富永太郎

2007年06月13日

富永太郎が書いた「惚れ証文」

「さきにアップした「中原中也と富永太郎展」で、父・謙治の日記に登場する「証文」について追記する。
そのためには人妻H・Sとの恋愛事件について記す必要がある。

※以下は、大岡昇平「富永太郎―書簡を通して見た生涯と作品」「面影」「『「問わずがたり』考」を参考にしている。
(以前に読んだ「問わずがたり」も、このたび読みかえしたが、フィクションなので混乱が生じるため引用できない)

1974年7月、大岡昇平は瑞雲寺現住職の叔母・ 花子さん(67歳)と会う。花子さんは先代住職の妹で、大正10年3月から5月まで(当時15歳)母親と一緒に、離れに下宿していた富永の世話をしていた。6月に北海道に嫁いだ花子さんが、その年の暮れに実家に帰ったとき、太郎はH・Sとの恋愛事件を起こして帰京していた。その事件は当時評判で、花子さんはH・Sの名も住む町も母親から聞いていた。
H・Sは「毎日のように」俥で太郎を訪ねて来て、山門の近くの杉の木立の中でよく立ち話をしているのを、寺の山門わきの別棟に住んでいたKさんは見ている。Kさんは花子さんの従姉妹。
大岡が花子さんに会ったとき、花子さんは仙台に帰って、瑞雲寺近くの町に住んでいた。

1974年10月、大岡昇平は『富永太郎全集』(註・大岡の死により未刊)の共同編集者・吉田熈生とともにH・Sに会う。80歳にしては元気だったが、かなり耳が遠くなっていて、怒鳴り合うように話したという。
Sが開業していた医院は、親類が継いでいた。
大岡はそのときの話を短篇小説「問わずがたり」として発表(『新潮』1975年1月号)。これはフィクションだが、「富永太郎伝」を書いた大岡にとって、伝記の訂正に不都合が生じたため、事実とフィクションの関係、フィクションの根拠、その理由と経過を述べるために「『「問わずがたり』考」を発表(『群像』1976年1月号)。
それに先立つ1974年9月、大岡は『富永太郎―書簡を通じて見た生涯と作品』(中央公論社)を刊行。1974年11月21日、朝日新聞夕刊に「面影」―富永太郎伝への追加―を発表。

大岡は、太郎に「証文」を書かせたのはH女の母親だと推察している。「肉体の関係はないけれど、心から愛している。離婚されれば結婚する」というような文面で、太郎が二高を退学して仙台を去らないなら、この証文を学校へ提出するという。
当時は姦通罪のある時代で、太郎の両親は、それほど気に入っているのなら、S家がH女を離婚するなら、嫁に貰い受けようとしていた。
このあたりの事情は、大岡が聞いた太郎の弟・次郎と妹・百合子の証言に相違がみられ、不透明だ。
父・謙治は太郎の伝記を記そうとしていた大岡に協力的だったというが、H・Sについては語らなかったのだろうか。
いうまでもなく太郎の両親にとって、きわめて不愉快な事件だった。

  *

ここで太郎の「不幸な恋愛」についてまとめてみよう。
大正10年5月末から6月にかけて、太郎は正岡忠三郎とともに蔵王山麓温泉地、青根温泉に遊ぶ。東北本線白河から軽便鉄道があり、二高生がよく行った。旅館の娘「やっちゃん」に太郎は興味を示した。
7月暑中休暇、忠三郎は15日帰京、太郎は再び青根に遊び、「宿命の女」H・Sに出逢う。
瑞雲寺で太郎の世話をしていた花子さんは、5月に北海道野付牛勤務の鉄道吏員に嫁いだ。そこへ太郎は、夏休みに行くという葉書を出した。旅費を請求したら、母・園子に、新婚の家へお嫁さんの知合いの若い男が訪れるものではない、と叱られ、青根温泉に行ったのだった。
花子さんは大岡に、「あの時、北海道へ来ていたら、あんなことにならなかったでしょうに」といった。

H・Sの夫(開業医)は喘息持ちで、それに効くというので、毎夏一家で青根温泉に行った。
仙台に帰ったあとS家に遊びにきた太郎は、陸軍将校(Sの妹の夫で、砲兵大尉、当時東北帝大理工学部へ委託留学中)に「フランス語を教えてやろう」といわれ、通いはじめる。
そのうちに太郎が写生の帰りに寄ったり、H・Sが瑞雲寺を訪れて、山門傍の杉林で立ち話をするようになる。
太郎の母方の叔父・丹羽瀬基が、Sの義弟・陸軍将校の士官学校同期生で、当時名古屋第三師団勤務(歩兵第六連隊中隊長)だった。そこへ義弟からH・Sと太郎の関係について、警告の手紙が行った。ふたりが町を散歩する姿が将校の目に留まり、騒ぎ立てたので、事件が大きくなったらしい。
丹羽瀬基は、上述のような同期生のとった処置について憤慨していたという。
11月5日、忠三郎に東京外国語学校受験を告げ、帰京。H・Sの家に近い瑞雲寺の下宿を即座に引き払うことを命じられたらしい。8日、仙台に帰り、その日のうちに米ヶ袋広丁一四 三浦方に転居。忠三郎は、引っ越しの手伝いをしている。

太郎とH・Sの事件が起きたころ、子どものできなかったH・Sは、3週間ばかり実家に帰されていた。「3年子無きは去る」といわれた時代であり、その前年、父親が死に、家業は傾いていたらしい。太郎の同情ぶりからして、一家が路頭に迷うほどだったのかもしれない。
H・Sの郷里は仙台の南方の郡部で、市役所役人の引きで仙台に出て乾物屋を開き、市役所へその納入を引き受けて経営していたという。

  *

大正10年(1921)12月2日夜、太郎は母・園子にH女のことで来仙を依頼する手紙を書く。学校を変えさせてほしいというお願いも含めて。
つぎのように追記している。

《Sさんの奥さんのことゝ書いたので、私に御会ひになるまでは、いつかのご心配の様子では「法律上の罪人」などといふことまでも想像なさるかもしれませんが、そんなことは絶対にないのですから御安心の為書きそへておきます》

●9日、太郎の母・園子は単身来仙し、H・Sとその母親に会ったらしい。H・Sはこのとき実家に帰されていたはずだから、園子はそこを訪問したのだろうか。H・Sは太郎との恋愛関係を否定。このとき太郎はホテルで待機していた。
●10日、園子は太郎と共に帰京。父・謙治の説得にかかった。
●12日、両親は太郎を伴って、再び仙台へ赴き、S夫妻と面会。
●13日、父・謙治の日記によると(大岡もみていない)S夫妻が訪問してきて、H女は前言を翻し、太郎との恋愛関係を認めた。そしてSは、「証文」を火中に投じた。これはH女とは離縁しないという意味なのだろう。
●14日夜、仙台を決定的に離れ、翌15日朝、帰京。
●15日午前11時20分、帰京してすぐに、太郎は仙台の忠三郎宛ての手紙を書きおえる。

12月2日から15日という短期間のうちに事を運ぶ必要があるほど、事態は切迫していた。
この年の手帖に「私は久しく日記をつけるのを怠っていた。それほど混乱した日が続いたのだ」という句があるらしい。太郎は日記を残していない。それが保存されていたら貴重な資料になっただろう。

大正10年(1921)からはじまる正岡忠三郎の日記の12月13日、《晩仙台ホテルへTの家族を尋ね、Tと町へ出てあるく》とある。
(「中原中也と富永太郎展」図録より引用)

おそらく太郎はあるきながら忠三郎に事の顛末を語ったのだろう。
二高入学以来絶命するまで、常に太郎に伴走していたのが忠三郎である。
太郎の終焉を忠三郎は記録している。貴重な資料である。
臨終の床で、つききりで看病する忠三郎にワガママをいう太郎を受け入れる姿はほほえましい。

  *

ここからは私見である。
H・Sの結婚自体が家と家の関係により成立したもので、開業医の跡とりを生むこともなく、実家の経済状態が悪化したH・Sを、当のSよりも、Sの妹と、その夫が許さなかったのではないだろうか。
太郎が二高を中退し帰京したあと、H・Sは夫の家にもどっている。
もし太郎との恋愛事件がなければ、H・Sは離縁されていたのだろうか。
H・Sが、夫のもとにもどる道を選択しなければ、実家に居場所のないH・Sは、途方に暮れる。
太郎は20歳で、生活力に欠ける。
不妊の理由がH・Sにではなく夫にある可能性があるとしても、当時は女のせいにされていただろう。
負い目のあるH・Sは、たとえ太郎の両親が承諾したとしても、富永家に入ることには無理がある。妙にプライドの高い(わたしにはそう感じられる)H・Sには、マイナス面が多すぎる。また東京で暮らせば、仙台の母親をカバーすることはできない。
短篇「問わずがたり」では、H・Sには弟がいたことになっている。大岡はH・Sの戸籍を調べて、父親の死亡を確認している。弟がいるというのはフィクションだろうか。

