文学

2016年09月14日

村田沙耶香「コンビニ人間」

村田沙耶香「コンビニ人間」をおもしろく読んだ。
芥川賞受賞にふさわしい作品だと思う。

読みおえて感じたのは、「コンビニ人間」というのは「コンビニ人間」というロボットなのだ、と。
コンビニという職場空間で有能なロボットが、主人公である古倉という36歳の独身女性だ。
小説では「私」という一人称で語られているが、古倉には感情がなく、小説に登場する人間であるかのように自分自身をとらえている。
古倉の他者を観察する眼力は鋭いが、想いをぶつけることはない。

古倉は大学1年生のとき、1998年5月1日にオープンしたスマイルマート日色町駅前店にアルバイト店員として働きはじめる。
大学卒業後もそのままアルバイトをつづけ、勤続18年になる。
店長は交替して、いまは8人目だ。
古倉はコンビニの店員としてはマジメで有能だが、見下される職業として描かれている。

「針金のハンガーみたいな男性」と形容される白羽が、アルバイト店員として加わった時点で小説が加速しはじめる。
わたしが登場人物のなかで妙なリアルさを感じたのは、白羽という男だ。
婚活のためにコンビニを選んだという白羽は、コンビニ店員を差別しながら、本人は無能力である。
白羽は女性客にストーカーのような問題行動を起こすようになり、警察沙汰になるまえに店長の判断でクビになる。
履歴書によると白羽は、大学を中退して専門学校に行き、そこもすぐにやめている。

「使える道具として働いている」という自覚のある古倉は、白羽が異物として排除されたことを、他人事とは認識していない。
古倉は子どものころから、家族を含む他者から異物視されているという怯えをひきずっている。

ある日、店の外で女性客を待ち伏せしていた白羽をみつけた古倉は、近くのファミレスに誘う。
自分に対して差別発言を連発する白羽を冷静に観察する古倉は驚いたことに、白羽に自分と婚姻届を出さないかと提案する。
それがムラ社会に従うということになるなら、古倉にとっても好都合だという理屈である。
白羽は寄生虫として、古倉の古いアパートの浴室に引きこもる。
そしてエサを与えられながら、相変わらず空論を放ち、古倉を口撃する。

古倉は、家族や友人たちの安心のために、18年間勤務したコンビニ店員を辞めた。
店長を含む同僚たちは、白羽という無能力な男と同居している古倉を、なぜか祝福してくれた。
根拠のない安心感である。

指令のないロボットと化した古倉は、自堕落な生活を送るようになる。
自分を養うために古倉を定職に就かせようとして白羽がみつけた派遣社員の面接の日、古倉は暴走する。
トイレに行こうかと入ったコンビニで、「コンビニ人間」というロボットとしての古倉にスイッチが入り、雇われてもいない店で機敏に働きだす。
店員は怪訝な顔をしながらも、スーツ姿の古倉を本社の社員だと思ったらしく、古倉の有能さに驚嘆する。

「コンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」と古倉は白羽に宣言する。
新しい店で、「コンビニ人間」として働く古倉というロボットが復活したのである。

いまや、大学を卒業しても非正規社員として働く若者は多い。
白羽の背後にいる、自己肯定感をもてない若者の現実が気になったのが最大の読後感である。
これは性別を問わない。

一方、いま落合陽一の『これからの世界をつくる仲間たちへ』を読んでいる途中なのだが、コンピューターに陶太される人間が想定されている。



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2009年03月30日

長谷川泰子(村上 護編)『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』

前回の更新は2008/10/28。
雑用に埋没しているうちに、桜の季節になってしまった。
この間、更新していないにもかかわらずアクセスしてくださったみなさまには、ほんとうに申しわけなく思う。

2月初旬、『中也が愛した事務局』からメールをいただいた。
2007/06/03にアップした「中原中也と富永太郎展」を読まれたということで、「中也が愛した女」の舞台公演の案内である。
上演は2009年4月15日(水)〜19日(日)、赤坂レッドシアター
それから数日後、書店で長谷川泰子(村上 護編)『中原中也との愛―ゆきてかへらぬ』(角川ソフィア文庫)をみつけたので入手した。わたしが書店にいた時間は短かったのだが、たまたま買おうとした文庫本の隣りに本書があったのである。
1974年、講談社から刊行され、平成18年(2006年)に文庫化。
本書の編者・村上 護は、中原フク『私の上に降る雪は――わが子 中原中也を語る』の編者でもあり、両書とも聞き書きである。
長谷川泰子については、20代のわたしには神秘的な女性にみえていた。小林秀雄と中原中也の「奇怪な三角関係」や、中也の恋愛詩を読んで。
しかしいまでは、泰子や中也については興ざめである。
『ゆきてかへらぬ』を一気に読み、手許にある関連書を読みかえした。
そして久しぶりに富永太郎と、その周辺の世界にひたったのである。

本書を読んでまず感じたのは、長谷川泰子は基本的にパラサイト人間で浪費家だということ。自分を援助してくれる人間を直感的に嗅ぎ分け、ひとりでは行動しない。晩年はひとりぼっちだったようだが、わたしはそのころの泰子に最も興味がある。
本書の聞きとりが行われた1974(昭和49)年、70歳の泰子の写真が一葉掲載されている。
若いころから短髪だったというが、70歳でも短髪である。

  *

『ゆきてかへらぬ』を参考にした長谷川泰子略年譜

1904(明治37)年  5月13日、広島県広島市にひとり娘として生まれる。
1911年(7歳)    6月に父親が死去。その後、母親とは別居し、義兄にひきとられ、祖母に育てられる。
1923年(19歳)   8月、女優を志して家出。「大空詩人」の永井叔とともに上京。9月、関東大震災に遭い、永井とともに京都へ移る。劇団表現座(成瀬無極主宰)に所属。のちマキノ映画制作所に入社。永井の紹介で立命館中学3年の中原中也を知る。
1924年(20歳)   4月、中原中也と同棲。富永太郎や正岡忠三郎と知りあう。
1925年(21歳)   3月、中也とともに帰京した富永太郎を追って上京。4月、富永の紹介で小林秀雄(23歳)を知る。11月、中原と離別し、小林と同棲。
1928年(24歳)    5月、小林と離別。9月、陸礼子の芸名で松竹キネマ蒲田撮影所に入社。映画「山彦」(清水宏監督)に出演。
1930年(26歳)   12月、山川幸世(築地小劇場の演出家)とのあいだに望まぬ子を生み、中也が茂樹と命名。
1931年(27歳)    10月、「グレタ・ガルボに似た女性」(時事新報社内、東京名映画鑑賞会主催)に応募し、当選。中原から青山二郎を紹介される。
1932年(28歳)    青山二郎の紹介で、京橋の酒場「ウィンゾアー」、銀座「エスパニョール」、中野の「暫(しばらく)」などに勤める。
1936年(32歳)    中垣竹之助と結婚。
1937年(33歳)   12月22日、中原中也が鎌倉で死去。24日の告別式(鎌倉の寿福寺)に中垣竹之助、茂樹とともに参列。焼香の段になって激しく泣く。
1939年(35歳)    中垣竹之助の基金により中原中也賞(第一次/第三回で終了)が創設される。
1945年(41歳)   敗戦直後に中垣と別居。12月、世界救世教に入信。
1959年(55歳)     世界救世教本部(静岡県熱海市)に転居。
1961年(57歳)    東京に移り、日本橋でビル管理人になる。
1993(平成5)年    湯河原の老人ホームにて死去。享年88歳。

  *

「私はあまりによい環境のなかに入ると、いつでも潔癖性が頭をもたげます」という泰子は、小林秀雄と中垣竹之助との生活において潔癖性があらわれる。
中垣より小林に対してのほうが、潔癖症がひどかったのではないだろうか。
有能なプロデューサーである小林秀雄が泰子の狂気を引きだし、秀雄の狂気と泰子の狂気が呼応しているように、わたしにはみえる。
わたしは小林秀雄が好きにはなれないが、泰子に振り回されている姿は好もしい。
理不尽な泰子に徹底的な献身ぶりを発揮する小林秀雄には脱帽する。
何者でもなかった、批評家になるまでの小林秀雄に、わたしは親近感がある。
もともと家事が苦手らしい泰子は、潔癖性がひどくなったため、家でなにもしないでじーっと秀雄の帰りを待っていた。
小林秀雄の母親にすすめられて、泰子は21歳のとき佐規子と改名。
秀雄は泰子との生活を「シベリア流刑だ」といい、「心中するか逃げだすかだ」というところまで追いつめられていた。
ある夜、自制心をなくした泰子は、秀雄に「出て行け」と叫ぶ。
夜中の2時、秀雄は身ひとつで出て行く。
泰子にはそれが意外に思えたほど、徹底的に秀雄に甘えていた。

「もともと好きでたまらなくて、中原と一緒に住んでいたんじゃありません。置いてやるというから、私はなんとなく同居人として住まわせてもらっていたんだから、中原と別れて行くときも、身につまされるものはありませんでした」と泰子は語っている。が、小林秀雄に対しては未練たっぷりだ。
泰子は中也の「田舎っぺ」なところを嫌悪し、東京人である小林秀雄のスマートさとやさしさが気に入ったようだ。
中也は「新しき男」である小林秀雄に泰子を奪われてから執心し、なにかと世話をやいている。
中也と泰子はよくケンカをし、立ち回りになるほどたったというが、わたしには近親憎悪にみえる。
小さくてやせていた中也が泰子に負けていたらしい。

中原思郎(中也の弟)がビル管理人になった晩年の泰子を訪ねてきて、「あんたも落ちるところまで落ちたね」。
即座に泰子はいった。
「とんでもない。私はいままで本当に働いたことがなかったけど、働きながら自分一人で生きていけるようになりました。それが、とってもすばらしいことのような気がするんです」
思郎は感心して「えらいこというね」といった。
「肝(きも)やき息子」と故郷でみなされていた中也が、中原家の財産を食い潰したという背景があるだけに、思郎の言葉には重い響きが感じられると同時に、滑稽でもある。
泰子が短命だったら、ほとんど働かないで一生を終えることができたのに……とわたしは思う。
中原中也は、30歳で夭折したから実家の財産で生きのびられたが、泰子のように長寿であれば悲惨だ。
それは24歳で夭折した富永太郎についても同様である。
中也や太郎とは対照的に、小林秀雄は泰子と同棲していたとき、学生の身で家を借り、アルバイトで生計を立てていた。泰子を養っていたのである。

 *

1924年2月、23歳の富永太郎は自活できず上海から帰国。6月、京都に遁走し、浄土寺の正岡忠三郎の下宿に滞在。9月、下鴨宮崎町に移転。この頃中原中也と交流。10月中旬、最初の喀血。12月、帰京。
翌年の1925年11月12日、24歳で永眠。

