小品

2006年04月14日

お国のため  【エッセイ】

 20代のころ入社した出版社で、新入社員の研修が東京の四谷にある本社で行われた。明るくきれいな自社ビルだった。わたしは大阪支社から参加したのだが、全国の支社から新入社員が集合した。部屋のうしろに本社の社員が数名、授業参観をしている父母のように立っているのが、異様だった。

 2日めに社長の話があった。いかにもワンマン社長という面相で、わたしの苦手なタイプだ。
「国のために本をつくっている」というフレーズが、2回社長の口から飛びだした。そして3回めにそれを耳にしたとき、わたしの体内でなにかが臨界点を超えた。法律図書を刊行している出版社の社長だとしても、聞き捨てならぬ発言だ。と同時に、気づいたら挙手していた。
  質問の時間でもないのに挙手しているわたしを訝る社長に促されて、わたしは立ちあがり、怒りを顕わにした声で発言した。
「国のため、国のためとおっしゃいますが、国民のために本はつくらないのですか?」
 想像を絶する生意気な新入社員の発言に、ワンマン社長のからだがバランスをうしなって左右に揺れた。しかし2秒後には態勢を立て直し、生理的に拒絶したくなるような威圧的な口調でいった。
「国のために本をつくるということが、国民のために本をつくるということだ。わかったか!」
 ぜんぜんちがうじゃないか、と内心思いながらも、「はい」と、にらみつける社長の顔をみながら、あえて小さな声で応えた。一瞬にせよ、社長の態勢が崩れたことが痛快だったからだ。まだ許せる余地がある。

 わたしが最も興味をもったのは、編集部に案内されて、編集長から雑誌ができあがる工程について説明を受けたときだ。30代の編集長が美男子で華があったので、女性誌のほうがふさわしいのではないかと思った。しかし女性誌の編集長は、案外ドブネズミ色のさえない中年男だったりするのかもしれない。編集長がカメラマンを紹介したが、なかなかかわいい顔をした好青年だった。

 わたしは大阪支社で面接を受けるまえに、東京の本社から電話があり、「交通費をだすので、東京で面接を受けないか」といわれていた。当時、同い年で弁護士志望の男性と結婚する約束を交わしていたので、とても大阪を離れる心境にはなれず、即座に断ったのだった。もしそれを了承していたら、わたしは東京の編集部に配属されていたはずだから、わたしの人生は大きく変わっていただろう。それから10年後に東京に転居したのだが、結婚した相手も当初の男性とはちがっていた。
 時計を元に戻せるとしたら、東京の編集部に入り、そこから展開した人生を眺めてみたい。

 最後の日は、新宿にある有名店での会食。やはり本社の社員が数名混じっている。
 苦手な自己紹介をさせられ、わたしは名前のみを述べた。すると、本社の社員である男性から鋭い声でつっこみが入った。
「それだけですか!」
 わたしは当然のように、その発言を無視した。自己をPRするのはいやだし、名前だけ述べた社員はほかにもいたのだから。
 座がなごんだころ、わたしは社長に名指しで歌をうたうように命じられた。全員に指示したのならうたうが、自分ひとりなので納得がいかない。これもまた、わたしは無視したのである。その暗黙の意思表示にしらけた座の空気を読んだ女性が、すかさず立ちあがった。
「九州支社の○○です。沖縄の民謡をうたいます」
 舞いながらうたう姿は見事だった。
 沖縄のひとをはじめてみたが、血の温度が高いと感じた。
 わたしがうたうより、よほど彼女のほうが社長を満足させたはずだ。やれやれである。

 翌日、大阪支社の上司であるNさんに、研修会で社長に質問した件について報告すると、彼はまっすぐな眼でさりげなくいった。
「大切なことだよ」
 Nさんはわたしより6歳上で、本社から大阪に転勤してきばかりだったので、社長については熟知していた。のちにNさんの親友である社員から知らされたのだが、Nさんは社長秘書と婚約していたが、破談して大阪にやってきたという。さらに驚いたのは、あのカメラマンがその彼女に求愛したが、Nさんのほうを選んだらしい。
 そういえば、研修のときに知った女性社員がNさんを慕っているのに無視されている、という話を聞いた。その女性の友人は、Nさんが冷たいといって立腹していた。Nさんを慕う女性は、うつむいて苦しげにしていた。酷なようだが、わたしの眼からみても、彼女とNさんは似合わなかった。けれども恋する彼女の想いは、わたしに切なく伝わってきた。言葉をかけることはできなかったけれど。
 Nさんはたぶんモテるのだろう。容姿に恵まれていたし、父親が大学の先生をしているという家庭環境のせいか、どことなく育ちのよさが感じられた。大阪支社より人数の多い本社は、複雑な人間模様が展開されているのだろう。

 その年の夏、伊豆にある会社の保養所に、全社員が集まった。舞台を備えたお座敷に数名の芸者があらわれたとき、座が騒いだ。いかにも社長好みの設定だと、わたしは苦笑いした。
 社長の命令で、東西に分かれて順番に歌をうたわされた。全員なのでわたしは拒否できず、うたった。伴奏なしなので、かなり苦痛だ。全員がうたい終えたとき、驚いたことに社長は10点満点でつけた点数を社員名とともに発表し、東西の合計点を示しながら、どちらが勝ったかまで伝えたのである。救いがたい人間性である。