H・Sは太郎に、自分と母親の窮状を訴えたのだろう。太郎はふたりにいたく同情している。
12月17日付けの正岡宛書簡に、太郎は「馬鹿な男だと思つて、河北新報の三面には毎日眼を通してくれる様に頼む」と記し、たまたま道で会った後藤吉之助(一中時代の同級生)に、「渋谷川に身投げ女が浮かんだら知らせてくれ」と頼んだという。これは絶望したH・Sが追ってきて、太郎の家の近くの渋谷川に身を投げるかもしれないとの危惧があったからだろう。
しかしそのころH・Sは、夫のもとに帰っていたのである。

Sが妻を離縁しなかった理由が判然としないが、太郎との事件がなければ離縁していたのだろうか。太郎との仲がうわさになったのが実家へ帰されたきっかけのようだが、大正2年に盛大な婚礼が行われたあと、太郎との恋愛事件が起きる大正10年まで、子どもができなかった。これが伏線になっていたのはまちがいないだろう。開業医のSには、跡継ぎが必要だっただろうから。
SやH女の側からの資料がでてきたら、べつの視点から眺めることができるだろう。

このたびの「中原中也と富永太郎展」にも展示されていた油彩「火葬場」(1922年/大正11)は、太郎が下宿していた瑞雲寺の裏にあり、H・Sとのあいだに心中話がでた可能性がある。
太郎の家族は油彩「火葬場」をみて、気味が悪いと感じたらしい。が、心中話は連想しなかっただろう。
太郎はH・Sと別れたあと、仙台を訪れてこれを描いたらしい。
そのことでなにかを超越したかったのだろうか。
だとしたら、油彩「火葬場」は象徴的な画になる。
また散文詩「秋の悲歎」(1924年/大正13)の「私たちは煙になつてしまつたのだろうか」という一節は、心中を暗示しているのではないか。

大岡昇平の「富永太郎伝」を読む限り、太郎と両親が精一杯の誠意を見せているのに対し、H・Sとその周辺の人物たちにはそれが感じられない。
偽りの自己を生きることで、H・Sはその生をまっとうしたようにみえる。
というより、太郎と燃えあがった2ヵ月が、H・Sにとって例外的な時間だったのかもしれない。
80歳のH・Sは、大岡たちに会うことをどんな想いで承諾したのだろう。
仙台市宮城学院の蒲生芳郎氏のとりなしで会うことができたそうだが。
大岡の「何かあなたとのうわさが立って、二高を中退しなければならなくなった、といわれていますが、いかがですか」という問いに、笑って「いやですよ。こんなお婆さんにそんな話」といったH・Sを、わたしはどうしても受け入れられない。
こんなつまらない女性に、太郎は死ぬまで苦しめられたのか……。
来仙した太郎の母親に、「お友達としてつきあっていました」とつっぱねた28歳のH・Sが甦るのである。
太郎がH女との失恋によって死ぬまで苦しんだのは、この落差だったのではないか。
そんな想いで散文詩「影絵」を読むと、身に沁みるのである。

  *

富永太郎の無二の友・正岡忠三郎は、加藤拓川の三男として東京に生まれ、12歳のとき、正岡子規の妹・律の養子になった。子規は父方の従兄弟に当たる。正岡子規に思い入れの強い司馬遼太郎は、『ひとびとの跫音』で正岡忠三郎について記し、そこに富永太郎の書簡も登場する。
司馬は忠三郎の葬儀で、葬儀委員長を務めた。
忠三郎の家族にとって、司馬は別格の存在だったらしい。
司馬遼太郎は『ある運命について』(中公文庫/昭和62年)で、恋愛を定義している。その箇所を引く。

《恋愛というものを古典的に定義すれば、両性がたがいのなかにもっとも理想的な異性を見出し、性交という形而下的行為を介在させることなく――たとえなにかのはずみでその行為があったとしても――その次元に双方の格調をひきさげることなく欲情をそれなりの芸術的戒律まで高めつづける双方の精神の作用をいう、とでもいうほかない》

富永太郎が苦しめられたのは、「立ち去ったマリア」の残像である。
神経衰弱に悩まされ、血を吐くような想いで、H・Sとの失恋を詩篇や画に結実させた。失恋を芸術作品を生みだすことで昇華させた。
恋愛にも才能がいるが、失恋にはそれ以上の才能が求められるのだということを、わたしは富永太郎から教えられたのである。
太郎の父・謙治は、大岡に「失恋というものは、ひどいものですなあ」とつくづく述懐したという。
大正10年10月10日付け正岡宛の書簡で、太郎は帰京していた忠三郎に「どうか自分をごまかさない様に」と書きそえている。忠三郎は当時、東京の加藤家の隣家の令嬢に夢中だった。
この太郎の肉筆をこのたびの「中原中也と富永太郎展」で観たとき、わたしは脳裡に刻みつけた。
自分をごまかさない生き方を貫いた富永太郎は、最期まで失恋の傷みから解放されなかった。
早々と現世を立ち去った富永太郎は、「人工天國」の住人になっているのだろうか。





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2007年06月03日

「中原中也と富永太郎展」 二つのいのちの火花

横浜市中区の神奈川近大文学館で、2007年4月21日から開かれていた「中原中也と富永太郎展」の最終日は、本日6月3日である。
本特別展は、ことしが中原中也生誕100年、歿後70年を迎えるのを記念して開かれた。
中原中也の文脈で富永太郎を語られるのにわたしは嫌悪感があるし、「二つのいのちの火花」というサブタイトルから、ふたりのあいだに火花が散ったかのような印象を受けるのにも閉口していた。
怠惰と上記の理由から、気にはなりつつなかなか足が向かなかった。
図録と富永太郎版画絵はがきセット(4枚組)は、すでにホームページから注文して入手していた。版画絵はがきに、わたしの好きな「Promenade」(1923年/木版)が含まれているのがうれしい。
そんなわたしの背中を一気に押したのは、「小林秀雄實記」(閉鎖中)を運営する杉本圭司氏である。
わたしが本特別展に足を運んだのは5月22日である。
杉本氏はわたしより一足早く行かれ、小林秀雄に焦点を当てて観ておられる。

  *

本特別展はわたしの予想を裏切り、富永太郎関連の資料を最大限に展観できたように思う。
関係者の熱意が凝縮している。
富永太郎のコーナーを念入りに観た直後にわたしを襲ったのは、「富永太郎はいい男だなあ」という素朴な感慨だった。
同時に、かつて「小林秀雄實記」掲示板で富永太郎について小向さんと延々と書きこんだ内容が甦った。
わたしが行った日は、中原中也のコーナーより富永太郎のコーナーを熱心に観ているひとが眼についた。これは富永太郎の資料を観る機会が少ないからだろう。
図録についても64ページという薄さにもかかわらず、内容が充実しているのに感心した。
編集委員は中村稔で、編集協力は中原豊。
p.33に掲載されている、中原豊氏のつぎの一節はいただけない。ほんとうにそうなのだろうか。

《太郎の代表作ともいえる「秋の悲歎」「鳥獣剥製所」などの密度の高い散文詩は、詩人として伸びていこうとする中也の生命と、結核に蝕まれながら最後の輝きを放とうとする太郎の生命との交錯の中で生み出されていった》

図録の冒頭に中村稔・樋口覚・宇佐美斉の一文が寄せられている。
以前からわたしは宇佐美斉の見解に注目している。
宇佐美は《二人は共通の知人を介して知り合い、たちまちのうちに交友を深めた。というよりは知識や感性において優位に立つ相手に、中也の方がほとんど一方的に密着して、さまざまなことを貪欲に吸収しようとした》と記している。
そして《フランス詩を介したこの二人の詩人の絆は思いのほかに強かった、と言わざるを得ないのである》と結んでいる。

樋口覚は《富永の豪気はみずから酸素吸入器をはずしたことにもあらわれている》と記しているが、わたしは富永太郎の筆跡に「豪気」を感じる。
その筆跡が、死に近い詩稿において乱れているのをみたとき、胸が痛んだ。それでも文字の輪郭は維持している。
死の床で酸素吸入器を調節する友人たちに、「自殺倶楽部のわかる奴でなくちゃ、酸素は扱えないよ」と笑い、臨終前日の朝、医師のすすめで病室に集まった家族に「こうみんなに来られちゃ、死ななきゃいけないようだね」といった太郎に、わたしは諧謔とユーモア精神を感じ、好もしく受けとめている。
この精神は散文詩「影絵」において発揮されていると、わたしはとらえている。
仙台のS夫妻に対する怨念が洗練されているので、悲痛さとともに透明な笑いを誘う。S夫妻がなんともいえず滑稽である。
一高受験の前日に書かれたというが、太郎が勉学に不熱心になったのは、H・Sのせいではなく、出逢うまえからその兆候があらわれている。

  *

本展でわたしの足を釘付けにしたのは、太郎の父・謙治の閉じられた日記(手帖)と、太郎の遺髪だ。
添え書きによると、大岡昇平も読んでいない資料だという。
固有名詞の箇所は空白になっていたが、その日記の箇所が活字で記されていた。
わたしの記憶に基づくので、日記の内容について事実誤認があるかもしれないことをお断りしておく。大切な資料なのでメモしたかったが、遠慮したのだ。
たしか大正10年(1921)12月12日と13日の日記だった。
12日、太郎の両親はS夫妻と面会し、翌13日、S夫妻が訪ねてきて、H女は太郎がいったのと同じだと、前言(註・お友達のつもりで付き合っていた)を翻し、Sは証文を火中に投じた、という。
(この両日の様子は、大岡昇平の記述とは相違がある)
この日記を幾度も読みながら、眼を疑った。
H女は太郎との恋愛関係を、夫や太郎の両親のまえで肯定していた。その場に太郎もいたのだろうか。