長谷川泰子が富永太郎について、つぎのように語っているのが興味深い。

《富永太郎さんはまったくの文学青年のようでした。もの静かな口調で、チェーホフのことなんか語られるんです。
 はじめて富永さんが出町に来られたときは、薄茶色の背広で、髪はわりあい長くしておられて、そのうえにお釜帽をかぶっていました。あの方の髪は赤毛で、こまかくちぢれた髪の毛だったから、お釜帽がよく似合うんです。ちょっと外人のようでした。
 富永さんは東京の人だし、上海などにも行ったこともあったんでしょう。なんとなく洗練されているって感じでした。髪をとくに意識的に長くしてみたり、わざとらしい恰好をつけてる、というのとは違うんです。洋服着てても自然で、いわば人柄で着るというんでしょう。あの人のおしゃれは、人柄の出たダンディズムというんですか、どことなく品がありました。
 あのころ、フランス製の陶器でできた白いパイプを売っていました。長さは三十センチぐらいでしたか、六銭ほど出せば手に入るんです。それを富永さんはいつも持っていて、しょっちゅう手でふいていました。それは素焼きだから、タバコを吸っているうちにタバコのヤニがしみて、いい色になるんです。だけど、長くたつと固まりすぎて割れるので、大事そうにあつかっていました。そんな長いパイプをくわえて街を歩くのが、また恰好いいんですね。京都は古典的な街ですけど、かえってダンディなものがよく似合うところもあるんです》

上記に「赤毛で、こまかくちぢれた髪の毛」とあるが、「中原中也と富永太郎展」でわたしがみた太郎の遺髪は黒い直毛で細かった。
東京人に憧れの強い長谷川泰子にとって、富永太郎は好もしかったのだろう。
夜遅くまで話していた富永は、泰子の手料理で夕食をともにしたらしい。
帰京の旅費(9円)を母親に送ってもらわねばならなかった経済力のない太郎にとって、この夕食は助かったのではないだろうか。当時はみんなが貧しかったので、質素な食事だとしても。

  *

白洲正子は『いまなぜ青山二郎なのか』(新潮文庫)で、長谷川泰子を辛辣に描いている。
白洲正子の周囲では泰子をお佐規(咲)と呼んでいた。
白洲正子がお佐規さんと会ったときには、小林秀雄と別れて20年後で、中垣竹之助とも別れて、その日暮らしをしていた。
かつてグレタ・ガルボに似た美人だったお佐規さんは、「備前焼のビリケン様」に変貌していた。
「小林小林とお咲は言ふが、小林は昔お咲が見た小林ではない」と青山二郎がたしなめると、色をなしたという。
「仕事のない時は、友だちのところを托鉢して回るのよ」と話していたお佐規さんは、大岡さんや河上さんのところを何軒か廻ったあとで、必ず白洲正子の家へ来るようになった。
小林秀雄は「お願いだから止めてくれよ、お佐規のためにならないから」と再三再四いわれたが、断ることはできなかった。
ある日、お佐規さんは呟く。
「今、あたし、横浜の近くに住んでいるので、漁師のおかみさんたちといっしょに岩のりを採ってるの。だけど、あたしは空を眺めて、色んなこと考えてるでしょ、ちっとも仕事がはかどらないのよ。あたしほどの女が、なぜあんなおかみさんたちといっしょに働かなくちゃならないのかと思うと、馬鹿馬鹿しくて……」
このとき白洲正子は小林が「ためにならない」といった意味がわかり、いつものようにお金をせびられたが、渡さなかった。
神通力が役に立たなくなったと知ると、お佐規さんは二度と白洲正子の家には現れなかったという。

  *

長谷川泰子は57歳でビル管理人になり、12年半働いたあと、ホテルの帳場に半年ほど座り、そののちはひとり静かに暮らしていたという。
1974(昭和49)年、70歳のとき、『ゆきてかえらぬ 中原中也との愛』を講談社から刊行。
1976(昭和51)年、72歳のとき、映画「眠れ蜜」(岩佐寿弥監督/佐々木幹郎脚本/シネマ・ネサンス制作)に出演。
それから88歳で老人ホームで死去するまでの16年の歳月は、どのような暮らしだったのだろう。
茂樹について泰子は語っていない。
語りたくない関係だったのだろうか。
結婚した中垣竹之助は、茂樹も自分の子どもとして籍に入れるといったが、それまでどこの籍にも入っていなかったので、手続きが複雑で弁護士に処理させたという。
そんなところにも長谷川泰子の無頓着さがあらわれている。







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2008年10月28日

『いのちの初夜』を書いた北條民雄と川端康成の稀有な関係 

さきにアップした藤本としは1929年(昭和4年)、深恵園からの友だちとふたりで大阪の公立外島保養院に入院し、1934年(昭和9年)の第一室戸台風で壊滅するまで同院で暮らす。
患者達たちは出身地別に他の園にあずけられることになり、藤本としは東京の全生園に行く。
1938年(昭和13年)、外島保養院は岡山の邑久光明園として再建され、藤本としは同園に帰る。
その往復は特別仕立ての貨物みたいな貸切列車にて。駅までは、八方にテントをかぶせて内外を遮断したトラックで移動した。
東京から岡山まで大雨かなんかで1週間近くかかったが、一生汽車には乗れないので藤本としはうれしかったという。
※この貸切列車を揶揄して"お召し列車"と称し、1963年(昭和38年)ごろまで存続する。

『地面の底がぬけたんです』で、藤本としはつぎのように語っている。
(東京・多磨全生園の四年間――p.280〜p.284より抜粋)

《北条民雄さんてご存知でしょう。あの方と全生園で一緒の時期がありましてね、結核病棟におられましたけど、何度かお見舞いに行きました。というのは、あたしたちは委託患者ですから、時々全員が集まっていろんな話があるわけなんです、その委託患者の代表さんから。例えば、注意とか、しなければならないこととか。そうした折に、病室には必ず時々はお見舞いに行ってくれ、あたしたちはこうやってお世話になっているんだから、ということでしたから、何人かずつ病室を見舞うのです。
 北条民雄さんは、本病は軽いお方でしたよ。なんですか、声をかけても返事もしない人で……。ベッドのそばにまいりますと、上をむいて目をあけておられるから、いかがですかとかって伺うでしょう。すると、クルッと背中をむけて、むこうむいてしまいなさる。
 ある時、やはりお見舞いに行った時でしたが、ちょうどお医者さんが診察なさっていたことがありましてね、北条さんに小言を言ってなさってでしたよ。
 あんたは確かに文学者としては優れた人だ、文章も立派な腕をもっている、だけど人間としてはゼロだぞって。まあ、あたしにはどうこう言えませんけど、とにかく、とりつく島がない人でした。頭の中は文章のことでいっぱいで、他のことで口をきくのは、もうめんどうくさいってことだったのでしょうか。何か、いつも考えておられたんでしょうねえ》

医者から「人間としてはゼロ」といわれた北條民雄に、わたしは興味をもった。
そして「人間としてはゼロ」といわれた人間の書いた作品を、読みたくなったのである。
ハンセン病に冒された北條民雄が『いのちの初夜』という衝撃的な小説を書いたということは知っていたが、わたしには遠い存在だった。
で、つぎの本を入手し、憑かれたように読了。
 悗い里舛僚虧襦(北條民雄/角川文庫/昭和30年初版)
◆慊賈棔)黙衞瑛坐棺検拆絏軸(創元ライブラリ/1996年初版)
『火花 北条民雄の生涯』(高山文彦/角川文庫/平成15年初版)

  *

高山文彦については、かつて朝日新聞に連載された神戸の少年Aに関する一文を読み、惹きつける文体と独特の視点に注目していた。
高山文彦『火花 北条民雄の生涯』には一気に読ませる熱気がある。
大宅壮一ノンフィクション賞、講談社ノンフィクション賞をダブル受賞した作品だが、それにふさわしい。
濃厚な内容なので、読みかえすたびに発見がある。
佐野眞一とは文体がちがうが、ノンフィクション作家として同じ資質をもっているように思う。
1978年夏、ある学生組織の執行委員をつとめていた高山文彦は、下宿に帰らず寝泊まりしていた学生会館の地下の固い寝台の上ではじめて『いのちの初夜』を読み、「単純で冷厳な生命肯定の大いなる讃歌」を受けとめる。
以後、北條民雄を書きたいと願いつづけ、東海教育研究所の月刊誌「望星」に連載した『霖雨 北条民雄の生と死』を『火花 北条民雄の生涯』と改題し、改稿と加筆をおこなって1999年、飛鳥新社より刊行。2002年、角川文庫に。

北條民雄はペンネームで、北條は母方の姓。
執筆しなくても、ハンセン病の療養所に入ると本名を棄て、自分でつけた名をなのることを強要された。
いまだに北條民雄の本名は明かされていないし、出身地も徳島県那賀郡としか明らかにされていない。
現存する差別の根深さに慄然とする。
高山文彦は北條民雄の本名を知っているが、『火花』のなかで公表していない。

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北條民雄の略歴】(『火花』を参照)

●1914年(大正3年)9月22日、陸軍経理部配属の軍人を父に、朝鮮京城府(現在のソウル)で生まれる。
●1915年(大正4年・1歳)、母の急病死により両親の郷里徳島県那賀郡の母方の祖父母にあずけられる。
●1917年(大正6年・3歳)、父が退役によって帰郷、父と継母に引きとられる。
●1930年(昭和5年・16歳)、ハンセン病の兆候があらわれる。
●1931年(昭和6年・17歳)、3つちがいの兄が肺結核で他界。
●1932年(昭和7年・18歳)、17歳の遠縁の女性と結婚。
●1933年(昭和8年・19歳)、2月、妻と別離。3月、徳島市の病院でハンセン病の告知を受ける。
●1934年(昭和9年・20歳)、5月上旬、親友と華厳滝へ自殺に行き、親友だけが自殺。5月18日、父に伴われ全生病院に入院。8月、川端康成へ最初の手紙を書き、10月、好意的な返事を受けとる。
●1935年(昭和10年・21歳)、「間木老人」が「文學界」11月号に掲載。このときのペンネームは「秩父號一(ごういち)」。「十條號一」と書き送ったのだが、本名を知っている川端康成の配慮で変えられた。
●1936年(昭和11年・22歳)、「最初の一夜」が川端により「いのちの初夜」と改題され、「文學界」2月号に掲載。このときよりペンネームを北條民雄と定める。「文學界賞」を受賞(賞金100円)し、芥川賞候補となる。12月3日、生前唯一の作品集『いのちの初夜』を創元社より出版。初版2500部、1円50銭。出版から3ヵ月足らずで1万部を売り、1年未満で2万部を売った。
●1937年(昭和12年・23歳)、12月5日午前5時35分、九号病室にて安らかに息をひきとる。"癩"では死にたくない、といっていた北條民雄の願いどおり、死因は腸結核に肺結核を併発。院内での死者番号は1560番。
●1938年(昭和13年)1月、『いのちの初夜』14版を重ねる。4月、川端康成編纂『北條民雄全集』上巻、創元社より刊行。6月、下巻刊行。上下巻とも7500部で刊行され、2円20銭という高価な本なのに版を重ねていった。装幀は青山二郎。

