2006年04月
2006年04月14日
お国のため 【エッセイ】
20代のころ入社した出版社で、新入社員の研修が東京の四谷にある本社で行われた。明るくきれいな自社ビルだった。わたしは大阪支社から参加したのだが、全国の支社から新入社員が集合した。部屋のうしろに本社の社員が数名、授業参観をしている父母のように立っているのが、異様だった。
2日めに社長の話があった。いかにもワンマン社長という面相で、わたしの苦手なタイプだ。
「国のために本をつくっている」というフレーズが、2回社長の口から飛びだした。そして3回めにそれを耳にしたとき、わたしの体内でなにかが臨界点を超えた。法律図書を刊行している出版社の社長だとしても、聞き捨てならぬ発言だ。と同時に、気づいたら挙手していた。
質問の時間でもないのに挙手しているわたしを訝る社長に促されて、わたしは立ちあがり、怒りを顕わにした声で発言した。
「国のため、国のためとおっしゃいますが、国民のために本はつくらないのですか?」
想像を絶する生意気な新入社員の発言に、ワンマン社長のからだがバランスをうしなって左右に揺れた。しかし2秒後には態勢を立て直し、生理的に拒絶したくなるような威圧的な口調でいった。
「国のために本をつくるということが、国民のために本をつくるということだ。わかったか!」
ぜんぜんちがうじゃないか、と内心思いながらも、「はい」と、にらみつける社長の顔をみながら、あえて小さな声で応えた。一瞬にせよ、社長の態勢が崩れたことが痛快だったからだ。まだ許せる余地がある。
わたしが最も興味をもったのは、編集部に案内されて、編集長から雑誌ができあがる工程について説明を受けたときだ。30代の編集長が美男子で華があったので、女性誌のほうがふさわしいのではないかと思った。しかし女性誌の編集長は、案外ドブネズミ色のさえない中年男だったりするのかもしれない。編集長がカメラマンを紹介したが、なかなかかわいい顔をした好青年だった。
わたしは大阪支社で面接を受けるまえに、東京の本社から電話があり、「交通費をだすので、東京で面接を受けないか」といわれていた。当時、同い年で弁護士志望の男性と結婚する約束を交わしていたので、とても大阪を離れる心境にはなれず、即座に断ったのだった。もしそれを了承していたら、わたしは東京の編集部に配属されていたはずだから、わたしの人生は大きく変わっていただろう。それから10年後に東京に転居したのだが、結婚した相手も当初の男性とはちがっていた。
時計を元に戻せるとしたら、東京の編集部に入り、そこから展開した人生を眺めてみたい。
最後の日は、新宿にある有名店での会食。やはり本社の社員が数名混じっている。
苦手な自己紹介をさせられ、わたしは名前のみを述べた。すると、本社の社員である男性から鋭い声でつっこみが入った。
「それだけですか!」
わたしは当然のように、その発言を無視した。自己をPRするのはいやだし、名前だけ述べた社員はほかにもいたのだから。
座がなごんだころ、わたしは社長に名指しで歌をうたうように命じられた。全員に指示したのならうたうが、自分ひとりなので納得がいかない。これもまた、わたしは無視したのである。その暗黙の意思表示にしらけた座の空気を読んだ女性が、すかさず立ちあがった。
「九州支社の○○です。沖縄の民謡をうたいます」
舞いながらうたう姿は見事だった。
沖縄のひとをはじめてみたが、血の温度が高いと感じた。
わたしがうたうより、よほど彼女のほうが社長を満足させたはずだ。やれやれである。
翌日、大阪支社の上司であるNさんに、研修会で社長に質問した件について報告すると、彼はまっすぐな眼でさりげなくいった。
「大切なことだよ」
