2005年10月
2005年10月29日
ネット時代にジャーナリズムがもつ意味
【昭太郎のひとりごと 2】
「ケンブリッジ大学の学生食堂のコーヒーポットに入っているコーヒーの量が、東京にいてオンタイムで分かるんですよ」
得意気な某テレビ局のプロデューサーの話に驚いてから、15〜16年経っただろうか。それがインターネットだと知ったのだが、実際に自分がその機能を使いだしてから、今日でまだ3ヶ月になるかならないか、まさに初心者そのものである。
パソコンには2年ほど前から触れ始めた。最初はワープロが壊れたので、その代用としてだった。それまで経理が使っていたうちの1台のデスクトップ型を、経理担当者と共有で使用した。こうして自動的にエクセルを使うようになる。
パソコンはもともとが計算機であることに気がついた瞬間だった。それまで自分流に手書きで作っていた資金繰り表がパソコンに納まり、電算機を叩く必要はなくなった。が、だからといって資金繰りが楽になった訳ではなかった。
もっとも、ずっと以前に、若い人たちからは、会社にパソコンを導入するよう求められてはいたが、まだまだ遊びに近い存在で、きっとお金も掛かるに違いないと、知らん振りを通していた。しかし、いよいよパソコン推進派勢力に抗しきれず、社内ランの形を作った。それが4年前。渋谷界隈を中心にビットバレーと呼ばれる、ITバブル華やかなりし頃から遅れること4年余。
でも、ボクのパソコンはランにはつながなかった。したがって、電話線からも遮断していた。貧弱なわが社の資金繰りが丸見えになっては困る、と思ったからだった。そんな事情もあって時流に乗り遅れていたのだが、その中古のデスクトップが壊れたのをキッカケに、ようやくインターネットを体験できるようになったのだった。
初めに開いたのは、わが社のホームページだった。次に、会社のある赤坂周辺の飲み屋や料理店を調べた。がっかりした。ボクが知っている結構いけてる店々が、取り上げられていないのだ。これならボクの方が詳しい。つまり、ネットにはこういった情報を求めてはいけないのだ、と知った。
何しろ、経験が浅すぎて分からないのだが、たぶんネットにはその特徴を生かした情報の求め方のセオリーが存在するのだろう。少なくとも、商品の売買やソフトを利用して課金システムをあみ出し、多くの人々から集金するのには最適のメディアなのだろう。
同じ意味で、ホリエモンや楽天などがテレビ局を買収したい意図は分かる。ホリエモンが今度はテレビ東京の株の買い占めを始めている、との情報もある。少なくとも、彼らはジャーナリズムに興味のあろう筈はなく、テレビという全国的に信用のあるメディアを使っての金儲けだけを目的に、買収しようとしていることは間違いない。
もし買収が実現すればテレビは今以上にテレビショッピング番組などで溢れ、ボクたちが考えるジャーナリズムは姿を消すことになるのではないか、と心配せずにはいられない。それが単純に過ぎる杞憂であることを祈りたいが、どうなることか。
アメリカの3大ネットワークがそれぞれ大企業に買い取られて久しい。その点、日本の民放テレビ各局は、良くも悪くも、これまで新聞社の系列下にあり、かろうじてではあるが、ジャーナリズムの匂いだけは残してきていた。いま、それが滅びようとしている。
テレビとインターネットの互いの乗り入れは、避けることはできないし、そこから新しく生まれてくる面白さや可能性も無限に広がるだろう。しかし、特にマスコミにおけるジャーナリズムという観点に立つとき、その存在は危うい。
マスコミに言論の自由が存在することなどあろう筈もないが、"存在させたい"との情熱と意志がジャーナリズムに意味を持たせてきた。ボクの体験も含めて、今後、本当にその意志を持続することができるだろうか。それが、今の時代の実態なのだろう。価値の全てを「お金」だと決めて生きてきた、そのつけが日本の文化を確実に悪い方向に変容させている。
時の流れは文化を変え、文明を滅ぼしていく。そして、新たな文明が誕生し、文化が育まれていくことは自明の理である。優れた知恵を持っているはずの人類が、地球に生息する動植物にとってのガン細胞であるのと同じように、インターネットはアメーバーの如く増殖し、人とその社会を滅ぼしていくのかも知れない。
一度、その地平までたどり着かない限り、ボクたちはきっと今の流れを止めることはできないのだと思う。
「ケンブリッジ大学の学生食堂のコーヒーポットに入っているコーヒーの量が、東京にいてオンタイムで分かるんですよ」
得意気な某テレビ局のプロデューサーの話に驚いてから、15〜16年経っただろうか。それがインターネットだと知ったのだが、実際に自分がその機能を使いだしてから、今日でまだ3ヶ月になるかならないか、まさに初心者そのものである。
パソコンには2年ほど前から触れ始めた。最初はワープロが壊れたので、その代用としてだった。それまで経理が使っていたうちの1台のデスクトップ型を、経理担当者と共有で使用した。こうして自動的にエクセルを使うようになる。
パソコンはもともとが計算機であることに気がついた瞬間だった。それまで自分流に手書きで作っていた資金繰り表がパソコンに納まり、電算機を叩く必要はなくなった。が、だからといって資金繰りが楽になった訳ではなかった。
もっとも、ずっと以前に、若い人たちからは、会社にパソコンを導入するよう求められてはいたが、まだまだ遊びに近い存在で、きっとお金も掛かるに違いないと、知らん振りを通していた。しかし、いよいよパソコン推進派勢力に抗しきれず、社内ランの形を作った。それが4年前。渋谷界隈を中心にビットバレーと呼ばれる、ITバブル華やかなりし頃から遅れること4年余。
でも、ボクのパソコンはランにはつながなかった。したがって、電話線からも遮断していた。貧弱なわが社の資金繰りが丸見えになっては困る、と思ったからだった。そんな事情もあって時流に乗り遅れていたのだが、その中古のデスクトップが壊れたのをキッカケに、ようやくインターネットを体験できるようになったのだった。
初めに開いたのは、わが社のホームページだった。次に、会社のある赤坂周辺の飲み屋や料理店を調べた。がっかりした。ボクが知っている結構いけてる店々が、取り上げられていないのだ。これならボクの方が詳しい。つまり、ネットにはこういった情報を求めてはいけないのだ、と知った。
何しろ、経験が浅すぎて分からないのだが、たぶんネットにはその特徴を生かした情報の求め方のセオリーが存在するのだろう。少なくとも、商品の売買やソフトを利用して課金システムをあみ出し、多くの人々から集金するのには最適のメディアなのだろう。
同じ意味で、ホリエモンや楽天などがテレビ局を買収したい意図は分かる。ホリエモンが今度はテレビ東京の株の買い占めを始めている、との情報もある。少なくとも、彼らはジャーナリズムに興味のあろう筈はなく、テレビという全国的に信用のあるメディアを使っての金儲けだけを目的に、買収しようとしていることは間違いない。
もし買収が実現すればテレビは今以上にテレビショッピング番組などで溢れ、ボクたちが考えるジャーナリズムは姿を消すことになるのではないか、と心配せずにはいられない。それが単純に過ぎる杞憂であることを祈りたいが、どうなることか。
アメリカの3大ネットワークがそれぞれ大企業に買い取られて久しい。その点、日本の民放テレビ各局は、良くも悪くも、これまで新聞社の系列下にあり、かろうじてではあるが、ジャーナリズムの匂いだけは残してきていた。いま、それが滅びようとしている。
テレビとインターネットの互いの乗り入れは、避けることはできないし、そこから新しく生まれてくる面白さや可能性も無限に広がるだろう。しかし、特にマスコミにおけるジャーナリズムという観点に立つとき、その存在は危うい。
マスコミに言論の自由が存在することなどあろう筈もないが、"存在させたい"との情熱と意志がジャーナリズムに意味を持たせてきた。ボクの体験も含めて、今後、本当にその意志を持続することができるだろうか。それが、今の時代の実態なのだろう。価値の全てを「お金」だと決めて生きてきた、そのつけが日本の文化を確実に悪い方向に変容させている。
時の流れは文化を変え、文明を滅ぼしていく。そして、新たな文明が誕生し、文化が育まれていくことは自明の理である。優れた知恵を持っているはずの人類が、地球に生息する動植物にとってのガン細胞であるのと同じように、インターネットはアメーバーの如く増殖し、人とその社会を滅ぼしていくのかも知れない。
一度、その地平までたどり着かない限り、ボクたちはきっと今の流れを止めることはできないのだと思う。
(10/19) 菊地信義編「課外授業ようこそ先輩」の制作現場から
オルタスジャパン 小田昭太郎
◆授業が成立する要素
「課外授業」という番組をこれまで何本か制作していますが、その中でも、菊地さんの「課外授業」は、まずまず出来ていた方かな、と思います。
いうまでもありませんが、番組上で言えば、先生だけが良くても、こどもだけが良くても駄目で、両者の関係の絶妙が求められます。特に、教える側が、実はこどもたちから教えられて、授業のおしまいに「ありがとう」の言葉が心から言えた時、初めて授業が成立します。ですから、演出は勿論必要ですが、出演していただく先生の選択でほぼ番組の出来が決まります。菊地さんの場合は、特にそうで、本当に素晴らしい方のようでした。
◆クレジット表記について
この番組の場合の著作権は、正確にはNHKにはなくて、NHKエンタープライズとNHKテクニカルサービスとオルタスジャパンの3社が持っています。番組ではそう表記されているはずです。
もう少しくわしく言うと、ボクたちがNHKと取引する場合には、大別すると4種類のケースがあります。
/雄倏標 演出業務委託 再委託 ね縮鷙愼 です。
,亙源通りです。大抵の場合は"1ヶ月いくら"です。
△録雄倏標にプラス取材費や編集人件費等々の、ある程度のグロスの仕事の請負の形。
は番組をまるまるプロダクションで制作する方法です。
い陵縮鷙愼方式は少し複雑で、課外授業はこの形での制作です。
「課外授業」の場合ですと、上記の3社が制作委員会を作り、出資します。その制作した番組の放映権をNHKに売り、放映権料を出資比率で分配します。実際の制作はオルタスジャパンが担当し、制作費が制作委員会から支払われます。著作権は3社で持ちます。ですから、放送後は極端に言えば、他の民放局に売っても良いわけで、全ての権利は制作委員会にあるわけです。
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◆授業が成立する要素
「課外授業」という番組をこれまで何本か制作していますが、その中でも、菊地さんの「課外授業」は、まずまず出来ていた方かな、と思います。
いうまでもありませんが、番組上で言えば、先生だけが良くても、こどもだけが良くても駄目で、両者の関係の絶妙が求められます。特に、教える側が、実はこどもたちから教えられて、授業のおしまいに「ありがとう」の言葉が心から言えた時、初めて授業が成立します。ですから、演出は勿論必要ですが、出演していただく先生の選択でほぼ番組の出来が決まります。菊地さんの場合は、特にそうで、本当に素晴らしい方のようでした。
◆クレジット表記について
この番組の場合の著作権は、正確にはNHKにはなくて、NHKエンタープライズとNHKテクニカルサービスとオルタスジャパンの3社が持っています。番組ではそう表記されているはずです。
もう少しくわしく言うと、ボクたちがNHKと取引する場合には、大別すると4種類のケースがあります。
/雄倏標 演出業務委託 再委託 ね縮鷙愼 です。
,亙源通りです。大抵の場合は"1ヶ月いくら"です。
△録雄倏標にプラス取材費や編集人件費等々の、ある程度のグロスの仕事の請負の形。
は番組をまるまるプロダクションで制作する方法です。
い陵縮鷙愼方式は少し複雑で、課外授業はこの形での制作です。
「課外授業」の場合ですと、上記の3社が制作委員会を作り、出資します。その制作した番組の放映権をNHKに売り、放映権料を出資比率で分配します。実際の制作はオルタスジャパンが担当し、制作費が制作委員会から支払われます。著作権は3社で持ちます。ですから、放送後は極端に言えば、他の民放局に売っても良いわけで、全ての権利は制作委員会にあるわけです。
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2005年10月27日
菊地信義が装丁した『仮面の家』との奇妙な出逢い
昨日アップしたエントリーのつづきとして、菊地信義の"装丁力"を実感した体験を記しておきたい。
1993年のある日、都内に住んでいたわたしは、家から徒歩10分の地点に建つ西武百貨店内にある書籍売り場・リブロの横を通りがかった。池袋店ほど大規模ではないので、リブロの売り場面積は小さい。時間がなかったが、通路側にある新刊コーナーを横目にして、本好きなわたしとしては無視するわけにはいかず、立ち止まって新刊書を眺めた。そのときに眼に飛びこんできたのが、『仮面の家』だった。
急いでいたので、手にとることもなく通りすぎたのだが、その本がわたしを呼ぶのである。わたしはあともどりし、その本の中身もみずに購入した。それほど時間がなかった。
知らない本を中身もみずに買うなんて、ふつうは考えられない。
衝撃的な内容だった。
1992年6月、高校教師夫婦が家庭内暴力をくり返す23歳の息子を刺殺した事件に迫ったルポルタージュである。
本の帯にある〈健全とみられる家族に潜む異常性〉という大きな文字が、突きささる。
〈装丁=菊地信義〉とあるのをみて、納得した。
著者の横川和夫氏の筆力に感心した。新聞記者らしい文章だが、好きな文体だ。
いまでも不思議なのだが、世間の耳目をあつめたこの事件について、わたしはまったく無知だった。隠遁生活をしていたわけではないのに、いったいなにをしていたのだろう。
昨日のエントリーを書いていて、なぜわたしが『仮面の家』の表紙にそこまで惹かれたかについて、考えさせられた。菊地信義が授業で訴えていた装丁の本質に、わたしの奇妙な体験がぴったりはまっていたことに、あらためて驚かされた。
『仮面の家』の表紙について、気づいた点をあげる。
”住罎じつにシンプルで文字のみ。画がない。
∋羲舛忘蚤腓瞭耽Гある。ざら紙のような感覚が、粗末な家というイメージを喚起する。
C秧Г琉貎Г里濟藩僉この茶色が視覚的に利いている。
黒だと強すぎる。"潜む"というイメージが、この茶色にこめられているような気がする。
ぁ匆礁未硫函咾箸いκ源が白ぬきで、楕円形に囲まれているので、存在をアピールする。
ド宿住罎両緝半分弱に文字があり、帯をはずすと、下部に不自然な空白があるので、アンバランス。
(そのせいか、わたしは読むまえに帯を捨てるのだが、この本については帯を捨てられない)
ξ表紙は、上部に小さくコードと定価が入り、あとは空白。
菊地信義は「課外授業」のなかで、3分限定とした。わたしは一瞬のうちに『仮面の家』の表紙に惹かれたのだから、われながら驚いてしまう。ちなみにこの速度は、ひとめ惚れの速度と同じである。
当時、周囲の人間たちに『仮面の家』を読むよう、やたらとすすめたおぼえがある。
で、この話には後日談がある。
『仮面の家』と出逢った翌年の4月、わたしは都内から事件の舞台となったU市に転居したのである。まったく予測していなかった。
娘はU市の中学校で、転入生として入学式を迎えた。
そこで体験したこと。
〔爾汎韻乎羈悗諒欷郤圓里覆で、とても親しくなった女性がいて、彼女の夫が消防署に務めていた。
『仮面の家』の父親が息子を刺殺したあと警察に通報したとき、現場にかけつけた救急隊員とは同僚。
そのときのなまなましい証言を聴かされた。
¬爾汎韻乎羈惺擦諒欷郤圓良廚裁判官だったので、『仮面の家』の事件の裁判官とは同僚。
『仮面の家』の父親の誠実な人柄について聴いた話を、聴かされた。
L爾涼1のときの担任の先生(オリンピックの短距離走の選手)が家庭訪問にきた。
わたしが『仮面の家』に触れると、
「父親も刺殺された息子もよく知っているので、ヘンな書きかたをしているといやなので、読まなかった」
と複雑な顔でいわれた。
ぬ爾涼羈惺擦法∋瓢Δ気譴紳子が通っていた中学校で、彼を教えた先生がいた。
土地には記憶が染みついているというけれど、その一端を感じさせられたのである。
