小田昭太郎にまつわるページ

2006年01月11日

小田昭太郎著『クンサー』を読む

小田昭太郎著『クンサー』(情報センター出版局・1987/7/7)を読了。
なかなか時間がとれないのに加え、小田氏独特の堅牢な重い文体と濃密な内容のせいで遅々として進まなかった。が、残りの3分の2を一気呵成に読みおえたときには、ヘロヘロになったのである。

長篇の優れたドキュメンタリー番組を観たというのが読後感だが、臆面もなくいおう。
小田昭太郎はなんて魅力的な男なんだろう。

わたしがイメージしていた小田昭太郎像そのままが本書からたちあがってきたのは当然ともいえるし、稀有なことにも思える。
本書を読みはじめてすぐにわかったのは、小田氏が直感に秀でた映像人間だということ。そして思想が生理的感覚に裏打ちされていることから派生する強靱さがある。その生理的感覚は生来のものだろうし、身から落ちることがないぶんアテになるのである。
かつて石牟礼道子の『苦界浄土』を読んだとき、石牟礼道子はシャーマンだと感じたのだが、小田昭太郎も同列だという新しい発見をした。

1985年12月15日、小田氏は単身バンコクに飛ぶ。日本テレビのディレクターとして、クンサーを取材するためである。
クンサーはヘロインの生産地ゴールデントライアングルに君臨し「麻薬王」の異名をとる、幻の軍隊を擁する謎の人物で、これまで大勢のジャーナリストが彼へのインタビューを狙って動いてきたが、過去10年以上それを果たせたものはいないし、死者までだしているという。

取材スタッフは4人で、小田氏以外はフリーランス。馬淵直城(カメラマン・写真家)、キム・グウーイ(ジャーナリスト)、押原 譲(写真家)。馬淵氏を媒体として、それぞれがつながっている。日本テレビはこの企画を渋々了承し、小田氏以外のスタッフの身に何が起きても一切責任はとらないという契約書が馬淵氏との間に交わされたという。

当初はマレーシア政府が派遣する特使に同行取材すると聞かされていたが、現地で小田氏はキム氏から知らされる。4人は単独でタイ国境を隠密裡に越え、ビルマのシャン州に潜入するのだ。4人の身の安全をマレーシア政府は保障しない。

クンサー基地への案内人は、馬煊(マシヤン)氏という60年輩の中国人。この人物には滑稽な怪しさがある。わたしは馬氏が登場するたびに不安になった。

P.76より引用。
《ボクは死地に身を晒したい欲望に取り憑かれてはいたが、この取材で決して命を失いたくはなかった。ただ、命を賭すだけの価値をこれからの旅の中に発見できれば、それはそれで満足だと考えていた》

予定より延びていた出発日だったが、「翌朝、出発だ!」と"突然"知らされる。

タイの国際警備警察の検問所で、長いやりとりの末、キム氏と小田氏のパスポートを取り上げられ、他のスタッフの氏名・パスポートナンバーを書き留められたあと、ビルマには越境しないという建て前のもとに通行を許可された。(その手前にある検問所でも予想通りの厳重さだったが、結局は700バーツ徴収されたことで話がついた。この額は兵隊たちの約1ヵ月分の給料に近い)
その夜泊まった粗末な一軒家(アジト)で、不安材料には事欠かないのだが、とりあえず難関の検問所を通過できたという日の深夜。スタッフ全員が疲れ切ってすぐに寝息を立て始めたなか、小田氏だけが神経が妙に興奮しつつ外界に耳をそばだてている。部屋の片隅で、クンサーの兵隊が1名、護衛のために眠っている。
つぎの記述が妙に尾を引く。小田氏の心象風景がわたしの琴線に触れたからにちがいない。
p.104より引用。
《タイに来て以来、極度の緊張と興奮の連続するあわただしい毎日を送り、日常とあまりにもかけ離れた異次元の世界に浸っていたボクだが、この夜、初めて東京にいる二人の我が子のことを思った。日頃、東京にいてもその子らとあまり接する努力もせず過ごしてきた己の情の薄さと身勝手な愛の深さを知った。胸を締めつけられながらボクは寝袋の中に頭をもぐり込ませ、じっと息を詰め続けた》

艱難辛苦を経て小田氏たちはクンサーの基地にたどりつき、クンサーと会見する。
「クンサーに対する敵意に満ち溢れていた」という小田氏だが、クンサーと愉しそうに談笑しているかにみえる写真が1葉掲載されている(p.139)。キャプションは「クンサーに対してボクなりの挑発と皮肉は繰り返し試みた」。この小田氏の顔は、裏表紙の写真とは別人と思えるほどいい男に写っているのはどういうわけか。しかもクンサーと互角にみえる。
1時間半に限定されていた会見が、3時間余にわたって行われたということは、なにか相通じる要素があったのだろう。しかし両者には絶対にクロスしない一点がある。小田昭太郎のジャーナリスト魂とクンサーの商人魂だ。
わたしには、クンサーはどこまでもうさん臭い男にしかみえないのだが。クンサーが小田氏に「今度は日本の女を連れてきてくれ」といったというのも、興ざめだ。

p.147より引用。
《クンサーはアヘンをやめるための条件として海外からの経済援助が必要であることを熱っぽく訴えていた。彼のその計画に協力してくれる者は神にも等しいとさえ語った。アヘンという切り札をアヘン廃業宣言と引き換えに経済援助を手に入れようというのが本心なのだろうか》