14日夜、仙台を離れ、15日朝、帰京。同日、二高を退学。太郎、20歳。
退学が受理された書類も展示されていた。時を経ると、実務的な書類がかえってなまなましい。
そこに父・謙治の落胆ぶりや、H・Sとのわずか2ヵ月のつきあいを連想してしまうからだろう。

当時28歳だったH・Sが80歳のとき、大岡昇平は吉田生とともにH・Sの家を訪問している。通されたのは離れの六畳で、富永がフランス語を習いに通った陸軍将校がいた部屋。
そのときH・Sは、「富永の母親が仙台に来たことは知らない、会ったことはない。富永が退学して東京へ帰ったことは知らなかった」と言明したという。それでいて、「富永がその後外語へ入り、まもなく死んだ、ということは知っていた」。
ひとつウソをつくと、綻びがみえてくる。
大岡昇平はH・Sに対して、鋭い質問をなげかけるのを遠慮している。
けれども、対面したことで多くのことをキャッチしている。

太郎とH・Sには恋愛関係は成立していたが、肉体関係はなかったらしい。
大岡昇平は肉体関係を否定しているが、わたしもそれに同意する。
最初はそんなわけはないと思ったが、そんな自分自身を羞じたのである。
H・Sと別れてから臨終までの4年間、失恋は太郎の心身を蝕んだ。
そこがいかにも富永太郎らしい。
ひとを愛するには、創造性が必要なのだろう。
大岡昇平によると、太郎が表現している「立ち去ったマリア」「わが女王」と、H・Sとおぼしき鉛筆書きの和服姿の半身像は、縁遠いという。
そこに詩人と画家の富永太郎の視点が表出していて、おもしろい。
詩人としては崇めながら、画家としては現実の姿を描いている。
80歳まで自己を偽りつづけたH・Sには、それなりの必然性があったのだろうが、わたしは同情できない。
「問わずがたり」考に、大岡はH・Sについて《そのほか記憶はすべて鮮明で、話し方は巧みで、機智に富んでいた》と記している。

太郎の遺髪については、司馬遼太郎『ひとびとの跫音』(1981年/中央公論社)に記されている。ふたりの関係についても、司馬は鋭い作家の感性で分析している。
太郎の遺髪を、無二の友であった正岡忠三郎が宝物のようにしていたと、忠三郎の妻が証言している。
忠三郎は太郎と二高に同期入学。太郎は理科乙類で、忠三郎は理科甲類。
図録に遺髪の写真が掲載されていないのは、惜しい。
忠三郎に宛てて太郎が書いた手紙や詩稿の黄ばみが、歳月を感じさせる。
いうまでもなく、太郎の父・謙治や忠三郎が大切に保管していたから、われわれはそれらを眼にすることができるのである。

  *

そしてわたしを圧倒しつづけている太郎の臨終写真。
最上部に大きなサイズの写真が掲げられていた。
わたしはこのうつくしすぎる臨終写真を、人間「富永太郎」という作品だととらえている。散文詩「秋の悲歎」そのままの臨終写真にみえる。
最期まで自己を貫いた24年の生涯だった。

大正14年(1925)11月12日午後1時、鼻にはめた酸素吸入器のゴム管を「きたない」といってはずし、「ちゅうさん、ちゅうさん」と二言いいのこし、1時2分絶命。
「ちゅうさん」とは、つききりで看病していた正岡忠三郎の意で、手紙で「ちゅうさん」「太」とやりとりしていた。手紙だけではなく、常からそう呼んでいたのだろうか。あるいは、こころのなかでそう呼んでいたのか。

上記の写真の下に展示されていた、中也が故里の母に送った「詩人の死顔です」という添え書きのある臨終写真をみて、写真館が撮ったのだと確認できた。
中也の添え書きのある臨終写真だけが図録に掲載されているのが、わたしとしては不愉快である。
当時は写真館で写真を撮ること自体が珍しかったらしい。
死に顔を撮らせたのは父・謙治だろうか。
どのような想いだったのだろう。

私見だが、わたしは富永太郎の24年の生は完結しているとみている。
散文詩「秋の悲歎」「影絵」を生みだしたことで、詩人として不動の位置に到達した。
神経衰弱に苦しんだ太郎は、たとえH・S事件がなかったとしても、この世に永居することはできなかっただろう。
それにしても、死後、自分が詩人として認識され、遺品が展示されることを、太郎は想像していなかっただろう。
そんなことをぼんやり考えていると、散文詩「遺産分配書」の結句が浮かんだ。

   母上へ。私の骸は、やつぱりあなたの豚小屋へ返す。
  幼少時を被ふかずかずの抱擁(だきしめ)の、沁み入るやうな記憶と共に。





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2006年11月12日

「大正の詩人画家 富永太郎」

図録「大正の詩人画家 富永太郎」を入手できる古書店を知人に教えられ、手許に届いたのは昨年の12月9日だった。
太郎の個展は渋谷区立松濤美術館で開催され、会期は昭和63年10月18日〜11月27日。祥月命日の11月12日を挟んでいる。
「富永太郎における創造」というタイトルの一文を大岡昇平が寄せている。

大正14年11月12日、肺結核で24歳6ヵ月で夭折した富永太郎の家と大岡昇平の家は、松濤美術館の至近距離にあった。
秋は太郎の好きなシーズンだったし、松濤公園は散文詩「秋の悲歎」の舞台とも思われ、大岡にはここで太郎の個展が開かれるのに、特別な感慨があるという。
大岡は「来年は詩画集全三巻が出ますので」と記しているが、直後の12月25日に他界したため、全集の刊行は実現しないまま今日に至っている。

大岡昇平から個展の案内状を受けとった青木健は、最終日の11月27日に松濤美術館を訪れた。そのときみた画の感想は、『剥製の詩学 富永太郎再見』(小沢書店/1996年)に収められている。
富永太郎に関する評論は驚くほど少ないので、本書は貴重な資料になっている。

図録に収められている富永太郎の詩稿は、写真といえどもなまなましく迫ってきて、正視するのに努力を要する。
モノクロの木版「Promenade」(1923/大正12年)が、わたしは気に入った。太郎にしては珍しい童話的構図である。
求龍堂版「富永太郎詩畫集」(大岡昇平編)の表紙には、この木版が使われている。

図録のトップに掲載されている画は「火葬場」(油彩/1921/大正10年)。
太郎が下宿していた仙台の瑞雲寺北側にあった共同火葬場の煉瓦の煙突を描いたものである。
無機質な画だが、大正10年の秋、富永太郎は8歳上のH・S夫人との恋愛関係が"事件"となり、直後の12月15日、二高を中退し帰京。
姦通罪のあった時代だが、ふたりの関係に姦通はなかったらしい。心中しようという話があった可能性があるが、謎である。
以前にわたしは、「小林秀雄實記」の掲示板にも書きこんだのだが、散文詩「秋の悲歎」には、「私たちは煙になってしまったのだらうか?」という一節がある。

図録では油彩「火葬場」は1921年になっているが、筑摩版「大岡昇平全集 17」(1995年)では、1922年10月になっている。正岡氏の日記によると太郎は1922年10月29日朝、仙台へ着き、31日、夜行で帰京している。四号板の裏には「Sendai,october 1922」と書かれている。

図録に掲載されている写真のなかでわたしの眼を惹いたのは、二高在学の頃、13人の仲間のひとりとして写っているものである。全員が学生帽をかぶっている。
その下には、わたしを魅了した臨終写真がある。
2005年11月12日にアップした「富永太郎の祥月命 」に、この臨終写真を撮ったのは正岡忠三郎だ、と記したところ、コメント欄で太郎次郎さんにまちがいを指摘された。「専門の写真館が撮影したものです」と。

長男・太郎に両親は、大きな期待と愛情を寄せていた。
昭和2年(1927)8月、村井康男編・家蔵版「富永太郎詩集」が刊行された。
昭和7年11月22日に母・園子が亡くなってから墓を作るまで、太郎の遺骨は両親の部屋に置かれていた。
多磨霊園には、富永太郎とともに大岡昇平が眠っている。

富永太郎の代表作「秋の悲歎」は、死の病と結びついている。
24年の短い生を駆けぬけた。

大正13年(1924) 
10月11日、京都で最初の喀血。23日、「秋の悲歎」創作。
12月1日付『山繭』創刊号に「橋の上の自画像」「秋の悲歎」を発表。
12月20日、レントゲン検査により肺尖を宣告される。

大正14年(1925)
1月7日、第2回喀血。22日、第3回喀血。
3月8日頃、母・園子と神奈川県片瀬に転地。
4月3日、代々木富ヶ谷の家に帰る。
10月25日、大喀血。
11月5日、危篤。12日午後1時2分永眠。


散文詩「秋の悲歎」を味読するため、「富永太郎の詩」より引用させていただく。

………………………………………………………………………………

秋の悲歎
 

 私は透明な秋の薄暮の中に墜ちる。戦慄は去つた。道路のあらゆる直線が甦る。あれらのこんもりとした貪婪な樹々さへも闇を招いてはゐない。

 私はたゞ微かに煙を擧げる私のパイプによつてのみ生きる。あの、ほつそりとした白陶土製のかの女の頸に、私は千の靜かな接吻をも惜しみはしない。今はあの銅色(あかゞねいろ)の空を蓋ふ公孫樹の葉の、光澤のない非道な存在をも赦さう。オールドローズのおかつぱさんは埃も立てずに土塀に沿つて行くのだが、もうそんな後姿も要りはしない。風よ、街上に光るあの白痰を掻き亂してくれるな。

 私は炊煙の立ち騰る都會を夢みはしない----土瀝青(チヤン)色の疲れた空に炊煙の立ち騰る都會などを。今年はみんな松茸を食つたかしら、私は知らない。多分柿ぐらゐは食へたのだらうか、それも知らない。黒猫と共に坐る殘虐が常に私の習ひであつた......