Nさんはわたしより6歳上で、本社から大阪に転勤してきばかりだったので、社長については熟知していた。のちにNさんの親友である社員から知らされたのだが、Nさんは社長秘書と婚約していたが、破談して大阪にやってきたという。さらに驚いたのは、あのカメラマンがその彼女に求愛したが、Nさんのほうを選んだらしい。
そういえば、研修のときに知った女性社員がNさんを慕っているのに無視されている、という話を聞いた。その女性の友人は、Nさんが冷たいといって立腹していた。Nさんを慕う女性は、うつむいて苦しげにしていた。酷なようだが、わたしの眼からみても、彼女とNさんは似合わなかった。けれども恋する彼女の想いは、わたしに切なく伝わってきた。言葉をかけることはできなかったけれど。
Nさんはたぶんモテるのだろう。容姿に恵まれていたし、父親が大学の先生をしているという家庭環境のせいか、どことなく育ちのよさが感じられた。大阪支社より人数の多い本社は、複雑な人間模様が展開されているのだろう。
その年の夏、伊豆にある会社の保養所に、全社員が集まった。舞台を備えたお座敷に数名の芸者があらわれたとき、座が騒いだ。いかにも社長好みの設定だと、わたしは苦笑いした。
社長の命令で、東西に分かれて順番に歌をうたわされた。全員なのでわたしは拒否できず、うたった。伴奏なしなので、かなり苦痛だ。全員がうたい終えたとき、驚いたことに社長は10点満点でつけた点数を社員名とともに発表し、東西の合計点を示しながら、どちらが勝ったかまで伝えたのである。救いがたい人間性である。
翌日は海で遊ぶ。浜辺に座っていると、編集長が近づいてきた。編集部からわたしはある仕事を依頼され、それがわりに評価されたので、その件について話しかけてきたのだ。わたしは興味のある人物にそっけなくする性癖があり、そのときも冷たい眼で接したので、彼はすぐに離れていった。後日Nさんから聞いた話では、編集長がにじり寄ってきて、わたしのことをいろいろ訊かれたそうである。全社員が一堂に会するのは、意味があるのかもしれない。
その夜、宴席の舞台で社員が自由に歌をうたっていた。社長がまた、わたしにうたえという。無視していたら、支社長が飛んできて、拝むようにいう。
「○○チャン、お願い、うたって」
それでもわたしのからだは動かなかったのである。どうしても動かないのだ。しばらくしてふと舞台をみると、Nさんがうたっているではないか。距離があるのと、周囲がうるさいので、歌はよく聴きとれなかった。
当時のわたしが若い女性だったから許されたのだが、もし男性だったとしても、わたしの態度は変わらないだろう。もっとも、男性なら社長に歌をうたえと命じられることもないのだが。
そんな性癖は、いまも変わらない。そのためにいやな想いや損をしたが、それでいいと思っている。
わたしはその会社をわずか1年半で退社した。
短かったけれど、さまざまな体験をした濃密な日々だった。
社を去る日、支社長が社長室に電話をし、わたしに挨拶せよという。気が重い。
社長はいつもよりしゃがれた声でいった。
「残念だな……。また遊びにきなさい」
最後まで好きになれない社長だったが、いつになく元気のない声を聞いたとき、すこしだけ申し訳ないという気分になった。
受話器を置いて、「また遊びにきなさい、といわれました」と報告した。
「社長もいいとこあるよなあ!」
支社長は明るく無邪気な顔で、そういった。
2日めに社長の話があった。いかにもワンマン社長という面相で、わたしの苦手なタイプだ。
「国のために本をつくっている」というフレーズが、2回社長の口から飛びだした。そして3回めにそれを耳にしたとき、わたしの体内でなにかが臨界点を超えた。法律図書を刊行している出版社の社長だとしても、聞き捨てならぬ発言だ。と同時に、気づいたら挙手していた。
質問の時間でもないのに挙手しているわたしを訝る社長に促されて、わたしは立ちあがり、怒りを顕わにした声で発言した。