基地に来て5日目、突然、取材の準備をするようにと促される。クンサーが待っているという。案内されたのは宿舎からすぐ近くの畑で、十数名の兵隊たちに混じってクンサーが鍬を振るっている。私生活を取材したいと申し込んでおいた返答だという。
クンサーは経済援助を必要としていることを重ねて訴える。
クンサーが履いていたゴム草履を投げ棄て、「俺は裸足でも歩けるぞ。あんた方金持ちにはこんなことはできんだろうが」と大笑いした場面が、わたしには妙にリアルだった。芝居がかったなかに真実が含まれているような気がする。貧しさから這いあがった人間が巨万の富を得たケースに間々みられる、一種の哀しさを感じるのはわたしの偏見だろうか。まったく同情する気にはなれないし、クンサーの生い立ちの真実は知らないけれど。

p.296〜p.300に記されている小田氏のアヘン吸煙初体験とアヘンについての考察は、興味深い。

12月30日、小田氏たちスタッフは基地を離れる。
命よりも大事なクンサー取材のビデオテープは小田氏の手から離れ、アヘンルートでチェンマイのクンサーのアジトまで運ばれる。
小田氏の乗る馬を曳いたのは14歳の少年兵。出発が急だったため、前日、荷役に使われて休息をとっていないので、どの馬も疲れている。
和紙を漉いていたトーンアン村で一泊する。
翌朝、まだ薄暗いうちに起こされる。兵隊たちはすでに出発準備を整えている。
午後1時をすこし回ったころナップポーン村に到着する。少年兵は親切にも、農家の縁側前のコンクリートの上に降りられるように配慮してくれた。
いよいよ終わった。この一瞬の油断のため小田氏は落馬し、左腕を脱臼する。これは逆にいうと、小田氏の力量を超えて動こうとする衝動を抑制する意味で、のちにプラスに転化したようだ。
小田氏たちの馬を曳いていた5人の兵隊とは別に、何人かの兵隊が忍者のように護衛してくれていたことに、はじめて小田氏は気づく。

この村から四輪駆動のピックアップに乗り換えて、来た時と逆のコースを戻るのだが、難関はタイ警察軍のチェックポイント。あくまでもシャン州には潜入せず、タイ領の村々を取材したことになっている。馬淵氏はダミー用のビデオを撮影するために、休む間もなく村の中を飛び回っていた。
荷台に11人の男が乗り込む。スタッフ以外は、村人を装ったクンサーの兵隊たち。

国境警備兵と"村人"の応酬が20分以上続けられた後、責任者と思しきタイ兵が四輪駆動の座席に、M16を手にしたもうひとりが荷台に荒々しく乗り込む。
メーホンソンの警察本部に連行されるまえに、そのタイ兵を買収できるかどうかに望みはかかっている。それはキム氏と馬氏の役目だ。
1時間以上の交渉の末、キム氏が小田氏のパスポートを持って現れた。1冊のパスポートにつき500バーツ、5人だから2500バーツで折り合いがついた。日本円にして2万円。タイ兵の給料は1ヵ月700バーツ。
責任者のタイ兵は、小田氏たちひとりずつに握手を求め、メーホンソンまで護衛していくという。メーホンソンまで車で2時間余り。途中にもう1ヵ所ある検問所は何事もなく通過できた。
12月31日の夜だった。

  *

翌年の1986年3月、小田氏はスタッフ4人がタイ軍の最高司令部から指名手配になっていることを知る。そして2週間にわたって放送した2時間余りのアヘン地帯の記録番組の放送を終えて2ヵ月経ったとき、クオンさん一家が何者かに惨殺されたという知らせが入る。

p.318〜p.319より引用。
《その番組は、麻薬地帯の現状を知らせると共に、クンサーの言い分を全面的に打ち出し、少数民族が大国の思惑に翻弄される姿を伝えようとしたものだった。それはつまり、アヘンがいかに政治的な存在であるかを語るものでもあった。そして番組の中にはクオンさんも王敢勤も登場している。いずれも顔は隠したが、関係者が調査すればその話の内容からそれがだれであるかは判明する可能性は大いにあるだろう。
 とすれば彼らがテレビ番組の中で、ある組織にとって都合の悪いことについてしゃべったり、アヘンの売買やアヘン精製など秘密の現場をボクたちに取材させたことなどが原因で殺されたと考えざるを得ない。何か他の理由で殺されたのだと思いたかったが、どう考えてみてもボクたちの取材が原因であることはほとんど間違いなかった。
 (略)
 ボクはうかつにも罪もない人たちを大勢殺してしまったのだ。クオンさんも王敢勤も生命に危険があることを承知し、それでも綱渡りのようにそれぞれの勢力のバランスの上を巧みに歩き続けていたのだが、ボクたちがおそらくその綱を切ってしまったのだ。殺害された人たちにはなんと詫びれば良いのか、また詫びて済むことではないのだが、麻薬を巡る世界が本当に恐ろしいことを改めて身に滲みて実感したのである》

小田氏たちがメオ族の住むケシの里・ウン村滞在中、宿泊から食事まで世話になり、ウン村を案内してくれたクオンさんから小田氏は、タイの風土に適した品種のメロンの種を調べて送ってほしいと頼まれていた。食事を作ってくれた奥さんは料理上手で、(殺された当時)7ヵ月の胎児を宿していたという。
クオンさんの家には、夫婦の他に流れ者の若者でアヘン中毒者の王敢勤、女房に逃げられた子連れのやもめが寄宿していて、クオンさんが面倒を見ていた。クオンさんは本名を馬烈光という中国系のタイ人で、電気も水道もひかれていない貧しいメオ族の村に不似合いな立派な家に住んでいた。山小屋風だが、水洗トイレから湯の出るシャワーまで完備されている。クンサーとの繋がりがあり、「童顔で朗らか、賢く機知に富んだ男」だと小田氏が形容している謎に満ちた人物だ。

クオンさんの案内でウン村からさらに奥に入った、メオ族が住むパンケア村で案内してもらったケシ畑の光景を、小田氏はつぎのように記している。
p.47〜p.48より引用。
《これが麻薬地帯なのか!
 背丈一メートルばかりのスーッと真っ直ぐに伸びた細い茎に支えられて、その頂に深い赤と言えばいいのか濃いピンクなのか、チューリップのようでいて、それよりももっと可憐で清楚な花弁をつけ、一斉に招くように揺れている。それはいかにも儚く妖しい女たちの群れにも似ていた。そんな花々に混じってポツン、ポツンと所々に純白や紫の花弁が顔をのぞかせている。この美しい草花の精に魅せられて人は廃人と化していくのだろうか》

