2011年06月05日

脱原発しかない!

1年ぶりの更新である。
1年まえ、突如としてわたしがエネルギーを注いでいた世界が、シャボン玉のように消えてしまった。
気力を振りしぼり、これだけは……という想いで2010年06月10日にアップしたのが【国分 拓著『ヤノマミ』(NHK出版)】だった。

そして3.11である。
悪夢ではなく、いまも福島原発から放射性物質は漏れつづけているし、危機的状況だという現実。
首都圏に住むわたしは花粉症の時期がすぎても症状が消えないし、久しぶりに風邪をひき、体調が悪いにもかかわらず、これを書いている。
福島原発が爆発したころ、異常にからだがだるかったが、被曝したのだろう。
すでに子どもたちに全国レベルで被曝による症状がでているらしいから、今後のことを想像すると、暗然たる気分になる。

この1年、けっこう多くの本を読んだ。
本を読む時間的余裕がないのに読めたのは、まったく不思議だ。
ひとつの問いに対する答えを求めて本を読んできたのだが、その行為のなかで自分なりの方向性をみつけるしかない。
すぐれたドキュメンタリー作品も観たが、本blogにアップする時間的余裕がない。

ひとつだけうれしいことがあった。
国分 拓著『ヤノマミ』が第42回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのだ。
国分ディレクターは、受賞当日まで福島など被災地で取材していたという。
どのような番組を制作するのだろうか。

3.11以後は、原発関連の本を中心に読んでいる。
高木仁三郎については知っていたが、小出裕章(京都大学原子炉実験所)についてはこのたび知った。
小出裕章は最近、しばしばTVに出演しているらしいが、わたしは観ていない。
NHKスペシャルかETV特集で、きっちり小出裕章の番組を制作すべきだ。
小出裕章 (京大助教) 非公式まとめはとても役だつ。

わたしが読んだなかでダントツにお勧めしたいのは、広河隆一著『暴走する原発』〜チェルノブイルから福島へ これから起こる本当のこと〜(小学館)だ。
巻末に広瀬 隆の特別寄稿が掲載されている。
読むのが苦痛だが、いまや福島原発周辺は世界で最も危険な戦場と化した。

2001年に放映されたNHKスペシャル「被曝治療83日間の記録〜東海村臨界事故〜」の悲痛さは記憶していたが、NHK「東海村臨界事故」取材班による『朽ちていった命』(新潮文庫)を読みながら、番組以上に背中が凍りついた。

いままで地震のたびに「原発は停止しました」というニュースに安堵していただけのわたしだった。が、遅ればせながら原発の仕組みを知り、こんな人間の制御できないモノに莫大な税金を費やしてきた政治家には呆れはてる。
東電という組織の悪徳ぶりも同列だ。
専門家によると、日本にある54基の原発がなくても電力は不足しないという。
計画停電には振り回されたが、これも不必要だったらしい。
いま、ほんとうに節電する必要があるのだろうか。
火力と水力発電で、原発がなくても困らないらしいのに。
わたしの職場では、昨年より15%電気使用量を削減しないと100万円の罰金だというので、険悪なムードになっている。
駅のエレベーターやエスカレーターの停止も、病人・高齢者・妊婦にとっては危険だという。
いつまでウソで国民を苦しめるのだろう。

保坂展人や湯浅 誠のような人間に総理大臣になってもらいたい。
無能な総理大臣は国を滅ぼす。



miko3355 at 14:03|この記事のURLTrackBack(0)

2010年06月10日

国分 拓著『ヤノマミ』(NHK出版)

2009年06月08日、本blogにアップしたNHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」に、《取材クルーたちは150日間ヤノマミと同居し、彼らと同じものを食べ、彼らの言葉を覚えようとした。その150日間の生活ぶりを本にしてくれることを、わたしは願う》と記した。
3月の新聞広告で、NHK出版から国分拓著『ヤノマミ』が刊行されたことを知り、さっそく入手した。
一気に読んでみて、番組を観たときの衝撃を超える内容だった。
映像でしか表現できない世界と、活字でしか表現できない世界のちがい、ドキュメンタリー番組が「作品」なのだということを、あらためて認識した。

本書で劇場版(113分)の存在を知った。

劇場版を観たひとのblog「嗚呼、テレ日トシネマ−雑記−」を興味深く読んだ。。

上記によると、上映後に30分ほどティーチインが行われ、NHKの国分拓ディレクターとNHKエンタープライズの西村崇が登壇したという。
わたしは国分拓ディレクターに興味があるので、参加できなかったのが残念だ。

ハイビジョン特集「ヤノマミ〜奥アマゾン 原初の森に生きる〜」が第35回(平成21年)放送文化基金賞において、テレビドキュメンタリー番組で優秀賞を、菅井禎亮氏が個別分野で映像賞を受賞した。
受賞のことばはこちら

わたしはNHKスペシャル(59分)しか観ていなかったが、5/16(日)と5/23(日)にハイビジョン特集(109分)が再放送されたので、録画して観ることができた。
さらにうれしいことに、劇場版(113分)のDVDが8月4日に発売されるので、Amazonに予約注文した。

  *

以下、本書を引用・要約しながらわたしの感想を述べる。

2007年11月から2008年12月まで、国分ディレクターたちは4回、合計150日、ヤノマミ族の集落〈ワトリキ〉(風の地)に同居した。
その集落はブラジル最北部・ネグロ川上流部に広がる深い森の中にある。
メンバーは、2〜4回目は、国分拓(ディレクター)、菅井禎亮(カメラマン)、エドワルド・マキノ(スチール、撮影補助)の3名で、1回目のみ彼ら3名を含む7名。
3名に減らした理由は、同居・同化を目指すには、ヤノマミがプレッシャーを感じないようにとの判断による。
ヤノマミが〈シャボノ〉と呼ぶ直径60メートルの巨大な家には38の囲炉裏があり、167人が共同で暮らしていた。
シャボノにはプライバシーがまったくない。
シャボノから数キロ先にあるFUNASA(ブラジル国立保健財団)の保健所(僻地医療の一環として1998年に設置)には、ドイツのNGOが寄付した旧式のソーラーパネルがあり、機材はその電力で充電した。
滞在中のカロリー摂取量は、一日平均1000キロカロリーで、体重は10〜20キロ減った。
国分ディレクターと菅井カメラマンは立ちくらみに悩まされ、エドワルドは空腹の余り幻聴と幻覚に襲われた。

おもしろいのは土産についての話だ。
ヤノマミの世界では、招かれた者は土産を持参する必要があり、国分ディレクターたちは彼らを無用に文明化しない品物を選んだ。
配布方法についていくら工夫しても、満足する者がいる一方で、不満をもつ者があらわれるのだ。
われわれも同じだなあと思う。内心不満があっても、ヤノマミのように露骨に表現しないだけだ。

〈ヤノマミ〉とは「人間」という意味で、〈ナプ〉とは「ヤノマミ以外の人間」「人間以下の者」を指すヤノマミの言葉で、最大級の蔑称。
病人が出た時、出産に手間取った時、嵐が止まない時、ナプのせいにされ、その度に集落を追い出されるのではないか、最悪殺されるのではないかと、国分ディレクターは心底不安になった。
同居して60日が過ぎる頃、「ナプ攻撃」を避ける方法を編み出した。
問題が起きると、数キロ先にある政府の保健所に隠れ、彼らとの神経戦が始まり、やがて再同居。
その繰り返しにより、緊張を解くことのできない居候生活を続けた。

国分ディレクターたちはヤノマミとの会話を書き留めながら、意思疎通に必要な単語を覚えていった。
それを囲炉裏に遊びにくる子どもたちに聞いてもらうと、アハフーと笑った。

  *

「ヤノマミ」という番組のなかでわたしの最も印象に残ったのは、14歳の少女の出産シーンだった。
国分ディレクターが最も衝撃を受けたローリというその少女の出産について、本書に詳しく記されている。
ローリは複数の男と交わり、父親のわからない子どもを身籠もっていた。
陣痛から45時間、眠らず痛みで泣き続けた末に、ローリは子どもを産み落とした。
暗い顔をしたローリは子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を絞めはじめた。
とっさに国分ディレクターは目を背けてしまったが、菅井カメラマンは物凄い形相で撮影を続けていた。
憔悴しきったローリは表情をほとんど変えず、暗い瞳を子どものほうに向けながら絞め続けていた。

子どもを精霊のまま天に送るという儀式が終わっても、国分ディレクターたちの混乱と動揺は収まらなかった。
菅井カメラマンは、今を生きる子どもたちを狂ったように撮りはじめた。
国分ディレクターは、何かが崩れ落ちそうで、考えれば考えるほど、何かが壊れてしまいそうだった。
うまく眠れず、心身は憔悴していった。
立っていることさえ辛くなり、歩けば木の根に躓いてよく転んだ。

昨年アップしたエントリーで、わたしはつぎのように記した。
《たしかなのは、少女は14歳にして少女ではなくなったということだ。出産を経て、弟らしき小さな男の子を抱っこしてかわいがっている少女の姿は、母親のようにみえる。というか、そのようにカメラが映している》
本書を読んでわかったのだが、その男の子はローリの弟ではなく、夫と別れて同居していたローリの姉の子どもだった。
少女の姿が母親のように映ったのは、自分の子どもを精霊のまま天に返したが、母性愛のようなものがたしかに少女のなかに育っていると、わたしは解釈した。
そのカメラアイは菅井カメラマンの祈りのようなものなのか、ご本人ににそこのところを訊いてみたい。

ワトリキには身体障害者がひとりもいない。
生まれた子どもに障害があった場合は、精霊として天に返すのだろう。
育つ過程で重傷を負ったり、障害がみつかったときには、森に捨てられるらしい。
較べるのもおかしいが、生まれた直後の子どもを殺めるより、育った子どもを森に捨てるほうが、わたしには恐怖だ。
かつて日本にも「間引き」という子殺しがあったし、障害児が生まれた場合に殺めたケースがあったという。
ヤノマミだけが野蛮ではないのだ。

ローリの出産から5日後、シャボノから女たちの姿が消えた。
女たちは森を2時間歩き、漁のポイントとなる川べりに着いた。
毒草を川に流し、痺れて浮かんでくる魚を捕る。
ローリも腰巻きがずぶ濡れになりながら、真剣に川面を見つめていた。
その瞳には、浮かんでくる魚を1匹も逃さないという強い意志があった。

女たちは2時間かけてゆっくりと川を下った。
途中、川べりにあった大きな白蟻の巣を見ながら、菅井カメラマンが「彼らは森を食べて、森に食べられるんだなぁ」と言った。
この呟きが、番組エンディングの呪文のようなナレーションにつながったのだ。

  *

ワトリキのヤノマミ語を翻訳できる人間は、世界に2、3人しかいない。
1998年以降、何度かワトリキに滞在したことのある人類学者で、ヤノマミ族保護のNGOのメンバーでもあったルイス・フェルナンド氏と、妻のシモーネ・デ・ソウザ氏に取材テープを送り、翻訳を依頼した。
現場での短いインタビューは、ワトリキで最もポルトガル語を理解する男(ブラジル名モザニアル)に通訳をお願いした。
フェルナンド氏によると、文明を知ってから30年以上が経っているのに、これほど変わらない集団は珍しい。それはシャボリ・バタの存在が大きい。バタの死後、一気に文明化して、崩壊するか、分裂してしまうかもしれないという。

シャボリ・バタは長い流浪の果てに、「文明」との共存を選択した。
ワトリキで暮らす167名のうち、およそ100名がシャボリ・バタと親戚関係にある。
国分ディレクターたちが同居した150日の間、シャボリ・バタは体調の優れない日が多く、ほとんどの時間をハンモックで臥していた。
ある日の深夜、シャボリ・バタが突然ハンモックから起き上がり、天に向かって叫び出した。
余りの突然さと声の鋭さに身体が震えた。
日本に帰り、その部分を記録したテープの翻訳があがった時、シャボノでその声を聞いた時以上に震えた。
シャボリ・バタは何度も何度も叫んでいた。
「私の精霊がいなくなってしまった!  私の精霊が死んでしまった!」

シャボリ・バタの存在が危うくなっているのに加えて、ワトリキは大きな転換点を迎えている。
7、8年前、NGOの指導・協力の下、ワトリキの長老たちは次世代を担う若者をブラジル社会に「留学」させることに同意した。
その3人の若者とは、モザニアル、ダリオ、アンセルモ。
アンセルモはワトリキに戻る度に「文明」の品々を持ち帰った。
ラジカセ、DVD、サッカーボール、塩、パソコン、携帯。
アンセルモより一世代若い者たちはそれらに引き寄せられ、ナプの文化は憧れの対象となり、それを認めない長老たちとの間に溝ができた。

ブラジル社会と戦っても武力では勝てないことを悟った長老たちは、言葉で訴えるしかないと考え、NGOが提案したポルトガル語の教育に同意した。
言語教育の始まりと軌を一にして、ブラジル文化の流入が始まった。
私有やプライバシーの概念が持ち込まれた。

150日の同居をお願いした時、長老たちが要求した対価は釣り針とかナイフだった。
アンセルモの時代になれば、DVDやパソコンが加わるかもしれなかった。

ワトリキでは、「文明」への依存が進む一方で、憎悪も深まっている。

  *

150日の同居が終わる日が近づいたが、国分ディレクターの体調は優れず、保健所に戻って寝込む日が続いた。
看護助手はマラリアを疑い、血液検査をしたが、陽性反応が出なかった。

2008年12月23日、国分ディレクターたちは、ワトリキを去った。
若者たちは滑走路まで見送りにきてくれたが、こない者も少なからずいた。
彼らと情を結んだ感じはあったが、涙の別れとはならなかった。
セスナからみた眼下のワトリキが、去る者の視点で印象的に描かれている。

東京に戻ってからも、国分ディレクターの体調は悪化する一方で、10キロ以上減った体重は、なかなか元には戻らなかった。
菅井カメラマンは子どもに手をかける夢を見るようになり、国分ディレクターは夜尿症になった。
自分を律していた何かと150日で見たものが余りにもかけ離れてたから、バランスがとれなくなってしまったようだった。

  *

〈あとがき〉に国分ディレクターはつぎのように記している。
映画監督の吉田喜重氏とヤノマミについて対談する機会があり、藁にもすがる気持ちで聞くと、「人間が解決のできない問題を提示することこそ、ドキュメンタリーなのではないか」といった。

2014年のサッカーW杯と2016年のリオ・デ・ジャネイロ五輪に向けて、先住民保護区の存在は風前の灯火になる。
ワトリキの人々が望むなら、保護区存続運動の力になりたいと思っている。

《番組は多くの人の力によって、僕が体験したもの以上となった》と記す国分拓ディレクターに、わたしは好感をもつ。

本書を読んでわかったのは、「ヤノマミ」という映像作品の貴重さと、ひとがなにかと深くかかわってしまうと、なにかが壊れるということだ。
得難いなにかを手にした場合、代償も限りなく大きい。

国分ディレクターは、死ぬまで「ヤノマミ」について考えつづけるのだろうか。









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2009年12月24日

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(後篇)

中篇につづき、柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用(要約)しながら、わたしの感想を述べます。

映像作家・森達也

柴田哲孝は映画監督・井筒和幸に下山事件について話したところ、テレビのドキュメンタリーのほうがいいとの理由で映像作家を名乗る森達也を紹介された。
柴田哲孝が森達也と最初に会ったのは、1994年の春頃。
同年秋頃、森達也を介して初めて斎藤茂男と会う。

2004年新潮社から刊行された『下山事件(シモヤマ・ケース)』で、森達也が柴田哲孝の母親の証言を捏造したことを、本書で柴田哲孝は指摘している。(p.400〜p.403)

柴田昇からの情報

単行本『下山事件 最後の証言』の刊行から半年後、祖父の末弟・柴田旬の次男である昇から電話があった。
犯行に使われた亜細亜産業の車・ナッシュ47型らしい写真がうちにあり、ナンバーまで写っているという。
亡き大叔父・旬は180センチを超える長身で、彫りが深い顔立ちをし、ダンディーな人だった。
柴田哲孝が昇の家を訪ねると、旬の妻と三男が待っていた。
宏と旬は不思議な兄弟で、家族にも知られたくない話がある時には、英語を使っていた。
大叔父・旬の仕事は表向きは通訳で、GHQのショーの司会も英語でこなしていた。
旬の妻は、背が高かったし、外人みたいな顔なので、仕事じゃない時にも進駐軍専用列車に乗っていた、と証言。
押し入れから取り出した古い大きなアルバムに、外国車の写真はあったが、生前、大叔父・旬のお気に入りだったというナンバーの写った写真は剥ぎ取られていた。
残る2枚の写真をアルバムごと借り出し、専門家に鑑定してもらうと、ナッシュ47型に酷似しているが、1946〜7年に作られた、クライスラーの「プリムス・デラックス・4ドアセダン」だった。
旬はこう推論する。
あの写真の車が下山事件に使われたので、親父はナンバーの写っている写真だけを処分した。洗足の家が下山事件総裁の家に近かったのも偶然ではなく、7月5日の事件当日、親父があの車で尾行した。
下山総裁が外人みたいな男に囲まれていたという記事の、その男は親父だ。

祖母・文子の死

柴田哲孝の祖母・文子が1995年8月に89歳で他界。
ひと月ほどたったある日、母・菱子とともに遺品の整理をした。
押し入れの奥にあった古い手提げ金庫には鍵がかかっていた。
箪笥のなかにあった鍵の束から1本ずつ金庫の鍵穴に差し込んでゆくと、何本目かの鍵が合致した。
ぎっしりと詰まった書類の一番底に分厚い封筒があり、「亜細亜産業」関連の品々が保管されていた。
上海での活動を示す紙幣、昭和18年から24年にかけての亜細亜産業の辞令・給与明細など。
小さな箱がひとつ入っていて、中から数個の宝石が出てきた。
蒼白になった母は、宝石のことも、祖父・宏が上海に行っていたことも知らなかった。
祖父・宏のアルバムには昭和17から18年の12月にかけて、長い空白がある。
下山事件で暗躍した男たちは、上海の経歴を持っている。
矢板玄、児玉誉士夫、長光捷治、里見甫、真木一英、村井恵、田中清玄、三浦義一、関山義人、そして柴田宏。

昭和40年頃、変装が得意な祖父・宏が頬に含み綿を入れ、見馴れない眼鏡をかけて哲孝と弟を追いかけ回していた。
ふたりの叫び声を聞きつけた祖母は祖父に掴みかかり、眼鏡をむしり取り泣き伏した。
祖父は下山事件当時49歳で身長は175センチ。下山総裁とほぼ同じ。

五反野南町の末広旅館の長島フクの証言が、下山総裁の自殺説の論拠とされた。が、柴田哲孝の母・菱子の記憶によると、長島フクから柴田宏に年賀状が来ていた。
亜細亜産業が下山事件に関与していたなら、長島フクの偽証が明らかになる。
末広旅館に立ち寄ったという下山総裁の替え玉は、変装した柴田宏だったのか?