なお、わたしが『仮面の家』をすすめた知人(都内在住)が、当時、地域の中学校で著者・横川和夫氏の講演を聴いたという。
横川氏には4人の子どもがあり、4人ともドロップアウトしたそうである。
『仮面の家』の刊行時、1937年生まれの横川氏は56歳。自己の体験が、この本に不思議な切迫感と牽引力をもたらしたのであろうか。
1993年のある日、都内に住んでいたわたしは、家から徒歩10分の地点に建つ西武百貨店内にある書籍売り場・リブロの横を通りがかった。池袋店ほど大規模ではないので、リブロの売り場面積は小さい。時間がなかったが、通路側にある新刊コーナーを横目にして、本好きなわたしとしては無視するわけにはいかず、立ち止まって新刊書を眺めた。そのときに眼に飛びこんできたのが、『仮面の家』だった。
急いでいたので、手にとることもなく通りすぎたのだが、その本がわたしを呼ぶのである。わたしはあともどりし、その本の中身もみずに購入した。それほど時間がなかった。
知らない本を中身もみずに買うなんて、ふつうは考えられない。
衝撃的な内容だった。
1992年6月、高校教師夫婦が家庭内暴力をくり返す23歳の息子を刺殺した事件に迫ったルポルタージュである。
本の帯にある〈健全とみられる家族に潜む異常性〉という大きな文字が、突きささる。
〈装丁=菊地信義〉とあるのをみて、納得した。
著者の横川和夫氏の筆力に感心した。新聞記者らしい文章だが、好きな文体だ。
いまでも不思議なのだが、世間の耳目をあつめたこの事件について、わたしはまったく無知だった。隠遁生活をしていたわけではないのに、いったいなにをしていたのだろう。
昨日のエントリーを書いていて、なぜわたしが『仮面の家』の表紙にそこまで惹かれたかについて、考えさせられた。菊地信義が授業で訴えていた装丁の本質に、わたしの奇妙な体験がぴったりはまっていたことに、あらためて驚かされた。
『仮面の家』の表紙について、気づいた点をあげる。
”住罎じつにシンプルで文字のみ。画がない。
∋羲舛忘蚤腓瞭耽Гある。ざら紙のような感覚が、粗末な家というイメージを喚起する。
C秧Г琉貎Г里濟藩僉この茶色が視覚的に利いている。
黒だと強すぎる。"潜む"というイメージが、この茶色にこめられているような気がする。
ぁ匆礁未硫函咾箸いκ源が白ぬきで、楕円形に囲まれているので、存在をアピールする。
ド宿住罎両緝半分弱に文字があり、帯をはずすと、下部に不自然な空白があるので、アンバランス。
(そのせいか、わたしは読むまえに帯を捨てるのだが、この本については帯を捨てられない)
ξ表紙は、上部に小さくコードと定価が入り、あとは空白。
菊地信義は「課外授業」のなかで、3分限定とした。わたしは一瞬のうちに『仮面の家』の表紙に惹かれたのだから、われながら驚いてしまう。ちなみにこの速度は、ひとめ惚れの速度と同じである。
当時、周囲の人間たちに『仮面の家』を読むよう、やたらとすすめたおぼえがある。
で、この話には後日談がある。
『仮面の家』と出逢った翌年の4月、わたしは都内から事件の舞台となったU市に転居したのである。まったく予測していなかった。
娘はU市の中学校で、転入生として入学式を迎えた。
そこで体験したこと。
〔爾汎韻乎羈悗諒欷郤圓里覆で、とても親しくなった女性がいて、彼女の夫が消防署に務めていた。
『仮面の家』の父親が息子を刺殺したあと警察に通報したとき、現場にかけつけた救急隊員とは同僚。
そのときのなまなましい証言を聴かされた。
¬爾汎韻乎羈惺擦諒欷郤圓良廚裁判官だったので、『仮面の家』の事件の裁判官とは同僚。
『仮面の家』の父親の誠実な人柄について聴いた話を、聴かされた。
L爾涼1のときの担任の先生(オリンピックの短距離走の選手)が家庭訪問にきた。
わたしが『仮面の家』に触れると、
「父親も刺殺された息子もよく知っているので、ヘンな書きかたをしているといやなので、読まなかった」
と複雑な顔でいわれた。
ぬ爾涼羈惺擦法∋瓢Δ気譴紳子が通っていた中学校で、彼を教えた先生がいた。
土地には記憶が染みついているというけれど、その一端を感じさせられたのである。
なお、わたしが『仮面の家』をすすめた知人(都内在住)が、当時、地域の中学校で著者・横川和夫氏の講演を聴いたという。
横川氏には4人の子どもがあり、4人ともドロップアウトしたそうである。
『仮面の家』の刊行時、1937年生まれの横川氏は56歳。自己の体験が、この本に不思議な切迫感と牽引力をもたらしたのであろうか。
2005年10月26日
菊地信義(装丁家)編「課外授業ようこそ先輩」
TVをリアルタイムで観る余裕がないので、録画に頼っているのだが、10/19に放映されたNHK総合の「課外授業ようこそ先輩」はリアルタイムで観た。授業をするのが装丁家・菊地信義だというのも大きいが、なによりも小田昭太郎氏が率いる「オルタスジャパン」が企画・制作した番組だったからである。
以下、感じたことを記してみる。
菊地氏の顔をみたのははじめてだが、母校の小学校を訪ねたせいか、ひとと接するときにはそういう表情なのか、終始笑顔をたたえていた。しかし顔がアップになると、精巧なカメラレンズのような眼には、孤独感と狂気の気配が漂う。吸いこまれるような眼というより、深遠な海という感じで近寄りがたい。地面にひとりで立っている男。どこにも凭りかかっていないのである。それらは生来の資質なのだろう。テンションの高いところも含めて。
わたしが菊地氏の装丁した本から受けていたイメージは、天才肌でひとを寄せつけない、孤絶の世界をもつ男。以前に、「文藝春秋」だったかに掲載されたエッセイを読んだとき、そのイメージと同じだった。
菊地氏がしーんとした部屋で、装丁するまえの作業として、原稿を読む映像が挿入されていたが、それはわたしがイメージしていた顔に合致する。獲物に挑む野生の虎のような形相。TVカメラのまえでこれだけの殺気を感じさせるのだから、実際の仕事場では……と想像すると怖ろしい。
菊地氏の発言。
「異次元にきたような感じ」
「徹底的に原稿を読むことでデザインが立ちあがる」
さて、授業に入ろう。
まず「昨夜、眠れましたか?」というスタッフらしい人間の質問(文字と音声入り)から入ったのが、異様だった。
「顔をみたらわかるでしょう。眠れませんでした」
と、菊地氏は笑顔で答える。
これだけのやりとりだが、スタッフと菊地氏の事前の話しあいが想像される。菊地氏が母校で授業することに、緊張感をもって挑んだことが伝わってくる。しかしその理由については述べられない。
菊地氏は教室で、自分の装丁した本を並べた机のまえに立ち、子どもたちを迎え入れる。子どもたちが待つ教室に先輩が入ってゆく、といういつもの構図と逆であるのがおもしろい。
そこには明確な意図があり、菊地氏は「菊地書店」だといいながら、子どもたちに「いいなあと思う表紙の本」を選ばせる。しかも3分という限定で。要するに、書店でひとが本を眺めたときと同じシチュエーションである。パッとみてひとの気を惹く表紙の本はどれかという実験。
選んだ本を手にした子どもにその理由を訊き、子どもたちが自分の言葉で説明できることに、菊地氏は感動する。
装丁が本の中身をアピールする存在であるということが、どれだけ子どもたちのこころに響いただろうか。おそらく数年後に、より強く実感するのだろう。
菊地氏は、装丁した金原ひとみの小説を例にとり、子どもたちに感想を訊きながら、装丁とはどういうものかを、子どもにもわかる言葉で説明してゆく。常にキーポイントを示すのが、菊地氏の特色だ。
装丁するために必要なこと。
■小説のなかに潜んでいる色・紙のイメージを読みとる。
■イメージする力を鍛える。
そのうえで、谷川俊太郎の「生きる」という詩の頭の7行からイメージして装丁する、という課題を子どもたちにさしだす。
そしてこうアドバイスする。
・谷川さんが用意してくれた鏡に自分が写る。自分自身の1行をみつけてください。
・自分のつくりたい表紙をイメージする。
・自分と話をする。自分の気もちを深くみつめなおす。
こうして子どもたちの表紙づくりがはじまる。
作業途中で、菊地氏が待つ部屋を子どもが個別に訪ね、着想を話したあと、アドバイスを受ける。一対一の空間を設定したところに秘密があると思う。作業する教室を用いない。子どもたちは、緊張から解かれた感じで部屋を去る。その背中から〈やる気〉がうっすらと立ちのぼる。
作業がはじまった教室で、ひとりの男の子が、みんなから離れた席でぽつんと座っている。イメージがわいてこないことに苦悩して、べそをかいている。
菊地氏は彼に近づき、ハンカチのようなものをとりだし、彼といっしょに鼻をかむ。泣くに泣けない彼の背中を押すという感じ。言葉による励ましではなく、ただ寄りそう。そのままでいいんだよ、という暗黙のメッセージ。なんでもない情景だが、彼の内部でなにかが起こることを予感させる。
菊地氏のアドバイスを受けながら、ようやく彼なりの表紙ができあがる。
このあとだったと記憶しているのだが、菊地氏はカメラ(スタッフ)にむかっていう。
「アイデアがでなかったというのも、ひとつの答え。それを認めてあげる」
完璧な演出ではないか、と思えるくらいはまっている。
正直なところ、この発言があったほうがよいのかどうか、わたしは迷う。
余韻として視聴者に伝えるのは、むずかしいだろうし。
最後に、ひとりひとりがみんなのまえで作品を発表する場面で、菊地氏は立ち往生していた男の子の作品を、手放しで褒める。そこに虚飾はなく、「今度自分もそのアイデアを使おうかな」などという。それはタイトルのない表紙なのである。
発表したあとの、(苦しんで作品をつくった)男の子の笑顔が印象的だった。
装丁するという作業を通して、彼の内部でなにかが変容した。自信がついた、という感じを受けた。
「変われ」というメッセージは、コンプレックスを増長させるだけだ。
他者の肯定的な視線がこころの核心に触れたとき、ひとは動きだすのかもしれない。
なにごとも「あとしまつ」が大切なのだが、菊地信義はそれを忘れない。授業のまとめとして、こう強調する。
「自分のなかに潜んでいる自分を読みだすのが、生きるということ。装丁するということ。イメージをかたちにすること」
2日間にわたる授業を無事終了したあとの、解放感と満足感に満ちた菊地信義の笑顔がこころに残った。この授業でなにかを発見したかのような、強靱な精神が伝わってきた。
なお、全体的にナレーションの声質が、菊地氏の醸しだす空間に対して違和感があり、耳ざわりだった。
*
「課外授業」という番組を以前から興味深く観ていたのは、わたしが「教える」ということについて、子どものころから引っかかっているせいかもしれない。感心しない教師が多かったなあと。唯一尊敬できたのは、中学校の国語教師(女性)のみ。
筑摩書房のPR誌「ちくま」(2002年10月号)に掲載された「"旅芸人の一座"から見た教室―坂上達夫氏に聞く」はとてもおもしろかった。
坂上達夫(さかうえ・たつお)氏は、『課外授業 ようこそ先輩』の企画段階から携わってきたNHK教育番組部チーフ・プロデューサー。1955年生まれ。
以下、重松清(作家)のインタビューに答えた坂上氏の発言から引く。(抜粋)
“崛箸箸靴萄任眛颪靴い里蓮◆峩気┐襪劼箸閥気┐蕕譴襪劼箸隆愀言をどうやってつくるか」ということなんです。その点、『ようこそ先輩』の「故郷の母校に帰る」という設定は、われながら秀逸といいますか(笑)、「先生」をやるひとにもそれだけでモチベーションの高まりがあるんですね。
⊂なくとも番組として考えた場合、成功するかどうかはむしろ演出サイドの問題になるでしょうね。「先生」のなにをどう引き出して子どもたちに伝えたいかということを、収録前にしっかり考えておかないと。「先生」の名前に寄りかかって「このひとが教壇に立てばとにかく番組にはなるから」と、事前の準備をわれわれが怠ってしまうと、授業はてきめんに砂を噛むようなものになってしまいます。
3本作家の五味太郎さんに出演していただいたとき、「だいたい、嫌いなことなんて、いくらがんばったってうまくなるわけないだろ」と言い放っちゃった。これは、一般的な学校の常識では出てこない考え方ですよね。でも、私は、そこに込められているメッセージはすごく大事なことだと思いました。ひとがひとであるということは、なんでもバランス良くこなすことではなくて、むしろ他のひとと違う自分を見つけて、それを身につけるということなんだろうな、と。「現場」の先生方からはなにか言われるかもしれないけれど、この部分は絶対に放送で出したい、と思いました。事実、「現場」の評判はあまりよくなかったらしいのですが(笑)。
ず能的な編集で、どの子も必ず画面の中に登場するようにしています。ただ、授業で課題を与えられて、それに向かって行動している姿を撮るわけですから、そのなかでやっぱり何度も映る子が出てしまう、という言い方以外にないですね。目立つ、目立たないの問題ではないんです。
イ發舛蹐鵝△錣譴錣譴發泙辰燭準備をせずに教室に入るわけではありません。事前に学校に行って子どもたちにアンケートをとったり写真を撮ったりして、収録で教室に入った段階では、カメラマンも含めて全員、子どもたちの顔と名前は一致しています。十把一絡げではなくて、自分が自分として認識されていることの大事さなんですよね。
Δ錣譴錣譴糧崛箸痢崟萓犬蓮一生に一度、自分のやってきたことすべてをかけて子どもに語りかける。一回だけだから、できるんです。しかも、子どもたちにとっては、毎日毎日同じ調子で授業がある中で、知らないひとがやってきて、ふだんと違う面白いことをやってくれる……目が輝かないはずがないんですよ。(プロの先生と)比べることじたいが、ほんとうはナンセンスだと思いますね。
Г錣譴錣譴教室に行くことになんらかの効用があるんだとしたら、それは、だらだらした日常に区切りをつける、ということかもしれません。そのときに、"学ぶ意味"みたいなことを多少でも残していければいいのかなあ。われわれの正直な意識としては、それ以上でも以下でもないんですよね。
┰什仭宛紊了劼匹發燭舛旅ゴ饋瓦辰董∈嚢發世隼廚Δ鵑任垢茵(中学生だと)遅いというより、年齢が上がって、相手に理解力があると思うと、「先生」のほうも馴れ合いになって緊張感がなくなってしまう、という不安がありますね。「わかるでしょ」と言った瞬間に、止まってしまう。それをどこまで噛み砕いて相手に伝えていくかという必死さを、やはり見せてほしいわけですから。
われわれがターゲットとしている視聴者は、子どもたちではなく、親なんですよ。一流のおとながどう生きているかを、われわれ普通のおとなが見ることに意味がある。それを見せる手だてとして、学校の教室を借りちゃったわけです。その証拠に、『ようこそ先輩』は、最初の一年は夜十時からの放送だったんです。
もっと個人的な動機にひきつけて言えば、私は一九五五年生まれなんですが、われわれ世代が自分自身を問う番組だったんですよ、そもそもは。子どものことをいろいろ論じているけれど、突き詰めていくと、おとなを再教育するほうが先かなあ、と。「『ようこそ先輩』は、おとなの頭をリストラする番組」というのが、私の持論ですから。
■坂上氏の発言を、末尾にある重松清のコメントより引く。(とても気に入ったので)
《インタビューの申し込みをしたときも、坂上さんは困惑気味に「私はテレビ番組をつくっているだけですから、私なんかに意見を求めちゃいけないんじゃないでしょうか」と答えるだけだった》
※検索してみたら、この坂上達夫氏へのインタビュー記事は、 『教育とはなんだ』―学校の見方が変わる18のヒント (重松清編著・筑摩書房)に、「ちくま」掲載時と同じタイトルで収められている。
「課外授業 ようこそ先輩」は、NHKの看板番組のひとつでもあるので、NHKが制作していると思いこんでいた。が、そうではないことを、「オルタスジャパン」のHPから知った。調べてみると、ほかの制作会社も手がけているようだ。
番組のラストで制作会社名を明記してほしい。著作権はどうなっているのか。NHKグループの「NHKエンタープライズ21」のみ明記しているのは、納得できない。
〔追記 2005/10/27〕
上記の文末でえらそうに書いたので、いやな予感がして、さきほど録画したビデオテープで確認しました。
ラストに「制作・著作 NHKエンタープライズ オルタスジャパン」というテロップが流れたのをみてドキッとしました。訂正してお詫びします。ほんとうに恥ずかしい!