「国のため、国のためとおっしゃいますが、国民のために本はつくらないのですか?」
想像を絶する生意気な新入社員の発言に、ワンマン社長のからだがバランスをうしなって左右に揺れた。しかし2秒後には態勢を立て直し、生理的に拒絶したくなるような威圧的な口調でいった。
「国のために本をつくるということが、国民のために本をつくるということだ。わかったか!」
ぜんぜんちがうじゃないか、と内心思いながらも、「はい」と、にらみつける社長の顔をみながら、あえて小さな声で応えた。一瞬にせよ、社長の態勢が崩れたことが痛快だったからだ。まだ許せる余地がある。
わたしが最も興味をもったのは、編集部に案内されて、編集長から雑誌ができあがる工程について説明を受けたときだ。30代の編集長が美男子で華があったので、女性誌のほうがふさわしいのではないかと思った。しかし女性誌の編集長は、案外ドブネズミ色のさえない中年男だったりするのかもしれない。編集長がカメラマンを紹介したが、なかなかかわいい顔をした好青年だった。
わたしは大阪支社で面接を受けるまえに、東京の本社から電話があり、「交通費をだすので、東京で面接を受けないか」といわれていた。当時、同い年で弁護士志望の男性と結婚する約束を交わしていたので、とても大阪を離れる心境にはなれず、即座に断ったのだった。もしそれを了承していたら、わたしは東京の編集部に配属されていたはずだから、わたしの人生は大きく変わっていただろう。それから10年後に東京に転居したのだが、結婚した相手も当初の男性とはちがっていた。
時計を元に戻せるとしたら、東京の編集部に入り、そこから展開した人生を眺めてみたい。
最後の日は、新宿にある有名店での会食。やはり本社の社員が数名混じっている。
苦手な自己紹介をさせられ、わたしは名前のみを述べた。すると、本社の社員である男性から鋭い声でつっこみが入った。
「それだけですか!」
わたしは当然のように、その発言を無視した。自己をPRするのはいやだし、名前だけ述べた社員はほかにもいたのだから。
座がなごんだころ、わたしは社長に名指しで歌をうたうように命じられた。全員に指示したのならうたうが、自分ひとりなので納得がいかない。これもまた、わたしは無視したのである。その暗黙の意思表示にしらけた座の空気を読んだ女性が、すかさず立ちあがった。
「九州支社の○○です。沖縄の民謡をうたいます」
舞いながらうたう姿は見事だった。
沖縄のひとをはじめてみたが、血の温度が高いと感じた。
わたしがうたうより、よほど彼女のほうが社長を満足させたはずだ。やれやれである。
翌日、大阪支社の上司であるNさんに、研修会で社長に質問した件について報告すると、彼はまっすぐな眼でさりげなくいった。
「大切なことだよ」
Nさんはわたしより6歳上で、本社から大阪に転勤してきばかりだったので、社長については熟知していた。のちにNさんの親友である社員から知らされたのだが、Nさんは社長秘書と婚約していたが、破談して大阪にやってきたという。さらに驚いたのは、あのカメラマンがその彼女に求愛したが、Nさんのほうを選んだらしい。
そういえば、研修のときに知った女性社員がNさんを慕っているのに無視されている、という話を聞いた。その女性の友人は、Nさんが冷たいといって立腹していた。Nさんを慕う女性は、うつむいて苦しげにしていた。酷なようだが、わたしの眼からみても、彼女とNさんは似合わなかった。けれども恋する彼女の想いは、わたしに切なく伝わってきた。言葉をかけることはできなかったけれど。
Nさんはたぶんモテるのだろう。容姿に恵まれていたし、父親が大学の先生をしているという家庭環境のせいか、どことなく育ちのよさが感じられた。大阪支社より人数の多い本社は、複雑な人間模様が展開されているのだろう。