 夕暮、私は立ち去つたかの女の殘像と友である。天の方に立ち騰るかの女の胸の襞(ひだ)を、夢のやうに萎れたかの女の肩の襞を私は昔のやうにいとほしむ。だが、かの女の髪の中に挿し入つた私の指は、昔私の心の支へであつた、あの全能の暗黒の粘状體に觸れることがない。私たちは煙になつてしまつたのだらうか?私はあまりに硬い、あまりに透明な秋の空氣を憎まうか?

 繁みの中に坐らう。枝々の鋭角の黒みから生れ出る、かの「虚無」の性相(フイジオグノミー)をさへ點檢しないで濟む怖ろしい怠惰が、今私には許されてある。今は降り行くべき時だ----金屬や蜘蛛の巣や瞳孔の榮える、あらゆる悲慘の市(いち)にまで。私には舵は要らない。街燈に薄光るあの枯芝生の堅い斜面に身を委せよう。それといつも變らぬ角度を保つ、錫箔のやうな池の水面を愛しよう......私は私自身を救助しよう。

 





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2006年10月03日

『森羅映像』 吉田直哉 著/矢萩喜従郎 写真

吉田直哉の『森羅映像 〈映像の時代〉を読み解くためのヒント』(文藝春秋/1994年)を最近入手し、おもしろく読んでいるところだ。

P.186〜P.193の【「やらせ」の反対語は?】という項から抜粋。

日本ではじめてのテレビドキュメンタリー・シリーズは1957年にはじまったNHKの番組「日本の素顔」で、はじめは「フィルム構成」と名乗っていた。その番組の担当者であり命名者である吉田直哉は、録音構成をモデルに、記録映画とは距離をおこうとした。

結局フィルム構成という名は定着せず、テレビドキュメンタリーと呼ばれるようになった形式でつくってきて、いちばん多い質問の基本パターンは、「ドキュメンタリーには、どのくらいやらせがあるのですか?」。
きまって「ぜんぶです」と吉田が答えると、相手は絶句する。
〈やらせ〉の反対語は〈盗み撮り〉であり、盗みはあきらかに犯罪だから、撮影の許可を願い出る。

戦争の写真や記事に限らず、ありのままを伝えることなど幻想であり、ほんとうは「ありのまま」というものがあるのかどうかさえ、確かでない。まして、何かを「ありのままに伝える」ことは不可能。
何を見せ、何を見せなかったか、何について書き、何について書かなかったか。それが「表現」で、人間は表現でしかものを伝えられない。

ドキュメンタリーには、受け手の想像力をそそることが限りなく要求される。
ドキュメンタリーで問われるべきものは、「正誤」よりも「巧拙」なのだ。

銀行やコンビニの防犯カメラと、ドキュメンタリーのカメラの働き方はちがう。しかし今日、ドキュメンタリーのあるべき姿に防犯看視カメラを夢想している人は、実に多い。
いまからでも「映像構成」と改めるほうがいいのではないか。

  *

吉田はこのなかで、「表現というものについて実に多くを教えられる」といい、大岡昇平の短篇『問わずがたり』とエッセイ「『問わずがたり』考――事実とフィクションの間に――」を紹介している。
共に『文学における虚と実』(講談社)に収められているというので、早速わたしは入手したのである。
というのは、エッセイのほうは筑摩書房版「大岡昇平全集 17」で既読だったが、短篇のほうは気になりながら未読だったからである。
なおエッセイについては、杉本圭司さんが運営されている「小林秀雄實記」の掲示板(註・ただいま改訂中につき閲覧できない)で、小向さん相手に詳細に書きこんだという過去があり懐かしい。

富永太郎に関する部分を引用する。
(P.190〜P.191)

《歴史小説でも伝記でもありませんが、大岡昇平に『問わずがたり』という、ふしぎな短篇があります。大正の天才的な夭折画家の恋愛事件について、遺作集を編集している出版社の社員が地方都市に赴いて、老いた関係者を歴訪するという内容で、小説に地の文はなく、いずれも七、八十歳になっている三人の女性との対話だけから成り立っているのです。
 この作品には、その成立過程を書いた「『問わずがたり』考――事実とフィクションの間に――」という関連したエッセイがあって、共に、『文学における虚と実』(講談社刊)に収められているのですが、あわせて読むと、表現というものについて実に多くを教えられます。
 大岡昇平は、詩人富永太郎の伝記を書くために関係者を歴訪したことがあり、富永が心中というところまで行くほどの恋をした人妻との事件を取材しました。そのとき「問題の女性に遠慮から質問できなかったことを、実際に質問したように書き、想像された反応を書いた」のが、この小説なのです。
 伝記、小説、エッセイ。大岡昇平の三つの作品は、伝記も関係者のプライバシーへの考慮から完全に自由ではないこと、かといって多くの歴史小説家が誇る、証言や文献から常識的に結論されるところから離れて想像力によって「真実」に迫る才能と自由も、結果は多くの問題をもたらすこと、を余すことなく示した実に知的な試みでした。
 主題に関係のない文学への寄り道をしたと思われるかも知れませんが、伝記、小説、エッセイがニュースと同じジャンルに属さないのと同様に、テレビドキュメンタリーがテレビや新聞のニュースとは別のジャンルのものである、ということを言いたかったのです》

  *

ドキュメンタリー番組はわりと観ているし、吉田直哉については以前から興味をもって眺めていた。ユーモア感覚があるのに軽くない。柔軟な思考が心地よい。
本書は平易な文章で書かれているが、重厚な内容になっている。
とくにP.72〜P.74の【『ヴィジョンズ・オブ・ジャパン』】という項の、
《「人生は些事から成る」という。人生がそうなら一国の文化も同じで、些事から成っているのだ》
というくだりで、上記の杉本さんを想起した。と同時に、杉本さんの表現(背後に小林秀雄がいる)と吉田の表現の差異を感じることで、より深くこのテーマについて考えられるような気がしたのである。



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2006年09月11日

富永太郎の上海体験が中原中也に与えた影響

2006/8/10付け朝日新聞・夕刊に、【「中也の時代」鮮明にした詩人・富永太郎の上海体験】と題する署名記事(白石明彦)が掲載された。興味深く読む。
「中原中也の会」が東京都内で開いた「富永太郎と上海」をテーマにした研究集会について記している。

「当の中也についてはあえて論じず、彼に影響を与えた詩人富永太郎の上海体験を探ることにより、中也が生きた時代の文学的雰囲気を浮かび上がらせる刺激的な試み」だという。
とはいえ、この研究集会の軸足は中原中也にある、当然ながら。

上海出身の張競(明治大学法学部教授)は、散文詩「断片」についてつぎのように述べた。

卑近な情景がみごとに詩的イメージと化した。都市のイメージがこれほど鮮やかな言語感覚でとらえられた例は日本文学でもまれだ。文化的無国籍性をもつ上海で富永は異空間を体験した

  *

【時系列でみた富永と中原】

●1923年(大正12)
8月、富永太郎はひとりで仙台旅行し、上海旅行を思い立つ。
9月、関東大震災。
11月、永住のつもりで上海に渡る。

●1924年(大正13)
2月、自活の見込みなく帰国。
6月末、京都へ。正岡忠三郎の下宿に滞在。
7月、冨倉徳次郎の紹介で中原中也(立命館中学4年生)を知る。ふたりの友情には他の容喙(ようかい)を許さぬ緊張したものがあったと、正岡と冨倉が証言している。
10月11日、最初の喀血。
11月、村井康夫宛書簡で、中原について「ダダイストとの嫌悪にみちた友情に淫して四十日を徒費した」と記す。
12月20日、肺尖を宣告される。

●1925年(大正14)
1月7日、第2回喀血。22日、第3回喀血。
3月初旬、母とともに神奈川県片瀬に転地。中旬、中原は長谷川泰子とともに上京。
4月、中原はこのころ知りあった小林秀雄とともに片瀬に富永を見舞う。
5月3日、片瀬より脱走、代々木富ヶ谷の自宅に帰る。
6月末から肋膜炎を併発臥床。
10月25日、大喀血。
11月5日、危篤。11日、喀血。12日午後1時2分、永眠。夕刻、死顔の写真を撮す。13日昼、納棺。夕刻、中原が蒼い顔をして来る。14日、2時出棺、代々幡火葬場にて荼毘に付す。