柴田喬の証言

柴田哲孝は20年ぶりにジャズピアニストだった大叔父・喬(たかし)を訪ねる。
亜細亜産業で3年間事務員をしていた柴田八重子の元夫で、祖父・宏の弟。当時、80代なかばだが、若くみえる。

宏は7人きょうだいで、長男。あとは長女・和子、次女・寿恵子、次男・潔、三男・喬、四男・慶。
喬の話によると、宏が上海にいたのは昭和17年頃で、喬や潔と上海租界の同じ部屋に住んでいたこともあった。
その頃から宏は矢板玄といっしょに仕事をしていた。三菱商事の軍事物質の調達。
喬も上海で矢板玄と知り合った。
真木一英という殺し屋は矢板玄と柴田宏の仲間。
戦後、喬の妻・八重子が亜細亜産業に勤めていたので、喬も行ったことはある。
勤めないかと誘われたが、断った。あんなおっかない会社にはいられない。兄貴もよくいたと思う。

矢板玄は生ゴムや油を密輸していたといったが、喬の証言によると、亜細亜産業は麻薬を密輸していた。
下山事件は亜細亜産業が仕組んで、ライカビルに連れ込んだ。
殺害の実行犯として喬があげた名は、ひとりは日本人で、もうひとりはキャノン機関の日系二世の将校。

飯島進の証言

大叔母・寿恵子が1998年の年末に倒れ、恵比寿の厚生病院に入院する。
病院への見舞い帰りの夫・飯島に、柴田哲孝は斎藤茂男を紹介する。
恵比寿駅前の居酒屋で、飯島は台湾義勇軍の一件でも下山総裁と関わりがあったと証言。
斎藤茂男が下山事件に話を向けても、飯島はまったく乗らなかった。
飯島との話を終えて、柴田哲孝と斎藤茂男は喫茶店に席を移した。
斎藤茂男はそろそろ腹を割って話しませんか、真実が知りたいだけなんですよ、わたしにはもう時間がないんです……と訴える。とくにキャノンについての情報を斎藤茂男は聞きたい様子。
このとき柴田哲孝は「時間がない」という言葉の真意を知らなかった。
柴田哲孝は、ここだけの話で、メモを取らないことを条件に、約2時間、知りうる限りのことを斎藤茂男に話した。
斎藤茂男はそれらを噛みしめるように聞く一方で、積極的に自分の知識や意見を返してきた。
柴田哲孝は、下山総裁の拉致はキャノン機関の権限内の行動で、犯行グループにとっての保険であり、キャノン主犯説を主張しているのはCIAだという。
ふたりは、キャノンはスケープゴードにされたという共通認識をもつ。
その夜の斎藤茂男はいかにも楽しそうだった。
「下山病患者に効く薬は下山事件に関する情報だ」という斎藤茂男にとって、きわめて有効な薬だったにちがいない。

1999年5月7日、大叔母・寿美子が74歳で逝く。
3週間後の5月28日、斎藤茂男も71歳で逝く。

2000年の年が明けてまもなく、柴田哲孝は大叔父・飯島進から誘われた。
「おまえの知りたいこと、何でも教えてやるよ」
子どものいない飯島は世田谷区駒沢の広い邸宅でひとりで暮らし、見る影もないほど憔悴していた。
毒でもあおるように顔をしかめながら酒を飲みつづける飯島は、明らかに妻・寿美子の後を追いたがっている。

飯島の話では、下山総裁の首謀者は「×某」で、実行犯グループと目される亜細亜産業のサロンの主要メンバーの一人。G2のウィロビーやキャノン中佐とも密接に交友していた人物。下山総裁を「裏切り者」と呼び「殺してバラバラにしてやる」と公言。運輸省鉄道総局時代からその利権に深く食い込み、小千谷の発電所の入札やその他の公共工事の中止で莫大な損失を被った人物でもあり、松川事件でも関与が噂された。
殺害現場にいた二人の実名は、以前に柴田喬から聞いた人物と同一で、キャノン機関のMという二世の将校と、一人の日本人。
替え玉に関しても、飯島は一人の人物の名前を挙げた。

最後に、「ジイ君は関わってたのかな……」という柴田哲孝の問いに、飯島はこたえた。
「兄貴は人を殺せるような人間じゃないよ。矢板さんもね。二人は利用されたんだと思うよ」
そして小さな声で呟く。
「みんな逝っちまった……。残っているのはおれだけだ」


〔参照〕

下山事件資料館

ぴゅあ☆ぴゅあ1949:下山事件


【追記  2010/01/16】

妻の寿恵子が亜細亜産業について語るのをいやがっていた飯島進がここまでの証言をしたということは、柴田哲孝のジャーナリストとしての姿勢・力量に打たれたからだろう。
飯島進以外の生き証人として、下山事件の実行犯のひとりだと目されるビクター・松井(元キャノン機関員)がいる。
朝日新聞の記者・諸永裕司は、「週間朝日」を担当していたときにアメリカに飛び、ビクター・松井のインタビューに成功する。
それが記されている諸永裕司著『葬られた夏――追跡 下山事件』について、近日中にアップする予定である。文庫本の解説を柴田哲孝が記している。











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2009年12月23日

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(中篇)

前篇につづき、柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用(要約)しながら、わたしの感想を述べます。

亜細亜産業総帥・矢板玄の証言

本書の圧巻は矢板玄(くろし)と柴田哲孝が対峙する場面だ。
矢板玄は亜細亜産業と称する貿易会社の総帥で、下山総裁が消息を絶った三越本店に近い東京・日本橋室町にあるライカビルに本拠地があった。
柴田宏は亜細亜産業の幹部で、宏の妹・寿恵子と宏の弟・喬(たかし)の妻の八重子は、事務員として勤務していた。
柴田哲孝の母・菱子は、下山事件発生当時は14歳で吉祥女子中等部2年生。学校の帰りに頻繁に亜細亜産業に遊びに行った。
矢板玄は菱子をずいぶん可愛がってくれた。背が高くて、かっこよかったし、いい人だった。
矢板玄の家族と社員とで旅行に行ったこともあり、矢板玄の息子たちと何度か遊んだことがある。
菱子が行くのは父・宏のいた2階の事務所だけ。宏に「3階にはお化けがでる」といわれていた。
ひとり娘として父・宏に慈しまれた菱子は、仕事が終わるのを待って、よくデートした。天ぷらを食べたり、銀ブラして買い物したり。三越にも歩いて5分もかからなかった。
菱子が父・宏がGHQの仕事をしているの知ったのは昭和22年。

恐ろしくて矢板玄に会えなかったジャーナリスが多いなか、1963(昭和38)年、斎藤茂男は三菱化成時代の矢板玄を訪ねたが、一蹴された。
柴田哲孝は大叔父・飯島進(寿美子の夫)に、「矢板玄に会いに行くのだけはやめろ」といわれていた。
飯島進の父・亀太郎は外務省の役人で、柴田哲孝の曾祖父・柴田震の同僚。
飯島進は戦時中に三菱商船の子会社「第一壮美」を起業したが、昭和29年の「造船疑獄事件」のあおりを受けて倒産。亜細亜産業の矢板玄とも親しかった。

  #

栃木県矢板市役所の中庭に矢板武(玄の曾祖父)の銅像がある。
柴田哲孝が住民課で矢板玄を捜していると伝えると、慌てた様子で市長室に案内された。
市長は矢板玄を「先生」と呼び、緊張した面持ちで玄の家に電話をし、来客がある旨伝える。
市長に電話にでるようにいわれた柴田哲孝は、亜細亜産業でお世話になった柴田宏の孫だと告げる。
矢板玄に、家は市役所の目のまえなので、いまから来いといわれる。
これまで仕事で数百人にインタビューしてきた柴田哲孝の信念は「一対一が基本」。

矢板家の屋敷に到着し、案内された10畳ほどの部屋で、柴田哲孝は矢板玄にいきなり抜き身の刀を突きつけられる。
鬼の形相で圧力をかけてくる矢板に、柴田哲孝は動揺しなかった。
矢板玄は急に大笑いし、「おまえは確かに柴田さんの孫だ。あの人も豪胆な人だったからな」。
身長は180センチ以上あり、鍛えあげられた筋肉をもつ矢板玄の第一印象は、戦国時代の武将。
サンルームに移動してからの矢板玄は、上機嫌で饒舌だった。
当時、78歳の矢板玄は毎朝、庭で木刀の素振りを欠かさない。
柴田哲孝は、自分がジャーナリストであること、祖父の過去と亜細亜産業に興味をもっていることを断り、メモをとることに許しを求めた。
矢板玄はその度胸のよさが気に入り、「柴田さんより自分のことを書いたほうが面白いぞ」と大笑いする。

  #

柴田宏は元々関東軍の特務機関の将校だった。英語が話せて頭がいい奴がいると聞いて、亜細亜産業に来てもらうことにした。
ジャワに工場を建てることになり、柴田宏は英語ができたので、そこの責任者の一人として行ってもらった。ほんとうの任務はスパイ。軍の情報を収集したり、宣伝ビラを作ってばらまいたりというプロパガンダ。

矢板玄は横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を出て、代議士・迫水久常の紹介で昭和電工に入った。
森社長に頼んで大陸に行かせてもらい、満鉄をやっていた。
退屈なので、軍属になり、上海に矢板機関を作った。
矢板機関での仕事は陸軍の物資調達、金集め。
ごっそり金を儲け、日本に帰って亜細亜産業を作った。

児玉誉士夫は親父・玄蕃の仲間じゃ一番下っぱで、組んで仕事はしたが、騙されてばかりだった。
児玉は仲間の水田光義を殺している。自分でそういってたから間違いない。絶対に信用できない奴。
児玉は日本人じゃない。

矢板玄の後見人は三浦義一と東条英機。
亜細亜産業の業務内容はひとことでいうと軍需産業で、パルプは一部。
日本に帰ってから工場を次々に買収して、生産部門を作った。
工場は北千住や小菅、パルプは王子や十条にあった。
陸軍省の工場の中にあった。
工場の名前は、「亜細亜産業生産部」。
(下山事件は、誘拐現場の三越周辺から轢断現場の五反野まで、すべて亜細亜産業の領域内で起きたことになる)
戦後は千葉に、千葉銀行から取り上げた旭缶詰というのもあった。
(旭缶詰とは、矢板玄が元千葉銀行頭取・古荘四郎彦の戦犯容疑をもみ消した際、謝礼として譲り受けた「旭缶詰会社」のこと)

矢板玄は元々鉄道の電気技師で、昭和電工に入ったのも満鉄をやりたかったから。
亜細亜産業時代にも配電盤のコイルとかパンタグラフとか、いろいろなものを作っていた。
矢板家は鉄道一家。
曾じいさん(12代目・矢板武)は鉄道会社の役員で、いまの国鉄の東北本線や日光線の元になった。
東武伊勢崎線も親父・玄蕃が作ったみたいなもの。
親父は東武の大株主の一人だったから出資もしたが、ほんとうに線路をひいて作った。
満州事変当時、関東軍の最大の任務は満鉄の敷設と延長だった。親父・玄蕃が指揮してその訓練をやらせた。
軍隊が訓練で敷いた線路を東武が買い上げた。

  #

矢板玄の親父・玄蕃と三浦義一が、大蔵省の迫水久常と組んで金銀運営会をやっていて、その事務所がライカビルの4階にあった。
戦時中に国が国民から供出させた貴金属を潰して金の延べ棒にしたものが、4階の床下に百本以上あった。指輪からはずしたダイヤモンドや宝石もごっそりあった。
ダイヤ以外の宝石は小遣いとして使い、ダイヤは別にとっておいた。粉にして大砲の砲身を磨くので貴重だった。
終戦後、親父・玄蕃のところに山ほど残ったダイヤに、児玉誉士夫が大陸から持ち帰ったダイヤを混ぜた。
悪いほうをウィロビー(GHQのG2のチャールズ・ウィロビー少佐)に持っていって、いいほうを黒磯の山中に埋め、あとで児玉誉士夫と山分けにした。
ダイヤモンドは山から掘り出して少しずつ売ったが、児玉が巣鴨刑務所でGHQの奴らにしゃべり、ウィロビーにもだいぶ持っていかれた。
児玉誉士夫はA級戦犯ではなく、アメリカの策略だった。
児玉はダイヤ・プラチナ・ウランを隠し持っていたので、A級戦犯で逮捕しておき、物資の隠し場所を吐けば、命は助ける。
ウィロビーは、当時の金で数億円のダイヤをアメリカに持って帰ったはずだ。
金とダイヤモンドを、戦後は政治に使った。吉田茂内閣の政治資金。吉田はその金を使ってGHQによる公職追放を逃れて首相になった。岸信介の内閣までほとんどその金が使われた。

ライカビルは都心の一等地にあったし、集まりやすかった。金の臭いもするし。
あの頃の日本を作った梁山泊。
右翼関係者では、三浦義一、田中清玄、関山義人、児玉誉士夫、笹川良一、赤尾敏。
共産党の伊東律。
社会党の西尾末広。
よく来ていたのは白洲次郎、迫水久常。
政治家では吉田茂、岸信介、佐藤栄作。
吉田内閣を作ったのは親父・玄蕃と三浦義一。
佐藤栄作を代議士にしたのも三浦義一。

三浦義一と白洲次郎は蜜月の仲だった。
柴田宏と白洲次郎も仲が良かった。

矢板玄が最初にウィロビーと会ったのは、三浦義一の紹介。
三浦は英語が得意ではなく、ウィロビーに会うときには通訳がわりに矢板玄が連れていかれた。
矢板玄は英語・フランス語が話せた。
柴田宏が行ったこともある。
そのうちウィロビーに気に入られて、いろいろ相談されるようになった。
三浦義一はとてつもない大物で、ウィロビー、マッカーサー、吉田茂、財界の大物たちは、なにか問題がもちあがると三浦義一に挨拶に行った。

  #

キャノン機関のボス・ジャック・キャノン中佐に関しては、1971年、ジャーナリストの平塚柾緒(まさお)が、ルイジアナ州の自宅を訪ね、日本人として初の単独インタビューに成功した。
1977年、NHKが制作したドキュメンタリー番組「キャノンの証言」のなかで、キャノンは人脈を明かしたが、それらの人物はキャノンとの関係を訊ねられると、当惑したり否定した。
本郷ハウスでキャノンとともに写った写真が残っている白洲次郎も、付き合いを認めていない。
1981年、66歳のキャノンは自宅のガレージで射殺体で発見され、自殺他殺不明のまま事件は迷宮入りとなった。

矢板玄がキャノンと知り合ったのは昭和22年頃。最初は麹町の沢田ハウスで会った。
(キャノンが本郷の岩崎別邸にキャノン機関を開設したのは、昭和23年3月)
麹町も本郷も沢田美喜が厚意でウィロビーに貸した。
白洲次郎がキャノンていう面白い奴がいるといってきたが、なかなか紹介してくれないので、岩崎のお嬢さん(沢田美喜)に間に入ってもらった。美喜さんにいわせれば、キャノンなんかただの腕白坊主。
(斎藤茂男によると、沢田美喜が運営する孤児院エリザベス・サンダース・ホームはCIAの支部。美喜の私設秘書・真木一英は殺し屋)

矢板玄とキャノン中佐は親友だった。対等で、反共という目的で結ばれたファミリーだった。
柴田宏はキャノンのお気に入りだった。
日本人のエージェントは、ほとんど矢板玄がキャノンに紹介した。長光捷治、里見甫(はじめ)、阪田誠盛、伊東律、鍋山貞親、田中清玄など。
(里見甫はアヘン密売のエキスパートで、G2時代のキャノンはヘロイン中毒)
亜細亜産業はキャノンと組んで密輸をやっていた。
キャノンは金がなかった。G2から莫大な工作資金が出ていたというのは嘘で、足りない分は自分で工面した。むしろキャノンが稼いだ金をウィロビーに上納していた。
買った中古の漁船の管理を矢板玄がやり、警察と話をつけるのはキャノンの役目。利益は完全に折半。
日本から北朝鮮に日曜雑貨や古い工作機械なんかを持っていって、情報収集をやる。帰りに中国や東南アジアを回って、生ゴムやペニシリン、油などを買ってくる。
朝鮮や中国で、スパイになりそうなのを探して連れてくる。それをキャノンが教育して送り返した。みんな殺されたが……。