 翌日は海で遊ぶ。浜辺に座っていると、編集長が近づいてきた。編集部からわたしはある仕事を依頼され、それがわりに評価されたので、その件について話しかけてきたのだ。わたしは興味のある人物にそっけなくする性癖があり、そのときも冷たい眼で接したので、彼はすぐに離れていった。後日Nさんから聞いた話では、編集長がにじり寄ってきて、わたしのことをいろいろ訊かれたそうである。全社員が一堂に会するのは、意味があるのかもしれない。

 その夜、宴席の舞台で社員が自由に歌をうたっていた。社長がまた、わたしにうたえという。無視していたら、支社長が飛んできて、拝むようにいう。
「○○チャン、お願い、うたって」
 それでもわたしのからだは動かなかったのである。どうしても動かないのだ。しばらくしてふと舞台をみると、Nさんがうたっているではないか。距離があるのと、周囲がうるさいので、歌はよく聴きとれなかった。
 当時のわたしが若い女性だったから許されたのだが、もし男性だったとしても、わたしの態度は変わらないだろう。もっとも、男性なら社長に歌をうたえと命じられることもないのだが。
 そんな性癖は、いまも変わらない。そのためにいやな想いや損をしたが、それでいいと思っている。

 わたしはその会社をわずか1年半で退社した。
 短かったけれど、さまざまな体験をした濃密な日々だった。
 社を去る日、支社長が社長室に電話をし、わたしに挨拶せよという。気が重い。
 社長はいつもよりしゃがれた声でいった。
「残念だな……。また遊びにきなさい」
 最後まで好きになれない社長だったが、いつになく元気のない声を聞いたとき、すこしだけ申し訳ないという気分になった。
 受話器を置いて、「また遊びにきなさい、といわれました」と報告した。
「社長もいいとこあるよなあ!」
 支社長は明るく無邪気な顔で、そういった。






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2006年04月07日

最終電車  【エッセイ】

 過日、おいしいお酒をのむ機会に恵まれ、時を忘れて語りあった。最終電車に間にあうかどうかという時間帯だったにもかかわらず、乗った電車がなぜか反対方向だった。いつもぼうっとしているわたしには、たまにこういうことがある。途中でそのことに気づいたが、最終電車だったため超満員だった。
「降ります、降ります!」
 わたしは無様な叫び声をあげた。
 周囲にいたドア付近の人間は、20代〜30代の男ばかりで、全員が黒の上着を着用している。すぐ横にいた男が、露骨にいやな顔をした。ほかの男たちは動く気配がなく、黙りこんでいる。
 同じような状況になったのは、もう15年ほどまえだっただろうか。そのときにはわたしの言葉にひとびとが反応し、降ろしてあげようという動きがみられた。今回は、ひとが黒い岩のように立ちはだかっている。
 もしここで人身事故が発生したら、舌打ちする人間がいても不思議はないという空気が、車内に充満している。

 もしかしたら降りられないかもしれない。帰るつもりの自宅からどんどん離れてゆく。どこまで連れていかれるのだろう……と、車外の闇に眼をやる。
 ようやく駅に到着した。ドアが開いたとき、わたしは黙していたにもかかわらず鈍いひとの動きがあり、さきほどのわたしの声は彼らに届いていたのだと知らされた。ホームに降り立つわたしの顔を、ホームに押しだされた男たちのひとりが確かめるようにみたが、悪意は感じられなかった。

 ホームで反対方向の電車を待つ。これも最終電車だ。自宅の最寄り駅の数駅手前だが、間にあっただけマシだ。すべてタクシーを利用すると、1万円ほどかかるだろうから。
 かなり長時間待ったのちに乗りこんだ電車のなかで、ふと東電OLのことを想起した。
 わたしには東電OLだった泰子さんのことがまったく理解できないけれど、ずいぶん遠回りしたなあという気分の車内で、彼女の"居場所のなさ"が身にしみた。というのも、わたしが泰子さんに関して読んだもののなかで最もなまなましかったのは、「文藝春秋」(2001/6)に掲載された椎名玲氏(フリーライター)の一文だったからだ。
 椎名氏は平成8年の10月から12月まで、ほぼ毎日のように泰子さんと同じ電車(京王井の頭線、渋谷発零時34分の吉祥寺行き最終電車)に乗りあわせ、彼女と同じ西永福駅で降り、同じ街で暮らしていた。泰子さんは平成9年の3月に殺されているので、生身の泰子さんを知る椎名氏の証言は、真に迫るものがある。

 藤原新也(作家・写真家)が東電OLについて言及したものを読んだことはないが、「COSMOPOLITAN」(2002/12)に掲載された夜の道玄坂地蔵のモノクロ写真は、妖しく、神秘的な生命力が感じられる。
 この道玄坂地蔵のまえで泰子さんは客を引いていたという。肉体的にも精神的にも娼婦にむかない彼女が、1日4人というノルマを自らに課し、毎日最終電車で帰宅していたというのは、なんとも傷ましい。そうして稼いだお金は、すべて貯蓄していたらしい。敬愛する父親を早くに亡くしたため、財力に対する執着があったのか。あるいはそれが泰子さんの金銭哲学だったのだろうか。   