現存する富永の手紙の最後は、1924年10月23日付け正岡忠三郎宛である。小林に絶交された中原が、ちょいちょい病床の富永を訪ね、小林の悪口をいう。そんな中原の饒舌に閉口している様子が記されている。
正岡は臨終の席で、面会が許されたことを中原に告げないよう富永に頼まれる。ただしその理由は複雑だと大岡昇平は説く。

  *

わたしが『富永太郎と中原中也』(大岡昇平/レグルス文庫/1975年)を入手したのは、筑摩書房版『大岡昇平全集 17』(1995年) を読んだあとだった。したがって内容の大半はすでに知っていたことだが、巻末に収められている岡庭 昇の解説がおもしろい。

岡庭が評伝『朝の歌』の熱烈な読者となった理由は、《「愛」以上に「憎」があるのではないかとおもえるほどの、その激しいパッションに魅かれたから》だという。
そして岡庭は、《大岡氏の体質は富永にやや近く、中也とは正反対であろう》が、《決定的な影響下に出発したというにせよ、大岡昇平という文学者(あるいは認識者としても)に、かれらの影響の痕跡はみじんもみられない》 という。わたしはこの説に同意できるのである。
末尾で岡庭は、《富永太郎にとって、「放蕩」とはいったい何であったのか》という要求を、大岡昇平に対してつけくわえている。カギカッコつきなのは、《けっして放蕩にとどきえなかった》という意味であり、この点について大岡に小説的な造形を期待している。

中原とは比較にならない教養をもっていた富永から、中原はあらゆることを学んだ。それを少しも学んだとは思わず、それら土台の上に、一生自分の独創性と信じるものを追求していったのが中原の個性だった、と大岡昇平は記している。

大岡は、中原と富永を世に知らしめるために情熱を傾けた。
中原については達成感があったのではないかと想像するが、富永については未完に終わった。
角川書店から刊行予定だった『富永太郎全集』全3巻は、大岡の死とともに消滅したに近い現状である。
しかし全集が刊行していたとしても、大岡は富永について自己追究をやめなかったのではないかと、わたしは考えている。
それはわたしが「富永太郎を愛しすぎている」からではない、と認識している。

かつて「小林秀雄實記」の掲示板に、大岡の中原と富永に対する重力がちがう、という書きこみをして、わたしは運営者の杉本さんから鋭くつっこまれた。当時もいまも、うまく説明できないのだが、中原と富永が対立軸として存在していることはたしかだろう。
大岡は富永のことを「大人(たいじん)」といっている。なるほどと思う。


※散文詩「断片」は、「富永太郎についてのページ」の「富永太郎の詩」にリンクさせていただきました。


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2006年07月03日

中原フク述・村上護編『私の上に降る雪は――わが子 中原中也を語る』

『私の上に降る雪は――わが子 中原中也を語る』(講談社・1973/10/12)を読む。
本書は村上護が、中原中也の母・フク(94歳)から聞いた話(昭和48年1月末から約1ヵ月あまり、2時間×6回)を文章にまとめたものである。巻末に記された村上の解説の日付が昭和48年10月1日となっている。一連の動きが、昭和48年(1973)年という1年間のうちに行われたということになる。
サブタイトル「わが子 中原中也を語る」は、大岡昇平がつけたという。

中原家の長男として両親から期待された中也は、一度も働いたことのない肝(きも)やき息子だった。
中也は父・謙助の葬式に帰っていない。「長い髪をして葬式にでるのはみっともない」と、フクが帰らせなかった。そしてそのことを、あとで後悔したという。
生前の中也は、湯田のあたりで「あれは肝やき息子だ」という評判だったが、のちに「死んで孝行なさいましたな」といわれるという。「湯田に住む者もほんとうに名誉に思っております」と。

大岡昇平が中也と喧嘩したときのことを『中原中也』に記していたが、フクが中也の妻・孝子から聞いた話ではこういう描写になる。

(p.200より引用)
《孝ちゃんはどうすることもできずにみておったといいますが、こまかい男がかかっていくのが、「おかしゅうて、おかしゅうて」と、話してくれたことがありました。中也は誰にでも、けんかを売ったものとみえます。
 孝ちゃんにもガミガミやかましゅういうておりました。それで、私は中也に、「孝ちゃんに、あんなにいうもんじゃあないよ。あんたのお嫁さんとしては、よすぎるようなお嫁さんじゃから、かわいがってあげなさいよ」と、いっておりました。りこうな女でしたから、孝ちゃんは中也が怒ると、ケタケタ笑っておりました》

「中也の詩なんか読んでも、しようがない」といっていた医者の父・謙助は、死の床で中也が送った「詩を印刷したうすいもの」を読み、涙をボロボロだしていたという。
一方、フクのほうは、「やれやれ、こんなことを相変わらずつづけておるのかな、とがっかりした気持で読んでおりました」。
謙助は、昭和3年(1928)5月13日に亡くなる。

中也・26歳、孝子・20歳の昭和8年(1933)、結婚。孝子の生まれた上野家と中原家は遠い親類にあたり、孝子には両親がいなかった。
中也が死んで16年ぶりぐらいに、フクは自分の娘としてよそへお嫁にやった。孝子はフクをほんとうの親のように思って、いたわってくれるという。

昭和24年(1949)・文化の日、小林秀雄は山口県から招かれて、「宮本武蔵」という講演をする。
「ぼくが講演に行っても話すことはないけど、中也さんのお母さんの顔でも見に行くつもりで、山口まで行きましょう」といったという。
講演後、松田旅館で宴会が催されたのに、小林秀雄はひとりでフクの家を訪れた。

(p.250より引用)
《「いま歓迎会をするからというて、知事やら何やら、いっぱい人が来ておった。けど、あんななかで飲んでもおもしろくないから、ここへ来ました」
 その夜は私の家に泊られて、小林さんは自分のお母さんの話などなさいました。「知らん間に、おっかあが死んだ、おっかあが死んだ。それを知らなくて、ほんとにすまなかった」と、涙を流してくりかえし話されました》

わたしは小林秀雄について詳しくないのだが、本書で唯一仰天したのは、「おっかあ」と母親を呼び、涙を流して詫びる小林秀雄だ。わたしがイメージしていた小林秀雄像に合致しないにすぎない、とはいえ。

さて、中原中也に心酔し、中也と富永太郎が共存するという知人がいる。わたしにはこの異質な詩人が共存することが不可思議なので、理由を訊いた。
「中也の詩には泣ける」と。そして彼女は、「富永太郎あってこその中也であり、小林秀雄だ」と言明していた。
わたしは実際に太郎の詩に泣いたことはないが、中也の詩には泣けないなあ。





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2005年12月04日

小林〜富永〜中原〜大岡の濃密な関係

11/15にアップした「富永太郎と中原中也の異質な関係 」に、杉本氏からコメント
(12/2付け)をいただいた。
コメント欄が長くなったので、勝手ながら転記させていただく。

…………………………………………………………………………………
以下、ご参考までに。

「かつて私は、中原中也について、小林秀雄に聞きにきた者は、誰もなかった、と記したことがあった。しかし、これには、もっと詳しい説明を記しておくべきであった。小林秀雄は、しかるべき紹介者がいないと、初めての人には会わないことにしているのだが、この帰国後(※ヨーロッパ旅行から帰国したときに"過去はもう沢山だ"と漏らしたことを指す)は、さらに徹底してきたから、そこへ辿りつくことが、先ず一と仕事であること、(つづく)
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 00:04

たとえ会えたところで、誰にも肝腎のところは喋らないから、聞かれないと同じ効果を呈すること、今日のように、中原のすみずみまで探求が行われていなくて、当時はただ、ただ彼の作品を読むことで充足していた時代であった、小林・中原の問題については、大抵の読者は大岡昇平の著作で、充分に間に合せがついていたのである。いくつもの要因があったことを私は付加すべきであった。」(郡司勝義「大岡昇平遠望」)
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 00:04

ところで、ユリイカの鼎談で加藤典洋氏が大岡昇平から直接聞いたという証言によれば、昭46年に開かれた富永太郎展に小林秀雄は結局顔を出さなかったそうですね。小林秀雄はこのときのパンフレットに一文を寄せていて、今回の全集で初めて収録されましたけれど、その最後を、「懐かしさが油然と湧き上って来る。見たいと思う。」という言葉で結んでいるのです。それが、大岡氏が招待状を出して、今日来るか今日来るかと思って待っていたが最後まで来なかった。加藤氏には、「小林には詩とか小説を書く人間に対する嫉妬がある」と言ったそうですが、後に松涛美術館で富岡太郎展が開かれたときには、富永太郎の絵をちっとも見ようとしない小林秀雄は「少し異常です」とも書いています。
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 01:19

富岡太郎展->富永太郎展
Posted by 杉本 at 2005年12月02日 01:23

…………………………………………………………………………………

上記の杉本氏のコメント(とくに前半部分)を読み、なぜか考えこんでしまった。
それを逐一ここに記すわけにはいかないが、ひとつだけ記しておこう。

かつてわたしが杉本氏に送信したメールに対して、

二人の人間関係が「すこしわかりやすくなる」という時点で、薄ら寒い虚偽を感じませんか?