また「NHKエンタープライズ21」が、「NHKソフトウェア」と平成17年4月1日に合併し、「NHKエンタープライズ」になっていたことも知りませんでした。
以下、感じたことを記してみる。
菊地氏の顔をみたのははじめてだが、母校の小学校を訪ねたせいか、ひとと接するときにはそういう表情なのか、終始笑顔をたたえていた。しかし顔がアップになると、精巧なカメラレンズのような眼には、孤独感と狂気の気配が漂う。吸いこまれるような眼というより、深遠な海という感じで近寄りがたい。地面にひとりで立っている男。どこにも凭りかかっていないのである。それらは生来の資質なのだろう。テンションの高いところも含めて。
わたしが菊地氏の装丁した本から受けていたイメージは、天才肌でひとを寄せつけない、孤絶の世界をもつ男。以前に、「文藝春秋」だったかに掲載されたエッセイを読んだとき、そのイメージと同じだった。
菊地氏がしーんとした部屋で、装丁するまえの作業として、原稿を読む映像が挿入されていたが、それはわたしがイメージしていた顔に合致する。獲物に挑む野生の虎のような形相。TVカメラのまえでこれだけの殺気を感じさせるのだから、実際の仕事場では……と想像すると怖ろしい。
菊地氏の発言。
「異次元にきたような感じ」
「徹底的に原稿を読むことでデザインが立ちあがる」
さて、授業に入ろう。
まず「昨夜、眠れましたか?」というスタッフらしい人間の質問(文字と音声入り)から入ったのが、異様だった。
「顔をみたらわかるでしょう。眠れませんでした」
と、菊地氏は笑顔で答える。
これだけのやりとりだが、スタッフと菊地氏の事前の話しあいが想像される。菊地氏が母校で授業することに、緊張感をもって挑んだことが伝わってくる。しかしその理由については述べられない。
菊地氏は教室で、自分の装丁した本を並べた机のまえに立ち、子どもたちを迎え入れる。子どもたちが待つ教室に先輩が入ってゆく、といういつもの構図と逆であるのがおもしろい。
そこには明確な意図があり、菊地氏は「菊地書店」だといいながら、子どもたちに「いいなあと思う表紙の本」を選ばせる。しかも3分という限定で。要するに、書店でひとが本を眺めたときと同じシチュエーションである。パッとみてひとの気を惹く表紙の本はどれかという実験。
選んだ本を手にした子どもにその理由を訊き、子どもたちが自分の言葉で説明できることに、菊地氏は感動する。
装丁が本の中身をアピールする存在であるということが、どれだけ子どもたちのこころに響いただろうか。おそらく数年後に、より強く実感するのだろう。
菊地氏は、装丁した金原ひとみの小説を例にとり、子どもたちに感想を訊きながら、装丁とはどういうものかを、子どもにもわかる言葉で説明してゆく。常にキーポイントを示すのが、菊地氏の特色だ。
装丁するために必要なこと。
■小説のなかに潜んでいる色・紙のイメージを読みとる。
■イメージする力を鍛える。
そのうえで、谷川俊太郎の「生きる」という詩の頭の7行からイメージして装丁する、という課題を子どもたちにさしだす。
そしてこうアドバイスする。
・谷川さんが用意してくれた鏡に自分が写る。自分自身の1行をみつけてください。
・自分のつくりたい表紙をイメージする。
・自分と話をする。自分の気もちを深くみつめなおす。
こうして子どもたちの表紙づくりがはじまる。
作業途中で、菊地氏が待つ部屋を子どもが個別に訪ね、着想を話したあと、アドバイスを受ける。一対一の空間を設定したところに秘密があると思う。作業する教室を用いない。子どもたちは、緊張から解かれた感じで部屋を去る。その背中から〈やる気〉がうっすらと立ちのぼる。
作業がはじまった教室で、ひとりの男の子が、みんなから離れた席でぽつんと座っている。イメージがわいてこないことに苦悩して、べそをかいている。
菊地氏は彼に近づき、ハンカチのようなものをとりだし、彼といっしょに鼻をかむ。泣くに泣けない彼の背中を押すという感じ。言葉による励ましではなく、ただ寄りそう。そのままでいいんだよ、という暗黙のメッセージ。なんでもない情景だが、彼の内部でなにかが起こることを予感させる。
菊地氏のアドバイスを受けながら、ようやく彼なりの表紙ができあがる。
このあとだったと記憶しているのだが、菊地氏はカメラ(スタッフ)にむかっていう。
「アイデアがでなかったというのも、ひとつの答え。それを認めてあげる」
完璧な演出ではないか、と思えるくらいはまっている。
正直なところ、この発言があったほうがよいのかどうか、わたしは迷う。
余韻として視聴者に伝えるのは、むずかしいだろうし。
最後に、ひとりひとりがみんなのまえで作品を発表する場面で、菊地氏は立ち往生していた男の子の作品を、手放しで褒める。そこに虚飾はなく、「今度自分もそのアイデアを使おうかな」などという。それはタイトルのない表紙なのである。
発表したあとの、(苦しんで作品をつくった)男の子の笑顔が印象的だった。
装丁するという作業を通して、彼の内部でなにかが変容した。自信がついた、という感じを受けた。
「変われ」というメッセージは、コンプレックスを増長させるだけだ。
他者の肯定的な視線がこころの核心に触れたとき、ひとは動きだすのかもしれない。
なにごとも「あとしまつ」が大切なのだが、菊地信義はそれを忘れない。授業のまとめとして、こう強調する。
「自分のなかに潜んでいる自分を読みだすのが、生きるということ。装丁するということ。イメージをかたちにすること」
2日間にわたる授業を無事終了したあとの、解放感と満足感に満ちた菊地信義の笑顔がこころに残った。この授業でなにかを発見したかのような、強靱な精神が伝わってきた。
なお、全体的にナレーションの声質が、菊地氏の醸しだす空間に対して違和感があり、耳ざわりだった。
*
「課外授業」という番組を以前から興味深く観ていたのは、わたしが「教える」ということについて、子どものころから引っかかっているせいかもしれない。感心しない教師が多かったなあと。唯一尊敬できたのは、中学校の国語教師(女性)のみ。
筑摩書房のPR誌「ちくま」(2002年10月号)に掲載された「"旅芸人の一座"から見た教室―坂上達夫氏に聞く」はとてもおもしろかった。
坂上達夫(さかうえ・たつお)氏は、『課外授業 ようこそ先輩』の企画段階から携わってきたNHK教育番組部チーフ・プロデューサー。1955年生まれ。
以下、重松清(作家)のインタビューに答えた坂上氏の発言から引く。(抜粋)
“崛箸箸靴萄任眛颪靴い里蓮◆峩気┐襪劼箸閥気┐蕕譴襪劼箸隆愀言をどうやってつくるか」ということなんです。その点、『ようこそ先輩』の「故郷の母校に帰る」という設定は、われながら秀逸といいますか(笑)、「先生」をやるひとにもそれだけでモチベーションの高まりがあるんですね。
⊂なくとも番組として考えた場合、成功するかどうかはむしろ演出サイドの問題になるでしょうね。「先生」のなにをどう引き出して子どもたちに伝えたいかということを、収録前にしっかり考えておかないと。「先生」の名前に寄りかかって「このひとが教壇に立てばとにかく番組にはなるから」と、事前の準備をわれわれが怠ってしまうと、授業はてきめんに砂を噛むようなものになってしまいます。
3本作家の五味太郎さんに出演していただいたとき、「だいたい、嫌いなことなんて、いくらがんばったってうまくなるわけないだろ」と言い放っちゃった。これは、一般的な学校の常識では出てこない考え方ですよね。でも、私は、そこに込められているメッセージはすごく大事なことだと思いました。ひとがひとであるということは、なんでもバランス良くこなすことではなくて、むしろ他のひとと違う自分を見つけて、それを身につけるということなんだろうな、と。「現場」の先生方からはなにか言われるかもしれないけれど、この部分は絶対に放送で出したい、と思いました。事実、「現場」の評判はあまりよくなかったらしいのですが(笑)。
ず能的な編集で、どの子も必ず画面の中に登場するようにしています。ただ、授業で課題を与えられて、それに向かって行動している姿を撮るわけですから、そのなかでやっぱり何度も映る子が出てしまう、という言い方以外にないですね。目立つ、目立たないの問題ではないんです。
イ發舛蹐鵝△錣譴錣譴發泙辰燭準備をせずに教室に入るわけではありません。事前に学校に行って子どもたちにアンケートをとったり写真を撮ったりして、収録で教室に入った段階では、カメラマンも含めて全員、子どもたちの顔と名前は一致しています。十把一絡げではなくて、自分が自分として認識されていることの大事さなんですよね。
Δ錣譴錣譴糧崛箸痢崟萓犬蓮一生に一度、自分のやってきたことすべてをかけて子どもに語りかける。一回だけだから、できるんです。しかも、子どもたちにとっては、毎日毎日同じ調子で授業がある中で、知らないひとがやってきて、ふだんと違う面白いことをやってくれる……目が輝かないはずがないんですよ。(プロの先生と)比べることじたいが、ほんとうはナンセンスだと思いますね。
Г錣譴錣譴教室に行くことになんらかの効用があるんだとしたら、それは、だらだらした日常に区切りをつける、ということかもしれません。そのときに、"学ぶ意味"みたいなことを多少でも残していければいいのかなあ。われわれの正直な意識としては、それ以上でも以下でもないんですよね。
┰什仭宛紊了劼匹發燭舛旅ゴ饋瓦辰董∈嚢發世隼廚Δ鵑任垢茵(中学生だと)遅いというより、年齢が上がって、相手に理解力があると思うと、「先生」のほうも馴れ合いになって緊張感がなくなってしまう、という不安がありますね。「わかるでしょ」と言った瞬間に、止まってしまう。それをどこまで噛み砕いて相手に伝えていくかという必死さを、やはり見せてほしいわけですから。
われわれがターゲットとしている視聴者は、子どもたちではなく、親なんですよ。一流のおとながどう生きているかを、われわれ普通のおとなが見ることに意味がある。それを見せる手だてとして、学校の教室を借りちゃったわけです。その証拠に、『ようこそ先輩』は、最初の一年は夜十時からの放送だったんです。
もっと個人的な動機にひきつけて言えば、私は一九五五年生まれなんですが、われわれ世代が自分自身を問う番組だったんですよ、そもそもは。子どものことをいろいろ論じているけれど、突き詰めていくと、おとなを再教育するほうが先かなあ、と。「『ようこそ先輩』は、おとなの頭をリストラする番組」というのが、私の持論ですから。
■坂上氏の発言を、末尾にある重松清のコメントより引く。(とても気に入ったので)
《インタビューの申し込みをしたときも、坂上さんは困惑気味に「私はテレビ番組をつくっているだけですから、私なんかに意見を求めちゃいけないんじゃないでしょうか」と答えるだけだった》
※検索してみたら、この坂上達夫氏へのインタビュー記事は、 『教育とはなんだ』―学校の見方が変わる18のヒント (重松清編著・筑摩書房)に、「ちくま」掲載時と同じタイトルで収められている。
「課外授業 ようこそ先輩」は、NHKの看板番組のひとつでもあるので、NHKが制作していると思いこんでいた。が、そうではないことを、「オルタスジャパン」のHPから知った。調べてみると、ほかの制作会社も手がけているようだ。
番組のラストで制作会社名を明記してほしい。著作権はどうなっているのか。NHKグループの「NHKエンタープライズ21」のみ明記しているのは、納得できない。
〔追記 2005/10/27〕
上記の文末でえらそうに書いたので、いやな予感がして、さきほど録画したビデオテープで確認しました。
ラストに「制作・著作 NHKエンタープライズ オルタスジャパン」というテロップが流れたのをみてドキッとしました。訂正してお詫びします。ほんとうに恥ずかしい!