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1933年(昭和13年)2月、小林多喜二が築地署内で虐殺される。
同年10月、川端康成、小林秀雄、武田鱗太郎ら同人8名が文化公論社より創刊した「文學界」は、経営面で難航する。そのことに『火花』は触れていて、文士としての小林秀雄が描かれている。
北條民雄は15歳のとき、小林多喜二の『不在地主』に衝撃を受け、18歳のとき葉山嘉樹に文学志望の手紙を書き返事をもらう。その3ヵ月後、友人らとプロレタリア文学同人誌「黒潮」を創刊。短篇「サディストと蟻」を掲載するが警察に回され、廃刊。
北條民雄はいずれ病が進行し、盲になったときのために女性が必要だと考えていた。そこに北條民雄の思想性をみて、わたしは失望する。

北條民雄が全生病院に入院した3ヵ月後、なぜ川端康成に手紙を書いたのかは不明だという。
療養所では、郵便物はすべて開封・検閲された。
最初の手紙を受けとった36歳の川端康成は、懇意にしている慶応病院の医師に"癩病"について詳しく話を聞いた。肺結核よりも感染率が低く、まったく問題がない、と知った。
川端康成は「才能は大丈夫小生が受け合います。発表のことも引き受けます」と北條民雄宛の手紙に書き、肉親のように情愛を注ぎつづけた。
北條民雄の「間木老人」「いのちの初夜」を、川端康成・小林秀雄および周辺の文学者たちは絶賛した。
芥川賞の選考委員をつとめていた川端は、第三回芥川賞候補になった「いのちの初夜」が受賞できぬことも承知していた。そうなれば北條民雄の身元が暴かれ、肉親縁者にとりかえしのつかない迷惑がかかるからである。

わたしは川端康成の「雪国」は好きな作品なので、創元社からの「雪国」刊行と北條民雄とのかかわりが同時期なのを知り、不思議な気分になった。
川端康成より2歳下の梶井基次郎(1901〜1932)は、1926年(昭和元年)の大晦日、肺結核の療養生活のため伊豆天城山中の湯ヶ島温泉にたどりついた。(このとき北條民雄は12歳)
翌日、1927年(昭和2年)の元旦、湯本館に投宿していた川端康成に面会を求め、親切にしてもらう。
毎日訪ねてくる梶井基次郎に、川端康成は『伊豆の踊子』の校正を依頼した。「作品の心の隙を校正した」梶井基次郎に狼狽した。
梶井基次郎は川端康成に批評してもらいたくて同人雑誌「青空」を持参した。しかし川端康成は、梶井基次郎の作品にまったく関心を示さなかった。
北條民雄に対する川端康成の親身な対応が強調されている『火花』を読みながら、梶井基次郎に対する冷淡さの意味を考えた。

  *

遅ればせながら「いのちの初夜」を読み、北條民雄の才気を感じた。まさに芥川賞にふさわしい作品だ。重苦しい世界を描いているにもかかわらず、北條民雄の筆が冴えているので、一気に読める。業病とされた"癩病"がハンセン病と呼ばれ、快癒するようになったいまでも、「いのちの初夜」は古びていない。
遺作となった「吹雪の産声」と「道化芝居」が、わたしは好きだ。

"癩者"を冷たくつき離した北條民雄の筆致は、同病者には受け入れられないだろう。北條民雄の作品には独特のユーモア感覚があり、創作の核となっているように思う。
「傲然を愛した」北條民雄には全生病院で友だちが少なかった。が、兄のように慕っていた東條耿一(こういち)と光岡良二というふたりの文学仲間との友情にはほっとする。
当然ながら友人たちは、北條民雄を鋭く観察しながらも好意的な解釈をしている。
東條耿一が描いた北條民雄の肖像画は遺影として飾られたが、『北條民雄全集』上巻の巻末に掲載されている。「昭和55年版付録」として。自己顕示欲の強そうな人相で、わたしはあまり好きになれない。

北條民雄の作品や日記を読むと、"癩者"である自己を拒絶したまま死んでいったことがわかる。
「文學界」の追悼特集(昭和13年2月号)に掲載された東條耿一の「臨終記」によると、《俺は恢復する、俺は恢復する、断じて恢復する》が北條民雄の最後の言葉で、息の絶える一瞬まで意識がはっきりしていた。そして《彼の死顔はじつに美しかった》。
光岡良二は同じく上記に掲載された「北條民雄の人と作品」の末尾で、《今にして私は、自分が北條の苦悩を食って生きていた事に気付くのだ。北條は何時までも私の中に、はげしく燃えながら残っているような気がする》と記した。
だが北條民雄のはじめての評伝『いのちの火影』のなかで光岡良二は、文学仲間として屈折した心情を吐露している。

《彼が死んでしまった今、私にはそれらの作品も新進作家としての文壇の評価も、一様に影の薄い、空しいものに思われてくるのであった。確かなものとしてあるのは、癩菌と結核菌に蝕み尽された、土気色に皺ばんだ亡友の死体だけであった。私は自分が彼にとっては結局よい友人ではなかったことをはっきりと感じないわけには行かなかった》

北條民雄の亡骸を眼にして「残忍な生者感」をもった光岡良二は、川端康成に「青年」を改稿し長編を書いてみないかと励ましの手紙を受けたが、自分には小説家としての苛烈なリアリズムが備わっていないと筆を折った。そして戦局がすすむなか、10年ぶりに社会復帰したが、昭和12年、再発により療養所にもどった。
その後、光岡良二は詩や俳句をもう一度書きはじめ、癩予防法改正の闘争にも身を投じ、平成7年、82歳で他界。
北條民雄は社会復帰した"癩者"をテーマに作品を書こうとしていたので、この光岡良二の体験は大いに参考になったであろうと、余計な空想をしてしまった。

東條耿一は北條民雄の遺骨を小さな箱に分骨して、日記とともに手元にもっていた。
眼に大きな不安をもつ東條耿一は、昭和11年に妹・立子の親友・文子と結婚した。
全生病院(明治42年開院)では、1915年(大正4年)、断種手術を条件に院内結婚が認められた。
文子は北條民雄の容体が悪化してからは、身のまわりの世話をしていた。
東條耿一は北條民雄の死後、とうとう盲目となる。
文子が昭和17年1月13日に急性肺炎で亡くなり、ひどく落胆した東條耿一は、同年9月4日に30歳で亡くなった。
東條耿一は熱瘤が内攻し、強い薬を常用したためはげしい下痢を起こし、腹膜を病んだ。さらに痔瘻のために膿が絶えず流れでた。
死の前夜、当直の看護婦に東條耿一は眠れる注射を求めた。しかし看護婦は、眠れる注射をするのは不要、という医師の言葉を冷たく伝えた。
妹の立子は廊下まで追いすがり、看護婦に何度も泣いてたのんだが、拒絶された。
東條耿一はその晩一睡もできないまま夜明けを迎え、朝の9時に息絶えた。死の床にあってもロザリオを手から離さず、祈りつづけながら逝った。

『火花』の序章と終章は、東條耿一の妹・渡辺律子の回想である。
高山文彦は多磨全生園(1941年・昭和16年、全生病院が厚生省に移管され、多磨全生園となる)に暮らす渡辺律子の四畳半の小さな部屋に上げてもらい、2時間話をうかがったという。当時、多磨全生園で北條民雄を知る唯一の人間だった渡辺律子は、2003年、86歳で肺炎にて急死したので、これは貴重な証言となった。
東條耿一は1933年(昭和8年)4月21日に20歳で全生病院に入院し、同年、妹も入院。同年3月に東京帝国大文学部に籍を置く光岡良二も入院していた。

『火花』で印象的なのは、徳島市内に住んでいる高山文彦の友人が昵懇にしている喫茶店のあるじの妻に、北條民雄の墓地を教えてもらい、たどりつく場面だ。
北條民雄の実名の一字が盛り込まれた戒名を刻んだささやかな墓があったが、ある北條研究家が墓を訪れ、写真を撮り、雑誌に発表した。戸籍抄本までとり、役場や小学校、級友たちを訪ねまわり、実父にも会った。それらが親族のこころを傷つけ、墓石から実名の部分を削りとったという。
近くで畑仕事をしていた老婆に北條民雄の墓についてたずねると、実名をあっさり口にし、案内してくれた。
つぎの老婆の発言に、わたしはぎょっとした。ひとの口というのは侮れない。
「そう、たしかに北條民雄という小説家がそこの家から出て、東京のほうで立派な小説を書いて有名になったらしい。もう随分むかしの話やわ。その人はまだ若かったんやけど、なんていうたかのう……。皮膚病、そう、重い皮膚病に罹って死んだと聞いてるわ。顔や手やらが腐る病気らしいわ」

上記の研究家の軽薄さが作用しているのだろうが、それがなかったとしても、どこからともなく北條民雄の消息は漏れるのではないかと思う。
民雄が全生病院に入院するとき、父親は本籍から籍を抜いた。
民雄の死の翌日、遺骨を引きとるために来院した父親は、民雄の友人たちにすすめられて鎌倉の川端邸を訪ねた。
父親は昭和47年、85歳で他界。

  *

1938年12月6日、光岡良二が打った電報で民雄の死を知らされた川端康成(38歳)は、創元社の小林茂(35歳)とともに弔問。川端が生前の民雄と会ったのは1回だけで、前年の2月、鎌倉駅前の蕎麦屋にて。
川端はお葬式の費用を準備してきたが、事務員に費用は病院で負担し、遺族からはいっさい受けないといわれる。
ふたりは霊安所で民雄の死に顔をみて、「綺麗じゃありませんか」「綺麗ですね」とささやきあった。
「綺麗」というのは、癩の結節や斑点があらわれていないという意味である。
いままで弔問にやってきた数少ない人びとのなかで霊安所にまであがったのは、ふたりだけだと知らされた。
川端康成は『寒風』という小説で、北條民雄の遺骸について巧みに表現している。

《小柄の故人はおかしいほど小さく寝ていた。子供のように小さいと言うより、安物の人形でも棄てたようだった。「死ぬ時はずいぶん痩せていました」と事務の人が言うとおり、人間の体らしい厚みはなかった。銘仙の袷(あわせ)を着せられていたが、長くて足はかくれていた。……全く衰えきって力つきて死んだ顔だった。瞼は深く窪み、眼球の形が突き上がっていた。貧相な顔が異常に小さくなっていた。眉も髪も薄い感じだ。可哀想にと言って、むしろ笑いたくなる。骨ばかりの小さい手を胸に合わせていた》

常に自殺願望があり周囲を騒がせながら、23年の短い生涯を生ききった北條民雄だった。
一方川端康成は、1961年、文化勲章を受章し、1968年、ノーベル文学賞を受賞。
1972年4月16日、逗子のマンション・マリーナの仕事部屋でガス自殺。
こちらで、1961年より1972年の自裁まで川端康成の担当編集者だった伊吹和子が、川端康成の人物像について記したのを読むことができる。
以前にわたしは、NHKラジオ第2で伊吹和子の講演を録音したのを聴いたことがある。その内容と重なる部分がある。
自分の小説は編集者との共同作業だと、川端康成は考えていたという。
ノーベル賞の受賞式にでかけるすこしまえ、源氏を訳してみようかと思っているので手伝ってほしい、と川端康成にいわれた伊吹和子は夢中になる。しかし勤務していた中央評論社の上司に、ノーベル賞のお祭り気分のなかで冗談をいわれたのだと鼻であしらわれる。
源氏訳に5年はかかるのだが、川端康成の自裁はそれから3年半後である。
伊吹和子は川端康成がいかに骨身を削って作品を生みだしていたかについて記し、川端康成の死に顔について、つぎのように表現している。

