影絵
http://silhouette.livedoor.biz/
月光にうつしだされたシルエットのような折々のつぶやき。
ja
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村田沙耶香「コンビニ人間」
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52175068.html
村田沙耶香「コンビニ人間」をおもしろく読んだ。
芥川賞受賞にふさわしい作品だと思う。
読みおえて感じたのは、「コンビニ人間」というのは「コンビニ人間」というロボットなのだ、と。
コンビニという職場空間で有能なロボットが、主人公である古倉という36歳の独身女性...
miko3355
2016-09-14T16:19:18+09:00
文学
芥川賞受賞にふさわしい作品だと思う。
読みおえて感じたのは、「コンビニ人間」というのは「コンビニ人間」というロボットなのだ、と。
コンビニという職場空間で有能なロボットが、主人公である古倉という36歳の独身女性だ。
小説では「私」という一人称で語られているが、古倉には感情がなく、小説に登場する人間であるかのように自分自身をとらえている。
古倉の他者を観察する眼力は鋭いが、想いをぶつけることはない。
古倉は大学1年生のとき、1998年5月1日にオープンしたスマイルマート日色町駅前店にアルバイト店員として働きはじめる。
大学卒業後もそのままアルバイトをつづけ、勤続18年になる。
店長は交替して、いまは8人目だ。
古倉はコンビニの店員としてはマジメで有能だが、見下される職業として描かれている。
「針金のハンガーみたいな男性」と形容される白羽が、アルバイト店員として加わった時点で小説が加速しはじめる。
わたしが登場人物のなかで妙なリアルさを感じたのは、白羽という男だ。
婚活のためにコンビニを選んだという白羽は、コンビニ店員を差別しながら、本人は無能力である。
白羽は女性客にストーカーのような問題行動を起こすようになり、警察沙汰になるまえに店長の判断でクビになる。
履歴書によると白羽は、大学を中退して専門学校に行き、そこもすぐにやめている。
「使える道具として働いている」という自覚のある古倉は、白羽が異物として排除されたことを、他人事とは認識していない。
古倉は子どものころから、家族を含む他者から異物視されているという怯えをひきずっている。
ある日、店の外で女性客を待ち伏せしていた白羽をみつけた古倉は、近くのファミレスに誘う。
自分に対して差別発言を連発する白羽を冷静に観察する古倉は驚いたことに、白羽に自分と婚姻届を出さないかと提案する。
それがムラ社会に従うということになるなら、古倉にとっても好都合だという理屈である。
白羽は寄生虫として、古倉の古いアパートの浴室に引きこもる。
そしてエサを与えられながら、相変わらず空論を放ち、古倉を口撃する。
古倉は、家族や友人たちの安心のために、18年間勤務したコンビニ店員を辞めた。
店長を含む同僚たちは、白羽という無能力な男と同居している古倉を、なぜか祝福してくれた。
根拠のない安心感である。
指令のないロボットと化した古倉は、自堕落な生活を送るようになる。
自分を養うために古倉を定職に就かせようとして白羽がみつけた派遣社員の面接の日、古倉は暴走する。
トイレに行こうかと入ったコンビニで、「コンビニ人間」というロボットとしての古倉にスイッチが入り、雇われてもいない店で機敏に働きだす。
店員は怪訝な顔をしながらも、スーツ姿の古倉を本社の社員だと思ったらしく、古倉の有能さに驚嘆する。
「コンビニ店員という動物である私にとっては、あなたはまったく必要ないんです」と古倉は白羽に宣言する。
新しい店で、「コンビニ人間」として働く古倉というロボットが復活したのである。
いまや、大学を卒業しても非正規社員として働く若者は多い。
白羽の背後にいる、自己肯定感をもてない若者の現実が気になったのが最大の読後感である。
これは性別を問わない。
一方、いま落合陽一の『これからの世界をつくる仲間たちへ』を読んでいる途中なのだが、コンピューターに陶太される人間が想定されている。
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ニキ・ド・サンファル展
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52155323.html
昨年の9月にアップしたまま更新できずにいた。
気づくと、ことしも残り少ないのだ。
とにかく時間がないのだが、とり急ぎひとつだけアップすることにした。
ニキの生誕85年目に開催されたニキ・ド・サンファル展については、10月18日に放映されたEテレ「日曜美術館」を観た...
miko3355
2015-12-23T15:25:57+09:00
美術
気づくと、ことしも残り少ないのだ。
とにかく時間がないのだが、とり急ぎひとつだけアップすることにした。
ニキの生誕85年目に開催されたニキ・ド・サンファル展については、10月18日に放映されたEテレ「日曜美術館」を観た。
六本木にある国立新美術館まで足を運ぼうとは思わなかった。
ところが、縁あって招待券が2枚送られてきたので、友だちを誘って観にいったのが11月末だった。
美術展でわたしはいつも観る速度が速いので、友だちとは別に動いた。
出口に近づいたころ、突如、わたしの脳にマイナスのスイッチが入り、わたしのお腹が壊れたのを感じた。
脳と胃腸が深く結びついているとはいえ、からだは正直だった。
出口近くにショップがあったので、ポストカードを数枚急いで買い、ニキ展から脱出した。
出口の正面にあるイスに座っていると、友だちから携帯に電話があった。
ニキの絵を買いたいので、一緒にみてほしいと。
ショップに行くと、最近、家を建てかえた彼女は、玄関に飾る絵を探していたという。
カラフルな抽象画のなかから小さなサイズの絵を2点選んだものの、大きなサイズ1点にすべきか決めかねていた。
ショップの女性とわたしが大きなサイズを勧めたこともあり、かなり迷った末にそちらを選択した。
クリスマスまでには自宅に絵が届くらしい。
わたしはさらにポストカードを数枚と、のちにネットで注文しようと考えていた『ニキとヨーコ』(黒岩有希/NHK出版)を買い加えた。
美術展の図録は内容が充実しているので買うことにしているが、ニキについてはその必要性を感じなかった。
それにしても不思議だ。
ニキを知らなかった彼女が、ニキのカラフルな色彩に魅了されて買った絵を玄関に飾り、彼女の家を訪れたひとがそれを目にする……。
わたしにとってニキの作品はひとことでいうと「違和感」だ。
受け入れがたい要素がある。
《ナナ》にも親しみを感じられなかった。
最も印象が強かったのは、「日曜美術館」を観たときと同様、《赤い魔女》である。
正視できないインパクトがある。
京都を訪れたニキが日本文化から影響を受けた《ブッダ》は巨大な作品で、不思議なエネルギーに満ちている。
わたしが気に入った作品は小さいが、《黒は特別》。
会場でわたしが驚いたのは、ほとんどがYoko増田静江のコレクションだったこと。
本展では86%だという。
『ニキとヨーコ』という本を、とてもおもしろく読んだ。
ヨーコというのは増田静江の別名である。
絵を描き始めた増田静江が、雅号を「二樹洋子」YOKO NIKIとし、ふだんからヨーコと名乗のると宣言したのだ。
ニキが呼びやすい名前にしたい、との思いもあった。
ヨーコ増田静江の夫・通二はパルコの元会長で、父親は日本画家。
子どもたちが幼いころ通二に、「自分の給料は自分の好きに使いたい。自分の好きな絵を好きな時間に描くために、別のアパートにアトリエとして部屋を一室借りたい」といわれ、静江は受け入れた。
以後、同志としての関係はつづくが、通二が現役を引退するまで子どもの教育費を含めて、静江は経済的に自立している。
これだけでも偉業だが、静江はニキの世界最大のコレクターとして、那須に「ニキ美術館」を建てたのだ。
そして「ニキ美術館」建設には、通二の威力が発揮される。
「ニキ美術館」は1994年10月6日にオープンし、ヨーコの没後2年を経て、惜しまれながら閉館した。
2002年、ニキは71歳の生涯を閉じ、2007年には通二も亡くなった。
そしてニキの死から7年後の2009年、ヨーコは78歳で他界。
残されたのは、ヨーコが買い集めたたニキの膨大な作品と、ふたりが交わした500通の手紙である。
わたしが最も感銘を受けたのは、ニキとヨーコという女性同士の関係である。
ニキは自分が前世で魔女として火あぶりにされたと感じていて、ヨーコには自分がニキを火あぶりの刑に処した裁判官だったと思えた。
現世でどのように関係が修復されたかを知るために、『ニキとヨーコ』が多くのひとに読まれることをわたしは強く願う。
1998年、体調不良のなか来日したニキが、「ニキ美術館」を訪ねたときのニキとヨーコの場面は圧巻だ。
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NNNドキュメント「兄(おにい) 妹『筋ジスになって絶望はないの?』」
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52109084.html
9月15日(0:50~1:20)、日テレで放映された「兄~おにい~」を、なんの先入観もなく観た。
感動という言葉が薄っぺらく感じるほどのドキュメンタリー作品だった。
本作はNNNドキュメント44年の歴史上初の、監督が現役の学生だという。
大阪芸術大学映像学科の米田愛子さんが...
miko3355
2014-09-18T11:19:04+09:00
TV・ラジオ
感動という言葉が薄っぺらく感じるほどのドキュメンタリー作品だった。
本作はNNNドキュメント44年の歴史上初の、監督が現役の学生だという。
大阪芸術大学映像学科の米田愛子さんが兄を描いた本作は、「第18回 JPPA AWARDS 2014」でシルバー賞を受賞した。
以下、記憶にまかせて印象に残ったことを書く。
妹の鋭いインタビューに対し、兄(おにい)は終始、笑顔で受け答えしている。
彼の透明な表情をみていると、現実世界やTVで人相の悪い顔をみてうんざりしているわたしには、救われる想いだった。
あと、部屋が整然としているのも心地よい。
肩に負担がかからないように工夫して服を着る映像がある。
裸の上半身は筋肉が衰えていて、痛々しい。
体操部に入った高校生の兄(おにい)は、いくら練習しても上達しなくて、先生に「からだがおかしいから、病院へ行け」といわれる。
筋ジストロフィーだと診断した医師に、「小学校のときからですよ」といわれた。
そのときは、「ほっとした。これでもうゲロを吐かなくてすむ」。
筋力の衰えに抗して激しい練習をしたため、からだが悲鳴をあげていたと、観る側は容易に想像できる。
自殺も考えたが、やはり生きていたい。
兄(おにい)の哲学は「忘れること」。
いま、自分の周りにいる友だちも、いずれは家庭をもつ。
そのときには、自分のことを忘れてほしい。
わたしには「自分のことを忘れて幸せになってほしい」というふうにも聞こえる。
日々の筋力の衰えに対し、自分が過去にできたことさえ忘れることによって、病状とのバランスをとる精神力が不可欠だということだろう。
恋愛については、仕事をして家族を養うことはとても考えられない。
likeでいい、と。
家族旅行の映像が流れた。
自分は盛りたて役なので、あとでからだが痛くなることがわかっていても動いてしまう、と語る。
誰に対してもサービス精神旺盛な兄(おにい)だが、孤独感に裏打ちされた克己心が透けてみえる。
仕事については、現実はきびしい。
このくらいできるだろうと思われる仕事でも、あとでからだが痛くなる。
いまは友だちの紹介で仕事がみつかったらしいが、兄(おにい)はどこまでもポジティブシンキングなひとなのだ。
わたしには妹についても、そうみえる。
その根拠は、本作のラストだ。
兄(おにい)に対して語りかけた妹のナレーションに、ユーモアを感じたからだ。
それにしても、どうして兄(おにい)のような好青年が、過酷な病気になってしまったのか。
わたしは天を仰ぎ嘆息する。
諦めることではなく、忘れること。
わたしのなかで「忘れる」と語った兄(おにい)の笑顔が、残像として消えない。
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コメント欄を閉じました
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52105209.html
最近、迷惑コメントがたくさん書きこまれるようになりました。
勝手ながらコメント欄を閉じさせていただきます。
したがって、過去のコメントも閲覧できなくなりました。
コメントのあるかたは、メールフォームからお願いいたします。
miko3355
2014-08-08T12:46:14+09:00
コメントについて
勝手ながらコメント欄を閉じさせていただきます。
したがって、過去のコメントも閲覧できなくなりました。
コメントのあるかたは、メールフォームからお願いいたします。
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映画天国「あるスキャンダルの覚え書き」
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52100934.html
2014/06/16の深夜、日テレで放映された映画「あるスキャンダルの覚え書き」を観た。
わたしの好きな映画だ。
省略が効いていて、観る人間の想像力にゆだねる構成が心地よい。
以下のあらすじはわたしの記憶によるので、まちがっているかもしれないことをお断りしておく。
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miko3355
2014-06-22T23:22:49+09:00
TV・ラジオ
わたしの好きな映画だ。
省略が効いていて、観る人間の想像力にゆだねる構成が心地よい。
以下のあらすじはわたしの記憶によるので、まちがっているかもしれないことをお断りしておく。
定年間近な歴史教師・バーバラは、新任の美術教師・シーバ(ケイト・ブランシェット)に惹かれ注視するうち、シーバと15歳の教え子の少年との悦楽現場を目撃してしまう。
バーバラはシーバの秘密を守ることで共犯者となり、シーバを支配しようとする。
バーバラはシーバに関係を絶つようアドバイスするが、シーバは断行できない。
ある日、バーバラの飼い猫が死に、哀しみをシーバと共有したいと切望する。
が、シーバはダウン症の息子が学芸会で演じるのを家族と観るほうを優先させる。
その決断がバーバラの逆鱗に触れ、相談のため自宅を訪れた同僚男性にシーバの秘密を口にすることで、噂が校内に拡がることを画策する。
すべてを失ったシーバは、バーバラに助けを求める。
バーバラの家で自分のことを克明に綴った日記を発見したシーバは、バーバラの裏切りを知り、罵倒する。
シーバはやむなく夫のもとに帰り、夫は家のなかに迎え入れる。
夫はいつかこのようなことが起こると予想していた。
シーバは彼の教え子であり、年長だから。
15歳を相手にしたことが致命的だった、という考えらしい。
バーバラは平然と新しいノートを買い求める。
日記を綴ることが、バーバラが生きることを意味する。
そしてベンチに座る若い女性に声をかける。
つぎの獲物を密かに狙っているのが、見事なラストシーンだ。
バーバラは怖い人間だが、妙にリアルだ。
それはわたしの周囲やわたし自身の体験から、バーバラやそれ以上に怖い人間が多く存在するから。
しかもフツウの人間の顔をしているから厄介なのだ。
バーバラは同性愛者のようだが、行為に及んでいるとは想像しにくい。
バーバラの最大の親友は日記帳だったのではないのか。
バーバラの入浴シーンは唐突だが、わたしは好きだ。
自分の孤独感はシーバにはとうていわかりえない、という意味のことを呟くのだが、ジュディ・デンチの演技が淡々としていて、好感をもてる。
ストーカーの素質のあるバーバラを嫌みなくみせているのは、特異な演技力が観るものの共感を呼ぶからだと思う。
この映画のなかで最も怖かったのは、15歳の少年だ。
シーバに執拗に近づき、母親が病気で、父親に暴力を振るわれているというウソを平気でつき、シーバの同情を誘発する。
スキャンダルが発覚したあと、シーバに対しても冷酷だ。
どんなシーンでも眼に表情がない。
少年の内面は明らかに病んでいる。
わたしはジュディ・デンチの演技力に圧倒され、ケイト・ブランシェットにはあまり興味がなかった。
ただ彼女が演じたシーバが悦楽に耽溺するのは、単に肉体面だけではないこころの空洞があるように感じた。
ダウン症の息子の育児や家事に加え、美術教師としても懸命なシーバが、ふと羽を休められるのが少年だったのではないか、というのは邪推だろうか?