キャノンは自殺するような人間じゃない。殺されたんだ。
KGB(ソ連国家保安委員会)に殺されたと思う。キャノンの部下は、CIAにやられたといっていたが……。
キャノンはほんとうにいい奴だった。
昭和24年の春頃、ライカビルの事務所を朝鮮人に襲われたことがあった。黒磯から堀り出したダイヤを事務所に置いてあるのがばれた。矢板玄と林武と柴田宏の3人だけだった。銃は1丁しかなく、相手は7〜8人。ドアをはさんで睨み合いになった。
しかたなくキャノンに電話したら、本郷から5分で飛んできた。部下を連れて、両手にコルトを構えて、階段を駆けあがってきた。まるで騎兵隊みたいだった。

  #

昭和疑獄事件は三者の利害が完全に一致した。吉田は芦田内閣を潰したかった。ウィロビー(G2)はケージスを追放したかった。矢板玄たちは昭電の森さんに恩があった。
最初に計画を練ったのはウィロビーと吉田と白洲次郎で、矢板玄と斎藤昇(国警長官)が動いた。
キャノンは全部知っていたが、直接はからんでいない。荒っぽいことが専門で、頭を使うことはあまり得意ではない。
ケージスが新聞社や警察に圧力をかけてきたので、ハリー・カーンのつてを使ってアメリカの新聞社に情報を流したのが柴田宏だった。
あの頃、柴田宏は顔が割れていなかったし、英語がうまかった。英語といえば、白洲次郎か柴田宏だった。それに柴田宏はいかにも紳士だから、外人記者はみんな柴田宏を信用していた。

  #

柴田哲孝が下山事件に触れると、矢板玄の形相が変わり、生きる仁王像のようになった。
追い込まれた柴田哲孝は、メモを取っていたノートを閉じた。
矢板玄は口数が少なくなり、下山総裁とは面識があり、自殺ではなく他殺、共産党勢力の犯行ではないことを認めた。

祖父が亜細亜産業時代(昭和18年から24年の夏まで)のことを克明に日記に残していた、と告げると、矢板玄は狼狽し、ほんの一瞬で10年の老いを重ねたようにも見えた。
そして突然、大声で笑いだし、「困ったもんだな、柴田さんは。そんなものを残していたのか」。
関係者も生きているので、おれが生きているうちは書かないと約束しろ、と矢板玄はいう。
柴田哲孝は、矢板玄が生きているうちは書かないと約束する。

矢板玄は柴田哲孝を長屋門まで送った。
肩に大きな手を置き、「また遊びに来い、今日は、楽しかった」。
しかしこの直後、驚いたことに矢板玄は脳梗塞を患い、痴呆になる。
屋敷から姿を消し、1998年5月、83歳で逝く。
柴田哲孝との対面から5年後である。

  #

柴田哲孝は書斎のデスクの引き出しにあった日記を何度も見ている。小学生の頃、祖父のまえで日記帳を開いたが、意味は理解できなかった。
そのとき祖父は、「この日記はおまえにやる。大人になって、英語がわかるようになったら、読んでみろ」といった。
祖父・宏の書斎には膨大な書類が残されていた。英語で書かれた6冊の日記帳、数十年分の書簡など。
祖父の死の直後、それらを祖母・文子は知人に託して焼却させた。

祖父・柴田宏が発表する目的ではなく克明な日記を書き、膨大な書類を保存していたのは、ジャーナリスト魂だとわたしは思う。
柴田哲孝が祖父の秘密を暴くことで、結婚に失敗したあと女手ひとつで自分と弟を育ててきた母を傷つけることになる。それがわかっていても、下山事件の真相を知りたいという衝動を抑えることができない。
ジャーナリスト魂という最大の共通項が、ふたりにはある。

本書によると、矢板玄は英語の日記が焼却されていることは知らないし、柴田哲孝がすでに日記を読んでいるととらえている。
これはわたしの妄想だが、矢板玄にとって柴田宏が書いた日記帳は、想像を絶するほどの脅威だったのではないだろうか。
痴呆というのは自己防衛ではないのか。仮病ではなく、ほんとうにそうなっているのである。
真剣を突きつけた矢板玄は、徒手空拳でたちむかった柴田哲孝との「真剣勝負」に破れたのではないか。
試そうとした人間が試された、ともいえる。
それは柴田宏の日記を公表するなといわず、「おれが生きているうちは書かないと約束しろ」といった矢板玄の発言にあらわれている。
柴田哲孝は矢板玄の変貌を聞いてショックを受け、「老い」だと記しているが、柴田哲孝との対決がなければ、矢板玄は元気でもっと長生きしていたように、わたしには思える。

(つづく)



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柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(前篇)

5月から6月にかけて下山事件に関する本を読んだ。
日本が占領下にあった1949(昭和24)年7月5日、初代国鉄総裁・下山定則(さだのり)が出勤途中に失踪し、翌日の7月6日午前零時20分ころ、常磐線五反野(ごたんの)駅近くの線路上で轢死体で発見された。
つづいて発生した三鷹事件、松川事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件という。

いまから4年まえ、「週間ブックレビュー」(BS2・2005/10/17)の特集に登場した、『下山事件 最後の証言』の著者・柴田哲孝にわたしは好感をもっていた。
単行本(2005年/祥伝社)に柴田哲孝が大幅に加筆・修正した、祥伝社文庫の『下山事件 最後の証言』(2007年)を入手し、気になりながら手つかずのまま放置していた。
わたしには苦手な分野だとの先入観があったからだ。
それから2年後、なにげなく読みだしたところ、おもしろすぎるのである。
わたしは人間と同様に本とも出逢いがあると思っている。
わたしには2009年に下山事件と出逢う必然性があったのだろう。

興に乗り、つづけて読んだ本はつぎのとおり。
『葬られた夏――追跡 下山事件』(諸永裕司・朝日文庫・2006年)
『下山事件(シモヤマ・ケース)』(森達也・新潮文庫・2006年)
『謀殺 下山事件』(矢田喜美雄・祥伝社文庫・2009年) ※単行本は1973年講談社刊
『夢追い人よ――斎藤茂男取材ノート1』(斎藤茂男・築地書館・1989年)

白洲次郎が下山事件の周辺に存在していたことを知り、入手したまま未読だった文藝別冊『白洲次郎』(河出書房新社・2002年)を読む。
加えて、以前から興味があった『おそめ 伝説の銀座マダム』(石井妙子・新潮文庫・2009年)を入手し、白洲次郎関連の本としても読む。
白洲次郎は「おそめ」の常連客だった。
三浦義一は「おそめ」のママである上羽秀(うえば・ひで)にぞっこんで、秀のまえでは少年のようだった、という話には笑えた。

下山事件からことしはちょうど60年。人間でいうと還暦である。
奇しくも8月の総選挙で政権交代し、下山事件の周辺にいた日米の人間たちによってつくられ、脈々とつづいてきた自民党はようやく寿命が尽きた。
鳩山政権は自然の流れとして、対米従属から脱する方向を示した。
いま、与党となった民主党の政治家たちには緊張感が感じられ、迅速に動いている。
ひとにやさしい社会を構築するのはむずかしいが、そちらに方向転換しようとしているようにみえる。
一方、いまもなお自民党の政治家たちの顔は弛緩している。
自民党が政権奪回する日はやってこないだろうと、政治に疎いわたしは思うのである。

柴田哲孝・諸永裕司・森達也の三者は交流があった。
行動をともにした場面を描いても、三者に差異があるところがおもしろい。
著作の刊行順は重要な要素で、諸永裕司→森達也→柴田哲孝である。
この三者だけでも複雑な関係性がある。
下山事件には彼らと較べようもない複雑な利権が絡んでいて、想像を絶する。

彼らに加えて斎藤茂男が重鎮として存在する。
共同通信の記者だった斎藤茂男(1928〜1999)は朝日新聞の記者・矢田喜美雄(1913〜1990)と、社の枠を超えてともに下山事件を追っていた。
両者は下山事件が時効をすぎても、真相究明に対する熱意が衰えることはなく、ともに「重篤な下山病患者」を自認していた。
自分の死期が近いことを自覚していた斎藤茂男は、「一方的に発表したり自分の取材に取り込む気はない、真相を知りたいだけなんだ」と訴えた。
斎藤は自分の病気のことを隠していたらしく、彼らは唐突に斎藤の死(1999年)を知らされ衝撃を受ける。
斎藤が生き延びて彼らの著作を読んだら、どのような感想をもつだろうか。

柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』

圧倒的におもしろく、幾度も読みかえした。
重くて切れのよい文体に魅了された。
会話の部分が活写されているので、小説を書けるひとだと思った。
人間を立体的に描いているので、愉しめるのである。
のちに知ったが、やはり小説も書いている。
アウトドア派で多才である。

本書はおもしろく読めるが、いざblogに書くとなると意外とむずかしい。文庫版で602ページという分厚い本に盛りこまれた緻密な内容と、下山事件の奥深さがその理由だ。
加えて、パソコンにむかってキーを打ちはじめると、猛烈な睡魔に襲われて作業をつづけることができない、という日々の連続だった。
下山事件には魔物が棲んでいるのかもしれない。

以下、本書から印象的な箇所を引用(要約)しながらわたしの感想を述べる。

祖父・柴田宏は下山事件にかかわっていた

柴田哲孝の祖父・柴田宏(ゆたか)は1970年7月1日、69歳で他界。
柴田哲孝が幼いころから異常なくらい慕っていた祖父は、スポーツ万能で、近所の少年たちとともに「ジイ君」と呼ばれ、英雄だった。

柴田哲孝は1991年7月、祖父の23回忌の法要で、大叔母・飯島寿恵子から祖父が下山事件にかかわっていたと知らされる。
この日から柴田哲孝は下山事件という迷宮に足を踏み入れた。
そこには幼いころから慕っていた祖父のべつの顔を知りたい、という欲望も含まれていた。

祖父・柴田宏は昭和18年から24年の夏まで、矢板玄の経営する亜細亜産業の役員だった。
祖父の妹・寿恵子も昭和23年の春まで、数年間、事務員として勤めていた。
亜細亜産業は絶対に身内からしか事務員を雇わなかった。
寿美子も入る時、業務内容に関しては多言しないという念書を入れている。
あの会社は下山さん以外にも殺されたとか、消されたという噂はいくらでもあったので怖い、という寿美子を根気よくなだめ、説得して、柴田哲孝は寿美子の口を開かせてゆく。

寿美子の話によると、亜細亜産業は戦後、機関車の部品を東武鉄道や国鉄に納めていた。
元々矢板玄の実家は材木商だったらしいから材木も扱っていたが、ほとんどは南洋材(ラワン材)で、柴田宏が担当してインドネシアから輸入し、それを使って家具を作っていた。
家具の半分はGHQに納め、あとの半分は家具屋やデパートでも売っていた。
三越には大きな家具売り場があって、そこに亜細亜産業のコーナーがあった。
(下山総裁は失踪当日の午前10時頃に三越3階の家具売り場で姿を目撃されている)
亜細亜産業は大量の雑油の配給を国から配給されていて、年間に「ドラム缶で数10本の単位」だった。
大半は他の工場などに横流ししていた。
(下山総裁の衣服には大量のヌカ油が染み込んでいた)
亜細亜産業では染料も扱っていた。いつも見本が置いてあった。
(下山総裁の衣類や靴などから塩基性の染料の粉が検出された)
亜細亜産業がGHQと取り引きがあったのは、「大砲の弾の部品」などの鉄工製品、家具、材木、樹脂製品などで、GHQからは砂糖を買っていた。

ライカビルは異次元の空間だった。
終戦後の物資が欠乏していた頃、本物の日本酒、高級ウイスキー、外国タバコなどが並んでいた。
3階のサロンに出入りしていたのは亜細亜産業の社員でも一部の重役だけで、柴田宏もその一人だった。
異常なほど羽振りの良かった亜細亜産業は、昭和23年頃になって急に景気が悪くなりはじめた。

1991年当時、柴田哲孝はライカビルはすでに取り壊されたものと思い込んでいたが、数年後、当時、週間朝日の記者・諸永祐司が探し出した。
諸永に誘われ、柴田哲孝はライカビルに足を運んだ。
昔から三越の南口と室町3丁目は地下道で結ばれていたので、それを通れば、ほとんど人目に触れずに行くことができた。
(下山総裁は大西運転手に見られずに、三越の南口からライカビルに行くことができた)

ライカビルは5階建ての細長いビルである。
正面に蛇腹式ドアの古いエレベーターがあり、右手には木の手摺りの階段がある。
亜細亜産業のオフィスがあった2階は、英国式のパブになっていた。
サロンがあった3階は、麻雀屋になっていた。
4階はごく普通の会社のオフィスになっていた。
昭和24年当時、4階には三浦義一主宰の「国策社」の事務所が看板を掲げ、「日本金銀運営会」という事務所があった。
帰りはエレベーターに乗り、2階のパブに寄った。
柴田哲孝は諸永祐司と混んだ店の窓際の小さなテーブルに座り、かつてこの場所に現存した亜細亜産業時代のオフィスを空想する。

(つづく)

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2007年09月18日

岡本愛彦著『放送の原点を問う――テレビよ、驕るなかれ』

さきにアップしたニッポン人・脈・記「テレビの情熱」に登場する岡本愛彦について知りたくなり、『テレビよ、驕るなかれ』(春秋社/1983年)を入手した。濃密な内容にもかかわらず一気に読みおえ、いろいろ考えさせられた。

本書の「私のなかのテレビ史」(p.29〜p.97)は、テレビという未知の世界で、「テレビとは何か?」という一点を凝視しながら番組をつくりつづけた岡本愛彦のテレビ史と自分史が、重厚にオーバーラップしていて興味深い。

岡本愛彦のプロフィール

◆1925年生まれ。
◆1945年、満19歳で、無条件降伏・敗戦を、陸軍航空士官学校航空通信兵科の第59期士官候補生として、信州・上田の卒業訓練地で迎える。
両親家族は中国東北部の大連にいた。自活を決意して旧制大阪高等学校に編入、GHQの「軍学徒一割制限」で追放されて東京に出、以降ほとんど肉体労働だけで慶応義塾大学経済学部(旧制)を独力で卒業。
1946年、日本社会党に入党。頭で考える前に、民主主義とは何なのかを行動のなかで掴もうとした。
戦争加担者としての自分自身を生涯糾弾しつづける決意もしたし、天皇を頂点とする軍部と独占資本の明治いらいの侵略戦争と残虐な植民地支配に対して、我々の世代こそが最も鋭い糾弾者の立場をとりつづけることの必要性を身にしみて感じていた。
ノーマン・コーウィン作『文書番号A-777』がNHKラジオから放送されたのを聴き、放送終了後もしばらく席を立てないほど激しい衝撃を受け、生涯を決定する契機になった。
就職試験で合格した某全国紙と大手出版社を捨て、あまり迷いもせずNHK(東京・港区内幸町)を選ぶ。
◆1950年、放送記者、社会報道番組ディレクターとしてNHK(東京)に入社。ラジオ時代の鳥取放送局に3年足らず、テレビの本放送開始のために東京に戻され、NHK大阪のテレビ本放送のため希望して大阪へ。
◆1957年にNHKを辞職し、TBSへ入社。
◆1963年、TBSを辞職。
◆記録映画監督、フリージャーナリスト。
◆2004年、前立腺ガンのため逝く。

上記は本書からわたしが勝手に引用してまとめたものだ。
実際の番組づくりについて記されている箇所はとてもおもしろいが、分量が多くて引用しきれない。
主体性を喪失したTV局という組織から離れた岡本愛彦だが、組織に属していたから技術が磨かれ、それが大きな作品に結実したという側面もある。

岡本愛彦の作品をほとんど観ていないわたしがいうのはヘンだが、本書を読むと、岡本の手がけた作品には、いずれも思想性が貫かれている。アクチュアリティー(今日的な問題性)を番組制作の必須条件としてTVドラマをとらえていたという。
とりわけ1958年に平和文化賞、芸術祭大賞を受賞した『私は貝になりたい』は、ライフワークだったようだ。
「正直に、自らの意志を貫き通すために」TBSを去った岡本だが、内部事情については関係者への配慮から詳述を避けている。NHKを去った理由についても同様である。

  *

本書の巻末で、岡本愛彦は「読者への質問」を投げかけている。つまりすべてのテレビ視聴者に対してである。
それを列記する。(一部要約)

………………………………………………………………………………………

,△覆燭蓮⊂Χ畔送(民放)がスポンサーの投下する広告費によって支えられており、その広告費は一つ一つ商品の原価の中に必ず組み込まれていることを知りました。商業放送(民放)は、ニュース、ドキュメンタリーを含めて、あなたの生活に必要な放送を、良識と社会正義に基づいてキチンと放送していると思いますか?

⊂Χ畔送(民放)は公正中立であり、且つ子供たちにとってためになる放送をしていると思いますか?

あなたは商業放送(民放)の主権者であり、NHKの主権者でもあります。では、主権者として商業放送やNHKなどに今の放送はおかしい――と、注文をつけたことがありますか? また、今後そうした注文をつける意志をお持ちですか?