その年の夏、伊豆にある会社の保養所に、全社員が集まった。舞台を備えたお座敷に数名の芸者があらわれたとき、座が騒いだ。いかにも社長好みの設定だと、わたしは苦笑いした。
社長の命令で、東西に分かれて順番に歌をうたわされた。全員なのでわたしは拒否できず、うたった。伴奏なしなので、かなり苦痛だ。全員がうたい終えたとき、驚いたことに社長は10点満点でつけた点数を社員名とともに発表し、東西の合計点を示しながら、どちらが勝ったかまで伝えたのである。救いがたい人間性である。
翌日は海で遊ぶ。浜辺に座っていると、編集長が近づいてきた。編集部からわたしはある仕事を依頼され、それがわりに評価されたので、その件について話しかけてきたのだ。わたしは興味のある人物にそっけなくする性癖があり、そのときも冷たい眼で接したので、彼はすぐに離れていった。後日Nさんから聞いた話では、編集長がにじり寄ってきて、わたしのことをいろいろ訊かれたそうである。全社員が一堂に会するのは、意味があるのかもしれない。
その夜、宴席の舞台で社員が自由に歌をうたっていた。社長がまた、わたしにうたえという。無視していたら、支社長が飛んできて、拝むようにいう。
「○○チャン、お願い、うたって」
それでもわたしのからだは動かなかったのである。どうしても動かないのだ。しばらくしてふと舞台をみると、Nさんがうたっているではないか。距離があるのと、周囲がうるさいので、歌はよく聴きとれなかった。
当時のわたしが若い女性だったから許されたのだが、もし男性だったとしても、わたしの態度は変わらないだろう。もっとも、男性なら社長に歌をうたえと命じられることもないのだが。
そんな性癖は、いまも変わらない。そのためにいやな想いや損をしたが、それでいいと思っている。
わたしはその会社をわずか1年半で退社した。
短かったけれど、さまざまな体験をした濃密な日々だった。
社を去る日、支社長が社長室に電話をし、わたしに挨拶せよという。気が重い。
社長はいつもよりしゃがれた声でいった。
「残念だな……。また遊びにきなさい」
最後まで好きになれない社長だったが、いつになく元気のない声を聞いたとき、すこしだけ申し訳ないという気分になった。
受話器を置いて、「また遊びにきなさい、といわれました」と報告した。
「社長もいいとこあるよなあ!」
支社長は明るく無邪気な顔で、そういった。
2006年04月07日
最終電車 【エッセイ】
過日、おいしいお酒をのむ機会に恵まれ、時を忘れて語りあった。最終電車に間にあうかどうかという時間帯だったにもかかわらず、乗った電車がなぜか反対方向だった。いつもぼうっとしているわたしには、たまにこういうことがある。途中でそのことに気づいたが、最終電車だったため超満員だった。
「降ります、降ります!」
わたしは無様な叫び声をあげた。
周囲にいたドア付近の人間は、20代〜30代の男ばかりで、全員が黒の上着を着用している。すぐ横にいた男が、露骨にいやな顔をした。ほかの男たちは動く気配がなく、黙りこんでいる。
同じような状況になったのは、もう15年ほどまえだっただろうか。そのときにはわたしの言葉にひとびとが反応し、降ろしてあげようという動きがみられた。今回は、ひとが黒い岩のように立ちはだかっている。
もしここで人身事故が発生したら、舌打ちする人間がいても不思議はないという空気が、車内に充満している。
もしかしたら降りられないかもしれない。帰るつもりの自宅からどんどん離れてゆく。どこまで連れていかれるのだろう……と、車外の闇に眼をやる。
ようやく駅に到着した。ドアが開いたとき、わたしは黙していたにもかかわらず鈍いひとの動きがあり、さきほどのわたしの声は彼らに届いていたのだと知らされた。ホームに降り立つわたしの顔を、ホームに押しだされた男たちのひとりが確かめるようにみたが、悪意は感じられなかった。