また「NHKエンタープライズ21」が、「NHKソフトウェア」と平成17年4月1日に合併し、「NHKエンタープライズ」になっていたことも知りませんでした。
2005年10月24日
富永太郎の詩篇「影絵」がよびさます心象風景
当blogにむかうときのわたしの心象風景は、詩篇「影絵」から拡がっているので、その詩篇をおいておきたいと思っていた。
はからずも小田昭太郎版の心象風景が加わったのを記念し、ここにおくことにする。
それはまた、富永太郎について蜿蜒とやりとりを重ねた小向氏と、その空間の提供者であるサイト管理者への感謝の念をこめて。
上記サイトの掲示板が、当blogをはじめることになった直接的要因である。
そんなわけで、どこまでもネット上を彷徨しているのである。
……………………………………………………………
影絵
半缺けの日本(にっぽん)の月の下を、
一寸法師の夫婦が急ぐ。
二人ながらに 思ひつめたる前かゞみ、
さても毒々しい二つの鼻のシルヱツト。
生(なま)白い河岸をまだらに染め抜いた、
柳並木の影を踏んで、
せかせかと――何に追はれる、
揃はぬがちのその足どりは?
手をひきあつた影の道化は
あれもうそこな遠見の橋の
黒い擬宝珠の下を通る。
冷飯草履の地を掃く音は
もはや聞えぬ。
半缺の月は、今宵、柳との
逢引の時刻(とき)を忘れてゐる。
※大正11年(1922)3月18日、「一高受験の夜」と注した詩篇。太郎、21歳。
【「影絵」の背景】
大正8年(1919)
3月、府立第一中学校を卒業。
9月、仙台の第二高等学校(現東北大学教養部)理科乙類(ドイツ語)に入学する。
大正10年(1921)
10月、仙台の医師の妻H・Sと恋愛関係がはじまり、2ヵ月後に破局。姦通罪のある時代ゆえ(姦通罪に該当する意味での姦通はなかった)、H・Sの母親は、太郎に二高退学を要求。
(太郎の両親は、太郎とH・Sを結婚させる意思があったが、H・Sが恋愛関係を否定)
12月15日の朝、正式に二高を中退した太郎は、H・Sとの恋愛事件のために来仙した両親とともに、東京代々木富ヶ谷の家に到着。夜行なので、仙台を離れたのは14日。太郎は15日付けの書簡を正岡忠三郎宛に送っている。
(忠三郎は、太郎と同時に二高理科甲類入学。3月末、ふたりとも落第。この頃よりフランス文学を読み、親しくなる)
大正11年(1922)
3月、両親からさんざん説かれて一高の仏法を受験するが、失敗。
4月、東京外国語学校仏語科入学。
12月15日付け、正岡忠三郎宛書簡で、太郎は記す。
「きのふは俺の一周忌だつた。夜中椅子に腰かけたばこを吸つてばかりゐた。俺にはふさはしい一周忌の法要かも知れない。酒が飲みたい」
大正12年(1923)
3月、出席日数不足のため落第。以後、実質的に休学状態。
はからずも小田昭太郎版の心象風景が加わったのを記念し、ここにおくことにする。
それはまた、富永太郎について蜿蜒とやりとりを重ねた小向氏と、その空間の提供者であるサイト管理者への感謝の念をこめて。
上記サイトの掲示板が、当blogをはじめることになった直接的要因である。
そんなわけで、どこまでもネット上を彷徨しているのである。
……………………………………………………………
影絵
半缺けの日本(にっぽん)の月の下を、
一寸法師の夫婦が急ぐ。
二人ながらに 思ひつめたる前かゞみ、
さても毒々しい二つの鼻のシルヱツト。
生(なま)白い河岸をまだらに染め抜いた、
柳並木の影を踏んで、
せかせかと――何に追はれる、
揃はぬがちのその足どりは?
手をひきあつた影の道化は
あれもうそこな遠見の橋の
黒い擬宝珠の下を通る。
冷飯草履の地を掃く音は
もはや聞えぬ。
半缺の月は、今宵、柳との
逢引の時刻(とき)を忘れてゐる。
※大正11年(1922)3月18日、「一高受験の夜」と注した詩篇。太郎、21歳。
【「影絵」の背景】
大正8年(1919)
3月、府立第一中学校を卒業。
9月、仙台の第二高等学校(現東北大学教養部)理科乙類(ドイツ語)に入学する。
大正10年(1921)
10月、仙台の医師の妻H・Sと恋愛関係がはじまり、2ヵ月後に破局。姦通罪のある時代ゆえ(姦通罪に該当する意味での姦通はなかった)、H・Sの母親は、太郎に二高退学を要求。
(太郎の両親は、太郎とH・Sを結婚させる意思があったが、H・Sが恋愛関係を否定)
12月15日の朝、正式に二高を中退した太郎は、H・Sとの恋愛事件のために来仙した両親とともに、東京代々木富ヶ谷の家に到着。夜行なので、仙台を離れたのは14日。太郎は15日付けの書簡を正岡忠三郎宛に送っている。
(忠三郎は、太郎と同時に二高理科甲類入学。3月末、ふたりとも落第。この頃よりフランス文学を読み、親しくなる)
大正11年(1922)
3月、両親からさんざん説かれて一高の仏法を受験するが、失敗。
4月、東京外国語学校仏語科入学。
12月15日付け、正岡忠三郎宛書簡で、太郎は記す。
「きのふは俺の一周忌だつた。夜中椅子に腰かけたばこを吸つてばかりゐた。俺にはふさはしい一周忌の法要かも知れない。酒が飲みたい」
大正12年(1923)
3月、出席日数不足のため落第。以後、実質的に休学状態。
2005年10月21日
ボクが現在、ディレクターをやめている理由
【昭太郎のひとりごと 1】
何が苦手と言って文章を書くのは本気も本気、掛け値なしに苦手で、それも少数とはいえ不特定多数の人たちの眼に触れる、というのをどう捉えれば良いのかの肌触りが分からない。怖い。
#
まだ現役でディレクターをやっていた時も、数えたことはないけれど、70本ほどのドキュメンタリー番組を作ったかなあ、そのうちの多くにナレーションをつけなかった。ナレーションが下手、という単純な理由からである。演出意図でナレーションを省略するのではなくて、ナレーションが書けないから、結果的に省略した番組が出来上がっていく。
おかしなことに、またそれが面白い、という人たちが現れる。それを演出だと勘違いしてくれる。正直、それは好都合なのでボクは演出だった振りをする。振りをしているうちに、中には上手くはまる番組が生まれることもある。そして、それが評価され喜んでいる自分がいたりする。実際に新聞の批評欄で放送評論家からしばしば取りあげられ、傲慢にもそれが当然だと思うようにもなっていた。
しかし、そういう在り様は必ず行き詰る。それが証拠にボクは現在ディレクターをやめている。
本当にモノを作りたい人たちは、死ぬまでモノ作りをやめる事はない。芸能や伝統工芸、絵画、活字等々の世界は勿論だが、テレビ映像の世界も同様で、ボクの周りにもそんな人たちが沢山いる。
わが社の最年長者は70歳で毎週の企画会議で必ず新しい企画を捻り出してくるし、68歳の女性ディレクターはチェコのプラハを取材したドキュメンタリーを先日、完成させた。昨年末に制作したある地方局の30周年記念番組の演出を75歳の脚本家が行い、それなりの番組に仕上げた。70歳を迎えようというのに、10キロ以上もの重量のあるカメラ機材を担いで走り回っているカメラマンもいる。
それらの人たちに共通しているのは本当に好きだから続けている、ということだ。一作品終われば次にまた作りたいという衝動に突き動かされる。その点が、途中でディレクターであることをやめたボクとの決定的な違いなのだろう。
テレビ界はどんどん若返っている。テレビ局で40歳を過ぎた作り手がディレクターとして現場にいることは難しい。バラエティー番組では、中心で活躍しているのは20歳代で、プロデューサーは30歳代半ばまでである。古びた表現は切り捨てられていく。
テレビとインターネットの境目がなくなろうとしている急激な変化の時代に、その世界で生き抜くことは誰にとっても容易ではない。しかし、この「好き」に年齢はないし、勝てるものはたぶんないんだろうなあ。もしかすると、苦しむことが必定ならば、本当に好きな世界で苦しみ、あがき、滅びていくことを選択できる表現者たちは幸せかも知れない。
ここで思い当たる。ボクはどうしてディレクターをやめたのか。
本気で好きじゃなかっただけ、に過ぎない。それを文章を書くのが苦手だからだ、とこの冒頭でも言い訳している自分がいる。実際、"書く"というのは自分の能力や考えの中味をさらけ出す作業で、もともと映像だって絵画だって彫刻だって、全ての表現とは否応なく作り手を裸にしてしまうものなのだが、自分の才能や中味のなさを最も如実に暴かれてしまうのが文章だ、と思い込んでいる。
自分をありのままの自分として見られることを恐れたことが、実はボクがディレクターという表現者を途中で投げ出した一番の言い訳だった気がする。苦手という言葉は、意識は、そこから逃げ出し自分の殻の中に身を守ろうとする行為のことを表わすための方便を指すのかもしれない。
こんな文章を書いていること自体がいかにも甘ったれている。格好をつけている。臆病だ。プロダクションという表現する場を維持するために恥も外聞もなく、なりふりかまわずやってきた、とそう思っていた。
しかし、一方で格好をつけ、等身大の自分を見せることが出来ていない。裸の自分を晒す勇気を持たない限り、表現者にも、ましてや表現者たちのための場の提供者にもなれないことに、遅まきながら気付き始めている。
実はこれまで、この種の事について考えたことはない。事実、意味のあることとも思えない。ましてやボク以外の人間にとってはどうでも良いことだ。でも、不思議な人物の登場で過去の因果が祟りとなって突然姿を現し、「わたしに向かってひとり言を言え」とおっしゃるので1行だけの言い訳のつもりが、ついつい長くなり、全く考えてもいなかった展開になってしまった。
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何が苦手と言って文章を書くのは本気も本気、掛け値なしに苦手で、それも少数とはいえ不特定多数の人たちの眼に触れる、というのをどう捉えれば良いのかの肌触りが分からない。怖い。
#
まだ現役でディレクターをやっていた時も、数えたことはないけれど、70本ほどのドキュメンタリー番組を作ったかなあ、そのうちの多くにナレーションをつけなかった。ナレーションが下手、という単純な理由からである。演出意図でナレーションを省略するのではなくて、ナレーションが書けないから、結果的に省略した番組が出来上がっていく。
おかしなことに、またそれが面白い、という人たちが現れる。それを演出だと勘違いしてくれる。正直、それは好都合なのでボクは演出だった振りをする。振りをしているうちに、中には上手くはまる番組が生まれることもある。そして、それが評価され喜んでいる自分がいたりする。実際に新聞の批評欄で放送評論家からしばしば取りあげられ、傲慢にもそれが当然だと思うようにもなっていた。
しかし、そういう在り様は必ず行き詰る。それが証拠にボクは現在ディレクターをやめている。
本当にモノを作りたい人たちは、死ぬまでモノ作りをやめる事はない。芸能や伝統工芸、絵画、活字等々の世界は勿論だが、テレビ映像の世界も同様で、ボクの周りにもそんな人たちが沢山いる。
わが社の最年長者は70歳で毎週の企画会議で必ず新しい企画を捻り出してくるし、68歳の女性ディレクターはチェコのプラハを取材したドキュメンタリーを先日、完成させた。昨年末に制作したある地方局の30周年記念番組の演出を75歳の脚本家が行い、それなりの番組に仕上げた。70歳を迎えようというのに、10キロ以上もの重量のあるカメラ機材を担いで走り回っているカメラマンもいる。
それらの人たちに共通しているのは本当に好きだから続けている、ということだ。一作品終われば次にまた作りたいという衝動に突き動かされる。その点が、途中でディレクターであることをやめたボクとの決定的な違いなのだろう。
テレビ界はどんどん若返っている。テレビ局で40歳を過ぎた作り手がディレクターとして現場にいることは難しい。バラエティー番組では、中心で活躍しているのは20歳代で、プロデューサーは30歳代半ばまでである。古びた表現は切り捨てられていく。
テレビとインターネットの境目がなくなろうとしている急激な変化の時代に、その世界で生き抜くことは誰にとっても容易ではない。しかし、この「好き」に年齢はないし、勝てるものはたぶんないんだろうなあ。もしかすると、苦しむことが必定ならば、本当に好きな世界で苦しみ、あがき、滅びていくことを選択できる表現者たちは幸せかも知れない。
ここで思い当たる。ボクはどうしてディレクターをやめたのか。
本気で好きじゃなかっただけ、に過ぎない。それを文章を書くのが苦手だからだ、とこの冒頭でも言い訳している自分がいる。実際、"書く"というのは自分の能力や考えの中味をさらけ出す作業で、もともと映像だって絵画だって彫刻だって、全ての表現とは否応なく作り手を裸にしてしまうものなのだが、自分の才能や中味のなさを最も如実に暴かれてしまうのが文章だ、と思い込んでいる。
自分をありのままの自分として見られることを恐れたことが、実はボクがディレクターという表現者を途中で投げ出した一番の言い訳だった気がする。苦手という言葉は、意識は、そこから逃げ出し自分の殻の中に身を守ろうとする行為のことを表わすための方便を指すのかもしれない。
こんな文章を書いていること自体がいかにも甘ったれている。格好をつけている。臆病だ。プロダクションという表現する場を維持するために恥も外聞もなく、なりふりかまわずやってきた、とそう思っていた。
しかし、一方で格好をつけ、等身大の自分を見せることが出来ていない。裸の自分を晒す勇気を持たない限り、表現者にも、ましてや表現者たちのための場の提供者にもなれないことに、遅まきながら気付き始めている。
実はこれまで、この種の事について考えたことはない。事実、意味のあることとも思えない。ましてやボク以外の人間にとってはどうでも良いことだ。でも、不思議な人物の登場で過去の因果が祟りとなって突然姿を現し、「わたしに向かってひとり言を言え」とおっしゃるので1行だけの言い訳のつもりが、ついつい長くなり、全く考えてもいなかった展開になってしまった。
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2005年10月19日
NHKのDNAとは?