《先生は、白い布の中で眠っておられた。はっと声を呑むほど安らかで、幼児のようなあどけない寝顔であった。父の死を見た七歳の時以来、私はどれほど多くの死顔に逢っただろう。しかし、こんなにうつくしい、こんなに穏やかな死顔は初めてだと思った》

  *

余談だが、臼井吉見『事故のてんまつ』(筑摩書房/1977年)を読みかえした。
本書は「展望」(1977年5月号)に掲載、同年5月30日に単行本として刊行。
川端康成とおぼしき「先生」がひどく気に入った縫子という少女を、熱心に頼みこんで家のお手伝いとして迎える。
11月2日、気のすすまぬ縫子は周囲の説得に負け鎌倉長谷の先生宅に行く。5ヵ月の約束だから、来年の3月までと自分にいいきかせて仕事をしていたが、先生や周囲の説得で4月いっぱいまでに延長した。
さらに、翌年の秋に京都で開かれる国際ペン大会があり、忙しくなるからそれまでいてほしいという先生と奥さまの懇願を縫子は拒絶した。
この縫子の拒絶が自殺のひきがねになった、という一点を柱にして、先生の孤独感と変人ぶりが漂う小説である。
縫子の語りになっているが、病的な先生と、どこまでも健全な精神をもつ縫子との対比がおもしろい。わたしは太宰治『お伽草紙』の「カチカチ山」をちょっと連想した。

北條民雄は死の1ヵ月ほどまえ、院内で療養生活を送っている10代後半の、親しく話したこともない少女への求婚の仲介を光岡良二に頼む。
「もし彼女が受け容れてくれるなら、それだけでも俺は希望をもって闘病していけると思う」というのが、民雄の勝手な論理だ。
11月5日、希望が潰えたことを光岡から知らされた民雄は、「自殺は考えるな。川端先生の愛情だけでも生きる義務がある」とその日の日記に記した。
川端康成にとって、最期の砦がお手伝いとして強引に身辺においた少女だったのだろうか。
少女との自殺願望があったといわれる川端康成は、ほんとうにその少女との心中を考えていたのだろうか。
いずれにしても、わたしに迫ってくるのは川端康成の孤独地獄である。

本書は川端康成の遺族から1997年7月、販売差しとめを要求されたが、8月に和解が成立。
本件について筑摩書房の編集責任者としてかかわっていた原田奈翁雄は、『職業としての出版人』(鈴木均編/中経出版/1978年)で記している。
「展望」1977年10月号に掲載された出版社としての見解(原田奈翁雄が起草)とは別の、原田奈翁雄の個人的見解は、公権力に訴えた川端康成の遺族に対し、「表現者の真の孤独や悲しさに、また、どんな誤解であろうと、表現者をめぐってはあり得るものであるというつき放した認識に、少しく身を寄せてお考えいただきたかった」。
さらに「部落解放」(1977年9月号)に掲載された木藤明の文章「『事故のてんまつ』は長野の部落に何をもたらしているか」で『事故のてんまつ』の少女が育った被差別部落の現状を具体的に描かれているのを読んだ原田奈翁雄は、編集者として自分のいたらなさに気づく。

ついでながら『職業としての出版人』は紙質が悪く装幀も感心しないが、内容は濃い。
ここに執筆した出版人のなかで、わたしが最も興味深かったのは、寺田博が「文芸誌――先輩編集長の薫陶」と題して、坂本一亀とおぼしき編集長について記している一文である。
大江健三郎がノーベル文学賞を受賞したとき、「サルトルのように辞退すればいいのに」と憮然としていいはなった寺田博が、TVニュースで映された。一瞬の映像だったが、そのときの寺田博の顔をいまだに憶えている。


参照

ガラクタ箱

日本のハンセン病問題(ウィキペディア)

多喜二ライブラリー・ブログ










 

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2008年05月28日

マルグリット・デュラスの恋愛能力

マルグリット・デュラスの小説のなかでわたしが最も好きなのは『モデラートカンタービレ』(1958年)である。
「ユリイカ」のマルグリット・デュラス特集号(1985年)については、繰りかえし読んできた。
そんなわたしが、文芸漫談「マルグリット・デュラス『愛人 ラマン』を読む」(奥泉光×いとうせいこう)が掲載されているという理由だけで、月刊文芸誌「すばる」(2008年5月号)を入手した。
たしかに漫談調ではあるが、なかなか深い内容で愉しめた。
『愛人 ラマン』(1984年)はデュラスが70歳のときに発表し、世界的ベストセラーになる。ノーベル賞にふさわしい作家がゴンクール賞を受賞したことでも話題になった。
真の意味で処女作といわれている『太平洋の防波堤』(1950年)は、ゴンクール賞に当選確実といわれながら落選した。
『愛人 ラマン』の受賞の知らせを受けたデュラスは、「ゴンクール賞の審査員たちが34年まえのあやまちをつぐなったのだ」と語ったことが、当時の新聞紙上で伝えられたという。

本エントリーを書くためにデュラスの本を読みかえしていたら、肉体がデュラスの毒素に侵されてしまった。ひどい疲労感をおぼえる。

  *

デュラスは1914年4月4日、仏領インドシナのギアダン(南ベトナム・サイゴンの近く)に生まれる。
デュラスの本名はドナディユ。
デュラスというのはフランスのパルダイヤンにある父親(エミール・ドナディユ)の故郷に近いロット・エ・ガロンヌ県の村の名前。

1921年、赤痢のためフランスに帰国した父親が死ぬ。
未亡人となった母親はデュラスとふたりの兄を抱え、現地人小学校の教師として働くが貧窮する。
(母親の故郷は北フランスのパ・ドゥ・カレ県で、彼女の両親は小作人。優秀だった彼女は奨学金を受けて小学校教員養成所で学んだ)

母親は20年間の貯蓄を注ぎこんで、カンボジアのカンポート近くに払い下げ地を買い求めた。しかし耕作できる土地を手に入れるためには、土地管理局の役人たちを買収しなければならないことを知らなかった母親に与えられた土地は、1年のうちの半分は海水に浸される土地だった。
母親は役所に抗議しつづける。彼女流の論理で現地人を説得し、さらに借金をして高潮を防ぐ防波堤を造るという暴挙にでる。が、防波堤はひと晩で崩壊する。
母親の狂乱ぶりは『太平洋の防波堤』でいやというほど表現されている。
母親は告訴するが、どの段階の役人でも賄賂をもらうことが当然になっていた役所機構で、軽くにぎりつぶされる。

デュラスは熱帯の僻地の人間として育つ。
ベトナム語を話し、靴をはかず半分裸になって暮らしていた。母親はベトナム語を話せず、靴を履いていた。
1932年、18歳のデュラスはフランスに帰国。ソルボンヌ大学で法律・数学などを学ぶ。
つらすぎる少女時代を隠蔽しようとしたデュラスは、18歳以後、海や森に恐怖をおぼえるようになる。

15歳の少女と富裕な男との愛人関係については、『太平洋の防波堤』(1950年)→『愛人 ラマン』(1984年)→『北の愛人』(1991年)と発展してゆく。
『北の愛人』で愛人が中国人だったと記しているが、こちらによると、デュラスが1943年〜1949年(29歳〜35歳)に書いていたノートが発見され、愛人は中国人ではなく、平均的安南人よりも醜い安南人だったという。
当時、ベトナムはフランスに支配された植民地で、コーチシナ(南部)・アンナン(中部)・トンキン(北部)の3地区からなっていた。
いずれにせよ、愛人が醜い能なしのアジア人であることが、デュラスの小説のなかでは強調されている。
愛人が金もちでなければ、デュラス一家との接点はなかったのだ。

デュラスの家族は愛人から金銭面での恩恵を受けながら、人種差別を顕わにする。
小説のなかで15歳の少女は母親や兄に対して、愛人とは肉体関係がないと主張している。お金のためだけにつきあっていることになっている。
上記のノートには、愛人の出現で少女が兄や母親から暴力を受け、汚い言葉で罵られたという事実が記されているという。
そんな彼らが愛人に食事をご馳走になる、当然という顔つきで。

『愛人 ラマン』(河出書房新社)の訳者である清水徹は、巻末の解説で『愛人 ラマン』が告白文学でも私小説でもない、と強調している。
樋口一葉の日記にしても事実のとおりではないらしいが、デュラスの小説について事実との関連性についてあらためて考えてしまった。
デュラスの場合、自身の語りにおいても正確さに欠けるらしい。

フランス・イギリス合作の映画「愛人 ラマン」(監督・ジャン=ジャック・アノー)が公開されたのは1992年1月で、日本での公開は同年5月。
わたしはこの映画を銀座の映画館で観た。たまたま公開直後の初回だったせいか長蛇の列で、しかも高校生のような男女が多かったのには閉口した。主人公が15歳の少女だったからだろう。
さらに上映まえ、映画評論家のおすぎがまっ白のスーツで舞台にあらわれたのには驚いた。
彼の登場を知らなかったからだが、その白がやけに反射しながら肉体から遊離していた(=ぜんぜん似合っていない)のと、映画に関するコメントには同意できなかったことを憶えている。
映画にはまったく失望したのだが、上記の文芸漫談を読んだとき、なぜか映画で観たインドシナの情景が甦ったのだ。映像力の大きさをあらためて認識した。
当然ながら、現地の暑さや空気の匂いなどは体感できない。

1982年、デュラスはアルコール依存症で入院する。ヤン・アンドレアがそのときの闘病生活を記録したのが『M・D』(1983年)である。アンドレアはデュラスより38も齢下の恋人で、ホモセクシャル。
『M・D』にはデュラスという人間が活写されていて、一気に読了した記憶がある。
デュラスの肝臓はアルコールによって限界状態に達していて、入院による荒療治によって細胞の破壊を阻止し得た。ちなみにアンドレアもデュラスと同じくアルコール依存症である。
熱烈なデュラスの読者だったヤン・アンドレアがはじめてデュラスの家を訪ねたのが1980年の夏で、この日からふたりは同居。1996年にデュラスが自宅で死ぬまで16年間つづいた。
デュラスが口述し、アンドレアがタイプを打つという共同作業を含め、アンドレアがデュラスを支えつづけた。

38歳の年齢差のあるデュラスとアンドレアの関係を、「デュラスがアンドレアの生き血を吸って再生し、生き延びた」とわたしはとらえている。
作家に限らず、表現者にはそのような側面があるのではないだろうか。
デュラスはアンドレアの書いた『M・D』によって自分の野性味を再認し、『愛人 ラマン』の新しい文体を得たらしい。
『愛人 ラマン』を書くまでの10年間、デュラスは執筆していなかったという。

1996年3月3日、デュラスは81歳で逝く。死因は咽頭癌。
葬儀は3月7日、パリのサン=ブノワ街の家のすぐ近くにあるサンジェルマン教会でとりおこなわれた。
デュラスの柩の左右には、ヤン・アンドレアとひとり息子ジャン・マスコロが脇侍していたという。このふたりには確執があったらしい。
デュラスの遺志で、版権はアンドレアに移行している。
デュラスの遺体はモンパルナス墓地で朽ちてゆく。