本書に登場する人物のなかでわたしが惹かれたのはふたりだ。
ひとりは、ナップコーン村からクンサーのいる基地まで小田氏の乗った馬(正確には騾馬)の手綱を曳いたタイシー(シャン人で15歳になったばかりの少年兵)。この10時間の地獄の行程は、読んでいて息が詰まった。
もうひとりは、シャン州のケシ畑を撮影させろと詰め寄った小田氏に、呆れたような、哀れむような表情で、「ミスター・オダ、オマエハ、プロダ」と捨てゼリフを残した、タイ革命軍兵士のクーンサイ中佐。その意味は、村で取材している時から小田氏が滅茶苦茶に疲れているにもかかわらず(当人は疲労度に無自覚)、歩いて3時間かかっても良いから別のケシ畑に案内しろと強引に抗議したことに呆れたと同時に、その意気込みに惚れたとのこと。
本書を読んでいてわたしが唯一笑ったのは、この場面だった。


小田昭太郎の骨子だと思える記述がある。
P.375〜p.379より抜粋。

《この取材の発端ではボクは、麻薬王クンサーなる怪しげなる人物と、一度足を踏み入れたが最後、生きては帰れないと噂されている黄金の三角地帯と呼ばれるケシ栽培地帯に魅き寄せられたにすぎなかった。
 しかし、そこで実際にボクが見、聞いたのは、単なる冒険小説の世界ではなく、必死になって生きようとしている生身の人々の群れだった。ビルマからの独立を願い長年闘い続けてきた闘志たちであり、貧困と略奪から逃れてきた若者たちであり、またボクが初めて眼にするような貧しい暮らしの農民たちの姿である。
 ボクたちの馬を曳いて何キロもの険阻な山道を黙々と歩き続けたタイシーら少年兵たち、そして彼らが時折見せる笑顔からこぼれる白い歯、幼い肩。麻薬のためになど、妻や子と離れてどうしてこんな辺鄙な山奥で暮らしていけるだろう、と淡々と独立への夢を語ったカムクー中佐、そして彼の厚い唇。自分の国が欲しいと熱い眼差しをじっと返してよこしたシャン人の若者、ケシ栽培なしでは生活が成り立たない、と虚ろな目でポツリつぶやいた村長。そのだれもが幸せとは思えない。そしてボクがまだ見ぬシャン州五〇〇万人のアヘンの民たち。 
 これらの人々の頂点にクンサーはいる。彼ら一人ひとりの希望や願望をクンサーはその背に負っている。クンサーはその重い責務をどのように受け止め解決しようとしているのか。ボクには、クンサーと彼を取り巻く人たち、それにシャン州七〇〇万人の人々の行く末を見届ける義務がある。それは十数年ぶりといわれるシャン州潜入を果たし、これらシャン州の人たちの姿に触れ、そのじかの訴えに耳を傾けてしまったテレビ屋のこだわりでもある。
 (略)
 これら過去の例をあげるまでもなく、現在なお麻薬利用は国家の中枢と深い関わりを持ち、国家ベースで動いているのだ。表向きの政治もその本質を探れば暗黒世界の事情と何ら変わるところのない表裏一体の関係だ。麻薬はすなわち国家であるが故に、その持つ意味を、価値を、働きを意図的に覆い隠されている世界なのだ。
 麻薬撲滅へ向けての願いを持つ今、麻薬が本来持っているこうした国家間戦略の構図を具体的に掘り起こし明らかにしていく作業が必要だと思える。
 それらの理由に加えて、クオンさんの死がある。ボクたちの取材がクオンさんら一家を死に至らせたのではないか、との深い悔恨がある。人を殺してはその取材の価値は全くないに等しい、と日本テレビのある上司から厳しく非難されたが、それに対しては弁解の余地はない。しかし、ボクはクオンさん殺害に直接手を下した組織を憎む。そして、クオンさんを殺害しなければならなかった仕組みの、たとえ一端でも鮮明にすることが、いまボクにできるささやかな仇討ちだと信じている。
 結局ボクはBOの申し出を受け入れることにした》

………………………………………………………………………………………

■戦場カメラマンの馬淵直城氏は、『地雷を踏んだらサヨウナラ』(一ノ瀬泰造・講談社文庫・1985年)の巻末に「戦場での一ノ瀬君」という一文を寄せているので、読みかえしてみた。いい文章だ。『クンサー』を読んだことで、以前とはちがう視点で馬淵氏をとらえた。

■『阿片』(角川文庫・昭和27年)は、レーモン・ラディゲの死に打ちのめされたジャン・コクトーが阿片に救いを見いだし、解毒治療の過程を克明に綴った自己究明の書である。以前に読んだとき衝撃を受けたのは、訳者の堀口大學の「あとがき」だった。コクトーは解毒治療が成功したのちも、適当に阿片を愛用し、中毒に悩んだ様子はどこにもないという。
コクトーの回想。
「当時の僕は、絶対絶命の窮地にあった。僕は二つの自殺のうち、手軽な方を選んだ」

「 Drug War 」(2002年8月6日)
上記はクンサーを取材したというMK氏のサイトの一部だが、そこから引く。
悪事を働く人間は頭がよすぎる、という人類にとっての不幸がつづく。

《会議で出た情報で注目したいのは、麻薬の主流が、ケシを原料とするヘロインから、化学薬品エフェドリンを原料とするメタアンフェタミンに移行していることである。気候や土壌に左右され見つかりやすいケシ栽培から、エフェドリンさえ手に入れば簡単な機材でどこでも作れてしまうメタアンフェタミンへ、麻薬商人たちは乗り換えつつある。つまり、官憲の手の及ばぬ秘境ゴールデン・トライアングルが麻薬生産の本拠地である必要がなくなったということである。ワ州統一軍などが5年の猶予期間をもってケシ栽培をストップしたとしても、麻薬市場の大勢に影響がないほどにメタアンフェタミンは流通しているという。メタアンフェタミンはゴールデン・トライアングルでも生産されているが、その他にタイ・マレーシア国境近くの無人島などで生産工場が摘発されるなど、裾野の広がりが懸念されている》

■日本の若者に拡がっているドラッグ乱用を考えるとき、『クンサー』を読んでヘロヘロになっている自分が、優雅だとさえ思うのである。
そんな若者と格闘している水谷修という類い稀な人物について、以前から書きたいと思いながら打ち棄てている。近いうちに書くつもりではいる。


