなりの上部まで」
スタッフ    「つまり?」
ラフマン将軍 「マフィアが国境を支配しているんです。現地のマフィア もいれば、外国のマフィアもいる。とんでもないやつらですよ(笑)」

ブッデンバーグとラフマン将軍は、カブールへもどっていった。
アメリカ陸軍/トニー・オリバー少佐はいう。

「少ない人数でこの広い国境を守らなければいけないのですから、大変です。密売人にとっては天国です。自在にゆききできますからね。むこうにイランの国境警備隊もみえますが、兵士の間隔は、われわれほどまばらではありません。こっちは人が少なく、すぐ隣りの警備兵の姿さえみえません」

16歳の少年兵はいう。

「ここにいると情けなく感じます。ガソリンもないし、食べ物を買いに行くオートバイもありません。どこへ行くにも、歩いて2時間はかかるんです」

国境の反対側はイラン。イラン軍のPRビデオには麻薬の密売防止に総力をあげて取り組んでいる姿が紹介されている。
国境地帯には障壁がつくられ、100メートルおきに監視所が設置されている。犠牲になった兵士は、殉教者として讃えられる。押収された麻薬は爆破されるが、その模様は毎回、ショーとしてテレビで放映される。
(合計40トンの麻薬が爆破され、炎上する映像が流れる)
麻薬取り引きにかかわった者は、きびしく処罰される。この3年間で2000人以上の密売人が拷問を受け、公開の絞首刑となった。(その映像が流れる)

アフガニスタンでまたアメリカ軍による捜索がはじまった。

アメリカ陸軍/トニー・オリバー少佐が車内で語る。
前方を走っている四輪駆動車の後部には、大きく「TOYOTA」というロゴが入っている。

「この国はとても広く障害物がないので、四輪駆動車があれば、どこへでも行けます。密売人たちもそれを知っていて、ルートを変更したり、人気のない夜間に活動したりします。取り締まるのはほぼ不可能です。アメリカ南西部でも同じような問題を抱えていますが、はっきりいっててっとり早い解決法はありません」

数時間後、砂漠の真ん中で1台の車を発見した。

トニーは、同じく車内でいう。

「あのくらいの車から何百キロもの麻薬が押収されることもあります。いま、周辺を調べて安全を確認し、車内に不審なものがないかたしかめています。男たちがみえますが、夜のうちに隠しておいたものを取りに行っていたのかもしれません。警察にみつかりそうになって、運んでいる品をその辺に捨てておいて、あとから拾いにくるケースがよくあるんです。
(ホールドアップしていた男たちが、笑顔で握手して立ち去る映像)
車内に麻薬はないようです。少々強引なやり方でしたが、仕事だってことで勘弁してもらいたいですね」

アフガニスタン南部での取り締まりがきびしくなると、取り引きが北部のタジキスタンに集中しはじめた。
国境のアムダリア河。
タジキスタンが独立し、ロシア軍の影響力が弱まったことは、麻薬密売人にとって思いがけぬ幸運だった。北ヨーロッパにむかうルートが開放されたようなものだから。
タジキスタンの首都ドウシャンベ。旧ソビエト時代の面影が色濃く残っている。ここには物乞いも麻薬常習者もいない。タジキスタンは麻薬密売と最前線で闘っている。

タジキスタン麻薬取締局を訪ねた。
ルスタム・ナザロフ局長は、強制捜査に同行したいというスタッフの申し入れには応じなかった。かわりに外国の部隊と協同の任務に当たったときの記念品をみせてくれた。
つぎに建物の地下に案内された。
大量の麻薬が保管されている。部屋中に息苦しくなるような匂いが立ちこめている。しかしこれは、ヨーロッパに流れる麻薬のほんの一部にすぎない。

ナザロフ局長 「これは麻薬をめぐる戦争です。密売人は金儲けしか考えていません。総力戦でぶつかっていかなければならないんです」

ナザロフ局長にかわり、補佐官がつづけて案内してくれる。
密輸業者が投獄されている建物に入る。

補佐官は語る。

「これは密輸業者の使っていたボートです。櫂でこいだんでしょう。ふたりのアフガニスタン人が、このボートで83キロのヘロインを運んでいました。ふたりは救命具のかわりに、からだにヒョウタンをしばりつけていました」

補佐官が手にしているヒョウタンの滑稽さが、投獄されているふたりのアフガニスタン人の必死さをあらわしているようにみえる。
スタッフは、彼らとの面会は許されなかったが、逮捕の様子を映したビデオを観ることができた。
アムダリア河を渡り、ヘロインを所持していたため逮捕された男性は、運んだら30ドルもらうはずだった。
この運び屋の男性はこれから21年間、刑務所ですごすことになる。


フランスのカレー

フランス北部の街・カレーは、フランスとドイツを結ぶ海峡トンネルの入口にある。
1日5000台のトラックが税関を通る。
麻薬の捜索は、干し草のなかから針を探しだすようなもの。
押収される麻薬の量はふえつづけている。2005年10月、フランスの税関は、1回の押収量の記録を更新した。しかもそのほとんどが、無防備にも隠そうとさえされていなかった。

税関の男たちの証言。

「密輸業者をみやぶる判断基準はありません。参考になるような特徴や犯人像が絞れないんです。発見できるのは、ごく一部でしょう」

「大部分がトラックの運転席の後部にそのまま積まれていました。2台とも連結部分の隙間からみつかりました」

「押収したのは夜でした。オランダからきて英仏海峡を通ろうとしていたトラックのなかに、灰色のヘロイン140キロが積まれていたのを発見したんです。これは国内新記録でした」

上記の説明とともにブルーの大きなカバンに入ったヘロインを映し、つぎのナレーションで番組は終わる。

そのヘロインはアフガニスタン製でした。麻薬撲滅への道のりは、はじまったばかりです

番組のオープニングとエンディングがフランスに関する映像であるところに、本番組の制作意図があるのだろうか。
アフガニスタンが麻薬を製造しているせいでフランスは迷惑している、という感触がぬぐえない。
なぜフランスの若者たちが麻薬常習者になっているのか?
それをテーマにした番組を観たいと思う。
比較するのもヘンだが、元ムジャヒディンのファヒームより、上記の若者たちのほうが、人間として崩れているように感じとれた。本番組の映像を観た限りにおいて。
また若者たちが麻薬を入手する資金については触れていなかった。が、その生活をつづけてゆけば、ファヒームと同じくホームレスの道を歩むことになるだろう。生きてゆくための食べ物より、麻薬を入手することを最優先する生活である。

                             












miko3355 at 09:02|この記事のURLTrackBack(1)

2006年10月04日

NNNドキュメント「子供たちの心が見えない」

7月30日(日)深夜に放映されたNNNドキュメント「子供たちの心が見えない」(日本テレビ)は、55分枠で授業崩壊に直面する小学校教師をとりあげていた。
長寿番組である「NNNドキュメント」は、報道ドキュメンタリー番組だが、NHKやその他の民放で制作されるドキュメンタリーとは、明らかにトーンがちがうように感じる。
全体的に淡々としていて、近ごろの番組に多くみられる過剰なナレーションや音楽がないので、昔の番組を観ているような錯覚に陥る。
地方の視点で描かれている番組らしいから、その意味でも地道さが反映されているのだろうか。
8月20日(日)/30分枠の「機影の下の闘い 40年目の成田闘争」も興味深く観た。

  *

千葉県の公立小学校で6年生の担任・戸村桂二教諭(43歳)は、クラス運営が困難になり、体調を崩した前任者の代役として子どもたちと格闘する。その結果、はじめて教師を辞めたいと思うほど自信喪失。
このマンモス小学校でクラス運営に悩んでいるのは、戸村先生だけではない。
全国の小中学校の3割ぐらいに授業崩壊がみられ、精神的危機に陥り、退職する教師も多いらしい。

この教室にTVカメラが入るのを許したこと自体に感心する。
当事者たちは、この番組をどのように観たのだろう。
わたしが驚いたのは、戸村先生の注意を無視するのは、男の子ではなく女の子なのだ。しかもひとりで動くのではなく、グループ化しているようだ。
小学生時代は、男子より女子のほうが成長が早いのは昔からだが、なにか一線を超えているという感じがする。
本番組では専門家の意見として、「発達加速化現象」が原因だと説明していた。

近ごろの小学1年生は、入学早々に女の子がグループ化し、担任の女性教師がお手上げになっているという話を聞いた。
6歳で「自殺」や「セックス」という言葉を級友から知り、その意味も理解しているらしい。
「自殺」の意味を親が問うと、「もう生きていくのがいやになって、自分で死ぬことでしょ」と、こともなげに答えたという。国語辞典より正確ではないか!

お手上げになった戸村先生に対し、校長を交えた緊急保護者会が夜に開かれる。
ひとりの母親が、「自分の子どもではなく、遊びにきていた子どもがいっていたのだが」と前置きをして、「担任を変えてほしいという声がある」と発言する。わたしには、その母親自身が担任の交替を望んでいるように感じられた。
戸村先生はこの発言に衝撃を受け、さらに窮地に追いこまれる。
保護者である母親たちと、戸村先生を困らせる女の子たちが、わたしには重なってみえた。
つまり母親たちは、自分の子どもに注意するどころか、得手勝手な行動をしている子どもを肯定しているように映ったのだ。

わたしが疑問に思うのは、教師に不満がある場合に、交替を選択する余地はあるのかということ。とくに小学校では、気に入らぬ教師と一日中接することになり苦痛だろう。しかしそれぞれの価値観が異なる以上、教師への不満も千差万別だ。
交替してほしいという視点に立つと、不満のある教師に対してはどのような悪態をついてもいい、という短絡的な考え方になるのではないか。
TVのチャンネルのように簡単にはいかないのである。

自分の子ども時代や、わが子が学んだ学校の教師たちを考えても、感心できる教師はひとりいたらいいほうだ。わたしは常に反面教師としてみていた。
ヘンな教師が担任になり実害を被ったこともあるが、最低限いうべきことはいい、「交替」は考えなかった。ひとは簡単には変わらない。彼が教師をつづける限り、実害を受ける子どもはふえてゆく。
実際、教師に限らず感心できる人間が多ければ、世のなかはこんなに殺伐としていない。

「どんな先生ならいいの?」という女性スタッフの質問に、女の子はふざけた声で「超イケメン」と答える。

カメラは卒業式までの1年間を追っているが、時間の推移がわかりにくかった。
さらにこのクラスの児童の中学校生活を追う必要があるだろう。
この崩壊した教室にTVカメラが入ったことで、なにか変化はあったのだろうか。

崩壊している教室風景を観ながら、同じ小学6年生を対象にしている、NHKの番組「課外授業ようこそ先輩」が浮かんだ。。
授業崩壊しているこのクラスで「課外授業」を実行したら、どういうことになるのだろう。
戸村先生の言葉尻をとらえて茶化す女の子に対峙できるのは、リリー・フランキー水谷修だろう。
授業崩壊した教室で彼らが「課外授業」をしたら、おもしろいと思う。

というのは、以前にNHKラジオで聴いた藤原新也の話を想起したからである。
故郷の門司でイベントがあり、公募して撮影した少女の母親から後日連絡があった。「不登校の娘が撮影以後、学校に行くようになった、なにかあったのでしょうか」と問われ、「写真を撮っただけです」と答えたという。
藤原が数人の少女を選んだ理由を語っていた。選ばれた少女たちは、その時点でこころのなかを透視されたのだろう。
カメラのレンズを媒介にして、藤原の視線が少女の隠された"裸心"を射抜いたのだと推察する。
少女が認識している"ほんとうの自分"と、藤原がキャッチした"少女像"が一致したのだと思う。
換言すると、変わりうる要素を感じられた少女を、藤原が選択したのではないか。

藤原新也は少女から時代を読み解こうとしているらしく、つぎつぎと少女をテーマにした写真集を刊行している。

【インタビュー】写真家 藤原新也氏に聞く、デジタル時代の表現と「渋谷」


授業崩壊は教師への暴力も含まれているようだ。

公立小学生の校内暴力、過去最多に 対教師30%超増(asahi.com/2006年09月13日)

校内暴力:深刻な対教師暴力の実態浮き彫りに…現状探る(msn/2006年9月13日) 


 

miko3355 at 17:51|この記事のURLTrackBack(0)

2006年09月23日

にんげんドキュメント「大仏に挑む〜平成の仏師 技と心〜」

9/22に放映された、にんげんドキュメント「大仏に挑む〜平成の仏師 技と心〜」(NHK総合/22:00〜22:50)を観て感銘を受ける。
クレジット表記の制作・著作はNHKとマイ・プラン
〈再放送〉NHK総合:9/26(火) 00:00〜00:50

8/28にハイビジョン特集として放映されたときのタイトルは、「仏心大器 平成の仏師・大仏に挑む」となっている。このタイトルのほうが冴えている。
放送時間は21:00〜22:50(110分)なので、本番組は半分近く短縮されている。

…………………………………………………………………………………………………………………

〔NHKのホームページより〕

 松本明慶(まつもとみょうけい)さん(61)は、日本を代表する仏師のひとり。
 鎌倉時代の運慶、快慶の流れを汲む“慶派”の仏師として44年間で数千体の仏像と9体の大仏を手がけてきた。京都市西京区に工房を持ち40人近い仏師集団を率いて年に150体を超える仏像を生み出している。松本さんの仏像作りは10代のころ弟が急死し仏とは何か自問することから始まった。今も「仏来い」と心の中で叫びながらノミを振るう。
 松本さんは平成18年の春まで、広島県宮島の寺院から依頼された大仏の制作に取り組んできた。身の丈およそ5メートルの不動明王には初めて百檀(びやくだん)を大胆に採り入れた。仏が宿るとされる木で大仏を作ることは長年の夢だったが、素材が非常に硬くこれまでになく神経と力を使う作業が続いた。
 多くの弟子の先頭に立ってひと彫りひと彫りに妥協を許さない松本さん。4年間の精進を経て慈悲と憤怒を併せ持つ不動明王に眼が入った。制作過程を1年近く克明に追い、手を合わせる人ひとりひとりの思いを映す仏像を、とノミを握る平成の仏師の心に迫る。