  *

最近、アンドレアがデュラスの死後に書いた『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』(2001年)を入手した。繰りかえしが多いのが難点だし、あまり感銘を受けなかった。
デュラスの死後、廃人のようになってひきこもっていたアンドレアは、母親に電話をして泣きながら助けを求め、ようやく生還する。
デュラスがセーヌの流れをじっとみつめながら「ここはメコン河」と低く呟いたり、死ぬまえに、家族と離れてひとりで死んだ父親のお墓参りがしたい、というくだりは印象的だ。
アンドレアは旅先でデュラスが死ぬことを懼れて決行できなかった父親のお墓参りを、デュラスが死んでから実行する。

アンドレア原作の『デュラス、あなたは僕を本当に愛していたのですか』が「デュラス 愛の最終章」として映画化されたころ、「すばる」に連載された荻野アンナの「私、マルグリット・デュラス」をとてもおもしろく読んだ。2003年1月号〜5月号までつづき、「以下次号」のまま途絶えた。わたしは「すばる」をほとんど買わないので、その後については知らないが、加筆して単行本として出版してほしい。
荻野アンナは、映画「デュラス 愛の最終章」の監督・脚本のジョゼ・ダヤンと主演のジャンヌ・モローが揃って来日した際にインタビューし、それについても上記の「すばる」に記している。
わたしはこの映画にはあまり興味がなく、観ていない。

ここのところ頭のなかがデュラスで溢れていたのだが、デュラスとアンドレアの関係を含めますますわからなくなった、というのが正直な感想だ。
ひとついえることは、デュラスという生身の人間をわたしはあまり好きにはなれないということだ。
とくにアンドレアを口汚く罵ることがデュラスの愛情表現だ、というのは理解できない。
デュラスがアンドレアから殴られたことがあった、というのには驚くほかない。
デュラス、デュラスの家族(父親については不明)、そしてアンドレア、すべて過剰で異様なひとたちである。
作品においても実生活でも、愛憎半ばの世界にデュラスはどっぷりと浸かっていた。
メコン河を偏愛し、多くの作品が生まれたインドシナより、父親の故郷のほうがデュラスの精神を形成しているのかもしれない。
『太平洋の防波堤』の末尾でシュザンヌが「わたしはここから出てゆくわ」「それ以外どうしようもないのよ」というのがとても印象的だ。

  *

カンボジアというと、どうしても石山幸基(共同通信・元プノンペン支局長)が浮かぶ。
防波堤のあったカンポートと、石山幸基が埋葬されたとされるクチョール山は、地図でみるとわりと近い。
こちらによると、2008年1月27日、石山記者没後34年にして遺族がコンポンスプー州の山岳地帯周辺をはじめて訪ね、慰霊式を行ったという。







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2008年03月24日

樋口一葉「にごりえ」――泣きて後の冷笑(斎藤緑雨の評)

雑用に追われ、気になりながらも更新できませんでした。
それにもかかわらずアクセスしつづけてくださった皆さま、ありがとうございました。

  *

昨年、たまたま書店でみつけた田中優子著『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』(集英社新書/2004年7月)は、独特の視点と内容の深さに感心した。
本書で田中優子が論じている一葉の作品のなかから、「にごりえ」をとりあげたい。

本blogで2007年08月07日にアップした「東電OL殺人事件から10年を経て」は、検索によるアクセスがいまもとぎれることがない。
東電OLは風化していないのだなあ、と実感する。
わたしにとって娼婦といえば、「にごりえ」の主人公・お力(りき)である。
東電OLの渡邊泰子は、わたしのなかでは娼婦ではない。

田中優子が巻末でつぎのように記しているのに、わたしはまったく同感である。

自分が置かれている状況、直面している現実が苦痛に満ちていたら、まず「いやだ!」と、全面的に拒否した。「いやだ!」という叫びは、現実生活の中には表さなかった。文字という形で、一葉は叫んだのである

私ももう誰にも遠慮なく「いやだ!」と心の中で叫ぼうと思う。それがなければ、この世にとどまるのは難しいのである

樋口一葉と同じく24歳で肺結核で逝った詩人・富永太郎は、ボードレールの「人工天国」を翻訳し、神経衰弱に苦しんだ。「いやだ!」という叫びを詩に結実させた。
ちなみに一葉が奔馬性結核のため亡くなったのは明治29年(1896)11月23日で、太郎は大正14年(1925)11月12日。
特効薬ストレプトマイシンがアメリカで発見されたのは1944年で、日本では1951年から社会保険適用となる。

明治27年(1894)5月、22歳の一葉は下谷区竜泉寺町(俗称大音寺前・吉原遊郭の近く)から本郷区丸山福山町に転居し、ここが終の棲家となる。
一葉は明治28年(1895)6月2日、川上眉山(かわかみ・びざん)から自伝を書くように勧められ、6月10日か20日ごろ「にごりえ」に着手したらしい。7月いっぱいで第7章までを書きあげ、『文芸倶楽部』の編集者・大橋乙羽に渡し、難航した第8章は8月2日付けで乙羽に送ったらしい。
同年1月20日に初訪問した戸川残花から一葉はドストエフスキーの「罪と罰」(内田魯庵訳)を借り、幾度もくりかえし読んだ。

「にごりえ」の舞台は、丸山福山町にある銘酒屋「菊の井」である。
銘酒屋とは吉原よりはるかに格下の売春宿。
樋口家の付近には、新開地を繁昌させる銘酒屋街がひろがっていた。
お力のモデルは、「浦島」という銘酒屋にいた「小林愛」だという。
一葉は銘酒屋に住む酌婦が相手の男に出す手紙の代筆をしていて、彼女たちから情報を得ていた。
一葉と同じく、お力も頭痛もちである。
「にごりえ」ではお力の頭痛が、理不尽な力に屈せざるを得ない象徴としてあらわれているようにも読める。

田中優子のつぎの見解にわたしは注目した。

娼婦であることのほんとうの苦悩は、身を売ることなのではない。人の死や人の不幸をよそ事にして、「御愁傷さまと脇を向く」しかないことなのだ。お力の中にたまりにたまった悲しさは、そういう非情に身を置くしか生きようのない、人間の悲しさである

7月16日の盆の夜、菊の井の下座敷で客を置きざりにして突然飛びだしたお力は、筋向かいの横町の闇に姿をかくし独りごつ。

ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行(ゆ)かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時(いつ)まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ

気が狂いはせぬかと立ちどまったお力は、客である結城朝之助(ゆうき・とものすけ)に肩を打たれる。16日には必ず来てくれ、とお力は朝之助にいっていたことを忘れていたのだ。
いまだに騒ぎのはげしい下座敷の客を無視して、お力は結城を二階の座敷に連れあげる。
お力は大湯呑で酒をあおり、朝之助に不幸な身の上を告白する。
お力の核となっている話を聞いた朝之助に、「お前は出世を望むな」とだしぬけにいわれてお力は驚く。
お力は朝之助を慕い、諦めつつも「玉の輿」を密かに願っていたらしい。が、それが絶望的であることが確定した。
やさしい言葉をかけつづけてきた朝之助にとって、お力は路傍の石に等しいことが判明した。にもかかわらず、お力は朝之助の下駄をかくして、強引に泊まらせる。
田中優子は《ここの描写に、お力の女としての「甘え」がみえる。これが書ける一葉は「甘え」を知っている》と記しているが、そうだろうか?
わたしには「したたかさ」にみえる。借金を断られても、手紙で再度借金を申し込んだ一葉のしたたかさと重なる。図太いのではなく、せっぱ詰まったうえでのしたたかさなのだ。
お力の告白は朝之助のこころに届いていない。と同時に、朝之助の酷薄さを「お前は出世を望むな」のひとことで表現している一葉には驚嘆する。

妻子もちの源七は町内で少しは巾もあった蒲団屋で、お力に入れあげたため、いまは見るかげもなく貧乏して土方の手伝いをし、八百屋の裏の小さな荒れた家に住んでいる。
お力に逢いに下座敷に来た源七は、間接的に拒絶される。ちょうど上座敷には朝之助がいたが、源七はお力が朝之助を慕っていることは知らない。
どれほど望んでもお力の想いが朝之助に通じないように、源七の想いはお力には通じない。
そんなお力を思い切ることができない源七は、非情にも10年連れそった妻と息子を家から追いだしてしまう。
お力に魂を奪われた源七と女房・お初のやりとりは、きわめてリアルである。

一葉が苦しんで書きあげた第8章の書きだしは、《魂祭り過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕にて、一つはさし担ぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ》であり、結語はつぎのようになっている。

恨みは長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ

源七は、お寺の山でお力を後ろから袈裟がけに切り、自分は切腹。
お力はすべてを引きうける格好で源七に殺されたが、そうでなければ発狂していたかもしれぬという怪しさが、「にごりえ」の世界を覆っているように、わたしは感じる。
富永太郎は発狂の怖れを抱き精神を病んでいたが、一葉もそうだったのかもしれない。

それにしても離縁されても行き処のないお初(28歳くらい)は、息子・太吉をかかえてどのように生計を立てるのか? お初が娼婦に身を落とさないとも限らない。
源七に殺されたお力より、お初の恨みのほうが甚大だと思えてならない。

  *

瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』(小学館文庫/2004年12月)の巻末に、寂聴と前田愛(日本文学研究者)の対談(1983年)が収められているのが興味深い。
半井桃水(なからい・とうすい)や久佐賀義孝(くさか・よしたか)と一葉の関係はプラトニックではなかったと、両者は考えている。
本書の解説を田中優子が書いている。
田中優子の《一葉は見事に「わがままに」金と性を切り離して生きてみせたに違いない》という説に、わたしは同意する。
寂聴は《『にごりえ』は男を知った女でないと書けるものではない》と力説しているが、一葉の作品はわたしが読んだ限り、体験を超える内容のものばかりである。

和田芳恵『一葉の日記』新装版(講談社文芸文庫/2005年4月)は、伝記小説か小説に近い文学作品だという。和田芳恵は一葉の日記を私小説ととらえ、一葉のしたたかさぶりを強調していて、息苦しいほどである。
一葉が桃水と絶交したのは「萩の舎で騒がれたから」ということになっているが、和田芳恵は一葉が《いい人だけれど、仕事や金に縁がないから棄てようと考えていた》とし、《桃水は、逆境にいて、一葉に裏切られたものと考えられる》。

一葉が桃水と絶交の形をとったのは明治25年(1892)6月。同年11月、花圃の仲介で『うもれ木』を「都の花」に連載。この報告がてら松濤軒という葉茶屋を経営していた桃水を訪問し、関係が復活した。
桃水は一葉に対して、いつも親身な対応をしている。
明治22年(1889)、父の死により17歳で家督相続人となった一葉は、母と妹との生活を維持するため、死ぬまで金策に苦しんだ。
一葉の死後、妹のくには借金とりから逃れるために、一時大橋乙羽宅に身を寄せている。