〔参照〕
クン・サーのミャンマー政府への「投降」

BurmaInfo――軍事・麻薬問題(メーリングリストがある)

アヘンとケシの科学
上記は「帝京大学薬学部 木下武司」のホームページの一部で、ホームはこちら


〔追記 2006/1/20〕
本エントリーに関する小田昭太郎氏の声を紹介させていただきます。
当の小田氏や閲覧者にとって、はたして意味があるのだろうか、という疑念を抱きつつアップしましたので、うれしく思った次第です。
2006/1/16付けメールより引用。

《クンサーを読んでいただきありがとうございました。またまた遥か遠い記憶の彼方にあった昔の自分に再会させて頂きました。気恥ずかしいけれど、妙に新鮮でした。あんな風に生きていたことがあったのだなあ。わずか二十年ほど前のことですのにね。ほんとうにご苦労をお掛けしました》










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2005年12月31日

「ボクが現在、ディレクターをやめている理由」考

雑事に背を押されながら、本エントリーをアップしないとわたしにとって2005年が終わらない、という脅迫観念のもとにこれを書いている。

電子メールといういかにも頼りなげな媒体を介して届く小田昭太郎氏のひとりごとには、タイトルがない。ひとりごとにタイトルがないのはあたりまえなのだが、便宜上勝手にタイトルをつけさせていただいている。
10/21にアップした「ボクが現在、ディレクターをやめている理由」の最初のタイトルは「ボクがディレクターをやめた理由」だった。
アップしたあとで読んでみると、過去形と現在形が混在していることに気づいた。これは小さなことなのだろうか。考えたあげくに現在形に変更した。そのことを小田氏にメールで問うと、「どちらでも結構です。どうぞ良いと思うようになさってくださいますように」という返信が届いた。
小田氏にとっては些細なことにちがいないのだが、アップしたエントリーのタイトルを変更したのだから、わたしとしてはお訊ねしておかねばならなかった。

「ボクが現在、ディレクターをやめている理由」について小田氏が自己分析したのを読んだとき、釈然としなかった。小田昭太郎という人物についてほとんど知らないにもかかわらず、なにかちがうと思ったのである。。
小田氏がディレクターをやめていると知ったとき、少なからずショックだった。わたしは小田氏の制作したTV番組を残念ながら観たことがない。しかし1982年に「いま、人間として」に掲載された一文を読んだ限りにおいて、ディレクターであることが小田氏の存在理由だと思えた。
そのショックが完全に消失したわけではないけれど、10/13付けのメールにあらわれているように、小田氏が23年を経ても「すりきれたビデオテープ」時代から変わっていないことがなによりもうれしかったし、大切だと思ったのである。
ひとは刻々と変わってゆく。たいていは齢を重ねるとともに、感心できない方向に変わってゆく。そのなかで変わらずにいることは容易ではない。変わらずにいるということは、なにものかに抵抗する気概を棄てずにいるということだ。

不思議なのは、23年まえの小田氏の一文に衝撃を受けていたにもかかわらず、わたしの内部で深く潜伏していたことだ。こういう事例はわたしには珍しい。富永太郎についてもずいぶん永いあいだ近づかずに放置していたけれど、それとは意味がちがう。
要するに私にとっては、いま、小田昭太郎を再見する必然性があるということなのだろう。

20年ほどまえに小田氏の一文を読んだとき、不思議な文章だなと思った。いまでもそう思う。上野英信や松下竜一、そのほかのドキュメンタリー作家たちの重い文章とはちがう味わいの緻密な重さがある。それが小田昭太郎の文体だ、といわれたらそれまでなのだが。
小田昭太郎は繊細な神経をもつ野人だ。そして"懼れ"を知っているひとだと思う。自然に対して、人間に対して、世界に対して。そして自分自身に対して。
森達也が「ドキュメンタリーは嘘をつく」というのに対し、小田昭太郎は黙ってディレクターをやめている、というのは短絡すぎるだろうか。あるいは表現の場を提供するプロダクションの代表としての営みがあまりにも過酷なので、表現者として熟成すべき要素を奪われているのではないか。

いま、わたしは小田昭太郎著『クンサー』(情報センター出版局・1987/7/7)をゆっくりと読んでいるところだ。本書の出版を機に小田氏は20年在籍した日本テレビを辞めている。
同出版社から藤原新也の『東京漂流』が刊行されたのは、1983年である。
『クンサー』は、まるでドキュメンタリー番組を観ているように描写されている。映像が浮かぶ、独特の重さがあるいい文章である。

  *

1992年4月3日の夕刻、わたしは2年ぶりに径書房を訪ねた。前回は創立10周年のお祝いに立ち寄った。ドアを開くと先客がふたりいて、原田氏を交えて酒盛りがはじまっていた。不思議なことに、その瞬間から初対面の彼らのなかに入ってゆける空気が醸しだされていた。

「ぼくは原田さんに憧れて出版界に入りました」
まっすぐな眼でU氏が自己紹介がわりにいったのが印象的だった。
「●●●で◯◯の編集をしていました」とU氏はつづけた。
「『いま、人間として』に書かれてましたね」
というと、U氏はからだを揺らしながらうれしそうな顔つきで驚きを顕わにした。
「記憶力いいなあ」
間髪を入れず「〈すりきれたビデオテープ〉あれはいい」とわたしがいうと、U氏はやや誇らしげな顔でいった。
「彼にあれを書かせたのはぼくです」
そのとき、無意識下で小田氏の文章が深く刻みこまれていたことに、わたし自身が気づいたのだった。
いまは、某TV局で報道番組を担当しているとU氏がいった。それはわたしが注目している番組だったので、彼の思想背景がうかがわれた。
「小田さんに憧れてTV界に入りました」とU氏はいわなかったが、小田氏と同じ世界に転職したことになる。