…………………………………………………………………………………………………………………

近ごろ、なまなましいドキュメンタリーを観つづけてオーバーフローだったので、本番組で一息ついたという感じが強い。
仏像が好きなので、それを彫る仏師については以前から興味があった。
仏像は本体からエネルギーがでていて、それを撮った写真からも同じエネルギーがでているといわれている。ということは、仏師のからだからもエネルギーがでているのであろうか。

松本明慶が広島県宮島にある大願寺から不動明王の制作を依頼されたのは、20歳のころだった。「勉強させてくれ」といい、実際にとりくむまで40年の歳月を要した。
松本明慶の振るうノミの動きに魅せられた。「木のなかに仏が宿っている」というのが伝わってくるような感触。仏が宿る木といわれる百檀はとても硬く、ついにノミの刃が欠けた。
最も緊張したのは「眼きり」(仏にいのちを吹きこむ)の場面。松本明慶は大仏を仰ぎみ、精神を集中させてからノミを入れた。

「仏像は器」という松本明慶の言葉が印象的だった。
手を合わせるひとびとの祈りとともに、仏像は成長してゆく。


〔参照〕

仏師―フリー百科事典(Wikipedia) 

松本明慶 八百年の伝承者

人間劇場 炎の仏師・松本明慶

何百年もの間 思いを込めて 拝まれ続ける仏様






miko3355 at 18:08|この記事のURLTrackBack(0)

2006年09月21日

新日曜美術館「悲しみのキャンバス 石田徹也の世界」

束芋についてはこちらにアップしたが、NHK教育の番組「新日曜美術館」ではとりあげられていないようだ。しかし8/20放映の本番組〈アートシーン〉で、束芋の個展「ヨロヨロン」がとりあげられ、ガラスごしの原美術館の庭をバックにして、束芋が立ったまま短くコメントする姿が紹介された。

新日曜美術館「悲しみのキャンバス 石田徹也の世界」(2006/9/17)を観て、衝撃を受けた。
較べるのもおかしいが、石田徹也は束芋を軽く超えている。

…………………………………………………………………………………………………………………………

〔NHKのホームページより〕

2005年に31歳で亡くなった無名の画家、石田徹也。今、遺作集と有志による展覧会によって、その作品が注目を集めている。石田の作品には、必ず石田自身の自画像と思われる人物が登場する。しかしその人物が学校の校舎に閉じこめられる男に変身したり、葬式の場面ではプラモデルのように回収されるなど、現代社会が生みだす抑圧感や日常の中に潜む怖さ、危うさなどの負のイメージを鏡のように鮮やかに浮き上がらせる。

…………………………………………………………………………………………………………………………

石田徹也の作品に必ず登場する自身の分身とおぼしき人物は、いずれもうつろな視線をなげかけている。にもかかわらず、みるものにストレートに訴えかけてくる。
シュールだけれど、リアルなのだ。
本番組では、石田が克明に記した「創作ノート」と「夢日記」、友人たちの証言から、創作の鍵を掘り起こしている。
「夢日記」がそのまま作品のモチーフになった画が紹介され、なるほどと思った。

石田はひとと話さなくてもいいアルバイトをしていた。それらは個性を必要としない、過酷な肉体労働である。アルバイト先に提出した履歴書に記された職歴は、それを物語っている。
おかしかったのは、履歴書に貼付された石田の写真が、画に登場する分身とそっくりだったこと。
肉眼でみた石田はどんな顔だったのだろう。知りたかったという想いにかられる。当然ながら、石田は自分の肉眼で自分の顔をみることはできない。鏡でみた自画像が、作品に投影されている。

経済的援助をしようかと申しでた母親に、「そうすると自分がダメになるから」と断ったという。

石田の友人(男)が、石田はカップラーメンやパスタばかり食し、すべて絵の具に回していた、と証言。娯楽に時間を費やさず、画を描きつづけたという。
別の友人(女)は、2003年に重い肝臓病になった石田の不安について語っていた。

本番組では、街で数人に『石田徹也遺作集』をみせ、感想を求めている。
石田徹也の素性を知らない彼らが、画から強烈なメッセージを受けている。
画をみるまえは弛緩した表情の青年が、感想を述べたときには、真摯な顔に変貌していた。
かんじんなことを意識から除外することで生活するのに便利な道を選択している自己に、「それでいいのか」と突きつけられたのではないか。
母親と一緒の小学生の女の子は、母親よりも的確な感想を述べていた。

番組で紹介される石田の画をみて、わたしは世界に通用すると思った。
石田の画には、それだけの哲学がある。
現実世界に対する鋭敏な観察と批判精神。
地べたを這う視線。
たとえば売春でエイズを発症したタイの少女は、石田の画をみてどのような感想をもつだろう。貧困のため学校に行けずに労働している子どもたちは、どうだろう。

石田は国際的舞台を夢み、語学を勉強するスケジュールを記していた。

2005年5月23日、踏切事故で逝去。享年31歳。
不謹慎だが、その事故現場が描かれた石田の最期の画が、わたしの脳裡に浮かぶ。死に際しても、あのうつろな眼をしていたのではないだろうか。
そんな夢をみた石田が現実世界で実行した、という解釈も成立するのではないか。
生死を分けた踏切だが、石田の内面世界において、生と死に境界線はなかったように思う。

石田徹也によって、芸術の凄みをあらためて感じることができた。


〔参照〕

石田徹也追悼展 「漂う人」




miko3355 at 22:50|この記事のURLTrackBack(0)

2006年09月03日

NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」(2006/8/7) ―後篇

前篇(2006/08/28)

降伏を拒否し捨て身の地上戦を挑んでくる日本人に対し、アメリカは味方の犠牲をできるだけ減らすため空軍力の増強。
日本軍から奪った飛行場は、B-29の護衛戦闘機の基地となった。
日本本土への空襲は、より激しくなっていく。
無謀な徹底抗戦に対し、都市への絨毯爆撃で応じたアメリカ。

最高指揮官が戦死したあとでも、島の地下壕には数千人の兵士たちが潜んでいたといわれる。
生還者にとっての新たな地獄はここからはじまった。

元海軍通信兵/秋草鶴次(あきくさ・つるじ)さん(79歳)は、いまも設備管理の仕事をしているが、島での記憶がこころを離れない。
「残酷だったんですよね。日本人同士のね。ほんとに家族の人に聞かせたくないっていう話もありますしね」

秋草さんは最近になって、硫黄島の体験を手記に残そうと考えるようになった。
戦後すぐにとったノートには、歯止めをなくした戦争のむごたらしさが、こと細かに記録してある。
「玉砕」の一語では、あの島で苦しんだ仲間の想いが、だれにも知られることなく消えてしまう。
それに堪えられるのか?

秋草 「堪えられないでしょうね。だけどそんなにやっても、それが頭から否定されたら話にならないというか、その間に生きた時代、すごした時代はなんだったのか、ということになるからねえ。その間は、じゃあ空だったのか」

秋草さんは右手と左足に重傷を負い、玉名山の大型地下壕に身を寄せていた。
その壕の入口を、のちに米軍が撮影していた。
南方諸島航空隊本部壕……凄惨な事件の舞台となった場所
米軍の調査見取図

本部壕の食料や水を目当てに兵士たちが集まってきた。
貯えはたちまち底をつく。

壕内部のフィルム。
むせかえるような高温。腐敗する死体。
泥水や蛆を口に入れてしのぐ日々がつづいた。
秋草さんは、傷が悪化し動くこともできぬまま、近づく死の恐怖と闘っていた。

秋草     「どうしたと思いますか?」
ディレクター 「いやあ……」
秋草     「通信隊は火をつけて逃げたんですよ。そこに残った炭を食べて……」
ディレクター 「"炭"って、焼いた?」
秋草     「(大きくうなずく)それを想いだすとね、ほんと涙がでてくる。食べるもの、ない」
ディレクター 「"炭"は食べられるんですか?」
秋草     「食べる。ないんだ、入るものが。耐久試験だ、人間の。そういう想いだったね。でも、がんばるんだ。このことを、だれがいうんだと。だから、オレは生きなくちゃならない。そういう気もちです」

"炭"の正体とは?  

地下壕にまだ多くの日本兵が潜伏していることを知った米軍は、島中で大がかりな掃討作戦を開始した。その様子を分単位で詳細に記録した資料。→米軍戦闘記録のフィルム

拡声器を使った投降の呼びかけに、日本兵は応じない。
掃討作戦に参加した元米陸軍兵士/ジェラルド・クラッチさん(82歳)はいう。

「ある意味では彼らの勇敢さ、国への想いの強さに感心しました。しかし、でてきて生き抜くことをしないのはバカげていると思いました、これ以上殺すつもりも傷つけるつもりもない。キミらはこの島を生きてでられる。日本にもどれるのだと約束していたのです。それなのになぜなんだ。いったいどんな想いが彼らのなかをよぎっているのか、と思いました」

カメラは地下壕内部のクモの巣をクローズアップ。
日本の兵士たちを呪縛している投降できぬ理由を、クモの巣で形容しているように映る。

金井 「でていけば、何日かすれば必ず呼びだされて、銃殺されるということは、教育されているんです。どうせ生きて還れないのなら、最期までみとどけて死のうという考えが起きてきちゃうわけです。助かろうとは思ってない」

ジェラルド・クラッチ 「ボロボロの軍服を身にまとった憔悴しきった兵士が姿をあらわしました。おそらく下級兵士だったのでしょう。洞窟の入り口から5メートルほどでてきました。そのとき突然、髭も剃ったきちんとした身なりの将校がでてきました。そしてこの下級兵にむかって拳銃を抜くと、迷わず兵士の肩を打ち抜いたのです」

大越 「捕虜になったら国賊といわれて、戸籍謄本に赤バッテンで書かれるらしいんですね。そういう教育を受けてきたんです。1回、チョコレートとか携行食品もってきた兵隊がいたんです。(壕の)なかに入ってきてね、むこうの待遇がいいからでろよ、といったけど、いや、でられない。その兵隊は国賊になるから、かわいそうだからといって、うしろから撃った。で、這いあがっていったらしいんだけど。死体はなかったですけどね」

3月、4月、5月と、南方諸島航空隊の壕では籠城がつづいた。
ほかの壕を焼けだされた兵士たちで膨れあがっていた。
元海軍少尉/竹内昭(たけうち・あきら)さん(82歳)も逃げこんだ1人だった。
地下壕では日本人同士の衝突が起きるようになった。

竹内 「150人のうち、約半数は負傷兵でしたね。寝たきりに近い。3人1組の小部隊をつくって、でていけと。帰ってくるなと。食糧が限られているでしょ」

大越 「人間という感じじゃないですよね。畜生になってますからね」
 
大曲 「理性があれば、いま死ぬという人間に、一滴でも水飲ませてあげようとかと、こうなりますよ、人間として。それが起きないんですから。わたし1人ではなく、全部がそうなんです。水のために殺しあいするわけですから」

  *

5月7日、南方航空隊壕に対し、本格的な攻撃がはじまった。
投降の勧告に応じない日本兵に対し、発煙弾での燻りだしがはじまった。→カラーフィルム

でてこない日本兵に、米軍は抑制を失っていく。
壕の入り口から爆薬を投入。→カラーフィルム

それでも日本兵は奥にのがれて生き残った。
攻撃はさらにエスカレートする。

ジェラルド・クラッチ 「兵士として任務は果たさなければなりません。それに、いま思えばおぞましいことですが、当時はそれほど抵抗を感じてはいませんでした。責任を問われるべきは、日本の指導者たちです。彼らが長い時間をかけて、戦争の実践や投降についての考えを上からゆがめてしまったのですから」

「硫黄島探訪」
戦闘詳細の項に、日本軍には珍しく部隊単位で整然と投降した事例が、ふたつ紹介されている。
 〆成第二旅団野戦病院(長:野口巌軍医大尉)
 ⇒弸彪築勤務第五中隊


5月14日午前11時、米軍は最後の行動にでた。海水を壕のなかに注ぎはじめた。
海水の表面をおおっていたのは、大量のガソリン。

秋草 「そこへ手榴弾かなんか落ちたんですね。爆発したんです。ざあーっと火の海。水が燃えてるんですよ。人がいたでしょ。皮がぶらさがってるんですよ、からだじゅうが」

大越 「7人ぐらいはまだ生きてたんですよ。自決しろといって、手榴弾、2人に1発ずつやって。1人1発じゃ、もったいない。ところが手榴弾自体が、湿気で不発になってますからね。で、苦しまないほうがいいだろうというので、銃で撃って(自分のこめかみを指さす)、自決させましたけどね」

大曲 「生きるわけがないわけですね。医療施設もないし。上半身やけどになって。じゃあ、機関銃で殺しちゃおうかと、そういうのがでてくるわけですよ。極限というか、理性なんてぜんぜん働かないですよ、そりゃあ。もうガソリン入れて、火つけられただけでも、右往左往しちゃうわけですから」