 電車を降りると、「すべての路線において電車は終了しました」というアナウンスが流れた。なにやら世界に見放されたような自分をもてあます。わたしがほんとうに帰りたい場所は奈辺にあるのか。
 タクシー乗り場は閑散としていた。乗りこんだ瞬間、車内に澄んだ空気を感じ、安堵する。20代の運転手は清らかで端正な顔だちをしている。応対に卒がなく、驚くほど運転が巧い。肉体的に消耗していたので乗り物酔いするにちがいないと思っていたのだが、じつに快適だった。
 目的地に着くと、わたしは料金を上回る新券の2千円札を数枚さし示しながらいった。
「運転がお上手ですね。これだけお渡ししますから」
 彼は軽く驚きながらも、凛とした態度は崩さない。わたしがいままで乗りあわせた運転手のなかで最高に質がよい。言葉づかいを含め、一流のビジネスマンとしても通用しそうな雰囲気を醸しだしている。背広が似合いそうだ。なにか理由があって、一時的にタクシーの運転手をしているのだろうか。
 そんな彼への賞賛とともに、さきほどの満員電車でのマイナスエネルギーを払拭したかった。だが、彼にわたしの真意は伝わらなかっただろう。それでいいのだ。紙幣なのに市場に流通していなくて、手垢のついていない新券の2千円札は、彼に似つかわしい。中年になっても同じ職業に就いていたとして、彼が変質していないことを願うのみだ。

 わたしはタクシーのなかでお釣りをもらうのに抵抗があるので、「お釣りはけっこうです」というのはよくある。以前はあたりまえという反応だった運転手が、最近はそのことに驚くケースが多い。不況のせいで、そんな客が減っているのだろうか。しかしその夜のように、料金をかなり上回る額を払ったのは、はじめてだった。
 最近の中年のタクシー運転手は、当然知っているべき建物を知らないし、知らないということに対する恥じらいもない。そんな人間と密室に閉じこめられるのは、かなり苦痛だ。しかし彼らの劣悪な職場環境を考慮すると、立腹できない。
 事はタクシー運転手に限られないから、厄介なのだ。日本人全体の病いとして、プロ意識が失われているという時代性がある。それゆえ、たまにきっちりした仕事ぶりを眼にしたとき、感動してしまう。

 そういえば、一昨年の秋、わたしは親切な若者に遭遇した。。
 車内はほどよい混みかげんだった。わたしはドア付近に立ち、いつものように車外の景色をぼうっと眺めていた。右肩を親しげにたたかれたので、どきりとした。知りあいが乗っていたのかと思ったのだ。振りむくと、おしゃれな毛糸の帽子をかぶった演劇青年のような背の高い若者が、さわやかな笑顔を浮かべていった。
「あちらが空いてますよ」
 2メートルほど先にたしかに空席はあったが、その付近に数人のひとが立っている。その距離までわたしがのこのこ歩いてゆくのは不自然だ。
「すぐに降りますから」
 わたしがそう応えると、彼は笑顔で受けた。
 気が重くなる所用の帰りだったので、彼の親切にわたしの気もちは和んだのだが、それが彼に伝わるはずがない。不意打ちを食らった場合、ひとはぶっきらぼうになるのかもしれないが、想いを伝達するのは意外と困難だ。また、ひとの表情から内面を読みとるのも、限界があるように思う。内面とは裏腹な表情もあるのだから。


〔参照〕
東電OL殺人事件を契機に書き継がれた連作詩篇
空室(1991──2000)』(柴田千晶/ミッドナイト・プレス)

上記詩篇は、東電OLを詩的に昇華させながらリアリティーがある。
柴田千晶氏の感性がわたしは好きだ。氏が詩人として正当な評価をされる日を待ち望んでいる。

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2006年02月07日

ハムスターの死  【エッセイ】

 娘が中学1年生のときだから、いまから11年まえに遡る。同じクラスの友だちが飼っているジャンガリアンハムスターが子を生んだので、1匹譲ってもらうといいだした。わたしの家族は息子を含めて4人なのだが、わたし以外は動物好きで、以前にイヌを飼うという話がもちあがったとき、わたしは真顔で宣言した。
「イヌを飼うのなら、わたしは家をでてゆきます!」
 自分が動物と生活を共にするということを、わたしの生理的感覚はどうしても許容できない。ちなみに花を家のなかにに置くのも好まない。花は呼吸していて刻々と変わってゆく、そういうなまなましい存在が身の周りにあるのは、どうにも息苦しいのである。もちろんそれらを客観的に眺めるぶんには問題はない。生活空間に存在されるのが困るのだ。

 ハムスターの場合はケージに入っているし、当時住んでいた家が、和室以外の部屋がすべてフローリングであったという点でわたしは妥協した。絨毯敷きの部屋で動物を飼うのは、潔癖性であるわたしの神経に障るのである。幸いにも娘の部屋はベランダに面していて陽あたりがよく、8畳近い大きさだったので、ハムスターにとっても好条件に思われた。わたしは人間のつごうで動物が不幸になるのが許せなくて、動物園で動物をみるたびに、はたして彼らは幸福なのだろうかと、子どもごころに考えたものだ。
 ひとつだけ娘に約束させたのは、自分で世話をすること。娘の性格からして、持続力に欠けることが懸念されたからである。
 