横から原田氏の「小田昭太郎!」という声が聞こえたので、記憶にあった〈小田昭太郎〉という活字が刻まれたページを想起しつつ、わたしはU氏から原田氏のほうに視線を移した。
原田氏は恍惚とした表情でぽそっとつぶやいた。
「いい・オ・ト・コ」
このときわたしのなかで、小田氏の文章と原田氏の表情から小田昭太郎像が合成されたのだった。
これほどのインパクトを受けていながら、それ以後小田氏のことを想起することはなかったのである、8/28に当blogに書くまでは。
呆れるほど悠長なビデオテープの祟りではないか。

U氏がTVのドキュメンタリー番組を制作していると知ったので、わたしは知人の同業者について語った。
原田氏が「このひとはいつもいうんだから」と揶揄したので、もしかして原田氏は彼に嫉妬しているのかもしれないと思った。原田氏は偶然彼の制作した番組を観て、感銘を受けていたからである。
U氏の雰囲気が彼とどことなく似ていたので、わたしはU氏を凝視しながら「似てる」とつぶやいた。U氏はその視線に堪えられないという感じで、恥ずかしさに身をよじらせた。わたしは自分の不躾な視線を反省しながらも、視線をはずすことができなかった。どこが似ているのかを検証していたのだ。

もうひとりの客はU氏と親しい龍野忠久氏で、原田氏の親友だった。わたしは原田氏に対してさえ文学について語ったことがないにもかかわらず、いきなり龍野氏に文学についてあれこれ語ったのである。そのどれもに龍野氏は通じていた。

龍野氏は上梓した『パリ・一九六〇』(沖積社・1991/10/1)の書評が掲載された2種類の雑誌のコピーを持参して原田氏に説明していた。
いろいろ話が弾んだあとで、彼はそのコピーをわたしに突きつけ、「あなたにこの本を読んでほしい」と迫ってきた。
どちらかというと飄々としたイメージの彼の豹変ぶりに、わたしは抗する力を奪われた。この種のあつくるしくない迫られかたにわたしは弱いのだ。

U氏が仕事があるからと局にもどるべく立ち去った。当時の径書房が入っていたビルの門限は8時だったので、それ以後は近くの店で社員や来客と呑むのが慣例だった。いつのまにか隣室で仕事をしていた社員は消えていた。龍野氏を交えての3人の会話はおもしろくなるなあと期待しつつ、わたしは流しで原田氏と並んでグラスなどを片づけていた。
背後に視線を感じて振りむくと、龍野氏がさきほどとは打って変わった改まった顔つきで立っていた。
「いっしょに行かないんですか?」と問うと、龍野氏は万感の想いをこめて苦しげに言葉を吐いた。
「ぼくは食道を全部とったんです」
当然ながらわたしの頭には〈食道ガン〉という文字が浮かんだ。自然な流れで龍野氏に寄りそうように階段付近まで見送りにでた。
蹌踉とした足どりで階段を降りてゆく彼の背中には、ただならぬ寂寥感が漂っていた。そんな男の裸の背中をみせつけられたことの苦しさに、わたしは言葉を失ったままその場に呆然と立ちつくした。

原田氏から龍野氏との往復書簡集『死ぬことしか知らなかったボクたち』(径書房・1997/10/31)を贈られて、龍野氏が1993/10/15に逝ったことを知った。わたしが彼の背中をみてから1年6ヵ月後である。

龍野氏の著書『パリ・一九六〇』を読むと、彼がフランス文学者・山内義雄の弟子としてひどく愛されていたことがわかる。
山内義雄は外語時代に富永太郎にフランス語を教え、「少年富永の眼は非常に澄んでいて、迂闊なことは喋れないような輝きを持っていた」と語ったという。胸が躍る話である。
また、龍野氏の著書から彼が小林秀雄と黒澤明の初対談に立ち会ったことを知ったことで、「小林秀雄實記」を運営する杉本氏とのかかわりができ、その掲示板で富永太郎を愛する小向氏との関係が生じた。その関連で予想もしなかったblogを、こうして書いているのである。

1992/4/3にわたしが径書房を訪ねていなければ、杉本氏、小向氏、そして小田氏とは無関係だったのである。この1年、ネット上とはいえ、彼らとの関係が濃密であっただけに不思議な気分になる。
なお、龍野氏は『パリ・一九六〇』の扉にこう記している。

「偶然はつねに必然の交差点に過ぎない」(何人の説であったか)


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2005年10月29日

(10/19) 菊地信義編「課外授業ようこそ先輩」の制作現場から

オルタスジャパン  小田昭太郎


◆授業が成立する要素

 「課外授業」という番組をこれまで何本か制作していますが、その中でも、菊地さんの「課外授業」は、まずまず出来ていた方かな、と思います。

 いうまでもありませんが、番組上で言えば、先生だけが良くても、こどもだけが良くても駄目で、両者の関係の絶妙が求められます。特に、教える側が、実はこどもたちから教えられて、授業のおしまいに「ありがとう」の言葉が心から言えた時、初めて授業が成立します。ですから、演出は勿論必要ですが、出演していただく先生の選択でほぼ番組の出来が決まります。菊地さんの場合は、特にそうで、本当に素晴らしい方のようでした。

◆クレジット表記について

 この番組の場合の著作権は、正確にはNHKにはなくて、NHKエンタープライズとNHKテクニカルサービスとオルタスジャパンの3社が持っています。番組ではそう表記されているはずです。

 もう少しくわしく言うと、ボクたちがNHKと取引する場合には、大別すると4種類のケースがあります。
 /雄倏標 演出業務委託 再委託 ね縮鷙愼 です。

 ,亙源通りです。大抵の場合は"1ヶ月いくら"です。
 △録雄倏標にプラス取材費や編集人件費等々の、ある程度のグロスの仕事の請負の形。
 は番組をまるまるプロダクションで制作する方法です。
 い陵縮鷙愼方式は少し複雑で、課外授業はこの形での制作です。

 「課外授業」の場合ですと、上記の3社が制作委員会を作り、出資します。その制作した番組の放映権をNHKに売り、放映権料を出資比率で分配します。実際の制作はオルタスジャパンが担当し、制作費が制作委員会から支払われます。著作権は3社で持ちます。ですから、放送後は極端に言えば、他の民放局に売っても良いわけで、全ての権利は制作委員会にあるわけです。
                           
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2005年10月16日

「すりきれたビデオテープ」の祟りか?