いずれにしても、観るがわの妄想をたくましくさせる映画である。
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佐村河内守騒動がもたらしたもの
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52087760.html
さきのエントリーをアップしたのは2013年10月20日で、わたしは佐村河内守作曲のピアノコンサートを聴いた感想として彼を讃えた。
先日、2014年2月6日、桐朋学園大非常勤講師・新垣隆氏の会見があった。
18年間佐村河内守氏のゴーストライターとして20曲以上の曲を書き、報酬...
miko3355
2014-02-10T00:44:38+09:00
音楽
先日、2014年2月6日、桐朋学園大非常勤講師・新垣隆氏の会見があった。
18年間佐村河内守氏のゴーストライターとして20曲以上の曲を書き、報酬は買いとりで合計約700万円、印税には無関係だった、と。
さらに衝撃的なのは、佐村河内守氏は耳が聴こえているという。
ショックを受けながらこの問題について考えてきたが、いまの自分の考えを記しておきたい。
2月6日付で、通りすがりさまから「こっちが読んでて恥ずかしくなってきちゃいました!!」というコメントがあった。
具体的になにを意味しているのかわからないが、わたしへの批判だろう。
自分を安全圏に置いてこういう短いコメントを残すというのは、悪質だとわたしは思う。
佐村河内守氏がブレイクしたのは、2013年に放映されたNHKスペシャルが起因している。
本番組の企画者はフリーディレクターらしいが、NHKは佐村河内守氏が全聾ではなかったことを知らなかったという。
しかしそれだけではすまされないだろう。
NHKは会見を開いて、説明してほしい。
佐村河内守氏が広島の被爆者や東北の被災者、そして彼がかかわった子どもたちを欺いたのはほんとうに悪質だ。
わたしはNHKスペシャルより、自叙伝『交響曲第一番』のほうに感銘を受けた。
これはほんとうなのだが、本書を読みはじめてすぐにゴーストライターの存在を疑った。文章が手慣れていたからだ。
あとがきに「本書は、発作の合間を縫ってこつこつと筆を進め、書きあげたものです」とあったので、佐村河内守氏に文才があり、優秀な編集者がかかわったのだろうと思ったのだ。
わたしが入手したのは幻冬舎文庫だが、単行本は講談社から刊行されている。
NHKスペシャル以上に、自叙伝はフィクションである。
講談社は絶版にするだけではなく、説明責任があると思う。
ゴーストライターが存在するのかも含めて。
あらゆる芸術作品についてどう受けとるかは自由で正解はない、というのがわたしの持論だ。
作品を純粋に鑑賞して、作者の属性から切り離すことはできない。
わたしは今回の問題を考えていて、カミーユ・クローデルを想起した。
カミーユは精神を病み、「ロダンに才能を盗まれた」と思いこんでいたが、それはまったくの妄想ではなかったのだから。
師匠のロダンより弟子のカミーユのほうが優れた彫刻家だった、と評価する専門家がいるというのを、以前に新聞記事で読んだことがある。
わたしはカミーユという女性が好きだし、「分別盛り」という作品は好きだ。
芸術家が自身のマイナス体験をプラスへと転化させ、それが作品として結実したとき、ひとの魂に訴える大きな力となる。
佐村河内守氏が新垣隆氏に渡した図表には、交響曲第一番『現代典礼』とあり、1年間で作ってくれ」といわれ、完成してから数年後に「HIROSHIMA」というテーマで発表されたのには新垣隆氏が驚愕したという……。
佐村河内守氏の戦略は当たり、交響曲第一番《HIROSHIMA》のCDはヒットする。
広島市は2008年に佐村河内守氏が受賞した「広島市民賞」の取り消しを決定した。
福島県本宮市は佐村河内守氏に「市民の歌」の作曲を依頼し、先日届いたばかりの曲を3月11日の追悼式典で初披露する予定だったが、使わないことを決定した。
会見でこれについて質問された新垣隆氏は、初耳でそれには関わっていない、と発言した。
最近、ゴーストライターを辞めたいという意志を新垣隆氏が伝えたとき、それなら自殺すると脅していた佐村河内守氏は、つぎのゴーストライターをみつけていたということになるのだろうか。
新垣隆氏の会見だけでは全貌は明らかになっていない。
今後の損害賠償額は佐村河内守氏が詐称によって得た額を超えるという。
新垣隆氏が買いとりではなく、印税を受けとっていたら、損害賠償する羽目になったのだろうか。
悪事をはたらいた人間が罰を受けるとは限らない。
その意味では、佐村河内守氏のケースは悪質度が低いともいえる。
わたしがコンサートで聴いたとき、ピアニストのソン・ヨルムは魂をこめて《ピアノ・ソナタ》を演奏していた。
希望のシンフォニーといわれた《HIROSHIMA》についても、演奏したオーケストラは魂をこめたと思う。
その祈りが聴衆に伝わったのだろう。
新垣隆氏の会見のなかで最も印象的だったのは、佐村河内守氏のことを「プロデューサーだった」ときっぱりいったことだ。
ふたりのやりとりのなかで作品ができあがっていったという一面があったのだろう。
新垣隆氏は桐朋学園大非常勤講師を引責辞任するらしい。
わたしは新垣隆氏がこれを機に、チャンスに恵まれることを祈る。
話は変わるが、昨年、新宿でバンダジェフスキー博士の講演を聴いた。
「チェルノブイリよりフクシマのほうが深刻」だというのが博士の見解だ。
ほんとうは避難すべき首都圏に住むわたしは、日々の食材を買い求めるのも大きなストレスだ。
フクシマの危機は現在進行形だし、底なしの不安がある。
日本の子どもたちは、これからどうなってゆくのだろうか?
3.11以後、いつもどんよりした心境にいるわたしにとり、佐村河内守氏の存在は大きかったのだ。
彼が被爆二世だというのはウソではないらしいが……。
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佐村河内 守
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52072644.html
2013年10月13日、東京オペラシティ コンサートホールで、《佐村河内 守作曲 ピアノ・ソナタ第1番&第2番 世界初全国ツアー》を聴いた。
ピアニストは第2番を献呈されたソン・ヨルム。
ピアノ・ソナタ第1番(36分)で黒いロングドレスであらわれたソン・ヨルムは、精神統一...
miko3355
2013-10-20T16:50:07+09:00
音楽
ピアニストは第2番を献呈されたソン・ヨルム。
ピアノ・ソナタ第1番(36分)で黒いロングドレスであらわれたソン・ヨルムは、精神統一をはかるようにからだをぎこちなく動かし、ひどく緊張しているようにみえた。
ようやくという感じで最初の一音を弾いたとき、なぜかわたしの両眼にじわーっと涙が浮かんだ。
自分でも理解できない反応だった。
ソン・ヨルムは最初の一音をしくじればすべてがオジャンになるかのように、慎重に魂をこめたようにみえた。
ソン・ヨルムの緊張感は、最後まで持続していた。
わたしがピアノ・ソナタ第1番から受けとったのは、凶暴な怒りである。
20分の休憩があった。
『交響曲第一番』(幻冬舎文庫)という佐村河内 守の自叙伝が販売されていた。
だれも手にとっていなかったが、本書の存在を知らなかったわたしは、即座に買い求めた。
ピアノ・ソナタ第2番(36分)で白いロングドレスであらわれたソン・ヨルムは、はじめから緊張感がなく、愉しんで弾いているようにみえた。
第1番との落差が大きかったので、わたしはとても眠くなり、ぼーっとして聴いていた。
演奏後、佐村河内 守が登壇した。
サングラスをかけ、左手に包帯を巻き、杖をついている。
まさに満身創痍という感があるのは、NHKスペシャル「魂の旋律~音を失った作曲家~」(2013年3月31日)で放映された佐村河内 守を知っているからだ。
佐村河内 守が舞台でソン・ヨルムと抱擁し、腕を組んで歩くと、笑いが起こった。
おそらくほほえましいものを感じたからだろう。
ピアノ・ソナタがあまりにも激烈だったので。
35歳で両耳の聴力を失った佐村河内 守にこの笑いは聴こえない。
もちろん拍手の音も、ソン・ヨルムが紡ぎだすピアノの音も。
演奏後のソン・ヨルムの顔が柔らかく、満足げにほほえんでいたのが印象に残った。
帰宅して、自分がひどく疲れていることに気づいた。
あたりまえだが、佐村河内 守の抱える怒りが自分のそれをはるかに超えているからだ。
疲れたからだで、会場で買い求めた『交響曲第一番』を一気に読んだ。
本書は2007年10月に講談社から刊行され、2013年6月に幻冬舎から文庫として刊行。
本書からはNHKスペシャルには表現されていなかった佐村河内 守の抱える怒りが、息苦しいほど伝わってくる。
本書の刊行により2008年9月、秋葉忠利広島市長の尽力もあり、《交響曲第一番″HIROSHIMA″》が爆心地の近くにある広島市厚生年金会館で演奏され、CD化された。
多くのひとが佐村河内 守の存在を知ったという意味で本書より影響の大きかったのは、NHKスペシャルに登場したことだろう。
しかしわたしは、本書のほうがNHKスペシャルより衝撃を受けた。
230ページ記されているが、佐村河内 守は妻にこう伝えた。
「《ピアノ・ソナタ第一番》は最も私の姿をしている。もし、棺に一冊しか譜面がはいらないならこれを入れてくれ」
1999年に放映されたETV特集「フジコ~あるピアニストの奇蹟~」によりブレイクしたフジコ・ヘミングのコンサートを聴き、わたしはひどく失望した。
佐村河内 守にその心配はなさそうだ。
1993年、貴重なエヴァ・デマルチクの公演にゆき、舞台で歌うエヴァをみながら「求道者だ」と感じた。
佐村河内 守も「求道者」だ。
3.11以後、世界は変わった。
福島原発の爆発により、日本は底なしの恐怖にさらされている。
被爆二世の佐村河内 守の存在は限りなく重い。
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水谷修に逢いにゆく
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52025766.html
2013年3月18日、夜回り先生こと水谷修の講演を拝聴した。
たまたまバナー広告で講演を知り、聴講券を2枚入手できたので、友だちを誘った。
社団法人全日本不動産協会の一般消費者むけの無料講演会だった。
水谷修の講演会は公表していないらしいが、もしかしたら無料講演会を...