という返信があった。
この場合の「二人の関係」というのは小林秀雄と青山次郎のことだったのだが、相手がだれであっても同じことだろう。
いつなく激昂した杉本氏の口吻は、わたしだけにむけられたものではなく、「秋葉原で店頭販売している万能包丁」(杉本氏のメールの一節)で小林秀雄を斬ろうとするひとたちに対する密かな怒りだろう。わたしはそう解釈した。

その密かな怒りが杉本さんの核になっていると思えるし、ひとりの文学者についてこだわっている人間にとっては当然のことだろう。
しかし"得体のしれない柔軟性"を有する杉本氏は、

かなり生意気なことを書きましたが、見当はずれではないと思います

と軽やかな着地をするのである。

さて、以前に「小林秀雄實記」掲示板でテーマになった、「小林が富永について、もう書かないと"宣言"する必要があったというのが、ランボオとの別れとパラレルである」という杉本氏の説は、わたしが「ユリイカ」の富永太郎特集から引用した高橋英夫氏の文章に呼応するものであった。
この特集は全編すぐれた内容だが、とくに高橋氏の一文は、小林に傾倒した人間にしか書けないうえに、富永についても深い理解を示している点で一読の価値がある。また、高橋氏の人間をみる視座をわたしが好もしく思っているともいえる。
なお、高橋氏の見解を学者が記したのが、11/12にエントリーした「富永太郎の祥月命日」で参照とした宇佐美氏の共同研究である。


杉本氏が指摘された、大岡昇平の怒りと困惑を喚起した昭和46年と昭和63年の富永太郎絵画展に対する小林秀雄のリアクションの謎解きが、杉本氏が上記掲示板において"宿題"とされたテーマと一致すると考えられる。

※ただいま「小林秀雄實記」が改訂中につき閲覧できないので、掲示板とはリンクできないのをお許しいただきたい。


〔追記 2005/12/4〕
本日、杉本さんからコメントで指摘していただいた件については、完全にわたしのミスなので、訂正させていただきます。

本文において、

《杉本氏が指摘された、大岡昇平の怒りと困惑を喚起した昭和46年と昭和63年の富永太郎絵画展に対する小林秀雄のリアクション》

とわたしは書きましたが、昭和63年に開催された絵画展に、昭和58年に他界した小林氏が行けるわけもなく、大岡氏が昭和63年の絵画展のカタログに寄せた一文「富永太郎における創造」のなかで記した、昭和46年開催の絵画展に対する小林氏についての回想文でした。

大岡昇平は昭和63年の絵画展の直後に他界しており、そのことから「小林秀雄さま、」という大岡氏の病いと老齢によって乱れた筆による弔詞などを連想しているうちに、鬼籍に入ったひとたちが、なまなましく立ちあがってきて、わたしの頭は混乱した。
そんなわけで、ふたつの絵画展に小林氏がかかわっていたような錯覚に陥った。
わたしの手許にある『大岡昇平全集17』(筑摩書房)――本書を教えていただいたのも杉本氏である――に、カタログに寄せた大岡氏の一文「富永太郎における創造」が収められていて、過去に読んだにもかかわらず失念していた。

……というようなイイワケを書き連ねていると、取調室で敏腕刑事に自白を迫られている容疑者(→犯人)のような気分になってきた。

で、富永太郎展について整理してみる。

■昭和46年(1971)2月15日〜27日
東京・銀座のギャラリー・ユニバースにて
「富永太郎の絵」展……歿後46年

■昭和63年(1988)10月18日〜11月27日
渋谷区立松濤美術館にて
「大正の詩人画家富永太郎」展……歿後63年

□小林秀雄 昭和58年(1983) 3月1日歿
□大岡昇平 昭和63年(1988)12月25日歿
□富永太郎 大正14年(1925)11月12日歿
□中原中也 昭和12年(1937)9月22日歿

  *
  
杉本さんが紹介された「ユリイカ」所収の【郡司勝義「大岡昇平遠望」】につづく文章も興味深いので引く。

《しかし、小林秀雄は、一々具体的に例証を挙げて問いつめられるのを、最も苦手とし、嫌っていた。
 (略)
 大岡昇平は、小林秀雄との間にかもし出されているこの微妙な呼吸(いき)づかいを、敏感に察知していた。だから、氏は中原中也や富永太郎の評伝を書くについては、われわれの想像を絶するほどの苦心を払っていた筈である。あの外堀を片っぱしから埋め尽くして行く手法は、そこから発したものであろう》







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2005年11月15日

富永太郎と中原中也の異質な関係

当blogでは基本的に富永太郎については書かないつもりでいたので、11/12の祥月命日についてもそのつもりでいた。だれかのお墓に参りたいと思ったことのないわたしが、11/12を意識してきた。結局は実行に移せなかったのだが、来年の11/12の自分はどうしているだろうと想像したとき、富永太郎について記しておきたいと思い直したのである。

まえのエントリー のコメント欄 に杉本圭司さんから「正岡忠三郎日記」に関する佐々木幹郎(詩人・『新編中原中也全集』編集委員)の特別寄稿(「中原中也記念館」館報2001・第6号所収)をご紹介いただいた。
それを読み、忠三郎が大岡昇平に渡したのは、日記帖からピックアツプして原稿用紙に転写したものだったことを知った。現物をひとに渡せないほど太郎の手紙を大切にしていたことの証左でもあるし、ひとに読まれたくない内容が含まれていたのだろうか。
いずれにしても、富永太郎の全集が刊行されないと、事は進まないのだ。

今春、角川書店に問いあわせたら、刊行の予定はないとそっけない返事。同時に、「ユリイカ」で富永太郎の特集が組まれたのは1971年なので、今後の予定はないかと青土社にも問いあわせたが、「なにかきっかけがないとねえ……」という返事だった。
「きっかけ」があって全集が刊行されたとしても、富永太郎の詩を好きになる人間は少ないだろうと思う。残念だけれど。
商業ベースに乗らないところが、太郎にふさわしいようにも思える。

正岡忠三郎については司馬遼太郎の『ひとびとの跫音』上下(中公文庫)に詳しい。
忠三郎より21齢下の司馬遼太郎が、忠三郎夫人のあや子さんに押しきられるようなかたちで葬儀委員長をつとめる。
この本が富永太郎に触れているということを教えてくれたのは、小向さんだった。あらためて感謝したい。
わたしの知人が、司馬遼太郎から聞いた話をしたあと、同書の単行本をプレゼントしてくれたので、想い出の書になっていたにもかかわらず、富永太郎については失念していた。彼は当時、司馬遼太郎と仕事上の関係があり、司馬遼太郎という人間をたいそう敬愛していた。その仕事が司馬遼太郎の著書として刊行され、これも彼から贈られた。彼はわたしにとって得がたい人物なので、幽かにではあってもどこかで富永太郎とつながっているような錯覚をおぼえるのである。我田引水だと嗤われるとしても。

司馬遼太郎によると、忠三郎は「世間でいう出世ということについて病的なほどに少年じみた嫌悪感をもっていた」。村井康男氏は、太郎が「えらくなれ、とおれに教えこんだ奴らはみんな打ち殺してやりたいような気持になる」と口走るのを聞いている。
ふたりはことばを交わさなくても、わかりあえる関係だったのだろうか。
そういえば太郎の書簡に、「目をみて退屈していることがわかる人間が近くにいないのがさびしい」というような主旨の一節があったのを憶えている。
臨終の床で忠三郎にワガママをいう太郎に、喜びながら対応している空気が、忠三郎の日記からうかがわれる。
司馬遼太郎のつぎの記述は鋭い。

《じかに忠三郎さんに会ったところで、忠三郎さんからどれほどのものを得られるかとなると疑問で、本来、京都にいるこの友人がそういう存在ではないことを太郎は知っていたはずであった。太郎の場合、忠三郎さんというのは一個の巨大なふんいきで、それにくるまれてさえいれば自己を解放でき、手紙を書きつづけることによって自己が剥き身になり、意外なものを自分の中に見出すことができるという存在であったろう。このため書簡の形式によってでもよく、また絵を描いてそれを送りつけてもよかった。ついでながら太郎はこの前年から川端画塾などに通っていて、自分の中にある詩情のもとの赤脹れしたようなきわどいものをあらわに造形化するという表現の場ももっていた》

  *

つぎに富永太郎の詩が少数の人間にしか読まれない理由を考える一助として、わたしが好んで読んできた梶井基次郎の作品と対比させて考えてみたい。

〔参照〕
「梶井基次郎の世界」

上記サイト管理者の未発表原稿「梶井基次郎研究」のなかに
〈終章 梶井基次郎の文学史的位置〉
がアップされている。
そこに昭5・9・27付け北川冬彦宛書簡で、梶井が東大の後輩である小林秀雄(梶井は英文科で小林は仏文科)の"悪口"を書いているのが紹介されている(梶井は富永と同じ1901年生まれで、小林より1歳上)。それなのに梶井は同人雑誌を小林に贈っていたはずだ、わたしの記憶ちがいでなければ。

梶井は富永と同じ肺結核で1932年3月24日、午前2時、母親と弟夫婦に見守られながら死ぬ。母親ひさは息子の『看護日誌』を1冊のノートに、1932年元旦より1日も欠かさず記し、葬儀当日までつづけられたという。(『梶井基次郎の肖像』小山榮雅・皆美社新書・昭和61年)