8/289/3のエントリーで、わたしは小田昭太郎氏の文章を大幅に要約・引用した。
そこまで大胆なことをできたのは、当時、径(こみち)書房の代表だった原田奈翁雄氏とわたしが、20年来の知己だからである。
近いうちに原田氏に手紙を書く用件があるので、そのときにblogをはじめたことを伝え、大幅な要約・引用について事後承諾いただくこころづもりだった。

ところが先日、「小田昭太郎」で検索して当blogにアクセスしてきたひとがあり、うかつにも予期せぬことだったので驚いた。その検索画面から、昭和63年に小田氏が「オルタスジャパン」という制作プロダクションを立ちあげたことを知った。「すりきれたビデオテープ」の掲載から6年後である。
「ようこそ オルタスジャパン」

日本テレビという組織から離れたのは、小田氏の過去の短い文章の流れから意外性はなかった。またHPの扉の文章から、わたしの知っている小田氏が生きていることを知り、深く安堵した。
で、なんらかの方法で小田氏に、blogに不当な引用をしたことをお断りしないといけないと思い、私信をHPの業務宛アドレスにメールすることに躊躇しつつ、実行したのである。
肉筆の手紙のほうが失礼にならないのではないかと迷ったが、blogを読むのにはメールのほうが便利だと考えた。
それが10/7のこと。

つぎに「本」というカテゴリーに収められていた小田氏の文章を、「小田昭太郎」として独立させた。
小田氏の「その後」について書くためであり、それが特別な意味をもつことに気づきはじめたからだった。
そのうえで10/11に原田氏にメールをして、上記と同じ内容のお断りをした。

返信がないことも想定していたので、メールボックスに小田氏のメールを発見したときは感動した。が、ひと呼吸おいてメールを開こうとしたと同時に、動悸が激しくなった。ここまでの緊迫感は珍しい。意識としては冷静に事を運んでいるつもりだが、からだは正直に反応するということ。わたしの脳裡に永年棲みついていた小田昭太郎像が、どう暴れだすのか……。

小田氏の返信はストレートで、23年前の小田氏を彷彿とさせるものだった。小田氏が呻吟しながらも、内的世界がぜんぜん変わっていないと思えたのが、このうえなくうれしかった。
その内容をぼんやりと反芻しながら考えついたのは、この返信を全文「小田昭太郎」のカテゴリーに入れることはできないだろうかということだった。

かつて小田氏の文章に衝撃を受けたのは、障害者を人間扱いしないで利用する健常者の存在に対する憤りであった。が、それ以上に小田氏の感性のやわらかさがわたしの琴線に触れたのだった。他者との距離のとりかたに、小田氏独特の思想がある。
信念をもって動きながら、衝撃を受けたときに見事にぐらつくさまが痛快で、信用できるのである。
その意味あいにおいて、あれから23年を経ても小田氏が変わっていないことを知り、現時点で「記録」しておきたいという欲望をおぼえた。

上記の考えを伝えるために10/14に小田氏にメールをすると、その日のうちに「もし何かお役に立つことであれば何なりとお使い下さい」との返信をいただいた。
お言葉に甘えて、10/13付けのメールの全文を転載させていただく。

  *

●●◯◯◯さま

 はじめまして。思いもせぬメールに出会い、その中味の重さに圧倒されて直ぐにご返事を出すことが出来ないでおりました。ごめんなさい。いま、ボクはスタッフ60人弱のプロダクションをやっています。ドキュメンタリーを中心にドキュメンタリー的なものまで含め、主にテレビの番組の制作をしています。

 この度、遠い昔の自分に再会したことは衝撃でした。正直、忘れていた自分でした。たいした志を抱いて、という訳でもなく、日本テレビで番組を制作することが出来なくなったので、結局はそこを飛び出すことになりました。はじめは仲間6人で制作プロダクションを立ち上げました。それから18年目に入った現在、いつの間にかスタッフも増えてしまいました。お金のことを考えたことのない経済オンチだったボクが今はお金の苦労ばかりで血ヘドを吐いています。やりたい事と実際の世界との落差など当たり前の理屈ですが、その当たり前の現実に戸惑いうろたえる毎日です。ドキュメンタリーで糧を得る難しさに押しつぶされなが
ら喘いでいます。

 ボクはその苦しさや忙しさを理由にして、若いスタッフたちにボクが体験したことや考えたことや悩んだことを伝えることをしていないのではないか、かつて自分が取材する側とされる側の乖離について悩み考えたことなど等々伝えていないのではないか、と思い当たります。そして、見つめなおしてみれば、あの頃の自分と今の自分が全く変わっていないことにも気付きます。自分の昔は振り返らない、と決めていたことは事実です。ですから、これまでのボクの仕事を知っている社員たちはほとんどいません。あの時は、と思い出を話したこともほとんどありません。しかし、そういうことではなくて、伝達することの意味を改めて考えさせられました。昔の体験を価値のあるものにするかどうかはボク自身の意識の問題である、との簡単なことに気付きました。いやはや、青年のような積りでいますが、いつの間にか60歳をいくつか過ぎました。伝達をやめた時、組織や国は滅びるのかも知れませんね。幼稚で申し訳ありませんが、メールをいただいて思ったことです。こちらこそ本当にありがとうございました。心より感謝いたしております。
                                                                        小田 昭太郎

  *
  
「すりきれたビデオテープ」というエントリーの結語に、生意気にもわたしはこう記した。

彼はいま、どのような地点に立っているのだろうか

小田氏の返信が上記にストレートに呼応していたのに、わたしは圧倒された。
「血ヘド」という語句にわたしのからだは過剰反応し、心臓が収縮した。

10/14付けの返信の冒頭に、

どうもボクは妙な世界の入り口に立っているような気がしています。これまで仕事関係以外のメールのやりとりはこれが初体験です

とある。

プライベートなメールのやりとりをできないほど忙殺されている日常がある、ということだろうか。

小田昭太郎氏の文章を当blogに再掲したことにより、わたしは自己の体内に(無意識のうちに)潜伏していた「小田昭太郎ウイルス」に発症してしまった。メールを通してそれに小田氏が感染した、というふうにわたしは解釈している。なぜなら、不当に要約・引用した真意を理解していただくために、わたしは自己を語らねばならなかったからである。
換言すると、かつて小田氏が一人称で書いた過去の文章が、見ず知らずの他者によって三人称で要約・引用された文章を読むという行為のなかで、小田氏は無意識下で録画されていた「小田昭太郎」というビデオテープを観る羽目になったということではないのか。
そのことから派生して、「血ヘド」を吐きつづけることで痛めつけられた臓腑の粘膜を、いささかでも内側から修復できないか(=免疫療法)という荒療治を、不遜にもわたしは考えている。ほとんど妄想の世界に突入している観があるとしても。