 数日後の日曜日、娘は近くの百貨店Iでハムスターを飼うのに必要な品を買いそろえ、意気揚々としていた。わたしはハムスターに腫瘍ができやすいということを知っていたので、そうならないことを願いつつ、まずは書店で『ハムスターの飼い方』という本を買い求め、最低限の知識を身につけた。
 いよいよジャンガリアンハムスターがやってきた。家族全員が興奮し、わたしもかわいいなと思った。いそいそと世話をしていた娘だったが、1年近くたつと、ケージ内の掃除を怠るようになり、ついにエサを買うのも怠るようなったので、わたしがエサを買ってきていた。が、掃除をするためにはハムスターに触れなければならないので、どうしてもできない。娘に幾度も掃除をするよう催促した。砂漠からやってきたハムスターは、トイレの砂を新しくすると、全身砂まみれになって気もちよさそうにした。
 飼っていたハムスターは本に書かれていた好物と必ずしも合致しなくて、ゆでたブロッコリーやほうれん草の茎の部分が好きだった。そのうちにわたしが娘の部屋のハムスターのまえを通ると、ケージにしがみついてなにかを訴えるポーズをするようになり、わたしにはそれがゆでたブロッコリーを求めているように映ったのである。

 ある朝、娘が起きるやいなや、ハムスターが脱走したと騒ぎだした。普段は我関せずの息子も娘と一緒に探しはじめ、息子の部屋の収納庫のなかにいるのを発見した。隙間から進入したのだろうか。小さなからだで、家のなかを縦断したかと思うとおかしかったし、やはりケージのなかで生きるのはいやなのかと思ったりした。6時半には家をでていた高校生の息子が8時に家にいたということは、試験中だったのだろうか。
 遅刻した娘は、中学校の先生に理由を問われ、「ハムスターが脱走したので探していました」というと、納得してもらえたというのを聞き、大笑いした。

 ある日、わたしはS百貨店でハムスターのエサを買ったとき、ワラ製の巣箱とグレーの陶器のエサ鉢が気に入り、思わず買い求めた。帰宅して、さっそく新しいものと交換した。するとハムスターは発狂したかのように巣箱の縁を走り回り、エサも食べない。それをみた娘もわたしも驚愕した。すぐに古いものと交換したのだが、「刷りこみ」とはこんなにも激しいものだったのか。自分の浅はかさに嘆息した。

 ハムスターが生まれてから2年になろうとしていたころ、午前1時ごろになると回し車で遊ぶ音が娘の部屋から聞こえてくるのが途絶えた。
 わたしは深夜のリビングにひとりでいて、なにもしないでぼうっとした時間を1時間ほどすごすということで、かろうじて自己を再生していた。そんな時間帯にその音を耳にしていたのである。低血圧のわたしが毎朝、5時半に起床し、雑事に襲われる日常だったから、早く就寝したほうが身のためなのだが、そうすると、わたしのなかのなにかが壊れるのである。この性癖はいまでも変わっていない。ただし、いまは5時起床を余儀なくされている。
 数日後、ハムスターは巣箱からでなくなった。エサに困窮したDNAのせいかと思えるほど、エサに対してガツガツしていたのに、なにも食べなくなった。わたしは以前に喜んで食べてくれたチーズケーキを買いにケーキ屋に走った。鼻先にチーズケーキを置いても、巣箱からでてこないのを娘と眺めながら、わたしは「ほら、大好きなチーズケーキだよ!」と幾度も叫んだ。すると大儀そうに頭だけだし、ケーキの表面をペロッと舐めただけで、奥にひっこんでしまった。
 わたしはハムスターの死が近いことを悟った。

 数日後の朝、目覚めた娘が悲鳴をあげた。
 ひっそりとハムスターは息絶えていた。
 ケージを開け、ハムスターを巣箱からだそうとした娘が、死後硬直のためそれが不可能になっていることを知り、泣きじゃくっている。わたしは、はじめてハムスターに触れ、巣箱からとりだすという役まわりになった。 枯れ枝のような無機質な感触が、ただただ哀しかった。
 娘に請われてわが家にきたハムスターだったが、娘は十分な愛情を注がなかった。幸せだったのだろうか。腫瘍もできず自然死したことに、わたしは深く安堵していた。
 整体の創始者である野口晴哉氏によると、死期が近づいた動物は、だれもいない場所に移動し、食を断っていのちの終わりを待つという。近親者に手をとられながら死んでゆくのは人間だけだと。
 たしかにハムスターは見事に小さな生を了えた。そのことにわたしは感動をおぼえていた。

 2週間ほどが経過したころ、わたしは野菜売り場に立ち、ブロッコリーをとろうとした手がはたと止まった。――もうハムスターはいないのだ。家族のためではなく、ハムスターの喜ぶ姿がみたくてブロッコリーを買おうとしている自分がいた。わたしは、にわかにそれを買う気力を失い、野菜売り場から離れた。
 いまでも時折ハムスターを懐かしく想いだす。エサをガツガツ食べている元気な姿を、そして見事な死に様を。
 わたしのこころの片隅に、いまもハムスターは棲みつづけているのかもしれない。
 
 
 

