オルタスジャパン制作のTV番組・06年

2006年10月24日

奥山清行の課外授業「デザインは大切な人のために」

2006/10/21にNHKの「課外授業ようこそ先輩」に登場したのは、奥山清行氏(カーデザイナー/47歳)である。
山形大学附属小学校/6年2組/38人
ナレーション/ダニエル・カール
制作/オルタスジャパン

奥山氏は、同じくNHKで2006/07/06に放映された「プロフェッショナル」に、【新しいものは「衝突」から生まれる】というタイトルで登場していた。そのときの印象が強烈だったので、奥山氏が「課外授業」でどのような顔をみせるのか。それを主軸にして番組を観た。
結論からいうと、成功している。「プロフェッショナル」では表現できなかった奥山氏の顔が、見事にあらわれているからである。

上着をぬいで半袖のTシャツで授業をする奥山氏は、アメフトの選手のような体躯にみえる。しかし「プロフェッショナル」では、職場で日々激闘している奥山氏が、じつは甘いものが好きで、ジェラートを口にする姿を映していた。
そんなふうに、どうしても「プロフェッショナル」で描かれていた奥山氏の映像と対比させながら本番組を観てしまう。

奥山氏の顔がアップになると、眼に惹きつけられた。水晶のような透視力のある眼をしている。それを写し撮るカメラマンの意思を感じた。
いままで多くの「課外授業」を観てきたが、本番組は秀逸である。
奥山氏のプロフィールを、必要最小限に抑えたところもよい。
子どもたちが待ちかまえる教室に、緊張した先生(先輩)がドアを開いて入る、という例のいただけないシーンがないところも助かる。
ただ、ダニエル・カールの軽妙なナレーションはミスマッチではないのか。なにを狙っているのかわからなかった。

以下、番組を順に追っていく。

  *

イタリア/トリノ

ファーストシーンはイタリアのトリノ。
スーパーカーの展示場。スマートなマイクのまえに立ち、英語でプレゼンテーションする奥山氏。

わたしたちがつくったのは、未来の車が目指す姿です

勇気をもって夢に向かえば、夢を現実にできるはずです

(拍手)

場面は一転して、ある一室。制作スタッフの質問に答えるような感じで奥山氏はいう。

たかがモノ、されどモノでして、人はいなくなってもモノって残るじゃないですか。だからぼくは、やっぱりモノにいのちを宿したいと思うし、そのモノを通してメッセージを何世代の人たちにわたって伝えたい

校庭に赤いフェラーリ

校庭に停まっているのは奥山氏がデザインした赤いフェラーリ。かつてない乗りやすさで高く評価されている。
座席に座っている奥山氏は、笑いながらいう。
「自分の母校でここに座っているの、違和感ありますね」

車から降りた奥山氏は、つづけて語る。
「買ってもらうときにはチャーミングな車でなくちゃいけないけど、それがずーっとつづくような車をどうやってつくれるか。一生懸命想像力をはたらかせてモノをつくっていくのが、むつかしさでもあるし愉しさでもあるし」

子どもたちが校庭へでてくる。
奥山氏は「おはよう」と声をかけ、「おはよう」と返される声を聞き、「元気いいなあ」と笑う。

奥山 「きょうはこの車に乗ってきました。自分でデザインしても買ったことはないんだけど、みんなに乗ってもらおうと思って。みんなに座ってもらって、よーくみてほしいの」

カメラが車の全身を舐め回すように撮す。

男の子は得意げな顔つきで乗っていたが、女の子はキャーキャーした感じで乗りこみ、こわごわ部品にさわっていた。

男の子 「エンジンもデザインしたって?」

奥山 「このネジも、イタリアでしかつくっていない特殊なネジなんだよ。この車にしか使っていないネジとか小さい部品も、だれかが研究して苦労してつくっている。そういう一生懸命努力してつくったモノには、不思議な力といのちが宿るんだよね。これがきょうの最初のメッセージかな」

授業1日目

「大切な人のために車をつくってください」と奥山氏はいい、子どもたちは、大切な人の趣味や生活状況を書きだす。

奥山氏の人生の転機となったできごとが挿入される。

奥山氏は昭和57年、アメリカへ。
36歳のとき、母親のテツさんが心筋梗塞で倒れた。すぐにイタリアから飛んで帰ってきた。母親の入院する病院の廊下で遭遇したのが高校時代の親友で、医科長だった。「ぼくが診ているから、心配しなくていいから」といわれた。その親友のお陰で母親は無事に退院することができた。

奥山 「自分の周りには、大切な人をよくするために生きているんだなあと思った。ぼくは、それまでの30数年間の人生は、あんまりそういうことを考えずにすごしてきたんですね。情けないと思いました。"乗る人を幸せにする車"をつくるんだと決意して」

授業風景にもどる。

【大切な人はどんな車をほしがっているか?】
グループに分かれて考える。

1. 家族
2.お父さん
3.お母さん
4.弟・妹
5.お兄さん
6.友達(スポーツ)
7.友達(おしゃべり)
8.野球部の監督

グループごとに模造紙に書きだしたのを黒板に貼る。

奥山 「みんな自分でみて、満足してる? でてきたものが、ちょっと情けない。夢を入れてほしい。むずかしいけれど、みんなならできる」

宿題がだされる。
"大切な人"本人に訊く。自分が想像していることが正しいのか、たしかめてほしい。

廊下で奥山氏は、肩を揺らして軽く笑いながら胸中を語る。
あの子たちがほんとに考えてることと思えないのね、あれが。このままじゃ納得できませんよ、ぼくは

授業2日目

ラフな感じで教室に入り、子どもたちに「おはよう」と声をかける奥山氏。
「大切な人と話してどんなことを発見したか、聞いてみたいんだな」

子どもたちは、それぞれが発見したことを語る。

つぎに別室で待つ奥山氏を、しんたろうくんが訪ねる。
大切な人は、「野球部の監督」。
模造紙に書いた絵と文章をみせながら説明する。

しんたろう 「お酒やマッサージなどの設備より、みんなで乗る車のほうがよかった。7つのハンドルを6年生がもつ。行き先は甲子園で、車は7人のこころがひとつにならないと動かない。甲子園を目指す夢の車になりました。コンセプトは"7人のこころをひとつにして甲子園に導いてくれる車"です

奥山 「うん。すごくよくまとまっているし、考えもものすごくおもしろい。なにもいうことないです。このまま進めてください」

しんたろう 「ありがとうございます」

しんたろうくんの「車は7人のこころがひとつにならないと動かない」という発想に、わたしは感心した。7つのハンドルには、夢と現実が含まれている。
球児や監督にとって甲子園は究極の夢だ。
今夏の甲子園・決勝戦での熱闘は、NHKスペシャルで放映されるほど多くの人を魅了した。エースを支えるチームワークについて考えさせられたので、しんたろうくんの発言に説得力があった。

奥山氏が授業のポイントを述べる。
大切な人のことを自分がまずよーく考えるという行為が第一にあって、そのあと本人に訊いてみる。いきなり訊いちゃダメなんです。で、訊いたときのギャップというのは、自分で考えたことがあったからこそわかるんですね。いかに大切な人で、いかに近くに生活している人であっても、気がついていなかったんじゃないか、ということに気づくことが出発点なんじゃないかなあ

観客のいないホールで世界に通じるように発表

子どもたちがバスに乗って向かったのは、山形市内にあるすてきなホール。800人以上収容できる。品川区天王洲アイルにある劇場「アートスフィア」(名称を「天王洲 銀河劇場」と改め2006/10/06にグランドオープン)にちょっと感じが似ているようにみえた。

奥山 「みんなに班ごとにあそこの段の上に乗って、発表してもらいます。きみたちは、これから好むと好まざるにかかわらず、必ず世界を相手にしなきゃいけない。きょう発表するあそこの舞台は日本。ここの観客席は世界。だからきょうは、ちゃんと世界に通じるように発表してください

子どもたち 「はい」

奥山氏はがらんとした観客席で足を組んで座り、ただひとりの観客は"世界"として存在している。そのリラックスした態勢とは裏腹に、鋭い眼光で舞台の子どもたちを注視している。

【舞台での発表】……模造紙に書かれた絵と文字/模型

奥山氏の総評。
「みんなごくろうさま。きのうときょうの2日間だったけど、凝縮したプロジェクトをやってもらって、先生はとっても愉しかったです。発見があったでしょう。お父さんが一番望んでいるのは、マッサージチェアとかそんなことよりも、子どもと一緒にいることだった。お母さんが思いやりをもってる車がほしいというよりも、むしろきみたちがお母さんにこういう車を贈りたいという気もちのほうが強いと思うんだ。でもそれが大切なのね。
きみたちがなにかをするとき、その人がきみたちが嫌いな相手であっても、すごく納得できない、合意できない、理解できない人たちであっても、その人たちはみんなだれかの大切な人なんだね。自分が想像つかないことでも、一生懸命想像力使って、そういうことを考えてほしいなと思う。
どうもありがとう」

再び校庭の赤いフェラーリ

奥山氏は校庭で赤いフェラーリに乗り、エンジンをふかす。数人の子どもたちが見守っている。
エンジン音を聞きつけ、校舎から子どもが駆けよってくる。
フェラーリの魅惑的なエンジン音が耳底に響くなかエンド。

  *

ラストシーンが、猛スピードで立ち去るフェラーリではなく、魅惑的なエンジン音であるところに感慨がある。
奥山氏のいう「みんながだれかの大切な人である」という、排除の論理に抵抗できる人間ばかりなら、戦争もいじめ自殺も起こらない。

奥山氏の最大の特長は、子どもたちと対等に接したことだと思う。
教室にシビアな職場の空気がみなぎっていた。
手加減しないで本気で授業をした奥山氏の空気感は、子どもたちの細胞に刻みこまれたにちがいない。
「プロフェッショナル」という番組でも、優秀な若いデザイナーのプライドを粉砕し、同時に彼を育てようとする強い意思を明確に打ちだしていた。
奥山氏は本質的な教育者なのだ。

なお次回はアンコール放送で、2006/06/03に放映された山崎 貴「豊かさって何だろう」である。


参照

奥山清行 / KEN OKUYAMA オフィシャルサイト

フェラーリ大集合








































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2006年07月11日

リリー・フランキーの課外授業「ラブレターを書こう」

リリー・フランキー(イラストレーター・作家)の「課外授業ようこそ先輩」(2006/07/01・NHK総合)を愉しみにしていた。
福岡県宮若市立宮田南小学校
制作・オルタスジャパン

正直なところ、期待はずれだったといわねばならない。自分がなにを期待していたのか、録画を観ながら検証したいと思い、ビデオを再生した。
な、なんと、トップシーン・東京タワーの映像の直後、フィルムが「お宝TV――吉村作治が語る"七人の刑事"」(2006/07/07・BS2・19:30〜20:00・制作協力 オルタスジャパン)に移行しているではないか。
過日、「課外授業」の録画を観ようとして巻きもどしたまま放置していたのを忘れ、そこへ「お宝TV」を録画してしまったらしい。
幸いにもリアルタイムで本番組を観ていたが、細部についての記憶は失われている。
そんなわけで、今回は粗雑な内容になることをお許しいただきたい。

以前に、リリー・フランキーが「トップランナー」(NHK教育)に出演し、ベストセラー『東京タワー』について語るのをおもしろく観た。
それよりも強烈な印象を受けたのは、5月の火曜日「知るを楽しむ/私のこだわり人物伝」(NHK教育)で、松田優作についてリリー・フランキーが語った「アニキの呼び声」だった。

わたしが松田優作を好きではないにもかかわらず、リリー・フランキーの茫洋とした表情を崩さない語りを愉しめたのである。
リリー・フランキーは、脂ぎっていない顔の下に隠されている狂気が透けてみえるような、味わいのある顔をしている。どこまでいっても妖しいヒト。
「日本の男は、松田優作が棲みついた男とそうでない男の二種類に分かれる」というリリー・フランキーの持論の信憑性はともかく、男が男に惚れるすさまじさを、脚本家・丸山昇一と松田優作の関係をだぶらせながらみせつけた。

リリー・フランキーの持ち味は、独特の力の抜けかたとナンセンスなユーモア感覚だと、わたしはとらえている。それは「課外授業」にもあらわれていた。
前回のオルタスジャパン制作・山崎貴の「課外授業」に、番組の定型を破った新鮮さがあったので、今回の定型ぶりに落差を感じたのだろう。
全体的に、リリー・フランキー『東京タワー』の宣伝効果が強く、子どもたちの影が薄い。

それにしても、リリー・フランキーらしからぬ平坦な内容に終始したのはなぜなのか。それも彼は織りこみ済みかもしれぬと思うのは、わたしの深読みだろうか。つまり、そんなに簡単なテーマじゃないので、ご期待には添えませんよ、とでもいいたいのではないかと。
彼は、自らは動かず、感動したがる視聴者の貪欲さを斬り捨てたのではないか、とわたしは妄想する。
そのせいかどうか、わたしは番組を観おえたあと、自分ならどんなラブレターを書くだろうかと、わが身におきかえて考えさせられたのである。

授業の冒頭で「テーマを用意してきませんでした」とリリー・フランキーは宣言し、子どもたちを驚かせる。そしてテーマを決めるために、記述式のアンケートを書かせる。その結果、「ほんとうの想いを伝えられない」子どもたちが多いということが判明。ラブレターを書かせるという課題を与える。
これでは予定調和ではないか、という想いがよぎり、いささかしらけた気分になったのは事実だ。