5月17日、米軍資料には、「最後の日本の集団が掃討された」とある。

   63人拘束、20人死亡。

捕らえられた日本兵は、栄養失調と酸欠で意識混濁に追いこまれていた。

17歳の少年兵だった大越さんは壕からでた直後、米軍から足を撃たれ気を失った。

手足に重傷を負っていた秋草さんは、意識をなくして水に浮いていた。

洞窟の惨状には、米軍ですら言葉を失った。→折り重なる死体のようにみえる写真

なぜそこまでつづけねばならなかったのか。
硫黄島玉砕戦――それは極限の戦争だった。

アル・ペリー 「戦争に勝者も敗者もありません。われわれがやった殺しあいは、なにもかもがバカげています。戦争が終わったあと、日本軍の洞窟に入ってみました。負傷者を寝かせていた台がありました。そこですごしていた兵士たちの気もちを考えてみました。いったいどんな想いで死を迎えたのだろうかと。まさに戦争は地獄です。ほんとうに怖ろしいことです」

アル・ペリーさんの発言に対し、わたしにはNHKスペシャル「調査報告・劣化ウラン弾〜米軍関係者の告発〜」(2006/8/6)が浮かんできて嘆息する。
戦争が引きおこす地獄は、硫黄島戦のころより較べようもなく深化しているのだから。

大越 「(ハンカチで目頭を押さえ苦しげに顔をゆがめながら)こうやって話できるのは、ひとつの供養だと思ってます」

硫黄島(ことし6月)、遺族らによる戦没者慰霊祭(小笠原村主催)が行われた。→フィルム
この島の地下には、いまも1万柱を超える遺骨が収集できぬまま眠っている。

秋草さんの自宅に植えられた百合(?)のつぼみをクローズアップ。
それはなにを意味するのか。
戦地で散った若者たちをわたしは連想した。一方で、庭に妻と立つ穏やかな秋草さんの表情から、つぼみが開いていく時間の推移を静かに見守る秋草さんのいまの生活に想いを馳せた。

秋草 「死んでねえ、意味があるんでしょうかね。だけど、無意味にしたんじゃ、かわいそうですよね。ひどいですよね。そしてどんな意味があったかというと、これはむずかしいんじゃないですか。オレはこういう生き方しかできなかった、勘弁してくれというだけじゃないでしょうか。これで許してくれ、これで精一杯なんだ、という気もちですね」

秋草さん夫妻が、自宅まえでスタッフに手を振りながら、番組スタッフに別れの挨拶。

ラストシーン。
最寄り駅の周辺らしき雑踏で、自転車で番組スタッフを見送る金井さん。
車や道行くひとびとが金井さんとは無関係に動いてゆく画面に、金井さんの孤絶感のようなものが迫ってくる。
人波にはさまれながら、金井さんは帽子を高く頭上にあげ、番組スタッフに別れの挨拶。そして深く一礼。

戦争犠牲者の上に、いまの日本の平和が築かれている。そのことにわれわれは鈍感になっているのではないか。そんな感じを、わたしはこのラストシーンから受けとった。



miko3355 at 16:52|この記事のURLTrackBack(0)

2006年08月28日

NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」(2006/8/7) ―前篇

2006年8月15日

わたしは靖国神社に参拝したことはないのだが、それが近道だという理由で、靖国神社の境内を横切っていた時期がある。閑散とした空気のなか、右翼の街宣車が境内に静かに駐車しているのをみたときには異様な感じがした。
境内は広々としているし、周囲の環境も静かで落ちつく。
小泉首相が「公約は生きています」といって靖国神社に参拝した8月15日、約25万8000人(同神社まとめ)が訪れ、若者の姿が目立ったいうのが気になる。

同日、朝日新聞・朝刊に全面広告が掲載された。硫黄島の戦いを日米の視点から描いたふたつの映画について。公開は、アメリカからみた「父親たちの星条旗」が10月28日、日本からみた「硫黄島からの手紙」が12月9日。
クリント・イーストウッド監督の「日本のみなさまへ」というメッセージの末尾にある一節。

《どちらの側であっても、戦争で命を落とした人々は敬意を受けるに余りある存在です。だから、この2つの映画は彼らに対する私のトリビュートなのです。
 日米双方の側の物語を伝える2本の映画を通して、両国が共有する、あの深く心に刻まれた時代を、新たな視点で見ることができれば幸いです》

なお、映画製作報告記者会見(2006/4/28)によると、クリント・イーストウッド監督は、日本の若い兵士が死を覚悟して戦争にむかうのに共感できないという。
新藤義孝メールマガジン「週刊新藤」第96号(2006/3/20)に、栗林忠道を演じる渡辺謙について記されている。(新藤氏の母方の祖父が栗林忠道)

《渡辺 謙さんは、「ラストサムライの撮影の時にも、『人を守るために自分が犠牲になる』という武士道精神は、騎士道精神を文化に持ったヨーロッパの人たちには理解してもらえたが、アメリカ人にはなかなかわかってもらえなかった」と語っていました。
 日本人として、そうした心情を表現しなければならない、と熱い思いを私に語ってくれました。
 対談から数日後、役を演ずる前にお墓参りをしたいという渡辺 謙さんを、長野市松代の明徳寺にある栗林家の墓にお連れしました。遺族を気遣っていただくと共に、今回の役づくりにかけるトップ俳優としての心意気に、私は感心しました》

映画の予告編(合計時間 1:33)はこちら

TV出演した梯久美子

昨年の8月、梯久美子著『散るぞ悲しき〜硫黄島総指揮官・栗林忠道』を読み、感想をエントリーしたのがことしの5月7日だった。

その著者・梯久美子が、「週刊ブックレビュー」(2006/8/7・BS2)の特集に出演した。
顔は写真でみたとおりだったが、やや人工的にみえる柔和な笑顔が意外だった。キレのよい文体とは対照的な表情である。洋服もちょっとかわいらしいものを着用していて、バリバリ仕事をしているというイメージではない。肩の力が抜けている。
栗林忠道に魅かれたのがわかるような気がする。
梯久美子の話した内容は著書に記されたものだったが、耳新しかったのは、丸山健二と話していたとき、「女性が栗林中将を書いたらおもしろいのではないか」といわれたということ。

NHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」(2006/8/7)

(NHKスペシャルのホームページより引用)

……………………………………………………………………………………………………………

太平洋戦争の最激戦地となった硫黄島で何が起きていたのか。戦後61年目にして改めて歴史の光が当たろうとしている。

昭和20年2月から1か月の死闘の末、2万人の日本軍守備隊は援軍や補給を断たれて「玉砕」、その戦いは本土決戦に向けて国民を鼓舞する象徴とされた。しかし兵士たちはどのように玉砕戦を戦い、命を落としていったのか、これまでその詳細が語られることはほとんどなかった。負傷した結果、米軍の捕虜となり、奇跡の生還を遂げた元兵士もいたが、犠牲者への配慮から口をつぐんできたためだ。

今回、捕虜尋問記録をはじめ米軍資料やわずかに残る生還者の証言から浮かび上がった真実。それはいわゆるバンザイ突撃のような玉砕ではなく、兵士一人ひとりが楯となり、米軍の占領を遅らせ皇国に寄与する、という凄まじい持久戦だった。命令系統は崩壊し、水も食料もない中、兵士たちは降伏を拒み孤立した戦いを続けながら壮絶な死を遂げていったのである。

一方、死傷者2万8千人を出す史上最悪の戦闘となったアメリカでは衝撃を受け、空襲を中心とする「味方に犠牲を出さない戦争」へと傾斜を深めていくことになる。

日米双方の兵士の証言、人が住めない島になった硫黄島の現況、新発掘の資料を徹底取材し、近代戦争の転換点と言われる硫黄島の戦闘の真実を明らかにする。

……………………………………………………………………………………………………………

8月7日に放映されたNHKスペシャル「硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜」を興味深く観た。54分の番組だが、活字では表現できない衝撃的なフィルムの力に圧倒された。いまも重苦しい気分が消えない。
前回の更新が7/24だった。硫黄島の戦いについて書こうとすると、動けなくなってしまう。アタマのなかではいろいろな想いが交錯しているのだが、キーボードを叩けない。かといって、ほかのテーマのエントリーをアップする気分にもなれない。そんなわけで、あっという間に1ヵ月がすぎていった。
一方、以前に入手したまま放置していた『レイテ戦記』(大岡昇平・中公文庫)に、遅ればせながら眼を通しはじめた。そのことで硫黄島の戦いを、別の角度から検証したい。

なお、5月7日のエントリーにリンクした「硫黄島探訪」に、〈硫黄島戦における朝鮮人軍属について 〉という項がある。

上記によると、硫黄島戦において朝鮮人軍属が300〜1000名(推定)動員され、創氏改名により日本名を名乗った軍人を加えると、さらに数は多くなるという。
また台湾人軍属については、守備隊に所属していた可能性はあるが、不明とのこと。
《1945年6月、ハワイのパールシティ収容所へ送られた捕虜28人の中に、硫黄島で捕虜になった台湾出身の海軍軍属が1名含まれていたことが確認されている》

また「祖父の硫黄島戦闘体験記」で、「兵隊にも軍属にも朝鮮人は沢山いた」と証言している。

日本人ではないのに、過酷な硫黄島の戦いを体験しなければならない境遇は、二重の意味で理不尽である。
この件については、梯久美子もNHKスペシャルでも触れていなかった。

2万余の日本軍のうち、生還者は1033名。いまや、そのうちの生存者は20名ほどだという。
顔と名前をTV画面に晒して証言するということは、相当の覚悟を要する。
本番組に登場する証言者たちは70〜80代となり、自分が生き延びたことに対する罪障感とともに、戦友の死の意味について答えのない問いを発しつづける。
それは自らの生がピリオドを打つまで終わらない……。
救いはどこにもないのである。

本番組で、硫黄島の全景と画面一杯に拡がる海の映像を観たことで、視覚的に硫黄島が絶海の孤島であることを受けとめた。
ナレーションはなかったが、温泉が湧きだしているような池の映像があった。
戦争がはじまるまえに住んでいた島民は、1000人ほどだったという。温泉に入っていたのだろうか。

過去に制作された硫黄島についてのTV番組を、再放送してもらえないものか。
以下、本番組を順に追ってゆく。

  *

日本兵21000人のうち、生還したのはわずか1000人。

「死ぬ間際の人間に体をつかまれたときなんか、もうどうしたらいいかわからないですもんね。結局は、そういう人も死なしてあげたというか、あれしましたけどね。自分で苦しむよりも、早く逝けと」
(この時点で発言者は不明だが、のちに大越晴則さんの発言だと判明)

アメリカ・ワシントンにおけるパレードの映像が挿入される。
夏になると巨大な硫黄島の記念碑のまえで、海兵隊の栄光を讃えるパレードが行われる。
第二次世界大戦の歴史に残る死闘となった硫黄島の戦い。
60年を経てもアメリカのシンボルでありつづけている。

ひとりになっても最後まで戦えと命じられていた。
それは玉と砕ける勇壮さとはかけ離れたものだった。
ひとりの日本兵の死体をクローズアップ。
しっかり脳裡に焼きつけろ、といわんばかりにカメラが視聴者に迫る。

元海軍下士官/金井 啓(かない・けい)さん(83歳)がこの60年間欠かさずつづけてきた日課は、戦友のために毎朝、仏前に冷たい水を供えること。数個の湯飲みに氷を入れ、そこに冷蔵庫で冷やした水を注ぐ。水は死ぬ間際に、一番戦友がほしがったもの。

『散るぞ悲しき』によると、島には川が1本もないので、栗林を含む2万余の将兵の飲み水は、貯水槽を設けて雨水を貯める方法しかなく、その水さえ汚染されており、兵士たちはパラチフスや下痢、栄養失調で次々に倒れた。1日の水の配給は、ひとり当たり水筒1本と定められ、栗林もこれを守っていた。
一方、米兵たちは、缶詰の水を飲料水とし、米軍の揚陸艇(計73隻)には18リットルの水が入った缶が、1隻につき6000本積み込まれていた。


金井さんは、島で23人の部下全員を失った。最後は地下壕ごと生き埋めにされ、餓死寸前のところを捕まった。
ともに生き埋めにされた部下の八木薫さんは、倒れてきた岩の下敷きになった。八木さんは拳銃で眉間を撃ってくれといったが、人情としてできない。八木さんは手榴弾で自決。その爆風でふさがれてた壕に穴があいた。
部下の死と引き換えにいのちをつないだ金井さんは、なぜ自分は生かされているのか、自らに問いつづけている。

元海軍兵士/大越晴則(おおこし・はるのり)さん(79歳)は、当時17歳の少年兵だった。昭和19年7月、硫黄島の航空基地に整備兵として配属された。
「夜2時ごろ目さめたら、もう眠れないんですね。涙がでてくるしね」と語る大越さんは、戦友のために全国の霊場めぐりをつづけてきた。
「半世紀すぎてこういう話をするのはなんか……」と絶句して泣きだす。
「わたしが話さなければ野垂れ死にした感じにされるじゃないですか。すごく苦労して戦死していったということを、みなさんに知っていただければ幸せだと思います」
そう語ったあと、自らにいいきかせるようにうなずく。

◎硫黄島の全景

1968年にアメリカから返還されたが、自衛隊の管理下におかれ、一般人の立ち入りはきびしく制限されている。
島のあちこちに日本軍の数百に及ぶ地下壕が残っている。
火山の地熱とガスのため、1万柱を超える遺骨がいまも未収集。