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2006年01月18日

踏切  【エッセイ】

 昨年末に忘年会があり、その日は家をでるときから早めに帰りたいと思っていた。ところが10時すぎにみなが一斉に帰りはじめ、わたしとひとりの女性がとり残された。彼女は「こんなにみんなが早く帰ったことはない」とさびしさと怒りをぶつけた。
 場所は彼女の家の近くにあるスナックである。
 30分ほど雑談した。
「うちに泊まってもいいのよ」と幾度か彼女はいう。あすが月曜日であるため、泊まるとかなりめんどうなことになるのだった。わたしは返答ができず、曖昧な笑みを浮かべる。
 帰ろうとして立ちあがったとたんに、彼女は足元がぐらつき、倒れそうになった。知り合いらしき女主人は近くにある踏切が心配らしく、
「あの踏切で何人ものひとが死んでいるのだから」
 というのを聞いて、わたしは慄然とした。
「家までわたしが送ってゆきますから」  
 わたしは女主人に声をかけて店をでた。
 
 すぐそこに踏切があった。
 わたしは細腕で彼女のからだを支えながら渡ろうとした。彼女の足の動きが、信じられないくらいのろい。遮断機が降りてくるのではないかという恐怖に襲われながら、ゆっくり渡りおえた。酔っぱらった彼女に危機感はない。

 安全圏に到達してから、わたしは笑いながらいった。
「あそこで死んでたら新聞に載るわよ」 
「わたしはいいけど、あなたはいやでしょう?」
 彼女がわたしの顔を覗きこんでそういうのを聞いて、どきりとした。真顔だったからだ。わたしはその問いをかわすように軽口をたたいた。
「わたしが死んでも泣いてくれるひとはいないけどね」
 人間はだれもが孤独なんです……といいたかったのだが、通じたかどうか。同時にふと考えた。
 悪いけれど、わたしは彼女と一緒に死ぬのは遠慮したい。いままでだれかと一緒に死にたいと考えたことはなかったが、だれとだったら死んでもいいのかと考えると、だれの顔も浮かばなかった。
 しかしいま、あらためて問うと、ひとりの人間の顔が浮かんできて、わたしはたじろぐ。そのひとはそんな誘いを他者に発する人間ではないし、ましてわたしがその対象になることなどありえない。だが、そんな誘いを受けたら、条件反射のように同意してしまいそうな自分がそこにいる。それは一緒に死にたいというより、それほどそのひとを肯定しているということの証しだと気づく。ベクトルは生にむかっているが、死の影が貼りついているといったほうが正確か。
 
 しばらく歩いていると駅があり、彼女はそこから帰るように促す。家まで送っていくといっても、なかなか承知しない。わたしは強引に駅の横を通りすぎる。
 突然、彼女が転んだ。あっ、と思ったが遅い。酔いのせいか、スローモーションのようにまえのめりに倒れこむ。しばらく起きあがれないので、わたしは焦った。やっと起こして、彼女の汚れた手のひらを、わたしは自分の手で払った。子どもに対してするような仕草で。潔癖性のわたしには信じられない行為だった。
 痛いところはないかと、幾度も訊ねる。
 「ない」という答えが返ってくるが、酔っぱらいの言なので信用できない。
 
 ようやく彼女のマンションに到着した。
 エレベーターに乗り、彼女の部屋のまえに立つ。時計をみながら、わたしが帰れる時間なのかどうか、しきりに気にしている。
 いやな予感がしたのだが、今度は鍵がみつからない。ふたつのバッグにはたくさんのポケットがあり、それらを酔った手で探る。わたしはひとのバッグに手をだすことができず、ただ見守っている。
 やっと鍵がみつかり、ふたりで安堵する。
 わたしはドアを開き、玄関の灯りをつける。
 彼女は玄関に入ってわたしの顔をみつめ、
「泊まってもいいのよ」となおもつぶやく。
 黙って彼女の顔をみつめていると、
「どうしてそんなにやさしいの?」
 という声には怒気が含まれていた。これしきのことで"やさしい"といえるのか。それほどひとびとは世知辛いのか。
 独身主義者のわたしが結婚をし、おまけにふたりの子を生んでいる。独身主義者にもみえない彼女が独身を通している。わたしが彼女であってもおかしくないのだ。逆の立場であれば、わたしはどんな人間になっていただろう。この場面で、どんな言葉を吐くのか。泊まってほしいと願っても、口にはださないだろうということだけは想像できる。

「ちゃんと鍵をかけてね」
 そう連発しながらドアを閉めた。カチャッという小さな金属音を耳にし、後ろ髪を引かれる想いを払拭するように人気のないエレベーターにむかう。

 翌朝、彼女から電話があった。会話については記憶にないと、あっさりしている。捻挫でもしていないかと案じたが、なんともないらしい。
「最近、酔うと転ぶので、幾度も肋骨にひびが入っている」
 と事もなげにいうのを聞いて驚愕する。
 
 呑兵衛なのだと彼女はいうが、わたしの知る呑兵衛をみていると、そうはみえない。もしかしたら呑兵衛の仲間入りをすることが、彼女の存在意義なのかもしれない。
 
 
 