和田芳恵によると、一葉は吉原という存在を社会悪とも病弊とも考えていたらしい。《実行しきれなかった下層社会の改革運動が、作品の世界に昇華した》と、記している。
一葉が丸山福山町に転居してからすぐれた作品を立てつづけに発表したのは、従兄の樋口幸作の死と関連がある、というのが和田芳恵の説である。、
幸作は"癩病"にかかって亡くなった。当時、遺伝と思われていた病気で死んだことを、一葉は宿命と感じたらしい。
一葉は自分の文名に対し、「お祭りだけにさわがれる神田の神輿」ととらえていた。
一葉の根底にあるのは厭世であり、前述したお力の内言は一葉のものだと考えられる。

  *

田中優子は「にごりえ」が無理心中の浄瑠璃になり得る、ととらえている。
余談だが、2月初旬、わたしは久しぶりに生まれ育った大阪に行き、梅田駅近くのホテルに泊まった。わたしの家はここから車で15分くらいのところにあったのだ。
20代の一時期、わたしがよく利用していた雰囲気のよいそのホテルのバーは、残念なことになくなっていた。
そのホテルの並びにある旭屋書店本店には、かつて数えきれないほど立ち寄り、付近の曽根崎界隈で頻繁に日本酒をのみ、お初天神の近くまできたことがあった。中には入らなかったが、なにか異界という雰囲気があったのを記憶している。当時のわたしは、そこが「曽根崎心中」の現場だということを知らなかったのだが。
今回、そのお初天神に参るつもりでいたのだが、結局はかなわなかった。

そんな経緯もあり、2月29日、NHK教育の芸術劇場で文楽「曽根崎心中」が放映されたのを興味深く観た。
お初天神の正式名称は露天神社(つゆのてんじんじゃ)。
元禄16年(1703)4月7日早朝、遊女・お初と手代・徳兵衛が、曽根崎の露天神の森で心中した事件を基に、近松門左衛門が一気に書きあげた物語が「曽根崎心中」。
人形浄瑠璃「曽根崎心中」の初演は、事件から1ヵ月後の5月7日、道頓堀にある竹本座での公演。
曽根崎心中・観音廻りの意味」をわたしは興味深く読んだ。

それにしても、ひとびとはなぜ「曽根崎心中」に共感するのだろうか。
いのちを賭してもいいと本気で思えるひとに巡りあいたい、という願望のあらわれなのだろうか。
庶民にそういう願望があるということに、わたしはあらためて驚いてしまうのである。

  *

このたび、田中優子のホームページを閲覧した。
天皇制撤廃を表明し、法政大学で『カムイ伝全集』を参考書に使う講義をしているのは、わたしがイメージしていた田中優子像と合致する。しかし平成15年に紫綬褒章を受章しているのには、違和感がある。
勝手ながら、田中優子の思想性がわからなくなってしまったのである。

ところで、朝日新聞・夕刊に3月10日から5回にわたって石牟礼道子のインタビュー記事が連載された。
初回で、聞き手・田中啓介の「70年、第1回大宅壮一賞を辞退なさったのは全編ノンフィクションではないから?」という問いに、石牟礼道子は「はい、はい」と答えている。
わたしの以前からの推理では、水俣の患者さんに寄りそい、シャーマンのような感じで作品化した石牟礼道子としては、自分が受賞することに対し懼れ多いという感覚があったのではないか。
ほんとうの理由を理路整然と述べないところが石牟礼道子らしいと、わたしは想像する。
石牟礼道子の思想が筋金入りであることはたしかだ。













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2007年03月13日

「悪人」 (作・吉田修一/画・束芋)

朝日新聞・夕刊に連載されていた吉田修一の小説「悪人」は、2007/01/29で完結した。
こちらにアップしたように、はじめは束芋の挿画に惹かれて読みはじめたのだが、次第に吉田修一の描く小説世界にひきこまれていった。
束芋の挿画を保存したくて、面倒な作業ではあったが、キリヌキをA4版のノートに貼りつけていた。読みはじめた2006/07/01の82回から最終の250回まで、ちょうど1冊に収まった。

束芋の挿画がマンネリ化に陥ったのに比して、吉田修一の筆は冴えていった。
しかしクライマックスにおける場面転回によって肩すかしを喰らわされる、というのが数回あった。意図的なのだろうが、この生理的不快感は不必要だと思う。
タイトルの「悪人」から、単純に「だれが悪人なのか」と問いながら読み進んでいったのだが、途中から愛についての考察に移行していった。その問いはわたしのなかで、いまもつづいている。

ひとを愛するというのはどういうことなのか?

  *

小説「悪人」に登場する人物のなかで、悪人は福岡の大学生・増尾啓吾、小悪人は一方的に増尾に好意を寄せている石橋佳乃だろう。
増尾は東公園で偶然再会した石橋佳乃を「肝試しに」とドライブに誘い、福岡と佐賀の県境・三瀬峠で佳乃を助手席から蹴り出した。
日常生活において、ひとびとが攻撃的になっていると感じはじめてから久しい。
それがネット上で具現化したのか゛"炎上"だろう。
それにしても、増尾の内部に潜む凶暴な苛立ちの正体はなになのか?
動く密室である車内で、脳天気に自分に好意を寄せる佳乃を冷眼する増尾を、作者は巧みに描いている。

《あれは何度目に佳乃がリピートボタンを押そうとしたときだったか、とつぜん「こういう女が男に殺されるっちゃろな」と増尾は思った。本当にふと思ったのだ。
 こういう女の「こういう」が「どういう」のかは説明できないが、間違いなく「こういう」女が、あるとき男の逆鱗に触れて、あっけなく殺されるのだろうと》

同じ東公園で、清水祐一は出会い系サイトで知り合った佳乃と待ちあわせていた。
「ごめん。今日、ちょっと無理。お金、私の口座に振り込んどって。あとで口座番号とかメールするけん」といいすて、見知らぬ男の車に乗りこんだ佳乃をみた祐一は、置き去りにされたという怒りでその車を追う。それは紺色のアウディで、車好きの祐一には手の出なかったA6だった。

助手席から蹴り降ろされた佳乃を目撃した祐一は、自分の車に乗せて送ろうとしたが、拒絶される。そればかりか、佳乃は醜く叫ぶ。

「人殺し! 警察に言ってやるけんね! 襲われたって言ってやる! ここまで拉致られたって!
 拉致られて、レイプされそうになったって! 私の親戚に弁護士おるっちゃけん。馬鹿にせんでよ! 私、あんたみたいな男と付き合うような女じゃないっちゃけん! 人殺し!」

祐一は幼いころ、フェリー乗り場で母親に置き去りにされた。
長崎市郊外に住む母方の祖父母に育てられ、いまも一緒に住んでいる。
祐一は、自分のことを息子のように思うおじ・憲夫の会社で働いていて、クレーン免許を取る気もあったという。
佳乃に「人殺し!」と罵倒され、周囲の人間に無実を叫びつづける自分の姿が見えたとき、「母ちゃんはここに戻ってくる!」とフェリー乗り場で叫んだ幼い自分と重なる。
「早く嘘を殺さないと、真実のほうが殺される」という論理のもとに、祐一は佳乃の喉を必死に押さえつけていた。
結果として、祐一は佳乃を殺めてしまう。

祐一の行動原理の根底にあるのは、幼いころに母親に置き去りにされた体験であり、人生の局面で極端なかたちで甦るという設定になっている。

  *

馬込光代は佐賀市郊外、国道34号線沿いにある紳士服量販店「若葉」の販売員。スーツコーナーを担当している。来年、30歳。双子の妹・珠代と2DKのアパートで暮らしている。周囲には田んぼしかない。
3ヵ月前、初めて出会い系サイトを覗き、新着欄にあった長崎に住む清水祐一と名乗る男を選んだ。そのときは「会おう」といわれたとたんに返事を出せなくなった。3日前、勇気を振り絞って出したメールに祐一は親切に応対し、メール交換が3日も続き、週末に佐賀駅前で会う約束をする。祐一の車でドライブし、灯台を見に行くのだ。
呼子の灯台に行くはずだったが、いきなり祐一は光代をホテルに誘う。
光代は珠代と暮らす不自由のない部屋に「今日は帰りたくない」と強く思い、承諾する。

祐一にしがみついたまま光代は、「本気で誰かと出会いたかったのだ」と告白する。
祐一は「俺も、本気やった」。
ふたりの共通項は、切実に"だれか"を求めているが得られないという渇きと、自分を変えたいという願望である。どう変えたいという輪郭はみえないが、とにかく変えたいという意味なのだろう。お手軽ともいえるが、ふたりにとっては切実なのである。
顔のみえない"だれか"を求めているから、出会い系サイトにアクセスするのだろうか。
わたしにはその辺の心理が、まったくわからない。

《祐一はまるで壊そうとでもするように乱暴に光代のからだを愛撫した。そして、まるで直そうとでもするように、強く抱きしめてきた》

上記は光代と人生をやり直したいという願望のあらわれか。それとも、佳乃を殺めたという事実を抹消したいという衝動なのか。
ともあれ、ふたりはいきなり肉体関係をもち、同時に恋愛関係に突入したようにみえる。

火曜日、仕事を終えた祐一は、職場にいる光代のケイタイに電話する。
会いたくてたまらない想いで、長崎から車で片道2時間の佐賀まで祐一はやってきた。
あさって長崎で会うことを約束し、祐一は光代をアパートまで送る。
祐一を見送ったあと、しばらくアパートの階段に座り込んでいた光代が二階の自室へ入った直後、祐一の車が猛スピードで滑り込んできた。
光代はバッグを反射的に取り、玄関を飛び出す。
車を降りてきた祐一は光代を助手席に押し込んだ。
翌朝、ふたりは仕事をさぼり、光代の案内で海沿いに立つ民宿兼レストランに入る。
店はかなり混雑していて、ほかに客のいない二階に案内される。
祐一は「俺、……人殺してしもた」と告白する。
ふたりは料理の途中で店を出た。
「これから警察に行くけん」という祐一に、「一人で行くの、怖かったとやろ? わたしが一緒に行ってやるけん」と光代はいう。
ところが唐津署の前で、光代は豹変する。
祐一と出会って、やっと幸せになれると思っていた光代は、「逃げて! 一緒に逃げて!」と叫んでいた。

ふたりはラブホテルを転々とし、車は佐賀と長崎の県境を出たり入ったりした。
有田で、光代が「灯台に行こうよ」と誘い、「今は使われとらん灯台がある」と、祐一はやっと車を捨てる決心をした。
有田から電車とバスでやってきたふたりは、灯台がある小さな漁港で降りる。
急な林道を抜けると小さな駐車場があり、その先がフェンスの張られた灯台の敷地だった。
廃墟と化した管理小屋の床に祐一はベニヤ板を敷き、捨てた車から持ち出した寝袋を投げ込んだ。
運よくトイレの水は止められていなかった。
清潔とはいえないトイレを光代は2時間かけて掃除し、祐一はその綺麗さに感心する。
食料や日用品は下のコンビニで買っていたが、店員のおばさんに怪しまれる。

祐一との特異な正月をすごしながら、光代は回想する。
去年の大晦日、光代は6時すぎに仕事を終え、いったん自転車でアパートに戻ってから実家に泊まった。元旦は母が作ったおせちを家族と囲み、近所の神社に初詣に行った。
明日からは仕事だが、時間をもてあまし、年中無休のショッピングセンターへ。
まず書店に寄ってからCDショップに入った。そこで一瞬、目がかすみ、自分が泣いていることに気づいた光代はトイレに駆け込む。
自分には、欲しい本もCDも、行きたいところも、会いたいひともいなかった。
理由もないのに涙が溢れ、気がつけば声を上げて泣いていた。