10/14付けのメールで、気がむいたときに「つぶやき」を書いていただきたいとお願いしたのだが、これは実現しないかもしれない。

自分の考えをいささかでも深めたいという想いではじめたblogであるが、予想もしなかった展開をしているように思う。
「小田昭太郎」というカテゴリーを育てていけたら、うれしいのだが。
未知の検索者のためにも。


※小田氏のメールの引用文において、「喘いで」の箇所で文章が切れていますが、元の文章はつながっています。アップすると、そうなってしまい、ほんとうに喘いでいる感じです。







miko3355 at 04:54|この記事のURLTrackBack(0)

2005年09月03日

どうして戦争を起こす人がいるの?

前回にひきつづき、日本テレビで一貫してドキュメンタリー畑を歩く、小田昭太郎氏について。(その後の小田氏については知らない。近いうちに、小田氏を知る人物に訊いてみようと思う)
季刊「いま、人間として」創刊第一巻(径書房・1982/6/20)に掲載された小田昭太郎「信号機の方が大事……なのか」を、要約しながら引く。

ある日小田氏は、小学2年生になる娘の「どうして戦争を起こす人がいるの?」という執拗な質問攻めを受けた妻から、「この子になんとか納得のいく説明をしてやってくださいな」という"難問" を押しつけられる。

実際、ボクは弱った。それは右翼といったような一部の人間の問題ではなく、実は今の世の中に生きているボクたち大人全体への厳しい問いかけだったからである

小田氏が担当していた番組「ドキュメント’80」で狎鐐茲鮃佑┐襯轡蝓璽此蹐鮖呂瓩茲Δ箸いΔ海箸砲覆襦L渭澄∨菁8月には終戦特集を組み、戦争体験を伝承し、戦争そのものを告発し続けてきたのだが、12月の開戦日に向けての新しいシリーズでは、別の視点を持つ。戦争を起こし、戦争を支えたのは、実は日本の大多数の国民自身ではなかったのか。加害者としての国民一人ひとりという視点である。

小田氏はシリーズ4作品のうちの1本に、あるディレクターの補佐役として参加することになった。取材ターゲットは慶応大学の学園祭で催される防衛問題に関するパネルディスカッション。

「徴兵制はやむを得ない。」
 「戦うために武器をとることは当然である。」
 「守るべきものは、自由主義体制であり、日本の国土である。」
 「国家のためになら死んでも仕方ない。」
 特に気負った様子もなく平然と語る学生たちの発言はショッキングだった。正直なところ戸惑い、うろたえてしまった。そして、補佐役などとすましていないでこの問題に本腰を入れる覚悟を固めた


小田氏は早稲田の学生時代はノンポリだったが、大学の近くに下宿していたこともあり、連日友人たちが押しかけて来ては徹夜で議論し、翌日はスクラムを組んだ。
あの頃、現状の矛盾を批判し、熱っぽく理想を語り合った仲間は今の時代をどのように考え、どのように生きているのだろう。小田氏は自分自身の"いま"をみつめるためにも、卒業以来14年ぶりに一人ひとり訪ね歩くことにする。

調べてみると、みんな実に様々な職業に就いていた。
誰もがそれぞれの場で必死に生きていた。訪ねた小田氏に対して、何を愚にもつかないことを考えているのだという反応もあった。確かに私的な、自分自身の生き方を求めるために同窓生を訪ね歩くそのことが直接生活の糧に結びついているということで、内心後ろめたさを感じながらも、みんな変わってしまったなあという実感だけはどうしようもなく残る。
一言で言えば、まず現実を認め、現状維持を最優先にして生きていく、それが大人の生き方だという考え方に変っていた。その変貌が今の若い人たちの考え方を作ってきたのではなかったのか。慶応大学の学生たちから受けたショックは、二重の意味で小田氏自身にはね返って来た。

最近、政治問題や社会問題を扱えるドキュメンタリー番組の数は特に極端に少なくなってきた。当たり前のことが当たり前に言えない時代にもなってきた。そんな中で、表現の場を確保していくことはなかなか難しい。思わず慣れ合ったり、居心地の良さに流されていってしまいそうになる。
(略)
 かつては放送中止問題がよく起こった。しかし最近、放送中止問題が起きないのはなぜか。それは企画段階でつぶされていく管理体制がテレビ局にできたということもあるが、それよりもどっぷりとつかって無意識に自己規制をしてしまう制作者の方が大きいだろう


小田氏はこう疑問符で結んでいる。

言いたいことを言う権利を放棄した時、何も言えなくなる時代が来る。そしてそれは、もう始まっている。軍拡の道をまっしぐらに進んでいる今を、ボクたちはどう生きていけば良いのだろう。ボクたちが戦争の加担者とならないために、娘から、なぜ戦争を起こしたのか? と言われないためには

それから23年が経過した。病いは深部まで進行しているといわねばならない。

※季刊「いま、人間として」は、序巻(1982/5/15)〜終刊11巻(1984/12/15)+別巻1〜3計15冊径書房より刊行された。小田昭太郎氏の文章については、1・2巻に掲載された一文以外に読んだ記憶がない。当時、こんな質のよい雑誌をつくれるものか、と驚愕した。読者と出版社の関係において、ブログ的世界を構築していたように思う。

ところで、いまの若者は戦争についてどう考えているのだろうか。
上記の時代の慶応の学生とは格段の差がある、ということだけは明白だ。具体的にどんな差異があるのだろうか。