子どもたちが発表したラブレターに、わたしはそれほど感動しなかった。だからこそラブレターを書くむずかしさを感じた、ともいえる。
あたりまえだが、文章でしか表現できないからラブレターを書くのだ。
本気でラブレターを書きたいと思う人間に出逢えただけでも、幸せなのかもしれない。そんなことがなくても、ひとは生きていけるだろうから。

いままで多くの「課外授業ようこそ先輩」を観てきて思うのは、6年生を相手に授業をするため、子どもらしい発想に欠けるのではないかということ。6年生は、おとなと同じ感覚をもつ。4年生相手の授業なら、おもしろくなるのではないか。そのぶん失敗も多いので、リスクは大きいが。

  *

7/7放映の「お宝TV」でとりあげられた「七人刑事」をわたしが観たのは、小学生のころだった。毎週、愉しみにしていたのを憶えている。芦田伸介がいい味をだしていると、生意気にも思っていた。
「お宝TV」で流れたモノクロの映像を観ると、ドラマではなく現実に起きている事件のような錯覚に陥った。


〔参照〕

リリー・フランキー(フリー百科事典『ウィキペディア』)

七人の刑事―TVおたく第一世代





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2006年06月22日

山崎 貴の課外授業「豊かさって何だろう」

2006/06/03 放映の課外授業(NHK総合)は、山崎 貴さん。
1964/06/12 生まれ。41歳にはみえない若々しさがあり、カッコいい映画監督だ。
2005年、監督第3作目「ALWAYS三丁目の夕日」において日本アカデミー賞の監督賞を受賞。
ナレーター・三浦友和の声がちょっと重い。
制作・オルタスジャパン

本番組トップの画面を眼にした瞬間、気づいた。TVではなく映画の画像だなあと。しかもノスタルジックな西岸良平・作「三丁目の夕日」の世界なのだ。
専門的なことは知らないが、画像を工夫することで昭和30年代を彷彿とさせる視覚効果を狙っているのだろう。
ついでながら、数年まえに放映された村上龍脚本のドラマ「最後の家族」(テレビ朝日)も、映画の画像だとわたしには感じられたので、不思議な気分になったのを憶えている。

山崎 貴というパーソナリティーから、つぎのような感じを受けた。

.▲ティブでラフ、かつテンションが高い。
∋劼匹發燭舛搬佚に接していて、先輩面しない。
子どもたちの反応をおもしろがっている。
ね招廚別榲意識を感じさせないぶん、軽やか。
ス板のまえの山崎さんを囲むように机が配置されているので、座談の雰囲気。
ν靴售恭个亮業。

以下、番組を順に追ってゆく。

映画館で「ALWAYS三丁目の夕日」鑑賞

番組は、山崎さんがつくった映画「ALWAYS三丁目の夕日」(2005年公開/2時間13分)を子どもたちに観せるシーンからスタート。
映画の舞台はいまから48年まえ、昭和33年の東京。こころが豊かな時代。
おもしろそうに顔を輝かせ、映画に魅せられる子どもたち。

映画を観た感想

北アルプスを臨む長野県松本市が山崎さんのふるさと。
松本市立本郷小学校の教室に移動。ドアを開いて教室に入る恒例のシーンがカットされている。わたしはあのシーンをみるのが苦痛だ。わたしの独断と偏見によると、教室のドアを開いたときの体感は、映像で表現できないと思うので。

山崎  「お疲れさまでした。映画はどうでしたか。あそこの世界のひとは、どう思ったかな」
男の子 「のんびり暮らしてて、そこら辺に歩いているひとが知りあいとか友だちとか、そんな関係でよかった」
山崎  「いいなあと思った。うん、うん、うん。ほかにありますか」
加奈子 ……(聞きとれないので、テロップが必要)
山崎   「あそこはいやだ、というひといる?」
大樹  「いまだったらおいしいもの食べれるし(笑)、ゲームとかもできる」

映画を観て感じたことを、子どもたちが黒板に書きだす。山崎さんの敏捷な動きにつられたのか、映画の余韻が残っているのか、子どもたちの動きもすばやい。
子どもたちは、家族とかひとの関係に注目している。
家族のもつやさしさや友情の大切さ。この映画をつくるなかで、山崎さんがあらためてかみしめたことだった。

山崎 「いまの生活とちがうある種の豊かさみたいなものに、みんなが反応していると思うんです」

映画「ALWAYS三丁目の夕日」の撮影風景が挿入される。課外授業の山崎さんとあまり変わらず、監督然としていないようにみえる。

[映画のキャッチコピー]……空き地で数人の子どもたちがフラフープで遊んでいる映像

    携帯もパソコンもTVもなかったのに、 
    どうしてあんなに楽しかったのだろう。  

山崎さんが制作スタッフに語る 
「便利さゆえに、ずいぶんいろんなことにこころが動かなくなったなあと。携帯もパソコンもTVもあるのにつまらないよね、という状況を打破して、閉塞感をくずしていく方法のひとつがみつかればいいかな、と思ってたんです」

昭和30年代はじめの世相 

黒板のまえ。白いボードに貼られたモノクロ写真を、子どもたちにみせる。
映画と同じ昭和30年代はじめの世相を映した写真。

山崎 「じつはぼくは昭和39年生まれなんで、昭和33年には生まれてなくて、『ALWAYS』の世界はぜんぜん知らなかったんですよ。こういう資料をいろんなところから集めてきて、勉強してつくりました。きみたちにも、この時代のことを調べてもらいたいんだよね」

写真を3つのテーマに分ける。
[家族] [友だち] [近所]
それぞれ、いまとはなにがちがうのか。発見することからはじめる。
グループに分かれて、みつけたちがいを書きだす子どもたち。

  50年前はぼうずとおかっぱが多かった

  昔の地面は土でできている


【発表】

家の外にある水道のまえにそれぞれのタライを並べ、数人の女性が洗濯している写真 

女の子 「50年まえは、みんなで集まって洗濯をしている」
山崎  「なんでだと思う?」
男の子 「みんなで情報を集めていたんじゃないか(笑)」

和室で家族そろってTVに見入っている写真 

男の子 「50年まえは、みんなで口とかあけて、真剣にTVを観ている(笑)」
山崎  「鋭いね(笑)。これは鋭いね。TVを観ている姿勢がちがうよね、食い入るように」

数人の子どもたちが竹馬で遊んでいる写真

大樹  「50年まえは、遊び道具が少なかった」
山崎  「なるほど。でも愉しそうだよね」

【宿題】

山崎 「きょう帰ったら、当時のことを知ってるひとたちに、いまとちがってよかったと思うことを、できるだけたくさん探してきてもらいたいんです。取材をしてきてください。あした、それを発表してもらいます。できる?」

山崎さんは子どもたちに、自分の体験を語ることで、子どもたちに宿題の意味を理解させようとする。
「ALWAYS」という映画をつくるときに、昭和30年代はどうだったかと、取材をしてみた。昭和33年というのは、東京が戦争で焼け野原になって、バラックという小屋みたいなものを建てて暮らしているうちに、だんだん社会ができあがっていったという時期だから、達成感の途中。みんなが国をつくろうと思ってつき進んでいった時期なんで、そこが愉しい気もちにつながったんじゃないかなあということを発見して、「ALWAYS」という映画をつくった。

「じゃあ、あした、宿題愉しみにしています。お疲れさまでした」と山崎さんはいい、一礼。
子どもたちも「ありがとうございました」といいながら一礼。

授業2日目 

校庭を歩いて教室にむかう山崎さん。制作スタッフにきのうの授業の手応えについて訊かれ、歩きながら応える。
「体感できるかどうかがむずかしいテーマなので、うまく伝わっているかなと思うんですけど、きのうの宿題にかかってますね。面白味をみつけてくれてればいいんだけど」

ごく自然に「おはようございます」と山崎さんはいいながら、開いているドアからするっと教室に入る。朝一番らしく、山崎さんのあとからランドセルを背負って入ってきた男の子がいた。着席していない子どももいて、教室の空気はリラックスしている。
山崎さんはさっそく子どもたちがスケッチブックに書いてきた宿題に眼を通し、言葉をかける。

  家族みんなでご飯を食べたい

  一番年上のひとが《親方》になって、めんどうを見てくれた

  料理を作ったら、ご近所にあげたり、もらったりしていた

  兄弟が多くてにぎやかだった

  仲間はずれにしなかった

  地域のみんなで子育てをした  

制作スタッフに感想を述べる山崎さん。
「家族の横のつながりとか、近所の横のつながりとか、あと、子どもたちの縦のつながり。コミュニケーションへの憧れが多いような感じでいってましたけどね、うん」

山崎さんは、子どもたちに新たな課題をだした。
「なにがあの時代はよくて、いまの世界でそういうふうになるためには、なにをどうしたらいいのか、ということを考えてみてください」

子どもたちは教室をでて、想いおもいの場所で考える。
子どもたちのスケッチブックを個別にみながら、山崎さんはアドヴァイスを与えることで、より深く考えさせようとする。

【発表】

子どもたちを昭和30年代のはじめにタイムトラベルさせようと、山崎さんは合成システムを用意していた。選んだ写真のなかにひとが立っているように映る。
山崎さんが実演すると、喜ぶ子どもたち。

山崎 「よかった。受けたね(笑)。じゃあ、よろしくお願いしま〜す」(拍手)

チホさん (←名札がみえない)……合成写真=竹馬で遊ぶ子どもたち

「一番わたしがいいなあと思ったのは、自分たちが遊ぶ道具を工夫してつくったということです。工夫したおもちゃが完成したとき、とても達成感を感じると思うからです。それを実現するには、なんでもモノを買わないで、お父さんやおじいちゃんなどにきいてみて、つくってみたいと思います」(拍手)

山崎さん→満足げにうなずく

諒くん……合成写真=5人家族がそろって食事をしている

「家族みんなで食べるとにぎやかで、ひとりで食べるよりはすごく愉しいと感じたので、家族みんなで食べるという昔やっていたのを、いま実現したいと思いました。ぼくがお父さんに『ご飯の用意ができたよ』と電話して、『もう少しで帰る』といったら、しんぼうすれば、1〜2回でも家族みんなでご飯を食べられると思いました」(拍手)

山崎さん→うれしそうに肩を揺らして笑う

奈々さん……合成写真=木製の台を囲み近所のひとが遊びに興じている(夜店?)

「わたしが知ったことは、近所どうしの関係が、いまよりもずっとずっと濃いということです。いまはほとんどありえないことでも、昔はふつうにやっていたことがすごいと思いました。近所の交流があると、すごく温かい感じがするからです。どうすればそういう行事をいっしょにやれるか、助けあいができるか。わたしはあいさつに関係があると思います。大きな声であいさつをすると、より仲よくなって、新しい関係をつくることによって、広いこころをもつことができると思います。広いこころをもつことが助けあいにつながると、わたしは考えています」

奈々さんの発表に対する感想を制作スタッフに語る山崎さん。
「ほんとに、ああ〜っと、眼からウロコの感じだったんです。あいさつすると顔みしりになるし、そうすると、ちょっとしたことでも話ができるし、す〜ごいシンプルなことだけど、な〜るほどと思ったんです。コミュニケーションの一歩目だよねということを、す〜ごい思ったんですね」

加奈子さん……合成写真=集団登校する子どもたち

「おばあちゃんの時代では、ケンカをしてもすぐに仲直りをしたといってました。これはやっぱり相手を思う気もちがたくさんあったからだと思いました。どうすればいいか。それはとってもむずかしかったです。わたしの考えは、自分から行動する、いろいろなひとに話しかけるようにする。これはどれも勇気がいると思います。でも勇気があったほうが、挑戦したりできるような気がします。でもふつうに、気楽にできるような方法は、まだわかりませんでした。けど自分を探すような感じで、この2日間はとても愉しかったです」(拍手)

山崎さんのコメント

山崎さんは子どもたちに、ほほえみながら語りかける。
「ALWAYS三丁目の夕日」のノスタルジーあふれる主題歌が、小さめの音量でバックに流れつづける。

「この2日間で、昭和30年代ということをテーマにして、いろいろ考えてきたと思うんですけど、なにを伝えたかったかというと、昔にいいことはすごくあった。いまも、もちろんいいことがいろいろある。で、ぼくらはタイムマシーンもってないから、昭和30年代には返れません。だから昭和30年代に返ってあそこで暮らしたいということよりは、いまこれから、とくにきみらは未来をつくっていく世代だから、どうやって生きていったらいいのか、どういうことに気をつけてやっていったら、いまよりもっといい世のなかになるのか。そういうものにむかっていくためのヒントみたいなものが、昭和30年代には隠されているんじゃないかなというふうに思ってたんです。それをみんなに発見してもらった。ひとから教えてもらったことじゃなくて、自分のなかでどうしたらいいのかということをみつけた。自分でつかまえたことというのは、なによりおっきなことだから。ぼくも気づいてなかったようなことを、いろいろなひとが気づいてくれたんで、すごくよかったと思います」

ラストシーン 

校舎を背にして足早に校庭を横切る山崎さんに、「さよなら」という子どもたちの元気な声が降りかかる。山崎さんがふりむくと、校舎の出入り口付近に豆粒ほどの人影となった子どもたちが手を振っている。
その遠景に「バイバイ」と大声を発し、手を振る山崎さん。

本郷小学校に一陣の風が吹きぬけた……


〔参照〕 

山崎 貴

「ALWAYS 三丁目の夕日」(フリー百科事典『ウィキペディア』)