miko3355
2013-03-20T16:52:07+09:00
講演
たまたまバナー広告で講演を知り、聴講券を2枚入手できたので、友だちを誘った。
社団法人全日本不動産協会の一般消費者むけの無料講演会だった。
水谷修の講演会は公表していないらしいが、もしかしたら無料講演会を水谷修は選んでいるのかもしれない。
会場は千駄ヶ谷駅の至近距離にある津田ホールで、18時00分~19時40分。
津田ホールは小さくてわたしの好きなホールだ。
水谷先生の講演らしく時間厳守で、講演時間は18時10分から90分間。
開演よりかなり早く着き、3階まで階段をあがると、驚いたことに水谷先生が数人の男性とともに著書を並べていた。
わたしの立つ地点から3メートルくらい離れていたのにすぐにわかったのは、なにかフツウとはちがうオーラを放っていたのに加え、いきいきとした表情ですばやく手を動かしていたからだ。
友だちとトイレに行ったあと、著書を買うために近づこうとしたら、水谷先生は売り場からすこし離れたところに座り、少女の話を聴いていた。
寄り添うように黙って話を聴いている姿が印象的だった。
話を終えた水谷先生がわたしの横を通りすぎる瞬間、「どうも」と声をかけられた。
高文研という出版社が運営する水谷修の掲示板「春不遠」(はるとおからじ)を閲覧していた時期があった。
自分の苦しみをひたすら訴える多くの若者に真摯に対応する水谷先生に痛ましさを感じるようになり、耐えられなくなったので遠ざかっていた。
同時に、水谷先生は彼らとは較べようもなく重いものを抱えているのではないか、と思えてならなかった。
そうでなければとても対応できないからだ。
しばらくして閲覧してみると、2002年6月にはじまった「春不遠」はさまざまな理由から閉じられていた。
2005年11月10日が、水谷先生からの最後の書き込みだった。
2012年、水谷先生はホームページを開設した。
9月17日、水谷修オフィシャルブログ「夜回り先生は、今!」を開始している。
いままで水谷修の著書を数冊入手し、いくつかのドキュメンタリー番組に出演した水谷修を観た。
けれども「なま水谷修」は、まったくちがってみえた。
胸腺リンパ腫を患ってからの映像や写真はやつれてみえていたが、実像は神がかっているとしか思えぬほど生命力にあふれていた。
こんなにカッコよく、背広の似合う男性は稀だ。
*
講演の冒頭で、水谷先生はいった。
胸腺リンパ腫が安定したかと思った矢先、転移がわかった。
昨年の12月に腸を切り、さらに胃を切ったばかりなので、いまも出血がつづいている。
授業や講演のときには立ってするのだが、血圧が低くなっているので、苦しくなったらイスに座らせてほしい。
悲愴感漂う感じではなく、苦笑いしながら。
わたしはブログを閲覧していたので知っていたが、14日に入院し、胃の悪性腫瘍を内視鏡手術していた。
退院は19日である。
そんな体調にもかかわらず、迫力に満ちた講演だった。
結局、イスに座ることはなかった。
水谷先生は実践派だが、ほんとうは論客なのだと確信するほど頭脳明晰だ。
講演の内容は著書を読めばすむわけだが、とくに記憶に残ったことを記してみよう。
聴衆は若者が多く、春休みに入ったためか小学生もいた。
夜回りをひとりではじめた時代の「元気な若者」の非行とはちがう、リストカットやいじめによる引きこもり・自殺といった、生命力の希薄な若者が増加している。
日本の行く末が憂慮される。
3.11は水谷先生にとっても衝撃的で、それまでに築いたネットワークを駆使して東日本大震災復興支援にとりくんでいる。
さだまさし、鎌田實、坂東玉三郎、菅原文太なども水谷先生の仲間だという。
水谷先生はカトリックのクリスチャンらしいが、さまざまなの宗教の支援によって建物を開放してもらい、若者の心身の復活につなげようとしている。
お寺のような神聖な場所では、リストカットはできない。
わたしが感心したのは、水谷先生がかかわった若者たち(暴走族の総長を含む)が、社会的ネットワークを形成していることだ。
水谷先生は着実に荒れ地を耕し、種をまいている。
*
講演が終わり、わたしには珍しく水谷先生にサインを求める長蛇の列に加わった。
いままでサインがほしいと思ったのは、坂田明のみだったから。
わたしは水谷先生との縁をなにかに刻んでおきたかった。
声をかけるひとに対して、水谷先生は笑顔でスマートに応対していた。
「上智大の学生です」と声をかけた男性もいた。
サインが終わると、水谷先生はひとりひとりに「ありがとうございました」といいながら深く一礼した。
とにかく所作が美しいのだ。
わたしは買い求めた2冊にサインしてもらうページを広げていた。
1冊目にサインしながら、水谷先生は「そちらにもしますからね」と声をかけてくれた。
水谷先生が「ありがとうございました」といって一礼した後頭部を目にしながら、わたしは「ありがとうございました」といった。
水谷先生は座っていて、こちらは立っているので、そういう位置関係になる。
サインしている水谷先生の手はとてもきれいだった。
国分拓との共通項は、手がきれいなことと、一見草食系だということ。
きっちりていねいに仕事をしている人間のすがすがしさを、水谷先生が身をもって教示してくれたような気がする。
それはとても稀有な体験だった。
水谷先生はいまも全国で夜回りをつづけていて、そのことでエネルギーをもらっているという。
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わたしがみた「国分拓」(後篇)
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52003033.html
1時間の休憩ののち、石川文洋のコーナーに入った。
わたしが会場の出入り口付近に座っていたのでわかったのだが、石川文洋は「いやあ、多いですね。20人くらいかと思った」といいながら、リラックスした感じであらわれた。
(ちなみに国分拓は会場のまん中から登壇しようとし...
miko3355
2012-10-24T16:08:01+09:00
講演
わたしが会場の出入り口付近に座っていたのでわかったのだが、石川文洋は「いやあ、多いですね。20人くらいかと思った」といいながら、リラックスした感じであらわれた。
(ちなみに国分拓は会場のまん中から登壇しようとしてわたしの左横に立ったのだが、ひどく緊張しているのがわかった。スタッフに右側からと促され、そちらに移動してから登壇した)
石川文洋は穏やかで長老の風格がある。
口調は著書『戦場カメラマン』の文体と同じだ。
TVでみるより実物のほうが魅力的だ。
10分ほど話した時点で、自分の鞄をもってきてくれと、会場のうしろにいるスタッフに声をかけた。
鞄のなかからとりだしたのは降圧薬。毎日、3回降圧薬をのんでいるが、急に高くなったときにのむ薬だという。
話しはじめるとつい力が入り、血圧が上がるのだという。
みんなが心配そうにみつめるのに対し、笑顔で「だいじょうぶです」という姿にユーモアが漂う。
「心臓が止まりました」という医者の声が聞こえて、5回の電気ショックで生還したと、こともなげに付け加えた。
が、石川文洋はいたって健康そうにみえた。
石川文洋が撮った写真を映しながら、立って説明。
それにしても石川文洋の記憶力には驚愕した。
作家には記憶力が必要らしいが、写真家にもそれはいえるのかもしれない。
石川文洋が従軍カメラマンだったときにうなされ、兵士たちが敵の襲撃かと銃をかまえたので、「恥ずかしかった」。
いまでも、うなされるという。
臆病で、いまでも血をみたり交通事故の現場をみるのは怖いが、戦場で死体をみるうちに慣れてくる。
「わたしも兵士だったらひとを殺します。戦争とはそういうものです」とクールな口調で断言。
(自分の年金額を名言したのには驚いたが)、宝くじが当たったら、かつて写真を撮った場所を再訪してみたい。
機械に弱く、パソコンもできないので、よくそれで写真を撮るなあといわれる。
いまはフォトジャーナリストが発表できる場がない、と訴えていた。
80歳までは撮りたい。
校長に頼まれて、学校で講演しているという。
すべては平和な世界を築くために。
わたしはこちらで石川文洋著『戦場カメラマン』から引用しているが、カンボジアでの大虐殺について訊いてみたかったと、帰宅してから思った。
石川文洋は、「もし、大虐殺がなかったことが明らかにされた場合、私は現場へ行きながら、事実を見誤った責任をとって今後、報道にたずさわる仕事をやめる覚悟でいます」と同書に記している。
2011年10月、千葉のホテルで入浴中に倒れて死亡した馬渕直城が、ポル・ポト派の虐殺を否定していたことについて、訊いてみたかった。
病死した共同通信プノンペン支局長・石山幸基こちらについても訊いてみたかった。
講座終了後の石川文洋は、語り足りないような顔をしていた。
写真にまつわる話になると自然と熱が入り、キリがないようにみえた。
*
石井光太が「石川さんも国分さんも、まだいらっしゃいますので、お話ししたいかたはどうぞ」と発言したので、質問できなかったわたしにもチャンスがあるかもしれないと思った。
国分拓を探すが、姿がない。
イスに座ったままの石川文洋を、数人の若い男女がとり囲んでいた。
女性が石川文洋とのツーショットを携帯に撮るのを、石井光太に頼んでいた。
ほほえましい光景だなあと思い、さきほど「兵士たちと仲よくなった」といった石川文洋の戦場での光景と重なり、人徳じゃないのかと思った。
帰ろうとして部屋をでたら、スタッフらしき若い女性が立っていた。
「国分拓さんはもう帰られましたか?」と訊くと、「さきほどタバコを吸っておられたので、探してきます」。
いまにも走りだしそうだったので、「もういいです、帰りますから」。
ここにいないということは、なにか用事があるのだろう。
そんな国分拓を呼びだすのは醜悪だ、とわたしは思った。
彼女は同情的な顔で「ほんとうにいいんですか」と無言で訴えたので、誠意を感じた。
ああ、国分拓とは縁がなかったなあ……と感じながら狭い外階段を降りると、狭い踊り場に国分拓の背中がみえた。
踊り場に灰皿があったので、そこでタバコを吸っていたのだろう。もう吸いおえていた。
国分拓の左側に若い男性が立っていたが、講座に参加したかたのようにみえた。
驚くと同時に、ごく自然に話しかけていた。
「さきほど質問者が多かったので……」
まず「カメラワークがいいですね」というと、国分拓は完璧なポーカーフェイスで無言。
「NHKもそうですが、ステレオタイプの出産シーンにうんざりしているので、ヤノマミはよかったです。いのちを生みだす側は、いのちに対する畏れが必要じゃないでしょうか?」
わたしがそう問いかけると、またもやポーカーフェイスで無言。
「ナレーションで、少女は……、少女は……とありますが、もう少女ではありませんね」
「それは妊娠してからですか?」と迫ってきた。
「子どもを精霊のまま天に返してからです。天に返すかどうか、その葛藤を経て成長したのではないか」
わたしが発した「成長」という単語に反応して、国分拓の頬の筋肉がかすかに動いた。
国分拓は急に真顔になり、
「そういってくださると、うれしいです」
うれしそうではない顔と口調でそういうところが、国分流なのだろうか。
「わからないから撮れたんです」と国分拓が付け加えたのに対し、
「それはちがうと思います」
と断言してしまった。
しかしそれが国分拓の言を否定したのではないことは、伝わったようだ。
最もいいたいことをいったあと、わたしはつづけた。
国分拓の全身を上から下へさし示しながら、
「一見、草食系なのに……」というと、
不意を衝かれたような驚きを全身であらわした。
不躾なことをいってしまったような気がして、言葉を繋ぐことができなかった。
わたしは国分拓が若松監督のような風貌だったら、ここまで惹かれないのだ。
「NHKの番組の質が落ちつづけています。ちょっとくらい受信料を下げるのではなく、いい番組をつくってください」
それに対しては無反応。
「サッカー少年の番組もよかったです」というと、国分拓はポーカーフェイス。
(その番組はBS世界のドキュメンタリー「ファベーラの十字架 2010夏」)
「最近、NHKは再放送が多いですが、そう明記してください」
「どういう感じですか?」と怪訝そうに訊かれたので、
「騙されたという気がします」と答えると、無言でいたずらっぽく笑った。
5分間ほどのやりとりだったが、自然と「ありがとうございました」と深く一礼した自分に驚いた。
