芝居

2008年09月25日

結 純子 ひとり芝居 「地面の底が抜けたんです」――あるハンセン病女性の不屈の生涯――

7月10日、わたしの友だちの職場がかかわっているということで誘われていた、結 純子のひとり芝居「地面の底が抜けたんです」を観た。
この芝居を観たあと、ハンセン病関連の本を読み考えさせられることが多い。
本blogにアップしようと思いつつ、テーマの重さに意気銷沈する日々がつづいた。

原作/藤本とし著『地面の底が抜けたんです』
脚本・出演/結 純子。

藤本としのプロフィールをチラシから引用する。

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藤本とし(原作者)は明治34年(1901年)に東京・芝琴平町で生まれた。子供の頃は芝居好きの母親に連れられ、よく歌舞伎を観にいった。縁談がととのった18歳の時、突然、自分がハンセン病であることを知り、はかり知れない衝撃を受けるとともに、絶望の淵に立たされる。
数年後には相次いで両親を亡くし、自殺を図ったが果たせなかった。
以後、療養所を転々とする間に全身が麻痺し、47歳のときに失明した。しかし身体の不自由にもかかわらず、唯一感覚の残った舌を使って点字を読み、過酷な人生にもかかわらずいつも笑みを忘れず、病友にも慕われた。
昭和62年(1987年)岡山県の国立療養所邑久光明園で死去、86歳だった。

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藤本としは、たまたま詩人・富永太郎と同年の1901年(明治34年)生まれである。

結 純子のひとり芝居の前半は、演じているという感が強く違和感があった。
わたしの記憶にまちがいがなければ、後半の導入部で座布団に座ってうつむいていた結 純子がゆっくり顔をあげる。と、サングラスをかけ、両手の指を内側に折り曲げ甲をみせている。
それは盲目になり十指を失っていることを意味し、まるで藤本としが憑依したかのように自然体で語りはじめる。
後半からは引きこまれたが、感動したというより、わたしにはとらえがたい世界だった。
結 純子は芝居の最後に、ぜひ藤本としさんの本を買ってくださいと訴えた。サインしますからと。

狭いロビーで本を買ったひとたちが並び、結 純子にサインをしてもらっている光景を眺めているうちに、わたしにしては珍しくその気になった。微笑を絶やさない結 純子がこころをこめてサインしている姿に、なにかを感じたのだろう。
サインを終えた本を返しながら、結 純子は相手の顔を5秒ほど凝視する。
「わたしのひとり芝居からなにを受けとりましたか」と、微笑した眼で鋭く問うているように。
わたしも同様にそんな眼で凝視されたのだが、一瞬火花が散ったような錯覚をおぼえた。

1919年(大正8年)、藤本としは縁談がととのった18歳のときに発病し、順天堂病院で診察を受け、紹介状をもらって本郷の木下病院に入院する。入院費は月50円。その建物は以前は遊郭だった。
1921年(大正10年)、父死亡。琴平町から北品川へ引っ越す。家計を考え、外来患者になる。
品川から本郷の病院には市電で通うのだが、ずいぶん遠く乗りかえも多い。近所のひとに顔をみられたくないから一番電車に乗り、開院まであっちこっちで時間をつぶし、診察を終えてからもひと目につかないところで時間をつぶし、暗くなってから裏口からこっそり帰る。
当時、藤本としの病気はさほど進んでいなかったので、眉があるかなしで、指がいくらか曲がっていた。右の頬に赤斑がでていて、白粉をつけてもそこだけ剥げてくる。気狂いかと思われるほど他人の目を避けて懐中鏡をみて、白粉の剥げたところをぬりなおす。

家の中では2階にこもりきりだったが、兄夫婦の子どもが3歳くらいのとき、はしご段をはいあがってくるのに困った。
1923年(大正12年)、関東大震災。
2階で隠れているわけにいかず家をでたが、翌日の真夜中にひとりで家に帰り、締め切った押入のなかに入ったきり、飲まず食わず。他人に顔をみられなかったら極楽だった。
1924年(大正13年)、母を亡くす。
当時は遺伝病といわれていたので、両親がうちの親族にはそんな病気はない、といいあっていた。それがつらくて、両親が亡くなったことで気持ちが軽くなった。