「ALWAYS 三丁目の夕日」公式ホームページ










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2006年06月08日

ガイヤの夜明け「巨大家具メーカー攻防」

2006/05/23、テレビ東京放映のガイヤの夜明け「巨大家具メーカー攻防」を観た。
制作協力・オルタスジャパン

全体的に音楽が過剰である。せめて音量を小さくしてもらえないだろうか。
「ガイヤの夜明け」は、案内役:役所広司、ナレーター:蟹江敬三ということで固定している。
オープニングとエンディングに登場するとぼけた口調の役所広司の案内に、いつもわたしは調子を狂わされる。アップテンポで、案内なしで通してくれたほうがすっきりする。どういう効果を狙っているのだろうか。

以下、番組内容を追っていく。

◆ライフスタイルに左右される家具業界の闘い

現代の居間はシンプルで、収納スペースをつくりつけにするのが主流。
空間を広くとるために、家具はできるだけ置かない。
家のなかから家具が減っていく。

◆ニトリのソファ新戦略

1967年、札幌で似鳥家具店として創業。
現在は135店舗。ことしはさらに20店舗近くふやそうともくろんでいる。
社長は似鳥昭雄さん、62歳。
ニトリはコストの安いアジアに工場をもち、自社開発商品をふやすことで低価格を実現してきた。安さを最大の武器にしてシェアを拡げ、10年で急成長。売り上げは6倍に伸びた。

昨年、インドネシアについで2番目の海外工場を、ベトナム・ハノイに造った。製造工程でできた小さな端材を、底板の補強などみえないところに使うことで、年間8000万円が浮く。
端材をつなぎあわせる作業を映していたが、わたしは強度に不安をおぼえた。

4月14日、ニトリ千葉・長沼店オープン。
4月24日、千葉・船橋に、世界最大の家具チェーン・イケヤ第1号店オープン。初日の来店者数は3万5000人。半径15キロの圏内にニトリの9店舗が入るかたちになった。

似鳥社長 「周りの店はイケアの影響を考慮した予算を立てたが、わたしたちが予想したほど業績は下がっていない」

3月27日、札幌・ニトリ本部にて、定例幹部会議。
春のシーズン、ニトリ全体で売り上げの伸びが落ちていた。
社長は、商品の種類を3分の2まで減らす決断をした。
2020年までに「目標1000店、売り上げ1兆円」を掲げ、海外進出までめざしている。

似鳥社長 「いままでの成功体験を全部否定しないといけない。これが一番の難問関門でね」

ニトリ商品開発担当の相澤修一さん(41歳)は、現在50種類あるソファの責任者。
「安くて質がよいものを作るのはたいへん」という相澤さんが、2004年に売りだしたリクライニングソファは、1万4000台を超す大ヒット。ふつうなら20万円近くするものを、はじめて10万円を切る値段。

相澤 「やっぱり未知の部分がありますので、はたして絞りこんだアイテムがほんとうに売れるのだろうか、という不安がまず一番先に」

相澤さんは、50種類あるソファを利益率の低い商品からふるいにかけていく。価格を下げることができないなら取り引きを中止せざるを得ない。開発の苦労を共にしてきたメーカーを切らなければならないという苦渋の選択を迫られた。

相澤さんは、個性の光るソファを選ぶ目的でタイ・バンコクにむかう。デザインに実績がある、ニトリと取り引きのある工場で相澤さんが選んだのは、丸みを帯びたデザインのソファ。座る位置の高さがニトリの基準に合っているか、入念にチェックする。ソファの弾力性を自分の足で確かめる。

ニトリ本部。
相澤さんが社長に提案する。
商品をタイプ別に分けて似ていないものを選び、50種類あったソファを半分に絞った。そこへ相澤さんが開発した新商品を入れた。
「たいへんけっこうだと思います」という社長のゴーサインが出た。

似鳥社長 「海外に出しても通用する商品開発をしていきたい」

相澤さんの顔が、終始きびしくて硬いのが印象的だった。ニトリの存続のために犠牲になった取り引き先のことが念頭にあるのか。あるいは気の抜けない立場に立たされた人間の顔つきなのか。元来の性格なのか。
いずれにしても、商品開発をするのは社長ではなく、相澤さんのような社員なのだ。

◆大塚家具本社ショールーム(東京・有明)

桐タンス「柳橋水車図」をカメラがゆっくりと映しだす。
10億円相当。職人が13年の歳月をかけて仕上げた。

大塚家具の売上高は700億円(2005年)。
200人余りの販売担当者はアドバイザーと呼ばれ、顧客1組に1人ついて案内をする。豊富な家具の知識とていねいな話術。一流ホテルなみのサービスが、大塚家具のモットー。
売るのは高級家具。スイス製のソファ、192万円。大理石でできたドイツ製ダイニングテーブル、220万円。イタリア製ソファ、483万円。すべて世界一流メーカーの商品。

大塚家具の前身は、埼玉県春日部にあった桐タンスの専門店。現在の大塚家具を築きあげたのは、大塚勝久社長(63歳)。すぐれたタンス職人だった父・千代三さんの失敗(いいものをその価値で売れなかった)から現在の接客が生まれた。いい家具の価値を、お客さんが納得するようにていねいに説明すれば、たとえ高くても売れるはずだ。

大塚社長 「やっと日本国内にいろんなランクの会社がそろった。全体をみたら、将来は共栄共存、みんながよくなるような気がする」

ショールームの受け付けカウンターの裏にあるアドバイザーの部屋にある貼り紙。

    自分が
      楽しくなかったら
    お客様も楽しくない


【アドバイザー・長尾道成さん(27歳)の巧みな接客術】

入社6年目。全国トップの長尾さんの個人売り上げは、約2億7000万円(2005年)。ことしは、さらに上回る勢い。先輩社員を追い越し、11人の部下を率いている。

.愁侫,魑瓩瓩詈譴般

大塚家具でとり扱っているソファはおよそ700種類。
長尾さんは、軽妙な会話のなかからお客さんのニーズと好みを読みとり、商品を絞っていく。50分が経過、ちょうどいいころあいで長尾さんは、あるソファのところへ案内する。狙いすましたかのように熱が入った商品説明を受け、「ほしいものをわかってくれた」という境地でお客さんは商品決定。1時間で25万円のお買い上げ。
長尾さんは、ソファに座っているお客さんに対し、片膝を床について商品説明する。目の高さを意識しているのだろう。

お見送りは、お客さんの姿がみえなくなるまで。
長尾さんは、未成約であっても成約であっても、手書きの礼状を心がけている。

¬だ約→成約

長尾さんは夜、車を走らせ、花村康子さんのお宅を訪問。子ども用のベッドを求めて来店したが、部屋にうまく収まるかどうかわからず買うのを迷っていた。
長尾さんは、ベッドの寸法どおりに切ったクラフト紙を子ども部屋に置く。その上に寝ころぶ男の子。
ベッドの売り上げは7万円。長尾さんは、すかさず別の商品の写真を数枚みせる。それは、花村康子さんが来店時にみていた商品の写真なので、思わず購買欲を刺激される。

花村康子の夫 「僕も営業しているので、今後参考になることが多々あった。そういう面でもよかった」

花村康子 「すごく気もちよくしてくださる、うまい営業。こんなに楽しく買い物できるのかなと。やみつきになっちゃって」

後日、待ちこがれていたベッドが届き、喜んで寝ころぶ男の子。長尾さんは笑顔で満足げにながめている。
長尾さんは、いつも搬入の際に立ち会っているのだろうか。

◆日本の伝統家具メーカー

【東洋美術家具】

広島県府中市で、いまも桐タンスを作りつづける。婚礼家具で全国一の生産量を誇る。
昭和の最盛期に較べて、家具工場は半分に減っている。製造より修理の依頼がふえている。

タンス職人・山崎文弘 「母親、父親が買ってくれたものだから大事にしていた。一種の形見分けだから。タンスよりお金ちょうだいという、いまの時代では考えられないこと」

【松創】

同じく広島県府中市にある。
桐タンスの製造に早くから危機感を感じていた。どんなにいいものを作っても、婚礼家具を必要としない時代の変化。
松岡佳二社長は、テーブルやイスなどの西洋家具の製造を手がけることに決断。とまどったのは職人たち。桐タンス用の大きなカンナから慣れないカンナにもちかえて、美しい曲線を削れるようになるまで10年かかった。
いまでは、日本有数の高級家具メーカーに生まれ変わった。

松岡社長 「やりはじめたときはタンスが主流だから、なにをしてるんだといわれた。結果的には、そのとき蓄えた技術やノウハウが生きている」

◇感想

最も印象的だったのは、大塚家具のアドバイザー・長尾道成さん(27歳)の笑顔と接客方法。一応イケメンの部類に入る長尾さんには、ホスト精神が身についている。同じことをむさくるしいオジサンがした場合に、女性客の反応がどうちがうのかを較べてみたい。
おそらく大塚家具のアドバイザーの平均年齢は低いだろう。
家のような大きな買い物を含め、消費の選択権は女性が握っているといわれている。女性のハートを直撃する販売戦略を研究する必要があるのだろう。

ニトリは通販にも力を入れているようだ。その点、高級家具を接客を神髄にして販売している大塚家具は、通販が不可能。
富裕層相手の販売とはいえ、大塚家具の豊富な在庫管理、人件費とショールーム維持費について、不安はないのだろうか。

ニトリについては、イケア・ジャパンとの競争がどのような展開をみせるのか。


〔参照〕

ニトリ(フリー百科事典『ウィキペディア』)

イケア( フリー百科事典『ウィキペディア』)

世界最大級の家具店「イケア」が日本上陸、ローコスト経営の秘密が明らかに(日経ビジネス)




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2006年05月22日

ザ・ノンフィクション「愛と笑いをください」

日曜日/14:00〜15:00/フジテレビ放映の「ザ・ノンフィクション」という番組は、NHK放映のドキュメンタリーにはない泥臭さを買っているので、よく観ている。
2006/01/12放映の「司馬遼太郎が小学生に託した日本」は秀逸だった。NHKで放映されてもおかしくない内容だったのが異色。制作協力・ドキュメンタリージャパン。

2006/05/07放映の「愛と笑いをください〜女子高生漫才子育て記 別れの舞台〜」は、制作協力・オルタスジャパン。語りは宮あおい。
なお細かいことだが、「愛と笑いをください」はいいタイトルだが、新聞の番組欄には記されていない。それをみてわたしが録画するかどうかの判断をしているということもあり、大切な要素ではないかと思う。
本番組に限ったことではないが、最近の番組制作の常態として、過剰なナレーションとテロップには閉口する。観る側の想像力のなかで自由に遊ばせてほしい。そこまでの"親切"をしないと、視聴率が下がるのだろうか。

オープニングシーン

番組のトップで主要な場面の映像とナレーションが流れる。これはどのような効果を狙っているのだろう。わたしは観る愉しみが削がれてしまったので、不必要に思えるのだが。

漫才コンビ「たんたん」

2005年春、スタッフははじめて姉妹漫才をしている姉の夕佳さん(19)と妹の有希(18)さんを訪ねた。ふたりは大阪市淀川区で同居している。
小学生のころ両親は離婚。施設で暮らすことになった日、ふたりの眼を釘付けにしたのは漫才だった。

有希 「半年ぶりぐらいにメッチャ笑った。こんなにどん底でも笑うことってできると、はじめて思って。ほんま幸せな気分になった、あのとき、ふたりで」

ふたりは「なにがなんでも漫才師になろう」と決意し、大手プロダクションの養成所に通う。
2004年、「新人お笑い尼崎大賞」で大賞受賞。
コンビの名は「たんたん」。虎視眈々と幸せをつかもうという願いがこめられている。
ふたりの大きな目標は、高校生のお笑い選手権「M-1甲子園」に優勝すること。一昨年、決勝戦まで勝ち進んだのに、姉の夕佳さんが学費滞納のために高校中退していたことがわかり、失格になってしまった。高校生らしく、お得意の遅刻ネタで挑戦。妹がつっこみ、姉がぼける。ときどきお姉ちゃんが天然ぼけ。ネタも台本もふたりで考え、稽古しながら練りあげていく。

姉の夕佳さんは、2005年3月9日に乃海(のあ)くんを出産後、4月に通信制高校に入学。妹の有希さんは同じ高校の定時制に通う先輩。これで晴れて「M-1」に出場できる。
(番組のトップシーンで、出産の映像が流れた)

乃海くんは、生後3ヵ月をまえに首がすわった。夕佳さんは乃海くんが昼寝をしている横で、内職(お灸のもぐさを1つ詰めて30銭)をしながらいう。
「大学までわたしが出してあげようと。一応ですよ、思ってますから」

スタッフらしき男性がその理由を訊くと、女子高だったこともあり、親に甘えられるクラスメートが羨ましかった。乃海くんにはそんな想いをさせたくないからだという。

姉の夕佳さんが外出するときは、妹の有希さんが母親役に回る。でもケンカはしょっちゅうで、夫婦ゲンカみたいな感じ。すぐ怒る姉。すぐ謝る妹。

夕佳さんのボーイフレンド

2005年6月、姉の夕佳さんに、中谷公太くん(19)というボーイフレンドができた。実家は奈良県。いまは大阪のお姉さんの家から通っている。悲しい恋のはじまり。

2005年8月、中谷くんが住みこみ、子育てをしている。どうも夕佳さんが誘ったらしい。夏休みになって、いつも一緒にいる中谷くんに乃海くんもなついている。妹の有希さんも4人の暮らしを認めている。
中谷くんは母子家庭で育ち、父親の記憶がない。