◎守備隊司令部壕の映像

穴はすべて手作業で掘られていた。かがんで通るのがやっとの通路。温度は40度以上。
網の目のように張り巡らされた壕は長さ18キロに達する。
持久戦のために全島を要塞化するという過去に例のない戦略。

◎最高指揮官・栗林忠道陸軍中将の写真

最高指揮官は、のちに名将と讃えられる栗林忠道陸軍中将。
本土への最期の防波堤として島を死守せよ、と命じられていた。

◎硫黄島守備隊の貴重な映像(昭和19年撮影)

2万人の兵士の多くは急遽召集された30〜40代の年配者や、16〜17歳の少年兵。
なかには銃の撃ち方さえ知らない者もいた。

『散るぞ悲しき』によると、日本のほとんどの将兵が全国から召集されてこの島に送られた市井の人々で、農民、商店主、サラリーマン、教師、出陣学徒。
それに対し、海兵隊は歴戦の将校と20歳前後の士気旺盛な志願兵で構成されていた。


◎硫黄島守備隊 戦闘心得

   負傷しても戦い虜となるな

   苦戦に砕けて死を急ぐな

※本番組では「戦闘心得」の実物が映され、テロップで上記の2行だけが流れた。
『散るぞ悲しき』(p.194〜195)で、栗林が作成・配布した「膽兵の戦闘心得」が全文引用されている。

「硫黄島の場合は、自分の陣地を死守しろというんですね。うしろに下がったら、硫黄島は小さいですから、海に落っこちちゃいますからね。栗林中将は"一人十殺"といって、1人で10人殺せば必ず勝てるっていう」
そう語るときの大越さんの眼は輝いているようにみえる。17歳の少年兵だったころにもどったように、わたしには感じられる。

大越さんについては『散るぞ悲しき』でも紹介されている。(p.192)

《硫黄島で負傷し米軍の捕虜となった大越晴則は、サンフランシスコ、シカゴ、ハワイなどの捕虜収容所を経て昭和22年1月に復員した。海軍特別年少兵だった彼は、硫黄島で戦ったとき、まだ17歳だった。捕虜として最も若かったが"イオージマ・ソルジャー"であることが知れると、どの収容所でも米軍人から一目置かれた。大越は言う。
「"カミカゼ・ソルジャー"と"イオージマ・ソルジャー"は特別だ―――ある米軍人からそう言われました」》

硫黄島に特攻隊が来援したときの描写。(p.216)
2月21日。千葉県の香取基地を飛び立った第六○一海軍航空隊の第二御楯特攻隊。
故障機などを除く21機が、硫黄島を取り囲んだ米艦船に体当たりを敢行。
硫黄島の海軍司令部では、米軍の無線電話を傍受。
「カミカゼ! カミカゼだ!」という狼狽した声。
日本軍の特攻隊によって沈んだ空母は太平洋戦争を通じて3隻のみで、そのうちの1隻がこのとき。


◎昭和20年2月16日  日本軍を襲う3昼夜にわたる砲爆撃→カラーフィルム

地形が変わるほどのすさまじい攻撃に、ひとりひとりの兵士は地下で堪えていた。

◎2月19日朝  米軍上陸

日本軍の猛反撃に、米軍は大混乱に陥った。
「5日で落ちる」といわれた硫黄島。
連戦連勝の海兵隊が苦戦を強いられた。
(日本軍は36日間にわたってもちこたえた)

元海兵隊軍曹/ピーター・ベナーベッジさん(84歳)
「夜になると日本兵は必ずバンザイ突撃をしてくるはずでした。われわれはそれを期待して待ちかまえていました。しかし彼らは戦いを長びかせようとしていた」

元海兵隊兵士/アル・ペリーさん(81歳)
「多くの仲間が戦いで倒れていきました。朝になると、周りは海兵隊の死体だらけでした。これは生きて還れないと思いました。敵がどこにいるのか、わかりませんでした。手榴弾でやっつけたと思っても、すぐに別の穴からやってくるのです」

海兵隊の戦死者は戦闘の半ばで4189人。衝撃を受けたアメリカ。
米軍は待機させていた部隊をすべて投入し、硫黄島奪取に全力を注いでゆく。
次々と強力な兵器をつぎこんだ。
とくに威力が大きかった火炎放射器で、日本軍の壕の入り口を焼きつくしていくカラーフィルムが挿入される。

大本営は危機的状況をただ見守るだけだった。
米軍の上陸直前、硫黄島の支援方針は、「敵手に委ぬるの止むなき」(昭和20年2月6日策定)。
国民むけには昭和19年に撮影した映像を使って、硫黄島が健闘していると宣伝した。→白黒フィルム挿入 「日本ニュース 昭和20年3月」
すでに捨て石とされていることは国民も兵士も知らされていなかった。
劣勢のなかで戦う硫黄島守備隊の姿は、敢闘精神の鑑として国民の意識高揚に利用されていく。

大本営の「あまりにも一貫性を欠く、行き当たりばったりの作戦方針」を梯久美子は批判し、つぎのように記す。『散るぞ悲しき』(p.114)
《そして、36日間にわたる抗戦の後に将兵たちは玉砕した。その敢闘ぶりを知る日本人は今ではほとんどいない。栗林と彼の部下がどんな地獄をくぐったのかは、歴史の中に埋もれてしまっているのである》

栗林は、大本営に対してもさまざまな局面で伝達する努力をしていた。硫黄島で死を決意して戦わねばならなかった日本兵や、その家族への配慮でもあるし、硫黄島の戦いについての伝達の意味も含まれている。
同書のP.223には、自分たちの死後、なおも国民に惨状を伝えようとした栗林について記されている。

全員の死を前提としている最後の総攻撃の出撃前に、栗林は築城参謀の吉田紋三少佐に命じたという。
「貴官は本島に生を保ち、いつの日にか本島を脱出して、日本国民に対し、この惨状を伝えよ」
彼は筏に乗って島からの脱出を試みたが、失敗。米軍の飛行機を奪って日本に帰ろうとしたが、失敗。5月半ばに敵弾に斃れたという。


元海軍少尉/大曲 覚(おおまがり・さとる)さん(84歳)

海軍整備隊の少尉として120人の部下を率いていた。軍の組織が一気に崩壊していく現場に立ちあった。
米軍占領範囲を突破して摺鉢山を奪還せよという命令に、「これが総攻撃なのかと思った」と皮肉っぽい表情を浮かべながら大曲さんは語る。→硫黄島図(CG)により総攻撃の作戦を示す

地下壕から飛びだした日本兵は、米軍の狙い撃ちにあった。
もどる場所も部隊もなくした兵士たちは、孤独で凄惨なゲリラ行動へと追いこまれていく。

大曲 「死体のなかに入って戦車がくるのを待っている。戦死しても、弾(たま)よけになって戦争しなければならないのか」

上記の大曲さんの発言に、正直なところわたしは驚いた。
「弾よけ」というのは大曲さんの主観なのだから。
もしかして大曲さんは、総指揮官・栗林中将に批判的なのだろうか。
それとも無謀な戦争に国民を巻きこんだ、貌のみえない戦争指導者を批判しているのだろうか。
わたしには、証言者のなかで大曲さんだけが謎なのである。
生還者の栗林中将に対する評判はよかったらしい。当時の栗林は国民的人気があったという。しかし栗林批判があってもおかしくないだろう。
なお大越さんも、死体の下でじっとしていたと証言していた。

『散るぞ悲しき』によると、総攻撃前後の模様はつぎのとおり。
3月16日、ニミッツ大将が硫黄島作戦の集結宣言を行った。
3月17日夜、米軍の重包囲に出撃の隙が見つけられず、出撃拠点である来代工兵隊壕への転進だけが行われた。米軍の包囲がゆるんだのが19日頃。栗林は24日夕方に包囲網が解かれたのを見て出撃の好機と判断。
3月25日、栗林は陸海軍約400名の先頭に立った。部隊は海岸に沿って擂鉢山方面へ南下。
翌26日午前5時過ぎに海兵隊と陸軍航空部隊の野営地を襲撃。日本軍の組織的抵抗は終わったと思い込んでいた米兵たちはパニックに陥る。約3時間におよぶ激烈な近接戦闘の末、米軍の死傷者約170名。生き残った日本兵は元山、千鳥飛行場に突入し、戦死。栗林の最期を見届けた者は、一人も生還していない。
米海兵隊戦史「硫黄島」は、26日早朝の総攻撃を「万歳突撃ではなく、最大の混乱と破壊を狙った優秀な計画であった」と評している。


3月16日、栗林中将が大本営に宛てて発した訣別電報から、大本営は「徒手空拳」を削除して発表した。

大本営発表(3月21日)→ラジオの音声が流れる

   硫黄島のわが部隊は
   戦局ついに最後の関頭に直面し
   17日夜半を期し 最高指揮官を陣頭に
   皇国の必勝と安泰とを祈念しつつ
   全員壮烈なる総攻撃を敢行す
   との打電あり 爾後 通信絶ゆ

大本営は、「壮烈」「総攻撃」など勇壮な言葉をつけ加えていた。

日本は沖縄戦、本土決戦と、国民総動員の戦いに邁進していく。

米軍撮影(3月26日)の白黒写真が挿入される。
敵陣を襲って全滅した栗林中将の部隊。多数の死体。
腹部を破壊された兵士の死体。

これら兵士たちの無惨な最期が、日本の国民に伝えられることはなかった。

                           (つづく)







miko3355 at 09:43|この記事のURLTrackBack(0)

2006年06月13日

ETV特集 「もういちどつくりたい〜テレビドキュメンタリスト・木村栄文の世界〜」

ETV特集「もういちどつくりたい」(2006/06/03・NHK教育・22:00〜23:30)を興味深く観た。
恥ずかしいことに、わたしはドキュメンタリスト・木村栄文を知らなかった。
NHK福岡局制作の本番組は、2006年1月13日に九州ブロックで放映された、ふるさと発ドキュメント「もういちどつくりたい〜テレビディレクター 木村栄文の闘い〜」(NHK総合/19:30〜19:55)が、同年3月5日に全国放送(NHK総合/10:05〜10:30)されたのをもとに、取材をはじめた木村栄文を収めて再編集したという経緯らしい。
わずか25分だった番組が90分にわたって放映されたということは、視聴者の反響が大きかったのだろうか。

「ドキュメンタリーとは創作である」――その信念で40年TVをつくりつづけてきた男、木村栄文(きむら・ひでふみ)さん、通称エイブンさん、71歳。福岡・RKB毎日放送の名物ディレクターだった。
からだと言葉の自由をパーキンソン病で奪われながら、5年ぶりに1本のドキュメンタリーをつくろうとしている。

栄文 「うつくしくて哀しいものは視聴者に伝わりやすい」

「しょうがないんで、ギャグでもやるかい」といって、エイブンさんが眼を大きく見開きニッと笑う顔をズームアップ。
オープニングにこの映像を配置したところに、わたしは本番組の方向性を受けとった。

NHKディレクター・渡辺考さんはTVの世界に入って15年。2年まえ、ずっと憧れの存在だったエイブンさんが渡辺さんの番組を観たのがきっかけで、エイブンさんに逢う。名ディレクターからなにかを学ぼう、そんな気もちからエイブンさんの家に通うようになった。

ナレーションは柴田祐規子。時折、取材者・渡辺さんのゆっくりした口調で、よく通る声が加わる。
じつは女性ナレーターのなかで、わたしが最も好きなのが柴田祐規子。
客観的な柴田祐規子のナレーションと、主観が入った渡辺考の声が交錯する。それによって映像の色が変わり、心地よいリズムを醸しだす。

渡辺さんにとって、"賞とり男"と称され、TVマンとして十分すぎる仕事を成し遂げたように思えるエイブンさん。その日常を、2005年7月からカメラで追いはじめた。

わたしにとって意外だったのは、エイブンさんの番組づくりにおいて、妻の静子さんの存在が不可欠だということ。渡辺さんも同じだという。そんなディレクターは多くないと思うが、現状はどうなのだろう。
TV番組に限らず、ひとがものを創造するとき、ただひとりの人間を想定している、というのがわたしの持論だが、それが常に配偶者であるというのは幸せなことなのか。

以下、感じたままを記す。

番組づくりに不可欠な妻の存在

エイブンさんの仕事場は食堂のテーブルやリビングルーム。そこで番組の企画を練り、ナレーションの原稿を書きあげてきた。相談相手はいつも妻・静子さん。

栄文 「渡辺さんなんかは、ドキュメンタリーつくっていて、だれに批評を求める?」

渡辺 「妻の言葉を一番大切にしていますね」

栄文 「わかる。ウチがそうだから。カミさんに観せて。とくにナレーションはね。それは的確だね。ゴマすったりすると、すぐわかる。ちょっと遠慮したり、ちょっと皮肉をいったりすると、そういうところをずばっと指摘する」

静子 「音楽とナレーションが入るまえに観せてくれる。どう思うかと」

栄文 「社会派ですよ、社会派。ぼくは人情派だから。女房は社会派なんだ」

静子 「一番強烈だったのは『鉛の霧』。タイまで出かけていくですよ」

(昭和49年6月29日放映の「鉛の霧」。迫力ある映像が部分的に挿入される。インタヴュアーのエイブンさんが映しだされるが、飄々としている。それは相手に心理的負担をかけない技なのか、天性のものなのか)

「あいラブ優ちゃん」

「あいラブ優ちゃん」が放映されたのは昭和51年11月8日。先天的に股関節と脳に障害のある長女・優ちゃんを、1年にわたって取材した番組。
作 木村栄文。制作・著作 RKB毎日。
昭和51年 ギャラクシー大賞受賞。
優ちゃん・11歳、エイブンさん・41歳、静子さん・37歳のとき。