少女(ローリ)をめぐって、一瞬でも国分拓となにかを共有できたことがうれしかったし、「ヤノマミ」という映像作品と、著書を発表してくれたことに対する感謝の念なのだろうと、いまは思う。
階段を降りようとしたら、意外にも背後から友人の声が聞こえた。
「カラダがきれい!」
「きれいでしょう!」と語尾を上げ、国分拓は大きくからだを揺らしながら同意した。
「獲物は平等に分けるといいますが、サルの頭はどういうふうに分けるのですか?」
このときの国分拓の答えを失念したので、あとで彼女に訊くと、「サルの頭は食べられる部分が少ないので、装飾品」とのこと。
彼女がいうには、サルの頭に特別な意味があるのかと思ったとのこと。
わたしにとって最も印象に残ったのは、少女(ローリ)だ。
ローリは子どもを天に返したことで、より豊かな母性を獲得したと、わたしは解釈している。
わたしは巷にあふれている母性を信用していない。
エゴイズムの要素が強すぎるから。
親というのは子どもの成長とともにやせ衰えてゆくものだ、と考えている。
しかし子どもを食って親が肥え太り、子どもが死に体というケースが多いのではないのか。
わたしはふたりの子どもを生んだが、初産のとき「母体にとって胎児は異物であり、その闘いが悪阻だ」ということを知り、感動したのを憶えている。
*
国分拓の作品には、なにか哀しみの塊が胸底に残る。
とくに「ファベーラの十字架 2010夏」はそうだ。
わたしが好きな作品は2007年にアップしたBS世界のドキュメンタリー「ヘルクレス 初めての休日」こちらだ。
骨太なテーマがありながら芸術性の高いドキュメンタリーになっている。
NHKにそんな番組を制作してほしいと思っていた。
なぜNHKかというと、視聴率を問わない番組を制作できるからだ。
最近のNHKは視聴率を重視するあまり、本来の存在意義を忘れている感じがして残念だ。
国分拓には「ヘルクレス 初めての休日」に通じる資質がある。
ぜひそんな番組を制作してほしい。
ちなみにフクシマ関連の番組で最も感心したのは、ETV特集「ネットワークでつくる放射能汚染地図」だ。
その番組の取材班が記した『ホットスポット ネットワークでつくる放射能汚染地図』(2012/02/13・講談社)も、とても興味深く読んだ。
*
なま「国分拓」をみてから数日後、信じられないことがわたしの身に起こった。
わたしは感覚人間なのだが、国分拓もそうらしい。
わずか5分間なのに、一対一で国分拓と対峙したせいで、「ヤノマミウイルス」といかいいようのないものに感染したらしい。
こんなふうな生きがたい感覚は、はじめての体験だ。
インフルエンザウイルスに感染したときと、似ている。
なにか自分で制御できない力が作用しているという感じだ。
わたしの内部で大きな問い直しが必要らしい。
仕事にも生活するにも不都合な状態がつづいていて、困惑している。
このエントリーをアップするのも、いままでで最も時間がかかり、なかなか進まなかった。
齢を重ねるごとにわからないことがふえていく、という認識は以前からあったのだが、大きなところでわからなくなってしまった。
これをアップすることで、つぎの段階に進みたいと願っている。
ちょうど転機となる年齢でもあるので。
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わたしがみた「国分拓」 (前篇)
http://silhouette.livedoor.biz/archives/52003016.html
書きたいことはあるのだが、その時間も元気もなく、1年以上更新できなかった。
かなり無理をして本エントリーをアップしたのは、国分拓や「ヤノマミ」に興味をもつかたにすこしでも参考になれば、という想いからだ。
わたしが記憶したままを記しておこう。
メモをとっていな...
miko3355
2012-10-24T13:24:48+09:00
講演
かなり無理をして本エントリーをアップしたのは、国分拓や「ヤノマミ」に興味をもつかたにすこしでも参考になれば、という想いからだ。
わたしが記憶したままを記しておこう。
メモをとっていないので、記憶ちがいがあるかもしれない。
10月7日の日曜日、ノンフィクション連続講座「ノンフィクションとこの世界」こちらに友人を誘って、女性ふたりで参加した。
場所は表参道にあるシナリオセンター。すぐ近くにクレヨンハウスがある。
プログラムをみて、贅沢な内容に驚くと同時に、ヘビーな一日になるなあと思った。
時間は11:00~17:30で、13:00~14:00は休憩。
国分拓について「出演できない場合は、関係者を代理としてお招きする」という一文があり、いかにも現役のディレクターという感じだった。
総合ナビゲーターは石井光太(ノンフィクション作家)。
●第1部
国分拓監督「ヤノマミ~奥アマゾン・原始の森に生きる~」〔劇場版〕上映――(2時間)
国分拓(TVディレクター)×石井光太――(1時間)
●第2部
石川文洋(報道カメラマン)×石井光太――(1時間30分)
*
石井光太は、ナビゲーターとして完璧だった。
絶対貧困をテーマに執筆しているのに注目していたが、まだ著書を読んだことはなかった。
8月に放映されたTBS「情熱大陸」に登場した石井光太をみて、釜石の遺体安置所で活動する姿に感銘を受けた。で、『遺体』(新潮社)を会場で買い求めた。
NHKスペシャル「ヤノマミ」と国分拓著『ヤノマミ』については、かつて本blogにアップした。
自分が感銘を受けた作品がのちに受賞したのは、うれしかった。
(ハイビジョン特集「ヤノマミ」が2009年、第35回放送文化基金賞においてテレビドキュメンタリー番組で優秀賞を、菅井禎亮・カメラマンが個別分野で映像賞。『ヤノマミ』がで2010年、第10回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を、2011年、第42回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞)
わたしが本講座に参加した目的は、〈なま国分拓〉を自分の眼でみておきたい、ということに尽きる。
わたしには活字人間だが、本から得られる以上の情報を生身の人間は発している、という持論がある。
それは一対一で相手と対峙するほうが効果があり、かつてごく少数の人間から教えられたことは、いまでもわたしには宝物だ。
なぜかわたしは国分拓というディレクターに強い興味がある。
優れたTV番組制作者は多い。が、わたしが本人をみたいという願望をもつのはすくない。
理由を考えてみると、国分拓の感性が好きなのと、一見草食系なのにそうではないTV番組を制作している、という落差が気に入っているからだ。感性については、番組よりも著書から伝わってくる。
劇場版「ヤノマミ」DVDに、国分拓がインタビューに答える映像が付加されている。
国分拓はの手は、とてもきれいで繊細だ。
その現場に参加していたかたのblogは、こちらにリンクした「嗚呼、テレ日トシネマ―雑記―」で閲覧できる。
そのコメント欄で国分拓が草食系だと、わたしに教えてくれたのだった。
*
登壇した国分拓はラフな服装とは反対に、終始緊張していた。
実年齢は中年だが、青年という風貌だ。
著書からわたしがとらえた国分拓像は、「人間とNHKという組織に醒めていて、自己をカリカチュアライズできる」だったのだが、それが国分拓流だということがわかった。
ポーカーフェイスだが、これも国分拓流で、心理を読みとれないポーカーフェイスだ。
それと、浮き世離れした感じがある。
NHKの看板番組を制作している、という気負いはなく、どこか飄々とした感じ。
強烈な個性を発散させているひとではなく、穏やかで、言葉が常に誤解を招くということを認識しているらしく、言葉選びに慎重だ。
定員は100名だが、ほぼ満席にみえた。予想どおり若い男女ばかりで、わたしと友人は浮いていた。が、それが気にならないほど、会場には静かな熱気が漂っていた。
質問コーナーで質問したみなさんは、的確な内容だし時間配分もわきまえていて、話し慣れているのに感心した。
スマートな若者たちで、いかにも空気を読めているという感じ。
わたしの記憶に残った国分拓のトークはつぎのとおり。
視聴者から寄せられた感想は、ネット上の感想と同じ。
若いころから心酔している(心酔という単語は発しなかったが、そういう意味のことを早口で)藤原新也にひとを介して感想を求めたら、「ああいうひとは褒めないんですね。なにも起こらない時間をもっとみていたかった」と、満足げな口調。
シャボリ・バタ(偉大なシャーマン)の語りは、哲学が必要なので番組のはじめにおいたが、実際は同居取材の最後のほうだった。それ以外は、すべて時系列。
(著書によると、テレビカメラを嫌がっていたシャボリ・バタが、死後に取材テープを燃やすという条件で1回限りのインタビューに応じたのは、同居して140日を過ぎたころ)
「ヤノマミ」の続編をつくるつもりはないが、助けを求めているのなら、友人としてNGOといっしょに活動したい。
いま、再訪のためにお金をためている。
殺人者に興味があるらしく、それをテーマにした番組をつくりたいらしい。
それを聞いてわたしに浮かんだのはカポーティーの『冷血』で、このノンフィクション・ノベルを発表後、カポーティーの内面でなにかが崩壊したことだ。
(わたしは小説は読んだが、映画は観ていない)
国分拓が「きょう電車で席を譲ったひとが、あしたひとを殺す――それが人間だと思っている」といったのが、印象的だった。
全体的に国分拓は、著書からわたしがイメージしていた像と結びついた。
国分拓は、自己を脅かすテーマを追いつづけているように、わたしにはみえる。
生物学的に女性のターニングポイントは35歳で、男性はその10年後という説がある。
大厄がそれぞれ33歳、42歳というのもこれに重なる。
国分拓はヤノマミと150日同居して取材をしたことで、心身が壊れた。
わたしは国分拓に「心身が壊れるだけの能力があった」と認識している。
だれもがここまで壊れるわけではないだろう。
それが42歳に近いのが興味深い。
そして国分拓は、自身のターニングポイントを、ヤノマミ体験から生還することで、異次元に進化したようにみえる。
ほんとうに壊れてしまわなかったのは、表現者として不可欠な強靱な資質が国分拓に備わっていたということだろう。
菅井カメラマンはカメラを媒体にしてヤノマミの世界、とくに少女(ローリ)が難産のすえに生んだ女の子の首を両手で絞め、精霊のまま天に返した場面を凝視しつづけた。
菅井カメラマンの視点で書いた『ヤノマミ』が読めるとうれしい。
菅井禎亮のカメラワークはすばらしい。
わたしが最も好きで脳裏に焼きついているのは、シャボノを上空から撮った映像だ。
円形なのがいいし、宇宙を感じる。
国分拓の著書『ヤノマミ』が受賞したころ、フクシマを取材していたというので、どのような番組を制作するのか愉しみにしていた。
更新のたびに閲覧している「palopの日記」によると、2012年3月9日に放映されたNHKスペシャル「南相馬 原発最前線の街で生きる」が、「取材・撮影:菅井禎亮、ディレクター:国分拓」だという。
TV番組の制作者にこだわるpalopさんの考察はおもしろいし、考えさせられる。
あたりまえだが、TV番組にかかわらず、あらゆる作品は受け手の器量によってさまざまな感想を生む。
「正解」はないのだと思う。
わたしは録画し忘れたのか、1年がかりで国分ディレクターが制作した南相馬の番組を観られなかったので、『g2 ジーツー』vol.10(2012/05/01発行・講談社)を入手し、国分拓の記事「三〇三日後の成人式」を読んだ。
国分拓が「福島と福島以外の不公平」ではなく、原発事故が露わにした「南相馬の持つ者と持たざる者の不公平」に着目しているのが、興味深い。
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脱原発しかない!
http://silhouette.livedoor.biz/archives/51900001.html
1年ぶりの更新である。
1年まえ、突如としてわたしがエネルギーを注いでいた世界が、シャボン玉のように消えてしまった。
気力を振りしぼり、これだけは……という想いで2010年06月10日にアップしたのが【国分 拓著『ヤノマミ』(NHK出版)】だった。
そして3.11である。
悪...