1925年(大正14年)、大磯の海岸で入水自殺を計るが、巡回中の刑事に補導される。翌日、小田原の海岸で入水を計るが、茶店のおばさんにとめられる。そのすすめで見延山の深恵園を訪ねる。
深恵園では、月に20円くらいの入院費が要るので、兄の了承を得、5年ほどお世話になる。51人ほどいた患者同士はなごやかだったという。
いつもは兄が手紙をくれ、送金もしてくれていたが、はじめて兄嫁から手紙がきた。
子どもをなんとかして中学に行かせたいという兄嫁の希望が書いてある手紙だったが、兄嫁の真意が伝わり、いっぺんに公立病院に行く決心がついた。入院費はいらないし、作業でお小遣いくらいはまかなえるから、送金なしですまされる。
※1941年(昭和16年)、公立療養所をすべて国立に移管。

その後の療養所でも過酷な生活の連続なのだが、ひとに顔をみられたくないという一念で家にこもっていた日々、兄からの送金打ち切りにより実質的には親族に棄てられたと実感したであろう藤本としの絶望のほうが、わたしには強く迫ってくる。
ハンセン病は顔を含めて肉体の変化を伴うので、むごい。
他者の視線を避けねばならないことによる重圧は、精神を蝕む。
差別され、排除されるこころの痛みは、ひとを殺す。

余談だが、先日、BS2で放映されたミュージカル映画「オペラ座の怪人」を観た。
音楽のすばらしさに圧倒される。
怪人の顔の右側に貼りついた白い仮面を剥がされ、その素顔が顕わになったとき、やはりぎょっとしてしまう。
生来の醜い顔のために母親から拒絶され、オペラ座の地下洞窟に身を潜めた怪人の孤独感が身に迫ってきてひりひりする。
ずっとハンセン病のことがあたまにあるので、映画を観ながら、隔離生活を強制された病者のことが浮かんだ。
怪人本人は、「冷たい仮面をつける」と語っていたが、仮面をつけることは、自己の存在を消すことと同義だ。
そのことによってのみ、他者と接することができる。

  *

結 純子のひとり芝居を観るまでわたしのなかでハンセン病は、長島愛生園に隔離されていた患者の診療にあたった精神科医・神谷美恵子と結びついていた。
神谷美恵子の青春は神谷美恵子を神格化せず、実像に迫ろうとしていて読みごたえがある。
とくに興味深いのは野村一彦との悲恋である。
ふたりの関係はきわめてプラトニックなまま深まり、一彦は1934年、腎臓結核のため21歳で夭折。

至近距離にいながら、ふたりは話したことさえなかった。
美恵子は、一彦が近くにいると心がかき乱されて平静でいられなくなるから避けたらしい。
存在の深いところでふたりの魂は感応していたのだろう。
そんなひとと遭遇できるのは、きわめて稀にちがいない。
野村一彦の日記『会うことは目で愛し合うこと、会わずにいることは魂で愛し合うこと。―神谷美恵子との日々 』は、2002年に刊行。

一彦の死後も一生彼を愛して生きてゆく、という想いを仲介役の兄の陽一が一彦に伝えたというが、美恵子は1946年、32歳のとき、神谷宣郎(当時東大理学部講師)と結婚する。
神谷美恵子の死後刊行された日記を読むと、学者の夫を支え(経済面を含む)、ふたりの息子を育てながら、ひとりの人間として苦悩する姿が伝わってくる。まさしく「良妻賢母」であるにもかかわらず、自己嫌悪に悩まされている。
聡明で突出した集中力があり、常に自己の体力を超える仕事にとりくんでいる。
日記を読む限り、自分の死を「解放」ととらえ、神に召される日を待っているように思える。
神谷宣郎は結婚相手として最良にみえるが、野村一彦とは次元がちがう。

神谷美恵子が長島愛生園で精神科医長として勤務していたときの園長は、光田健輔のあとを引き継いだ高島重孝である。
高島重孝については「愛生園の医療が拓けた」に描かれている。
上記によると神谷美恵子の葬儀は大阪の千里会館で行われ、葬儀委員長の高島重孝から、長島愛生園の自治会長を務めていた彼に弔辞の要請がきた。
遺族の意思により香典は長島愛生園に寄付され、神谷書庫が建てられた。