ホームで反対方向の電車を待つ。これも最終電車だ。自宅の最寄り駅の数駅手前だが、間にあっただけマシだ。すべてタクシーを利用すると、1万円ほどかかるだろうから。
かなり長時間待ったのちに乗りこんだ電車のなかで、ふと東電OLのことを想起した。
わたしには東電OLだった泰子さんのことがまったく理解できないけれど、ずいぶん遠回りしたなあという気分の車内で、彼女の"居場所のなさ"が身にしみた。というのも、わたしが泰子さんに関して読んだもののなかで最もなまなましかったのは、「文藝春秋」(2001/6)に掲載された椎名玲氏(フリーライター)の一文だったからだ。
椎名氏は平成8年の10月から12月まで、ほぼ毎日のように泰子さんと同じ電車(京王井の頭線、渋谷発零時34分の吉祥寺行き最終電車)に乗りあわせ、彼女と同じ西永福駅で降り、同じ街で暮らしていた。泰子さんは平成9年の3月に殺されているので、生身の泰子さんを知る椎名氏の証言は、真に迫るものがある。
藤原新也(作家・写真家)が東電OLについて言及したものを読んだことはないが、「COSMOPOLITAN」(2002/12)に掲載された夜の道玄坂地蔵のモノクロ写真は、妖しく、神秘的な生命力が感じられる。
この道玄坂地蔵のまえで泰子さんは客を引いていたという。肉体的にも精神的にも娼婦にむかない彼女が、1日4人というノルマを自らに課し、毎日最終電車で帰宅していたというのは、なんとも傷ましい。そうして稼いだお金は、すべて貯蓄していたらしい。敬愛する父親を早くに亡くしたため、財力に対する執着があったのか。あるいはそれが泰子さんの金銭哲学だったのだろうか。
電車を降りると、「すべての路線において電車は終了しました」というアナウンスが流れた。なにやら世界に見放されたような自分をもてあます。わたしがほんとうに帰りたい場所は奈辺にあるのか。
タクシー乗り場は閑散としていた。乗りこんだ瞬間、車内に澄んだ空気を感じ、安堵する。20代の運転手は清らかで端正な顔だちをしている。応対に卒がなく、驚くほど運転が巧い。肉体的に消耗していたので乗り物酔いするにちがいないと思っていたのだが、じつに快適だった。
目的地に着くと、わたしは料金を上回る新券の2千円札を数枚さし示しながらいった。
「運転がお上手ですね。これだけお渡ししますから」
彼は軽く驚きながらも、凛とした態度は崩さない。わたしがいままで乗りあわせた運転手のなかで最高に質がよい。言葉づかいを含め、一流のビジネスマンとしても通用しそうな雰囲気を醸しだしている。背広が似合いそうだ。なにか理由があって、一時的にタクシーの運転手をしているのだろうか。
そんな彼への賞賛とともに、さきほどの満員電車でのマイナスエネルギーを払拭したかった。だが、彼にわたしの真意は伝わらなかっただろう。それでいいのだ。紙幣なのに市場に流通していなくて、手垢のついていない新券の2千円札は、彼に似つかわしい。中年になっても同じ職業に就いていたとして、彼が変質していないことを願うのみだ。
わたしはタクシーのなかでお釣りをもらうのに抵抗があるので、「お釣りはけっこうです」というのはよくある。以前はあたりまえという反応だった運転手が、最近はそのことに驚くケースが多い。不況のせいで、そんな客が減っているのだろうか。しかしその夜のように、料金をかなり上回る額を払ったのは、はじめてだった。
最近の中年のタクシー運転手は、当然知っているべき建物を知らないし、知らないということに対する恥じらいもない。そんな人間と密室に閉じこめられるのは、かなり苦痛だ。しかし彼らの劣悪な職場環境を考慮すると、立腹できない。
事はタクシー運転手に限られないから、厄介なのだ。日本人全体の病いとして、プロ意識が失われているという時代性がある。それゆえ、たまにきっちりした仕事ぶりを眼にしたとき、感動してしまう。