わたしの実感では、10年ほどまえからガクンとNHKの番組の質が落ち、いまだに回復していない。また、NHK教育で文学に関する番組が放映されなくなった。なぜなのだろう。ドキュメンタリー作品がふえたが、質の劣化した番組が多いように思う。ときたま民放ですばらしいドキュメンタリーが放映されるのを観ると、NHKはだいじょうぶかと懸念する。
NHKという組織の内部事情は知らないが、番組制作者の質が低下しているとも思えない。NHK内部で、どのような現象が起きているのだろう。それは、いい番組を観たいという強い願望をもつ視聴者の減少とパラレルなのだろうか。
そんななか、2005/1/13にNHKの内部告発をした長井暁氏(番組制作局教育番組センターのチーフ・プロデューサー)の記者会見は、衝撃的だった。
実名と顔を晒し、職場生命を賭して内部告白した長井氏は、NHKの自己改革を望んでいるのだと、わたしはとらえた。番組制作者にとって限界を超えるほど、NHKという巨大組織の疲弊があるらしいと。
長井氏の行方が気になりながら、ネットで検索するという行為とは結びつかないままでいたのだが、先日、検索してみた。
じつに多くの「情報」があり、自分は安全圏に身をおきつつ長井氏を揶揄するにとどまるblogも多く、疲れをおぼえた。そういうひとの存在を知っておくのも必要かもしれないが。
遅ればせながら、自分なりに考えをまとめておきたい。
わたしが検索できたなかで、参考になったサイトは意外と少なくて、つぎのとおり。
最後ののみ、朝日新聞からの引用。
NHKを内部告発した長井暁チーフ・プロデューサーの記者会見(動画)――『ビデオニュース・ドットコム』
長井氏の1時間の記者会見の内容を動画つきで聴けるので、TVニュースから受けとった印象と、かなりちがう。
長井氏が内部告発のあらましを述べたあと、質疑応答に入った。朝日新聞の本田記者の質問が異様に多い。わたしが聴いた限りでは、記者会見より質疑応答のほうが興味深かった。
「告発による不利益はないか」という質問に、「不利益はあるでしょう」と答えてから、「わたしもサラリーマン。家族を路頭に迷わすわけにはいかない。…………」というあたりで、長井氏は涙声になり、ここでカメラのシャッターを切る音がつづく。
告発するまでに4年を要したのは、迷っていたこともあるが、妻(長井氏は「家内」と発言)の了承を得る時間も含まれていたとのこと。
◆pantomimeの日記」
長井暁CP記者会見のテキスト化(質疑応答前の13分間)
blog管理者が長井氏の記者会見(質疑応答のまえまで)を起こしている。このようなめんどうな作業をするのだから、長井氏を支持していると思ったが、2005/9/3で更新を中止する理由というエントリーを読んで、驚いた。長井氏に抗する側に立っていると推察される。
1984年生まれという若者で、豊かな感性のもちぬしだと思える文章なので、困ってしまう。マジメに保守化している若者像をイメージしたのだが、どうとらえたらいいのか。
上記テキストのなかで注目した箇所を引く。
《朝日新聞のほうに先に出てしまいましたが、朝日の記者の方が12月の下旬に接触がございまして、私としてはとにかくコンプライアンス通報制度の結果を待ちたいので、しばらく記事にはしないでください、ということをお願いしていたのですけれども、一ヶ月経ってもなんら成果をあげられないということを知るに到り、記事にされることを私は了承いたしました》
上記の「朝日の記者」は、本田記者を指すのであろう。
編集過程を含む事実関係の詳細(ファイルタイプ)
NHKが作成した資料のようだが、客観性があるので気もちよく読める。ひとつの定点からとらえた「事実」という意味で参考になった。
NHK番組への政治介入についての声明
東京大学教員有志
NHKニュースが死んだ日
メディアの「信用」は「番組」に内在する
(初出:『論座』、朝日新聞社、2005年6月号)
東京大学 大学院 情報学環 学際情報学府 / 総合文化研究科 言語情報科学専攻
石田英敬 研究室
い篭擇通っている。この声明の呼びかけ人のひとりである石田英敬氏が『論座』(朝日新聞社、2005年6月号)に掲載した文献がイ任△襦
石田研究室では「TV分析の知恵の樹」プロジェクトをすすめていて、このシステムを使って1月の「NHKニュース7」を分析した結果が紹介されているのを読み、ひどく感心した。
末尾で石田氏はこう記している。
《自己弁護に血道をあげるばかりに、NHKは番組づくりという基本中の基本の部分において、「信用」を失ってしまったように私には思える。ニュースとは、公共放送の「命」ではないか。抑制的でニュートラルで、バランスと秩序のある客観的な事実報道。情緒的、感情的な表現は避け、きっちりとした話法にもとづいたアナウンサーの語り―そのような、公共放送のニュースという、戦後積み上げられてきた公共メディアの「信用」が今回、失われたのである。そのことの負の意味を、1月のニュース番組を制作し放送した人たちは、十分に認識しているだろうか》
VAWW−NETジャパンのブログ
「すべてを疑え!! MAMO's Site<ジャーナリスト坂本衛のサイト>」
このサイトが、最も読みごたえがあった。長井氏の内部告発が、「NHK vs 朝日新聞」にシフトしていったことに不満があったので、そこを坂本氏がきっちり論じているのを読み、共感できた。
ここでは2つの項について、骨子だとわたしが判断した箇所を引く。
【NHKに政治介入】
・NHKの特定の番組が、日本政府高官から干渉され、規律されたことは、放送法違反であり、憲法違反である。
・NHKは、政府高官からの政治的圧力に屈して番組を改変し、それが訴訟沙汰になっても、政府高官からの番組への干渉を隠していた。これは政府や政府与党に弱いNHKの最大の問題点を浮き彫りにした。受信料不払いへの影響は避けられないだろう。
・今回のような個別番組への政治介入は、1960年代から70年代にかけて、NHK・民放を問わず頻発していた。
・NHKの自主規制の枠を超えて、今回のような政府高官による露骨な番組干渉が露呈したのは、極めて異例なこと。それは、NHK教育テレビのETV特集という、NHKのメインストリートから外れた番組で、しかもNHK本体ではないNHKエンタープライズ21に加えて、企画段階から制作会社「ドキュメンタリージャパン」が深く関与していたから。NHKの正統である報道部門が、「従軍慰安婦」「女性国際戦犯法廷」などという企画を取り上げること自体、そもそもあり得ないこと。
・元内閣官房長官の安倍晋三は、1/13夜、テレビ朝日「報道ステーション」に登場し、朝日新聞記事に反論。「向こう側が説明に来たいといって、で、説明に来て、それに対して公平公正にお願いしますよ、と私は申し上げたわけですね。それが介入になるのかという事だと思うんですね」と語っているが、むろんそれが政治介入になる。
・元内閣官房長官の安倍晋三は、1/16、テレビ朝日「サンデープロジェクト」に登場して朝日新聞記事に反論した。
安倍晋三は放送法第3条の4「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という規定を、単独の番組の中で実現されなければならないと考えているらしいが、この考えは改めてもらわなければ困る。
政治的な公平や偏向の有無は、1番組の中だけでうんぬんすべきではなく、一連の番組、シリーズ番組、ある期間に流れた番組全体などを見て、判断しなければならない。
【NHK報道局「絶対匿名」座談会】
海老沢会長辞任後、報道局員の30代中堅職員3人の座談会。
司会/構成 坂本衛(「サイゾー」2005年3月号)
この座談会がおもしろかったので、坂本氏おすすめの「徹底検証! NHKの真相」(イースト・プレス、2005/5/15)を昨日、入手した。管理職を含む現役記者たちの貴重な証言というのを読みたくて。
なお、坂本衛氏の明快な論理には同意できるとしても、田原総一郎を支持しているらしい点がわたしには不可解であり、困ってしまうのである。
「日本ジャーナリスト会議」
特集・NHK番組改変政治介入問題
【(2005.3.31)「私たちのNHK」は可能か 公共放送の役割を討議」】と題して紹介されている「JCJ50周年NHK問題討論集会"どうするNHK"〜ジャーナリズムと権力〜」(3/5、岩波セミナールーム)の末尾に、会場からの発言がある。名前入りが4名、あとはA、Bと表記されている。名前入りの発言内容から、NHKの職員らしい。そのなかの発言に、「長井さんは3月から前の職場に復帰した」とある。
(蛇足ながら、上記発言者の名前が、わたしの敬愛する知人と同名なので、同一人物だと思う。彼に当blogを紹介するのに羞恥心があったが、本エントリーをアップしてからメールで知らせるするつもりでいた。そういうわけなので、昨日、彼の名前を発見し、不思議な気分になった。わたしがTV番組のむこう側に制作者の存在を意識するようになったのは、彼の存在が大きい。それはNHKに限らず、民放の番組を観ていても同じである。番組制作にかける情熱、モノづくりの原動力、映像人間の生態――といったことを彼から教わったのである)
2005年01月24日付け「日刊ベリタ」に、
《NHKの従軍慰安婦問題番組をめぐり、1月13日に内部告発会見に踏み切ったNHKの長井暁(ながい・さとる)チーフプロデューサーは、自宅に帰ることもままならず、都内のホテルに身を潜める生活を送っている。NKH関係者が明らかにした。また、別のNHK関係者によると、長井さんだけを孤立させることはあってはならないとの思いから「第二の内部告発会見」を行う準備を進めているNHK職員もいるという》
とあるのを読んで心配していたので、安堵した。NHK職員が長井氏を護ったという意味なのだろうか。3月から前の職場に復帰したとして、6月の異動でどういう事態になっているかが問われる。
「メディア関係者、NHK問題に関する緊急記者会見」
NHKへの政治介入問題などについて、1/18午後、参議院議員会館第1会議室(東京永田町)にて、メディア関係者らが「NHK問題に関する緊急記者会見とアピール」を開いたサイト。
発言者のなかから、つぎの2名の発言に興味をもったので、引く。
「ドキュメンタリー・ジャパン」の坂本香氏(女性)が、2001年7月に退社したということは、NHKから圧力がかかったと想像する。そうだとしたら、まったくやりきれない。長井氏を護るNHK職員はいたが、坂本氏は孤立無援だったのだろうか。
◇映像ジャーナリスト・坂上香さん
(ドキュメンタリー・ジャパン(DJ)の元ディレクターで、ETV2001・シリーズ『戦争をどう裁くか』の第3回目を担当した。番組改変問題を原因に、DJを2001年7月に退社)
「短いインタビュー番組に答えるのが嫌だなと思いつつも、長井さんと『朝日新聞』を孤立させたくないと、私自身が4年前に1人で追い詰められていた時のあのような状態が起きてほしくないという思いを込めて、めちゃくちゃに編集されるかもしれないという危険を冒しながらも、いくつかのインタビューを受けました。でもそのなかには、私が制作した番組について、『そもそもテレビでは使えないテーマでしょう』と評するディレクターがいた。あるテーマをタブー視している、また、それを全然疑問視しないメディアがあることはとても哀しいと思います」
◇日本放送労働組合(日放労)の役員
「長井を日放労として最大限に支援し、また人事的、物質的な利益に対して彼を守ることは、われわれの決意と責任としてやっていきたいと思います。昨日、仙台の方に行ってまいりました。80名ほどの組合員の中に、若手の中堅ディレクター何人かから、自分たち自身がやはり声を上げなければいけないという発言がありました。われわれは、そういった声を上げる人たちをどうやって守っていくのか、一緒に戦っていくのかということを、報道機関の労働組合として、大きな存在意義の一つとして取り込んでいきたいと新たに決意をしております」
2005/10/7付け朝日新聞に掲載された投稿、【私の視点】「公共放送 報道の価値と独立の再確認を」(門奈直樹・立教大学教授〔情報文化論〕)は秀逸。
BBCが公表した、昨年6月の「ニール・リポート」が紹介されている。
《同リポートは公開性と透明性を基調に「正確で、強い、独立した公正なジャーナリズムはBBCのDNA」であり、/深造叛騎里記公益性への貢献8正さと多様性て販性ダ睫誓嫻い蓮BBCジャーナリズムの五つの価値だ」と断言した》
BBCは、ニール・リポートの内容を反映させ、下請け会社にも適用した詳細な「編集ガイドライン」を作成したという。BBCは下請け会社に正当な報酬を払っているのだろうか。イラク戦争報道においても、BBCは、フリーの記者も正社員と同じ条件で扱わなければならないと決めていたらしい。それなら、下請け会社にも同じ対応をしているのだろう。
日本の制作会社は正当な報酬を得られないために(民放も含めて)、経営難に喘いでいるらしい。そこの対比も重要だと思う。局外の制作会社が番組を制作したケースでは、クレジットタイトルに制作会社名を公表する必要があると思う。
門奈氏は、末尾にこう記している。
《今、NHKには危機克服の戦略としてNHKジャーナリズムの価値を世に問う気概が求められよう。本当の危機は、ブランド力の崩壊にある》
なお、上記┐離汽ぅ箸法◆據2005.2.28)BBCはガイドラインを公開】と題する門奈氏の文章(口語体)が掲載されている。そこから引く。
《イギリスでは1930年代から新聞界でも「中立」とは言わず、「インディペンデント」(独立)が原則とされてきました。「中立」は左右の真ん中という意味で、左右の極がどちらかに触れれば、真ん中も移動します。イギリスでは放送番組はバランス感覚をもって制作されなければならないとされています。
その場合、一つの番組の中でバランスをとるのではなく、編成全体の中で多様な意見を提示していくのが、「公平」であり「公正」です》
*
■ここまで書いて感じたこと。
NHKの真相はわからないが、公共放送として受信料を法的に義務化して、「NHKのDNA」といえるものを確立してほしい。不公平感のない受信料システムにすれば、いまより視聴者の負担は少なくなる。
視聴者として、いい番組を観たいという想いに尽きる。
■映像表現でしかあらわせない世界がある。
最近、感銘を受けた番組は、BSドキュメンタリー「エリックとエリクソン」〜ハイチ・ストリートチルドレンの10年〜(2004/4/3)。
ラストシーンで、双子のエリックとエリクソンが、無邪気に河のなかで水遊びをする姿を、カメラが遠景として映しだす。彼らの過酷な現実との対比をイメージし、成人したふたりの歩む道はちがってしまったが、子どもに還ったように戯れる姿が胸を打つ。
わたしの記憶では、NHK臭い音楽もナレーションも入らない静寂のなかで、この10年のふたりの成長と苦難がすーっと浮かんでくるところに、なんともいえない余韻が感じられる。ディレクターが女性だったと記憶している。
私見だが、NHKとBBCのちがいは、BBCの映像には悲惨な状況のなかにも力強さ、希望への光源が感じられる。自然なカメラワークで、NHKのようなツクリモノの感じがしない。
そういう意味で、上記の番組にBBCに近いものを感じた。
■「アルモーメンホテルの子供達〜がんと闘うイラクの家族〜」(2005/10/5)は、悲惨で観るのに苦痛があったが、いい番組だった。BSドキュメンタリーの再放送として総合で放映されたのだが、00:25〜01:15という時間帯は残念だ。
劣化ウラン弾に関する番組をNHKは自主規制しているらしいから、この番組の再放送は稀なのかもしれない。