づ吐箸蝋駝韻垢戮討里發痢△弔泙蠍共のものです。現在のすべての放送について、あなたは「公共放送」だと感じたことはおありですか? 商業放送はスポンサーがタダで見せてくれていると考えたことはありませんでしたか?

1953年(昭28)のテレビ本放送開始以来30年の間に、100本以上の作品が放送中止になっています。そうしたことについて、あなたはどうお考えですか?

商業放送は、経営が苦しくなると電波料や番組制作費を値上げし、その金は結局回り回って私たち消費者が支払うことになります。外国、殊にヨーロッパのように商業放送(民放)テレビ局を減らすべきだとか、いろんな意見があります。どうお考えですか?

番組制作に当たっている下請プロダクションのスタッフは、ひどい労働条件と安い賃金で働かされており、将来一人前のディレクターなどになれるかどうかさえはっきりしていません。こうした状況について、どうしたらいいとお考えですか?

NHKについて、あなたは身近な印象をお持ちですか?

NHKの経営を、どうしたらいいとお思いですか? ヨーロッパ並みに広告放送を許すべきだとお思いですか?

商業放送もNHKも、「皆さまの放送」と言いながら、なかなか一般の民衆を経営や番組編成に参加させてくれません。視聴者として、何を希望しますか?

商業放送免許を再考し、近い将来、商業放送のネットワークを2乃至3本に再編集して、1本のネットワークに対して幾つかのテレビ会社が番組を提供してゆくという、英国的方式に改めるべきだという声が、依然として根強くあります。それが商業放送の質を高めるための唯一の方法だというのですが、この意見についてどうお考えですか?

民衆を愚弄する番組を多数放送しているテレビ局からは、免許を取り上げるべきだという意見について、どうお考えでしょうか?

………………………………………………………………………………………

Г硫疾船廛蹈瀬ションの過酷な実態については、本書で数字をあげて詳述されている。この搾取の構図は他人事ではないとわたしはとらえてきたのだが、その姿勢を岡本愛彦に肯定されたような気がしてこころ強い。

本書は1983年に刊行されているが、内容は古びていない。
岡本愛彦の最もいいたいことは「おわりに」に記されているつぎの一節に集約していると思える。

つまり、政治や資本に勝手なことをさせないことが放送における民主主義のスタート台なのだということを、民衆の次元でせめて意志統一ができれば、放送はそこから変わりはじめるのだと思う




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2007年08月07日

東電OL殺人事件から10年を経て

すべては佐野眞一著『東電OL殺人事件』からはじまった

5月28日、渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムで「モディリアーニと妻ジャンヌの物語展」を仲間の女性3人で観たあと、至近距離にある円山町に立ち寄り、東電OLの足跡をたどった。
東電OL殺人事件については自分が書くべきことはないと思っていたが、実際に現場を歩いたことで、自分なりに書いてみようという気分になった。
Bunkamuraのシアターコクーンはわたしの好きなホールで幾度か足を運んでいたが、円山町は未踏であり、その異界ぶりをたしかめたかった。そう思いながら、すでに数年が経過してしまった。
円山町は京都の先斗町に土地のもつ空気が似ていると感じた。いずれも花街(かがい)だったのだから当然なのだ。
われわれが歩いたのは5月末の夕方だったので、まだ空は明るい。そのせいで円山町のホテル街は死んだようだったし、意外とわたしはそちらに眼がいかなかった。
わたしが東電OLの精神性に興味があるからだろう。

佐野眞一は円山町について、
《都会の隠れ里を思わせる小さな街区である。かりそめの空間ともいうべきその不思議な地理感覚が、円山町をなお一層、地上から浮遊した亜空間じみた色合いに染めあげている》
と記している。(『東電OL殺人事件』p.18〜p.19)
この感覚を体感できたことが、わたしにとって最も大きな収穫だった。ホテル街さえなければ、わたしには好もしい空間だった。「この世の外」という感じで、ひっそりとしている。
円山町も神泉駅近くの殺害現場(古びたアパートの空室)も、現世に居場所がないかのような東電OLにとって、居心地のよい異界だったのだろう。

1997年3月8日、東電OLこと渡辺泰子は、井の頭線・神泉駅の踏切近くにある木造モルタルの古ぼけたアパート・喜寿荘101号室で、最後の売春相手とおぼしき何者かに絞殺された。遺体が発見されたのは、11日後の3月19日。
この東電OL殺人事件が起きたころの記憶が、わたしにはない。したがってこの事件の報道が過熱し、被害者である渡辺泰子の母親がマスコミ各社に抗議の手紙を送ったことも知らなかった。世間は過剰な反応をしたらしいが、わたしにはまったく無縁だった。
わたしにとって渡辺泰子が忘れられない存在になったのは、佐野眞一著『東電OL殺人事件』(新潮社/2005年5月)を読んでからである。
444ページというけっこう部厚い本であるにもかかわらず一気に読みおえ、翌日、一気に再読したほどインパクトを受けたのである。以後、幾度読みかえしたか数えきれない。
なぜそれほど読みかえしてしまうのか? わたしには渡辺泰子の心理がまったく理解できないからである。それに加えて、円山町という土地の記憶に不可思議な興味をそそられた。

わたしはこの事件で佐野のように発情しないし、「黒いヒロイン」として渡辺泰子を崇める心理は解せない。佐野が彼女に「巫女性と予言性」をみいだそうとする姿勢には違和感しかない。もしわたしの周囲に彼女がいたら、友だちになりたいとは思わないだろう。
わたしの興味は、肉体的にも精神的にも娼婦として不向きな彼女が、どうして夜鷹のように円山町を徘徊していたのか、に尽きる。潔癖性だったという彼女が、反転して汚濁願望を実践する、その病理について考えさせられる。
拒食症で痩せほそった肉体で1日4人以上を相手に毎晩売春し、終電で帰宅する生活は、凄絶というしかない。おそらく仕事に集中するエネルギーは残されていなかっただろう。
彼女が売春をしていたことを、家族(母親と妹)や、東電の社員が知っていた、というのにも驚かされる。
一方、冤罪としか思えないネパール人・ゴビンダの行方が気になる。『東電OL殺人事件』には、警察の怪しい動きが記されている。

午後5時、勤務先の東電本社を退社した渡辺泰子は、地下鉄銀座線の新橋から渋谷駅で降り、109の女子トイレで変身する。泰子が変身して売春していた、素の自分ではないという点は重要だと思う。
泰子は手帳に「売春日記」をつけていたらしく、その行動には合理性が貫かれている。
なお泰子の自宅に残っていた最も古い手帳は1992年で、事件現場に残されたショルダーバッグのなかから発見された手帳には、1996年から事件当日の97年3月8日まで記載されていた。
泰子のアドレス帳には、東電時代の上司や東電の幹部も入っていたらしい。東電の泰子の机のなかから、ワープロで作成した顧客に対する売春行為の申し込み書や、ワープロ打ちされたホテルに対する詫び状などが見つかったという。
殺害された当時39歳の彼女は、「東京電力本社企画部経済調査室副長」という肩書きをもち、1000万円近い年収があった。また売春で得た1億円近いといわれているお金は、銀行に預けていたらしい。
ただ堕ちるだけではなく、しっかり経済活動をしている点にわたしは注目している。


道玄坂地蔵はみていた 

われわれは泰子がおでんを買ったというセブン-イレブン円山町店の店内には入らなかったが、わりに小さな店でひっそりしている。
そこからちょっと迷いながら神泉駅にきた。意外と渋谷駅から近い。殺害現場である喜寿荘は線路を渡ってすぐなので、迷いようがない。
喜寿荘は周囲の建物からとりのこされたような古びた建物で、1階の廊下は荒れていて、殺害された部屋にはひとが住んでいる気配がない。2階の窓が開いていた(網戸はない)ので、ひとが住んでいるのだろう。
地下にある「まん福亭」(真上が殺害された部屋)という居酒屋から中年の男性がでてきて、店の横にある発泡スチロールの箱から鰹を勢いよくとりだし、鮮度をたしかめるようにながめた。これからさばくのだろう。
連れのひとりが「道玄坂地蔵はどこにありますか」と訊くと、視線をわれわれからはずしたまま無表情で「知らない」という。ほんとうに知らないのか、説明するのが面倒なのか、わたしには判別できなかった。

わたしがみたいと念願していたのは、この道玄坂地蔵だった。
109で変身した泰子は道玄坂地蔵という小さなお堂のまえで、5年間日課のように客を引きつづけたという。
われわれは円山町をうろうろしたが、道玄坂地蔵を発見できなかった。
自然と道玄坂にでてしまい、道玄坂上の交番をみつけた瞬間、「まん福停」のまえで訊いたのと同じ彼女が勢いよく交番のなかに入り、道玄坂地蔵の場所を訊いた。
交番には20代の巡査が3人いて、いずれもさわやかな顔をしていた。そのうちのひとりが、一瞬やや意味ありげな笑みをみせ、すぐに職業人の顔にもどり、親切に交番から出て教えてくれた。それが職業だとはいえ、「まん福亭」の男性との差が際だつ。

交番のすぐ先を右折すると、驚くほど近くに道玄坂地蔵はひっそりと立っていた。
「ヤスコ地蔵」とひそかに呼ばれ、手を合わせにくる女性たちの姿が絶えないといわれていたお堂だが、事件から10年を経たせいか、それほど手入れがゆき届いているようにみえなかった。またその唇は塗られた口紅で赤く染まっていたらしいが、わたしがみた時点ではその痕跡はなかった。
中央に新しい仏花が2束供えられていて、左手にわりに大きなガラスの花瓶があり、水が濁っている。そこに持参していた花束を入れるのに抵抗があるので、しばらくみつめていたが、観念した。潔癖性のわたしは、自分の全身が汚濁したような気分になりながら花束を入れ、手を合わせた。「安らかにお眠りください」と念じて。
同行したふたりは、わたしより先に手を合わせていた。

『東電OL殺人事件』(p.340)によると、道玄坂地蔵は宝永3(1706)年、道玄坂上に建立された。円山町あたりは江戸時代火葬場があったため隠亡谷と呼ばれ、近くには地蔵橋という橋もあった。花街として発展するのは明治24(1891)年頃からで、新橋から赤筋芸者と呼ばれた客に不都合のあった16人の芸者衆が、花柳界を開いたという。
戦後、道玄坂から円山町に移されて以来、地蔵の前に設けられている賽銭箱の金は道玄坂地蔵の名義で近くの八千代信用金庫に預けてあり、慈善事業活動に役立てているという。
しかしわたしが眼にした限り、この賽銭箱はみあたらなかった。

ネット上には東電OLに関する画像がたくさんアップされているが、『COSMOPOLITAN』(2002年12月号)に掲載された、【開かれた「パンドラの匣」】と題された佐野眞一の一文に挿入されている、藤原新也の写真が抜群にいい。この雑誌が発売された当時から気に入っていたが、現場を眼にしたいまのわたしは、さらに彼の表現者としての手腕に感心する。
記事はp.129〜p.135にわたり、写真はつぎの3ページ全面。
p.131……闇のなかで円山町のホテル街を横切る猫
p.133……夜のまん福亭
p.135……灯りのともる夜の道玄坂地蔵


円山町・神泉という土地の記憶

『東電OL殺人事件』に佐野眞一は、作家の大岡昇平が日本人には珍しい精緻な地理的感覚の持主だったことも、幼少期を過ごした渋谷という町の地理的感覚とおそらく無縁ではない、と記している。
ちなみに大岡昇平の家に近い富永太郎の家は代々木富ヶ谷1456番地(現神山町22番地)にあった。太郎が道玄坂を散策していたことが、遺された手紙からわかる。
余談だが、大岡は太郎の弟・次郎と同い年で成城学園中等部で同級。ふたりが知り合ったのは太郎が死んだ1925年11月12日から1ヵ月もたたない12月の上旬で、太郎の死んだあとの雰囲気がまだ富永家にあったという。

佐野によると、円山町が花街から旅館街にかわる流れの先鞭をつけたのは、岐阜グループと呼ばれる、富山県境に近い岐阜の奥飛騨にある御母衣(みぼろ)ダムの工事にともなって水没した村の人々だったという。
ついでながら、「水になった村」(監督・撮影/大西暢夫)という映画が、8月4日から東京都中野区のポレポレ東中野で公開されている。舞台は日本最大のダム湖に沈んだ旧・岐阜県徳山村である。

佐野は円山町という土地の記憶についてさまざまな角度からアプローチしているが、その意味で中沢新一著『アースダイバー』(講談社/2005年5月/装幀・菊地信義)は、とても興味深い。巻末に折り込み Earth Diving Mapがついている。
なお本書は『東電OL殺人事件』から5年後に刊行されている。
若い友人にコンセプトを伝えて、コンピューター上で描いてもらったお手製のアースダイバー用の「縄文地図」と現在の市街地図をもって東京を散策した中沢は、現代の東京が地形の変化の中に霊的な力の働きを敏感に感知していた縄文人の思考から、いまだに直接的な影響を受け続けていることを発見する。
わたしが『アースダイバー』を入手したのは円山町を歩いたあとなのだが、中沢新一の皮膚感覚に共感できる。
円山町と神泉に関する興味深い箇所を引く。(『アースダイバー』p.064〜p.065)

《渋谷はまず、この道玄坂の中腹あたりから発達しだした。
 ひとつには、そこに江戸の人々にとって最大の信仰であった「富士講」の本部がおかれたからである。この信仰では、富士山が巨大な幻想の女体にみたてられ、山麓に点在する「風穴」と呼ばれる洞窟にもぐりこんで、象徴的な死と生まれ変わりを体験して、気分も新しく江戸に戻ってくるという、とても不思議なことがおこなわれた。その死と生まれ変わりの空間にむけて、人々はこの渋谷から出発したのだった。
 しかし、興味深いことには、道玄坂の裏側の谷には、別のかたちをした死の領域への出入り口が、つくられてあった。うねうねと道玄坂を登っていくと、頂上近くに「荒木山」という小高い丘があらわれた。いまの円山町のあたりである。この荒木山の背後は急な坂道になっていて、深い谷の底に続いていく。そこに「神泉」(しんせん)という泉がわいていた。
 この谷の全域がかつては火葬場で、人を葬ることを仕事とする人々が、多数住みついていた。神泉の谷は、死の領域に接した、古代からの聖地だったので、このあたりには、聖(ひじり)と呼ばれた、半僧反俗の宗教者が住みついていた。彼らは泉の水をわかして「弘法湯」(こうぼうゆ)という癒しのお湯を、疲れた人々に提供していた。地下からわいたお湯につかることで、人は自然の奥底にひそんでいる力に、直接触れるのである。だから、お湯へつかることは、また別の意味の、「小さな生まれ変わり」を体験することでもあった。   
 道玄坂はこんなふうに、表と裏の両方から、死のテーマに触れている、なかなかに深遠な場所だった。だから、早くから荒木山の周辺に花街ができ、円山町と呼ばれるようになったその地帯が、時代とともに変身をくりかえしながらも、ほかの花街には感じられないような、強烈なニヒルさと言うかラジカルさをひめて発展してきたことも、けっして偶然ではないのだと思う。ここにはセックスをひきつけるなにかの力がひそんでいる。おそらくその力は、死の感覚の間近さと関係をもっている》

渡辺泰子は売春を重ねるたびに、死の領域に近づいていったのではないか。拒食症のせいで痩せほそり、さらにダイエット錠を常用していたという彼女にとって、売春は強力な死への牽引力だったのではないだろうか。
それにしても、そもそもセックスを商品化するとは、どういうことなのか?
わたしには本質的に商品化できないものとしか考えられないのだが。
エコノミストで合理主義者の彼女が、貧弱な自分の肉体を商品化していたところが、なんとも哀しい。


京王井の頭線・渋谷発0時34分の吉祥寺行き最終電車

渡辺泰子が殺害される日からさかのぼった約2年間、同じ終電によく乗り合わせていた女性がいた。彼女の自宅は井の頭線の西永福駅から徒歩5分で、渡辺泰子と同じ駅で降りていた。彼女はフリーライター・椎名玲で、『文藝春秋』(2001年6月号)に寄稿した【現代のカリスマ 円山町OL 淋しい女たちの「教祖」になるまで】と題する一文は、じつに興味深い。
渡辺泰子に思い入れが強いが面識のない佐野眞一には描けない、なまなましい渡辺泰子像が浮かんでくる。
上記から印象的な箇所を列記する。

―電の最後尾より二両目の後方ドア前が定位置だった。
何度か、車中で酒のつまみのようなものをむさぼるように食べている姿を見かけた。
9いショルダーバッグをゴソゴソとかき回して口紅を取り出し、電車の窓を鏡にして、唇の輪郭からはみ出すのを気にせず口紅を塗っていた。
じ領詭擇修了劼里茲Δ平燭断鬚げ従僂反燭胆屬文紅は、どこかレトロで生気のない顔を作りあげていた。腰までありそうな長い髪の鬘をかぶり、けだるくため息をつく。トレードマークのように真冬でもバーバリーのコート姿。コートの前はとめることなく、中の洋服が見えていた。印象的なブルーのツーピースを好んで着ていた。
チる電車の窓を見ながらよく笑みを浮かべていた。不思議な人だった。お世辞にもきれいとは言えないが、現世に魂がないかのようで、異質な吸引力があった。
ε甜屬陵匹譴如△海蹐咾修Δ砲覆辰身狃を支えたこともあったが、驚くほど軽い。足に包帯を巻いて辛そうに立っていときも「大丈夫ですか」と声がかけられない。やすやすと声をかけることができない、次元の壁を彼女から感じていた。
彼女の異変に気が付いたのは殺される半年ほど前からで、さらに激痩せして、頬の肉は削げ落ち、首筋が浮かび上がっていた。コートの下から見える足も異常にに細くなっていまにも折れそうだった。電車にゆられていると、呼吸さえも苦しそうに見えた。自宅のある西永福駅に到着し電車から降りたとたん、強風に煽られて反対側のホームの下へ落ちそうになったこともあった。
┛貪戞彼女の手に偶然触れたことがある。体温がまったくないような冷たい感触。この先この人は生きていけるのだろうかと、胸騒ぎを感じた。