光代は公衆電話から妹の珠代に電話をする。
昨日まで実家には刑事が張りついていたし、ワイドショーで光代と珠代の暮らすアパートの映像がボカシ入りで映ったという。
「でもね、私、こんな気持ちになったと生まれて初めてで、一日でもいいけん、一緒におりたくて」という光代に対して、珠代は「本当にその人のことが好きなら、いくら辛くても、アンタがその人を警察に連れていってやらんと」と諭す。

逃亡中の清水祐一の顔写真が公開され、マスコミが長崎市内にある実家に押し寄せる。
一緒に暮らす祖母の房枝はマスコミの理不尽な取材攻撃にあうが、頑なに口を開かない。
房枝の夫・勝治は市内の病院に入院している。
毎日見舞う病院までのバス代・往復980円は、1週間の野菜代を1000円で抑えたい房枝には贅沢な出費である。それだけの犠牲を払うのは勝治が見舞いを強要するからだが、行っても邪慳にされる。

  *

一方、ニュースになった殺人事件の犯人が自分だと思いこんでいる増尾は、名古屋市内にあるサウナに逃亡していた。
しかし佳乃の首に残っていた手の跡が、増尾の手よりも間違いなく大きかったという決定的理由で、一晩警察で事情聴取されただけで無罪放免される。
増尾は友人たちに「話を訊きたいヤツはすぐに天神のモンスーンに集まれ」というメールを一斉送信する。モンスーンは増尾の行きつけのカフェである。
増尾は、自分に一方的に好意を寄せる佳乃が携帯に送ってきた複数のメールを仲間にみせながら、警察での取り調べの様子を吹聴する。
増尾と大学の同級生である鶴田は、「まるで殺された女のからだが、男たちの手から手へ回されているようだった」と感じる。が、携帯が回ってきたとき、鶴田は読みたくないのに、「視線が勝手に手元に落ちる」。

理髪店を営む佳乃の父・石橋佳男は、妻の里子と久留米に住んでいる。
佳男は、娘の元同僚に教えてもらった増尾の住む豪華マンションを見つけ出し、チャイムを鳴らすが不在。そのあと路上で増尾を襲う。ジャンパーのポケットにはスパナを忍ばせている。が、増尾に肩を蹴られてガードレールに後頭部をぶつける。
佳男が目を覚ましたのは病院の簡易ベッド。
病院に佳男を連れてきたのは、偶然通りがかった増尾の親友・鶴田である。
鶴田は、佳男を増尾のいるカフェに案内する。

《雪の中、増尾の足にしがみついとったお父さんの姿を見て、うまく言葉にできんとですけど、生まれてはじめで人の匂いがしてたっていうか、それまで人の匂いなんて気にしたこともなかったけど、あのとき、なぜかはっきりと佳乃さんのお父さんの匂いがして。あのお父さん、増尾と比べると悲しゅうなるくらい小さかったんですよ》

並んで歩きながら、佳男は鶴田に話しかける。

「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うもんがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ」

このように諭す佳男自身が、自分の娘を三瀬峠で置き去りにした増尾をスパナで殴ろうとしているのだから、滑稽である。娘を殺した犯人より、娘の愛情を踏みにじった大学生を許せない。佳男は、娘が出会い系で知り合った男たちを相手に売春していたらしいことを、頭から否定する。
酷なようだが、わたしは佳男のような直情型の親が苦手だ。

到着した総ガラス張りの店で、増尾が仲間に対して自分の襲撃をあざ笑う姿を目撃する。佳男の登場に血の気が引いた増尾に、憎さが吹き飛んで途方もなく悲しくなった佳男はいう。

「……そうやってずっと、人のこと、笑って生きて行けばよか」

  *

コンビニの前で警官に声をかけられた光代は、パトカーで派出所に向かう。
派出所のトイレの窓から逃亡した光代と、山を下りる決心をして管理小屋を出た祐一は、真っ暗な藪の中で感動的な再会をする。
小屋に戻り、祐一はしがみつこうとする光代のからだを乱暴に倒し、首筋に手をかけた。
背後でドアが開き、追ってきた警官たちのさしだす懐中電灯がその光景をとらえた。
  
小説のラストはそれぞれの供述が並べられている。
要約する。

●金子美保

(美保がファッションヘルスで働いていたとき、祐一は毎晩のように指名し、一緒に暮らそうと小さなアパートまで借りていた。しかし美保は、結果として祐一の気持ちを踏みにじった)

いつものようにあの人が作ってきてくれた弁当を店の個室のベッドで食べていたとき、「母親に欲しゅうもない金、せびるの、つらかぁ」「どっちも被害者になれんたい」といった。
そのときのあの人の顔がちらついてしかたない。
もちろん、あの人の供述通り、殺意を抱いたのかもしれないが……。

●清水祐一

逮捕された翌朝に祖父が死んだことは、刑事さんから聞かされた。
祖父に対しても、祖母に対しても、本当に申し訳ない。
祖母が石橋さんや馬込さんの家に謝罪に行って、まだ会ってもらえないことも知っている。
佳乃さんのご両親には、手紙を書いているが、返事はない。
自分は、女性を追いつめることに快感を覚えていた。
追いつめた女性が苦しむところを見ることで、性的に興奮していた。
馬込さんに人を殺したことを告白することで、自分が凶暴な男だと思わせて、服従させようとした。
自分は死んで詫びるべきだと思う。
馬込さんのことは初めからぜんぜん好きではなかった。一緒に逃げるときの金ヅルとしてそういうふりをしているうちに、自分でも本心だと勘違いしていた。
馬込さんには早く事件のことを忘れて、幸せになってくれと伝えてほしい。

●馬込光代

今さらあの人からの伝言なんか聞かされても、迷惑なだけ。
最近、また妹とアパートで暮らすようになり、会社の人たちの尽力で職場にも復帰。昔のまんまの生活。
馬鹿みたいに舞い上がっていた私をあの人が本当に利用しただけなのだろう。
最近では事件の記事を雑誌で読むこともあるが、自分じゃない誰か別の女性のことが書かれているようで……。
この前、初めて三瀬峠の石橋佳乃さんの亡くなった場所に花を供えた。
あの人が佳乃さんの人生を暴力で断ち切ったことを許した自分には、一生をかけて佳乃さんに謝り続ける義務がある。
佳乃さんが亡くなった場所に供えられた花は枯れていたが、目印のようにオレンジ色のスカーフが、ガードレールに巻かれていた。
これからは月命日には、必ず謝りに行くつもりだ。
あの人のおばあさんは何度も実家を訪ねてきてるそうだが、どんな顔で会えばいいのかわからない。おばあさんには何の責任もないことだけは伝えたい。
逃げ回って、灯台の小屋で凍えて怯えているだけの毎日が未だに懐かしく、思い出すだけで苦しい。

小説「悪人」は、光代の問いかけで終わっている。

世間で言われとる通りなんですよね? あの人は悪人やったんですよね? その悪人を、私が勝手に好きになってしもうただけなんですよね? ねぇ? そうなんですよね?

  *

「俺、もっと早う光代に会っとればよかった。もっと早う会っとれば、こげんことにはならんやった……」という祐一の述懐は、真実だと思う。
「暴力的に佳乃の人生を断ち切った祐一を許した自分には、一生をかけて佳乃に謝り続ける義務がある」という光代の認識には、上等な人間性を感じる。
祐一に対する光代の愛情もまた、暴力的に断ち切られた。
「早く事件のことを忘れて、幸せになってほしい」という祐一の伝言は、光代への精一杯の愛情表現なのだろう。

4月に単行本として刊行する「悪人」を入手したいとは思わないが、映画化されたらおもしろいだろう。
祐一と光代にだれが配役されるか興味があるし、彼らの演技を観たい。
祐一を含蓄のある複雑な人間のように作者は描いている。
そんなキャラクターの人間が、カッとなって危険な行動をとるのは不自然だ。しかし現実世界の人間も矛盾に満ちているから、それでいいのかもしれない。
たしかなのは、わたしたちが「悪人」に登場する人物を嗤えないということだ。














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2006年03月23日

作家と編集者の資質

「内田 樹の研究室」2006/03/12の村上春樹恐怖症に引用されている村上春樹の「ある編集者の生と死 安原顯氏のこと」(『文藝春秋』/2006年4月号)を読み、全文を読みたくなったので雑誌を入手した。
読後感としては、名状しがたい不快感。安原顯氏に対してではない。村上春樹に対してである。
わたしは安原氏のようなタイプの人間は苦手だし、村上春樹の自筆原稿を担当編集者だった安原氏が古書店に売り渡したの言語道断だと思う。しかし村上春樹が安原氏を「個人的な友だちだと思ってきた」という記述に、違和感をおぼえたのだ。
以前に、わたしが好感をもつ村松友視の『ヤスケンの海』(幻冬舎文庫/平成17年)を読んでいたせいかもしれない。ヤスケンとは安原顯氏のことで、村松友視と安原氏は中央公論社の編集者として、文芸誌「海」を担当していたのである。
同書に、ふたりの関係を端的に描写したくだりがあるので、引いてみる。
p.165〜p.166

「俺が中央公論から出て行くってことはだよ、おまえが重要なセコンドを失うってことだからさ」
「ああ、五点勝ってると思ってるボクサーである俺に、三点負けてんだよバカ! っていうセコンドがいなくなったって話か」
「だから、俺みたいなセコンドは絶対にいないからさ、これからはセコンド抜きで、この中央公論って雰囲気と闘わなきゃならないって言ってるんだよ」
「ヤバイな、それ」
「ヤバくちゃ困るんだよ」
「あのさ、相談があるんだけどさ」
「会社辞めるのやめて、またセコンドになれっていう相談は駄目だぜ」
「やっぱし」
「そりゃ駄目だよ、おまえと話してると危ないんだよな。せっかく辞表出してきたのにさ」
「嘘だよ、うそ。まあ、がんばってよ作家稼業」
 ヤスケンは、そう言って私の手を握った。握り返すと、部厚いけれど湿り気のないヤスケンの掌の感触が、じんわりと私に伝わった――。

同書における文芸誌「海」編集時代の話はじつにおもしろい。とくに「大江健三郎事件」は傑作だ。大江健三郎の感心しない一面が露呈している。
また、余命1ヵ月を宣告されたWeb日記「ヤスケンの編集長日記!」が転載されているが、わたしはこれをリアルタイムで読み、安原氏がちょっと好きになった。その理由を村松友視がうまく分析しているのは気もちがよい。

ところで、村上春樹のつぎの記述には寒くなった。これは安原氏の真実だと思うが、それを記さずにはいられぬ境地とはなにか。

《「俺がハルキを育てたんだ」というようなことを言いまわっているという話を、何人かの編集者や書き手から耳にした。しかし――決して安原さんの編集者としての能力を貶めるわけではないが――彼に育てられたという記憶はない。それよりは、生意気な言い方かもしれないが、僕はどちらかといえば自分一人で育ってきた》