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2005年12月14日

神の手  【エッセイ】

 20代の一時期住んでいたマンションは、阪急電鉄千里線のS駅から徒歩10分ほどの地点にあった。やや古びた落ちついた一戸建てが並ぶなか、すこし高台になった土地に大規模といえるマンションが建ったので、周辺の住民にとっては風紀を乱す迷惑な存在だったらしい。たしかに周囲の風景からは違和感のある建物だった。
 わたしの住む部屋の玄関まえに立つと、1970年に開催された「大阪万博」のシンボルである「太陽の塔」の正面を、なんの障害物もなく眺望することができた。その歪んだような顔に親しみと懐かしさがあった。

 わたしの高校時代に「大阪万博」は開催され、夏休みに同じ高校に通う友人Sさんに誘われて行ったのだった。Sさんもわたしもひとの多いのが苦手なので、並ばなくてもよいところばかりに入った。そのなかに「太陽の塔」があった。「太陽の塔」の内部に入ろうという人間はあまりいないらしく、深閑としていた。
 わたしの記憶では、まずエスカレーターで最上階まで昇り、階段で降りてゆくのだが、踊り場の周囲の壁に、モザイク状に幻灯のような感じのフィルムが埋めこまれていた。朱肉で捺印した印鑑のフィルムが映しだされた踊り場で、わたしはひとつひとつの印鑑の姓を頭のなかで読みあげて愉しんだ。単純だけれど、おもしろい。
 その下の踊り場のフィルムは日没で、それぞれの場所がちがうため、日没の顔に多様性がある。わたしは夢中になってそれらの差異に注目しながら、ぐるりとからだを一回転させた。つぎに平衡感覚をうしなったからだで踏みだした片足が、空を蹴った。そこはもう階段だったのだ。

 わたしは眼を閉じながらも意識ははっきりしていた。不思議なことに、どうにかしようという意思を完全に失いながら身をまかせていると、右半身を階段の数だけ打つので、自分のからだが一回転ずつしながら落ちているのだと知った。痛みがまったくなく、意識はどこまでも明晰だった。
 そろそろ終わりにしてくれないかなあ……とひとごとのように思っていると、最後にうつぶせになって両手をぱたっとついた。このときも痛みはなく、一貫して優雅な力に支えられているような感じなのだ。階段は8段くらいあったが、かすり傷ひとつなかった。
 Sさんが駆けよってきて、
「だいじょうぶ?!」
 と心配そうに声をかける図を想像し、恥ずかしさに襲われたわたしが耳にしたのは、意外にもSさんの呆れたようなひとことだった。
「猫みたい!」

 Sさんはとてもチャーミングだったので、男子生徒にもてていたが、どこか醒めているところがあった。また、Sさんと同じ中学校出身の男子生徒が自死した様子を、暗い顔でわたしに語ったときも感情を顕わにせず、いつもどおり放課後に図書館で勉強していた。性格がよくいつも笑顔なので、女子生徒からも教師からも好感をもたれていたが、淡々としていた。
 そんなSさんだったので、われわれは何事もなかったように「太陽の塔」をあとにしたのだった。

 自分が大けがをするのは自業自得だとしても、もしわたしのまえにひとがいたら、そのひとを巻きぞえにしていたと思うと、暗澹たる気分になる。
 それにしても、わたしが体感した巨きな柔らかい力はなんだったのだろう。いまでもその感触は身にまとわりついているのである。

  *

 阪急電鉄千里線のS駅は、車両とホームの間隔がひどくあいている箇所があった。当時わたしの息子は2歳だった。ふつうなら子どもを抱っこしてホームに降りるだろうが、わたしは息子の手をつないで、声もかけずに降りるというきわめて危ない方法をとった。危ないけれど、達成したあとの喜びは格別だった。
 その1歩を踏みだすとき、わたしの手に自然と力が入るのだろう。声はかけないが、わたしは子どもに最大限の注意を払っていたのだから。それを幸いにも子どもが感受してくれたから成功したといえる。逆にいうと、感受できる子どもであるという確信に似たものが、わたしの無意識下にあったのかもしれない。

 2回めに挑戦しようとしたとき、同じ車両にいたひとたちの「ああーっ……」という叫び声を聴き、わたしの集中力は一瞬そがれたが、なんとか達成できた。しかし他者のいかにも危ないという声を聴いたことでわたしは恐怖心をあおられ、以後は危なくない車両に乗ることにした。
 危ない橋を渡るとき、"危ないけれども渡りきれる"という予感がないと失敗する、ということだけはわかっていたのかもしれない。


〔追記 2006/1/28〕
「大阪万博 いま熱い」(2005/5/4付け朝日新聞・朝刊)より引用。

《大阪府吹田市の万博記念公園に残る太陽の塔の人気も高い。昨年11月から事前に申し込めば中に入ることができるようになった。3月までに2千人が見学している》

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2005年09月30日

ぶらんこ原体験   【エッセイ】

 どういうわけか子どものころ、ぶらんこが好きだった。ぼうっとして揺られているのが性にあうのだろうか。知らない街の公園の片隅にぶらんこをみつけると、胸が躍った。
 おとなになってからも、読書や音楽を聴きながらではなく、なにもしないでぼうっとする時間をもたないと自己を再生できない。そんな時間は、ぶらんこに乗っているときの心象風景と同じだ。そのせいで、ただでさえ短い睡眠時間がさらに短くなる、という生活を永年つづけている。