作家の辺見庸が早稲田大学で行なった連続講座「戦争と〈アカデミズム〉」として2002年4月18日に開催された講演会「戦争の時代にいかに抗するか?」について、以下の感想をおもしろく読んだ。

辺見庸という名のセクシーな乱暴者 →2002年4月/後

辺見庸の講演を聴いた人からの報告

△僚颪手は社会人で辺見庸の本もよく読んでいるので、わたしには共感できる面が多い。しかし意外にも、,梁膤慇検柄畭?)らしい女性の視点が、じつにおもしろく感心した。一見ふざけているようにみえるが、「思想」が感じられた。これからの時代は、彼女のような揺れに堪えうるだけの靱さが必要なのかもしれない。
ある大学の教員が、「近頃の学生のリポートは、女性のほうが優秀で、男性は型にはまっていておもしろくない」という意味のことをいっていたのを思いだした。

△乃述されている辺見庸の講演内容、

けっきょく、どこかが圧力をかけているわけではなく、現場で携わる人々一人ひとりがきちんと考えていないことに起因する、といっていた。個々人はみな "いい人" なのではあるが、退社後に酒場でこのままではだめだみたいなことをいい、しかし翌日はきちんと出社して "as usual" な日常を仕事のなかでくり返してしまう、そこが一番いけないんだ、とも

が印象的だった。
小田氏が身をもって思考し、番組のなかで継承しようとしたことが、ここでリンクするのである。








miko3355 at 22:45|この記事のURLTrackBack(0)

2005年08月28日

すりきれたビデオテープ

歳月を経ても色褪せない文章がある。そのなかのひとつで折りにふれ甦るのが、小田昭太郎の「ビデオテープの再生とボクの再生」である。季刊「いま、人間として」創刊第二巻(径書房・1982/9/20)に収められているわずか2ページの一文だが、内容が異彩を放つ。

以下、本文を要約しながら、引いてみる。
小田氏はTV制作現場にいるディレクター。7年まえに取材し、放送した番組「俺たちはロボットじゃない」の当事者である長崎さん(東京の下町にある製瓶工場の組合の副委員長)からの電話に、小田氏は衝撃を受ける。

取材した当時、その製瓶工場は東京都から多額の助成金を貰い、労働大臣賞を受賞している身障者雇用の福祉モデル工場だった。180名の従業員のうち、106名が心身障害者。しかし実際は、身障者はひどい差別を受けていた。給与や待遇面ばかりではなく、言葉の暴力もあった。
長崎さんたちはその差別と偏見に抗議し、命がけで組合を結成。参加したのは36名。そのうち精薄者23名、身障者10名、健常者は長崎さんを含む3名のみ。一般従業員組合との給料格差や差別をなくすよう会社と団交を重ねた。

小田氏は36名の闘いの結果、彼らの要求を会社側が認める時点までを取材し、放送した。

長崎さんの電話の用件は、放送された「俺たちはロボットじゃない」をビデオに収録し、繰り返し見ているうちにビデオがすりきれてしまい、とうとう映らなくなってしまったが、なんとかならないか、ということだった。

「すりきれてしまって……」という一言が、グサリ、胸に突き刺さった。一も二もなく、なんとかしましょうと答えた。方法はある

すぐに彼から手紙が届き、同封された資料を読んで、小田氏はとことんまで打ちのめされる。それはこの7年間の彼らの組合闘争の記録だった。放送後、すぐに会社側は激しい組合つぶしを行っていた。「福祉モデル工場」の看板はさっさと取りはずし、多くの障害者や精薄者を解雇した。組合員が14名に減っても、長崎さんたちは、5件の裁判をかかえ、会社と闘い続けていた。

しかし一方、取材した側のボクはといえば、取材後の七年間、電話があるまで長崎さんたちのことを考えたことがなかった。本当は認めたくないのだが、ボクの気持ちの中で「この問題はこれで終り」と勝手にケリをつけてしまっていたことはたぶん事実なのだろう。そんな自分が恥かしいし、長崎さんたちに対して何とも申し訳のない気持になってしまう。しかし、それにも増して考え込んでしまうのは、結局、ボクたちは七年前、一体何を取材し、何を放送したのかということについてである

小田氏は、長崎さんと委員長の杉田さんたちに会う。
脳性麻痺障害者の杉田さんは放送の夜、一晩中号泣し続けたという。それは画面の中の自分がそれまでの人生で初めて人間として扱われていたからだった。

ボクたちドキュメンタリー制作者は、表面的な出来事だけに惑わされず日常の中に埋もれている恐ろしさをみつめていきたいと常々考えてきた。しかしボクは、杉田さんたちの沈黙の日々については何の記録もしていない。その沈黙の日々の中で杉田さんたちは、自分たちの内なる差別意識に気づいていった

この「内なる差別意識」というのは、「健常者から差別された心身障害者の仲間同士の間での差別」を指す。二重、三重の差別構造である。

小田氏は文末をこう結ぶ。

いまにしてようやくボクはこの人たちの痛みと闘いの意味に気づいた。七年前、ボクは一体何を取材し、何を放送したというのだろうか――

現実的な問題として、取材者側が小田氏の問うているレベルまでこだわって仕事をすることは不可能であろう。しかしそのことにこだわりつづける限り、番組制作者の視点はぶれないし、なんらかのかたちで番組に反映されると信じたい。
取材した他者が制作者のなかで自己完結することの危うさを、小田氏は訴えているように思える。

これを視聴者の立場で考えると、どういうことになるのか。
あるドキュメンタリー番組を観て感銘を受ける。それをいちいち血肉化させる努力をしていては、正直なところ身がもたない。自分の体験できない世界、知らなかった世界、これから考えてゆくべきテーマ、それらを引きずったまま生きてゆくしかないと思う。
しかしそのような番組も、近頃めっきり少なくなった。

番組のむこう側に存在する制作者に想いを馳せるという意味で、わたしにとって小田昭太郎は忘れがたい人物である。彼を知る人物を2人知っているが、「男が惚れる男」であるように感じた。
小田氏がこの一文を記してから23年が経過した。
彼はいま、どのような地点に立っているのだろうか。
                                    (つづく)
 

miko3355 at 16:17|この記事のURLTrackBack(0)