栄文 「もっとかわいがってやるべきだったね。それがわからなかった。通り一遍のものはありましたよ。だけど女房みたいに献身的にはなれなかった。僕には仕事という逃げ場があった」

優ちゃんは自分が映っている番組を繰りかえし観ていたし、エイブンさんが買い与えた人形を宝物にしていたという。

長女・優  昭和40年生まれ
次女・愛  昭和45年生まれ
長男・慶  昭和48年生まれ

平成6年放映の「木村栄文の世界」(NHK)で、エイブンさんは語る。
「コンクールに出すべき作品じゃないんです。だけど賞をもらって、あのときほどうれしかったことはない」

「あいラブ優ちゃん」の続編をつくりたい

11年まえ、妻の静子さんは自宅の一角でクリーニングの取次店をはじめた。この店で優ちゃんは5年間働く。小学6年生から描きつづけた油絵。
6年まえ、優ちゃんは脳梗塞のため亡くなった。
優ちゃんの遺骨は、まだ納骨されていない。自分と一緒の納骨を、静子さんは考えているようだ。

栄文 「あれがいたから仕事ができたんです。あれが一家の宝だった。僕じゃなくて。親はあっても子は育つ。ほんとに優のおかげで家族が固まった。それから自由に仕事ができた。いつも幸運を優がもたらした」

「あいラブ優ちゃん」の続編というライフワークを成し遂げるため、エイブンさんは最新の治療を受けることにした。脳の奥に電極を埋めこみ信号を送ることで、再びからだを動かせるようにする手術。

ドキュメンタリーとは自分の想いを描く創作

足をエステするとオフのからだがオンになるというので、エイブンさんは次女・愛さんにエステを請う。
愛さんはエイブンさんの両足にクリームを塗りこみ、アルミホイルで覆う。

 「撮られる側になったらどう?」

栄文 「ダメだね(笑)。サーヴィスしすぎると悪いと思うし、サーヴィスしないのも悪いと思うし。悩みですよ。ほとんどの仕事が、創った仕事でしょ。音楽ですよ、僕の場合。音楽が相当比重を占めますね」

静子 「『あいラブ優ちゃん』のとき思ったんですけど、ナレーションが重なって、音楽がそのひとの人生をうたう。でもふつうの生活は、音もナレーションもないんですね」

栄文 「ないよね。こういうときに、いいたいことや説明したいことがたくさんある。……いえない。言葉がつづかない」

オフになるとエイブンさんはカラオケでうたう。オンに切り替わることがあるからだ。
次女・愛さんがプレゼントしたというカラオケセットのまえで、エイブンさんは十八番の「石狩挽歌」(作詞・なかにし礼/ 作曲・浜圭介 /歌・北原ミレイ/昭和50年)をうたう。かすれた声で懸命に。

   ♪ 海猫(ごめ)が鳴くから ニシンが来ると
     赤い筒袖(つっぽ)の やん衆がさわぐ
     雪に埋もれた 番屋(ばんや)の隅で
     わたしゃ夜通し 飯(めし)を炊(た)く 

九州大学病院にて手術(脳深部刺激療法)

2005年9月、手術室に入る直前の会話。

栄文 「さきを急ぐ。達者で暮らせ」

静子 「わかった、わかった。暮らすよ(笑)」

10時間後、エイブンさんが手術室からでてきた。
手術は成功。静子さんはつぶやく。
「あ〜あ。へたりこみたい」

1週間後、エイブンさんはうまく声をだせずにいた。
2週間後、退院。

2005年10月5日、からだの痛みはやわらいだが、思うように声はだせない。
ほとんど筆談。
エイブンさんは筆ペンで紙に書いたのを、みせる。

   焦燥感

息子との散歩で気分が好転

2005年11月19日、長男の慶さんがやってきた。東京の制作会社で、ワイドショーのディレクターとして勤めている。慶さんは、小柄で華奢な父親ではなく、大柄でがっちりした体格の母親に似ている。顔も母親似で、やさしい顔つきのエイブンさんとはちがい、ごつい感じ。

 「順調にあなたの息子は育ってますよ」

栄文 「そりゃ、おまえ、うれしいよ」

 「日々仕事をしていくなかで、お父さんはすごかったんだなあ、と思うんだね」

栄文(筆談) 「俺なんてペケ!」

 「親父はすごいひとだと思うんだけど、あんな時代はもうこないと、親父にいわれたんですよ。ドキュメンタリーは視聴率がとれない。スポンサーがつかないということは、番組がないんだと。いまの自分の悩み事をいうと疲れるのでいえないし」

静子さんが横から「家族なのだから、いうべき」という。

栄文(筆談) 「疲れた。それでは俺がつぶれる」

静子さんが「自分を奮い立たせるためには、昔つくった番組を観て、派手な服を着て」という。

慶さんはエイブンさんを散歩に誘う。
手術をして、歩けるようになったのだという。
鳥飼八幡宮(福岡市)にふたりは立ち寄る。
手術をして2ヵ月。この日を境に積極的に外出するようになった。

エイブンさんは、筆ペンで息子の肩につかまりながら散歩する絵を描く。自己をカリカチュアライズし、それを愉しんでいるようにみえる。

執刀医の九州大学助教授・宮城靖氏の診察を受ける。手術は成功したが、エイブンさんの言葉がうまくでるのはむずかしいという。
狭い診察室を歩いてみせるエイブンさんは、右足が震えるような感じ。宮城氏が「それは……」と笑いをこらえたような驚きの声。もしかしたらエイブンさんは、カメラを意識してサーヴィスしたのだろうか。
そのあとは、しっかり歩いていた。

優は俺だぞ

エイブンさんは優ちゃんを撮りつづけ、プライベイト用にまとめていた。油絵を通した人生。亡くなる1年まえまで絵筆を握りつづけた。

栄文 「僕らにとっては、優がいたことでどんなに幸せだったか。優に励まされ、優に女房みたいに感銘を受け、そして死んでいった」

2005年12月、エイブンさんの企画が民放で採択され、放送が決まった。
5年ぶりの取材に出かける朝、不安気な顔で緊張しているエイブンさん。

栄文 「おまえもこないか」
静子 「わたし、行かないよ。あのーって、横からいったらおかしいでしょう」

妻の腰の据わったリアクションに安心したのか、静子さんの肩を引き寄せて笑うエイブンさんの顔を、わたしは"カワイイ"と思った。
       
からだと言葉の自由を奪われても、優ちゃんの続編をつくろうとするエイブンさんについて、渡辺さんは「ドキュメンタリーを切り拓いてきた業のようなものを感じた」と語っていた。
正直なところ、わたしは「業」という表現を陳腐だと思ったのである。
民放の名ディレクターを、NHKのディレクターが取材して番組を制作する。そんな稀有なことに挑んだ渡辺さんに、もっと光る言葉を期待してしまうわたしは傲慢なのだろう。

番組を制作するプロセスで、エイブンさんの脳内にはドーパミンという報酬物質がでてくるだろう。それに自己のすべてを託すことで、エイブンさんは生き延びようとしているように、わたしにはみえる。
いま、エイブンさんは優ちゃんを輝かせることで、自己を生きなおそうとしている。「あいラブ優ちゃん」制作時より高次元で。
わたしが感銘を受けたのは、そんなふうにエイブンさんをとらえたからである。

本番組で紹介されたフィルムで、若いころの静子さんが語っていた。
愛がかわいいというエイブンさんに、優がかわいそうだといったら、「優は俺だぞ」といわれた。それ以来、愛がかわいいといわれても、気にならなくなったと。ということは、静子さんにとっても「優はわたし」なのだろう。

◆妻へのラヴレター

池田瑞穂絵画教室を取材したエイブンさんは、最後の授業で優ちゃんが青い空をじ〜っとみていた、その映像がず〜っと残っているという証言を得て、イメージを膨らませてゆく。

2006年4月17日、RKB毎日放送のスタッフ4人を率いてロケがはじまった。訪れたのは優ちゃんをよく知る画家の菊畑茂久馬宅。優ちゃんの絵の魅力についてインタヴューした。手放しで絵を賞賛する菊畑茂久馬氏。
この日、ロケは夜8時までつづいた。

渡辺 「ロケはいかがですか?」

栄文 「いいねえ。いいよ、やっぱり」

2006年5月9日。

白い模造紙をひろげ、番組の流れを筆ペンですばやく書きこんでゆくエイブンさんに、もの哀しい曲調「石狩挽歌」をカラオケでうたうエイブンさんのかすれた声がかぶさる。ナレーションはない。
泣かせる演出だ。しかしそれに素直に同調できないわたしの感性はおかしいのだろうか。なにかちがう……と感じてしまう。

   タイトルバック 優しいひとへ  
   
   あとは観てのお楽しみ


栄文 「実際に女房がいなかったら、つくれてないな。なにひとつね。『優しいひとへ』というのは、ラヴレターだよ、おまえの」


〔参照〕

木村栄文(フリー百科事典『ウィキペディア』)

民放プロデューサー 木村 栄文さん(読売新聞)
〈上〉(2003/02/01)
〈下〉(2003/02/08)

作れなかった企画「イサク・ベン・アブラハム」
――木村栄文(日本記者クラブ・2004年6月)





miko3355 at 21:53|この記事のURLTrackBack(0)

2006年05月30日

BSドキュメンタリー「国境地帯の避難民を救え〜シンシアと国際医師団〜」

06/05/27(12:10〜13:00)、BS1放映の「国境地帯の避難民を救え〜シンシアと国際医師団〜」(再放送)を観た。制作・アマゾン。語り・昼間敬仁。

…………………………………………………………………………………………

〈NHKのHPより番組案内を引用〉

 ミャンマーと国境を接するタイ西部のジャングル地帯。ミャンマー軍事政権下の経済危機を逃れて市民が国境を不法に越えている。その数は200万人とも言われ、ジャングルの中で飢えと病気に苦しんでいる。
 この大量の避難民に対して無料で医療を施している診療所がある。ミャンマー人の女医シンシア・マウンさんが率いるメータオ・クリニックだ。自らも避難民であるマウン医師は17年前、人々の惨状に接し、この地に踏みとどまって小さな診療所を開いた。彼女の意思に共感し世界各国から無償のボランティアたちが集結。今では医師8人、スタッフ100人余りが毎日300人を越える避難民の診察に当たっている。
 数々の賞に輝き国際的な評価を得ているクリニックの活動だが、乏しい資金と貧弱な設備の中、救える命を救うことが出来ず厳しい現実に立ち尽くすことも多い。必死の医療活動を続けるスタッフたちの姿を定点取材した。


……………………………………………………………………………………………………

重いテーマの本番組を観るだけの精神力に欠ける状態だったので、途中でやめるつもりで録画を観たのだが、最後まで見入ってしまった。過剰なナレーション・音楽・テロップがないので、映像が脳裡に焼きつく。
NHK臭さのない自然なカメラワークが心地よい。
一方で、BBCなら同じテーマをどのように撮るだろうか、という余計なことも考えた。
こういう番組を観ると、TVというのはいいものだなあと思う。わたしのような無知な人間にとって、知らない世界を知り、それを契機に考えさせられることが多い。

シンシア医師の表情がいい。淡々としていて寡黙である。弛緩した表情の人間が多く登場し、空疎な言葉を垂れ流すTV画面を日々眼にしているので、とても新鮮だ。
シンシア医師は自宅で10数人の孤児を育てている。彼らを実際に生んだといわれてもおかしくないほど、彼女は豊かな体躯である。
野菜がたっぷり入ったチャーハンをつくって食べさせている映像が流れた。ふつうのお母さんという風情だ。医師として活動しているときと、チャーハンをつくっているときの彼女の表情・動きが同じにみえる。
常に自然体なのだろう。

とくに「バックパック診療活動チーム」の映像には瞠目した。国内避難民を診療するために編成されたチームが、それぞれ20キロ(と記憶している)のリュックを背負ってジャングルに入ってゆく。

ラストは、無料診療所「メータオ・クリニック」での出産シーン。
本番組に限らず、わたしは出産シーンを観るのが嫌いだ。ワンパターンの撮りかたも気に入らないし、女性が誇らしげな顔で出産に臨んでいるのに閉口する。すべての動物が行なう出産に対して、人間を特別扱いするのに抵抗がある。
わたしの感覚がおかしいのだろう。この世に誕生することがそんなにすばらしいことなのか、という懐疑からわたしが解放されていないからにちがいない。

しかしそんなわたしの勝手な思惑は、この「メータオ・クリニック」では通用しない。
国籍のない親から生まれた子は出生届けをだせないが、それでも出生証明書を発行しているという。人間の尊厳を、悲惨な生活のなかで貫こうとする思想のあらわれである。
マラリアと栄養失調の蔓延した世界で生命が誕生しているにもかかわらず、奇妙な明るさが漂っているのはなぜなのか。

本番組から、日本では妙な動きがある愛国心について考えさせられた。
番組では触れなかったが、日本は難民支援に熱心ではないらしい。
シンシア医師のように多様な民族の価値観を尊重できる人間が、真の愛国心をもてるのだろう。


〔参照〕

ビルマにおける紛争・地雷・医療

シンシア・マウンさん

「アリンヤウン」(ビルマ市民フォーラム ニュースレター 特別号 2002年10月発行)――ドクター・シンシアに聞く  文:山本宗補(ビルマ市民フォーラム運営委員)