 小学1年生のころの情景である。
 放課後、わたしは校庭の片隅にあるぶらんこの横木に座り、ゆらゆらと揺れていた。いつものように頭を空っぽにして愉しんでいた。鎖を両手で握りしめながら、ふいにある誘惑にとらわれた。鎖の一番下に大きめの輪があり、そこを接点として横木と結びついている。その輪の部分を両手でもったら、わたしのからだはどうなるのだろう……。即座にぶらんこから転落し、尻餅をつくであろうということは、子どもごころにも想像できた。しかしそれを実行したいという誘惑に、わたしは勝てなかった。 思いついてから10秒後に、ごく自然にわたしは実行に移した。
 一瞬、眼を閉じていた。気がつくと、わたしは想像どおり地面に尻餅をついていた。そのときわたしが眼にしたのは、振動により無人のまま往復運動をはじめた横木が自分に向かってきているという現実だった。無防備のままわたしは横木で右のこめかみを軽く打った。小さな痛みが走った。

 そうなんだ。大きな輪を両手でもつと、こめかみを打つのだ。不様な恰好とひきかえに、なにか豊かなものを手に入れたような気分になっていた。
 よくよく考えてみたら、おとなになっても同じことを性懲りもなく繰りかえしているではないか。死ぬまでつづけるのだろうか。不様さのなかでなにかを掴むという愚行を。それをわたしは、「転んでもタダでは起きない」といいたくない。「マイナスをプラスに転化させる」という芸術的行為でもない。不可抗力な衝動なのである。なんの役にもたたない豊かさが、そこにはある。

 このぶらんこのエピソードについてあるひとに語ったあと、わたしはいった。
「それがわたしの原型です」
 しばらくして彼は、不愉快そうな顔でいった。
「さっき、黙っててくれないかなと思ったんです。自己の原型という、そんな大切な話をして、どうしてぼくに考えさせる時間を与えてくれないんです!」
 それからさっと顔を元にもどして、わたしの眼を見据えながら彼は斬りこんできた。
「サーヴィス精神じゃないんですかぁ……」

 わたしは言葉を失っていた。けれども不快感はなかった。むしろこの地点まで他者であるわたしを理解しようとする彼に、感動すらおぼえていた。沈黙をたもっていてもわたしの顔を彼に晒している以上、透視力のある彼の眼によって、わたしのリアクションはほぼ正確にキャッチされているという安心感がともなっていた。
 その話のまえに彼は「対話ですから」と念押しするようにいい、〈対話〉の意味するところを強調していた。対話とはどういうものなのか、わたしは彼によって教えられたような気がする。
 後日、彼は京都の街をぶらついていたとき、たまたま「味戸ケイコ展」をみつけて入り、ぶらんこに乗った少女の画をみた。そのときわたしのぶらんこ原体験を想いだし、奇妙な感覚に襲われた、と手紙に書いてきた。

 では、ネット世界で〈対話〉は成立するのだろうか。
 それは現実世界の〈対話〉とどうちがうのか。
 ネット世界では黙ったまま存在することはできない。言葉を発することが存在を意味する。ネット上で無言のうちになにかを掴むためには、半端ではない想像力が求められるのだろう。現実世界の住人ではないから清潔な関係がもてるかというと、意外となまなましい。人間の本質が露呈するのである。

 いま、わたしが〈対話〉が成立していると認識している数少ないひとたちとの関係を、これからも育てていけたらうれしい。もしかしたら幻想ではないのかという恐怖に怯えつつ、彼らの影響でわたしの現実世界が変わっているという事実は、わたしを圧倒するのである。


[追記 2005/10/1]
コメント欄で、小向さんがボードレールの散文詩「ANY WHERE OUT OF THE WORLD」(いずこなりとこの世の外へ)に触れておられますので、補足します。

■『ボードレール全詩集供戞憤ど良雄訳・ちくま文庫)より引用 ― p.462
 英語の題はボードレールが一八六五年に訳したトマス・フッド(英国の詩人、一七九九―一八四五)の詩から取られたもので、一語に綴るべき、ANY WHERE が二語になっているのは誤記もしくは誤植である。


miko3355 at 14:34|この記事のURLTrackBack(0)

2005年09月05日

背中の眼    【エッセイ】

 タクシーというのは、見知らぬ他者に自分のいのちを預けていることを痛感させられる、奇妙な箱である。
 わたしの場合、こちらから話しかけることはまずないのだが、むこうから話しかけられたときは、なにがしかの会話を求めていると判断し、気もちよく応対することにしている。たいていの運転手は不機嫌に黙りこくっているのだから、話しかけられること自体が珍しいのである。