そういえば、一昨年の秋、わたしは親切な若者に遭遇した。。
車内はほどよい混みかげんだった。わたしはドア付近に立ち、いつものように車外の景色をぼうっと眺めていた。右肩を親しげにたたかれたので、どきりとした。知りあいが乗っていたのかと思ったのだ。振りむくと、おしゃれな毛糸の帽子をかぶった演劇青年のような背の高い若者が、さわやかな笑顔を浮かべていった。
「あちらが空いてますよ」
2メートルほど先にたしかに空席はあったが、その付近に数人のひとが立っている。その距離までわたしがのこのこ歩いてゆくのは不自然だ。
「すぐに降りますから」
わたしがそう応えると、彼は笑顔で受けた。
気が重くなる所用の帰りだったので、彼の親切にわたしの気もちは和んだのだが、それが彼に伝わるはずがない。不意打ちを食らった場合、ひとはぶっきらぼうになるのかもしれないが、想いを伝達するのは意外と困難だ。また、ひとの表情から内面を読みとるのも、限界があるように思う。内面とは裏腹な表情もあるのだから。
〔参照〕
東電OL殺人事件を契機に書き継がれた連作詩篇
『空室(1991──2000)』(柴田千晶/ミッドナイト・プレス)
上記詩篇は、東電OLを詩的に昇華させながらリアリティーがある。
柴田千晶氏の感性がわたしは好きだ。氏が詩人として正当な評価をされる日を待ち望んでいる。
「降ります、降ります!」
わたしは無様な叫び声をあげた。
周囲にいたドア付近の人間は、20代〜30代の男ばかりで、全員が黒の上着を着用している。すぐ横にいた男が、露骨にいやな顔をした。ほかの男たちは動く気配がなく、黙りこんでいる。
同じような状況になったのは、もう15年ほどまえだっただろうか。そのときにはわたしの言葉にひとびとが反応し、降ろしてあげようという動きがみられた。今回は、ひとが黒い岩のように立ちはだかっている。
もしここで人身事故が発生したら、舌打ちする人間がいても不思議はないという空気が、車内に充満している。
もしかしたら降りられないかもしれない。帰るつもりの自宅からどんどん離れてゆく。どこまで連れていかれるのだろう……と、車外の闇に眼をやる。
ようやく駅に到着した。ドアが開いたとき、わたしは黙していたにもかかわらず鈍いひとの動きがあり、さきほどのわたしの声は彼らに届いていたのだと知らされた。ホームに降り立つわたしの顔を、ホームに押しだされた男たちのひとりが確かめるようにみたが、悪意は感じられなかった。
ホームで反対方向の電車を待つ。これも最終電車だ。自宅の最寄り駅の数駅手前だが、間にあっただけマシだ。すべてタクシーを利用すると、1万円ほどかかるだろうから。
かなり長時間待ったのちに乗りこんだ電車のなかで、ふと東電OLのことを想起した。
わたしには東電OLだった泰子さんのことがまったく理解できないけれど、ずいぶん遠回りしたなあという気分の車内で、彼女の"居場所のなさ"が身にしみた。というのも、わたしが泰子さんに関して読んだもののなかで最もなまなましかったのは、「文藝春秋」(2001/6)に掲載された椎名玲氏(フリーライター)の一文だったからだ。
椎名氏は平成8年の10月から12月まで、ほぼ毎日のように泰子さんと同じ電車(京王井の頭線、渋谷発零時34分の吉祥寺行き最終電車)に乗りあわせ、彼女と同じ西永福駅で降り、同じ街で暮らしていた。泰子さんは平成9年の3月に殺されているので、生身の泰子さんを知る椎名氏の証言は、真に迫るものがある。
藤原新也(作家・写真家)が東電OLについて言及したものを読んだことはないが、「COSMOPOLITAN」(2002/12)に掲載された夜の道玄坂地蔵のモノクロ写真は、妖しく、神秘的な生命力が感じられる。