『こころの旅』(神谷美恵子著作集第3巻/みすず書房)の月報に、神谷美恵子の後任として長島愛生園の精神科医を務めた高橋幸彦が、「神谷美恵子先生と愛生園」という一文を寄せている。愛生園における精神科医・神谷美恵子の実践ぶりが伝わってくる、いい文章である。
本書の巻末に収められている推薦文、桜井方策『救癩の父 光田健輔の思い出』において、神谷美恵子は光田健輔を全面的に肯定している。

著作集第1巻『生きがいについて』〔おわりに〕で神谷美恵子は、
《らい園こそ人間の生きがいについて示唆するところが多い環境である。愛生園で働く機会をお与え下さった前園長故光田健輔先生と現園長高島重孝先生に深い感謝をささげる》
と記している。

  *

光田健輔は「救癩の父」といわれ、1951年に文化勲章を受章している。反面、世界に類のない強制隔離政策を維持・推進した人物として批判されている。
『ハンセン病問題は終わっていない』(岩波ブックレット567/南日本放送ハンセン病取材班編)は、薄い冊子だが、内容がととても充実している。
南日本放送の取材チームは1996年、鹿屋市にある国立療養所「星塚敬愛園」での取材を開始し、5年間の膨大なテープを1本のドキュメンタリーとして発表した。
この番組「人間として〜ハンセン病訴訟原告たちの闘い」は、2001年度のJCJ(日本ジャーナリスト会議)賞、民間放送連盟賞全国最優秀賞、芸術祭優秀賞を受賞した。残念ながら、わたしはこの番組を観ていない。

上記『ハンセン病問題は終わっていない』によると、ハンセン病療養所では患者に対して、偽名の強要、園内通貨券を発行、遺体解剖承諾書に署名捺印、監禁室もあり、強制的な人工妊娠中絶(胎児標本あり)、断種、強制労働などの人権侵害が、日本では1世紀近くつづいた。
明治時代においてもハンセン病の感染力は非常に弱く、終生隔離の必要はないということが医学的にはわかっていた。
国家強化のための隔離政策に疑義を唱え、開放治療をすべきであると主張した医者が少数ながら存在した。そのひとり、当時の京都帝国大学医学部皮膚科の小笠原登医師は、付属病院で通院治療を行っていた。が、小笠原医師の学説は、アジア太平洋戦争に突入する直前の学会で葬り去られた。
戦後、特効薬プロミンが登場し、厚生省が隔離緩和の方向でらい予防法を改正しようとした。
園の実態を暴露してゆく患者自治会運動に対抗するためにも、それを阻止したのが現場の各隔離施設の園長たちだった。それによって1953年に「らい予防法」(新法)が制定され、隔離の維持・強化につながった。
一方、「未収容らい患者」と呼ばれつづけたハンセン病患者は、入所者とはちがう意味で完全に社会的に隔離された。

1963年、第8回国際らい会議、強制隔離を時代錯誤とし、廃止の必要性を強調。
1996年(平成8年)、「らい予防法」廃止。

光田健輔は古い制度で医師になった。明治の初期、病院で何年間か経験を積んで国家試験を受けて医師になった。学歴のない光田が当時、だれも手をつけていなかったハンセン病にかかわってゆき、ハンセン病の権威になる。
ハンセン病に関しては光田健輔を頂点とした大きなヒエラルキーがができあがっていて、その弟子たちが1990年代に定年でハンセン病医療の現場を去った。それによりようやく「らい予防法」の廃止が実現できた。

住民一体となって患者やその家族を排除していった「無らい県運動」の存在は、わたしたちの差別意識に基づく。
社会復帰については、現在、全国13の療養所にいる4000人あまりの入所者のうち、わずか20人ほど。入所者の高齢化と、地域社会に存在する差別・偏見の問題がある。
わたしたち自身に大きな課題があるという意味が、「ハンセン病問題は終わっていない」というタイトルにこめられているのだろうか。


参照

ハンセン病・癩(専門家向け)