109で変身した泰子は、帰りの終電の車内でもそのままの姿だったようだ。
自宅で長髪のカツラをはずし、濃い化粧を落とす。売春手帳に書きこむのが1日の締めくくりだったのだろうか。
そんな彼女の姿を想像していると、ダブルフェイスの境界線はどこに引かれていたのか、と考えてしまう。
売春行為によって自我のバランスをとっていたと思える泰子は、虚像が実像を呑みこんでしまう寸前に何者かによって生のピリオドを打たれた、という解釈もできる。
佐野によると絞殺されたとき抵抗しなかったらしいが、とうのむかしに渡辺泰子は死んでいたのだろう。
その時期を厳密にいうなら、過剰なまで尊敬していた父親を亡くした20歳のときだったのではないか。父親とは精神的な意味での近親相姦はあったらしいから。
東電の重役になる一歩手前で父親がガンで他界したとき、康子は慶応大学の学生だったが、このとき最初の摂食障害が起きている。そしてお嬢さん育ちの母親に代わり、一家の大黒柱として生きてゆくことを決意したという。


殺害された1997年3月8日(土)の渡辺泰子の足跡

『東電OL殺人事件』から事件当日の泰子の足跡をまとめてみよう。
11時25分、定期で西永福駅の自動改札口をくぐり、渋谷で下車。東急本店でサラダを買ったあと、山手線で五反田に向かった。西五反田2丁目のホテトル「魔女っ子宅急便」に着いたのは12時30分。「魔女っ子宅急便」につとめはじめたのは1996年の6月か7月で、源氏名は「さやか」。勤務日東電が休みの土・日・祝日。
5時30分頃まで客からの電話を待ったが、ひとりも客はつかず、5時30分過ぎに、すすけた感じのブルーのツーピースの上にベージュのコートをはおって退店した。「さやか」は退店後30分ほどしてから、客から電話があったかどうかを確かめるため、渋谷の公衆電話から必ず連絡してきた。だが、3月8日に限っては、その電話がなかった。「さやか」は仕事熱心というか積極的な娘で、「どんなお客さんでも回してね」といつもいっていたという。
なお、泰子がクラブホステスのアルバイトをはじめたのは1989年頃で、渋谷界隈で売春をはじめたのは、事件の6年くらいまえからだという。

6時40分頃、渋谷駅近くでかねてからの客(60がらみの風采のあがらない男)と待ちあわせた泰子は、渋谷109の前を右折して東急本店方向に向かい、東急本店側に渡らず、左側を道なりに歩いて、セブン-イレブン円山町店に立ち寄った。そこでシラタキやコンニャクなど油っこくない具を一つ一つ小さなカップに小分けして買い、いつもの通り「汁をたっぷりいれてね」とアルバイトの女店員に注文をつけた。
店を出て50メートルほど行って左折し、円山町のラブホテル街に向かった。初老の男と午後7時13分に円山町のラブホテル「クリスタル」(連れ込み旅館のようなたたずまい)に入って4万円で売春した。
(泰子が客を直引きしていた売春の最低価格は2000円まで落ちていたらしい)

午後10時16分に「クリスタル」をチェックアウトしたあと、泰子はラブホテル街をつっきり、初老の男を道玄坂上交番付近まで見送り、道玄坂から神泉駅方面に向かう路地を歩いていった。そのあと道玄坂方面に戻るという奇妙な行動にでて、「ねえ、遊びません、ねえ、遊びません」といって大っぴらに客引きをはじめた。
深夜の11時45分頃、喜寿荘101号室に東南アジア系の男と一緒に入ろうとしているところを目撃されている。
殺害される寸前まで、まことに"勤勉な生活"というほかない。


佐野眞一著『東電OL症候群(シンドローム)』

『東電OL症候群(シンドローム)』(新潮社/2001年12月)は、『東電OL殺人事件』の続編である。本書に「渡辺泰子さんというのは、すべての事象を透視して見るまなざしの持ち主だったんじゃないかというのが、私の仮説です」(p.191)という佐野の発言が記されているが、わたしには納得できない。
本書の末尾に、佐野はなぜ東電OL殺人事件に「発情」したかについて触れている。
《行間には私個人の親と子、兄弟にまつわる誰にも話せない闇と哀しみを潜ませたつもりである》《宇宙にたったひとりで放り出されたような極北の孤独が「発情」の根源だ》といわれても、なおさらわからない。

本書に、東電OLのどこに女性読者が感応されたのを知りたい、という思いで佐野が会った女性読者が紹介されている。
小夜子さん(仮名)は、わたしが思うにはお門違いである。どちらかというと、ケッセルの小説『昼顔』に近いと思う。わたしは観ていないが、映画ではセヴリーヌをカトリーヌ・ドヌーブが演じたらしい。さぞかし妖艶だっただろう。ただし、セヴリーヌは夫を深く愛しながら売春宿で働いていたが、小夜子さんは夫に醒めている。
わたしが共感できたのは、1960年生まれで、父親が東電に勤めていたという柴田千晶さんの詩集『空室 1991-2000』(ミッドナイト・プレス/2000年10月)である。
柴田さんは佐野に手紙ではなく、この詩集を送ったという。
本書で一部が紹介されているのを読んで、すぐにわたしはこの詩集を入手した。が、いまは品切れらしい。
柴田さんは「泰子は私だ」と思って詩篇を書いたという。わたしは柴田さんの感性には惹かれるが、それはわたしがとらえている泰子の感性とは異なる。

佐野眞一が『東電OL殺人事件』を著していなければ、これほど話題にはなっていなかった、とわたしには思える。
読者たちはそれぞれの器量に応じて、渡辺泰子に共感しているのだろう。
いまのわたしは渡辺泰子に対する謎はさらに深まり、「ヤスコ地蔵」を崇めた女性たちのその後が気になる。


「週間新潮」2007年3月22日号に掲載された元大学教授の述懐

松田美智子(作家)が東電OL馴染みの元大学教授(経済学)から聞いた話が「週間新潮」に掲載された。東電OLが殺害されて10年後である。
印象に残った箇所を列記する。

〇件の3年前の夜、道元坂地蔵近くの路地で声をかけられ、最後に会ったのは事件前日の3月7日。3年間で彼女に支払った金の総額は168万円。
▲灰鵐機璽箸簇術館、京都で仏像巡りをなんども誘ったが、実現しなかった。
「私なんかリストラでいつ飛ばされるか分らない。あそこ以外では使い物にならないから」と言うので、経済調査室は情報の中枢をなす部署なんだから、無くなったりしないよ、と慰めた。
(註・『東電OL症候群』によると、泰子がつとめていた「経営企画室」は、組織改革されてなくなった)
に佑なによりひかれたのは彼女のクレバーさ、上品さ、気持ちのよさ。職業柄、ドクターコースの女性を大勢知っているが、きちんと理論が整理されているのは、彼女がトップ。
コ陲Δ海箸覆蕁彼女のお骨の前で懺悔したい。ご家族にもお詫びしたい。
事件から数ヵ月後、30年近く奉職していた大学を定年退職。彼女の冥福を祈りながら、余生を過ごしたい。
約1年後、彼女が葬られている墓地を見つけ、やっとお参りができた。大好きだったお父さんと同じお墓で、本当によかった。

彼の述懐を読んでわたしが疑問に思うのは、最後まで金銭が介在した関係だったところだ。
彼が渡辺泰子に対して親身に接していたとしても、彼女にとっては顧客のひとりでしかなかったのではないのか。
それでも、これほど泰子のことを死後も大切に思う人間が客のなかに存在していたとしたら、わたしは安堵する。
佐野眞一は彼に会わなかったのだろうか。


参照

東電OL殺人事件(新潮社のホームページより)

佐野眞一『東電OL症候群』(新潮社PR誌「波」2001年12月号より)
「ガラスの天井」を生きる女性たち
バレリー・ライトマン

ほぼ日刊イトイ新聞 - はじめての中沢新一。

新たなランドマーク出現で変貌する 道玄坂坂上〜円山町周辺事情(シブヤ経済新聞)

渋谷三業地

雑誌における女性被害者報道の分析要約
武蔵大学:武蔵社会学論集「ソシオロジスト」No.1 
1999(平成11)年3月22日

東電OL殺人事件 無実のゴビンダさんを支える会








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2007年04月10日

「黄金の三角地帯」の変貌が意味するもの

「クンサー」で検索して、2006年01月11日にアップした「小田昭太郎著『クンサー』を読む」にアクセスされるかたが時折あるのはうれしいことだ。
小田昭太郎氏がクンサーに会見したのは1985年だった。
小田氏は、メオ族が住むパンケア村でみたケシ畑をつぎのように描写している。

《背丈一メートルばかりのスーッと真っ直ぐに伸びた細い茎に支えられて、その頂に深い赤と言えばいいのか濃いピンクなのか、チューリップのようでいて、それよりももっと可憐で清楚な花弁をつけ、一斉に招くように揺れている。それはいかにも儚く妖しい女たちの群れにも似ていた。そんな花々に混じってポツン、ポツンと所々に純白や紫の花弁が顔をのぞかせている。この美しい草花の精に魅せられて人は廃人と化していくのだろうか》

この描写を記憶していたわたしは、さきにアップした「追跡 ヘロイン・コネクション」という番組で、一面のケシ畑を観て納得したのである。やはり映像の力は大きい。

小田氏は、昔からケシの栽培を仕事としてきたメオの人々について、「麻薬を作っているのではなかった。ケシを栽培するただの農民だった」と記している。
この「ただの農民」の視点で描いた記録が、高野秀行氏の『ビルマ・アヘン王国潜入記』(草思社/1998年10月)であり、表紙は一面のケシ畑である。
1995年10月、高野氏はワ州に入り、半年にわたって滞在した。村人と一緒にケシ栽培の全行程を体験するのが目的である。その体験はユーモラスに描かれている。
本書は小田昭太郎氏の筆致とは異質だが、思想的には相通じるものが流れているように思う。
「あとがき」で高野氏は、1997年1月に亡くなったクン・チャ・ウ氏について、つぎのように記している。

《彼はビルマでの役所勤めを退職後、齢七十にしてタイに亡命し、シャン州独立と少数民族に対する人権侵害廃絶の運動に余生を捧げた。私を気に入ってくれ、一緒に一軒家を借りて、数年にわたって起居をともにし、ほとんど親子と呼んでもよい関係であった。氏は死の直前まで、「ビルマ政府にシャン州住民を売った」クンサーを恨み、衣食住にも事欠くような貧窮生活のなか、クンサーの誘拐作戦を画策していたという、いろいろな意味で稀有な老人であった。個人的な親愛の情はもちろん、私は将来、この人物を主人公としたシャンの民族独立運動のルポを書くつもりでいたこともあり、その急な死は痛恨の一語に尽きる》

  *

2007/02/04(日)の夕刻、たまたま観たTBSのニュース番組で「黄金の三角地帯」の変貌を知った。TVをリアルタイムで観ることは稀なので、不思議な気分になった。
いま、タイでは厳しい取り締まりをする一方で、ケシに替わる作物の導入を奨励しているという。
JIFF(日本国際親善厚生財団)
は、マラリアに効く成分をもった「クソニンジン」の栽培を実現させることを計画している。

ごまのはぐさのこまごまことのは」というblogの〔クソニンジン・プロジェクト〕より引用する。
 
《タイ北部国境地帯はゴールデントライアングルと呼ばれる麻薬の生産地帯です。その地では現在タイの王室が運営する財団とJIFFが提携して、麻薬・貧困・感染症の撲滅に取り組んでいます。
 麻薬の原料となるケシの栽培を撲滅するため、代替作物としてクソニンジンの栽培を奨励する計画が立てられています。クソニンジンは製薬原料として高い需要があり、お百姓さんたちの収入源として有望視されています。こちらからお送りする種子は、ケシの種子の代わりに畑に蒔かれ、新たな収入源となり現地のお百姓さんの経済的自立をお手伝いすることとなります。さらに現地で生産されたクソニンジンは抗マラリア薬として精製されて、財団によって安価で地域に流通させられ、マラリア撲滅にも力を発揮することとなります》

「クソニンジンを栽培してくださっている皆様へ」というJIFF(日本国際親善厚生財団)からのメッセージはこちら


〔参照〕

論 説「アフガニスタン再建の躓きの石−麻薬取引のグローバル化」
(『立命館経営学』/2005年1月) 本山美彦

「ビルマの麻薬汚染と軍事政権」(社会新報/2003年7月12日)
ジャーナリスト 菅原 秀






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2007年01月30日

共同通信石山委員会編『コンポンスプーに楽土を見た〜戦場に消えた石山幸基記者の記録』

さきの更新から2ヵ月もの空白ができてしまった。更新していないにもかかわらず本blogにアクセスしてくださったみなさまに感謝しながらも、雑用に追われてどうにも時間を捻出できなかった。
本エントリーについては昨年末にアップしたいと思いながら、きょうに至ったという次第。

   *

さきにアップした馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト』は、かなり無理をしながら書いたのだが、先日、「馬渕直城のアジア情勢報告」で本blogが紹介されていることを知った。
ありがたく思うと同時に、恥ずかしくもある。

さきのエントリーに追記したように、入手した共同通信石山委員会編『コンポンスプーに楽土を見た』(三草社/1982.11.15)を読了。濃密な内容であるにもかかわらず、一気に読ませる力が本書にはあった。
わたしが本書を読みたいと思ったのは、編集責任者・伊東正のレポート(『噂の眞相』/1983年2月号)に刺激されたからだ。そこからはジャーナリストとしての熱がストレートに伝わってきた。あつくるしくない上質の熱である。

知的人間ではなく感覚人間であるわたしは、日常生活においても、他者の発した言葉より、その人間がからだから発している"空気"を重視する傾向が強い。馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト』のp.57に掲載されている石山幸基(共同通信プノンペン支局長/1973年9月)の写真をみて、同年10月10日に単身でクメール・ルージュ解放区に潜入取材を試みた、という事実に違和感があった。その石山の太った体躯と柔和な笑顔から、イメージが膨らまなかったのである。この写真は、本書のp.195にも掲載されている。
無意識下とはいえ、その違和感を解明したいという想いが本書を読む行為の底流にあったのだと、いまにして気づく。

本書は石山幸基のプノンペン日記・陽子夫人への手紙・論文、追悼文(馬渕氏の一文も掲載されている)、石山記者捜索日誌(社外秘の資料)などで構成されていて、どれもが一読に値する内容になっている。とくに巻末の捜索日誌は臨場感があり、胸に迫ってくる。
よく練られた内容構成になっていて、本書に注いだ共同通信石山委員会の膨大なエネルギーは、「日本のインドシナ報道に強い不満を見せていた石山のジャーナリズムのあり方への考察と告発」に応えようとする姿勢なのだろう。
石山の問いかけは2007年現在にも通用すると思う。

『噂の眞相』で伊東は記している。
1973年5月、休暇で一時帰国した石山はつぎの"事件"以降、東京デスクとの距離が開いていったらしい。
《不用意に「カネが余ってしようがない。先輩たちは汚職でも……」と口走ったことが引き金になり、オンナを買わないからだ、それでカンボジア人の心がわかるもんかいといったやりとりになっていったという》

この場合のカネは、自費ではなく社費なのか?
いずれにしても「女を買うことでカンボジア人の心がわかる」という認識を、わたしは肯定できない。

1972年12月7日の日記に石山は、《女を買うのはこの地域の遅れた経済状態につけこむことではないのか》と記している。
12月10日には、《生まれてはじめてアヘンをすってみたが、どうってことない。口とノドの奥になにか、あまい感じがのこっているだけ》と。
そして12月27日には、《おれはアヘンのことは、日本人のだれにもはなしていないけれど、目の色かえて女を漁る日本人の「まっとうな」社会よりも、リーやシルバーナ、ロランたちのヤクザなアヘンの世界の方が、よっぽど上品に思われる》。

上記『噂の眞相』の末尾に伊東が記している一節は、石山と共同入社同期生のジャーナリストとして鋭い問いかけである。
《出発の時点では、確かに彼は職業人であった。しかし、解放区入りした後、劣悪な生活条件の中で、腐敗したロン・ノル政権と戦う善良な農民ゲリラに接したとき、果たして職業意識を貫けただろうか》

このテーマに別の角度から鋭く斬りこんでいるのが、本書に掲載されている土井淑平の一文である。(p.167〜p.173)
土井は石山と同期入社で、共同通信社内の有志が発行した「メディアの反乱」というタイプ印刷の雑誌を編集した中心人物。1969年12月に創刊号、71年12月に第4号を出して廃刊。石山はすべての号にジャーナリズム論を寄稿。
土井の一文から引用する。