上記日誌の3月12日、「今日は呼吸困難を訴へて酸素を欲しがる。即と酸素吸入をやる」と記されている。
この描写だけではなく、肺結核という病いへの対応が、梶井と富永では著しい差がみられる。いかに富永が特異であるかということを、逆にわたしは知ることになったのである。
「國文學」特集・作家論の方法(平成2年6月号)で磯貝英夫氏が〔感性の形式〕と題して梶井基次郎について興味深い論を展開している。
以下、引用。

《梶井は、感性面においても、ごく普通の、健康な資質の人である。そういうかれを、常人をこえた鋭敏な、それだけに特異とも感じられる感性の世界へ追いこんだのは、肉体の病いである。一般的生の欲求、行動の欲求が遮断された結果として、生エネルギーが感覚面に集中し、あの鋭角的な感性世界が出現したのである。かれの表現しえた感性世界に、常人にわかりにくいナゾの部分、人をあっと言わせ、不安にさせるような要素は、まったくない。だれもが持っている原感覚、普段は、さまざまな欲求にまぎれて見失われている原感覚を、純化し、追いあげて、鮮烈に呈示してくれたのが、梶井の感性の文学である。梶井文学が、特定のタイプをこえて、広汎なファンを持つのは、そのせいだと言ってよいだろう。
 さらに、梶井が表現した感覚が、すべて快の感覚であることも、ここで強調しておく必要があるだろう》

同誌の特集・梶井基次郎テクストの発見(昭和63年12月号)に鈴木貞美氏が〔六峰書房『梶井基次郎全集』の周辺〕と題しておもしろいことを書いている。(昭和9年、六峰書房版内容見本の写真が掲載されている)
小林秀雄は梶井について「病気でなければ書けぬ、きわめて健康な文学」と評したらしいが、鈴木氏は本誌の別枠で、梶井の内容見本に寄せた小林秀雄の短文の全文を引用し、「小説に背を向けた」小林秀雄についても言及している。

  *

なんか「小林秀雄實記」掲示板に書きこみをしている気分になってきたが(笑)、つぎのことを書いておきたい。
富永太郎と中原中也の関係について。

佐々木幹郎氏は富永太郎について語りながらも、最後は中原中也に結びつけるところが感じられ、中也のこととなると客観性を失うように思える。
これは掲示板でもテーマになったのだが、小向さんのなかでは太郎と中也が共存するらしい。そういうひとのほうが多いが、わたしは共存しない。それはわたしが太郎を愛しすぎているせいではないと思っている。

有名な帽子をかぶった中也の顔写真に、わたしは10代のころから魅せられていたのだが、最近、大岡昇平が「あの写真は何度も修整されている」と記しているのを読み、愕然とした。わたしの手許にある『中原中也――言葉なき歌』(中村稔・筑摩叢書・1990年)の表表紙は中也の帽子をかぶった写真の大写しだが、修整されていないらしく、例の写真とはかなり印象がちがう。顔の角度もすこしちがっている。
なんのために修整したのか、大いに疑問だ。

わたしが呪縛されている太郎の死に顔の写真が修整されていたとしたら、わたしは卒倒するにちがいない。
中也は太郎の死に顔の写真を郷里の母フクに「詩人の死顔です」と付記して送り、山口に帰省したときには、写真を弟たちに見せ、「これは偉い人だったんだよ」と何度も繰り返し話したという。(「中原中也記念館」館報2002、第7号〔企画展〕秋の悲歎・富永太郎――私は私自身を救助しよう。)

ウソくさいじゃないか、太郎について中也が記した文章から判断するなら。詩人として立ちたかった中也のデモンストレーションとしか思えない。
そんな経緯があるからかもしれないが、『中原中也詩集』佐々木幹郎編には、太郎の死に顔の写真が収められている。わたしには不協和音しか聴こえてこない。

太郎が村井康男宛書簡(大正13年11月14日附)に、
「ダヾイストとの嫌悪に満ちた友情に淫して四十日を徒費した」
と記し、臨終の床にも近づかせなかった中也という存在について、善意に解釈しないでほしいと思う。

「ユリイカ」増頁特集・大岡昇平の世界(1994年11月号)所収の〔徹底討議・大岡昇平の世界〕はとてもおもしろかった。討議者は、樋口覚・佐々木幹郎・加藤典洋。
p.190に佐々木氏が中也の「玩具の賦」という大岡昇平を批判する詩について、「本当に言葉で遊ぶというのはそんなものではないんだよ」といい、いい詩だといっている。加藤氏も「なかなかいい詩ですよ」。
掲示板で小向さんがこの詩の価値を訴えておられたので、遅ればせながら記す。わたしはやはり好きな詩ではないけれど。

小林秀雄と長谷川泰子について語っている箇所を引く。

加藤 小林があの時に黙って、「思えば中原とは奇怪な三角関係で協力し合った」とか何とか書かずにいれば、ああいうふうな話はオフレコの形では言い伝えられてもあんな伝説というか物語にはならなかったと思うんです。

佐々木 それは僕も不思議だったんです。それで年譜を調べたら昭和二十二年に大岡昇平が中也論を書くために長谷川泰子のところへ行って、長谷川泰子のところに残っている中也関係の書簡とか小林秀雄から来たものとかを全部持って帰るでしょう。その中に江藤淳の「小林秀雄」の種になった小林の自殺未遂前の手記があったわけです。その手記を大岡さんは保管したままで、ある時小林秀雄がそれを返してくれと言うんです。その時に、「いや、俺は返さない」と大岡さんが言って、「返すのならその前に写しをとるぜ」と言ったんです。そうしたら小林秀雄が「勝手にしやがれ」と怒った。つまり小林が戦後に「中原中也の思ひ出」を書くのはそういうことがあってからなんです。〔『聲』同人雑記参照〕》

上記を読んで、

「二人の関係について、僕に質問しにきた者はいない」「聞かれれば全部、話すよ」
(〔小林秀雄座談:郡司勝義〕「新潮」小林秀雄追悼記念号、昭和58年4月臨時増刊)

が浮かんだ。「二人の関係」とは、小林秀雄と長谷川泰子の関係だが、これを読んだときに、なぜ小林秀雄は自分で記さなかったのだろうと思った。そこらへんの小林秀雄のおかれた(祭りあげられた)窮屈さについて、杉本さんに言及してもらいたい。

なお、わたしの勝手なイメージだが、小林秀雄が唯一その才能に嫉妬したのは富永太郎だったのではないか、という仮説を立てている。
お門ちがいだろうか。


〔追記 2005/11/16〕
本日、コメント欄で杉本氏からご指摘いただきました。
本エントリー末尾の「二人の関係」とは、小林秀雄と長谷川泰子の関係ではなく、小林秀雄と中原中也の関係です。
訂正するとともに、引用を追加します。

▼小林秀雄+郡司勝義
《昭和五十二年の正月、例によって酒がすすみ、雑談に花が咲いていた。
「君、中原中也は、よく売れているのかい」
「よく読まれていますよ」
「ずいぶん中原についても書かれているようだね」
「永遠の青春ですから。中也の詩は」
「どれを見ても、中原と僕との関係が論じられているんだよ。やっぱり、ここが要なのかね。ところが、今日まで一度だって、二人の関係について、僕に質問しにきた者はいないん
だ。一人ぐらい僕に話を訊きに来たっていいじゃないか。それをしないで、何が研究だい」
「それは、……こわくて聞きにくるなど出来ません」
「こわくて出来ないとは、何ごとかね」
「だいたい、中也を論じるのは、三十代、四十代が大半で、せいぜい五十前後ぐらいまでじゃありませんか。それなら皆、先生を尊敬していますし……」
「尊敬している? 馬鹿な。いいか、僕は、自分の原稿料で、自分の生活を必死になってやって来た男だよ。いい読者を得るためには、なんとかいい原稿を書かなくては駄目だと、一所懸命に工夫して来た男だよ。その僕のことを、中原を書きたいって時に、尊敬していますから訊きに行けませんとはなんだい。どこに人間の精神があるんだ、純粋さがあるんだ。要領よくあしらわれて、僕が嬉しがるとでも思っているのか」
「精神のありかたが……」
「ありかた? そんな弱気な言葉を、どうして君は平気で吐くの? 人間は精神そのものでなくて、一体、何があるの? どんなヘッポコ作家だって、作家である以上、精神そのものですよ。それを利いたふりして、何とか彼(か)とか、横から言って何の意味があるの?……もう僕は嫌だね」
「……」
「僕の話をきいて、それから傍証をするのが順当だろう。ところが、傍証を先に立てて僕を論じるんだ。……まあ、現代の病弊といったところだな」
「……しかし、聞きにきたら、全部お話になるんですか」
「話すよ、もうこの世と別れるのも近くなって、隠しておくことはないじゃないか。例の女と関係したのは、何時、何処で、どんな風だったか、聞かれれば全部、話すよ。僕は真剣だったからね。真剣にやったことを、人間は、本当に忘れることが、できるか」》

上記の座談を読んだのは最近だが、わたしの胸はざりざりした。
杉本氏のコメントによると、結局は、だれが訊きにいっても話さないという。
話さないのなら、黙っていてほしい。
わたしのような単純な人間には、とうてい理解できない小林秀雄なのである。