ハンセン病私的検証

第16回FNSドキュメンタリー大賞ノミネート作品
『ハンセン病、迷宮の百年〜医師たちの光と影〜』


ハンセン病 国立療養所長島愛生園









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2005年10月10日

ク・ナウカ演劇公演「王女メディア」

昨夜10/9、NHK教育TVの芸術劇場で「王女メディア」(原作・エウリピデス)を観た。
以下、NHKの番組案内から引用する。

○劇場中継 ク・ナウカ公演「王女メディア」
  後10・30〜深夜0・15
 「王女メディア」は1999年初演。海外8カ国15都市で上演されたク・ナウカの代表作。明治の日本、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として描かれる「メディア」ではセリフは宴席の男たちに限られ、仲居が演じる女たちはセリフに操られて動いてゆく。
 鮮やかな衣裳をまとい、打楽器の生演奏を用いながら、語りと動きを分ける独特の“二人一役”の手法で演じられるク・ナウカ版「王女メディア」を放送する。

≪内容≫
 時代は明治。日本橋あたりの料亭、裁判官らしき男たちの宴席で、仲居の女を巻き込み、座興のギリシャ劇「メディア」が演じられることになる。配役は男たちの互選で決められ、男が選んだ仲居に衣装が着せられる。
 劇中劇。ギリシャの王子イアソンとその妻メディア。苦難を経て異国の地で夫婦となり子供ももうけた二人だが、夫の心は妻メディアから離れ、コリントスの王女に傾いている。芝居は、メディアが夫に裏切られた場面から始まり、追放令で窮地に陥ったメディアの夫への復讐が始まる。やがて、芝居が子殺しの場面で終幕を迎え、宴席を囲む法律書の壁が崩壊。現れたメディア役の仲居たちは、男による言葉の支配に対して反撃を開始する。

[原作] エウリピデス
[演出] 宮城 聰
[出演] 美加理、阿部一徳、吉植荘一郎 ほか、シアター・カンパニー「ク・ナウカ」
(平成17年7月28日 東京国立博物館・本館内特設舞台にて収録)

  *

はじめはパソコンにむかいながら観ていたのだが、途中から集中して観てしまったほど舞台に惹きつけられた。
舞台の色彩が鮮やかで、レトロ感が漂う。メディア役の女性の能面のような顔が気に入った。どこかしら黄泉のような空間が構築されている。
演じるのは女たちで、セリフをいうのは男たちという「2人1役」のおもしろさがある。しかも男たちは憑かれたようにセリフをたたきつけるので、狂気じみてくる。
芝居のテンポが速く、飽きさせない。
演出の宮城聰氏は脚本も手がけているが、芝居がさほど好きではない若者をも視野に入れているのではないかと思う。

ラストシーンで、正体不明の褐色の壁にはさまれた法律書がなだれ落ちる。男たち(=裁判官)に抑圧されつづけていた女たち(=仲居)が反乱を起こし、男たち全員を殺すのが圧巻だった。
なにを意味するのだろうか。
いままで有用だった法律(=規範・価値観)は通用しなくなったという意味か。これからの女は男なしで生きてゆく、という宣言なのか。
宮城氏の演出したメディアは、男社会で抑圧されていても、こころは売り渡していないという秘められた意思を、能面のような動かぬ顔で表現しているようにみえた。

「王女メディア」は2005年5月に、(わたしの好きなホールである)シアターコクーンで、蜷川幸雄演出で上演されたらしい。メディア役は大竹しのぶ。
芝居好きでないわたしがいうのは僭越だが、蜷川幸雄がどうにも好きになれない。どこがいやかと訊かれたら、すべてが好きになれないのである。
「メディア」皆川知子によると、大竹の肉感がリアルだったらしい。そうだとしたら、わたしの苦手な世界だ。

そんなわけで、終演後の宮城聰氏のトークを愉しみにしていた。聞き手は内野儀氏。
宮城氏の姿が画面にあらわれたとき、華奢な肉体に驚いた。これで重労働らしい演出という作業によく堪えられるなあと、妙に感心する。理論的だが、それを超える感覚的センスがあり、気負いのないところがいい。芝居大好き人間というオーラが発散している。
宮城氏にわたしは好感をもち、同時になぜ蜷川氏が好きになれないかが、よくわかった。私見では、反対のタイプにみえる。
それにしても、「クマさん」みたいな宮城氏の口髭には笑える。