この道玄坂地蔵のまえで泰子さんは客を引いていたという。肉体的にも精神的にも娼婦にむかない彼女が、1日4人というノルマを自らに課し、毎日最終電車で帰宅していたというのは、なんとも傷ましい。そうして稼いだお金は、すべて貯蓄していたらしい。敬愛する父親を早くに亡くしたため、財力に対する執着があったのか。あるいはそれが泰子さんの金銭哲学だったのだろうか。
電車を降りると、「すべての路線において電車は終了しました」というアナウンスが流れた。なにやら世界に見放されたような自分をもてあます。わたしがほんとうに帰りたい場所は奈辺にあるのか。
タクシー乗り場は閑散としていた。乗りこんだ瞬間、車内に澄んだ空気を感じ、安堵する。20代の運転手は清らかで端正な顔だちをしている。応対に卒がなく、驚くほど運転が巧い。肉体的に消耗していたので乗り物酔いするにちがいないと思っていたのだが、じつに快適だった。
目的地に着くと、わたしは料金を上回る新券の2千円札を数枚さし示しながらいった。
「運転がお上手ですね。これだけお渡ししますから」
彼は軽く驚きながらも、凛とした態度は崩さない。わたしがいままで乗りあわせた運転手のなかで最高に質がよい。言葉づかいを含め、一流のビジネスマンとしても通用しそうな雰囲気を醸しだしている。背広が似合いそうだ。なにか理由があって、一時的にタクシーの運転手をしているのだろうか。
そんな彼への賞賛とともに、さきほどの満員電車でのマイナスエネルギーを払拭したかった。だが、彼にわたしの真意は伝わらなかっただろう。それでいいのだ。紙幣なのに市場に流通していなくて、手垢のついていない新券の2千円札は、彼に似つかわしい。中年になっても同じ職業に就いていたとして、彼が変質していないことを願うのみだ。
わたしはタクシーのなかでお釣りをもらうのに抵抗があるので、「お釣りはけっこうです」というのはよくある。以前はあたりまえという反応だった運転手が、最近はそのことに驚くケースが多い。不況のせいで、そんな客が減っているのだろうか。しかしその夜のように、料金をかなり上回る額を払ったのは、はじめてだった。
最近の中年のタクシー運転手は、当然知っているべき建物を知らないし、知らないということに対する恥じらいもない。そんな人間と密室に閉じこめられるのは、かなり苦痛だ。しかし彼らの劣悪な職場環境を考慮すると、立腹できない。
事はタクシー運転手に限られないから、厄介なのだ。日本人全体の病いとして、プロ意識が失われているという時代性がある。それゆえ、たまにきっちりした仕事ぶりを眼にしたとき、感動してしまう。
そういえば、一昨年の秋、わたしは親切な若者に遭遇した。。
車内はほどよい混みかげんだった。わたしはドア付近に立ち、いつものように車外の景色をぼうっと眺めていた。右肩を親しげにたたかれたので、どきりとした。知りあいが乗っていたのかと思ったのだ。振りむくと、おしゃれな毛糸の帽子をかぶった演劇青年のような背の高い若者が、さわやかな笑顔を浮かべていった。
「あちらが空いてますよ」
2メートルほど先にたしかに空席はあったが、その付近に数人のひとが立っている。その距離までわたしがのこのこ歩いてゆくのは不自然だ。
「すぐに降りますから」
わたしがそう応えると、彼は笑顔で受けた。
気が重くなる所用の帰りだったので、彼の親切にわたしの気もちは和んだのだが、それが彼に伝わるはずがない。不意打ちを食らった場合、ひとはぶっきらぼうになるのかもしれないが、想いを伝達するのは意外と困難だ。また、ひとの表情から内面を読みとるのも、限界があるように思う。内面とは裏腹な表情もあるのだから。
〔参照〕
東電OL殺人事件を契機に書き継がれた連作詩篇
『空室(1991──2000)』(柴田千晶/ミッドナイト・プレス)
上記詩篇は、東電OLを詩的に昇華させながらリアリティーがある。
柴田千晶氏の感性がわたしは好きだ。氏が詩人として正当な評価をされる日を待ち望んでいる。