miko3355
2011-06-05T14:03:37+09:00
本
1年まえ、突如としてわたしがエネルギーを注いでいた世界が、シャボン玉のように消えてしまった。
気力を振りしぼり、これだけは……という想いで2010年06月10日にアップしたのが【国分 拓著『ヤノマミ』(NHK出版)】だった。
そして3.11である。
悪夢ではなく、いまも福島原発から放射性物質は漏れつづけているし、危機的状況だという現実。
首都圏に住むわたしは花粉症の時期がすぎても症状が消えないし、久しぶりに風邪をひき、体調が悪いにもかかわらず、これを書いている。
福島原発が爆発したころ、異常にからだがだるかったが、被曝したのだろう。
すでに子どもたちに全国レベルで被曝による症状がでているらしいから、今後のことを想像すると、暗然たる気分になる。
この1年、けっこう多くの本を読んだ。
本を読む時間的余裕がないのに読めたのは、まったく不思議だ。
ひとつの問いに対する答えを求めて本を読んできたのだが、その行為のなかで自分なりの方向性をみつけるしかない。
すぐれたドキュメンタリー作品も観たが、本blogにアップする時間的余裕がない。
ひとつだけうれしいことがあった。
国分 拓著『ヤノマミ』が第42回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したのだ。
国分ディレクターは、受賞当日まで福島など被災地で取材していたという。
どのような番組を制作するのだろうか。
3.11以後は、原発関連の本を中心に読んでいる。
高木仁三郎については知っていたが、小出裕章(京都大学原子炉実験所)についてはこのたび知った。
小出裕章は最近、しばしばTVに出演しているらしいが、わたしは観ていない。
NHKスペシャルかETV特集で、きっちり小出裕章の番組を制作すべきだ。
小出裕章 (京大助教) 非公式まとめはとても役だつ。
わたしが読んだなかでダントツにお勧めしたいのは、広河隆一著『暴走する原発』~チェルノブイルから福島へ これから起こる本当のこと~(小学館)だ。
巻末に広瀬 隆の特別寄稿が掲載されている。
読むのが苦痛だが、いまや福島原発周辺は世界で最も危険な戦場と化した。
2001年に放映されたNHKスペシャル「被曝治療83日間の記録~東海村臨界事故~」の悲痛さは記憶していたが、NHK「東海村臨界事故」取材班による『朽ちていった命』(新潮文庫)を読みながら、番組以上に背中が凍りついた。
いままで地震のたびに「原発は停止しました」というニュースに安堵していただけのわたしだった。が、遅ればせながら原発の仕組みを知り、こんな人間の制御できないモノに莫大な税金を費やしてきた政治家には呆れはてる。
東電という組織の悪徳ぶりも同列だ。
専門家によると、日本にある54基の原発がなくても電力は不足しないという。
計画停電には振り回されたが、これも不必要だったらしい。
いま、ほんとうに節電する必要があるのだろうか。
火力と水力発電で、原発がなくても困らないらしいのに。
わたしの職場では、昨年より15%電気使用量を削減しないと100万円の罰金だというので、険悪なムードになっている。
駅のエレベーターやエスカレーターの停止も、病人・高齢者・妊婦にとっては危険だという。
いつまでウソで国民を苦しめるのだろう。
保坂展人や湯浅 誠のような人間に総理大臣になってもらいたい。
無能な総理大臣は国を滅ぼす。
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国分 拓著『ヤノマミ』(NHK出版)
http://silhouette.livedoor.biz/archives/51616780.html
2009年06月08日、本blogにアップしたNHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」に、《取材クルーたちは150日間ヤノマミと同居し、彼らと同じものを食べ、彼らの言葉を覚えようとした。その150日間の生活ぶりを本にしてくれることを、わたしは願う》と記した。...
miko3355
2010-06-10T11:02:39+09:00
本
NHKスペシャル「ヤノマミ 奥アマゾン 原初の森に生きる」に、《取材クルーたちは150日間ヤノマミと同居し、彼らと同じものを食べ、彼らの言葉を覚えようとした。その150日間の生活ぶりを本にしてくれることを、わたしは願う》と記した。
3月の新聞広告で、NHK出版から国分拓著『ヤノマミ』が刊行されたことを知り、さっそく入手した。
一気に読んでみて、番組を観たときの衝撃を超える内容だった。
映像でしか表現できない世界と、活字でしか表現できない世界のちがい、ドキュメンタリー番組が「作品」なのだということを、あらためて認識した。
本書で劇場版(113分)の存在を知った。
劇場版を観たひとのblog「嗚呼、テレ日トシネマ-雑記-」を興味深く読んだ。。
上記によると、上映後に30分ほどティーチインが行われ、NHKの国分拓ディレクターとNHKエンタープライズの西村崇が登壇したという。
わたしは国分拓ディレクターに興味があるので、参加できなかったのが残念だ。
ハイビジョン特集「ヤノマミ~奥アマゾン 原初の森に生きる~」が第35回(平成21年)放送文化基金賞において、テレビドキュメンタリー番組で優秀賞を、菅井禎亮氏が個別分野で映像賞を受賞した。
受賞のことばはこちら。
わたしはNHKスペシャル(59分)しか観ていなかったが、5/16(日)と5/23(日)にハイビジョン特集(109分)が再放送されたので、録画して観ることができた。
さらにうれしいことに、劇場版(113分)のDVDが8月4日に発売されるので、Amazonに予約注文した。
*
以下、本書を引用・要約しながらわたしの感想を述べる。
2007年11月から2008年12月まで、国分ディレクターたちは4回、合計150日、ヤノマミ族の集落〈ワトリキ〉(風の地)に同居した。
その集落はブラジル最北部・ネグロ川上流部に広がる深い森の中にある。
メンバーは、2~4回目は、国分拓(ディレクター)、菅井禎亮(カメラマン)、エドワルド・マキノ(スチール、撮影補助)の3名で、1回目のみ彼ら3名を含む7名。
3名に減らした理由は、同居・同化を目指すには、ヤノマミがプレッシャーを感じないようにとの判断による。
ヤノマミが〈シャボノ〉と呼ぶ直径60メートルの巨大な家には38の囲炉裏があり、167人が共同で暮らしていた。
シャボノにはプライバシーがまったくない。
シャボノから数キロ先にあるFUNASA(ブラジル国立保健財団)の保健所(僻地医療の一環として1998年に設置)には、ドイツのNGOが寄付した旧式のソーラーパネルがあり、機材はその電力で充電した。
滞在中のカロリー摂取量は、一日平均1000キロカロリーで、体重は10~20キロ減った。
国分ディレクターと菅井カメラマンは立ちくらみに悩まされ、エドワルドは空腹の余り幻聴と幻覚に襲われた。
おもしろいのは土産についての話だ。
ヤノマミの世界では、招かれた者は土産を持参する必要があり、国分ディレクターたちは彼らを無用に文明化しない品物を選んだ。
配布方法についていくら工夫しても、満足する者がいる一方で、不満をもつ者があらわれるのだ。
われわれも同じだなあと思う。内心不満があっても、ヤノマミのように露骨に表現しないだけだ。
〈ヤノマミ〉とは「人間」という意味で、〈ナプ〉とは「ヤノマミ以外の人間」「人間以下の者」を指すヤノマミの言葉で、最大級の蔑称。
病人が出た時、出産に手間取った時、嵐が止まない時、ナプのせいにされ、その度に集落を追い出されるのではないか、最悪殺されるのではないかと、国分ディレクターは心底不安になった。
同居して60日が過ぎる頃、「ナプ攻撃」を避ける方法を編み出した。
問題が起きると、数キロ先にある政府の保健所に隠れ、彼らとの神経戦が始まり、やがて再同居。
その繰り返しにより、緊張を解くことのできない居候生活を続けた。
国分ディレクターたちはヤノマミとの会話を書き留めながら、意思疎通に必要な単語を覚えていった。
それを囲炉裏に遊びにくる子どもたちに聞いてもらうと、アハフーと笑った。
*
「ヤノマミ」という番組のなかでわたしの最も印象に残ったのは、14歳の少女の出産シーンだった。
国分ディレクターが最も衝撃を受けたローリというその少女の出産について、本書に詳しく記されている。
ローリは複数の男と交わり、父親のわからない子どもを身籠もっていた。
陣痛から45時間、眠らず痛みで泣き続けた末に、ローリは子どもを産み落とした。
暗い顔をしたローリは子どもの背中に右足を乗せ、両手で首を絞めはじめた。
とっさに国分ディレクターは目を背けてしまったが、菅井カメラマンは物凄い形相で撮影を続けていた。
憔悴しきったローリは表情をほとんど変えず、暗い瞳を子どものほうに向けながら絞め続けていた。
子どもを精霊のまま天に送るという儀式が終わっても、国分ディレクターたちの混乱と動揺は収まらなかった。
菅井カメラマンは、今を生きる子どもたちを狂ったように撮りはじめた。
国分ディレクターは、何かが崩れ落ちそうで、考えれば考えるほど、何かが壊れてしまいそうだった。
うまく眠れず、心身は憔悴していった。
立っていることさえ辛くなり、歩けば木の根に躓いてよく転んだ。
昨年アップしたエントリーで、わたしはつぎのように記した。
《たしかなのは、少女は14歳にして少女ではなくなったということだ。出産を経て、弟らしき小さな男の子を抱っこしてかわいがっている少女の姿は、母親のようにみえる。というか、そのようにカメラが映している》
本書を読んでわかったのだが、その男の子はローリの弟ではなく、夫と別れて同居していたローリの姉の子どもだった。
少女の姿が母親のように映ったのは、自分の子どもを精霊のまま天に返したが、母性愛のようなものがたしかに少女のなかに育っていると、わたしは解釈した。
そのカメラアイは菅井カメラマンの祈りのようなものなのか、ご本人ににそこのところを訊いてみたい。
ワトリキには身体障害者がひとりもいない。
生まれた子どもに障害があった場合は、精霊として天に返すのだろう。
育つ過程で重傷を負ったり、障害がみつかったときには、森に捨てられるらしい。
較べるのもおかしいが、生まれた直後の子どもを殺めるより、育った子どもを森に捨てるほうが、わたしには恐怖だ。
かつて日本にも「間引き」という子殺しがあったし、障害児が生まれた場合に殺めたケースがあったという。
ヤノマミだけが野蛮ではないのだ。
ローリの出産から5日後、シャボノから女たちの姿が消えた。
女たちは森を2時間歩き、漁のポイントとなる川べりに着いた。
毒草を川に流し、痺れて浮かんでくる魚を捕る。
ローリも腰巻きがずぶ濡れになりながら、真剣に川面を見つめていた。
その瞳には、浮かんでくる魚を1匹も逃さないという強い意志があった。
女たちは2時間かけてゆっくりと川を下った。
途中、川べりにあった大きな白蟻の巣を見ながら、菅井カメラマンが「彼らは森を食べて、森に食べられるんだなぁ」と言った。
この呟きが、番組エンディングの呪文のようなナレーションにつながったのだ。
*
ワトリキのヤノマミ語を翻訳できる人間は、世界に2、3人しかいない。
1998年以降、何度かワトリキに滞在したことのある人類学者で、ヤノマミ族保護のNGOのメンバーでもあったルイス・フェルナンド氏と、妻のシモーネ・デ・ソウザ氏に取材テープを送り、翻訳を依頼した。
現場での短いインタビューは、ワトリキで最もポルトガル語を理解する男(ブラジル名モザニアル)に通訳をお願いした。
フェルナンド氏によると、文明を知ってから30年以上が経っているのに、これほど変わらない集団は珍しい。それはシャボリ・バタの存在が大きい。バタの死後、一気に文明化して、崩壊するか、分裂してしまうかもしれないという。
シャボリ・バタは長い流浪の果てに、「文明」との共存を選択した。
ワトリキで暮らす167名のうち、およそ100名がシャボリ・バタと親戚関係にある。
国分ディレクターたちが同居した150日の間、シャボリ・バタは体調の優れない日が多く、ほとんどの時間をハンモックで臥していた。
ある日の深夜、シャボリ・バタが突然ハンモックから起き上がり、天に向かって叫び出した。
余りの突然さと声の鋭さに身体が震えた。
日本に帰り、その部分を記録したテープの翻訳があがった時、シャボノでその声を聞いた時以上に震えた。
シャボリ・バタは何度も何度も叫んでいた。
「私の精霊がいなくなってしまった! 私の精霊が死んでしまった!」
シャボリ・バタの存在が危うくなっているのに加えて、ワトリキは大きな転換点を迎えている。
7、8年前、NGOの指導・協力の下、ワトリキの長老たちは次世代を担う若者をブラジル社会に「留学」させることに同意した。
その3人の若者とは、モザニアル、ダリオ、アンセルモ。
アンセルモはワトリキに戻る度に「文明」の品々を持ち帰った。
ラジカセ、DVD、サッカーボール、塩、パソコン、携帯。
アンセルモより一世代若い者たちはそれらに引き寄せられ、ナプの文化は憧れの対象となり、それを認めない長老たちとの間に溝ができた。
ブラジル社会と戦っても武力では勝てないことを悟った長老たちは、言葉で訴えるしかないと考え、NGOが提案したポルトガル語の教育に同意した。
言語教育の始まりと軌を一にして、ブラジル文化の流入が始まった。
私有やプライバシーの概念が持ち込まれた。
150日の同居をお願いした時、長老たちが要求した対価は釣り針とかナイフだった。
アンセルモの時代になれば、DVDやパソコンが加わるかもしれなかった。
ワトリキでは、「文明」への依存が進む一方で、憎悪も深まっている。
*
150日の同居が終わる日が近づいたが、国分ディレクターの体調は優れず、保健所に戻って寝込む日が続いた。
看護助手はマラリアを疑い、血液検査をしたが、陽性反応が出なかった。
2008年12月23日、国分ディレクターたちは、ワトリキを去った。
若者たちは滑走路まで見送りにきてくれたが、こない者も少なからずいた。
彼らと情を結んだ感じはあったが、涙の別れとはならなかった。
セスナからみた眼下のワトリキが、去る者の視点で印象的に描かれている。
東京に戻ってからも、国分ディレクターの体調は悪化する一方で、10キロ以上減った体重は、なかなか元には戻らなかった。
菅井カメラマンは子どもに手をかける夢を見るようになり、国分ディレクターは夜尿症になった。
自分を律していた何かと150日で見たものが余りにもかけ離れてたから、バランスがとれなくなってしまったようだった。
*
〈あとがき〉に国分ディレクターはつぎのように記している。
映画監督の吉田喜重氏とヤノマミについて対談する機会があり、藁にもすがる気持ちで聞くと、「人間が解決のできない問題を提示することこそ、ドキュメンタリーなのではないか」といった。
2014年のサッカーW杯と2016年のリオ・デ・ジャネイロ五輪に向けて、先住民保護区の存在は風前の灯火になる。
ワトリキの人々が望むなら、保護区存続運動の力になりたいと思っている。
《番組は多くの人の力によって、僕が体験したもの以上となった》と記す国分拓ディレクターに、わたしは好感をもつ。
本書を読んでわかったのは、「ヤノマミ」という映像作品の貴重さと、ひとがなにかと深くかかわってしまうと、なにかが壊れるということだ。
得難いなにかを手にした場合、代償も限りなく大きい。
国分ディレクターは、死ぬまで「ヤノマミ」について考えつづけるのだろうか。
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柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(後篇)
http://silhouette.livedoor.biz/archives/51470412.html
中篇につづき、柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用(要約)しながら、わたしの感想を述べます。
映像作家・森達也
柴田哲孝は映画監督・井筒和幸に下山事件について話したところ、テレビのドキュメンタリーのほうがいいとの理由で映像作家を名乗る森達也を紹介され...