中谷 「いいお父さんになりたいという気もちが強いんですよ」

「M-1甲子園」予選会

「M-1甲子園」予選会前日、3分のもち時間内に、何度繰りかえしても収まらない。ふたりはイライラをぶつけあう。愛する乃海くんのためにも、夢のデビューをしたい。

予選会当日、緊張している姉の夕佳さんに対し、悠然としている妹の有希さん。ネタの時間はなんとか3分に詰めた。あとはプレッシャーとの闘い。
しかし予選合格者に「たんたん」は入らなかった。
帰宅して今後についてふたりで話しあっているところへ、テレビ局からの出演依頼が携帯へ入る。深夜放送での路上ライブ。

不器用な恋

実家に夕佳さんを連れてゆき、母親に逢わそうとする中谷くんの気もちがうれしいのに、夕佳さんは決心がつかなかった。

中谷 「夕ちゃんはぜんぜん自分の家族とか大事じゃないし、いつでも切れるっていうけど、オレは無理やなあとか。家族に対しての価値観がちがうから」

夕佳 「元々ないぶん、わたしは依存心がないんですよね、家族に対して。やっぱそんなひともみてこなかったし、男のひとで」

ほんとうは彼のやさしさに思い切って飛びこみたい。でも、これまで親からも恋人からも裏切られてきた夕佳さんは、怖くて飛びこめない。「帰ってくる時間を教えて」というのが、精一杯だった。

その夜、中谷くんからメールが入った。

    「もう戻らない」

夕佳 「こんな広い部屋で、こんなにいっぱい中谷くんの想い出がつまった部屋でひとりでよう生活していかんと思う」

有希 「今回は見守るだけにします。(中谷くんに)電話してあげたいと思うけど、姉貴と中谷くんの問題やし」

スタッフが学校の近くで中谷くんに逢う。

中谷 「ふたりのなかでは急じゃないと思う。たぶんむこうもそう思ってると思うし」

数日後、夕佳さんを訪れたスタッフは驚く。夕佳さんが元気になっていたからだ。
夕佳さんは、相談した母親からいわれたことに納得していた。

夕佳 「あなたは子どももいて、ふつうの19歳じゃないのよ。そんなあなたを同じ19歳の男の子が一緒にいてくれた。それだけでも感謝しないといけないって。強がらずにいっぱい泣いて、いっぱい甘えていれば、わだかまりはなくなっていたかもしれへんけど、あなたは強がって自分で歩いていった。だからいまも、ずっと小さくわだかまっているのよ。それを大事なひとにぶつけてばっかりじゃダメって」

男性スタッフ 「お母さん、ようわかってるなあ」

夕佳さんは、男性スタッフの言に満足げにうなずきながらいう。
「なんぼいうても、母親やなあと思いましたね」

上記のやりとりに対してわたしが異議を唱えるのもおかしいが、ほんとうに母親のいうとおりなのだろうか。正直なところ、男性スタッフの言にわたしはムッとしたのだ。そんなに簡単にわからないでほしい。
たしかに夕佳さんは中谷くんの胸に飛びこめなかった。中谷くんは自分の母親と夕佳さんがうまくいくといっていたが、母親に反対されたとき、中谷くんに母親の反対を押し切れるだけの靱さがあるのだろうか。
それらの不安材料の行く末を、夕佳さんが無意識下でわかっていたから動けなかったといえないか。過去の裏切られた体験が障壁になっているだけなのだろうか。本気で夕佳さんが飛びこんできたとき、中谷くんに受けとめるだけの度量があるのか。
同時にわたしは思う。ふたりが若くて未熟だからという理由で片づけられない要素がある。何歳になっても男女関係はむずかしいし、学習によってうまくなるとも思えない。相手が変われば最初から構築しないといけないし、人間は簡単には変わらない。組みあわせとしてうまくいくかどうかが、大きく左右するようにも思える。
夕佳さんと中谷くんには、救命ボートの役目を果たす材料がないぶん、関係性の内実が鋭く問われる。
一方、中谷くんは夏休みの"家族ごっこ"で、なにをつかんだのだろう。乃海くんの世話をしながら、父親の感触に触れようとしたのか。息子のためなら強くなれる夕佳さんを横にして。

家庭の愛に恵まれなかった夕佳さんは、早く自分の家庭を築きたいと願った。同じ境遇の妹の有希さんは同じ動きをしていない。ふたりの差異はどこにあるのだろうか。

別れ〜夏の終わり

中谷くんからメッセージが入った。

    「置いてあった荷物をとりにいきます」

乃海くんはつかまり立ちをし、ハイハイしている。
キッチンでふたりは話しあう。

夕佳 「ほんま、自分ひとりで立ちたいと思ってる。乃海のこともひとりでみたいし。つぎ誰かとつきあっても、乃海ちゃんのあれやって、これやってじゃなくて、自分が公ちゃんにこうしてよ、ああしてよと、ずっといいつづけとったと思うんやけど、今度は自分で一生懸命立って、今度は夕佳が相手のうれしい顔みるために、なにかしてあげたいなと思ってるんや。(「ほおーっ」という中谷くんの声)。けっこうな、ほんま、へこんでないんや。寂しいけど、公ちゃんと離れるの。(「うん」という中谷くんの声)。自分がひとつでもふたつでも大きくなれる状況つくってもらえて、すごい感謝してるんや」

玄関でふたりは向きあう。
ふたりとも微笑をたたえている。

中谷 「なんぼでも仲よくするで」

夕佳 「ほんまぁ?」

中谷 「ぜんぜん嫌いじゃないし。まあ、あえて好きとはいわんかったけど、夕佳はずっと好きやった」

夕佳 「抱っこせんでええの?」(乃海くんを左手で抱っこしながら)

中谷 「抱っこせんでいい」(笑顔できっぱりと)

中谷くんは乃海くんに「ありがとう」といいながら握手し、「鼻みずでてるよ」とやさしく声をかけ、「じゃあ」と夕佳さんの顔を正視し、笑顔が貼りついたまま玄関ドアを閉める。
夕佳さんは「気をつけてね」といい、バイバイと手を振る。

夕佳さんは笑顔で「泣きませんよ。絶対泣きませんよ。女の意地です」と強がる。つづけて「あんな言葉残していくの、卑怯ですよね。聞きました?」といいながら、中谷くんが最期に残した言葉をつぶやく。
うつむいて涙をこらえる姿が痛々しい。
ここから先は、だれも入りこむことができない世界だ。

有希さんはイラストの道へ

京都精華大学オープンキャンパスを訪ねた有希さんは、イラストの世界に刺激を受けて眼を輝かせる。
もともとイラストを描くのが好きだった有希さんは、その道に進みたいと密かに願っていた。でも、どうしても漫才をつづけたいお姉さんにはいえなかった。
有希さんは一大決心をする。コンビを組んで3年の夕佳さんに、自分の考えを話してみようと。

有希 「ここ何日間でいろいろあって、よりいっそう、姉妹間的に絆が深まった。お笑いじゃなくてもふたりでおられるんやと思ったら、一気に楽になったっていうか、ふたりでなにかするんやったら、お笑いじゃなくてもいいやろうし。乃海が大きくなって落ち着くまで待ってみてもいいかなと思うし。正直、いまはお笑いより大学行きたいほうが気もちが大きい」

夕佳 「メッチャいいだしにくかったんちゃう、きょう。ありがとう」

姉の夕佳さんが笑顔なのに対し、妹の有希さんが涙顔なのが、ふたりの立ち位置をよくあらわしている。
1歳ちがいの姉妹だが、わたしには妹の有希さんのほうが精神年齢が上のように映る。姉の夕佳さんを立てることで、ふたりの関係のバランスをとっているように思える。

観客のいない最後の舞台

ふたりにとって生きる力そのものだった漫才。
路上ライブをしたときと同じ舞台で、ふたりは客のいない漫才をする。最後に選んだネタは「家族」だった。

夕佳 「家族とはつくるもんやなくて、自然とできあがっていくもの」

有希 「自分の意見をいえるようになったのは、成長かなあと」

ふたりの5年後、10年後をみたいと思う。
おそらく別居して、それぞれ別の道を歩みながら支えあってゆくのだろう。
TVカメラが姉妹をとらえたことは、ふたりにとってどのような波及効果があったのだろうか。

本番組の感想を記す作業のなかで、撮りかたによって内容に差異があるという、あたりまえのことについて考えさせられた。対象に耳をすませる深度が問われるのである。
昨夜、河内紀著『ラジオの学校』(筑摩書房/2004年)を読み了えたせいかもしれない。河内紀氏は、現在、TVドキュメンタリーを制作している。






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2006年05月13日

課外授業「二十歳の同窓会 原田泰治とこどもたちの約束」

2006/5/6、NHK放映の「課外授業ようこそ先輩」は原田泰治(画家)の登場。オルタスジャパン制作。
毎回、番組を観ていて思うのは、番組内で子どもたちの変化をあらわすのには無理があるのではないか、ということ。というのも、子どもたちの変化や、いかに自信がついたか、ということに力点をおいているようにみえるからである。
本番組はその意味で、番組の放映から8年後に開かれた同窓会を映すことで、かつての授業を吟味する内容になっている。

わたしの個人的イメージとしては、原田泰治の超マザコンぶりに閉口していた。本番組を観て、メルヘンタッチの画風・画材は、故郷・伊賀良という母胎から生まれたのだということがわかった。
8年まえの授業をわたしは観ていない。本番組を観る限り、最も授業からインパクトを受け、自らが変容し、二十歳の眼で原田さんと対峙しているのは美由紀さんだと思う。

益岡徹のナレーションのすばらしさに驚愕。俳優としてセリフをいう益岡徹の声質とはちがうので、別人に聴こえる。俳優の益岡にあまり好感をもっていなかったわたしは、見直したのだった。
抑制のきいた凛然とした声には、人生のきびしさがにじみでていて好もしい。社会派ドキュメンタリーのナレーションにぴったりだと、つい余計なことを考えてしまった。
念のため検索してみたら、『そこに楽園は無かった〜ドミニカ移民 苦闘の半世紀〜』(鹿児島テレビ放送)というドキュメンタリーのナレーターをしている。逸材なので、もっと活躍してほしい。

以下、順に追っていこう。

同窓会への招待状

昭和28年に卒業した原田さんは、45年後の平成10年4月に課外授業を担当。出演後、まもなく招待状を贈られた。「二十歳になった2006年1月3日に同窓会をしよう」という子どもたちの熱い想い。
大きな画用紙に「原田のおじさんへ」と冠し、原田泰治の肖像画が描かれている。裏面には、子どもたちからのメッセージ。

原田 「逢いたくなるもん、ねえ。宝ですよ」

雪の舞う飯田市立伊賀良(いがら)小学校へ

平成18年1月3日。
足が不自由な原田さんは、雪道を右手で杖をつきながら歩く。

原田 「いいかな、雪とおんなじで、まっ白い気もちで子どもたちに逢えるというのは。愉しみだし」

ナレーション 「長野県の南、かつて伊賀良村と呼ばれていた一帯です。いまは合併により、飯田市となっています」

教室のドアごしに子どもたちの声を耳にして、「おとなの声だなあ」とつぶやきながらドアを開く原田さんを、子どもたちは拍手で迎える。
互いに新年の挨拶を交わす。
原田さんが、ポツンと立っている幼児(男)にむかって「おめでとうございます」というと、笑いが起こる。

原田(66歳) 「みんな大きくなったねえ。びっくりしちゃった。おじさんは、もうジジイになったからね(笑)。ほんと、うれしいなあ。みなさん、ありがとね。あ、こうやってみていると、想いだすなあ、顔だいたい。うーん、ほんとだ(笑)。あ、赤ちゃんがいるね。びっくりしちゃった。ふつうオレの顔みると泣くんだよね。だけどこの子は大物(笑)。なにくん?」

幼児の母親 「タケルです」

原田さんは、「みんな憶えてる?」といいながら、画用紙の招待状をみせる。子どもたちから驚きの声があがる。

原田 「想い出としてね、みんなの絵がす〜ごくじょうずだと思った。クラスがまとまってたし、みんなの眼がきらきら輝いてて、ほんとによかった」

原田さんは、個別に子どもたちを撮った8年まえの写真を、ひとりずつ手渡す。この日、39人のうち31人が集まった。

ナレーション 「原田さんは、1歳のとき小児麻痺にかかり、両足が不自由になりました。思うように走り回ることができない。でも、故郷の風景をじっくりみつめることができました。画家・原田泰治の原点です。以来、自分を育ててくれた伊賀良をはじめ全国各地の故郷の風景を描きつづけています」

平成10年4月の授業映像が流れる。
原田泰治の作品をクローズアップ。
「ただいま」 「モモの花」

美由紀さんの変容

奥に座っている子どもたちを自分のほうに引き寄せて、原田さんはいう。
「どんな8年間をすごしてきたか、おじさん聞きたいんだ、とても。みんなの話聞くよ、オレ、きょうは。それ愉しみにきたんだから」

A女 「いま、地元の女子短大に行ってるんですけど。高2のときに看護師になろうと思って、いまがある……みたいな感じです」

原田 「自宅から通ってるの?」

A女 「自宅です」

原田 「いいねえ。幸せだね。それで、いいひとは? 正直にいってくださいね、おじさんに(笑)」

(横に座っている女の子と顔を見合わせながら、困惑ぎみに応える)
A女 「ええ、まあ……います。いません(笑)」

A男 「大阪のほうで、救急隊員になるための勉強をしているんですけれども、この飯田市に帰ってきて、飯田市民だけは絶対に助けたいと思って、がんばろうと思っています」

原田 「すごいねえ!」

B男 「高校出てから美容師になろうと思って、いま名古屋にいるんですけど、シャンプーでメチャメチャ手が荒れるんですよ。肌がメチャ弱いんで。夜、毎日泣いていました」

原田 「そんなに手が荒れるんだな」

美由紀 「いまは家を出て、千葉県の大学で日本文化を勉強しています」

(8年まえ、課外授業を受けた美由紀さんの顔をクローズアップ)