「メータオ・クリニックに見るビルマの現実」(タイ・ビルマ国境の無料診療所) [週刊金曜日2002年8月2日号掲載] 写真・文 山本宗補

  




miko3355 at 15:46|この記事のURLTrackBack(0)

2006年05月01日

「小早川伸木の恋」

最近のTVドラマはほとんど観ていないが、フジテレビの「小早川伸木の恋」は愉しめた。軽いタッチなのだが、観るものをひっぱってゆく力がある。
主題歌・ナナムジカの「くるりくるり」が気に入ったので、珍しくCDを入手した。
歌詞にある
《惜しみなく抱きしめて 心が眠れる場所を与えつづけよう》
が、ドラマのテーマと重なる。

大学病院に勤務する外科医・小早川伸木(唐沢寿明)は、嫉妬深い妻の妙子(片瀬那奈)から得られぬ「心が眠れる場所」を、盆栽教室の作田カナ(紺野まひる)にみいだし、離婚を決意する。
妙子の狂気じみた嫉妬深さは、子ども時代のトラウマから生じているのだが、それを解決する意思・力量は、伸木にはない。
伸木の友人である弁護士・仁志恭介(藤木直人)は、伸木がカナとの人生の再出発を決意し、カナが自分ではなく伸木に惹かれていることを悟った時点で、カナと伸木を結びつけることに尽力する。ひたむきに愛する対象にむかってゆく伸木とは対照的に、なにを考えているのかわからない不気味さと潔さを感じさせる藤木の抑制された演技がいい。ニヒルだけれど、熱い。
残念なのは、かんじんのカナ役の紺野まひるが幼稚すぎて、ミステリアスな要素に欠けるため、感情移入できない。適役はだれかと考えたが、思いつかない。

4人のなかで最も魅力的なのは仁志だ。愛する女性が友人に惹かれていると知り、それを優先させるというのは、よほど大きな愛がなくてはできない。それをクールにやってのけるところがいい。

妙子がようやく離婚を決意するが、カナは伸木から去ってゆく。そのときのカナのセリフから『クレーヴの奥方』(生島遼一訳・岩波文庫)を想起した。作者はラファイエット夫人(1634―1693)。
カナは伸木との結婚は"夢"だといった。夢なら、いつかは醒めるという意味なのか。ドラマのなかでは、簡単に処理されている。
クレーヴの奥方は、美貌の貴公子ヌムール公の熱烈な求愛を、男の愛は永遠につづかないという確信のもとに退ける。結婚後、公がよその女性にこころが移ったときの死ぬような苦しみを未然に防ぎたい、という強固な意思である。

クレーヴ殿は、会った最初の日から結婚後も変わらず奥方に激しく恋の炎を燃やしつづけているのだが、それは奥方に愛情がないと思ったから持続したのだと、奥方は認識している。
宮廷生活から遠ざかるためとはいえ、奥方は夫のクレーヴ殿によその男に恋しそうだと、前代未聞の告白をし、自己の恋心にブレーキをかけようとする。が、殿は激しい絶望のせいで病死する。

はっきりしているのは、クレーヴの奥方が殿に抱いていたのは敬意と感謝の域をでなかったということ。恋心はなかった。それを殿は知りつつ結婚したので、完全に幸福ではなかったという自覚があった。

一方、結婚後も愛を貫いた例として柳原白蓮と宮崎龍介のケースがある。
以前に永畑道子の『恋の華・白蓮事件』(文春文庫)を読んだが、白蓮の逞しさには感服する。
ふたりの関係性の根底に思想が貫かれていたから、愛は色褪せなかったのだろう。







miko3355 at 15:24|この記事のURLTrackBack(0)

2006年02月14日

世界 時の旅人「サガン その愛と孤独」〜瀬戸内 寂聴」―後篇

◆サガンと寂聴の対話

寂聴は1973年、51歳で出家、得度。
1978年、サガンと対話したときの映像が再び流れる。

寂聴は当時の映像を懐かしそうに観ながら、うれしそうに語る。
「このあと、もっと話しましょうというんで、場所を変えてカメラに映さずに気楽に話したとき、なぜ出家したかという話になりまして、この人にはいわなきゃあと思って、一生懸命に話したんですよね。そしたら、よくわかった、いまのあなたが羨ましいわ、っていったんです。とてもうれしかったですね」

サガンはこのころ薬物に依存するようになっていた。80年代の後半から両親や親友が相次いで亡くなり、サガンは精神的に追いつめられてゆく。
ここで1葉の写真がアップになる。
サガンは面やつれし、全身の神経が露出しているような感じで、正視できないくらいに傷ましい。わたしは眼をそむけたくなるのに抗しつつ凝視した。
なお寂聴は当時56歳ということになるが、いまのほうがいい顔をしている。

◆1988年3月18日付「ル・フィガロ」紙
【麻薬 サガンをめぐる論争】

サガン 30人もの検挙リストの中でメディアは私だけを話題にしています。

――麻薬の所有を認めるんですね。

サガン ええ。でも私の個人的な問題ですから。

◆ジュネビーヌ・モルさん(サガンの伝記を書いたジャーナリスト)

サガンが生前よく通ったカフェ、フフェ・ド・フロールで、寂聴はモルさんから話を聞く。

【モルさんの話の要約】

・若くして有名になり大金を稼いだことで、自由をはばむ障壁をすべてとりのぞいた。無制限の自由が叛乱を起こした。

・最後のインタビューで「とんでもない生活を送ってきたわね」というと、サガンは「そうよ。でも仕事もたくさんしたわ」と答えた。

・サガンは小さいときから、すでに他の子どもとはちがっていた。(伝記に掲載されている9歳のときの本を読む写真を示しながら)彼女はこの写真のなかで完全に外の世界と切り離されている。これこそフランソワーズ・サガン。彼女は自分以外であることができなかった。

・彼女はまず作家であり、その生活は小説を書くためにあった。

・彼女があなた(=寂聴)を羨ましく思っただろうということはわかる。なぜかというと、彼女はあなたのように、こころの安らぎをみつけることができなかったから。サガンは心配性で、いつも不安にかられていた。孤独や沈黙、倦怠をすごーく怖がって、ひとりではいられなかった。おそらく書くことが唯一彼女の背骨になっていたのだろう。

1994年、59歳のサガンははじめて死をモチーフにした作品『愛をさがして』を発表する。永年のアルコールや薬物依存でからだが蝕まれ、歩くこともできなくなってゆく。

◆イクグリッド・メシャラムさん(サガンの友人)

オンフルール――ノルマンディー地方の小さな港町。サガンが亡くなるまでの4ヵ月間をすごした別荘は、港からすこし離れた森のなかにあった。サガンは若いころカジノで得た1億6000万円でこの別荘を買った。この土地を気に入り、1年のうち3ヵ月は必ず訪れていた。
最後の作品を書いたのは1998年。
負債をかかえたサガンがこの別荘を差し押さえられそうになったとき、メシャラムさんが買いとり、無償で住まわせた。
(メシャラムさんは微笑をたたえた、うつくしく上品な女性である)

メシャラム 瀬戸内さんはフランソワーズにお会いになられたのですよね。

瀬戸内 1度しかお会いしなかったんですけれども、とてもいいかたで懐かしくって、大好きになりました。

メシャラム そうでしたか。何か通じ合うものがあったのでしょうね。

寂聴がメシャラムさんに案内される部屋の様子をカメラが追う。変えたのは絵画の位置くらいで、すべてが当時のままに保存されている。

狭かったので、寝室からトイレに行くときにこすった車イスの痕が壁に残っている。
サガンの寝室にかけられている絵は、お気に入りの1枚。彼女は船が大好きだった。最後の4ヵ月、サガンはこのベッドに寝たまま、新しい小説の構想を書きつけた。このときの写真がアップになる。老いたサガンだが、微笑を浮かべているのに救われる想いがする。

カバーもかけずに並べられた洋服。

陽あたりのいい居間を書斎がわりに1日の大半をすごした。お気に入りのクッションには自らが書いた小説のタイトルが刺繍されてあった。そのそばには、かつて世界中に翻訳された著書が無造作におかれていた。

サガンが仕事をしていた机。物にはあまりこだわらない人だったと、メシャラムさんはいう。
タイプを打つ力を失ったあともサガンが使っていた筆記用具。「わたしにはたくさんの主人公が待っている」とサガンはいっていた。

寂聴はサガンのタンスを撫でる。それは心身ともに病んだサガンを、いとおしむように映る。
タンスに背をくっつけるようにして、寂聴は白いハンカチで眼や鼻を押さえつつ、涙声で絞りだすように語る。

「なんか、ほんとに胸が一杯になってきた。かわいそうで。もっと書きたかったでしょうね。物は残さないでいいというふうに思ってたんですけれども、やっぱりこういうふうに残されているものをみると、本を読んで感じるものとはまたちがったものを感じますね。(略)
物に囲まれているけれども、そしてああいうやさしい友情に守られているけれども、でも、彼女はとても孤独だったと思います。物のあることが、かえって彼女の孤独を語っているような気がします。
人間て、いつ死ぬかわからないし、どういう死に方をするか、死を選ぶことはできません。もう運命で、ある日死んでいくんですけれども、その人の生き方というものは、精一杯自分に忠実に、自分のしたいことをして、矢折れ刀尽きて死んでいくときに、成功しようが成功しまいが、そういうことは問題じゃないと思います。文学を選んだ以上、その道一筋に書きつづけ、世評がどうであろうと、書きつづけて死んでいったサガンというものを、あらためてきょう、とっても強く感じました」

2004年9月24日、フランソワーズ・サガン死去。(享年69歳)


◆カジャール

サガンは両親と兄の元に眠っている。
1字の銘もない白い墓。
寂聴がまとう僧衣の黒がうつくしい。サガンと対話した当時と較べて、僧衣がからだの一部のようにぴったりしている。
墓石に右手を置き、左手に数珠をもち、頭をさげて祈る寂聴。
それにしても寂聴のさくさくした足どりは、82歳とは思えぬほど達者だ。

  *

本番組は映像でしか表現できない世界を描いている。
サガン(1935〜2004)の意外な晩年をみせつけられたことで、わたしはデュラス(1914〜1996)を想起した。
デュラスの作品をわたしはほとんど読んでいる。「愛と孤独」というサガンとの共通テーマがありながら、まったくちがう生き方をしたふたりを対比させると両者に迫れるように思う。
寂聴はデュラスについても文章を書いていたけれど、サガンに対する愛の深さを本番組で知った。

  *

【知るを楽しむ――水曜日 なんでも好奇心】(NHK教育)で、2005年12月に4回にわたって放映された「世阿弥の佐渡を歩く」も秀逸だった。これも瀬戸内寂聴が案内役で、同じくスローハンド制作である。
古海裕子のナレーションがとてもよい。

余談だが、【知るを楽しむ】はわたしの知人(NHK職員)が新番組の開発にかかわったらしい。
彼は好奇心が刺激されると、瞳がきらきらと輝く。教養の塊のような人間なので、彼の額を眺めながら「このひとの前頭前野はどうなっているのだろうか」と想像した記憶がある。
かつてディレクターだった彼は、わたしにこう語った。
「給料をもらったときに、千分の一の割合で、こんなおもしろい仕事をしていて、お金をもらってもよいのかと思う」
わたしが「どうしていまのお仕事を選ばれたのですか?」と問うと、困惑ぎみの顔つきで「なんかずるずると……」という答えが返ってきたのが、わたしは気に入ったのだった。

ところで【知るを楽しむ】は、曜日ごとにテーマが分かれていて、25分×4回という細切れなので、ちょっと疲れる。2夜連続として放映してほしい。
中村幸代のテーマ音楽が、太鼓のように好奇心を刺激するので、いつも妖しい気分になる。




miko3355 at 16:48|この記事のURLTrackBack(0)

世界 時の旅人「サガン その愛と孤独」〜瀬戸内寂聴」― 前篇

昨夏、なにげなくTVをつけると興味深い番組が映った。偶然にもBS2にセットされていたのが幸いした。
世界 時の旅人「サガン その愛と孤独〜瀬戸内寂聴」である。秀逸だったので録画しておきたく、再放送を願っていた。2005/11/22にBS2で再放送されたので、録画することができた。
(2005/4/29にNHKハイビジョンで放映されたのが初回)

NHK臭も含めて、さすがNHKだな、といいたいところだが、スローハンド制作である。

全体的にクラシック音楽が効果的に挿入されているのに感心した。サガンはジャズが好きだったらしいが、本番組の格調高いトーンにはクラシックが合う。主にピアノで、一音、トランペットが驚きを強調するために鳴る場面があった。
夏木マリのりきんだ語りはイマイチだったが、本田貴子の朗読(サガンの小説の一節)にはしびれた。じつにいい声だ。

フランソワーズ・サガンは2004/9/24に69歳で亡くなった。本名、フランソワーズ・クワレーズ。そのニュースを知ったときはショックだったし、69歳という年齢に感慨があった。わたしのなかでは、18歳のときに書いた処女作『悲しみよこんにちは』の口絵写真のサガンが脳裡に焼きついている。"少女"というイメージは、わたしにとってはサガンのこの写真以外には考えられない。ちなみに森茉莉は自分のことを"少女"だと認識していたらしいが、その容姿がわたしには受け入れられず、醒めた気分になる。森茉莉の作品は好きだし、人間性に興味もあるのだが。
わたしは"文学青年"を識別できるが、なぜか"文学少女"を識別できない。唯一"文学少女"を感じるのがサガンの容貌とほっそりした肢体である。日本人で強いて挙げるとしたら、久坂葉子だろうか。