miko3355
2009-12-24T00:04:30+09:00
本
映像作家・森達也
柴田哲孝は映画監督・井筒和幸に下山事件について話したところ、テレビのドキュメンタリーのほうがいいとの理由で映像作家を名乗る森達也を紹介された。
柴田哲孝が森達也と最初に会ったのは、1994年の春頃。
同年秋頃、森達也を介して初めて斎藤茂男と会う。
2004年新潮社から刊行された『下山事件(シモヤマ・ケース)』で、森達也が柴田哲孝の母親の証言を捏造したことを、本書で柴田哲孝は指摘している。(p.400~p.403)
柴田昇からの情報
単行本『下山事件 最後の証言』の刊行から半年後、祖父の末弟・柴田旬の次男である昇から電話があった。
犯行に使われた亜細亜産業の車・ナッシュ47型らしい写真がうちにあり、ナンバーまで写っているという。
亡き大叔父・旬は180センチを超える長身で、彫りが深い顔立ちをし、ダンディーな人だった。
柴田哲孝が昇の家を訪ねると、旬の妻と三男が待っていた。
宏と旬は不思議な兄弟で、家族にも知られたくない話がある時には、英語を使っていた。
大叔父・旬の仕事は表向きは通訳で、GHQのショーの司会も英語でこなしていた。
旬の妻は、背が高かったし、外人みたいな顔なので、仕事じゃない時にも進駐軍専用列車に乗っていた、と証言。
押し入れから取り出した古い大きなアルバムに、外国車の写真はあったが、生前、大叔父・旬のお気に入りだったというナンバーの写った写真は剥ぎ取られていた。
残る2枚の写真をアルバムごと借り出し、専門家に鑑定してもらうと、ナッシュ47型に酷似しているが、1946~7年に作られた、クライスラーの「プリムス・デラックス・4ドアセダン」だった。
旬はこう推論する。
あの写真の車が下山事件に使われたので、親父はナンバーの写っている写真だけを処分した。洗足の家が下山事件総裁の家に近かったのも偶然ではなく、7月5日の事件当日、親父があの車で尾行した。
下山総裁が外人みたいな男に囲まれていたという記事の、その男は親父だ。
祖母・文子の死
柴田哲孝の祖母・文子が1995年8月に89歳で他界。
ひと月ほどたったある日、母・菱子とともに遺品の整理をした。
押し入れの奥にあった古い手提げ金庫には鍵がかかっていた。
箪笥のなかにあった鍵の束から1本ずつ金庫の鍵穴に差し込んでゆくと、何本目かの鍵が合致した。
ぎっしりと詰まった書類の一番底に分厚い封筒があり、「亜細亜産業」関連の品々が保管されていた。
上海での活動を示す紙幣、昭和18年から24年にかけての亜細亜産業の辞令・給与明細など。
小さな箱がひとつ入っていて、中から数個の宝石が出てきた。
蒼白になった母は、宝石のことも、祖父・宏が上海に行っていたことも知らなかった。
祖父・宏のアルバムには昭和17から18年の12月にかけて、長い空白がある。
下山事件で暗躍した男たちは、上海の経歴を持っている。
矢板玄、児玉誉士夫、長光捷治、里見甫、真木一英、村井恵、田中清玄、三浦義一、関山義人、そして柴田宏。
昭和40年頃、変装が得意な祖父・宏が頬に含み綿を入れ、見馴れない眼鏡をかけて哲孝と弟を追いかけ回していた。
ふたりの叫び声を聞きつけた祖母は祖父に掴みかかり、眼鏡をむしり取り泣き伏した。
祖父は下山事件当時49歳で身長は175センチ。下山総裁とほぼ同じ。
五反野南町の末広旅館の長島フクの証言が、下山総裁の自殺説の論拠とされた。が、柴田哲孝の母・菱子の記憶によると、長島フクから柴田宏に年賀状が来ていた。
亜細亜産業が下山事件に関与していたなら、長島フクの偽証が明らかになる。
末広旅館に立ち寄ったという下山総裁の替え玉は、変装した柴田宏だったのか?
柴田喬の証言
柴田哲孝は20年ぶりにジャズピアニストだった大叔父・喬(たかし)を訪ねる。
亜細亜産業で3年間事務員をしていた柴田八重子の元夫で、祖父・宏の弟。当時、80代なかばだが、若くみえる。
宏は7人きょうだいで、長男。あとは長女・和子、次女・寿恵子、次男・潔、三男・喬、四男・慶。
喬の話によると、宏が上海にいたのは昭和17年頃で、喬や潔と上海租界の同じ部屋に住んでいたこともあった。
その頃から宏は矢板玄といっしょに仕事をしていた。三菱商事の軍事物質の調達。
喬も上海で矢板玄と知り合った。
真木一英という殺し屋は矢板玄と柴田宏の仲間。
戦後、喬の妻・八重子が亜細亜産業に勤めていたので、喬も行ったことはある。
勤めないかと誘われたが、断った。あんなおっかない会社にはいられない。兄貴もよくいたと思う。
矢板玄は生ゴムや油を密輸していたといったが、喬の証言によると、亜細亜産業は麻薬を密輸していた。
下山事件は亜細亜産業が仕組んで、ライカビルに連れ込んだ。
殺害の実行犯として喬があげた名は、ひとりは日本人で、もうひとりはキャノン機関の日系二世の将校。
飯島進の証言
大叔母・寿恵子が1998年の年末に倒れ、恵比寿の厚生病院に入院する。
病院への見舞い帰りの夫・飯島に、柴田哲孝は斎藤茂男を紹介する。
恵比寿駅前の居酒屋で、飯島は台湾義勇軍の一件でも下山総裁と関わりがあったと証言。
斎藤茂男が下山事件に話を向けても、飯島はまったく乗らなかった。
飯島との話を終えて、柴田哲孝と斎藤茂男は喫茶店に席を移した。
斎藤茂男はそろそろ腹を割って話しませんか、真実が知りたいだけなんですよ、わたしにはもう時間がないんです……と訴える。とくにキャノンについての情報を斎藤茂男は聞きたい様子。
このとき柴田哲孝は「時間がない」という言葉の真意を知らなかった。
柴田哲孝は、ここだけの話で、メモを取らないことを条件に、約2時間、知りうる限りのことを斎藤茂男に話した。
斎藤茂男はそれらを噛みしめるように聞く一方で、積極的に自分の知識や意見を返してきた。
柴田哲孝は、下山総裁の拉致はキャノン機関の権限内の行動で、犯行グループにとっての保険であり、キャノン主犯説を主張しているのはCIAだという。
ふたりは、キャノンはスケープゴードにされたという共通認識をもつ。
その夜の斎藤茂男はいかにも楽しそうだった。
「下山病患者に効く薬は下山事件に関する情報だ」という斎藤茂男にとって、きわめて有効な薬だったにちがいない。
1999年5月7日、大叔母・寿美子が74歳で逝く。
3週間後の5月28日、斎藤茂男も71歳で逝く。
2000年の年が明けてまもなく、柴田哲孝は大叔父・飯島進から誘われた。
「おまえの知りたいこと、何でも教えてやるよ」
子どものいない飯島は世田谷区駒沢の広い邸宅でひとりで暮らし、見る影もないほど憔悴していた。
毒でもあおるように顔をしかめながら酒を飲みつづける飯島は、明らかに妻・寿美子の後を追いたがっている。
飯島の話では、下山総裁の首謀者は「×某」で、実行犯グループと目される亜細亜産業のサロンの主要メンバーの一人。G2のウィロビーやキャノン中佐とも密接に交友していた人物。下山総裁を「裏切り者」と呼び「殺してバラバラにしてやる」と公言。運輸省鉄道総局時代からその利権に深く食い込み、小千谷の発電所の入札やその他の公共工事の中止で莫大な損失を被った人物でもあり、松川事件でも関与が噂された。
殺害現場にいた二人の実名は、以前に柴田喬から聞いた人物と同一で、キャノン機関のMという二世の将校と、一人の日本人。
替え玉に関しても、飯島は一人の人物の名前を挙げた。
最後に、「ジイ君は関わってたのかな……」という柴田哲孝の問いに、飯島はこたえた。
「兄貴は人を殺せるような人間じゃないよ。矢板さんもね。二人は利用されたんだと思うよ」
そして小さな声で呟く。
「みんな逝っちまった……。残っているのはおれだけだ」
〔参照〕
下山事件資料館
ぴゅあ☆ぴゅあ1949:下山事件
【追記 2010/01/16】
妻の寿恵子が亜細亜産業について語るのをいやがっていた飯島進がここまでの証言をしたということは、柴田哲孝のジャーナリストとしての姿勢・力量に打たれたからだろう。
飯島進以外の生き証人として、下山事件の実行犯のひとりだと目されるビクター・松井(元キャノン機関員)がいる。
朝日新聞の記者・諸永裕司は、「週間朝日」を担当していたときにアメリカに飛び、ビクター・松井のインタビューに成功する。
それが記されている諸永裕司著『葬られた夏――追跡 下山事件』について、近日中にアップする予定である。文庫本の解説を柴田哲孝が記している。
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柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(中篇)
http://silhouette.livedoor.biz/archives/51470404.html
前篇につづき、柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』から引用(要約)しながら、わたしの感想を述べます。
亜細亜産業総帥・矢板玄の証言
本書の圧巻は矢板玄(くろし)と柴田哲孝が対峙する場面だ。
矢板玄は亜細亜産業と称する貿易会社の総帥で、下山総裁が消息を絶った三越本...