 乗車して一呼吸してから、その運転手は話しかけてきた。あたりさわりのない内容だった。それに対してわたしは、ひとことではあったが、なぜか自分の社会をみる視点が判明するような発言をした。それを聴いた彼は、無言のうちに背中全体で大きくうなずいた。そのリアクションに驚いていると、彼はおもむろに語りはじめた。 
 広島で被爆した。学徒動員で広島へ行き、そこで被爆したのだと。
 思わず彼の横顔に眼をやった。全身に諦念があふれるのを感じとったとき、彼の声にならない声がわたしに聴こえたような気がした。
  ――あのとき、広島へ行っていなかったら……。
 彼は右手でハンドルを握りながら、左手で備えつけのボックスから手帳をとりだし、後部座席のわたしに渡した。そのときちらっと彼の横顔がみえた。彼の行為に迷いはなかった。その空気に圧倒されるようにして受けとったものの、その行為には、はかりしれぬ想いを抱いた。ここで受けとるのを拒否することは、彼の自尊心を著しく傷つけてしまうということだけは、明白に伝わってきた。
 ずっしりと重い被爆者手帳の手応えが掌に残った。手帳を開くことは、彼のなにかを侵すような気がして、わたしにはできなかった。というより、受けとるだけで精一杯だったのだ。
 黙ったまますぐに返した。
 それを受けとろうとして左側に半身を返したので、彼の顔の大半がみえた。一瞬、テレたような表情がよぎった。
 それにもかかわらず、わたしはしたり顔でいった。
「原爆の場合は、何年もたってから症状がでてくるのが怖いですね」
 しまったと思った。この発言は誤解を招くにちがいない、とわたしは想像した。が、彼は拍子ぬけするほど明るい声で応じた。
「そうなんです。ぼくも時々ノドの調子がおかしくなるんです!」


 いままで最も怖かったのは、ノイローゼの運転手のタクシーに乗りあわせたときだ。
 走りだしてすぐに、「待ってました」といわんばかりに彼は話しかけてきた。最近ある宗教団体から脱退したのだが、自分の親戚も妻の親戚も同じ宗教団体に属しているので、とても疎外感がある。また、脱退した人間は必ず不幸になると脅されているというのだ。信仰しながら日常生活がまるでなっていない妻とも離婚したという。
 憑かれたように熱弁をふるいながら、途中で道に迷ってしまい、脇道にタクシーを止めた。それから彼はハンドルにおいた両腕に顔を埋め、低い声でつぶやいた。
「ここはどこかなあ……」
 ひたすら彼を励まして精神を高揚させることしか、わたしに残された道はなかった。ここで降りてしまいたいという衝動に襲われたが、その行為がただでさえ壊れやすくなっている彼のこころを刺激してしまったら、元の黙阿弥なのだ。彼のこれからの人生の展望よりも、わたしには自分のいのちのほうが大事だった。ノイローゼの運転手のタクシーに乗りあわせて事故死――なんて、あまりにも自分がかわいそうではないか!
 そんな胸中でいながらも、うかつに声をかけられないので、わたしは黙って彼を見守っていた。しばらくして職業的習性からか、彼は再びハンドルを握り、タクシーはゆっくり走りだした。
「でも、早くその宗教からぬけだせて、奥さんとも早く別れることができてよかったじゃないですか、これからの人生にとって」
 わたしが軽い口調で、それでいて真剣な面持ちを崩さずにそういうと、
「そうなんですよね!」
 ひときわ明るい声で彼は同調した。
 1時間もうろうろと走ったあげくに、タクシーはやっとの想いで自宅に到着した。いつもなら30分で着いている距離だ。当然ながら料金は確実に増えている。
「おまけしておきます。○○○○円でいいです」
 と彼は意を決したようにいったが、それでもかなりの増額である。
 わたしは黙って、おまけしてくれた料金を払った。
 降りようとすると、
「きょうは、よいお話をありがとうございました」
 真人間になったような声でそういい、彼はわたしの顔をみないで、まっすぐまえを向いたまま礼儀正しく頭をさげた。


 ある読書会の帰りだった。わたしがある男性に声をかけて、その読書会が開かれたといういきさつがあった。
 わたしは駅からタクシーに乗った。自宅まで20分ほどの距離である。その日、ちょっといやなことを耳にしたことで、わたしのこころは固く沈んでいた。夜景を眺めながら、わたしはそのことについて考察していた。10分ほど走ったところで、それまで押し黙っていた初老の運転手が、唐突に口を開いた。
「きょう、なにかあったん?」
 どきりとした。だが、自分の父親に近い年齢の男の口調に、ある種の親密さを感じとったわたしは、当たらずとも遠からずといった答えを返した。
「きょうは読書会の帰りなんですが、初回だったので、はじめて会ったひとばかりで、ちょっと疲れたんです」
 男は半ば安堵し、半ば腑に落ちないという背中をみせながら、こういい放ったのだ。
「わたしらは商売柄、うしろにも眼がついているんだ。いままでいろんなひとを乗せてきたけど、お客さんのような影の薄いひとははじめてだ!」
 この種の不躾さに対しては、常々ひとこと発さずにはいられないわたしは、怒りを内包した静かな声でいった。
「人間はだれもが、どうにもならないものを抱えているのではないでしょうか……」
 そのとたんに、あつくるしく迫っていた男の背中がさあっとむこうにひいてゆき、謙虚に並んだ雛人形のような貌になった。
 男は、自分もまた客にみられているという事実に気づいたのだろうか。あまりいい気にならないほうが身のためではないですか、というわたしの親密なメッセージを感受できるだけの神経はもちあわせていたということか。
 男の背中は、急速に影が薄くなったまま沈黙を保ちつづけた。
 
 
※これは1989年に、某所から「4日以内に書いてほしい」という無茶な依頼を受けて書いたものです。当時、いろいろな反応があり、愛着のある小品なので再掲します。推敲する時間がなかったわりには手を入れる必要を感じなかったのですが、今回、すこしだけ手を入れました。笑っていただけると、うれしいです。


miko3355 at 23:31|この記事のURLTrackBack(0)