なお、わたしは長谷川泰子より坂本睦子と小林秀雄の関係のほうが謎である。
坂本睦子を描いた大岡昇平の『花影』について、出口裕弘(でぐち・ゆうこう/作家・フランス文学)の【『花影』の謎】(「ユリイカ」/1994年11月号)という一文を読み、眼の醒める想いをした。

蛇足ながら、文藝別冊・総特集「小林秀雄」(河出書房新社/2003年8月)所収の仲俣暁生(なかまた・あきお、1964年生まれ、フリー編集者・文筆家)の【遊星から墜ちてきた「X」の悲劇】が抜群におもしろかった。

※引用文に一箇所空白がありますが、元の文章はつながっています。
 幾度試みても、なぜかアップするとこうなってしまいます。










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miko3355 at 18:07|この記事のURLTrackBack(0)

2005年11月12日

富永太郎の祥月命日

80年まえの本日、午後1時頃、富永太郎は鼻にはめていた酸素吸入のゴム管を「きたない」といって自分の手でとりさり、「ちゅうさん、ちゅうさん」と二言。
2分後、絶命。
(註・「ちゅうさん」とは正岡忠三郎の意で、書簡では「太」「忠様」と記していた)

想念は時間と空間を超えるという。
かつて富永太郎について掲示板でやりとりを重ねた小向さんと、墓前にひざまずくような感覚で、太郎を偲びつつ記す。

富永太郎(1901〜1925)のいのちを奪ったのは奔馬性(ほんばせい)肺結核らしい。勢いよく走る馬のように急激に体を蝕むところから、その病名がつけられたという。それは樋口一葉(1872〜1896)と同じで、ともに24歳で散った。
24年というのは干支を2周している。なにか関連性があるのだろうか。還暦の60年は5周であり、厄年でもある。

たしか吉田松陰が「人間は何歳で死んでも春夏秋冬があり、生として完結している」という意味のことをいっていた。はじめは富永太郎の夭折を痛ましいと思っていたが、よくよく考えてみると、たしかに完結している。太郎は十分に地獄を味わった……もういいという感じ。

それは富永太郎の死に顔に顕れている。
"悲"そのものという感じで、眉と閉じた眼はうつくしすぎる。それは太郎の詩に登場する白くて冷たい陶器のような女性を想起させる。
大岡昇平の『朝の歌』に、太郎を看とった正岡忠三郎の日記が紹介されている。
死に顔の写真を撮ったのも忠三郎である。
しかも忠三郎は、黄泉へ旅立った太郎の黒髪を大切に保管していたのである。

角川書店から刊行する予定だった『富永太郎全集』全3巻は、大岡昇平の死によって宙に浮いた。この全集が刊行されないと、「正岡忠三郎日記」も陽の目をみないという。
「記録」され、それが保存されるという意味は大きい。

正岡忠三郎宛に太郎が書いた書簡(最晩年の4年あまりのあいだに156通)をもとに書かれた大岡昇平の『富永太郎――書簡を通して見た生涯と作品』(紹介されている正岡宛は76通)によって、われわれは多くのことを知ることができる。
その本を読むようすすめてくれたのが、上記掲示板の管理者である。
くどいようだが、感謝に堪えない。

富永太郎の詩にむかうとき、自ずからこころがからっぽになっている。
不思議なことだ。
そして太郎の詩も散文も、現代に通用する新しさがある。

小向さんとのやりとりはプリントアウトしてあるので、たまに読むと、それを書きこんでいた当時の自分の精神生活が甦ってきて、タイムマシンに乗ったようになる。
数ヵ月まえのできごとなのに、ずいぶん遠く感じられる。それはネット世界の特徴でもあるし、その間のわたしが、常ならぬ速度で富永太郎に没入していたからだ。
当然ながら、わたしの生活はめちゃめちゃになったのである。

富永太郎によって侵蝕されたわたしのからだを、さらに小田昭太郎に襲撃されているという現実がある。どうでもいいことだが、このあいだ気づいた。昭太郎って、"昭和"に生まれた"太郎"なのか。ちなみに小田昭太郎の顔は著書の裏表紙の写真しか知らないが、富永太郎には似ていない。意外と眼がやさしくて、遠くをみている感じ。からだからラフな感じがたちのぼっている。これは日本テレビに属していたころの顔だろう。


〔参照〕
富永太郎が眠る多摩霊園

富永太郎についてのページ

「親愛なる愚か者へ……」(2005/3/31)

「フランスへの目差し、日本への目差し」 宇佐美 齋

「松岡正剛の千夜千冊」 富永太郎詩集

「正岡忠三郎」 正岡浩


〔参照追加 2005/11/27〕
「中原中也記念館館報」

【2001・第6号】
◇特別寄稿
「富永太郎の書簡と正岡忠三郎日記」
――正岡家資料について
佐々木幹郎

【2002・第7号】
◇特別寄稿
「我家のダダさん」
富永一矢(1935年生まれ。富永太郎の弟次郎の子息)
◇企画展
秋の悲歎・富永太郎――私は私自身を救助しよう。


〔追記 2005/11/28〕
▼死に顔の写真を撮ったのも忠三郎である。

上記の記述について、コメント欄で太郎次郎さんからご指摘いただきましたので、訂正します。
つぎに太郎次郎さんのコメント(11/28)を再掲します。

……………………………………………………………………………………………

「死に顔の写真を撮ったのも忠三郎である。」とお書きになっていますが、どこでこの確証を得られましたか? 「正岡日記」には、太郎の死んだ日に死顔の写真をとる、という記述はありますが、忠三郎が撮ったとは書かれていません。中原家および正岡家に保存されていた太郎の死顔の写真は、専門の写真館が撮影したものです。

どうか、富永再評価をなさりたいのでしたら、原典、原資料にあたってください。どうも、富永太郎を愛するあまりに、すべての記述が妙に歪んでいるように思えるのですが。

……………………………………………………………………………………………

大岡昇平の『朝の歌』に紹介されていた「正岡忠三郎日記」に《夕方死顔の写真を撮す》とあるのを読み、自分の妄想にまかせて記したのはわたしの誤りでした。
というのも、太郎の死に顔の写真には、撮った人間の念が転写しているように感じられたからです。まったく根拠はありませんが。
実際に写真を撮った写真館の人物は、どういうひとだったのでしょう。富永家とは関係がなかったのでしょうか。










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2005年10月24日

富永太郎の詩篇「影絵」がよびさます心象風景

当blogにむかうときのわたしの心象風景は、詩篇「影絵」から拡がっているので、その詩篇をおいておきたいと思っていた。
はからずも小田昭太郎版の心象風景が加わったのを記念し、ここにおくことにする。

それはまた、富永太郎について蜿蜒とやりとりを重ねた小向氏と、その空間の提供者であるサイト管理者への感謝の念をこめて。
上記サイトの掲示板が、当blogをはじめることになった直接的要因である。
そんなわけで、どこまでもネット上を彷徨しているのである。


……………………………………………………………


影絵    
                 
              
半缺けの日本(にっぽん)の月の下を、
一寸法師の夫婦が急ぐ。

二人ながらに 思ひつめたる前かゞみ、
さても毒々しい二つの鼻のシルヱツト。

生(なま)白い河岸をまだらに染め抜いた、
柳並木の影を踏んで、
せかせかと――何に追はれる、
揃はぬがちのその足どりは?

手をひきあつた影の道化は
あれもうそこな遠見の橋の
黒い擬宝珠の下を通る。
冷飯草履の地を掃く音は
もはや聞えぬ。

半缺の月は、今宵、柳との
逢引の時刻(とき)を忘れてゐる。




大正11年(1922)3月18日、「一高受験の夜」と注した詩篇。太郎、21歳。


【「影絵」の背景】

大正8年(1919)
 3月、府立第一中学校を卒業。
 9月、仙台の第二高等学校(現東北大学教養部)理科乙類(ドイツ語)に入学する。

大正10年(1921)
 10月、仙台の医師の妻H・Sと恋愛関係がはじまり、2ヵ月後に破局。姦通罪のある時代ゆえ(姦通罪に該当する意味での姦通はなかった)、H・Sの母親は、太郎に二高退学を要求。
 (太郎の両親は、太郎とH・Sを結婚させる意思があったが、H・Sが恋愛関係を否定)
 12月15日の朝、正式に二高を中退した太郎は、H・Sとの恋愛事件のために来仙した両親とともに、東京代々木富ヶ谷の家に到着。夜行なので、仙台を離れたのは14日。太郎は15日付けの書簡を正岡忠三郎宛に送っている。
 (忠三郎は、太郎と同時に二高理科甲類入学。3月末、ふたりとも落第。この頃よりフランス文学を読み、親しくなる)

大正11年(1922)
 3月、両親からさんざん説かれて一高の仏法を受験するが、失敗。
 4月、東京外国語学校仏語科入学。
 12月15日付け、正岡忠三郎宛書簡で、太郎は記す。
 「きのふは俺の一周忌だつた。夜中椅子に腰かけたばこを吸つてばかりゐた。俺にはふさはしい一周忌の法要かも知れない。酒が飲みたい」

大正12年(1923)
 3月、出席日数不足のため落第。以後、実質的に休学状態。



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