miko3355
2009-12-23T23:57:27+09:00
本
亜細亜産業総帥・矢板玄の証言
本書の圧巻は矢板玄(くろし)と柴田哲孝が対峙する場面だ。
矢板玄は亜細亜産業と称する貿易会社の総帥で、下山総裁が消息を絶った三越本店に近い東京・日本橋室町にあるライカビルに本拠地があった。
柴田宏は亜細亜産業の幹部で、宏の妹・寿恵子と宏の弟・喬(たかし)の妻の八重子は、事務員として勤務していた。
柴田哲孝の母・菱子は、下山事件発生当時は14歳で吉祥女子中等部2年生。学校の帰りに頻繁に亜細亜産業に遊びに行った。
矢板玄は菱子をずいぶん可愛がってくれた。背が高くて、かっこよかったし、いい人だった。
矢板玄の家族と社員とで旅行に行ったこともあり、矢板玄の息子たちと何度か遊んだことがある。
菱子が行くのは父・宏のいた2階の事務所だけ。宏に「3階にはお化けがでる」といわれていた。
ひとり娘として父・宏に慈しまれた菱子は、仕事が終わるのを待って、よくデートした。天ぷらを食べたり、銀ブラして買い物したり。三越にも歩いて5分もかからなかった。
菱子が父・宏がGHQの仕事をしているの知ったのは昭和22年。
恐ろしくて矢板玄に会えなかったジャーナリスが多いなか、1963(昭和38)年、斎藤茂男は三菱化成時代の矢板玄を訪ねたが、一蹴された。
柴田哲孝は大叔父・飯島進(寿美子の夫)に、「矢板玄に会いに行くのだけはやめろ」といわれていた。
飯島進の父・亀太郎は外務省の役人で、柴田哲孝の曾祖父・柴田震の同僚。
飯島進は戦時中に三菱商船の子会社「第一壮美」を起業したが、昭和29年の「造船疑獄事件」のあおりを受けて倒産。亜細亜産業の矢板玄とも親しかった。
#
栃木県矢板市役所の中庭に矢板武(玄の曾祖父)の銅像がある。
柴田哲孝が住民課で矢板玄を捜していると伝えると、慌てた様子で市長室に案内された。
市長は矢板玄を「先生」と呼び、緊張した面持ちで玄の家に電話をし、来客がある旨伝える。
市長に電話にでるようにいわれた柴田哲孝は、亜細亜産業でお世話になった柴田宏の孫だと告げる。
矢板玄に、家は市役所の目のまえなので、いまから来いといわれる。
これまで仕事で数百人にインタビューしてきた柴田哲孝の信念は「一対一が基本」。
矢板家の屋敷に到着し、案内された10畳ほどの部屋で、柴田哲孝は矢板玄にいきなり抜き身の刀を突きつけられる。
鬼の形相で圧力をかけてくる矢板に、柴田哲孝は動揺しなかった。
矢板玄は急に大笑いし、「おまえは確かに柴田さんの孫だ。あの人も豪胆な人だったからな」。
身長は180センチ以上あり、鍛えあげられた筋肉をもつ矢板玄の第一印象は、戦国時代の武将。
サンルームに移動してからの矢板玄は、上機嫌で饒舌だった。
当時、78歳の矢板玄は毎朝、庭で木刀の素振りを欠かさない。
柴田哲孝は、自分がジャーナリストであること、祖父の過去と亜細亜産業に興味をもっていることを断り、メモをとることに許しを求めた。
矢板玄はその度胸のよさが気に入り、「柴田さんより自分のことを書いたほうが面白いぞ」と大笑いする。
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柴田宏は元々関東軍の特務機関の将校だった。英語が話せて頭がいい奴がいると聞いて、亜細亜産業に来てもらうことにした。
ジャワに工場を建てることになり、柴田宏は英語ができたので、そこの責任者の一人として行ってもらった。ほんとうの任務はスパイ。軍の情報を収集したり、宣伝ビラを作ってばらまいたりというプロパガンダ。
矢板玄は横浜高等工業学校(現・横浜国立大学)を出て、代議士・迫水久常の紹介で昭和電工に入った。
森社長に頼んで大陸に行かせてもらい、満鉄をやっていた。
退屈なので、軍属になり、上海に矢板機関を作った。
矢板機関での仕事は陸軍の物資調達、金集め。
ごっそり金を儲け、日本に帰って亜細亜産業を作った。
児玉誉士夫は親父・玄蕃の仲間じゃ一番下っぱで、組んで仕事はしたが、騙されてばかりだった。
児玉は仲間の水田光義を殺している。自分でそういってたから間違いない。絶対に信用できない奴。
児玉は日本人じゃない。
矢板玄の後見人は三浦義一と東条英機。
亜細亜産業の業務内容はひとことでいうと軍需産業で、パルプは一部。
日本に帰ってから工場を次々に買収して、生産部門を作った。
工場は北千住や小菅、パルプは王子や十条にあった。
陸軍省の工場の中にあった。
工場の名前は、「亜細亜産業生産部」。
(下山事件は、誘拐現場の三越周辺から轢断現場の五反野まで、すべて亜細亜産業の領域内で起きたことになる)
戦後は千葉に、千葉銀行から取り上げた旭缶詰というのもあった。
(旭缶詰とは、矢板玄が元千葉銀行頭取・古荘四郎彦の戦犯容疑をもみ消した際、謝礼として譲り受けた「旭缶詰会社」のこと)
矢板玄は元々鉄道の電気技師で、昭和電工に入ったのも満鉄をやりたかったから。
亜細亜産業時代にも配電盤のコイルとかパンタグラフとか、いろいろなものを作っていた。
矢板家は鉄道一家。
曾じいさん(12代目・矢板武)は鉄道会社の役員で、いまの国鉄の東北本線や日光線の元になった。
東武伊勢崎線も親父・玄蕃が作ったみたいなもの。
親父は東武の大株主の一人だったから出資もしたが、ほんとうに線路をひいて作った。
満州事変当時、関東軍の最大の任務は満鉄の敷設と延長だった。親父・玄蕃が指揮してその訓練をやらせた。
軍隊が訓練で敷いた線路を東武が買い上げた。
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矢板玄の親父・玄蕃と三浦義一が、大蔵省の迫水久常と組んで金銀運営会をやっていて、その事務所がライカビルの4階にあった。
戦時中に国が国民から供出させた貴金属を潰して金の延べ棒にしたものが、4階の床下に百本以上あった。指輪からはずしたダイヤモンドや宝石もごっそりあった。
ダイヤ以外の宝石は小遣いとして使い、ダイヤは別にとっておいた。粉にして大砲の砲身を磨くので貴重だった。
終戦後、親父・玄蕃のところに山ほど残ったダイヤに、児玉誉士夫が大陸から持ち帰ったダイヤを混ぜた。
悪いほうをウィロビー(GHQのG2のチャールズ・ウィロビー少佐)に持っていって、いいほうを黒磯の山中に埋め、あとで児玉誉士夫と山分けにした。
ダイヤモンドは山から掘り出して少しずつ売ったが、児玉が巣鴨刑務所でGHQの奴らにしゃべり、ウィロビーにもだいぶ持っていかれた。
児玉誉士夫はA級戦犯ではなく、アメリカの策略だった。
児玉はダイヤ・プラチナ・ウランを隠し持っていたので、A級戦犯で逮捕しておき、物資の隠し場所を吐けば、命は助ける。
ウィロビーは、当時の金で数億円のダイヤをアメリカに持って帰ったはずだ。
金とダイヤモンドを、戦後は政治に使った。吉田茂内閣の政治資金。吉田はその金を使ってGHQによる公職追放を逃れて首相になった。岸信介の内閣までほとんどその金が使われた。
ライカビルは都心の一等地にあったし、集まりやすかった。金の臭いもするし。
あの頃の日本を作った梁山泊。
右翼関係者では、三浦義一、田中清玄、関山義人、児玉誉士夫、笹川良一、赤尾敏。
共産党の伊東律。
社会党の西尾末広。
よく来ていたのは白洲次郎、迫水久常。
政治家では吉田茂、岸信介、佐藤栄作。
吉田内閣を作ったのは親父・玄蕃と三浦義一。
佐藤栄作を代議士にしたのも三浦義一。
三浦義一と白洲次郎は蜜月の仲だった。
柴田宏と白洲次郎も仲が良かった。
矢板玄が最初にウィロビーと会ったのは、三浦義一の紹介。
三浦は英語が得意ではなく、ウィロビーに会うときには通訳がわりに矢板玄が連れていかれた。
矢板玄は英語・フランス語が話せた。
柴田宏が行ったこともある。
そのうちウィロビーに気に入られて、いろいろ相談されるようになった。
三浦義一はとてつもない大物で、ウィロビー、マッカーサー、吉田茂、財界の大物たちは、なにか問題がもちあがると三浦義一に挨拶に行った。
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キャノン機関のボス・ジャック・キャノン中佐に関しては、1971年、ジャーナリストの平塚柾緒(まさお)が、ルイジアナ州の自宅を訪ね、日本人として初の単独インタビューに成功した。
1977年、NHKが制作したドキュメンタリー番組「キャノンの証言」のなかで、キャノンは人脈を明かしたが、それらの人物はキャノンとの関係を訊ねられると、当惑したり否定した。
本郷ハウスでキャノンとともに写った写真が残っている白洲次郎も、付き合いを認めていない。
1981年、66歳のキャノンは自宅のガレージで射殺体で発見され、自殺他殺不明のまま事件は迷宮入りとなった。
矢板玄がキャノンと知り合ったのは昭和22年頃。最初は麹町の沢田ハウスで会った。
(キャノンが本郷の岩崎別邸にキャノン機関を開設したのは、昭和23年3月)
麹町も本郷も沢田美喜が厚意でウィロビーに貸した。
白洲次郎がキャノンていう面白い奴がいるといってきたが、なかなか紹介してくれないので、岩崎のお嬢さん(沢田美喜)に間に入ってもらった。美喜さんにいわせれば、キャノンなんかただの腕白坊主。
(斎藤茂男によると、沢田美喜が運営する孤児院エリザベス・サンダース・ホームはCIAの支部。美喜の私設秘書・真木一英は殺し屋)
矢板玄とキャノン中佐は親友だった。対等で、反共という目的で結ばれたファミリーだった。
柴田宏はキャノンのお気に入りだった。
日本人のエージェントは、ほとんど矢板玄がキャノンに紹介した。長光捷治、里見甫(はじめ)、阪田誠盛、伊東律、鍋山貞親、田中清玄など。
(里見甫はアヘン密売のエキスパートで、G2時代のキャノンはヘロイン中毒)
亜細亜産業はキャノンと組んで密輸をやっていた。
キャノンは金がなかった。G2から莫大な工作資金が出ていたというのは嘘で、足りない分は自分で工面した。むしろキャノンが稼いだ金をウィロビーに上納していた。
買った中古の漁船の管理を矢板玄がやり、警察と話をつけるのはキャノンの役目。利益は完全に折半。
日本から北朝鮮に日曜雑貨や古い工作機械なんかを持っていって、情報収集をやる。帰りに中国や東南アジアを回って、生ゴムやペニシリン、油などを買ってくる。
朝鮮や中国で、スパイになりそうなのを探して連れてくる。それをキャノンが教育して送り返した。みんな殺されたが……。
キャノンは自殺するような人間じゃない。殺されたんだ。
KGB(ソ連国家保安委員会)に殺されたと思う。キャノンの部下は、CIAにやられたといっていたが……。
キャノンはほんとうにいい奴だった。
昭和24年の春頃、ライカビルの事務所を朝鮮人に襲われたことがあった。黒磯から堀り出したダイヤを事務所に置いてあるのがばれた。矢板玄と林武と柴田宏の3人だけだった。銃は1丁しかなく、相手は7~8人。ドアをはさんで睨み合いになった。
しかたなくキャノンに電話したら、本郷から5分で飛んできた。部下を連れて、両手にコルトを構えて、階段を駆けあがってきた。まるで騎兵隊みたいだった。
#
昭和疑獄事件は三者の利害が完全に一致した。吉田は芦田内閣を潰したかった。ウィロビー(G2)はケージスを追放したかった。矢板玄たちは昭電の森さんに恩があった。
最初に計画を練ったのはウィロビーと吉田と白洲次郎で、矢板玄と斎藤昇(国警長官)が動いた。
キャノンは全部知っていたが、直接はからんでいない。荒っぽいことが専門で、頭を使うことはあまり得意ではない。
ケージスが新聞社や警察に圧力をかけてきたので、ハリー・カーンのつてを使ってアメリカの新聞社に情報を流したのが柴田宏だった。
あの頃、柴田宏は顔が割れていなかったし、英語がうまかった。英語といえば、白洲次郎か柴田宏だった。それに柴田宏はいかにも紳士だから、外人記者はみんな柴田宏を信用していた。
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柴田哲孝が下山事件に触れると、矢板玄の形相が変わり、生きる仁王像のようになった。