ナレーション 「美由紀さんは小学生のころ、友だちづきあいが苦手でした。そのため不登校を繰りかえしていましたが、原田さんの授業には思い切って出席。忘れられない想い出となっています」

(そのときの授業で原田さんが、足のギブスをはずしてみんなにみせた姿をみて、泣きだした美由紀さんの映像が挿入される)

涙の理由を語る美由紀さん。
「怖かったし、申し訳なかったし……。原田さんもコンプレックスをもっていた時代って、たぶんあると思うんですよ。そういう自分のよくないところを、ああやって出せるっていうことに、たぶんびっくりしたんだろうなあ、うん」

ナレーション 「中学生でも不登校ぎみだった美由紀さんはイジメにあい、いっそう他人への恐怖心を強めてしまいます。(中学の制服姿の、硬い表情の美由紀さんの写真が挿入される)。高校では、こころを開いて話せる友人と出逢い、少しずつですが、ひとと向きあえるようになりました。(浴衣を着た笑顔の写真が挿入される)」

(美由紀さんが、友人と雰囲気のよい喫茶店で話す映像を流しながら)

ナレーション 「そして卒業後は、自立心を養いたいと飯田を離れ、千葉の大学に進みました。見知らぬ土地で新しい友人もできています」

ひととちゃんと話せるようになった美由紀さんは、苦労していない人間はひとりもいないと思うようになり、ひとを癒せる、安らいでもらえるような仕事に就きたいと漠然と思っているという。
20歳になった美由紀さんの言葉を選びながらの発言を聞いていると、感じやすく、純粋な人間の生きがたさが胸に迫る。

シングルマザー・久美子さんの苦悩

原田 「なんだと思う? みんなの描いた絵(笑)。ずいぶんあるよ。返しますね。記念にとっておかなければ。もう2度と描けないよ。もう戻れないんだもん」

8年まえ、原田さんは子どもたちに家族の絵を描いてもらった。返された絵をカメラのまえでみせながら、笑いあう子どもたち。

(久美子さんの絵がクローズアップ)

ナレーション 「仲のよい家族の絵を描いた久美子さんです。いつも明るい父と母。ひょうきんな姉とやんちゃな弟。久美子さんはいつか自分も、こんな笑い声の絶えない家庭をつくろうと思っていました。(車で保育所に息子を迎えにゆく映像が流れる)。そんな久美子さんは19歳で結婚し、息子を出産。しかし憧れていた結婚生活は、離婚によって終止符が打たれました」

久美子 「なるようになったみたい。なにも考えずにすごしたんで、こんなんでいいのかなと思うんですけど、たまに」

ナレーション 「いまは保険の外交員として働き、親子ふたりの生活をまかなっています」

自宅で息子の世話をしながら語る久美子さん。
「自分が悲しいことがあったときに泣いてたりすると、子どもが泣いちゃうじゃない。じゃあ、わたしも泣かないようにがんばろう、とか。一緒に泣いてたらダメだなあと思って。まえより強くなったかなと思いますね、自分が」

(場面が教室に戻る)

原田さんは眠ってしまった久美子さんの息子・タケちゃんを抱っこし、久美子さんに話すように促す。
足の悪い原田さんは、ずっとイスに座っていて、自分から動こうとはしない。

原田 「オレの孫(笑)。かわいいねえ」

久美子 「いまは子育てと仕事をとりあえずしてるんですけど、ウチのなかでいろいろあって、イザコザみたいな感じで。ウチ、いま微妙なんですけど、とりあえずいま、ひとりで仕事をしてて……、あ、ちょっとダメだ。やばいかも。あ、ちょっといいです(失笑)。なんかまずいわ。すいません、やばいっす……」

そういいながら、うつむいて泣きだしてしまった久美子さん。

原田 「切なくなっちゃう? うん、わかった。やめよう。ごめんね」

久美子さんは教室の隅に移動し、みんなに背を向けてしゃがみこむ。久美子さんの背をカメラが凝視。
同窓生たちは、それぞれ複雑な表情になる。

原田 「おじさん、ちょっと考えたんだけど、自分が二十歳のときにどうだったかと思ったときにね、一番悩んだときよね。人生の灰色のときなのかなあ。オレ、いま振りかえってみると、人間はみな二十歳のなかでとても悩んでる。でもね、そういう苦しいなかで自分が闘ってきたということが、とっても原田泰治をつくっていると思うの。苦しみを与えてくれるということに感謝して乗り超えていく、そういうパワーをもてるのが二十歳だと思う」

(平成10年の授業風景の映像が流れる)

ナレーション 「かつて行なった課外授業の最後に、子どもたちはそれぞれがもつ故郷・飯田のイメージを描きました。絵が完成したとき、原田さんはこんなメッセージを贈りました」

8年まえの原田 「どんなに自分たちが大きくなって故郷を離れても、きょうの出逢いもそうだけれども、"伊賀良で育ったこころ"を大事にしてもらいたい。鮭の稚魚が川を下って、大きくなったら、傷つきながらも自分の故郷の川へ上ってくるじゃない。それとおんなじように、自分たちが苦しくなったとき、悲しくなったとき、そういうときに必ず故郷を想いだして、がんばってやってゆく。ほんとにありがとう。ご苦労さんでした」

ナレーション 「あれから8年。同窓会に集まった31人のうち23人が、いまは伊賀良を離れています」

バスケットを断念したダイスケさん

B女 「いまは京都にいるんで、親も京都で就職していいよっていってるんで。まだ下に弟と妹がいるんで、自由に京都で就職したいなあと思います」

C女 「わたしはあまり帰ってくる気はないんです。親は大事だと思うんですけど、自分がやりたい仕事を考えると、東京とかの都会にいたほうがいろんな体験ができるから」

C男 「アパレル系なんで東京とか都会のほうがやっぱりいいんですけど、自分は独りっ子で長男なんで、どっちみち親のめんどうをみなきゃいけないかなあと思って。帰ってくるかどうかは、むずかしいところなんですけど、そういった点で悩んでます」

ダイスケ 「高校を卒業したあとに、やりたいことっていうのは、正直なかったんですよ。なので地元で就職したというのもあるんですけど、そういう自分らからしたら、やりたいことがあるひとは、すごい羨ましいというか、そういうことは大事にしてほしいなあと思うんで、ぜひやりたいことをがんばってもらいたい、って思ってます」

(高校でバスケットの試合に出たときの集合写真と、地元の工場で技術を磨くダイスケさんの映像が流れる)

ナレーション 「ダイスケさんは中学・高校と熱中してきたバスケットボールを、できれば大学でもつづけたいと考えていました。しかしバスケットでは食べていけない。そう考えて、熱い想いを封印しました。そしてまずは地元に根を張ろうと、地元の金属加工工場に就職。新たな生きがいを、じっくりとみつけていくつもりです」

ダイスケ 「いま親と一緒にいるんですけど、お金の面では自分でなんとかしていこうかな、と思ったんで。もう二十歳にもなりました」

制作スタッフらしき女性の問いかけ。
「(8年まえに)原田さんのいった言葉を、いまのミヤシタくんはどういうふうに受けとめていますか?」

ダイスケ 「いまなら、いってたことがわかるとまではいかないと思うんですけど、わかってきたんじゃないかなあ、とは思います」

原田さんが贈った作品

原田 「あのね、用意してきたのね。めったにこういう絵、描かないんだけど、女のひとが男のひとに抱きついているという感じね。あんまりいやらしく思わないでね。これは青春の一コマを表現して描いてあります」

原田さんは、みんなのまえで筆をもち、絵の右側に言葉を書きこむ。「どんなに苦しくても支えあって生きてほしい」という願いがこめられているという。

   努力の種まかねば
   夢の花は咲かない。

みんなは黒のマジックをもち、原田さんから贈られた絵の周りに、将来への願いを書きそえる。

   おばあちゃんになっても、仲よく
   手をつなげるような夫婦が理想
                   久美子

最後に、女の子が赤のマジックで書きこむ。

   2016年
   みんなで
   また集まろう

拍手が起こり、「そのときはまた、原田さんもぜひ」と、女の子が原田さんに招待状を手渡す。

「いいんですか。また招待状いただいちゃった」といいながら、原田さんはカメラに招待状をみせる。
日付は「2016年1月3日」となっている。

裏門らしき場所で、原田さんは見送る。
ひとりひとりの子どもたちと握手しながら声をかける。久美子さんには励ましの言葉を。
いつもは子どもたちが先輩を見送るので、逆である。

母校を去ってゆく子どもたちの背中をカメラは追う。
最後尾にいるのは久美子さん。子どもを抱いていないらしく、身軽にみえる。本来は明るい性格であろう久美子さんの背に、さきほど泣きだした背がかぶさる。その前途多難な路を、だれかが見守っているようなカメラ目線を感じる。

原田 「いい子どもたちに逢えたということ、8年まえにね。それはあんまり変わってないし。はじめはびっくりするじゃない、大きくなっちゃってね。でもやっぱりどこかよきあのころの小学6年生のときの姿とかわかるし。それからあれだけこころを開いて、いろいろの悩みを話してくれるあの子どもたちのこころはほんとにきれいで、いい子どもたちですよ、ほんとに」

エンディングシーン

しゃれたシーンである。カメラワークがいい。
無人の教室の黒板に、原田さんから二十歳の子どもたちに贈った作品が置かれている。殺風景な教室に、夢の花が咲いたように映える。絵を子どもたちの夢がとり囲んでいる。
このシーンは余韻を感じさせるとともに、ひとりひとりの子どもたちの成長の重みのようなものが伝わってくる。
この教室で、いま、日常的にどんな授業が展開されているのか。
無人の教室はとり戻せない時間を想起させ、センチメンタルな気分を呼びさます。が、原田泰治の暖色系のメルヘンタッチの絵と造形美のある文字には、それらを払拭するやさしさと力強さがある。

趣向はちがうが、時を隔ててひとと逢う世界をシビアに描いた映画「舞踏会の手帖」(1937年・仏)の、モノクロのうつくしい映像が浮かんできた。








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2006年02月17日

仲畑貴志編「課外授業ようこそ先輩」

2006/1/25放映の「課外授業ようこそ先輩((NHK総合)は、コピーライターの仲畑貴志氏で、テーマは「見つけよう! 自分の言葉」。
制作 オルタスジャパン。ナレーター 吉田日出子。
仲畑氏には興味をもっていたので、期待感をもって観た。

オープニングシーンとして、つぎのコピーが画面いっぱいにあらわれるのが意表を衝く。

   生きるが勝ちだよ、
   だいじょうぶ。

コピーライター仲畑貴志氏(58歳)は37年間、人の心に届くコピーを創りつづけてきた。これまで手がけたコピーは2000本を超える。

かつてTVで流れたCMが挿入される。
市井のひとというイメージの70代後半の男が、決死の覚悟の面持ちで大車輪を軽々とやってのける。その苦しげな面相と若々しい身体のアンバランスが笑いを誘いつつ、妙な現実感を醸しだす。ひょっとしたら自分にも隠れたパワーが存在するではないかという虚しい錯覚。
リアルタイムでこのテレビCMを観た記憶があるが、なんの広告だったか失念。強壮剤だとしたらブラックユーモアだ。

◆自分にコピーをつける

仲畑氏が教室で、子どもたちの写真をはりつけたパネルをさし示す。全員のパネルを用意していて、ひとりひとりが自分にコピーをつけるのが課題である。

仲畑「上手にいおうと思ってる表現というのは心を打たないし、深度が浅いね。入っていかないよね。ほんとうだと思うことを表現すると、やっぱりいいコピーになるよね」

ここで時計が逆回転する。
番組制作スタッフの問いかけに仲畑氏は、
「どういうふうに気もちが届くかわからないからなあ。まあ、なりゆきだなあ」
といい、右手でステッキをつきながら京都市立新町小学校の門をくぐる。
6年1組34人の子どもたちが待つ教室のドアを開く。一見、リラックスしているようにみえる仲畑氏であるが、緊張感がにじみでている。
教室のドアを開くシーンが毎回登場するようだが、本番組の必須条件なのだろうか。わたしには疑問に思える。

◆もののなかに価値をみつける(仲畑流コピー)

教室にトマトが数コ運ばれる。

仲畑「これ、腐ったトマト。これを広告してみよう。このトマトのどこに価値があるのか。いいなあと思わせにくいよね、腐ってるから。そこをなんとかみんなの力で」

腐ったトマトの臭いに、キャーキャーいう声や、顔をしかめる子どもたち。

男の子「生き物がいっぱいなかにいそう」
女の子「動物のエサになる」
女の子「腐ってもタイの赤さ」
男の子「眠気も覚ますニオイ」
男の子「バツゲーム専用のトマト」(笑)

子どもたちが考えた結果を黒板に書きだす。

仲畑「これは、ぼくはいいと思うんだ、バツゲーム。すごいのは、すでにコピーになってるのね。価値が生まれてるよね。腐ったトマトでも、こういうひとつの視点を変えるだけで生きることができる。マイナスは逆転できるということと、つながるわけだね」