幾度も読みかえした新潮文庫の『愛と同じくらい孤独』(インタビュー集)の表紙写真は上記の口絵写真と同じだがポーズが異なる。
モーリヤックがサガンを評して「小さな悪魔」といったらしいが、そんなイメージとは裏腹なサガンの孤独感が、謎としてわたしにつきまとっていた。
サガンのすべての小説を読んだわけではないが、やはり処女作にサガンの本質が貫かれているように思える。

サガンの死の直後、2004/9/30付け朝日新聞夕刊に作家・小池真理子氏が追悼文を寄せている。そこから引く。

《真の洗練とは、人生における否定的要素をいかに軽やかに表現できるか、ということに尽きると思うが、サガンは絶望や孤独、裏切りや心変わり、人生の悲劇をあくまでも淡々と、突き放すようにして優雅に明晰に描き続けた。私にとっては目を見張るばかりの新鮮な作家であった》

上記の記述が吹きとぶほど、晩年のサガンが孤独地獄に陥っていたことを、本番組は提示している。
晩年のサガンに冷徹な光を当てているのを評価したい。

瀬戸内寂聴(2005年当時82歳)にとって、サガンは永年憧れつづけてきた女流作家だった。
27年まえに出逢ったときの映像が流れる。
1978年9月10日、サガン43歳、寂聴56歳。
『悲しみよこんにちは』が世にでたころ、寂聴(当時は晴美)は32歳。サガンとの比較年表を寂聴は作成。
『悲しみよこんにちは』の印税は5億フラン(360億円)。生活は一変し、毎晩のように上流社会と交流。アルコール依存症。カジノで億単位のお金を使う。最初の結婚は20歳上の出版社の大株主で、サガンが口説いた。2番めの夫は彫刻家で、離婚。
寂聴は、サガンが生きて書いた証しを全身で感じたくてフランスへ。
サガンとかかわりの深い人物に逢うことによって、その内面に迫るという番組構成になっている。

◆ドニ・ウェストホフさん(42歳)

2番目の夫であるロバート・ウェストホフとのひとり息子で、離婚後も成人するまで一緒に暮らす。サガンは28歳のとき出産。目元がサガンによく似ていて、好青年という感じ。
彼と寂聴は、サガンが18歳まで暮らしていた家を訪ねる。彼は語る。成功してからはひっこしを繰りかえした。10回〜12回。環境を変えることが好き。鳩が嫌いで、窓から空気銃で狙い撃ちしていた。脅かすだけ。
つぎに1970年代、40代半ばのころ暮らした家を訪ねる。家賃100万円、3階建ての一軒家。中庭は当時のまま。サガンは小さな庭が気に入っていた。この家には各界の著名人が夜ごとやってきた。友人たちを招く。マーロン・ブランドも。家のまえにはカメラマンが押しかけていた。
「母は健康がすぐれず、金銭的にも多くの問題を抱えていました」

つづけてひとり息子である彼は語る。
母の相続人になるかどうかは、まだ決めていない。晩年はあまり仕事をしていなかったので、国税局から莫大な額を請求されている。相続人になると、権利と同時に借金も相続することになるから。そのうえ、作品の管理をきちんと行っていなかったため、その情報の収集だけでも苦労している。
遺言はおそらくないだろうが、まだわかっていない。母に対してもっている愛情や想い出と相続上の問題とを切り離して考えることは、とても重要なことだ。母の想い出はかけがえのないものだから。

晩年のサガンの姿を、寂聴は知らなかった。

◆アンドレ・ロックさん(72歳)

パリから南へ500キロ。山あいの小さな村カジャール。サガンが幼いころをすごした生家。石造りの家。村で暮らしているサガンの幼なじみが証言。
かわいかった。おてんば娘。当時の写真は、男の子ばかりで、女の子はサガンひとり。よく戦争ごっこをした。
のどかで静かな空気。幸せな少女時代。
9歳のとき、両親とともにパリへ。

◆フローレンス・マルローさん(72歳)

アンドレ・マルローの娘。サガンが亡くなるまで交際がつづいた。
18歳のとき同じ高校へ通っていた。サガンはヘンにつっぱるわけでもなく、だれよりも自由で、本のことしか話さない。プルーストを完読していた。当時のふたりはそっくりで、見分けがつかない。ふたりとも、子どものとき戦争を経験している。
フローレンス・マルローさんのサガン評。
「とてもかわいらしく、おどけた少女でいながら、齢を重ねて学んだのではなく、18歳ですべてを知っていたのです」

五月革命(1968年)

狭い上流社会を舞台にして恋愛小説を書きつづけるサガンに批判が浴びせられる。そんな声に対し、サガンはこういい放った。
「わたしは貧困や金銭的な難問題を経験したことがない以上、自分の知らない、あるいは自分が直接感じたことのない社会問題を語ったりして、うまく金儲けをすることはしないと思うのです。わたしの作品にはテーマがふたつあります。たしかにいつも同じです。恋愛と孤独」
                                       (つづく)









miko3355 at 15:49|この記事のURLTrackBack(0)

2005年11月11日

藤原道山(尺八演奏家)

NHK-FMの「私の名盤コレクション」(月〜金・0:20〜1:00、再放送は翌週の9:20〜10:00)をわりに聴いている。先々週はわたしの好きな藤原道山(尺八奏者)で、先週の再放送を録音できた。DJの島田律子とのトークも愉しめた。

最もよかったのは、つぎの回。

”靄徹/朱鷺によせる哀歌〈8分30秒〉
  (大友直人指揮/日本フィルハーモニー交響楽団)                 
同/デジタルバード組曲 第5楽章〈5分15秒〉
  (外山雄三指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)                
F/ランダムバード変奏曲〈6分35秒〉
  (外山雄三指揮、東京フィルハーモニー交響楽団)
す藩奸2分10秒〉
  (藤原道山演奏)

上記のなかで最も気に入ったのは,如藤原道山の演奏する尺八の世界と通ずるものがあるように感じた。自分が大切にしている感覚を刺激されることにより、リラックスできた。こんな曲に中学生時代から親しんでいたという藤原道山の精神史に納得。

藤原道山のトークはさりげなく聴かせるし、NHKの「課外授業」に出演したらおもしろいのではないだろうか。(以前にNHKの「トップランナー」に出演したのを観たが、これもよかった)。若いイケメン先生の登場に、女の子たちがはしゃぐかもしれないが、それもよし。いや、もしかしたら彼はおばさんキラーのクチか?
いい授業が展開されると思う。「課外授業」の先生に、若者が登場するのもアリだと思う。
「こころを耕す」というのがテーマだが、それをことばにせずに、授業が終わったときに自然と子どもたちのこころに伝わるような授業が、藤原道山なら成立すると思う。

8/18のエントリーで、坂田明の「課外授業」が最もよかったと書いた。それは先日、菊地信義の「課外授業」を観たあとでも変わっていない。
坂田明の授業の細部は憶えていないのだが、坂田は広島の海に子どもたちを連れてゆき、ボートに乗せる。そして坂田自身が、いかにも愉しそうにボートを漕ぐ。子どもたちは困惑ぎみの顔で、ボートには乗っているが、気分は乗っていないという感じ。学校に帰ってきてから、子どもたちに体感として海をイメージしながらリコーダーを吹くよう指導する。これだけのシンプルなものだと記憶しているが、わたしの記憶ちがいがあるかもしれない。

だが番組の終了と同時に、それが授業として成立していることにわたしは驚愕したのである。クレジット表記をみなかったが、どこが制作したのだろうか。
8/18にも書いたが、あのとき「坂田さんの『課外授業』が一番よかったです」というひとことをいえなかったことを、いまでもわたしは悔やんでいる。わたしがそういったとしても、おそらく坂田明は無言だろう。しかしそのときの彼の表情から、わたしの意が伝わったかどうかがわかると思うので、それを確かめておきたかったのである。

わたしは坂田明のいいかげんなふうで、繊細なところが好きだ。(山下洋輔も好きだけれど)
わたし自身が典型的なB型人間で、気まぐれだからかもしれないが、いいかげんな人間をおもしろいと思ってしまう。骨があって、それでいていいかげんなひとが好きである。
(骨がなければ、単なるいいかげんなひとだから、おもしろくないのはいうまでもない。また、いいかげんを自称しながら、じつはきっちりしているというのはいただけない)
血液型と性格の関係について信憑性があるのかどうかは知らないが、B型・射手座はブレーキが壊れているという説がある。わたしとわたしの親友(女性)についてなら、その説は当たっているのである。

坂田明ののちに山下洋輔の「課外授業」が放映されたが、それは菊地信義と同じ形態だった。用意周到な授業である。体育館で行われた授業で、子どもたちの「ドオン!」が見事に成功したのを聴き、山下洋輔は感動する。子どもに教えたことで、子どもより豊かなものを先生自身が受けとり、いかにも仕事に応用しそうな気配が感じられるところも、菊地信義と同じである。

生活における皮膚感覚に訴えるという意味で、坂田明とすこし似た授業を展開したのは、松原英俊(鷹匠)だった。雪の八甲田山での撮影はたいへんだったと思う。終始緊張しながら観たのを憶えている。松原英俊と子どもたちのことば(方言)が似ていたのが、意外と新鮮に感じられた。いままでそんな先生が少なかったからかもしれない。



miko3355 at 00:42|この記事のURLTrackBack(0)

2005年11月09日

「エリックとエリクソン」〜ハイチ・ストリ−トチルドレンの10年〜

「エリックとエリクソン」〜ハイチ・ストリ−トチルドレンの10年〜で検索して、「NHKのDNAとは?」にアクセスされたかたがあり、わたしも検索して当番組について再考してみた。

わたしが観たのはBSドキュメンタリー(BS1・2004/4/3)で、録画したビデオテープがみあたらないので、保存しなかったのかもしれない。惜しいと思うが、そんな気分を味わうのも好きである。
「NHKのDNAとは?」の末尾ですこし触れたが、当番組について印象に残ったところを追記する。

.侫薀鵐垢箸いβ膵颪硫K宗ハイチの独立を許すかわりに4兆円を要求し、すでに3兆円を支払ったという。4兆円はハイチの40数年分の国家予算。
働き者だった兄は銃弾を受けて働けなくなり、近所から残り物をもらう。1日にそれだけの食物を犬に分けながら食す。貧しさの極限で、与えることを知っている人間の豊かさ。
D錣虜覆1日にバナナの煮たのだけを食したからだで、赤ん坊にお乳を与えている。
っ太犬帆鮗阿鯊臉擇砲垢襯魯ぅ舛里劼箸咾函D錣録物を与えられずに育ったにもかかわらず、義父をゴッドファーザーとして、わが子の洗礼を受ける。そのときの正装した弟一家の姿がまぶしい。
ツ錣論車を仕事にしているが、競争が激しく、バツグを売る商売をする。そのなかからひとつのバツグを妻に与えるが、妻はバッグのなかを何度ものぞいて、「お金が入っていない」とつぶやき、落胆をあらわにする。
α仍劼里佞燭蠅蓮∪長するにしたがって生活に差異がでてくる。そんなふたりが河で童心にかえったように水浴びをする姿が、うつくしい。音のない世界で、カメラがふたりを遠景として切りとりながらエンド。
Т僂訛Δ慮鎚未寮犬冒覆┐詢呂鰺する作品として結実している。

わたしはNHK制作だと思いこんでいたのだが、山崎裕(カメラマン)の「知りたいこと」より「知らないこと」を読み、ドキュメンタリージャパン制作だと知った。山崎裕によると、「ディレクターの五十嵐久美子はこの10年間の間、彼らとのコンタクトを絶やすことは無かった」
山崎裕のカメラワークはすばらしい。ラストシーンの残像はわたしの脳裡から消えないだろう。そこにエリックとエリクソンの"それぞれの悲惨な現実"を収斂させた手法は見事である。

視聴者のなかには、わたしのようにNHKが制作した番組だと勘ちがいしたひともいるだろう。クレジット表記をみても、NHKが主になって制作しているような感じを受けると思う。いまごろこんなことに気づくわたしが愚かなのだが、TVジャーナリズムについて疑問をもつ。
ドキュメンタリージャパンのHPによると、当番組は第42回ギャラクシ−賞上半期奨励賞を受賞したらしい。

さて、ドキュメンタリージャパンというと、NHKの長井氏が内部告発した番組を制作した会社でもある。「NHKのDNAとは?」を書いたとき、ドキュメンタリージャパンのHPを閲覧し、下記の記事にも眼を通していた。
2005年1月12日付け「朝日新聞」記事以降のいわゆる「NHK問題」
 に関する報道について



〔ハイチについて参照〕
益岡賢のページ
(左側の場所別その他→ラテンアメリカ/カリブへ入ってください)

ハイチ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

ハイチ:民主主義に対する拷問
フェイズ・アフマドによるノーム・チョムスキーへのインタビュー(全文)
2003年1月25日

(益岡賢のページ所収/2003年1月28日)


miko3355 at 07:15|この記事のURLTrackBack(1)

2005年10月10日

ク・ナウカ演劇公演「王女メディア」

昨夜10/9、NHK教育TVの芸術劇場で「王女メディア」(原作・エウリピデス)を観た。
以下、NHKの番組案内から引用する。

○劇場中継 ク・ナウカ公演「王女メディア」
  後10・30〜深夜0・15
 「王女メディア」は1999年初演。海外8カ国15都市で上演されたク・ナウカの代表作。明治の日本、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として描かれる「メディア」ではセリフは宴席の男たちに限られ、仲居が演じる女たちはセリフに操られて動いてゆく。
 鮮やかな衣裳をまとい、打楽器の生演奏を用いながら、語りと動きを分ける独特の“二人一役”の手法で演じられるク・ナウカ版「王女メディア」を放送する。