追い込まれた柴田哲孝は、メモを取っていたノートを閉じた。
矢板玄は口数が少なくなり、下山総裁とは面識があり、自殺ではなく他殺、共産党勢力の犯行ではないことを認めた。
祖父が亜細亜産業時代(昭和18年から24年の夏まで)のことを克明に日記に残していた、と告げると、矢板玄は狼狽し、ほんの一瞬で10年の老いを重ねたようにも見えた。
そして突然、大声で笑いだし、「困ったもんだな、柴田さんは。そんなものを残していたのか」。
関係者も生きているので、おれが生きているうちは書かないと約束しろ、と矢板玄はいう。
柴田哲孝は、矢板玄が生きているうちは書かないと約束する。
矢板玄は柴田哲孝を長屋門まで送った。
肩に大きな手を置き、「また遊びに来い、今日は、楽しかった」。
しかしこの直後、驚いたことに矢板玄は脳梗塞を患い、痴呆になる。
屋敷から姿を消し、1998年5月、83歳で逝く。
柴田哲孝との対面から5年後である。
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柴田哲孝は書斎のデスクの引き出しにあった日記を何度も見ている。小学生の頃、祖父のまえで日記帳を開いたが、意味は理解できなかった。
そのとき祖父は、「この日記はおまえにやる。大人になって、英語がわかるようになったら、読んでみろ」といった。
祖父・宏の書斎には膨大な書類が残されていた。英語で書かれた6冊の日記帳、数十年分の書簡など。
祖父の死の直後、それらを祖母・文子は知人に託して焼却させた。
祖父・柴田宏が発表する目的ではなく克明な日記を書き、膨大な書類を保存していたのは、ジャーナリスト魂だとわたしは思う。
柴田哲孝が祖父の秘密を暴くことで、結婚に失敗したあと女手ひとつで自分と弟を育ててきた母を傷つけることになる。それがわかっていても、下山事件の真相を知りたいという衝動を抑えることができない。
ジャーナリスト魂という最大の共通項が、ふたりにはある。
本書によると、矢板玄は英語の日記が焼却されていることは知らないし、柴田哲孝がすでに日記を読んでいるととらえている。
これはわたしの妄想だが、矢板玄にとって柴田宏が書いた日記帳は、想像を絶するほどの脅威だったのではないだろうか。
痴呆というのは自己防衛ではないのか。仮病ではなく、ほんとうにそうなっているのである。
真剣を突きつけた矢板玄は、徒手空拳でたちむかった柴田哲孝との「真剣勝負」に破れたのではないか。
試そうとした人間が試された、ともいえる。
それは柴田宏の日記を公表するなといわず、「おれが生きているうちは書かないと約束しろ」といった矢板玄の発言にあらわれている。
柴田哲孝は矢板玄の変貌を聞いてショックを受け、「老い」だと記しているが、柴田哲孝との対決がなければ、矢板玄は元気でもっと長生きしていたように、わたしには思える。
(つづく)
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柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』(前篇)
http://silhouette.livedoor.biz/archives/51470393.html
5月から6月にかけて下山事件に関する本を読んだ。
日本が占領下にあった1949(昭和24)年7月5日、初代国鉄総裁・下山定則(さだのり)が出勤途中に失踪し、翌日の7月6日午前零時20分ころ、常磐線五反野(ごたんの)駅近くの線路上で轢死体で発見された。
つづいて発生した三鷹事件...
miko3355
2009-12-23T23:47:12+09:00
本
下山事件に関する本を読んだ。
日本が占領下にあった1949(昭和24)年7月5日、初代国鉄総裁・下山定則(さだのり)が出勤途中に失踪し、翌日の7月6日午前零時20分ころ、常磐線五反野(ごたんの)駅近くの線路上で轢死体で発見された。
つづいて発生した三鷹事件、松川事件を合わせて国鉄三大ミステリー事件という。
いまから4年まえ、「週間ブックレビュー」(BS2・2005/10/17)の特集に登場した、『下山事件 最後の証言』の著者・柴田哲孝にわたしは好感をもっていた。
単行本(2005年/祥伝社)に柴田哲孝が大幅に加筆・修正した、祥伝社文庫の『下山事件 最後の証言』(2007年)を入手し、気になりながら手つかずのまま放置していた。
わたしには苦手な分野だとの先入観があったからだ。
それから2年後、なにげなく読みだしたところ、おもしろすぎるのである。
わたしは人間と同様に本とも出逢いがあると思っている。
わたしには2009年に下山事件と出逢う必然性があったのだろう。
興に乗り、つづけて読んだ本はつぎのとおり。
『葬られた夏――追跡 下山事件』(諸永裕司・朝日文庫・2006年)
『下山事件(シモヤマ・ケース)』(森達也・新潮文庫・2006年)
『謀殺 下山事件』(矢田喜美雄・祥伝社文庫・2009年) ※単行本は1973年講談社刊
『夢追い人よ――斎藤茂男取材ノート1』(斎藤茂男・築地書館・1989年)
白洲次郎が下山事件の周辺に存在していたことを知り、入手したまま未読だった文藝別冊『白洲次郎』(河出書房新社・2002年)を読む。
加えて、以前から興味があった『おそめ 伝説の銀座マダム』(石井妙子・新潮文庫・2009年)を入手し、白洲次郎関連の本としても読む。
白洲次郎は「おそめ」の常連客だった。
三浦義一は「おそめ」のママである上羽秀(うえば・ひで)にぞっこんで、秀のまえでは少年のようだった、という話には笑えた。
下山事件からことしはちょうど60年。人間でいうと還暦である。
奇しくも8月の総選挙で政権交代し、下山事件の周辺にいた日米の人間たちによってつくられ、脈々とつづいてきた自民党はようやく寿命が尽きた。
鳩山政権は自然の流れとして、対米従属から脱する方向を示した。
いま、与党となった民主党の政治家たちには緊張感が感じられ、迅速に動いている。
ひとにやさしい社会を構築するのはむずかしいが、そちらに方向転換しようとしているようにみえる。
一方、いまもなお自民党の政治家たちの顔は弛緩している。
自民党が政権奪回する日はやってこないだろうと、政治に疎いわたしは思うのである。
柴田哲孝・諸永裕司・森達也の三者は交流があった。
行動をともにした場面を描いても、三者に差異があるところがおもしろい。
著作の刊行順は重要な要素で、諸永裕司→森達也→柴田哲孝である。
この三者だけでも複雑な関係性がある。
下山事件には彼らと較べようもない複雑な利権が絡んでいて、想像を絶する。
彼らに加えて斎藤茂男が重鎮として存在する。
共同通信の記者だった斎藤茂男(1928~1999)は朝日新聞の記者・矢田喜美雄(1913~1990)と、社の枠を超えてともに下山事件を追っていた。
両者は下山事件が時効をすぎても、真相究明に対する熱意が衰えることはなく、ともに「重篤な下山病患者」を自認していた。
自分の死期が近いことを自覚していた斎藤茂男は、「一方的に発表したり自分の取材に取り込む気はない、真相を知りたいだけなんだ」と訴えた。
斎藤は自分の病気のことを隠していたらしく、彼らは唐突に斎藤の死(1999年)を知らされ衝撃を受ける。
斎藤が生き延びて彼らの著作を読んだら、どのような感想をもつだろうか。
●柴田哲孝著『下山事件 最後の証言』
圧倒的におもしろく、幾度も読みかえした。
重くて切れのよい文体に魅了された。
会話の部分が活写されているので、小説を書けるひとだと思った。
人間を立体的に描いているので、愉しめるのである。
のちに知ったが、やはり小説も書いている。
アウトドア派で多才である。
本書はおもしろく読めるが、いざblogに書くとなると意外とむずかしい。文庫版で602ページという分厚い本に盛りこまれた緻密な内容と、下山事件の奥深さがその理由だ。
加えて、パソコンにむかってキーを打ちはじめると、猛烈な睡魔に襲われて作業をつづけることができない、という日々の連続だった。
下山事件には魔物が棲んでいるのかもしれない。
以下、本書から印象的な箇所を引用(要約)しながらわたしの感想を述べる。
祖父・柴田宏は下山事件にかかわっていた
柴田哲孝の祖父・柴田宏(ゆたか)は1970年7月1日、69歳で他界。
柴田哲孝が幼いころから異常なくらい慕っていた祖父は、スポーツ万能で、近所の少年たちとともに「ジイ君」と呼ばれ、英雄だった。
柴田哲孝は1991年7月、祖父の23回忌の法要で、大叔母・飯島寿恵子から祖父が下山事件にかかわっていたと知らされる。
この日から柴田哲孝は下山事件という迷宮に足を踏み入れた。
そこには幼いころから慕っていた祖父のべつの顔を知りたい、という欲望も含まれていた。
祖父・柴田宏は昭和18年から24年の夏まで、矢板玄の経営する亜細亜産業の役員だった。
祖父の妹・寿恵子も昭和23年の春まで、数年間、事務員として勤めていた。
亜細亜産業は絶対に身内からしか事務員を雇わなかった。
寿美子も入る時、業務内容に関しては多言しないという念書を入れている。
あの会社は下山さん以外にも殺されたとか、消されたという噂はいくらでもあったので怖い、という寿美子を根気よくなだめ、説得して、柴田哲孝は寿美子の口を開かせてゆく。
寿美子の話によると、亜細亜産業は戦後、機関車の部品を東武鉄道や国鉄に納めていた。
元々矢板玄の実家は材木商だったらしいから材木も扱っていたが、ほとんどは南洋材(ラワン材)で、柴田宏が担当してインドネシアから輸入し、それを使って家具を作っていた。
家具の半分はGHQに納め、あとの半分は家具屋やデパートでも売っていた。
三越には大きな家具売り場があって、そこに亜細亜産業のコーナーがあった。
(下山総裁は失踪当日の午前10時頃に三越3階の家具売り場で姿を目撃されている)
亜細亜産業は大量の雑油の配給を国から配給されていて、年間に「ドラム缶で数10本の単位」だった。
大半は他の工場などに横流ししていた。
(下山総裁の衣服には大量のヌカ油が染み込んでいた)
亜細亜産業では染料も扱っていた。いつも見本が置いてあった。
(下山総裁の衣類や靴などから塩基性の染料の粉が検出された)
亜細亜産業がGHQと取り引きがあったのは、「大砲の弾の部品」などの鉄工製品、家具、材木、樹脂製品などで、GHQからは砂糖を買っていた。
ライカビルは異次元の空間だった。
終戦後の物資が欠乏していた頃、本物の日本酒、高級ウイスキー、外国タバコなどが並んでいた。
3階のサロンに出入りしていたのは亜細亜産業の社員でも一部の重役だけで、柴田宏もその一人だった。
異常なほど羽振りの良かった亜細亜産業は、昭和23年頃になって急に景気が悪くなりはじめた。
1991年当時、柴田哲孝はライカビルはすでに取り壊されたものと思い込んでいたが、数年後、当時、週間朝日の記者・諸永祐司が探し出した。
諸永に誘われ、柴田哲孝はライカビルに足を運んだ。
昔から三越の南口と室町3丁目は地下道で結ばれていたので、それを通れば、ほとんど人目に触れずに行くことができた。
(下山総裁は大西運転手に見られずに、三越の南口からライカビルに行くことができた)
ライカビルは5階建ての細長いビルである。
正面に蛇腹式ドアの古いエレベーターがあり、右手には木の手摺りの階段がある。
亜細亜産業のオフィスがあった2階は、英国式のパブになっていた。
サロンがあった3階は、麻雀屋になっていた。
4階はごく普通の会社のオフィスになっていた。
昭和24年当時、4階には三浦義一主宰の「国策社」の事務所が看板を掲げ、「日本金銀運営会」という事務所があった。
帰りはエレベーターに乗り、2階のパブに寄った。
柴田哲孝は諸永祐司と混んだ店の窓際の小さなテーブルに座り、かつてこの場所に現存した亜細亜産業時代のオフィスを空想する。
(つづく)
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