仲畑氏のプロフィールが挿入される。
22歳でコピーライターとなった。
喜怒哀楽を素直に表現してヒット作を連発。
34歳のときに、カンヌ国際広告映画祭金賞受賞。

   カゼは、社会の迷惑です。

   反省だけなら、サルでもできる。

   好きだから、あげる。

仲畑氏のオフィスを訪ねた番組制作スタッフに語っているふうにみえる場面。
仲畑「コピーライターとして狙撃型はカッコいいんだけど自信がなくて、オレは掻堀型。下からザルで掬うやり方なのよ。だから心にいかざるをえないね」

◆実感と共感がある言葉

教室で仲畑氏は、百貨店のポスターを示す。
白いイヌとネコの後ろ姿が仲よくならび、コピーが示される。

   私は、あなたのおかげです。

仲畑「イヌとネコ。これをなんとか仲ようさして。いばっている人ってきらいでしょ。いばってるお店ってきらいじゃない。"私はあなたのおかげです"という人は、つきあいやすい人でしょ。好意的な言葉だということが重要で、実感と共感がある言葉だということになるのね」

仲畑氏の板書→実感 共感

仲畑「実感と共感というのは、ふつうの心のなかにあるわけよ。コピー1コつくるのに、100コくらい、多いときは500コくらい文章書くんだけど、そのなかからこれでいこうと決めるんだけど、結局自分の心に正直にやるしかなくなってくるということでね」

コピーが書かれたパネルを仲畑氏は示す。

   生きるが勝ちだよ、だいじょうぶ。

仲畑「どういうふうに感じる?」
男の子「そういう言葉を聞くと、元気づく、励まされる」
男の子「それをいってもらえると、なごんだり、再出発の気もちを多く感じる」
男の子「"生きるが勝ち"とは、どういう気もちでつくったんですか?」
仲畑「生きるとか生きないということは、むずかしいことなんだけど……」

ここで仲畑氏の顔写真が挿入される。
カード会社のコピーとして、40歳のときにつくった。ノイローゼになり、死ぬことばかり考えていた仲畑氏にとって、自分自身を支える言葉でもあった。

教室の場面にもどる。
仲畑「つらいなあと思うことって、みんなあるでしょ。いろんなときにさ。ぼくも40をすぎたころに、突然ものすごくつらくなっちゃったんだよね。なんだかわからないんだけど。大げさにいえば、生きるのがつらいぐらいの気もちになって、3年ぐらいつづいたんだよね。生きていて、うまくいくことばっかりじゃないし、壁につきあたったりするときに、しんどいなあ、つらいなあと思うときに、だけどまたがんばろうと思いたくて、自分がいってほしい言葉になってるね」

仲畑氏が心情を吐露するのを聞いているひとりの女の子の顔を、カメラがアップ。
うっすらと涙を浮かべながら、その口元は泣くまいとしてがんばっているように映る。それが、仲畑氏に感情移入しているというより、裸の心をみせたおとな(先輩)に対して心を揺さぶられているようにみえた。実際は彼女の体験から共感していたのかもしれないが、わたしにはそのように感じられた。

◆授業1日目の宿題

仲畑氏が、子どもたち全員の写真をはりつけたパネルをとりだすと、笑い声が起こる。
パネルに自分のコピーをつける前段階として、自分のいいところ、願望、いまの自分をみつめて書く、というのが宿題である。

仲畑氏のオフィスに場面が移り、制作スタッフにいう。
「なんか武器をもってほしい。生きていくために、なにかつかまるもの」

スタッフとのやりとりが数回挿入されるのだが、必要だろうか。(スタッフの後ろ姿が映っている)。画がなくて、そういうやりとりがあったということを視聴者に感じさせる演出のほうが、わたしには好もしく思える。
もっとも、あれが仲畑氏のオフィスだとしたら、モノトーン(黒)ですっきりと片づいた空間であるところに、わたしは興味をもったのだが。

…………………………………………………………………………………

授業2日目

◆自分のいいところを考える

授業をはじめるまえに、仲畑氏はスケッチブックに書かれた子どもたちの宿題に目を通す。

教室に入る仲畑氏。1日目よりリラックスしている。

仲畑「人のいいところは、みつけやすいでしょ。自分のは、一番近いのにわかりにくいのは、なんでだろうね」

男の子「自分で考えたときは、いっつもやってることやから、自分でほとんどわかると思ってたんやけど、書いていくうちに詰まったりして、お父さんにきいたりして、客観的にみてはる人のほうが、よくみてはる」

仲畑「自分のいいところを自分が気づかないのは、もったいないよね。松田くんは、どうして長所のところに自分の欠点も書いたの?」

松田くん「いいところを考えているときに、お母さんにぼくの悪いところを聞いて」

仲畑氏が「マイナスとプラスと、どっちが考えやすい?」と問いかけると、「マイナス」という声があがる。テレがあって、自分のいいところは書きにくいかもしれないので、逆をやることにする。

◆自分の悪いところを探す

子どもたちがスケッチブックに書いたなかから、ひとつだけ黒板に書かせる。

仲畑「自信がないとか勇気がほしいというのは、だれにでもあることなんだけど、自分の心の根っこのところの、自分を支えるところが弱いのを心配するわけ。ぼくら齢上のおとなからするとね。マイナスというのは逆転できる。欠点というのは踏み台になってくれることもあるのね。あなたたち、未来がいっぱいある人は、出発点になるから、自信のない人に勇気づける言葉、贈る言葉、そういうものをやってみよう」

◆欠点は出発点――自信がない自分を勇気づける言葉をさがす

カーテンのなかで考えていた西本さん。集中したいという心理のあらわれだろうか。恥ずかしげに、でもちょっぴり得意げな顔でカーテンからでてきて、彼女はいう。
「なんか発表しようと思っても、この答えがまちがってたらどうしようって思って、結局は(手を)あげられへんかったりとか。そういうのを直したいんやけど、なかなか直せへんから」

恥ずかしがりの改森くん。

しっかり者の淺野くんは、友だちを励ます言葉を考える。

仲畑氏は、この3人に対して、それぞれのスケッチブックから核となる言葉を発見し、アドヴァイスする。

制作スタッフに仲畑氏が語る場面が挿入される。
「不器用なほうが、その人の個性をだして、いいのを書いてるね。必ずいいワードがなかに入ってるのがすごいね」

◆発表

黒板のまえに進みでて、自分の写真がはられたパネルを掲げ、自作のコピーを披露する。

〈久保田さん〉
ちょっとの勇気が希望にかわれるから

〈改森くん〉
はずかしがっても何も起こらない。

〈西本さん〉
君達だって主役さ。
――主役が輝いて見えるのは、かげで君達が支えてるからだよ。
        
〈足立さん〉
とびらを開けたしゅんかん元気づけたりはげましてくれる友達がいる。
      
〈湯浅さん〉
あなたも私も地球上で1人しかいないから大切なの。
      
〈淺野くん〉
自分の心に自信を持って心の花を咲かせよう。
      
◆6年1組の子どもたちへ

仲畑氏は子どもたちに、ひとつのコピーを贈った。
黒板に書きはじめる。

   私は、もっと私になれる。
   もっとチャーミングな私がいるから。

仲畑「りっぱに装ったコピーです。そんなにいいものだと思ってもらわなくていいです。残念なことに、ある技術でりっぱなことって書けちゃうんだよね。人間って、そういう怖いとこもあるね。テレビなんかみて、ヘンなおじさんがでてきて、りっぱなことをいっても、ぜんぜん感じないことって、きっと君たちいつも感じてると思う。そのおじさんはりっぱなこといってるけど、そういうふうにみえないということは、なんか問題があるわけでしょ。りっぱな言葉を感じさせるだけの人柄をもってなきゃいけないね。たった2日でなんにもできないんだけど、みんな相当うまくできてるから、1回こういうのをつくったのは、ひとつの記念みたいなものだから、あなたたちの今後のプラスになればよかったと思います。以上です。きょうは、ありがとうございました」

子どもたちの「ありがとうございました」が返ってくるが、感きわまっているのか、滑舌が悪いのか、はっきり聞きとれない。

仲畑氏が教室をでたところに、子どもたちが走り寄ってくる。「なんや、おまえら」と笑いながら、「年寄りを泣かすなよ」という感じでメガネをとる仲畑氏。男の子に話しかける内容から、仲畑氏がそれぞれの個性を把握していることがうかがえる。

校門をでて、解放感に満ちた仲畑氏が、姿なきスタッフに笑顔で語る。
「疲れたねえ。オレ、こんなんもう2度とやりとうないわ。疲れながらも、息苦しいのもあったわ。"心"だから。きつかったです。だけど、よかったです。最高でした。ありがとうございます。失礼します」

  *
  
■西本さんという女の子

番組のラストで西本さんがいう。
「あしたからがんばって発表したりして、変わっていきたいなあと思って」

この西本さんの発言に、わたしは異議を唱えたくなるのである。発表できるようになることが変わることだろうか。西本さんには表現者としての資質があるように思えた。それを伸ばすことのほうが大切ではなかろうか。

余談だが、わたしは小学生のころから、わかった者が挙手して発表するというシステムに違和感があり、わかっていても挙手しなかった。たいていの教師が、誤答をした子どもを否定する点においても納得できなかった。また、教師に当てられて誤答をした子どもを立たせたり、罰を加える教師が多いのにも辟易していた。それらは教えることではなく、単なるチェックにすぎない。
唯一それをしなかったのが、中学校の国語教師だった。彼女はユニークな授業を展開し、誤答をした生徒を肯定し、一方で褒めてもよい生徒を褒めることもなかった。卒業まえにサインをお願いしたら、「よい教師とは、いかに平等に子どもを愛せるかだ」と書かれていた。

■サントリー宣伝部

仲畑氏を最初に知ったのは、『ドキュメント サントリー宣伝部』(塩沢茂・日本経済新聞社・昭和58年)という本のなかだった。そこから引く。

《四十一年に京都の洛陽工高を出て、青果市場の店員などを経験したあと、サン・アドのコピーライター募集に挑戦、合格して開高、山口らに仕込まれ、売れっ子になった。だが、仲畑は「事務所や講座で覚えた技術より、店員時代のタコ部屋のような寮で、さまざまな人間と寝食をともにして、いろんな生き方と接した」経験こそ、コピー哲学の「広告することは人間を語ること」の根源になっている、と述懐する。トリスのテレビCM「雨と犬」で、一九八一年度カンヌCM映画祭グランプリを受賞している》

上記にあらわれている仲畑氏の人間観と、授業の最後に子どもたちに贈ったメッセージは符号する。
「カゼは、社会の迷惑です。」というコピーが仲畑貴志作だということを本番組で知った。感冒薬の広告だったと記憶している。
このCMがTVで流れたとき、わたしは「なんというセンスの悪いCMをつくってくれたのか」と驚愕した。いまもその想いに変わりはない。なぜなら、社会で忌みきらわれ排除されている被差別者の存在を、瞬間的に想起したからである。邪推だろうか。
いずれにしても、わたしはこの仲畑氏のコピーだけは、いまでも感心しないのである。
仲畑氏がこのコピーに込めた想いとは、なにだったのだろうか。
蛇足だが、わたしが観たいのは多田琢氏(CMプランナー・1963年生まれ)の「課外授業」である。

昭和58年(1983)、サントリーローヤルのランボーのテレビCMをみたときの衝撃を、わたしはいまでも鮮明に憶えている。感じのいい音楽が鳴り、「アルチュール・ランボー あんな男ちょっといない」というコピーだった。
こんなCMをつくってもいいのか、と驚愕しながら感心した。このCMがサントリー宣伝部を二分したという書評を読み、上記の本を読んだのである。
本を読んだあと、わたしはサントリー宣伝部に手紙を書き送った。いままで企業に手紙を書いたのは、これきりである。それほどランボーのCMが斬新だったのである。
しばらくして、サントリー宣伝部から返信がきた。女性らしい文章で、冒頭に「あれは外部の人間の書いた本ですから」という感じの体温の低い文章だった。末尾に「サントリーの商品をご愛飲ください」とあったのは、わたしがエビスビール(生の瓶入り)を買っていると書いたからだった。

■「BSふれあいホール 出会いのコンサート」

BS2で1/24〜1/26に放映された辛島美登里編は、オルタスジャパン制作らしいが、クレジット表記はそうなっていなかった。
3回とも愉しめたが、最後の回が最もよかった。

「鳥の歌」
 オカリナ奏者 宗次郎
 
「明日も会えるように」
 詞 辛島美登里
 曲 千住 明
 
「サイレント・ラブ」
 詞・曲 辛島美登里
 編曲  千住 明
 
「鳥の歌」は好きな曲なので、はじめて聴くオカリナの演奏もよかった。
「サイレント・ラブ」は、辛島の歌、千住のピアノ、宗次郎のオカリナが絶妙の世界を醸しだしていた。千住明には注目しているので、活躍を願っている。

「プロフェッショナル 仕事の流儀」

NHK総合の「プロジェクトX」のあとにはじまった新番組である。テーマ曲もいいし、意欲的な番組だが、NHK内部にプロフェッショナルを感じさせてもらいたいと、つい思ってしまう。正直なところ、いまの会長の顔をみていると、いつも暗い気分になる。トップを本番組に登場する人間のような挑戦的な顔に変換しないと、視聴者の支持は得られないだろう。

2006/1/31に登場したアートディレクター・佐藤可士和氏の発想はおもしろかった。いまの時代感覚を磨いている人物のひとり。佐藤氏のオフィスもシンプルで、見事に片づいていた。
同じ広告の世界に生きる仲畑氏と佐藤氏を比較して、考えを巡らした。