《「スーパー編集者(エディター)と自ら名乗り、世間の小説家をめった切りにしていたのは、自分が小説家になれなかったフラストレーションが大きかったからかもしれない》

もしかしたら村上春樹は編集者より作家のほうが階層が上位だと勘ちがいしているのであろうか。そんな匂いが漂う文章なのだ。
両者は比較できないものだが、両者において優れていた吉行淳之介や村松友視(吉行の担当編集者)を、わたしは好もしく思う。

村松友視が中央公論社を辞めて小説を書いてゆくと覚悟したときの、吉行淳之介とのやりとりを引く。
『夢の始末書』(村松友視/角川文庫/平成2年)
p.325〜p.326

「おい、しかし大変ですぜ……」
「ああ、覚悟してます」
「いや、そうじゃなくて、後遺症だよ」
「後遺症……」
「編集者の感覚ってのは、残るからね」
「はあ……」
「俺は八年ほど編集者やったけど、八年くらい後遺症があった」
「…………」
「やった年数だけ残るらしいね」
「はあ」
「おまえさんは、何年やったの?」
「十八年とちょっと……」
「じゃあ、還暦までだな」
「編集者の後遺症が、ですか」
「そう、あれは抜けませんぜ、なかなか」

上記を読むと、編集者という職人の奥深さがうかがえるのである。
なお、吉行淳之介は本書の解説も記しているが、これもおもしろい。

また村上春樹は、プロデューサー型編集者と実務型編集者を分けて、安原氏は前者だが、自分は後者の編集者を好むという。文学担当の編集者に実務型は存在しないと思うのだが。
わたしの記憶では、村上春樹は書きあげた原稿をまっ先に妻にみせるらしい。彼にとってのプロデューサー型編集者は妻なのだろうか。なんとなく最初の読者の域を超えている妻をイメージしてしまうのである。

わたしが20代のころから数えきれないほど読みかえしてきた本が吉行淳之介著『私の文学放浪』(角川文庫/昭和50年)である。カバーはクレーの「恐怖の踊り」。
いつ読みかえしても刺激がある。
吉行淳之介は作家と職業作家を分けて考えていて、後者が前者より優れているとは限らないという視点に立っている。

一方、茂木健一郎氏(脳科学者)は、「ちくま」(2006年2月号/419)の連載【思考の補助線】で、「批評性と創造」と題した一文を記している。そこから引く。

《創造をめぐるモデルは、いまだにルイ・パスツールによってなされた微生物の「自然発生説」の否定以前の段階にある。微生物が無から生じることがないように、人間の脳が何もないところから何かを生み出すことはありえない。実際、脳科学は、創造性と脳内の記憶のシステムの関係を明らかにしつつある。創造とは、思い出すという行為と密接に関係しており、過去の体験の脳内アーカイヴに依存しているのである》

作家に不可欠なのは、記憶力と批評性ということになるのだろうか。安原氏にはそれらが欠けていたということなのだろう。

高橋たか子著『驚いた花』(人文書院/1980年)に収められている「ドストエフスキーについての寸言」に、ドストエフスキーが『罪と罰』執筆当時に住んでいた四階建てのアパートを訪ねたときの記述がある。そこから引く。

《ドフトエフスキーが自分の住居から一方に五十メートルぐらいのところにラスコリニコフの部屋を、他方に五十メートルぐらいのところにソーニャの部屋を思い描いて小説を書いたのだという、具体性を、まのあたりにしたからである。つまり、こんなふうにして想像力をはたらかせるタイプの小説家なのだった、という思いに打たれたからである。
 また、言いかえると、作者自身よくよく知っている通りや建物に即して人物を動かしていったのだという、想像力の秘密に触れた気がした。もちろん、小説に描かれた通りや建物は実写されたものではなくて、想像的に変質させられた通りや建物なのだけれども。
(略)
 ここからすこし行ったところに、小説のなかで金貸し老婆が四階に住んでいた、六階建てのアパートがある。「石の井戸」と呼ばれる、陽の射さぬ中庭があり、全体に湿っぽさがしみわたった建物は、どこか乾いているような感じさえする。その古ぼけたみすぼらしさが、私には強く印象づけられた》
(新潮社、「ドストエフスキー全集24」月報 一九七九年十二月)

余談として。
10年以上まえだが、詩人の辻征夫(1939年〜2000年)と話す機会があった。
「田中康夫は村上春樹のことを商売人だといって批判しているけれど、そもそも文学作品を商品として売るということ自体……」
そうわたしがいうと、辻征夫は瞬間的にわかったという顔をしたのだった。
なお辻征夫は、村上作品の価値を認めていたし、レイモンド・カーヴァーを翻訳した村上春樹を支持していたようだ。
(この翻訳を安原氏は「海」や「マリー・クレール」に掲載し、のちに全集として中央公論社から刊行された)

辻征夫のからだから発散していたものを言葉にすると、こうなる。
「詩人とは言葉を発する人間ではなく、言葉を溜めこんでいる人間なんだ」
わたしは生身の人間とむかうとき、そのひとが発する言葉より、からだから発散しているものを読みとる傾向がある。そしてひとりの人間から、本を読むことでは得られない内実を読みとれたとき、幸せな気分に浸るのである。
辻征夫が『ヴェルレーヌの余白に』で高見順賞を受賞したのは、この直後だった。




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2005年11月25日

三島由紀夫の自決

1970年(昭和45)11月25日、午後零時15分、三島由紀夫は自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自殺した。
没後35年・生誕80年を迎え、来月には『決定版三島由紀夫全集』(新潮社)の補巻が刊行されるという。
三島由起夫が生まれた1925年(大正14)に富永太郎は他界した。没後80年は見事に黙殺されたのである。

三島由紀夫が自決したとき、わたしは高校3年生で、学校の教室にいた。
つぎの授業をする教師が入ってくるのを生徒は着席して待っていた。
教室に担任教師Hが一歩足を踏み入れたので、みんなは何事かと緊張して注目した。
彼はひとことだけことばを残して立ち去った。
「先ほど三島由起夫が割腹自殺しました」

「ええーっ!!」という驚きの声とともに、大半の生徒が立ちあがった。
わたしは座りながら、担任教師Hの苦悩に満ちた蒼ざめた顔をみつめていた。
Hは東大卒という噂の政経の教師で、年格好も三島に似ていた。HRがとても短く、担任としての親近感をほとんど感じさせない。人間として嫌味はないが、なにを考えているのかわからない風情があった。授業内容もほとんど記憶にないほど凡庸なものだった。その高校は自由な校風で、変わった教師が多かった。
そんなHが、自分が受けもつクラスの生徒に、わざわざ三島の自決を知らせにきたのはなぜなのか。わたしには不思議でならなかったし、いまもその理由がわからない。
その後のHは、HRでも政経の授業でもそのことを話題にしなかったが、そのほうが彼らしかった。

中・高と同じ学校に通ったHさんとは、卒業後に急速に親しくなった。彼女の誕生日が三島が自決した11/25なのを気にしていた。そして彼女の母親が三島文学に傾倒していた。
ちなみに彼女とわたしの名前が同じで、わたしの誕生日は4日後の29日である。
ちがうのは、彼女の血液型がA型だということ。(わたしはB型)

わたしは三島の作品をほとんど読んでいないが、三島由紀夫という人間には興味をおぼえる。『三島由紀夫おぼえがき』(澁澤龍彦・中公文庫・昭和61/11/10)はくりかえし読んだ。とりわけ巻末に収められているつぎの対談がじつにおもしろい。

‖价漫.織襯曚寮こΑ併暗舁概夫/澁澤龍彦)
対談 三島由紀夫――世紀末デカダンスの文学(出口裕弘/澁澤龍彦)

,僚藹个蓮1970年、中央公論社刊『日本の文学第34巻・内田百痢λ厂鄂一・稲垣足穂』付録76で、新文芸読本「稲垣足穂」(河出書房新社・1993/1/15)所収。
△僚藹个蓮◆屮罐螢ぅ」(昭和61年5月)で、文藝別冊 総特集「三島由紀夫」(河出書房新社・2005/11/25)所収。

また「すばる」に掲載された美輪明宏と瀬戸内寂聴の対談がとてもおもしろかったのだが、手許にあるはずの雑誌が、どういうわけかみあたらない。

本日の朝日新聞の天声人語、そして11/21付け朝日新聞の「時の墓碑銘」(小池民男・本社コラムニスト)で、小林秀雄の三島由紀夫評が紹介されている。

「率直に言うけどね、きみの中で恐るべきものがあるとすれば、きみの才能だね……ありすぎると何かヘンな力が現れて来るんだよ。魔的なもんかな」

上記,里覆で三島は、稲垣さんに会わないでいたい二つの理由を、あからさまに述べている。

「一つの理由は、稲垣さんの昔からの小説をずっと愛読しておりますから、稲垣さんを、いまだに、白い、洗濯屋から返ってきたてのカラーをした、小学校の上級生だと思いたいんですよね、どうしても。そういう少年がどこかにいて、とんでもないものを書いているというふうに思いたいんです。つまり美少年がとんでもない哲学体験を持っているという夢を持っているわけ。また、向こうからこっちを見ても、こんなむさ苦しい男が出ていって、稲垣さんに対談を申し込むというのは、はばかりがあるんです。それが第一の理由でお目にかかりたくない。僕は固く心に決するところがあって、一生お目にかからないでいようと思うんですね。
 もう一つは、非常に個人的な理由ですけれども、僕はこれからの人生でなにか愚行を演ずるかもしれない。そして日本じゅうの人がばかにして、もの笑いの種にするかもしれない。まったく蓋然性だけの問題で、それが政治上のことか、私的なことか、そんなことはわからないけれども、僕は自分の中にそういう要素があると思っている。ただ、もしそういうことをして、日本じゅうが笑った場合に、たった一人わかってくれる人が稲垣さんだという確信が、僕はあるんだ。僕のうぬぼれかもしれないけれども。なぜかというと、稲垣さんは男性の秘密を知っているただ一人の作家だと思うから。僕はこの巻の解説にも書きましたが、ついに男というものの秘密を日本の作家はだれも知らない。日本の作家は、男性的な作家は主観的に男性的であるだけで、メタフィジカルに男性の本質がなんであって、男はなんのために生まれて、なんのために死ぬかを知らない」
(昭和45年5月8日 赤坂シドにて)

稲垣足穂についても三島由起夫についても不勉強なわたしだが、上記の三島の弁は、三島にとって自分の作品の最大の理解者であった澁澤龍彦との関係とともに、強く印象づけられる。
なお、『仮面の告白』を三島由起夫に書かせたのは、編集者・坂本一亀である。

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三島由紀夫の『文章読本』は、レクトゥール(普通読者)であったことに満足していた人を、リズール(精読者)に導くことを意図して書かれている点がユニークである。

●レクトゥールの定義
小説といえばなんでも手当たり次第に読み、「趣味」という言葉のなかに包含される内的、外的のいかなる要素によっても導かれていない人。

●リズールの定義
その人のために小説世界が実在するその人。文学というものが仮の娯楽としてでなく本質的な目的として実在する世界の住人。




miko3355 at 23:53|この記事のURLTrackBack(0)