《革命や戦争の現場にじかに立ち会うという圧倒的な臨場感に幻惑されると、自らの位置をついつい見失ってしまい、どうしてもロマンチックな気分になるのが人情なのかも知れない。石山君にしても、少し後にテヘランで客死した竹沢護君にしても、たとえ、それが病死や交通事故という形をとったにせよ、彼らの死は、そこらへんの判断の甘さというか不用意さの帰結といえはしないか。彼らも、また、それと意識せず職業意識の陥穽にはまり、殉職というかたちであたら貴重な人生を棒に振ってしまったのではないか》

石山幸基は1年間の任期中、49通の私信を陽子夫人に書き送った。1973年8月26日付け書簡で、つぎのように記している。
《毎晩バッハ、モーツアルト、チャイコフスキーをきくことを慰めにしているような、あえていえば卑小な生活形式では、カンボジアに立ちうちできないのです。もちろん、任期満了まではせいいっぱいやるつもりだし、十分の一の確率で活路がひらけてくる可能性もないわけではないですが、しかし、やっぱり今回はまちがっていたでしょう。オレのいまの最高の魂のよろこびは、クメールそのものとのまじわりのなかにはない、ということを知った以上》

それから約2ヵ月後の10月10日、石山は2、3週間の予定で解放区入りした。11月のはじめには、任期を満了して帰国するはずだった。1974年1月20日ごろ、カンボジア中西部のゲリラ基地、クチョール山中で死亡していたことが判明したのは、1981年7月。マラリアに腸チフスを併発したと予想され、発病から約20日後だったらしい。傷ましい最期である。
1981年7月、共同通信の現地調査に同行した石山夫人と母親は、現地の風土を一目みるなり、「ここでは幸基は生きられない」と、その死を覚悟したという。

石山が馬渕直城のような強靱な肉体をもっていたら生還できたのかもしれない。しかし本書に寄せられたコーン・ボーン(石山の助手でカンボジア人。通称トイ。石山に依頼され、解放区に入る認可証を入手)の一文には、《ただティからの情報のなかには生命の安全を保障するという部分はなかった。私はこの事実を松尾文夫氏がこの関係でプノンペンに来たときに報告しておきました》という記述がある。
ティというのは、トイがウドン地区で会った男で、上級司令部とのパイプ役を果たした。松尾文夫は、当時、共同通信バンコク支局長で、本書に「なぐりつけても止めるべきだった」という一文を寄稿。

石山はジャーナリズムの本質にこだわりつづけ、「ジャーナリズムの方法は不定型」であり、ジャーナリストは本来アマチュア精神に立脚している、と考えていたという。そんな石山なら、ネットジャーナリズムを肯定し、おもしろがっていただろう。
石山は論文のなかで、ジャーナリストの要件として、「主体的な思想者でありつづけること」をあげている。そして、「いま六十代の左翼あるいは自由主義者、あるいは共産主義者のなかで、内心で勲章をほしがっている人は結構いるようなのだ」と記している。

本書に寄せられた一文はどれもがすばらしいが、そのなかでも印象に残るのは、上記の土井淑平とエリザベス・ベッカー(73年当時、ワシントン・ポスト特約記者)である。
わたしには彼女が石山の素顔を最もよくキャッチしていたように思えてならない。
わたしの勝手な解釈では、ジャーナリストという共通項をもつふたりには、ユーモアの通じる男女間の友情が育っていたのではないか。

  *

石山の解放区取材の直接的契機は、1973年8月に競合区(昼間は政府軍が支配、夜間は解放側の天下)に一泊二日という短時間訪問した山田寛(読売新聞社・サイゴン特派員)で、このスクープが共同通信本社を刺激したという。
このときの体験は山田寛著『ポル・ポト〈革命〉史―虐殺と破壊の四年間』(講談社/2004年7月)に記されている。
また馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト』の末尾に記されているポル・ポトの後妻と娘のその後についても、山田は記している。

石山幸基と同じくジャーナリズムにこだわりつづけているのが辺見庸である。石山が1942年生まれで、65年に共同通信社入社なのに対し、辺見は1944年生まれで、70年に同社入社、96年退社。
最近読んだ辺見庸著『いまここに在ることの恥』(毎日新聞社/2006年7月)の冒頭は、四半世紀以上前の、タイ・カンボジア国境付近の記憶の描写であり、「私の知るかぎり最悪の難民キャンプがそこにあった」と記している。
本書を貫いている辺見庸のジャーナリズムへの鋭い問いかけは、石山幸基のそれとリンクしている。

本書で、辺見がノーム・チョムスキーについてやや批判的にとらえている。2002年の対談(『プレイボーイ』に掲載)をわたしはネットで読んでいただけに、興味深い。

p.132の記述は痛快である。
《若いときには「反戦」を唱えていた文化人が老いてから紫綬褒章かなにかを受勲して、平気で皇居にもらいにいく。旧社会党の議員でも反権力と見なされていた映画監督でも平気でいく。晴れがましい顔をしていく。ここには恥も含蓄も節操もなにもあったものではない》

ちなみに馬渕直城とともに1986年、麻薬王クンサーの取材を成し遂げた小田昭太郎(オルタスジャパン代表)が、当時在職していた日本テレビで制作したドキュメンタリー番組「故郷は戦火のなかに 」(1979年芸術祭優秀賞)はこちらの卒論(平成14年)で番組分析されている。「タイ国境にある難民キャンプ・カオラン収容所が舞台」とのこと。


〔参照〕

「カンボジアの悲劇を生んだ国際的背景-ポル・ポト裁判の今日的意味を考える」―日本国際問題研究所・所長 友田 錫 (2006年7月21日記)


「日本の若い人たちへ〜山田寛さんへのインタビュー〜」
(2001年6月26日 日本外国特派員協会にて)



〔追記 2007/02/10〕

本文末尾で紹介した卒論(平成14年)の「カンボジア関連番組表」にある【10. 月曜特集「潜入ドキュメント 揺れるカンボジア」(1993.4.26 /テレビ東京)】は、こちらにあるようにオルタスジャパン制作で、第31回ギャラクシー賞選奨を受賞している。


〔追記 2007/03/27〕

上記の卒論(平成14年)は、その後削除されている。
わたしの記憶ではサイト運営者が無断転載を禁じていたので、必要な箇所をここに引用することができない。残念である。








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2006年11月29日

馬渕直城著『わたしが見たポル・ポト キリングフィールズを駆けぬけた青春』

集英社から2006年9月10日に刊行された本書を知ったのは、朝日新聞の広告だった。
10月22日にBS2で放映された「週間ブックレビュー」で、本書がとりあげられたのを興味深く観た。
推薦人は西木正明(作家)で、ジャーナリストが現場にいることの重要性を強調していた。スタジオが異様な熱気に包まれたのは、司会が永田渚左(ノンフィクション作家)だったのも大きいと思う。

正直なところ、本書の感想を書くのは気が重い。わたしがインドシナ情勢にきわめて疎いからである。もちろんあまりにも有名な一ノ瀬泰造については知っていたけれど。
そんなわたしが本書を読み、「事実」とはなにか、「馬渕直城の見た事実は正しいのか」、ますますわからなくなったのである。
にもかかわらず、わたしは拙い感想を記そうとしている。
馬渕についてはこちらにアップしたように、クンサー会見の立役者として認識しているので、勝手な親近感を抱いているからである。
また、本日が馬渕の尊敬する一ノ瀬泰造の祥月命日らしいので、その記念としたい。
(蛇足ながら、わたしの誕生日である)
  
本書を読むのは骨が折れた。構成に難点があり、せっかくの馬渕直城の体験が存分に表現できていない、というのが率直な読後感である。
馬渕はあとがきに、友人と家族への感謝の念を記しているが、編集者はどういう対応をしていたのか。素人判断で恐縮だが、編集者によって内容構成に差がでてくると思うので、残念でならない。
あと、馬渕の人物像が浮かぶような書きこみがあれば、読者としてはもっと愉しめたと思う。

わたしは本書を馬渕直城の青春の書として読んだ。
馬渕の報道写真家としての原点がここに刻印されている。
共同通信社プノンペン支局長・石山幸基とフリーカメラマン・一ノ瀬泰造。戦地でいのちを奪われたふたりの魂に牽引されながら、激戦地で馬渕は生き延びる。そして、ふたりの死にどう「精神的決着」をつけるべきか問いつづけている。その答えをだそうとする営みが、馬渕直城の生の軌跡なのだろう。

  *

馬渕直城(1944年生まれ)の報道写真家としての目的地は、インドシナ半島。
1972年12月、カンボジアの戦場を本格的に取材するため隣国タイから陸路ポイペットの国境を越えた。
1973年、戦場で一ノ瀬泰造と知り合う。
すぐ近くにAP通信社のドイツ人カメラマン・ホルスト・ファースト(ピュリッツアー賞を受賞)がいた。あなたの写真に感銘を受け、カメラマンになりたくてカンボジアに来たのだ、と馬渕は自己紹介した。
泰造は攻撃シーンを至近距離から広角度レンズを使って撮っていたが、ホルスト・ファーストは糊の利いた白い半袖シャツを着て、遠くの安全レンズを付けた真新しいライカフレックスで撮っている。それを見た馬渕は裏切られた気がした。

この日に見た、銃弾が飛び交う路上に立って写真を撮っていた泰造の姿が脳裡から離れない馬渕は、戦場カメラマンとしての自己のあるべき姿について模索しはじめる。
やがて激戦地での体験から、「運の良し悪しを嗅ぎ分ける己の勘」という「身体の奥底にある不思議な感覚」に目覚める。
プノンペンでさまざまな戦場カメラマンと知り合うなかで、馬渕は独自のスタイルをみいだす。解放側に立った写真を撮るという理念を堅持しつつ。
  
  *

1973年8月、馬渕は石山幸基(共同通信社の記者)と一ノ瀬泰造(フリーカメラマン)とともに、国道4号線上の隣町コンポン・スプーへ取材に出かける。ふたりはその日のうちにプノンペンに戻ったが、馬渕は一泊してから帰ることにした。
翌日、帰路につく途中、政府軍の作戦に随行して兵士たちの写真を撮ろうとした馬渕は、解放軍の米国製M-79小型榴弾が目の前で爆発し、大地に叩きつけられた。

野戦病院で軍医の応急手術を受け、身体に潜り込んだ破片を摘出。馬渕が提げていた血だらけのカメラは、300ミリのレンズが壊れ、榴弾の破片を止めていた。
軍医は掌にある十字架のついたロザリオを見せた。それは別れたタイの恋人がくれたものだった。銀の十字架には、性質の悪い鋭利な破片が突き刺さり、十字架が心臓への直撃を喰い止めていた。
いまも、その時の破片が馬渕の体じゅうに残っているという。
ここでわたしは思う。なぜ馬渕は別れたタイの恋人がくれたロザリオを身につけていたのか。そこらへんを書いてもらえると、読者として馬渕直城へのイメージを膨らませることができるので、助かるのである。

  *

1973年10月10日に解放区へ取材に入ることを、馬渕はその前日に石山から教えられる。石山は周囲に漏らすことなく、助手のトイと二人だけで潜入計画を練り、難しかった解放側との連絡を成功させていた。一緒に連れていってくれと頼む馬渕に、取材が成功したらカメラマンが来るといってやるといい、トイの運転する車に乗って出かけていった。

石山の出発から1ヵ月が過ぎた頃、プノンペン近郊のウドンの町からアンコール・ワット方面に取材に向かったようだという噂が流れた。
石山に先を越されるのではと焦ったのか、泰造(当時26歳)は、マラリアで40度近い熱があったにもかかわらず、再度のアンコール・ワットへの潜入を目指して、シアム・リアップの街へ向かった。
11月も終わりになる頃、シアム・リアップに行った泰造が、政府軍を振り切ってアンコール・ワットに入っていったことがわかった。しばらくすると、解放側で写真を撮っているという情報が漏れ伝わってきた。

石山が出発して2ヵ月が過ぎた頃、共同通信の本社から人が来て、周囲で慌ただしい動きがあった。何をしに来たのか教えてもらえない馬渕は、1、2ヵ月は向こうにいた方がいいと石山が言っていたのを思い出し、楽観視していた。
1981年7月、石山が解放区の取材中に病死していたことがわかった。当時31歳。埋葬されたのは、"カンプチア民族解放統一戦線兵士たちの共同墓地"。
(註・共同通信の現地調査により、1974年1月20日ごろ、解放区内山中で死亡していたことが判明)

1973年11月にアンコール・ワットへ単独潜行したまま行方不明だった一ノ瀬泰造については、1982年2月、両親がプラダック村の草原で遺体を確認。
当時の報道では、アンコール・ワットに入ってすぐに捕まり、10日から14日後にCIAのスパイということでポル・ポト派に殺された、となっている。
しかし本書によると(p.143〜p.144)、馬渕が偶然雇った運転手がベトナム人で、事件のことを知っていた。直接泰造に手を下したのはクメール・ルージュの司令官、同志(ムット)ルアンで、ハノイで教育されたクメール・ベトミンと呼ばれるベトナム派だという。当時のアンコール・ワットに駐留していた北ベトナム軍の命令あるいは許可の下で殺害されたにちがいないこともわかった。
この明らかな相違についてどう判断していいのか、わたしにはわからない。

  *

『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造/講談社文庫/1985年3月)の巻末に、馬渕の〔戦場での一ノ瀬君〕という一文が収められている。
それにつづく〔文庫版へのあとがき〕の末尾には《一九八四年十一月二十九日 泰造の祥月命日に記す  一ノ瀬清二 信子》とある。内容から推測して父親が記したようだが、その筆力には感心する。
1982年2月1日、行方不明になってから8年後、まさにカンボジアの土と化した我が子の亡骸と対面する場面が、冷静な筆致で描かれていて胸を打つ。
泰造にとって、いや戦場カメラマンにとって、最高の両親である。

1973年4月27日、泰造は一時帰国し、10日間日本に滞在する。両親への置土産は、ベトナムで撮影中に手榴弾が命中して内蔵のはみ出した1台のカメラ。
このとき朝日新聞の出版写真部の部屋に顔を出した泰造を、石川文洋が活写しているので、一部を引用する。

『戦場カメラマン』(石川文洋/朝日文庫/1986年6月)
(p.944〜p.960―「自由」と「存在感」を求めた泰造君の青春)


《戦場の泥がこびりついている野戦バッグとカメラを肩にし、硝煙がただよっているような姿を、私たちカメラマン仲間はある種の感動の目を持って見つめた。
 そこからは都会の人間にはない、荒野の中で生きる一匹狼のように、強さと孤独が共存する雰囲気が感じられた。それまでに『週刊朝日』に泰造君の写真が掲載されていたし、現地から送られてきたネガも見ていたので、泰造君の存在は、よく知っていた。
 泰造君の撮影した写真を見ながら、当時、出版写真部のデスクをしていた秋元啓一と「随分と危険なところで、写真を撮っているなあ」と心配をしたことがある。その泰造君が顔を見せたのである。私たちは、部屋の椅子に座った泰造君を囲んで、現地の話を聞いた。
 その時、私自身も数日後にはハノイへ向かい、解放区となったクアンチ省への取材に、東京を出発する予定になっていた。泰造君は、そのクアンチ省の、解放区とサイゴン政府地区の境界になっているタクハン川での、捕虜交換を取材して、『週刊朝日』に発表をしていた。
 決して雄弁ではないが、泰造君の南ベトナムでの戦場の話は、私にとって、大変刺激的だった。いや話よりも、泰造君そのものから受ける刺激の方が強かった、と言った方が良いだろう。軍服を着てあの暑い戦場で、サイゴン軍の兵士たちと、従軍している様子が、目に浮かんでくるようだ。
 泰造君の持ってきた銃弾で穴のあいたニコンを、みんなで驚きながら眺めた。秋元啓一は、早速そのカメラを『アサヒカメラ』の編集部に持って行って、「オイ、このカメラだけでも絵になるぞ」と説明をしていた》

「なぜフリーカメラマンはインドシナへ向かうのか」というテーマについて石川はつぎのように記している。

《アンコール・ワットのそばへ行きたい、という泰造君の気持ちは、それを撮影することによって、自分の存在感を自分自身で感じよう、としたのだと思う。そのことによって得られるかもしれない、収入や栄光や名声は、泰造君にとっては、手紙で書く程には問題にしていなかったのではないだろうか》

  *

ポル・ポト政権下で大虐殺はなかった、という馬渕の説は、とてもわかりにくい。
〔あとがき〕に《米軍やベトナム軍の侵略に抵抗するのは当然のことだけれど、戦争からの復興という難事業やそれを通じて理想社会をつくる過程で、人を殺めることがあったとしたら、それは理想に反することになります》と記されているのはどういう意味なのか。

上述の『戦場カメラマン』(p.799〜p.872)で、石川はカンボジア大虐殺について記している。
前文として、本多勝一編『虐殺と報道』(すずさわ書店/1980年11月)に収められている、アンケートに対する返答を転載している。
1979年、1980年と2度にわたってカンボジアを訪問、数ヵ所の虐殺現場を取材したという石川は、大虐殺があったのは事実だと信じていて、《もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟でいます》と。

  *

馬渕直城は1975年4月17日のプノンペン解放を取材した唯一の日本人である。
ポル・ポトに2回会見している。
1回めは1979年12月で、2回めは1998年1月。
2回めのときポル・ポトの体調が悪化し、馬渕は十分な話が聞けなかった。
このときポル・ポトは、「ユオン(ベトナム人に対する蔑称)が来なければ我々の闘争は起きなかった」と語ったという。
4月15日早朝、タイ軍がポル・ポト死亡のニュースを流した。
「ポル・ポトの遺体確認後、写真を撮る著者」(1998年4月16日、地元タイ紙撮影)というキャプションの写真が掲載されている。
つぎの記述に馬渕の写真家としての生理を感じた。

(p.280)
《傷心いちじるしい妻や、十四歳の娘をカメラの放列にさらすのは無神経だと思ったが、長い髪の下から、キッとこちらを見つめる娘の眼に引かれて私も思わずシャッターを押した》

ポル・ポトの葬儀に立ち合った馬渕が描いている、孤独なポル・ポトの最期も印象的だが、わたしが本書に登場する人物のなかで最も強烈な印象を受けたのは、悲惨な死を遂げたセイニーである。(p.133〜p.141)
背負いきれない哀しみに自滅してゆく人間に、わたしは共感する。
ここでふと考えた。強靱な肉体と精神を併せもつ馬渕に、"弱さ"はないのだろうか。
靱い男が弱さを垣間見せたとき、意外と魅力的である。

ユージン・スミス(フォト・ジャーナリスト)は、「生まれかわる前は日本人だったのではないか」と、妻のアイリーンに語ったという。
馬渕直城は、前世ではクメール人だったにちがいない。


〔追記 2006/12/03〕

『噂の眞相』(1983年2月号)に共同通信・記者の石山氏と同期入社の伊藤正氏が記した、「カンボジアの戦場に消え去った共同通信特派員・石山幸基の軌跡」が掲載されているのを、ネットでの検索により知った。こちらの電子書店からダウンロードして、さきほど読了。じつに興味深い内容だ。

伊藤氏は石山氏の遺稿集『コンポンスプーに楽土を見た―戦場に消えた石山幸基記者の記録 』(石山幸基著/共同通信石山委員会編/三草社/1982年) の編集責任者である。
上記遺稿集をオンライン書店で注文したので、近日中に入手できるだろう。馬渕氏の『わたしが見たポル・ポト』を拝読して刺激された事柄について、遅ればせながら自分なりに考えてゆくための材料にしたい。









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2006年10月03日

『森羅映像』 吉田直哉 著/矢萩喜従郎 写真

吉田直哉の『森羅映像 〈映像の時代〉を読み解くためのヒント』(文藝春秋/1994年)を最近入手し、おもしろく読んでいるところだ。

P.186〜P.193の【「やらせ」の反対語は?】という項から抜粋。

日本ではじめてのテレビドキュメンタリー・シリーズは1957年にはじまったNHKの番組「日本の素顔」で、はじめは「フィルム構成」と名乗っていた。その番組の担当者であり命名者である吉田直哉は、録音構成をモデルに、記録映画とは距離をおこうとした。

結局フィルム構成という名は定着せず、テレビドキュメンタリーと呼ばれるようになった形式でつくってきて、いちばん多い質問の基本パターンは、「ドキュメンタリーには、どのくらいやらせがあるのですか?」。
きまって「ぜんぶです」と吉田が答えると、相手は絶句する。
〈やらせ〉の反対語は〈盗み撮り〉であり、盗みはあきらかに犯罪だから、撮影の許可を願い出る。

戦争の写真や記事に限らず、ありのままを伝えることなど幻想であり、ほんとうは「ありのまま」というものがあるのかどうかさえ、確かでない。まして、何かを「ありのままに伝える」ことは不可能。
何を見せ、何を見せなかったか、何について書き、何について書かなかったか。それが「表現」で、人間は表現でしかものを伝えられない。

ドキュメンタリーには、受け手の想像力をそそることが限りなく要求される。
ドキュメンタリーで問われるべきものは、「正誤」よりも「巧拙」なのだ。

銀行やコンビニの防犯カメラと、ドキュメンタリーのカメラの働き方はちがう。しかし今日、ドキュメンタリーのあるべき姿に防犯看視カメラを夢想している人は、実に多い。
いまからでも「映像構成」と改めるほうがいいのではないか。

  *

吉田はこのなかで、「表現というものについて実に多くを教えられる」といい、大岡昇平の短篇『問わずがたり』とエッセイ「『問わずがたり』考――事実とフィクションの間に――」を紹介している。
共に『文学における虚と実』(講談社)に収められているというので、早速わたしは入手したのである。
というのは、エッセイのほうは筑摩書房版「大岡昇平全集 17」で既読だったが、短篇のほうは気になりながら未読だったからである。
なおエッセイについては、杉本圭司さんが運営されている「小林秀雄實記」の掲示板(註・ただいま改訂中につき閲覧できない)で、小向さん相手に詳細に書きこんだという過去があり懐かしい。

富永太郎に関する部分を引用する。
(P.190〜P.191)

《歴史小説でも伝記でもありませんが、大岡昇平に『問わずがたり』という、ふしぎな短篇があります。大正の天才的な夭折画家の恋愛事件について、遺作集を編集している出版社の社員が地方都市に赴いて、老いた関係者を歴訪するという内容で、小説に地の文はなく、いずれも七、八十歳になっている三人の女性との対話だけから成り立っているのです。
 この作品には、その成立過程を書いた「『問わずがたり』考――事実とフィクションの間に――」という関連したエッセイがあって、共に、『文学における虚と実』(講談社刊)に収められているのですが、あわせて読むと、表現というものについて実に多くを教えられます。
 大岡昇平は、詩人富永太郎の伝記を書くために関係者を歴訪したことがあり、富永が心中というところまで行くほどの恋をした人妻との事件を取材しました。そのとき「問題の女性に遠慮から質問できなかったことを、実際に質問したように書き、想像された反応を書いた」のが、この小説なのです。
 伝記、小説、エッセイ。大岡昇平の三つの作品は、伝記も関係者のプライバシーへの考慮から完全に自由ではないこと、かといって多くの歴史小説家が誇る、証言や文献から常識的に結論されるところから離れて想像力によって「真実」に迫る才能と自由も、結果は多くの問題をもたらすこと、を余すことなく示した実に知的な試みでした。
 主題に関係のない文学への寄り道をしたと思われるかも知れませんが、伝記、小説、エッセイがニュースと同じジャンルに属さないのと同様に、テレビドキュメンタリーがテレビや新聞のニュースとは別のジャンルのものである、ということを言いたかったのです》

  *

ドキュメンタリー番組はわりと観ているし、吉田直哉については以前から興味をもって眺めていた。ユーモア感覚があるのに軽くない。柔軟な思考が心地よい。
本書は平易な文章で書かれているが、重厚な内容になっている。
とくにP.72〜P.74の【『ヴィジョンズ・オブ・ジャパン』】という項の、
《「人生は些事から成る」という。人生がそうなら一国の文化も同じで、些事から成っているのだ》
というくだりで、上記の杉本さんを想起した。と同時に、杉本さんの表現(背後に小林秀雄がいる)と吉田の表現の差異を感じることで、より深くこのテーマについて考えられるような気がしたのである。



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2006年07月24日

上野晴子著『キジバトの記』

朝日新聞・朝刊の別刷りbe(土曜日)の【愛の旅人】を愉しみにしている。書き手が同じひとではないのだが、毎回、文章がとてもいい。
6月10日は、「妖婦か殉愛のヒロインか」と題して、阿部定事件をとりあげていた。
(文・保科龍朗 / 写真・内藤久雄)

阿部定事件については興味がなかったのだが、保科龍朗氏の筆力には脱帽した。
つぎの視点が、わたしの定に対する認識を変えた。

《定はその運命を潔く引き受けたかにみえた。だが、手記に透かし見える虚実あいまいな内面の真実は、死にきれなかった「殉愛」の聖なるヒロインに人知れずなりきることだったようだ》

さて、7月8日は「割烹着に隠された闇」 上野英信と晴子――「キジバトの記」だった。
(文・今田幸伸 / 写真・内藤久雄)

食道ガンが脳に転移した上野英信が逝ったのは、1987年11月21日。享年64歳。
英信の死後、ひとり息子・朱(あかし)さんの家族と同居していた晴子は、原発性腹膜ガンでホスピスにて死去。1997年8月、享年70歳。

『こみち通信 15』――追悼・上野英信(径書房・1988/4/20)に掲載された上野朱さんの一文は、その筆力とともにわたしを圧倒した。

《私も同じ屋根の下に暮らし、民衆の悲しみに寄り添う上野英信と、妻に対して絶対服従を求める上野鋭之進との矛盾を見てきた。そしてその仕事はともかくとして、一家庭人としての父には疑問を抱き続け、父の奥深くに潜む天皇制家父長主義を憎んでいた》

そんな朱さんの憎しみは、死の1ヵ月余りまえ、もつれる舌で「お父さんの右手はどこにあるのか」という父のひとことで崩れさる。
そして「もう一度あの人の子供に生まれてみたい」と記す。

上野晴子著『キジバトの記』(発行=裏山書房・発売=海鳥社・1998/1/15)を発刊当時に読んだとき、わたしは失望した。
今回、再読したが、同じ感想である。

性別に関係なく他人の作品のためには惜しみなく協力した英信は、妻の晴子だけには文学(短歌)を禁じた。
「文学の毒が君の総身に回っている」という英信の言に、わたしは笑うしかない。しかしその理由について、「文学の不幸を知り尽くした人の、妻に対する最後の愛情だったかとも思われる」と記す晴子の見解には失望するのみ。

英信は京都大学時代に才色兼備の女子学生と魅かれあった。が、彼女は「英信が周囲の期待に応えて学問をつづけるならばどこまでも一緒に歩む。けれども、一切をなげうって炭坑へまでついてゆく勇気はない、と正直に告げて去っていった」。
晴子は、そののち立派な学者になったという名も知らぬその彼女を、「曼殊院の君」と呼んでいる。
英信は「曼殊院の君」に裏切られたと思っていたらしいけれど、それは勝手な思惑だ。しかしそれより、晴子も単なるエゴイストの英信に同調している節があるのが、わたしには解せない。

晴子は、結局は英信を尊敬し、自分を筑豊に連れてきてくれたことに感謝していた。
亡くなる直前、晴子は朱さんに「もう一度、お父さんと一緒になりたい」と語ったという。そんな晴子に、わたしはがっかりしてしまうのである。
晴子は結婚に破れ、英信とは再婚である。初婚の男性との関係について晴子は記していない。それが明らかにされると、英信への尊敬の念が理解できるのかもしれない。

家庭で「武装した天皇」であった上野英信の思想性と、なした仕事との矛盾点を、しっかりみつめることのほうが大切だと、わたしは思うのである。
英信はできあがった原稿を最初に妻の晴子にみせたらしいから、夫婦の型としては、木村栄文夫妻と同列なのだろう。

そういえばわたしの友人が、懇意にしている作家とともに、英信と晴子が開いた「筑豊文庫」を訪ねたときの話を聞いたことがある。
英信に師事していたある作家について、「もうダメになった」と評したという。英信は、よほど彼女たちにこころを許していたのだろう。
晴子が来客の接待に追われ、水仕事のしすぎで手が傷だらけになっていた様子が、『キジバトの記』に記されている。
英信を慕う不躾な女性たちを含め、来客たちは、立ち働く晴子の姿をどのように受けとめていたのだろうか。


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2006年06月01日

『楢山節考』のラストシーンで雪が降るワケ

映画「楢山節考」の監督・今村昌平が5月30日、亡くなった。79歳。

わたしは原作者・深沢七郎の作品については、『言わなければよかったのに日記』(中公文庫)しか読んでいない。これは深沢七郎の『風流夢譚』が引き起こした嶋中事件(1961/2/1)より3年まえの1958年10月に刊行されたエッセイ集だが、タイトルから嶋中事件後だと錯覚していた。

「楢山節考」で想いだすのは、『文學界』(1998年2月号)に掲載された宮内勝典氏の「なぜ雪が降るのですか?」というタイトルの一文だ。

上記によると、宮内氏は深沢氏を2度訪ね、私信の往復も何度かあったという。宮内氏がニューヨークに住んでいたとき深沢氏の訃報に接し、その年の暮れ、コリーヌ・ブレ氏が宮内氏を訪ねてきた。ブレ氏はフランスの新聞の特派員をしていた頃、深沢氏にインタヴューしたことがあり、「楢山節考」について質問した。

「最後のところで、なぜ雪が降るのですか?」

深沢氏の答えは、「雪が降れば、なんの苦しみもなく凍死できるから」だったという。

おりんは苦しみながら餓死したのではなく、眠りこんで凍死したのである。

深沢七郎は1987年8月18日、《ラブミー農場の葡萄棚の下で、理髪店用の椅子に横たわったまま静かに亡くなった》。当時、いかにも渋沢七郎らしい最期だと報道されたのを憶えている。

以前に、ある家を取材で訪ねたとき、理髪店用の椅子が楽だという理由で、1脚だけ居間で使用しているのをみたことがあった。わたしはその椅子をすすめられて、座ったと記憶している。



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2006年05月07日

梯久美子著『散るぞ悲しき〜硫黄島総指揮官・栗林忠道』

本書を知ったのは、新潮社のPR誌「波」に掲載された丸山健二の一文による。
丸山健二が絶賛していたので、著者の梯久美子は相当の書き手なのだろうと思ったが、その割にはこころは動かなかった。
ところが2005/8/17付け朝日新聞・夕刊に掲載された「文芸の風」第4部で、編集委員・由里幸子が、梯久美子にインタビューした記事を眼にし、読みたくなった。見出しは、〔「美学」と現実  言葉に酔った時代 抗した司令官に光〕。
ちょうどそのころ念仏の鉄さんのblogの戦争を知らない世代が語る戦争のリアリティ。というエントリーに感心したわたしは、コメント欄で本書を紹介したのだった。1961年生まれの梯久美子も戦争を知らない世代に属するからである。そのときから感想を書きたいと思いつつ、内容の重たさにいままで放置していた。
本書が第37回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのをうれしく思ったのを機に、なんとか記しておきたい。読みおえたのが昨年の8月だから、もうすぐ1年になる。

わたしは、つぎの2本柱を軸にして読みすすめた。
〃林が新聞記者だったら、どんな仕事をしていたのだろうか。
◆崕々しい」栗林忠道を、どう肯定的に描いているのか。

,砲弔い討蓮∈能蕕縫┘團蹇璽阿鯑匹鵑任い燭らである。新聞記者になろうと思ったという栗林忠道は、上海東亜同文書院(当時ジャーナリストや外交官を多く輩出していた)を受験し、合格していたが、教師のすすめに従って陸軍士官学校に進んだ。とくに英語が得意で、外国回りの報道記者を志望していたという。
△砲弔い討蓮⊂綉新聞記事で、「お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です」という栗林忠道が家族にあてた手紙(遺書)を読んだ梯久美子が、
職業軍人とは男の美学を振りかざす。そう思っていたので、女々しいというか、その生活人ぶりにひかれたのです
と語っているからである。

梯久美子の文章は洗練されていて一気に読ませる筆力があるにもかかわらず、1日に数ページ読むのが限度だった。内容がとてつもなく重いからだ。
本を閉じるたびに、軍服には不似合いな穏やかな表紙の栗林忠道の顔写真にむかって、言葉にならない次元で話しかけている奇妙な自分がいた。
読みおえたときわたしの胸に迫ってきたのは、栗林忠道を貫いていたのは、ジャーナリスト魂ではなかったかという想いだった。梯久美子の筆は、軍人・栗林忠道の異色さを、さまざまな角度から検証している。
以下、印象深い箇所をあげてみる。

◆「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」

昭和3年から5年まで、36歳から2年間、軍事研究のためアメリカに留学し、国力の違いを実感していた栗林は、しばしば家族に「アメリカは、日本がもっとも戦ってはいけない国だ」と語っていたという。
(昭和6年から8年まで、駐在武官としてカナダに滞在)

《栗林が硫黄島行きを命じられたのは、指揮能力を評価されてのことだというのが定説だが、アメリカ的な合理主義が嫌われ、生きて還れぬ戦場に送られたという見方もあるのだ》(p.62)

◆改変された栗林中将の訣別電報(昭和20年3月22日の新聞に掲載)

栗林の電文では、最初に将兵たちの戦いぶりが述べられているが、改変された電文では、「皇国の必勝と安泰」が強調され、「壮烈なる総攻撃」「将兵一同と共に謹んで聖寿の万歳を奉唱しつつ」という栗林の電文にはない言葉が挿入されている。
「宛然徒手空拳を以て」という部分が、完全に削除されている。

 国の為重きつとめを果し得で 矢弾(やだま)尽き果て散るぞ悲しき

新聞に掲載された栗林の訣別電報の最後に添えられた3首の辞世の句のうち、1首目の最後「散るぞ悲しき」が、「散るぞ口惜し」と改変された。
梯久美子は「国の為」という語句にに言及していないが、栗林にとって「国の為」とは「国民の為」と同義であり、文字どおりではない。あえて強調しておきたい。

平成16年12月、梯久美子は、遺族らによる日帰りの慰霊巡拝に同行し、栗林が立てこもった司令部壕に入っている。訣別電報が書かれた場所である。
実際に地下壕の奥深く下りてみて、《栗林が選んだ戦法の過酷さが、あらためて胸に迫った》と記している。(p.155)

◆リベラリストだった栗林忠道

栗林は息子を陸軍幼年学校にいれず、陸軍士官学校の受験も勧めなかった。長男・太郎は、建築の道に進んだ。
太郎の証言では、52歳で出征した栗林のその直前の様子は、特に変わったこともなく、淡々としていたという。
「今度は骨も帰らないかもしれないよ」と告げられた妻・義井(よしゐ)も、そのときの夫の顔があまりにも穏やかだったので、それほど深刻には考えなかった。
陸軍中尉・栗林忠道が硫黄島へ向けて出発したのは、昭和19年6月8日である。家族に行き先は知らされなかった。

陸軍大学校を2番で卒業した栗林に持ち込まれた上司の娘との縁談をすべて断り、同郷の13歳下の義井と結婚した。大正12年12月8日、栗林32歳、義井19歳のとき。
硫黄島からの手紙には、いずれも妻への優しい言葉があふれている。

《なおこれから先き、世間普通の見栄とか外聞とかに余り屈託せず、自分独自の立場で信念をもってやって行くことが肝心です。 (昭和19年9月4日 妻・義井あて)》(p.233)

《栗林家に女中がいたのは東京の留守近衛第二師団長時代だが、ある日の夕食どきに栗林の自宅を訪ねた軍属の貞岡信喜は、女中も一家と同じ食卓についているのを見て驚いたという。当時ではまずあり得ない光景だった》(p.106)

◆"バンザイ突撃"を栗林は厳しく禁じた

硫黄島を奪取すれば、米軍は日本中のあらゆる都市に大規模な空襲を行うことができる。
栗林が着任したとき(昭和19年6月8日)、島に住んでいた1000人ほどの住民を、栗林は内地へ送還する。7月3日から始まり、14日までに完了。
硫黄島に慰安所が設けられなかったのは、栗林が難色を示したという説がある。

栗林が作成し全軍に配布した6項目の「敢闘の誓(ちかい)」は2万余の将兵に深く浸透し、その戦い方は米兵たちを震撼させた。
栗林が選んだ方法はゲリラ戦だった。地下に潜んで敵を待ち、奇襲攻撃を仕掛ける。
しかし地下陣地の構築は、困難をきわめ、昭和20年2月19日に米軍の侵攻が始まったとき、地下陣地の完成度は約7割だったという。

硫黄島が陥落すれば、日本の都市が大規模な空襲に見舞われることを警告する内容の手紙を、栗林は妻に書いている。

◆握りつぶされた意見具申書?