録画していたので、宮城氏のトークをつぎに要約する。
   
上演場所として東京国立博物館を選んだ理由

天井が高いので、ギリシャ悲劇のスケール感をだせるから。
明瞭な目的のためにつくられた空間と、自分たちの作品が真正面からぶつかりあうたたかいのなかで、最終的に空間を味方にするということをやっていくことが、俳優と脚本家の修業になる。自分たちを鍛えていくことになるのかなあと。

なぜ明治時代の日本に設定したのか
 
アジアを蔑視し、女性を蔑視したセリフの多さに、原作者の負い目を感じ、そういうメンタリティーについて考えた。2500年まえのギリシャ人が、明治時代の日本人のメンタリティーと似ているのではないかということに気づいた。
文明では周りの国から先んじ、国民皆兵というシステムによってアジアとの戦争に勝つ。法律によってものを裁いてゆく。でも、もともとの文化・芸術においては輸入国だったという古代ギリシャと明治の日本が似ている。

日本が朝鮮半島や中国大陸に対して抱いていた感情と、(原作者)エウリピデスの時代のギリシャ人が抱いていた感情が、とても似ていると思って読んでみると、メディアという女性はアジアの女性であり、呪術の使い手で非合理的な力をもっていることになっている。そうものを代表しているメディアは、当時のギリシャ人にとって刺激的なヒロインだった。アジア出身だから芸術の源からきた女。でも、いまは自分たちのほうが文明において勝(まさ)っている。野蛮な国からきた女だといいたくなるという関係。

法律とか契約とか、言葉にあらわせる普遍的なものをもちだしたギリシャ人にしてみれば、メディアのものさしは、自然の気まぐれをそのままひきうけているような、シャーマニズムというか、占いで政治を行っている非近代的な原理を体現している。

明治時代は、士(さむらい)の原理をあてはめたので、女性の地位が下になってしまったところが、古代ギリシャと似ている。

いまは自分たちはこっちに立っているけれども、危ういものかもしれないという感覚がギリシャ悲劇には残っているというよさがある。オルターナティブについて敏感だった時代が、明治の日本におきかえると表現できるんじゃないかと。

なぜ語り手と身振りをする人間を分けたのか

われわれの眼の高さでいくら考えても解決しないこと。人間はなぜ死ぬのかとか、なぜ人間は戦争をするのかとか。神とはなにかとか。
われわれの眼の高さじゃないところから世界をみようとする想像力のいとなみが、人間を救うもうひとつの重要な機能。悲劇をやるためには、なにかシカケがいるから、身体を抽象化するために、言葉だけ、動きだけということをやってみた。

ギリシャ悲劇をやる理由

結論がでているのなら、演劇というかたちでやる必要はないし、この世のなかはもっとよくなっているはずですからね(笑)。

男か女かわからない「ウバ」がずっとみている――2500年メディアが生きていたらどうなったかと考えた。

想像力を働かせてもらうこと、そこを耕してもらいたい。

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余談。
以前に、新宿御苑の近くにある小さな感じのよいホールで、演劇集団「円」の公演を観たことがある。仲間の身内がその芝居の演出をしているというので、全員を招待してくれたのだった。
NHKのカメラがセットされていたので、わたしはカメラマンの右横に2席空けた座席に(そう指示されたので)着席した。仲間はかたまって前方に着席していて、こっちにきなさいと執拗に手招きするのに抗したのは、カメラマンの仕事に興味をもったからだ。
台本をみながらカメラを動かしていたが、サッカーの試合を撮るのに較べると悠長だろう。サッカーに台本はないわけだし。

芝居が終わって、集団となってエスカレーターで1階に降りてきた途中、下方に吉行和子が岸田今日子と弾んだ感じで話しているのが眼に入った。岸田が出演していたので、親しい吉行が訪ねてきたのだ、ということはすぐにわかった。無意識のうちに「あ、吉行和子だ」とわたしはつぶやいた。それを聴いて、ひとびとの視線がいっせいに吉行に集中し、彼女は見事に黙殺した。TVでみるより美しく、女優とは思えぬふつうのワンピース姿だった。
ホールからでたところで、仲間のひとりが「吉行和子はきれいだったねえ!」と興奮した口調でいった。

しばらくしてNHK教育でその芝居は放映されたので、あのカメラマンの仕事ぶりを検証することができた。動きの少ない芝居だった。なにしろ作・太田省吾だから。



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