≪内容≫
 時代は明治。日本橋あたりの料亭、裁判官らしき男たちの宴席で、仲居の女を巻き込み、座興のギリシャ劇「メディア」が演じられることになる。配役は男たちの互選で決められ、男が選んだ仲居に衣装が着せられる。
 劇中劇。ギリシャの王子イアソンとその妻メディア。苦難を経て異国の地で夫婦となり子供ももうけた二人だが、夫の心は妻メディアから離れ、コリントスの王女に傾いている。芝居は、メディアが夫に裏切られた場面から始まり、追放令で窮地に陥ったメディアの夫への復讐が始まる。やがて、芝居が子殺しの場面で終幕を迎え、宴席を囲む法律書の壁が崩壊。現れたメディア役の仲居たちは、男による言葉の支配に対して反撃を開始する。

[原作] エウリピデス
[演出] 宮城 聰
[出演] 美加理、阿部一徳、吉植荘一郎 ほか、シアター・カンパニー「ク・ナウカ」
(平成17年7月28日 東京国立博物館・本館内特設舞台にて収録)

  *

はじめはパソコンにむかいながら観ていたのだが、途中から集中して観てしまったほど舞台に惹きつけられた。
舞台の色彩が鮮やかで、レトロ感が漂う。メディア役の女性の能面のような顔が気に入った。どこかしら黄泉のような空間が構築されている。
演じるのは女たちで、セリフをいうのは男たちという「2人1役」のおもしろさがある。しかも男たちは憑かれたようにセリフをたたきつけるので、狂気じみてくる。
芝居のテンポが速く、飽きさせない。
演出の宮城聰氏は脚本も手がけているが、芝居がさほど好きではない若者をも視野に入れているのではないかと思う。

ラストシーンで、正体不明の褐色の壁にはさまれた法律書がなだれ落ちる。男たち(=裁判官)に抑圧されつづけていた女たち(=仲居)が反乱を起こし、男たち全員を殺すのが圧巻だった。
なにを意味するのだろうか。
いままで有用だった法律(=規範・価値観)は通用しなくなったという意味か。これからの女は男なしで生きてゆく、という宣言なのか。
宮城氏の演出したメディアは、男社会で抑圧されていても、こころは売り渡していないという秘められた意思を、能面のような動かぬ顔で表現しているようにみえた。

「王女メディア」は2005年5月に、(わたしの好きなホールである)シアターコクーンで、蜷川幸雄演出で上演されたらしい。メディア役は大竹しのぶ。
芝居好きでないわたしがいうのは僭越だが、蜷川幸雄がどうにも好きになれない。どこがいやかと訊かれたら、すべてが好きになれないのである。
「メディア」皆川知子によると、大竹の肉感がリアルだったらしい。そうだとしたら、わたしの苦手な世界だ。

そんなわけで、終演後の宮城聰氏のトークを愉しみにしていた。聞き手は内野儀氏。
宮城氏の姿が画面にあらわれたとき、華奢な肉体に驚いた。これで重労働らしい演出という作業によく堪えられるなあと、妙に感心する。理論的だが、それを超える感覚的センスがあり、気負いのないところがいい。芝居大好き人間というオーラが発散している。
宮城氏にわたしは好感をもち、同時になぜ蜷川氏が好きになれないかが、よくわかった。私見では、反対のタイプにみえる。
それにしても、「クマさん」みたいな宮城氏の口髭には笑える。

録画していたので、宮城氏のトークをつぎに要約する。
   
上演場所として東京国立博物館を選んだ理由

天井が高いので、ギリシャ悲劇のスケール感をだせるから。
明瞭な目的のためにつくられた空間と、自分たちの作品が真正面からぶつかりあうたたかいのなかで、最終的に空間を味方にするということをやっていくことが、俳優と脚本家の修業になる。自分たちを鍛えていくことになるのかなあと。

なぜ明治時代の日本に設定したのか
 
アジアを蔑視し、女性を蔑視したセリフの多さに、原作者の負い目を感じ、そういうメンタリティーについて考えた。2500年まえのギリシャ人が、明治時代の日本人のメンタリティーと似ているのではないかということに気づいた。
文明では周りの国から先んじ、国民皆兵というシステムによってアジアとの戦争に勝つ。法律によってものを裁いてゆく。でも、もともとの文化・芸術においては輸入国だったという古代ギリシャと明治の日本が似ている。

日本が朝鮮半島や中国大陸に対して抱いていた感情と、(原作者)エウリピデスの時代のギリシャ人が抱いていた感情が、とても似ていると思って読んでみると、メディアという女性はアジアの女性であり、呪術の使い手で非合理的な力をもっていることになっている。そうものを代表しているメディアは、当時のギリシャ人にとって刺激的なヒロインだった。アジア出身だから芸術の源からきた女。でも、いまは自分たちのほうが文明において勝(まさ)っている。野蛮な国からきた女だといいたくなるという関係。

法律とか契約とか、言葉にあらわせる普遍的なものをもちだしたギリシャ人にしてみれば、メディアのものさしは、自然の気まぐれをそのままひきうけているような、シャーマニズムというか、占いで政治を行っている非近代的な原理を体現している。

明治時代は、士(さむらい)の原理をあてはめたので、女性の地位が下になってしまったところが、古代ギリシャと似ている。

いまは自分たちはこっちに立っているけれども、危ういものかもしれないという感覚がギリシャ悲劇には残っているというよさがある。オルターナティブについて敏感だった時代が、明治の日本におきかえると表現できるんじゃないかと。

なぜ語り手と身振りをする人間を分けたのか

われわれの眼の高さでいくら考えても解決しないこと。人間はなぜ死ぬのかとか、なぜ人間は戦争をするのかとか。神とはなにかとか。
われわれの眼の高さじゃないところから世界をみようとする想像力のいとなみが、人間を救うもうひとつの重要な機能。悲劇をやるためには、なにかシカケがいるから、身体を抽象化するために、言葉だけ、動きだけということをやってみた。

ギリシャ悲劇をやる理由

結論がでているのなら、演劇というかたちでやる必要はないし、この世のなかはもっとよくなっているはずですからね(笑)。

男か女かわからない「ウバ」がずっとみている――2500年メディアが生きていたらどうなったかと考えた。

想像力を働かせてもらうこと、そこを耕してもらいたい。

  *
  
余談。
以前に、新宿御苑の近くにある小さな感じのよいホールで、演劇集団「円」の公演を観たことがある。仲間の身内がその芝居の演出をしているというので、全員を招待してくれたのだった。
NHKのカメラがセットされていたので、わたしはカメラマンの右横に2席空けた座席に(そう指示されたので)着席した。仲間はかたまって前方に着席していて、こっちにきなさいと執拗に手招きするのに抗したのは、カメラマンの仕事に興味をもったからだ。
台本をみながらカメラを動かしていたが、サッカーの試合を撮るのに較べると悠長だろう。サッカーに台本はないわけだし。

芝居が終わって、集団となってエスカレーターで1階に降りてきた途中、下方に吉行和子が岸田今日子と弾んだ感じで話しているのが眼に入った。岸田が出演していたので、親しい吉行が訪ねてきたのだ、ということはすぐにわかった。無意識のうちに「あ、吉行和子だ」とわたしはつぶやいた。それを聴いて、ひとびとの視線がいっせいに吉行に集中し、彼女は見事に黙殺した。TVでみるより美しく、女優とは思えぬふつうのワンピース姿だった。
ホールからでたところで、仲間のひとりが「吉行和子はきれいだったねえ!」と興奮した口調でいった。

しばらくしてNHK教育でその芝居は放映されたので、あのカメラマンの仕事ぶりを検証することができた。動きの少ない芝居だった。なにしろ作・太田省吾だから。



miko3355 at 22:19|この記事のURLTrackBack(0)

2005年08月04日

ひきこもりに、万人に効く処方せんはない

8/1日本テレビ放映のスーパーテレビ「衝撃! ひきこもった息子……その時家族は」を観た。番組のアタマで長田百合子が登場したとき、ため息がでた。またこのおばさんか!

14歳の息子が2階でひきこもっている部屋に父親が乱入し、暴力的に階下に連れてゆく。この場面をみるたびに、なにかが子どもの内面で壊れているような気がして胸が痛む。
父親を苦しめた少年はか細い手足をしていて、少女のようだ。いまどき珍しい黒髪が、肩までぼうぼうに伸びている。
この少年の場合は1年半だったと記憶しているが、劣悪な環境で病気にならなかったのが不思議なくらいだ。
同居しているのは父親と息子のみで、母親と娘は家をでていったという。父親がつくった食事が冷蔵庫のなかから消えているのをみて、息子の生存をたしかめるという日常。

少年の部屋はゴミが散乱し、白い壁にはたくさんの穴があき、柱がむきだしになっている。それが一見こぎれいな家の暗部を示しているように映される。足の踏み場もない空間に、そびえるように存在している、煮しめたように茶色くなった枕とノートパソコンをみたとき、わたしは胸を衝かれた。デスクトップならベッドから離れなくてはならないが、ノートならベッドに横たわったままでも使用可能なのだ。
彼はネットで、どんなサイトをみていたのだろう。あるいはゲームをしていたのか。メールのやりとりをする見ず知らずの相手は、いなかったのか。

長田が介在するなか、少年は観念したかのように家をでる。名古屋市内にある「長田寮」に入り、メンタルケアと称するものを受けることになる。
寮での少年に長田が不登校の理由を訊いたとき、「低血圧」と彼は答えた。小学生〜高校生に増加している「起立性調節障害」という自律神経の病気が原因で、不登校になるケースがある。これは専門医の治療を受ければ、症状が軽減する。彼の不登校の原因がそれなら、治療を受けてほしいと、わたしは強く願う。根性だけでは解決しないケースもあるのだ。

TVで紹介される「長田寮」をみていると、わたしには「戸塚ヨットスクール」が重なる。根っこは同じではないか。
折しも7/22に19歳の男性が、不当な暴力行為とプライバシー侵害で、「長田塾」と主宰する長田百合子を、名古屋地裁に提訴したという。

『嫉妬の時代』で岸田秀は、〈戸塚ヨットスクールと戦後教育〉の章で記している。

自我に混乱や葛藤がもち込まれていることが情緒障害となって表われるわけですから、自我を狭く固めて混乱や葛藤の要因を自我から排除すれば、表面上、一応情緒障害は治ります。
 だが、混乱や葛藤の要因は解決され、消滅したわけではありません。無意識のなかに潜んでいて、絶えず自我へと割り込んでこようとします。それを抑えつけておくためには、恐怖の体制が必要です


戸塚の場合はわかりやすい暴力性がある。一方、長田の場合は「よき教育者」の貌をしているぶん、厄介だ。

子どもがひきこもれるのはいまの親世代までで、次世代の親はひきこもりを容認できないだろうというのを、なにかで読んだことがある。それなら、ニートも容認されなくなるだろう。
高齢化したひきこもりとニートは、どこへゆくのか。


[追記 2005/8/5]
Fonte(旧「不登校新聞」)
Fonteとは
 Fonte(フォンテ)は、ラテン語で「源流から」の意味。この新聞では、不登校から見えてきたことを源流として、広く子どもに関わる問題や、子どもの権利について、また、ひきこもりや社会のあり方について考えていきます。2004年6月より、「不登校新聞」から名前を変更しました。

上記サイトのリンク集に長田百合子に関する書きこみが数件あります。
〈登校拒否を考える親・市民の会(鹿児島) 待ち合わせ用掲示板〉






miko3355 at 23:02|この記事のURLTrackBack(0)

2005年08月01日

突如、はじめます

『ユリイカ』(2005・4月号)の特集・ブログ作法をおもしろく読んだが、その時点では自分がブログを書くことなど、まったく想定していなかった。

7/23(土)に放映されたETV特集「オレを覚えてほしい」(NHK教育TV)は、奥山貴宏氏(フリーライター)の闘病記とその読者たちの交流を描いている。奥山氏の闘病記はホームページで読んでいたが、しんどくなってきたので、ごぶさたしていた。そのあいだに闘病記は携帯電話でアップできるブログに移行していて、若い読者たちの励ましのなか、奥山氏はことし4月に亡くなった。2003年2月、肺がんで余命2年を宣告されていた。

上記と対極にあるのが、7/30(土)に同じ番組で放映された「ネット自殺を追う」である。フリーライターの渋谷哲也氏が取材する姿を追っているが、彼の存在感が希薄なのがものたりなかった。

印象的なのは、集団自殺を断念した若い女性と、誘う男性のメールのやりとりだ。短いメールなのに、妙に臨場感がある。彼女が死ねなかったのは、恋人の存在が「勝った」からだ。彼の発言を聴いていると、なかなか知的で考えかたもしっかりしている。なによりも彼女を深く愛していることが伝わってくる。「死にたい」といわれたときに、それを否定しないで見守るというスタンスをとっているのが、ネックのようだ。おもいを吐きだすことで、自殺願望からしばし離れることができるということだろうか。
その誘った男性は、その後、自宅でべつの女性と自殺をやり遂げた。

TVでなまなましいメールのやりとりを観ていて、高橋たか子の小説『誘惑者』が浮かんだ。これは三原山自殺の流行のきっかけとなった、昭和8年の自殺幇助事件をもとにして書かれたものだ。生と死の綱引きがリアルに描かれている。
ところで、「誘惑者」とは何者なのだろうか?






miko3355 at 19:54|この記事のURLTrackBack(0)