すみきちのキャスターコラムがおもしろい。モギケン(茂木健一郎)より、柔軟な脳を感じる。



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2006年01月23日

ガイアの夜明け「青森を世界に売れ」

テレビ東京の「ガイヤの夜明け」はテーマに興味がある場合だけ観ているが、アップテンポの番組である。2006/1/17放映の「青森を世界に売れ」はオルタスジャパン制作。テレビ東京、22:00〜22:54。

青森県庁内にひとつの商社「青森ブランド」が生まれた。商売人への転身である。

世界へ挑むベビーホタテ

主役は青森県職員(総合販売戦略課)の藤森洋貴(ひろたか)さん、40歳。
2004年のホタテ生産量は、青森が全国2位で約9万5000トン。8割が北海道産。安い中国産も入ってきているが、青森産は甘みがあり味がぜんぜんちがう。1年もののベビーホタテを、1日に7トン加工する。
経済発展が著しいアジアは巨大胃袋。青森県の招きでやってきたのは、鄭(てい)建仁さん。台湾・食品メーカーバイヤーである。
青森は初めてだが、よい製品があれば輸入も考えているという鄭さんを、水産市場へ案内する。
鄭さんのベビーホタテについての感想。
「台湾の消費者が買うかどうか。ぼくはおいしいが、みんなは買えない」

片山りんご園

片山寿伸さん(45歳)は嘆息する。
「安い果物がいっぱいある。りんごだけ高く売れない。だれもりんごを食ってくれない。わしらは見棄てられた」
味や質がよくても値段が張る青森りんごの売り上げは、年々落ちている。安い輸入果物に押されているのだ。
片山さんは40年つづくりんご農家の2代目。
「日本国内では売り余すときがくる。ヨーロッパや中国にいまから売っておけば、農家が助かる道になるかもしれん」
毎年10月になると、弘前のりんご農家の1年の売り上げが決まる。片山さんは個人のインターネット販売もはじめた。
昔は獲れた分を全部市場に出荷していた。いまは、スーパーや量販店への直接販売が6割以上を占める。
「おそらく生産原価を割るよ、黙って市場にだしていたら。量販店や生協と直接契約しなければ、食っていけねえのよ」と片山さん。

片山さんはパソコンにむかう。手許には英語の辞書。ヨーロッパにりんごを売り込むことにしたのである。1992年、スペインの果物商社に勤め、世界を相手にりんごの取り引きをしていた。1年間スペインで働いていた経験から片山さんは思いつく。
「日本人が食ってくれないなら、ヨーロッパにだしてみよう」
手づくりのパンフレットでイメージしたのは日の丸。トップに大きく NIPPON 1-BAN とある。

ヨーロッパ最大の果物見本市

昨年2月、ドイツのベルリンでが開かれたフルーツ・ロジスティカ (Fruit Logistica) 2005/ 国際果実・野菜・マーケテイング専門見本市
1400社もの果物会社が集まるなかで、りんごは最も競争の激しい商品のひとつ。
中国産ふじは、1キロ約80円。片山さんの日本産ふじは、1キロ280円。

ブースでの評判。
イタリア人バイヤー「おいしいが高い」
中国人バイヤー  「高い」
スペイン人バイヤー「ヨーロッパ人は1本のワインに1万円以上払う人はいます。りんごに280円だす人はいません」

ベルリン青空市場にて片山さんの感想。
「日本と全然品種がちがいますね。日本と同じ品種は、ジョナゴールドと中国産ふじだけ。どれもこれも酸味のある品種ばっかりだ」
ヨーロッパで売られているりんごは、1キロ約140円。
片山さんは、ピンクレディーという新しい品種のりんごをみつける。ニュージーランドで開発された高級りんごで、1キロ約550円。
片山さんに一条の光が射す。
「これなら日本の小玉りんごが販売できるかもしれない。高級店なら可能性はあります」

おいしくて珍しい品種なら高くても売れる!

帰国した片山さんを迎えたのは、17年ぶりの大雪。りんごは自然との闘い。
ユーレップギャップというヨーロッパの生産基準をクリアしないと、ヨーロッパに輸出できない。日本でユーレップギャップ認証を取得したのは、片山さんを含む2軒だけ。

9月。りんごの葉をていねいに摘みとる作業をする。ひとつひとつのりんごに日光を当てて真っ赤に色づけるため。海外ではほとんど行われていない。こうした手間暇かけた作業が、品質のよい日本のりんごを作っている。

シナノゴールドで勝負

7年前に開発された品種。甘さも十分で瑞々しい。しかも片山さんたちの実験で、1年間保存してもおいしさが変わらないということがわかった。長期保存できるということは、船便での輸送に堪えられる。まさにヨーロッパにうってつけの商品。
さっそくサンプルをスペインの商社にもちこむ。
出荷で忙しい片山さんの代わりに、相棒の山野豊さん(青森りんご品質管理担当)がスペインでの商談を任される。
交渉するのは、果物卸商社・サンチェス。ヨーロッパ全土と取り引きがあり、4割がりんご。吟味した販売の責任者のシナノゴールドに対する反応は、「すごく瑞々しい」。

台湾・高雄での青森物産展

人々の食に対する関心が高い台湾で「青森物産展」が開かれることになった。日系の大手デパート「大立伊勢丹」開業13周年の目玉である。
開店と同時に台湾の客が殺到したのは、りんご売り場。台湾では青森のりんごは、高級りんごとして人気が高い。

一方、2トン以上もちこんだベビーホタテは、ぜんぜん売れない。目のまえで調理してみせる作戦で客の足が止まり、試食に手が伸びる。おいしくて簡単に食べられるとわかると売れはじめた。さらに客どうしのクチコミで売れはじめる。
物産展のあとで設けられた商談会場に、台湾のバイヤーたちがこぞってやってくる。春に商談を断った鄭さんもやってきた。
藤森「こういうおいしい味で値段は高い」
鄭 「チャンスができるかもしれない」

藤森さんは明るい顔でいう。
「少しでも可能性があれば、チャンスをみつけて改めていく」

青森でスペインからの朗報を待つ片山さん

会社でコンピューターにむかう片山さんに、山野さんから電話が入る。
山野「みせた。買ってもらった。値段に見合う販売先を探してくれると思う」
1ヵ月後、スペインの高級スーパーに、片山さんのりんごを卸す話が進みはじめた。価格は1キロ2.5ユーロ(約350円)。

りんご農園でりんごの木の芽に触れながら、片山さんは自らにいいきかせるようにつぶやく。
「この芽をみたら、やらざるをえねえのよ」

■感想
りんご農家が苦境に立っていることを、本番組を観るまで知らなかった。それにしても、青森県の職員が商社マンに変身せざるをえないとは驚かされる。どこを向いても生き残りに躍起な世界が展開されていて、窒息しそうになる。
日本人がみかんを食べなくなったのは、家族が集まる居間でみかんを食べるという文化が失われたことと関係があるという説がある。りんごについても同列なのだろうか。

海外のりんごに酸味が強いのは調理して食べるからだという。日本のりんごを売り込むには、生で食べておいしいということと同時に、健康によいという要素を強調したらよいのではないか。
わたしが最も好きなりんごは「つがる」である。味も姿もよい。酷暑のあとに「つがる」を店頭にみつけると、生き返ったような気分になる。最も多く食するのは「ふじ」。知人の信州出身者から送られる「ふじ」は、他と比較にならないほど美味。ところが、都内に住む友人が送ってくれた青森の「ふじ」は、彼女の母親の出身地が青森の故か、上記の信州産を超えるほどの絶品だった。信州産より青森産のほうが瑞々しいように思う。
信州の産地直送の無農薬「ふじ」を友人が送ってくれたが、驚くほど美味ではなかった。りんご農家の熱意が伝わる長い文章が添えられていた。
生協のりんごはおいしかったのだが、6年ほどまえから急にまずくなった。なぜなのか。
片山さんのりんごを通販で求めてみようかと思う。ちがいを確かめてみたくなった。

日本の果物や野菜の味が、どんどんまずくなっている。昔に比して栄養価も劣っているらしい。それらを食する子どもたちの身体に、どのような変化があるのだろか。

〔参照〕
「りんご〜Apple〜」

「ユーレップギャップ」(EUREPGAP:欧州小売業組合適正農業規範)

「農業情報コンサルティング株式会社」

待望のりんご中性種「シナノゴールド」



〔追記 2006/1/27〕
片山林檎園に注文したサンふじ(無袋ふじ)が昨日届いた。
さっそく食してみたところ、生協で求めるのと同じ味である。昨日より本日のほうが甘みとこくのようなものが、すこし加わったという感じがする。
私事だが、2月の亡父の祥月命日に、片山林檎園のりんごを送ってもらうよう手配した。いつもは和菓子を送っているのだが、本番組を観た記念として。
余談だが、百貨店から贈られる高価な産地直送の果物セットも感心しない。わたしの食生活はいたって質素なのだが、子どものころより味覚が鈍くないので困ることが多い。
いまの日本では、「高価だから美味」といえないケースが多いと思う。海外では通用しないことが、わが国なら通用するのが不思議だ。



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矢崎滋編「課外授業ようこそ先輩」

2006/1/11放映の「課外授業ようこそ先輩」(NHK総合)は、矢崎滋氏(俳優)の「自分を見つめる自己紹介」だった。これまで多くの「課外授業」を観てきたなかで最も短く感じられたのは、平坦な内容だったからである。しかも「自己紹介」が苦手なわたしには抵抗感があった。そんなわけで今回はパスするつもりでいた。ところが数日後、にごり酒のようにじんわり利いてきたものがあったので、それを記しておこう。オルタスジャパン制作なのだから。

今回の先生である矢崎氏はじつに落ちつきがなく、緊張しながら世田谷区立祖師谷小学校、6年2組29名の子どもたちが待つ教室のドアを開く。カメラはそんな矢崎氏の視線とぴったり寄りそう。
前回の奥本氏が背広にネクタイという格好のわりにはラフな感じが立ちのぼっていたのに対し、矢崎氏はジーンズの上下というラフなスタイルとは裏腹に、どこまでも硬い。
岸田今日子のナレーションが矢崎氏の内面を代弁するのだが、わたしにはこれがうるさく感じられたし、矢崎氏の風体と岸田今日子の声に最後まで違和感があった。

矢崎氏は教壇に立ち、やおら黒いスポーツバッグを開け、中身について開陳する。メインは中1のときに買ったという国語辞典である。自分は「緊張しい」だといい、両手をまえにさしだす。アップになった両手が小刻みに震えている。子どもたちは驚く。

「自分をアピールすることが自分を救った」という体験をもつ矢崎氏は、子どもたちひとりひとりに黒板のまえで自己紹介をさせる。それを聴くためにすぐさま子どもたちのいる席に矢崎氏が場所移動すると、なぜか笑いが起こる。この仕草の滑稽さが矢崎氏のもち味なのだろう。

矢崎氏は子どものまえで自己を語る。
人見知りが激しくて幼稚園を退園させられた。その一方で目立ちたがりで、高校時代に演劇部へ。臆病で人前で負けてしまう。それをひっくり返さなきゃあと思い、20歳のとき劇団四季の試験を受ける。
(ここでわたしの好きなバレーダンサーの首藤康之を連想した。彼の内向的な性格が舞台ではじけたとき、うつくしく開花するのである)

フィルムを交えた矢崎氏のプロフィールが挿入される。
1868年、東大英文科を中退して、劇団四季に入団。
43歳のときに、仕事を整理してロンドンへ旅立つ。本場の演劇を観て、1年間考えつづける。
帰国後、納得できる芝居をする。

矢崎氏は子どもたちに、自分の長所・短所を画用紙に書かせる。
「観察と表現、自己紹介は役を演じるのと同じ」と矢崎氏はいい、
「考えて書いている作業が大事であり、1行も書けなくてもよい」と。
つぎに宿題を発表。
「自分を見つめる、前向きに苦しむ」
矢崎氏はバッグに入っていた古い辞書で〔苦しむ〕を引く。ここで授業のはじめにバッグからこの辞書をとりだしたことが、伏線だったことを匂わす。同時に、辞書を読むことが日常化していることもみせつける。
「心や気持ちを使う」とあり、立ち向かうことが大事だ、と矢崎氏は諭す。

2日目の授業。
矢崎氏は別室で子どもたちの作文を読みこむ。その部屋へ小玲(さり)さんというチャーミングな女の子が相談にくる。矢崎氏は軽い口調で、「好きなことをいえば?」とアドヴァイス。ここで観る側に、小玲さんの変化に対する期待感が発生する。

再度、黒板のまえで発表。
わたしはふたりの女の子の発言が印象に残った。
直美さんと小玲さんである。じつはわたしがこの感想を書こうと思った動機は、直美さんの存在が大きい。

◆直美さん
「田舎者であるということと、ヘンに訛って話すこと」
(実際におかしな日本語でしゃべったので、矢崎氏は笑いながら拍手)

◆小玲さん
「気が強くてうるさくて、ふざけていることが多いです。みんなの前ではけっこういろいろやれるんだけど、前にでると(いまの状況を指す)、なんかしらないけど涙がでます。悲しくないんだけど、涙がでて緊張します。意地っぱりだから、悲しいときでも楽しくやったりするんだけど、ほんとうは涙もろくて弱い面もあります」
(洋服の袖口で涙をぬぐいながら語る小玲さんの姿に矢崎氏も涙ぐむ)

わたしは意外と小玲さんには感情移入できなかったし、直美さんに対しても、ただ笑っただけだった。ところが、しばらくしてカメラが直美さんの生き生きした横顔を捉えたのに驚愕したのである。彼女の内部でどのような変化があったのだろうか。おそらく九州方面から都内に転居し、東京の文化になじんでいないのだろう。自己を喪失し、教室でも居場所がないのかもしれない。みんなの前で自分をさらけだしたことより、TVカメラの視線(厳密にはカメラマンの資質も関係する)を受けたことのほうが大きな意味をもつのではないか。それが今後の彼女にどのように作用するのか、そこにわたしは興味をもったのである。