それにしても数年後にイラク戦争における劣化ウラン弾の影響で、子どもたちの肉体にがんが巣くうかと思うと、やりきれない。そこを射程に入れているところが、この番組の怖さである。
NHKという組織の内部事情は知らないが、番組制作者の質が低下しているとも思えない。NHK内部で、どのような現象が起きているのだろう。それは、いい番組を観たいという強い願望をもつ視聴者の減少とパラレルなのだろうか。
そんななか、2005/1/13にNHKの内部告発をした長井暁氏(番組制作局教育番組センターのチーフ・プロデューサー)の記者会見は、衝撃的だった。
実名と顔を晒し、職場生命を賭して内部告白した長井氏は、NHKの自己改革を望んでいるのだと、わたしはとらえた。番組制作者にとって限界を超えるほど、NHKという巨大組織の疲弊があるらしいと。
長井氏の行方が気になりながら、ネットで検索するという行為とは結びつかないままでいたのだが、先日、検索してみた。
じつに多くの「情報」があり、自分は安全圏に身をおきつつ長井氏を揶揄するにとどまるblogも多く、疲れをおぼえた。そういうひとの存在を知っておくのも必要かもしれないが。
遅ればせながら、自分なりに考えをまとめておきたい。
わたしが検索できたなかで、参考になったサイトは意外と少なくて、つぎのとおり。
最後ののみ、朝日新聞からの引用。
NHKを内部告発した長井暁チーフ・プロデューサーの記者会見(動画)――『ビデオニュース・ドットコム』
長井氏の1時間の記者会見の内容を動画つきで聴けるので、TVニュースから受けとった印象と、かなりちがう。
長井氏が内部告発のあらましを述べたあと、質疑応答に入った。朝日新聞の本田記者の質問が異様に多い。わたしが聴いた限りでは、記者会見より質疑応答のほうが興味深かった。
「告発による不利益はないか」という質問に、「不利益はあるでしょう」と答えてから、「わたしもサラリーマン。家族を路頭に迷わすわけにはいかない。…………」というあたりで、長井氏は涙声になり、ここでカメラのシャッターを切る音がつづく。
告発するまでに4年を要したのは、迷っていたこともあるが、妻(長井氏は「家内」と発言)の了承を得る時間も含まれていたとのこと。
◆pantomimeの日記」
長井暁CP記者会見のテキスト化(質疑応答前の13分間)
blog管理者が長井氏の記者会見(質疑応答のまえまで)を起こしている。このようなめんどうな作業をするのだから、長井氏を支持していると思ったが、2005/9/3で更新を中止する理由というエントリーを読んで、驚いた。長井氏に抗する側に立っていると推察される。
1984年生まれという若者で、豊かな感性のもちぬしだと思える文章なので、困ってしまう。マジメに保守化している若者像をイメージしたのだが、どうとらえたらいいのか。
上記テキストのなかで注目した箇所を引く。
《朝日新聞のほうに先に出てしまいましたが、朝日の記者の方が12月の下旬に接触がございまして、私としてはとにかくコンプライアンス通報制度の結果を待ちたいので、しばらく記事にはしないでください、ということをお願いしていたのですけれども、一ヶ月経ってもなんら成果をあげられないということを知るに到り、記事にされることを私は了承いたしました》
上記の「朝日の記者」は、本田記者を指すのであろう。
編集過程を含む事実関係の詳細(ファイルタイプ)
NHKが作成した資料のようだが、客観性があるので気もちよく読める。ひとつの定点からとらえた「事実」という意味で参考になった。
NHK番組への政治介入についての声明
東京大学教員有志
NHKニュースが死んだ日
メディアの「信用」は「番組」に内在する
(初出:『論座』、朝日新聞社、2005年6月号)
東京大学 大学院 情報学環 学際情報学府 / 総合文化研究科 言語情報科学専攻
石田英敬 研究室
い篭擇通っている。この声明の呼びかけ人のひとりである石田英敬氏が『論座』(朝日新聞社、2005年6月号)に掲載した文献がイ任△襦
石田研究室では「TV分析の知恵の樹」プロジェクトをすすめていて、このシステムを使って1月の「NHKニュース7」を分析した結果が紹介されているのを読み、ひどく感心した。
末尾で石田氏はこう記している。
《自己弁護に血道をあげるばかりに、NHKは番組づくりという基本中の基本の部分において、「信用」を失ってしまったように私には思える。ニュースとは、公共放送の「命」ではないか。抑制的でニュートラルで、バランスと秩序のある客観的な事実報道。情緒的、感情的な表現は避け、きっちりとした話法にもとづいたアナウンサーの語り―そのような、公共放送のニュースという、戦後積み上げられてきた公共メディアの「信用」が今回、失われたのである。そのことの負の意味を、1月のニュース番組を制作し放送した人たちは、十分に認識しているだろうか》
VAWW−NETジャパンのブログ
「すべてを疑え!! MAMO's Site<ジャーナリスト坂本衛のサイト>」
このサイトが、最も読みごたえがあった。長井氏の内部告発が、「NHK vs 朝日新聞」にシフトしていったことに不満があったので、そこを坂本氏がきっちり論じているのを読み、共感できた。
ここでは2つの項について、骨子だとわたしが判断した箇所を引く。
【NHKに政治介入】
・NHKの特定の番組が、日本政府高官から干渉され、規律されたことは、放送法違反であり、憲法違反である。
・NHKは、政府高官からの政治的圧力に屈して番組を改変し、それが訴訟沙汰になっても、政府高官からの番組への干渉を隠していた。これは政府や政府与党に弱いNHKの最大の問題点を浮き彫りにした。受信料不払いへの影響は避けられないだろう。
・今回のような個別番組への政治介入は、1960年代から70年代にかけて、NHK・民放を問わず頻発していた。
・NHKの自主規制の枠を超えて、今回のような政府高官による露骨な番組干渉が露呈したのは、極めて異例なこと。それは、NHK教育テレビのETV特集という、NHKのメインストリートから外れた番組で、しかもNHK本体ではないNHKエンタープライズ21に加えて、企画段階から制作会社「ドキュメンタリージャパン」が深く関与していたから。NHKの正統である報道部門が、「従軍慰安婦」「女性国際戦犯法廷」などという企画を取り上げること自体、そもそもあり得ないこと。
・元内閣官房長官の安倍晋三は、1/13夜、テレビ朝日「報道ステーション」に登場し、朝日新聞記事に反論。「向こう側が説明に来たいといって、で、説明に来て、それに対して公平公正にお願いしますよ、と私は申し上げたわけですね。それが介入になるのかという事だと思うんですね」と語っているが、むろんそれが政治介入になる。
・元内閣官房長官の安倍晋三は、1/16、テレビ朝日「サンデープロジェクト」に登場して朝日新聞記事に反論した。
安倍晋三は放送法第3条の4「意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること」という規定を、単独の番組の中で実現されなければならないと考えているらしいが、この考えは改めてもらわなければ困る。
政治的な公平や偏向の有無は、1番組の中だけでうんぬんすべきではなく、一連の番組、シリーズ番組、ある期間に流れた番組全体などを見て、判断しなければならない。
【NHK報道局「絶対匿名」座談会】
海老沢会長辞任後、報道局員の30代中堅職員3人の座談会。
司会/構成 坂本衛(「サイゾー」2005年3月号)
この座談会がおもしろかったので、坂本氏おすすめの「徹底検証! NHKの真相」(イースト・プレス、2005/5/15)を昨日、入手した。管理職を含む現役記者たちの貴重な証言というのを読みたくて。
なお、坂本衛氏の明快な論理には同意できるとしても、田原総一郎を支持しているらしい点がわたしには不可解であり、困ってしまうのである。
「日本ジャーナリスト会議」
特集・NHK番組改変政治介入問題
【(2005.3.31)「私たちのNHK」は可能か 公共放送の役割を討議」】と題して紹介されている「JCJ50周年NHK問題討論集会"どうするNHK"〜ジャーナリズムと権力〜」(3/5、岩波セミナールーム)の末尾に、会場からの発言がある。名前入りが4名、あとはA、Bと表記されている。名前入りの発言内容から、NHKの職員らしい。そのなかの発言に、「長井さんは3月から前の職場に復帰した」とある。
(蛇足ながら、上記発言者の名前が、わたしの敬愛する知人と同名なので、同一人物だと思う。彼に当blogを紹介するのに羞恥心があったが、本エントリーをアップしてからメールで知らせるするつもりでいた。そういうわけなので、昨日、彼の名前を発見し、不思議な気分になった。わたしがTV番組のむこう側に制作者の存在を意識するようになったのは、彼の存在が大きい。それはNHKに限らず、民放の番組を観ていても同じである。番組制作にかける情熱、モノづくりの原動力、映像人間の生態――といったことを彼から教わったのである)
2005年01月24日付け「日刊ベリタ」に、
《NHKの従軍慰安婦問題番組をめぐり、1月13日に内部告発会見に踏み切ったNHKの長井暁(ながい・さとる)チーフプロデューサーは、自宅に帰ることもままならず、都内のホテルに身を潜める生活を送っている。NKH関係者が明らかにした。また、別のNHK関係者によると、長井さんだけを孤立させることはあってはならないとの思いから「第二の内部告発会見」を行う準備を進めているNHK職員もいるという》
とあるのを読んで心配していたので、安堵した。NHK職員が長井氏を護ったという意味なのだろうか。3月から前の職場に復帰したとして、6月の異動でどういう事態になっているかが問われる。
「メディア関係者、NHK問題に関する緊急記者会見」
NHKへの政治介入問題などについて、1/18午後、参議院議員会館第1会議室(東京永田町)にて、メディア関係者らが「NHK問題に関する緊急記者会見とアピール」を開いたサイト。
発言者のなかから、つぎの2名の発言に興味をもったので、引く。
「ドキュメンタリー・ジャパン」の坂本香氏(女性)が、2001年7月に退社したということは、NHKから圧力がかかったと想像する。そうだとしたら、まったくやりきれない。長井氏を護るNHK職員はいたが、坂本氏は孤立無援だったのだろうか。
◇映像ジャーナリスト・坂上香さん
(ドキュメンタリー・ジャパン(DJ)の元ディレクターで、ETV2001・シリーズ『戦争をどう裁くか』の第3回目を担当した。番組改変問題を原因に、DJを2001年7月に退社)
「短いインタビュー番組に答えるのが嫌だなと思いつつも、長井さんと『朝日新聞』を孤立させたくないと、私自身が4年前に1人で追い詰められていた時のあのような状態が起きてほしくないという思いを込めて、めちゃくちゃに編集されるかもしれないという危険を冒しながらも、いくつかのインタビューを受けました。でもそのなかには、私が制作した番組について、『そもそもテレビでは使えないテーマでしょう』と評するディレクターがいた。あるテーマをタブー視している、また、それを全然疑問視しないメディアがあることはとても哀しいと思います」
◇日本放送労働組合(日放労)の役員
「長井を日放労として最大限に支援し、また人事的、物質的な利益に対して彼を守ることは、われわれの決意と責任としてやっていきたいと思います。昨日、仙台の方に行ってまいりました。80名ほどの組合員の中に、若手の中堅ディレクター何人かから、自分たち自身がやはり声を上げなければいけないという発言がありました。われわれは、そういった声を上げる人たちをどうやって守っていくのか、一緒に戦っていくのかということを、報道機関の労働組合として、大きな存在意義の一つとして取り込んでいきたいと新たに決意をしております」
2005/10/7付け朝日新聞に掲載された投稿、【私の視点】「公共放送 報道の価値と独立の再確認を」(門奈直樹・立教大学教授〔情報文化論〕)は秀逸。
BBCが公表した、昨年6月の「ニール・リポート」が紹介されている。
《同リポートは公開性と透明性を基調に「正確で、強い、独立した公正なジャーナリズムはBBCのDNA」であり、/深造叛騎里記公益性への貢献8正さと多様性て販性ダ睫誓嫻い蓮BBCジャーナリズムの五つの価値だ」と断言した》
BBCは、ニール・リポートの内容を反映させ、下請け会社にも適用した詳細な「編集ガイドライン」を作成したという。BBCは下請け会社に正当な報酬を払っているのだろうか。イラク戦争報道においても、BBCは、フリーの記者も正社員と同じ条件で扱わなければならないと決めていたらしい。それなら、下請け会社にも同じ対応をしているのだろう。
日本の制作会社は正当な報酬を得られないために(民放も含めて)、経営難に喘いでいるらしい。そこの対比も重要だと思う。局外の制作会社が番組を制作したケースでは、クレジットタイトルに制作会社名を公表する必要があると思う。
門奈氏は、末尾にこう記している。
《今、NHKには危機克服の戦略としてNHKジャーナリズムの価値を世に問う気概が求められよう。本当の危機は、ブランド力の崩壊にある》
なお、上記┐離汽ぅ箸法◆據2005.2.28)BBCはガイドラインを公開】と題する門奈氏の文章(口語体)が掲載されている。そこから引く。
《イギリスでは1930年代から新聞界でも「中立」とは言わず、「インディペンデント」(独立)が原則とされてきました。「中立」は左右の真ん中という意味で、左右の極がどちらかに触れれば、真ん中も移動します。イギリスでは放送番組はバランス感覚をもって制作されなければならないとされています。
その場合、一つの番組の中でバランスをとるのではなく、編成全体の中で多様な意見を提示していくのが、「公平」であり「公正」です》
*
■ここまで書いて感じたこと。
NHKの真相はわからないが、公共放送として受信料を法的に義務化して、「NHKのDNA」といえるものを確立してほしい。不公平感のない受信料システムにすれば、いまより視聴者の負担は少なくなる。
視聴者として、いい番組を観たいという想いに尽きる。
■映像表現でしかあらわせない世界がある。
最近、感銘を受けた番組は、BSドキュメンタリー「エリックとエリクソン」〜ハイチ・ストリートチルドレンの10年〜(2004/4/3)。
ラストシーンで、双子のエリックとエリクソンが、無邪気に河のなかで水遊びをする姿を、カメラが遠景として映しだす。彼らの過酷な現実との対比をイメージし、成人したふたりの歩む道はちがってしまったが、子どもに還ったように戯れる姿が胸を打つ。
わたしの記憶では、NHK臭い音楽もナレーションも入らない静寂のなかで、この10年のふたりの成長と苦難がすーっと浮かんでくるところに、なんともいえない余韻が感じられる。ディレクターが女性だったと記憶している。
私見だが、NHKとBBCのちがいは、BBCの映像には悲惨な状況のなかにも力強さ、希望への光源が感じられる。自然なカメラワークで、NHKのようなツクリモノの感じがしない。
そういう意味で、上記の番組にBBCに近いものを感じた。
■「アルモーメンホテルの子供達〜がんと闘うイラクの家族〜」(2005/10/5)は、悲惨で観るのに苦痛があったが、いい番組だった。BSドキュメンタリーの再放送として総合で放映されたのだが、00:25〜01:15という時間帯は残念だ。
劣化ウラン弾に関する番組をNHKは自主規制しているらしいから、この番組の再放送は稀なのかもしれない。
それにしても数年後にイラク戦争における劣化ウラン弾の影響で、子どもたちの肉体にがんが巣くうかと思うと、やりきれない。そこを射程に入れているところが、この番組の怖さである。
2005年10月16日
「すりきれたビデオテープ」の祟りか?