昭和19年8月に大本営陸海軍部作戦部長の真田・中沢両少将が視察にやってきた際、栗林が早期終結を具申した書状を大本営に届けるよう依頼した、という逸話がある。信憑性は高いらしいが、真偽のほどはわからない。

昭和20年2月6日の時点で、大本営は「結局は敵手に委ねるもやむなし」と、戦う前に硫黄島の放棄を決定している。

◆栗林が発した最後の戦訓電報(昭和20年3月7日)

大本営宛に書かれるべき戦訓電報が蓮沼蕃侍従武官長(栗林の陸軍大学時代の兵学教官で、同じ騎兵科出身)に宛てて書かれ、大本営の方針に対する率直な批判を行っている。

《「取扱注意」―――細かな文字がびっしりと並ぶこの電報の冒頭には、筆文字で大きくそう記されている。大本営の手によるものである。栗林の戦訓が、この後の日本軍の戦いに役立てられることはなかった》(p.208)

◆勇猛果敢な指揮官・栗林がみせた"弱さ"

生還者の中で栗林をごく近くで見ていた龍前新也軍曹は、昭和20年3月17日の夜半、司令部壕脱出時の栗林の姿を「田舎の老爺が子供らに連れられて行く状態であった」と証言している。この夜、出撃拠点である来代工兵隊壕への転進だけが行われた。

梯久美子は栗林の気力をくじいたものが何だったかについて、つぎのように考察する。
・部下将兵に凄惨な戦いを強いなければならなかったこと。
・東京が前例のない無差別戦略爆撃を受けた事実を知ったこと。留守宅の家族の全員無事を栗林が知る術はなかった。

栗林は留守宅へ便りを出すことと送金することを奨励していた。
多くの遺族が戦地からの便りを形代(かたしろ)として大切に保管している。兵士たちもまた、家族からの手紙を心待ちにしていた。
栗林も兵士たちと同様に、妻子を守るために過酷な戦いができたのである。しかし一時的に憔悴した栗林であっても、最後の総攻撃に挑むエネルギーが減ずることはなかった。

◆最後の総攻撃(昭和20年3月26日)

指揮官は陣の後方で切腹するという当時の常識を破り、栗林は陸海軍約400名の先頭に立ち、自らが突撃。

《約3時間におよぶ激烈な近接戦闘の末、米軍に与えた損害は死傷者約170名。生き残った日本兵は元山、千島飛行場に突入し、そこでほとんどが戦死を遂げた》(p.230)

《戦闘の後、敵将の敢闘ぶりに敬意を表した米軍が遺体を捜索したが、階級章を外していたため発見できなかったという》(p.149)

◆『硫貴島の星条旗』の著者、ジェイムズ・ブラッドリー

平成16年秋、梯久美子はニューヨーク州ライにブラッドリーを訪ねた。

わたしが本書のなかで最も戦慄したのは、つぎのくだりである。これが戦争なのだと、背筋が寒くなった。

《昭和20年8月6日午前5時55分。すでに米軍の手に落ちて久しい硫黄島の上空を、北マリアナ諸島のテニアン島から日本全土に向かう一機のB―29爆撃機が通った。
「パイロットは、ただ通り過ぎるのではなく、島の上空を何度か旋回したそうだ。そこで命を落とした7000人近いアメリカ兵に敬意を表してね」
 そうブラッドリーは教えてくれた。
 爆撃機の名はエラノ・ゲイ。目的地は広島であった》(p.75)

◆謝辞

本書の巻末にある謝辞の末尾に、わたしは胸を打たれた。

《最後に、私たち次世代のために、言葉に尽くせぬ辛苦を耐え、ふるさとを遠く離れて亡くなったすべての戦没者の方たちに、あらためて尊敬と感謝を捧げたい》(p.241)

  *
  
クリント・イーストウッド監督が硫黄島の戦いを2部作で描いた映画が、日本で公開されるという。
アメリカの視点でみた「父親たちの星条旗」は10月に、日本の視点でみた「硫黄島からの手紙」は12月。
栗林忠道を演ずるのは渡辺謙である。
写真でみる限り、渡辺謙の眼は栗林忠道より強すぎる。戦場での栗林忠道は、どんな眼をしていたのであろうか。
話が飛躍するが、難易度の高い手術をする脳神経外科医や心臓外科医が、意外とやさしい眼をしていて、リラックスしているようにみえる。わたしには、栗林忠道も同列だという気がするのだが。
わたしがイメージしている栗林忠道像を、渡辺謙を通して検証してみたい。

  *
  
余談だが、石牟礼道子は、大宅壮一ノンフィクション賞第1回(1970年)『苦界浄土』での受賞を辞退している。自分なりにその理由を考えてきた。

坂本堤弁護士の母さちよさんが、1995年に第43回菊地寛賞を受賞した江川紹子さんについて、「あのひとは、わたしが一番つらいときに受賞した」と叫ぶのをTVで観たとき、軽い衝撃があった。それまで勇ましかったさちよさんが、息子一家の遺体が発見された直後に気落ちした姿は傷ましかったのだが、それにプラスされたという感じだった。これはわたしにとって、ひとつの盲点だった。

〔参照〕

石井顕勇「硫黄島探訪」

硫黄島の戦い―Wikipedia

硫黄島協会

メールマガジン「週間新藤」第54号(2005.04.25発行)
クリント・イーストウッド監督が映画化〜 祖父 栗林大将と硫黄島戦


同第96号(2006.3.20発行)
映画 硫黄島からの手紙〜祖父 栗林大将のこと


クリント・イーストウッド監督による前例のない2部作
『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』製作報告記者会見!!(2006/04/28)










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2005年10月27日

菊地信義が装丁した『仮面の家』との奇妙な出逢い

昨日アップしたエントリーのつづきとして、菊地信義の"装丁力"を実感した体験を記しておきたい。

1993年のある日、都内に住んでいたわたしは、家から徒歩10分の地点に建つ西武百貨店内にある書籍売り場・リブロの横を通りがかった。池袋店ほど大規模ではないので、リブロの売り場面積は小さい。時間がなかったが、通路側にある新刊コーナーを横目にして、本好きなわたしとしては無視するわけにはいかず、立ち止まって新刊書を眺めた。そのときに眼に飛びこんできたのが、『仮面の家』だった。
急いでいたので、手にとることもなく通りすぎたのだが、その本がわたしを呼ぶのである。わたしはあともどりし、その本の中身もみずに購入した。それほど時間がなかった。
知らない本を中身もみずに買うなんて、ふつうは考えられない。

衝撃的な内容だった。
1992年6月、高校教師夫婦が家庭内暴力をくり返す23歳の息子を刺殺した事件に迫ったルポルタージュである。
本の帯にある〈健全とみられる家族に潜む異常性〉という大きな文字が、突きささる。
〈装丁=菊地信義〉とあるのをみて、納得した。
著者の横川和夫氏の筆力に感心した。新聞記者らしい文章だが、好きな文体だ。

いまでも不思議なのだが、世間の耳目をあつめたこの事件について、わたしはまったく無知だった。隠遁生活をしていたわけではないのに、いったいなにをしていたのだろう。

昨日のエントリーを書いていて、なぜわたしが『仮面の家』の表紙にそこまで惹かれたかについて、考えさせられた。菊地信義が授業で訴えていた装丁の本質に、わたしの奇妙な体験がぴったりはまっていたことに、あらためて驚かされた。

『仮面の家』の表紙について、気づいた点をあげる。

”住罎じつにシンプルで文字のみ。画がない。
∋羲舛忘蚤腓瞭耽Гある。ざら紙のような感覚が、粗末な家というイメージを喚起する。
C秧Г琉貎Г里濟藩僉この茶色が視覚的に利いている。
 黒だと強すぎる。"潜む"というイメージが、この茶色にこめられているような気がする。
ぁ匆礁未硫函咾箸いκ源が白ぬきで、楕円形に囲まれているので、存在をアピールする。
ド宿住罎両緝半分弱に文字があり、帯をはずすと、下部に不自然な空白があるので、アンバランス。
 (そのせいか、わたしは読むまえに帯を捨てるのだが、この本については帯を捨てられない)
ξ表紙は、上部に小さくコードと定価が入り、あとは空白。

菊地信義は「課外授業」のなかで、3分限定とした。わたしは一瞬のうちに『仮面の家』の表紙に惹かれたのだから、われながら驚いてしまう。ちなみにこの速度は、ひとめ惚れの速度と同じである。

当時、周囲の人間たちに『仮面の家』を読むよう、やたらとすすめたおぼえがある。
で、この話には後日談がある。

『仮面の家』と出逢った翌年の4月、わたしは都内から事件の舞台となったU市に転居したのである。まったく予測していなかった。
娘はU市の中学校で、転入生として入学式を迎えた。
そこで体験したこと。

〔爾汎韻乎羈悗諒欷郤圓里覆で、とても親しくなった女性がいて、彼女の夫が消防署に務めていた。
 『仮面の家』の父親が息子を刺殺したあと警察に通報したとき、現場にかけつけた救急隊員とは同僚。
 そのときのなまなましい証言を聴かされた。
¬爾汎韻乎羈惺擦諒欷郤圓良廚裁判官だったので、『仮面の家』の事件の裁判官とは同僚。
 『仮面の家』の父親の誠実な人柄について聴いた話を、聴かされた。
L爾涼1のときの担任の先生(オリンピックの短距離走の選手)が家庭訪問にきた。
 わたしが『仮面の家』に触れると、
 「父親も刺殺された息子もよく知っているので、ヘンな書きかたをしているといやなので、読まなかった」
 と複雑な顔でいわれた。
ぬ爾涼羈惺擦法∋瓢Δ気譴紳子が通っていた中学校で、彼を教えた先生がいた。

土地には記憶が染みついているというけれど、その一端を感じさせられたのである。
なお、わたしが『仮面の家』をすすめた知人(都内在住)が、当時、地域の中学校で著者・横川和夫氏の講演を聴いたという。
横川氏には4人の子どもがあり、4人ともドロップアウトしたそうである。
『仮面の家』の刊行時、1937年生まれの横川氏は56歳。自己の体験が、この本に不思議な切迫感と牽引力をもたらしたのであろうか。




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2005年08月09日

伝記を書く作業にともなうもの

8/7放映の「週間ブックレビュー」(BS2)を観た。松岡正剛の顔をはじめて拝見。独特の落ちつきがあり、とてもいい声で話す。髭はないほうがいいと思う。
わたしにとって松岡正剛といえば、ネット上の「千夜千冊」であり、かなりのページをプリントアウトさせていただいた。これは本になるという。たしかに紙に活字として定着させてほしい内容だ。

本番組で松岡正剛が書評したのは、植村鞆音『直木三十五伝』(文藝春秋)で、直木の甥にあたる著者が、45年にわたる調査と新たな視点から、直木の43年間の人生を描いた作品。
直木三十五という人物については名前しか知らないが、奇抜な人間だったらしい。本人の作品はあまり読まれず、直木賞がひとり歩きしているのは奇妙だ。
直木賞・芥川賞→菊池寛→池島信平とわたしは連想するが、菊池寛や池島信平が好きだというわけではない。編集者としては、坂本一亀のほうが好もしい。

『伝説の編集者 坂本一亀とその時代』(田邊園子・作品社・2003年6月)は衝撃的な内容で、一気に読了した。田邊氏の文体が男性の筆のようで、読みながら幾度も表紙をみて、女性であることをたしかめた。こんな文章を書ける田邊氏は、すてきだと思う。脳に性差がないということの、ひとつの証左といえるのだろうか?

以前に読んだ塩澤実信『雑誌記者池島信平』(文藝春秋・昭和59年11月)の巻末に収められている、司馬遼太郎の「信平さん記」より引用。

伝記は文学の諸分野でもとくに高い精神と精密な知的作業を必要とする。しかし実際には反故の中にうずもれて――私自身にも似たような体験があってそうおもうのだが――地虫に化(な)ってしまったような陰欝な感情に襲われることがしばしばある。ひとにも会いたくなくなってしまい、さらには、牢獄にいるような感じがしばしばする

上記の植村鞆音氏も「地虫」になったのであろうか。それにしても、45年は永い。


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2005年08月03日

植草一秀は冤罪?

新潮社のPR誌「波」8月号の連載・森達也/東京番外地〈第二弾「眠らない街」は時代の波にたゆたう 新宿歌舞伎町一丁目〉をおもしろく読む。

森達也には注目してきた。以前、彼が出演したTV画面で、彼の顔がアップになった瞬間、時間が30年余り遡ったような錯覚をおぼえた。時代遅れといっているのではない。ひとびとが自分の身辺の安泰だけを望まなかった時代感覚が、森の背後霊のようにみえたのだ。

わたしにとって新宿という街は、改札口を通った瞬間からどっと疲れを感じるので、あまり近づきたくない場所だ。歌舞伎町についても足を踏み入れたことがない。しかし森達也について歩くとじつにおもしろい。頭に映像が浮かぶというより、映画を観ているように文章が進んでゆく巧みさに感心した。しかも画面で動く主人公が書き手の森であるという、自己の客体化がなされている。重心が低く、惹きつける文章だ。

わたしは女性なので、男性の「性の煩悩」はわからない。が、それをどこかしら哲学的に模索している森達也の姿勢に、共感できるものを感じる。対象がなんであれ、いつもそれが彼の背骨になっていると思う。

従軍慰安婦について、森達也はこう記している。

そもそも慰安婦が、本当に必要不可欠な存在だったのかとの論点はない。アジアを解放するために聖戦に赴いたはずの兵士たちならば、一年や二年、禁欲するくらいのストイシズムをなぜ保てなかったかとの視点に、僕はこれまでお目にかかったことがない

元ストリッパーの愛ちゃんにばったり会った森は、植草さんが出るので彼女が行くという「ロフトプラスワン」(別称トークライブ酒場)に、取材に同行している担当編集者の土屋とともに行くことにする。
植草さんとは、エスカレーターの下から女子高生のスカートのなかを手鏡で覗こうとして逮捕された、元早稲田大学大学院教授の植草一秀氏のことだ。

わたしは以前、TBSラジオの「ストリーム」に植草氏が登場して、冤罪を訴えるのを聴いたことがある。専門家として政策批判をしていたので、気をつけろと周囲からいわれていたという。短い時間だったが、貴重な証言だったと思う。メディアは当初から植草氏を犯罪者扱いしていたから。
森によると、逮捕された植草は、「認めればマスコミには内緒にしてやるし罰金刑だけで終わる」と当初の取り調べで警察官に誘導され、その後、否認に転じた植草が、決定的な証拠としてエスカレーターに備え付けの監視カメラの映像チェックを要求したが、なぜか警察の対応は遅く、結局は消されてしまっているという。

こういう警察の実体に驚かなくなっているわれわれの感性は、鈍磨しているといえる。

※念仏の鉄さんのブログ「見物人の論理」に、森達也を読みながら。という一文があります。すばらしい視点・感性のもち主です。ほかのページも拝読しましたが、社会・人間をみる視点のたしかさと柔軟さに感心しました。等身大の人間をみることを志向されているように思います。


[追記 2005/9/9]
冤罪だという認識が広まっているとのこと。
「AAA植草一秀氏を応援するブログAAA」

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