■最後に先生からひとこと。
「長所とか短所とか、言葉で説明できることじゃないんでしょうけど、それについてみんながすごい考えてくれて、すばらしかったです。最後にもうひとことつけ加えると、そうそう簡単に答えはでないと、長生きしてきて思ってるんで。自分を見つめ、前向きに苦しむことと同時に、答えは急がない。そんなことでお開きにしたいと思います。どうもありがとうございました」
矢崎氏は頭をさげる。
子どもたちがトドメの唱和。
「ありがとうございました」

このクラスの子どもたちは声が揃うのが特徴だ。矢崎氏はそれを「気持ちがいいねえ」といったが、わたしは気持ちが悪かったのである。日常的に「唱和」の訓練をしている姿を想像してしまったのだが、考えすぎだろうか。

ちなみに自己紹介の嫌いなわたしは、名前だけですますか、正直な想いを述べるかのどちらかだ。後者が意外と受けたりする。スピーチも苦手なのだが、想定外に笑いをとり、「おもしろいことをいうなあ」という顔をされたケースも幾つかある。(物議をかもす発言をしてしまうことが多いのは、少数意見だからだろう)。相手が友人なら笑いを予測できるが、不特定多数の人間がおもしろいと感じるかどうかは予測できない。それを予測できるのが喜劇役者なのだろう。
そんなことを考えさせられたのが、矢崎氏の授業を観た効用といえるのだろう。

最後に苦言を呈すると、「課外授業」が「プロジェクトX」のようにパターン化してきたと感じるのは、わたしだけだろうか。
本番組は30分枠だが、45分は必要かもしれない。

余談だが、授業巡礼をした故林竹二(哲学者)の授業では、子どもたちの表情が生き生きしてくるのが感動的だ。しかしわたしが興味をもったのは、優等生とみなされている男の子が、林竹二の問いかけによって次第に破綻し、うなだれる姿だった。自分自身を疑う地点まで追いつめるのも、教育の力だろう。










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2006年01月21日

BS特集「"ツナミ"との戦い」〜インド洋大津波から1年〜

2005/12/26、BS1にて放映された番組で、3部構成。
午後7:10〜10:00(8:00〜8:10と9:00〜9:15でニュース中断)。
インド洋大津波発生時のニュースで、日本のように津波に対する知識があればこれほど多くの犠牲者がでなかった、と聴いたのが印象に残った。恥ずかしながら本番組のテーマについて知識がなかったので、教えられることが多かった。

〈NHKの番組案内より引用〉
23万人もの死者・行方不明者を出した昨年末のインド洋大津波から1年。今も各国で100万人以上の人々が避難生活を続けている。番組では、この1年間に被災したアジア各国の放送局が取材した復興への取り組み、防災システムの確立に向けた模索、対立する民族紛争の和解など津波が引き起こした多くの人々と国家への波紋を紹介。津波から1年を迎えるアジアの葛藤を多面的に追う。

第1部 被災国が記録した復興への模索

地元の放送局が現場を記録しつづけてきた番組が、ディレクターのコメントを交えて紹介されている。それぞれが、なまなましい内容である。

インドネシア
 制作 METRO TV  カマルーラ(ディレクター)
タイ
 「リゾート再建への挑戦」
 制作 MCOT    ノンラック(ディレクター)
スリランカ
 「マーダラ漁復活にかける」
 制作 SLRC    チャンダナ(ディレクター)
モルディブ
 「故郷の島を離れて」
 制作 TV M
 
第2部 災害に強いアジアを目指して

第3部 村に帰りたい〜インドネシア・アチェ

オルタスジャパン制作である。
自然なカメラワークのなかに人々の懸命さ、逞しさが描かれている点で、NHKよりBBCに近いという印象を受けた。テーマの性質からして感動したとはいえないが、ドキュメンタリー番組として高く評価されるにちがいない質のよさがある。それだけに、語りの男性の声が"他人事"という感じで、耳ざわりだったのが惜しい。なんとかならなかったのだろうか。
それにしても女たちの元気さには圧倒される。万国共通なのだろうか。
以下、順に追ってゆく。

GAM(自由独立運動)と国軍の間で30年つづいてきたインドネシア・アチェ州の独立紛争は終結した。巨大津波の被災、救援活動の迅速な展開などが大きな契機となった。
2005年8月15日、ヘルシンキでアチェ和平協定が調印された。
8月22日、国軍撤退。GAMは840丁の武器を放棄。
8月31日、GAM兵士1500人は釈放され、それぞれ故郷の家に帰る。GAMは政党をつくり、自治政府の選挙に備えることを表明。

2005年5月、死者・行方不明者16万5000人といわれるアチェに入る。

【クルンサベキャンプ】
ここでの生活は、NGOによる援助によってまかなわれている。月に1度の配給は、1人あたり、米12キロ・食用油・麺・豆の缶詰で、家族の人数に応じて配られる。出身の村ごとに住民が集まって生活している。108世帯、352人。
海岸から20キロ離れた山間部の村に暮らしていた、ツナミの被害が及ばない人々が、なぜこの難民キャンプにいるのか? ――この問いかけから番組はスタートする。まず、ふたりの男性を軸にして進んでゆく。

スナルディーさん(32歳)
親族を36人亡くした。30年つづく紛争で、山間部のパンゴン村からインドネシア国軍に強制移住させられ、海沿いのキャンプに移り住んでいて、ツナミに襲われた。与えられたテントを改造して、手づくりの小屋に住んでいる。
アブバカルさん(32歳)
パンゴン村では雑貨商を営む。豊かな山村から切りだす木材を収入に当てていたが、ツナミでほとんどの家財を失う。村に帰れる日に備え、仕事道具のチェーンソーは大事に保管している。ここでカメラは、テントのなかでなにげなく鎮座しているチェーンソーを映しだす。かぶせるような語り、「ここでは仕事がない」。

GAM(自由アチェ運動)において、アチェの一般の人々まで戦闘の犠牲になった。GAMの支配下「黒地域」では強制移住させられ、山から20キロ離れたクタパンキャンプへ。パンゴン村住民の半数350人が死亡・行方不明。
パンゴン村の村長・ハイルディーンさん(50歳)は語る。
「6年前、突然GAMの部隊があらわれ戦場となった。GAMと国軍の板挟みで苦しい立場に追いこまれた」

【バンタヤンキャンプ】
153世帯、699人。ツナミで破壊された海辺の村から避難してきた。120隻あった船は壊れ、20隻が残った。漁師をしているが、ガソリンのコストがかさみ、収入のない日もしばしば。
8月、クアラシンパンウリムへ帰る準備がはじまった。NGOから援助された資金で生活に欠かせない漁船50隻をつくる。漁師たちにとって燃料費は重い負担になっていた。村人たちはキャンプを出て、すこしでもクアラシンパンウリムに近い場所に移住することを望んでいる。

村長・バスリサレさんは、地方政府の有力者を招いた。警察署長、郡長、軍司令官である。故郷へ帰るための足がかりをつけたいと考えている。政府はツナミが再び起きることを警戒し、海岸から300メートル以内に新たに家をつくることを禁止している。元のクアラシンパンウリムへ帰ることは許されていない。
村長の考える再建予定地に住めば、GAMを支援するのではないかと地方政府は警戒している。村人が希望する土地はクアラシンパンウリムに近く、政府が決めた土地はバンタヤンに近い。
8月30日、村長は村民会議を開く。

郡長「政府が指定する場所に家を建てたほうがいい」
村民(男)「漁師の仕事をしているのだから、山奥には住めないよ。クアラに帰る許可だけ出してくれ」
郡長「帰ったとしても、勝手に家を建てられない。そうなると漁師の仕事もできないだろう」
村民(女)「船があるんだから、できるわよ。信じられない。村のことはわたしたちが知っている。ウソをついてもダメ」
郡長「政府の移住のための援助はあと2〜3年。1年という話もある。文句をいえば、なにももらえなくなるかもしれない」
村民(男)「政府が作ってくれないなら、自分たちで作る。許可だけ出してくれ」
村民(大勢)「そうだ、そうだ。今日でもすぐに帰りたい」
村の宗教指導者(男)「自分たちで村を再建しよう。先祖からのものを海の残骸にしてはいけない」
彼の発言に村民は活気づく。

村民会議の結果、郡長のみ承認を得たが、最終的に援助金をもらうためには、県の承認を得ないといけない。村長は、村へ帰るための嘆願書を作った。軍司令官と警察署長は、最後まで協力を拒んだ。サインしたのは郡長だけだが、村長はそのまま県知事に申請した。
村長「クアラの避難民は、他の移住地に移されたくない。元の村に帰りたいんだ。県知事はこういった。なんのために避難民を元の村に帰すのか。それはGAMを喜ばせ、支援することになるのにと」

GAMの村とみなされたクアラシンパンウリム。国軍と警察の疑惑は消えていない。

9月、クルンサベキャンプを再び訪ねる。

村長・ハイルディーンさんと村の有志が、パンゴン村の状況を確かめるために山にむかう。クルンサベキャンプからパンゴン村まで20キロ。パンゴン村の入口にある国軍詰所。和平後、国軍の兵士は、制服から私服に変わっていた。村長一行は、身分証明書なしで村に入ることができた。

【パンゴン村にて】
破壊された廃屋だけが残されていた。壁一面の落書き。いずれもアチェ人を侮辱するもの。
さらに奥へ、村の中心だった集落を目指す。
道は荒れはて、橋は落ちたまま。かつての村の面影はみあたらない。家々はことごとく焼かれていた。
村は完全に破壊されている。

スナルディーさんの家は残っていなかったが、両親のために建てた家は焼かれずに残っていた。2人とも、ツナミで亡くなった。
スナルディー「悲しい。両親ももういないのに、いったいなんのための家なんだ。この紛争で被害を受けたのは村民だ。国軍とGAMが戦争をし、村民が損害を背負わされた」

森と化した村をみて、村長・ハイルディーンさんは座りこみ、遠くをみる眼をしてタバコを喫っている。この徒労感の漂う姿が、わたしには本番組で最も印象に残った。
そして彼はつぶやく。
「みてのとおりだ。もうなにもない。どうすればいいのか……。以前は賑わっていたのに」

和平が実現し、紛争が終わっても、村民には村の復興という課題が残されたまま。

一方、バンタヤンキャンプでは、村民たちは再建の一歩を踏みだした。小舟に分乗して村へむかう。9ヵ月ぶりの一時帰郷。

【クアラシンパンウリムにて】
みな自宅へ帰り、片づけをはじめている。
村民の顔は一様に明るい。
「わたしの家よ」とカメラにむかって笑う女。
村民のなかには、地方政府の許可を得ず住みつく人もあらわれた。
村の漁師たちのために、コーヒーの店も開いた。
コーヒーを盆にのせ、笑顔で運ぶ女。

9月30日、何者かによる村民への発砲事件が起きた。停戦監視団が、その調査のためにやってきた。

事件を目撃した若者の証言。
「国軍のボートがあの島に上陸したんだ。村の男が漁に使う木をもってあそこにいた。こういうふうに(長い木の枝を肩にもって実演)。これを武器だと思った国軍が撃ってきたんだ。われわれがここに戻ると同時に、国軍はやってきた。われわれがいなければ彼らは来ない。彼らの目的はなんだ。彼らはわれわれを村から追いだしたいんだ」

村長・バスリサレさんは苦笑しながらいう。
「安全になったら人はここに戻るし、紛争があればまた逃げる。なにも起こらなければ、ここに小屋を造った者たちは、おそらくすぐ戻ってくる。難民キャンプで暮らすのは、もうたくさんだ」

  *
  
■2006年1月14日(BS1、21:40〜22:00)
地球街角「被災地は今・アチェ」

日本電波ニュース制作。
12万戸の住居が必要だが、村によって援助の格差が拡がっている。村長の存在が大きく、リコールされて新しい村長に変わった村もある。が、そこには不自然な動きがあった。
援助についてどう報道すべきか。
巨額の援助金をめぐっての新たな問題を、本番組は投げかけている。
家とは不釣り合いにしかみえない立派な家具を、手放しに喜んでいる女性をカメラは映しだしていたが、なんとも複雑な心境になった。

■2006年1月17日(NHK総合、午後7:30〜8:00)
クローズアップ現代
「津波1年 子供たちは今」
 〜大石芳野 被災地を撮る〜

 
インドネシア・アチェ州とインド東岸を訪ねて、被災地に暮らす子どもたちを撮影した写真家の大石芳野さんがスタジオで語る。

インドネシアだけで3万5000人の子どもたちが親を失ったという。
紹介される子どもたちはいずれもトラウマを抱え、小さな胸を痛めている。学校に行きたいと思いながら、働かざるをえない子どももいる。食料不足のため親戚の家を転々としている子ども。住む家さえない子どもたちもいる。
ここでも世界からの支援の配分が問題になっている。
復興を急ぐことで、子どもたちのこころのケアが忘れられているという。
「苦難を自分のものにして乗り超えてほしい」という大石さんの訴えに対し、それを子どもに求めるのは酷だと思ったのは、わたしの甘さだろうか。

子どもたちが写真を通して訴える瞳が胸に痛い。


〔参照〕
「スマトラ沖地震 被災地ルポ」(ビデオ・ジャーナリストMK)

「インドネシア民主化支援ネットワーク(ニンジャ)」














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