8/28と9/3のエントリーで、わたしは小田昭太郎氏の文章を大幅に要約・引用した。
そこまで大胆なことをできたのは、当時、径(こみち)書房の代表だった原田奈翁雄氏とわたしが、20年来の知己だからである。
近いうちに原田氏に手紙を書く用件があるので、そのときにblogをはじめたことを伝え、大幅な要約・引用について事後承諾いただくこころづもりだった。
ところが先日、「小田昭太郎」で検索して当blogにアクセスしてきたひとがあり、うかつにも予期せぬことだったので驚いた。その検索画面から、昭和63年に小田氏が「オルタスジャパン」という制作プロダクションを立ちあげたことを知った。「すりきれたビデオテープ」の掲載から6年後である。
「ようこそ オルタスジャパン」
日本テレビという組織から離れたのは、小田氏の過去の短い文章の流れから意外性はなかった。またHPの扉の文章から、わたしの知っている小田氏が生きていることを知り、深く安堵した。
で、なんらかの方法で小田氏に、blogに不当な引用をしたことをお断りしないといけないと思い、私信をHPの業務宛アドレスにメールすることに躊躇しつつ、実行したのである。
肉筆の手紙のほうが失礼にならないのではないかと迷ったが、blogを読むのにはメールのほうが便利だと考えた。
それが10/7のこと。
つぎに「本」というカテゴリーに収められていた小田氏の文章を、「小田昭太郎」として独立させた。
小田氏の「その後」について書くためであり、それが特別な意味をもつことに気づきはじめたからだった。
そのうえで10/11に原田氏にメールをして、上記と同じ内容のお断りをした。
返信がないことも想定していたので、メールボックスに小田氏のメールを発見したときは感動した。が、ひと呼吸おいてメールを開こうとしたと同時に、動悸が激しくなった。ここまでの緊迫感は珍しい。意識としては冷静に事を運んでいるつもりだが、からだは正直に反応するということ。わたしの脳裡に永年棲みついていた小田昭太郎像が、どう暴れだすのか……。
小田氏の返信はストレートで、23年前の小田氏を彷彿とさせるものだった。小田氏が呻吟しながらも、内的世界がぜんぜん変わっていないと思えたのが、このうえなくうれしかった。
その内容をぼんやりと反芻しながら考えついたのは、この返信を全文「小田昭太郎」のカテゴリーに入れることはできないだろうかということだった。
かつて小田氏の文章に衝撃を受けたのは、障害者を人間扱いしないで利用する健常者の存在に対する憤りであった。が、それ以上に小田氏の感性のやわらかさがわたしの琴線に触れたのだった。他者との距離のとりかたに、小田氏独特の思想がある。
信念をもって動きながら、衝撃を受けたときに見事にぐらつくさまが痛快で、信用できるのである。
その意味あいにおいて、あれから23年を経ても小田氏が変わっていないことを知り、現時点で「記録」しておきたいという欲望をおぼえた。
上記の考えを伝えるために10/14に小田氏にメールをすると、その日のうちに「もし何かお役に立つことであれば何なりとお使い下さい」との返信をいただいた。
お言葉に甘えて、10/13付けのメールの全文を転載させていただく。
*
●●◯◯◯さま
はじめまして。思いもせぬメールに出会い、その中味の重さに圧倒されて直ぐにご返事を出すことが出来ないでおりました。ごめんなさい。いま、ボクはスタッフ60人弱のプロダクションをやっています。ドキュメンタリーを中心にドキュメンタリー的なものまで含め、主にテレビの番組の制作をしています。
この度、遠い昔の自分に再会したことは衝撃でした。正直、忘れていた自分でした。たいした志を抱いて、という訳でもなく、日本テレビで番組を制作することが出来なくなったので、結局はそこを飛び出すことになりました。はじめは仲間6人で制作プロダクションを立ち上げました。それから18年目に入った現在、いつの間にかスタッフも増えてしまいました。お金のことを考えたことのない経済オンチだったボクが今はお金の苦労ばかりで血ヘドを吐いています。やりたい事と実際の世界との落差など当たり前の理屈ですが、その当たり前の現実に戸惑いうろたえる毎日です。ドキュメンタリーで糧を得る難しさに押しつぶされなが
ら喘いでいます。
ボクはその苦しさや忙しさを理由にして、若いスタッフたちにボクが体験したことや考えたことや悩んだことを伝えることをしていないのではないか、かつて自分が取材する側とされる側の乖離について悩み考えたことなど等々伝えていないのではないか、と思い当たります。そして、見つめなおしてみれば、あの頃の自分と今の自分が全く変わっていないことにも気付きます。自分の昔は振り返らない、と決めていたことは事実です。ですから、これまでのボクの仕事を知っている社員たちはほとんどいません。あの時は、と思い出を話したこともほとんどありません。しかし、そういうことではなくて、伝達することの意味を改めて考えさせられました。昔の体験を価値のあるものにするかどうかはボク自身の意識の問題である、との簡単なことに気付きました。いやはや、青年のような積りでいますが、いつの間にか60歳をいくつか過ぎました。伝達をやめた時、組織や国は滅びるのかも知れませんね。幼稚で申し訳ありませんが、メールをいただいて思ったことです。こちらこそ本当にありがとうございました。心より感謝いたしております。 小田 昭太郎
*
「すりきれたビデオテープ」というエントリーの結語に、生意気にもわたしはこう記した。
《彼はいま、どのような地点に立っているのだろうか》
小田氏の返信が上記にストレートに呼応していたのに、わたしは圧倒された。
「血ヘド」という語句にわたしのからだは過剰反応し、心臓が収縮した。
10/14付けの返信の冒頭に、
《どうもボクは妙な世界の入り口に立っているような気がしています。これまで仕事関係以外のメールのやりとりはこれが初体験です》
とある。
プライベートなメールのやりとりをできないほど忙殺されている日常がある、ということだろうか。
小田昭太郎氏の文章を当blogに再掲したことにより、わたしは自己の体内に(無意識のうちに)潜伏していた「小田昭太郎ウイルス」に発症してしまった。メールを通してそれに小田氏が感染した、というふうにわたしは解釈している。なぜなら、不当に要約・引用した真意を理解していただくために、わたしは自己を語らねばならなかったからである。
換言すると、かつて小田氏が一人称で書いた過去の文章が、見ず知らずの他者によって三人称で要約・引用された文章を読むという行為のなかで、小田氏は無意識下で録画されていた「小田昭太郎」というビデオテープを観る羽目になったということではないのか。
そのことから派生して、「血ヘド」を吐きつづけることで痛めつけられた臓腑の粘膜を、いささかでも内側から修復できないか(=免疫療法)という荒療治を、不遜にもわたしは考えている。ほとんど妄想の世界に突入している観があるとしても。
10/14付けのメールで、気がむいたときに「つぶやき」を書いていただきたいとお願いしたのだが、これは実現しないかもしれない。
自分の考えをいささかでも深めたいという想いではじめたblogであるが、予想もしなかった展開をしているように思う。
「小田昭太郎」というカテゴリーを育てていけたら、うれしいのだが。
未知の検索者のためにも。
※小田氏のメールの引用文において、「喘いで」の箇所で文章が切れていますが、元の文章はつながっています。アップすると、そうなってしまい、ほんとうに喘いでいる感じです。
そこまで大胆なことをできたのは、当時、径(こみち)書房の代表だった原田奈翁雄氏とわたしが、20年来の知己だからである。
近いうちに原田氏に手紙を書く用件があるので、そのときにblogをはじめたことを伝え、大幅な要約・引用について事後承諾いただくこころづもりだった。
ところが先日、「小田昭太郎」で検索して当blogにアクセスしてきたひとがあり、うかつにも予期せぬことだったので驚いた。その検索画面から、昭和63年に小田氏が「オルタスジャパン」という制作プロダクションを立ちあげたことを知った。「すりきれたビデオテープ」の掲載から6年後である。
「ようこそ オルタスジャパン」
日本テレビという組織から離れたのは、小田氏の過去の短い文章の流れから意外性はなかった。またHPの扉の文章から、わたしの知っている小田氏が生きていることを知り、深く安堵した。
で、なんらかの方法で小田氏に、blogに不当な引用をしたことをお断りしないといけないと思い、私信をHPの業務宛アドレスにメールすることに躊躇しつつ、実行したのである。
肉筆の手紙のほうが失礼にならないのではないかと迷ったが、blogを読むのにはメールのほうが便利だと考えた。
それが10/7のこと。
つぎに「本」というカテゴリーに収められていた小田氏の文章を、「小田昭太郎」として独立させた。
小田氏の「その後」について書くためであり、それが特別な意味をもつことに気づきはじめたからだった。
そのうえで10/11に原田氏にメールをして、上記と同じ内容のお断りをした。
返信がないことも想定していたので、メールボックスに小田氏のメールを発見したときは感動した。が、ひと呼吸おいてメールを開こうとしたと同時に、動悸が激しくなった。ここまでの緊迫感は珍しい。意識としては冷静に事を運んでいるつもりだが、からだは正直に反応するということ。わたしの脳裡に永年棲みついていた小田昭太郎像が、どう暴れだすのか……。
小田氏の返信はストレートで、23年前の小田氏を彷彿とさせるものだった。小田氏が呻吟しながらも、内的世界がぜんぜん変わっていないと思えたのが、このうえなくうれしかった。
その内容をぼんやりと反芻しながら考えついたのは、この返信を全文「小田昭太郎」のカテゴリーに入れることはできないだろうかということだった。
かつて小田氏の文章に衝撃を受けたのは、障害者を人間扱いしないで利用する健常者の存在に対する憤りであった。が、それ以上に小田氏の感性のやわらかさがわたしの琴線に触れたのだった。他者との距離のとりかたに、小田氏独特の思想がある。
信念をもって動きながら、衝撃を受けたときに見事にぐらつくさまが痛快で、信用できるのである。
その意味あいにおいて、あれから23年を経ても小田氏が変わっていないことを知り、現時点で「記録」しておきたいという欲望をおぼえた。
上記の考えを伝えるために10/14に小田氏にメールをすると、その日のうちに「もし何かお役に立つことであれば何なりとお使い下さい」との返信をいただいた。
お言葉に甘えて、10/13付けのメールの全文を転載させていただく。
*
●●◯◯◯さま
はじめまして。思いもせぬメールに出会い、その中味の重さに圧倒されて直ぐにご返事を出すことが出来ないでおりました。ごめんなさい。いま、ボクはスタッフ60人弱のプロダクションをやっています。ドキュメンタリーを中心にドキュメンタリー的なものまで含め、主にテレビの番組の制作をしています。
この度、遠い昔の自分に再会したことは衝撃でした。正直、忘れていた自分でした。たいした志を抱いて、という訳でもなく、日本テレビで番組を制作することが出来なくなったので、結局はそこを飛び出すことになりました。はじめは仲間6人で制作プロダクションを立ち上げました。それから18年目に入った現在、いつの間にかスタッフも増えてしまいました。お金のことを考えたことのない経済オンチだったボクが今はお金の苦労ばかりで血ヘドを吐いています。やりたい事と実際の世界との落差など当たり前の理屈ですが、その当たり前の現実に戸惑いうろたえる毎日です。ドキュメンタリーで糧を得る難しさに押しつぶされなが
ら喘いでいます。
ボクはその苦しさや忙しさを理由にして、若いスタッフたちにボクが体験したことや考えたことや悩んだことを伝えることをしていないのではないか、かつて自分が取材する側とされる側の乖離について悩み考えたことなど等々伝えていないのではないか、と思い当たります。そして、見つめなおしてみれば、あの頃の自分と今の自分が全く変わっていないことにも気付きます。自分の昔は振り返らない、と決めていたことは事実です。ですから、これまでのボクの仕事を知っている社員たちはほとんどいません。あの時は、と思い出を話したこともほとんどありません。しかし、そういうことではなくて、伝達することの意味を改めて考えさせられました。昔の体験を価値のあるものにするかどうかはボク自身の意識の問題である、との簡単なことに気付きました。いやはや、青年のような積りでいますが、いつの間にか60歳をいくつか過ぎました。伝達をやめた時、組織や国は滅びるのかも知れませんね。幼稚で申し訳ありませんが、メールをいただいて思ったことです。こちらこそ本当にありがとうございました。心より感謝いたしております。 小田 昭太郎
*
「すりきれたビデオテープ」というエントリーの結語に、生意気にもわたしはこう記した。
《彼はいま、どのような地点に立っているのだろうか》
小田氏の返信が上記にストレートに呼応していたのに、わたしは圧倒された。
「血ヘド」という語句にわたしのからだは過剰反応し、心臓が収縮した。
10/14付けの返信の冒頭に、
《どうもボクは妙な世界の入り口に立っているような気がしています。これまで仕事関係以外のメールのやりとりはこれが初体験です》
とある。
プライベートなメールのやりとりをできないほど忙殺されている日常がある、ということだろうか。
小田昭太郎氏の文章を当blogに再掲したことにより、わたしは自己の体内に(無意識のうちに)潜伏していた「小田昭太郎ウイルス」に発症してしまった。メールを通してそれに小田氏が感染した、というふうにわたしは解釈している。なぜなら、不当に要約・引用した真意を理解していただくために、わたしは自己を語らねばならなかったからである。
換言すると、かつて小田氏が一人称で書いた過去の文章が、見ず知らずの他者によって三人称で要約・引用された文章を読むという行為のなかで、小田氏は無意識下で録画されていた「小田昭太郎」というビデオテープを観る羽目になったということではないのか。
そのことから派生して、「血ヘド」を吐きつづけることで痛めつけられた臓腑の粘膜を、いささかでも内側から修復できないか(=免疫療法)という荒療治を、不遜にもわたしは考えている。ほとんど妄想の世界に突入している観があるとしても。
10/14付けのメールで、気がむいたときに「つぶやき」を書いていただきたいとお願いしたのだが、これは実現しないかもしれない。
自分の考えをいささかでも深めたいという想いではじめたblogであるが、予想もしなかった展開をしているように思う。
「小田昭太郎」というカテゴリーを育てていけたら、うれしいのだが。
未知の検索者のためにも。
※小田氏のメールの引用文において、「喘いで」の箇所で文章が切れていますが、元の文章はつながっています。アップすると、そうなってしまい、ほんとうに喘いでいる感じです。
2005年10月10日
ク・ナウカ演劇公演「王女メディア」
昨夜10/9、NHK教育TVの芸術劇場で「王女メディア」(原作・エウリピデス)を観た。
以下、NHKの番組案内から引用する。
○劇場中継 ク・ナウカ公演「王女メディア」
後10・30〜深夜0・15
「王女メディア」は1999年初演。海外8カ国15都市で上演されたク・ナウカの代表作。明治の日本、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として描かれる「メディア」ではセリフは宴席の男たちに限られ、仲居が演じる女たちはセリフに操られて動いてゆく。
鮮やかな衣裳をまとい、打楽器の生演奏を用いながら、語りと動きを分ける独特の“二人一役”の手法で演じられるク・ナウカ版「王女メディア」を放送する。
≪内容≫
時代は明治。日本橋あたりの料亭、裁判官らしき男たちの宴席で、仲居の女を巻き込み、座興のギリシャ劇「メディア」が演じられることになる。配役は男たちの互選で決められ、男が選んだ仲居に衣装が着せられる。
劇中劇。ギリシャの王子イアソンとその妻メディア。苦難を経て異国の地で夫婦となり子供ももうけた二人だが、夫の心は妻メディアから離れ、コリントスの王女に傾いている。芝居は、メディアが夫に裏切られた場面から始まり、追放令で窮地に陥ったメディアの夫への復讐が始まる。やがて、芝居が子殺しの場面で終幕を迎え、宴席を囲む法律書の壁が崩壊。現れたメディア役の仲居たちは、男による言葉の支配に対して反撃を開始する。
[原作] エウリピデス
[演出] 宮城 聰
[出演] 美加理、阿部一徳、吉植荘一郎 ほか、シアター・カンパニー「ク・ナウカ」
(平成17年7月28日 東京国立博物館・本館内特設舞台にて収録)
*
はじめはパソコンにむかいながら観ていたのだが、途中から集中して観てしまったほど舞台に惹きつけられた。
舞台の色彩が鮮やかで、レトロ感が漂う。メディア役の女性の能面のような顔が気に入った。どこかしら黄泉のような空間が構築されている。
演じるのは女たちで、セリフをいうのは男たちという「2人1役」のおもしろさがある。しかも男たちは憑かれたようにセリフをたたきつけるので、狂気じみてくる。
芝居のテンポが速く、飽きさせない。
演出の宮城聰氏は脚本も手がけているが、芝居がさほど好きではない若者をも視野に入れているのではないかと思う。
ラストシーンで、正体不明の褐色の壁にはさまれた法律書がなだれ落ちる。男たち(=裁判官)に抑圧されつづけていた女たち(=仲居)が反乱を起こし、男たち全員を殺すのが圧巻だった。
なにを意味するのだろうか。
いままで有用だった法律(=規範・価値観)は通用しなくなったという意味か。これからの女は男なしで生きてゆく、という宣言なのか。
宮城氏の演出したメディアは、男社会で抑圧されていても、こころは売り渡していないという秘められた意思を、能面のような動かぬ顔で表現しているようにみえた。
「王女メディア」は2005年5月に、(わたしの好きなホールである)シアターコクーンで、蜷川幸雄演出で上演されたらしい。メディア役は大竹しのぶ。
芝居好きでないわたしがいうのは僭越だが、蜷川幸雄がどうにも好きになれない。どこがいやかと訊かれたら、すべてが好きになれないのである。
「メディア」皆川知子によると、大竹の肉感がリアルだったらしい。そうだとしたら、わたしの苦手な世界だ。
そんなわけで、終演後の宮城聰氏のトークを愉しみにしていた。聞き手は内野儀氏。
宮城氏の姿が画面にあらわれたとき、華奢な肉体に驚いた。これで重労働らしい演出という作業によく堪えられるなあと、妙に感心する。理論的だが、それを超える感覚的センスがあり、気負いのないところがいい。芝居大好き人間というオーラが発散している。
宮城氏にわたしは好感をもち、同時になぜ蜷川氏が好きになれないかが、よくわかった。私見では、反対のタイプにみえる。
それにしても、「クマさん」みたいな宮城氏の口髭には笑える。
録画していたので、宮城氏のトークをつぎに要約する。
■上演場所として東京国立博物館を選んだ理由
天井が高いので、ギリシャ悲劇のスケール感をだせるから。
明瞭な目的のためにつくられた空間と、自分たちの作品が真正面からぶつかりあうたたかいのなかで、最終的に空間を味方にするということをやっていくことが、俳優と脚本家の修業になる。自分たちを鍛えていくことになるのかなあと。
■なぜ明治時代の日本に設定したのか
アジアを蔑視し、女性を蔑視したセリフの多さに、原作者の負い目を感じ、そういうメンタリティーについて考えた。2500年まえのギリシャ人が、明治時代の日本人のメンタリティーと似ているのではないかということに気づいた。
文明では周りの国から先んじ、国民皆兵というシステムによってアジアとの戦争に勝つ。法律によってものを裁いてゆく。でも、もともとの文化・芸術においては輸入国だったという古代ギリシャと明治の日本が似ている。
日本が朝鮮半島や中国大陸に対して抱いていた感情と、(原作者)エウリピデスの時代のギリシャ人が抱いていた感情が、とても似ていると思って読んでみると、メディアという女性はアジアの女性であり、呪術の使い手で非合理的な力をもっていることになっている。そうものを代表しているメディアは、当時のギリシャ人にとって刺激的なヒロインだった。アジア出身だから芸術の源からきた女。でも、いまは自分たちのほうが文明において勝(まさ)っている。野蛮な国からきた女だといいたくなるという関係。
法律とか契約とか、言葉にあらわせる普遍的なものをもちだしたギリシャ人にしてみれば、メディアのものさしは、自然の気まぐれをそのままひきうけているような、シャーマニズムというか、占いで政治を行っている非近代的な原理を体現している。
明治時代は、士(さむらい)の原理をあてはめたので、女性の地位が下になってしまったところが、古代ギリシャと似ている。
いまは自分たちはこっちに立っているけれども、危ういものかもしれないという感覚がギリシャ悲劇には残っているというよさがある。オルターナティブについて敏感だった時代が、明治の日本におきかえると表現できるんじゃないかと。
■なぜ語り手と身振りをする人間を分けたのか
われわれの眼の高さでいくら考えても解決しないこと。人間はなぜ死ぬのかとか、なぜ人間は戦争をするのかとか。神とはなにかとか。
われわれの眼の高さじゃないところから世界をみようとする想像力のいとなみが、人間を救うもうひとつの重要な機能。悲劇をやるためには、なにかシカケがいるから、身体を抽象化するために、言葉だけ、動きだけということをやってみた。
■ギリシャ悲劇をやる理由
結論がでているのなら、演劇というかたちでやる必要はないし、この世のなかはもっとよくなっているはずですからね(笑)。
男か女かわからない「ウバ」がずっとみている――2500年メディアが生きていたらどうなったかと考えた。
想像力を働かせてもらうこと、そこを耕してもらいたい。
*
余談。
以前に、新宿御苑の近くにある小さな感じのよいホールで、演劇集団「円」の公演を観たことがある。仲間の身内がその芝居の演出をしているというので、全員を招待してくれたのだった。
NHKのカメラがセットされていたので、わたしはカメラマンの右横に2席空けた座席に(そう指示されたので)着席した。仲間はかたまって前方に着席していて、こっちにきなさいと執拗に手招きするのに抗したのは、カメラマンの仕事に興味をもったからだ。
台本をみながらカメラを動かしていたが、サッカーの試合を撮るのに較べると悠長だろう。サッカーに台本はないわけだし。
芝居が終わって、集団となってエスカレーターで1階に降りてきた途中、下方に吉行和子が岸田今日子と弾んだ感じで話しているのが眼に入った。岸田が出演していたので、親しい吉行が訪ねてきたのだ、ということはすぐにわかった。無意識のうちに「あ、吉行和子だ」とわたしはつぶやいた。それを聴いて、ひとびとの視線がいっせいに吉行に集中し、彼女は見事に黙殺した。TVでみるより美しく、女優とは思えぬふつうのワンピース姿だった。
ホールからでたところで、仲間のひとりが「吉行和子はきれいだったねえ!」と興奮した口調でいった。
しばらくしてNHK教育でその芝居は放映されたので、あのカメラマンの仕事ぶりを検証することができた。動きの少ない芝居だった。なにしろ作・太田省吾だから。
以下、NHKの番組案内から引用する。
○劇場中継 ク・ナウカ公演「王女メディア」
後10・30〜深夜0・15
「王女メディア」は1999年初演。海外8カ国15都市で上演されたク・ナウカの代表作。明治の日本、歓楽街の座興で演じられる劇中劇として描かれる「メディア」ではセリフは宴席の男たちに限られ、仲居が演じる女たちはセリフに操られて動いてゆく。
鮮やかな衣裳をまとい、打楽器の生演奏を用いながら、語りと動きを分ける独特の“二人一役”の手法で演じられるク・ナウカ版「王女メディア」を放送する。
≪内容≫
時代は明治。日本橋あたりの料亭、裁判官らしき男たちの宴席で、仲居の女を巻き込み、座興のギリシャ劇「メディア」が演じられることになる。配役は男たちの互選で決められ、男が選んだ仲居に衣装が着せられる。
劇中劇。ギリシャの王子イアソンとその妻メディア。苦難を経て異国の地で夫婦となり子供ももうけた二人だが、夫の心は妻メディアから離れ、コリントスの王女に傾いている。芝居は、メディアが夫に裏切られた場面から始まり、追放令で窮地に陥ったメディアの夫への復讐が始まる。やがて、芝居が子殺しの場面で終幕を迎え、宴席を囲む法律書の壁が崩壊。現れたメディア役の仲居たちは、男による言葉の支配に対して反撃を開始する。
[原作] エウリピデス
[演出] 宮城 聰
[出演] 美加理、阿部一徳、吉植荘一郎 ほか、シアター・カンパニー「ク・ナウカ」
(平成17年7月28日 東京国立博物館・本館内特設舞台にて収録)
*
はじめはパソコンにむかいながら観ていたのだが、途中から集中して観てしまったほど舞台に惹きつけられた。
舞台の色彩が鮮やかで、レトロ感が漂う。メディア役の女性の能面のような顔が気に入った。どこかしら黄泉のような空間が構築されている。
演じるのは女たちで、セリフをいうのは男たちという「2人1役」のおもしろさがある。しかも男たちは憑かれたようにセリフをたたきつけるので、狂気じみてくる。
芝居のテンポが速く、飽きさせない。
演出の宮城聰氏は脚本も手がけているが、芝居がさほど好きではない若者をも視野に入れているのではないかと思う。
ラストシーンで、正体不明の褐色の壁にはさまれた法律書がなだれ落ちる。男たち(=裁判官)に抑圧されつづけていた女たち(=仲居)が反乱を起こし、男たち全員を殺すのが圧巻だった。
なにを意味するのだろうか。
いままで有用だった法律(=規範・価値観)は通用しなくなったという意味か。これからの女は男なしで生きてゆく、という宣言なのか。
宮城氏の演出したメディアは、男社会で抑圧されていても、こころは売り渡していないという秘められた意思を、能面のような動かぬ顔で表現しているようにみえた。
「王女メディア」は2005年5月に、(わたしの好きなホールである)シアターコクーンで、蜷川幸雄演出で上演されたらしい。メディア役は大竹しのぶ。
芝居好きでないわたしがいうのは僭越だが、蜷川幸雄がどうにも好きになれない。どこがいやかと訊かれたら、すべてが好きになれないのである。
「メディア」皆川知子によると、大竹の肉感がリアルだったらしい。そうだとしたら、わたしの苦手な世界だ。
そんなわけで、終演後の宮城聰氏のトークを愉しみにしていた。聞き手は内野儀氏。
宮城氏の姿が画面にあらわれたとき、華奢な肉体に驚いた。これで重労働らしい演出という作業によく堪えられるなあと、妙に感心する。理論的だが、それを超える感覚的センスがあり、気負いのないところがいい。芝居大好き人間というオーラが発散している。
宮城氏にわたしは好感をもち、同時になぜ蜷川氏が好きになれないかが、よくわかった。私見では、反対のタイプにみえる。
それにしても、「クマさん」みたいな宮城氏の口髭には笑える。
録画していたので、宮城氏のトークをつぎに要約する。
■上演場所として東京国立博物館を選んだ理由
天井が高いので、ギリシャ悲劇のスケール感をだせるから。
明瞭な目的のためにつくられた空間と、自分たちの作品が真正面からぶつかりあうたたかいのなかで、最終的に空間を味方にするということをやっていくことが、俳優と脚本家の修業になる。自分たちを鍛えていくことになるのかなあと。
■なぜ明治時代の日本に設定したのか
アジアを蔑視し、女性を蔑視したセリフの多さに、原作者の負い目を感じ、そういうメンタリティーについて考えた。2500年まえのギリシャ人が、明治時代の日本人のメンタリティーと似ているのではないかということに気づいた。
文明では周りの国から先んじ、国民皆兵というシステムによってアジアとの戦争に勝つ。法律によってものを裁いてゆく。でも、もともとの文化・芸術においては輸入国だったという古代ギリシャと明治の日本が似ている。
日本が朝鮮半島や中国大陸に対して抱いていた感情と、(原作者)エウリピデスの時代のギリシャ人が抱いていた感情が、とても似ていると思って読んでみると、メディアという女性はアジアの女性であり、呪術の使い手で非合理的な力をもっていることになっている。そうものを代表しているメディアは、当時のギリシャ人にとって刺激的なヒロインだった。アジア出身だから芸術の源からきた女。でも、いまは自分たちのほうが文明において勝(まさ)っている。野蛮な国からきた女だといいたくなるという関係。
法律とか契約とか、言葉にあらわせる普遍的なものをもちだしたギリシャ人にしてみれば、メディアのものさしは、自然の気まぐれをそのままひきうけているような、シャーマニズムというか、占いで政治を行っている非近代的な原理を体現している。
明治時代は、士(さむらい)の原理をあてはめたので、女性の地位が下になってしまったところが、古代ギリシャと似ている。
いまは自分たちはこっちに立っているけれども、危ういものかもしれないという感覚がギリシャ悲劇には残っているというよさがある。オルターナティブについて敏感だった時代が、明治の日本におきかえると表現できるんじゃないかと。
■なぜ語り手と身振りをする人間を分けたのか
われわれの眼の高さでいくら考えても解決しないこと。人間はなぜ死ぬのかとか、なぜ人間は戦争をするのかとか。神とはなにかとか。
われわれの眼の高さじゃないところから世界をみようとする想像力のいとなみが、人間を救うもうひとつの重要な機能。悲劇をやるためには、なにかシカケがいるから、身体を抽象化するために、言葉だけ、動きだけということをやってみた。
■ギリシャ悲劇をやる理由
結論がでているのなら、演劇というかたちでやる必要はないし、この世のなかはもっとよくなっているはずですからね(笑)。
男か女かわからない「ウバ」がずっとみている――2500年メディアが生きていたらどうなったかと考えた。
想像力を働かせてもらうこと、そこを耕してもらいたい。
*
余談。
以前に、新宿御苑の近くにある小さな感じのよいホールで、演劇集団「円」の公演を観たことがある。仲間の身内がその芝居の演出をしているというので、全員を招待してくれたのだった。
NHKのカメラがセットされていたので、わたしはカメラマンの右横に2席空けた座席に(そう指示されたので)着席した。仲間はかたまって前方に着席していて、こっちにきなさいと執拗に手招きするのに抗したのは、カメラマンの仕事に興味をもったからだ。
台本をみながらカメラを動かしていたが、サッカーの試合を撮るのに較べると悠長だろう。サッカーに台本はないわけだし。
芝居が終わって、集団となってエスカレーターで1階に降りてきた途中、下方に吉行和子が岸田今日子と弾んだ感じで話しているのが眼に入った。岸田が出演していたので、親しい吉行が訪ねてきたのだ、ということはすぐにわかった。無意識のうちに「あ、吉行和子だ」とわたしはつぶやいた。それを聴いて、ひとびとの視線がいっせいに吉行に集中し、彼女は見事に黙殺した。TVでみるより美しく、女優とは思えぬふつうのワンピース姿だった。
ホールからでたところで、仲間のひとりが「吉行和子はきれいだったねえ!」と興奮した口調でいった。
しばらくしてNHK教育でその芝居は放映されたので、あのカメラマンの仕事ぶりを検証することができた。動きの少ない芝居だった。なにしろ作・太田省吾だから。