2006年07月
2006年07月24日
上野晴子著『キジバトの記』
朝日新聞・朝刊の別刷りbe(土曜日)の【愛の旅人】を愉しみにしている。書き手が同じひとではないのだが、毎回、文章がとてもいい。
6月10日は、「妖婦か殉愛のヒロインか」と題して、阿部定事件をとりあげていた。
(文・保科龍朗 / 写真・内藤久雄)
阿部定事件については興味がなかったのだが、保科龍朗氏の筆力には脱帽した。
つぎの視点が、わたしの定に対する認識を変えた。
《定はその運命を潔く引き受けたかにみえた。だが、手記に透かし見える虚実あいまいな内面の真実は、死にきれなかった「殉愛」の聖なるヒロインに人知れずなりきることだったようだ》
さて、7月8日は「割烹着に隠された闇」 上野英信と晴子――「キジバトの記」だった。
(文・今田幸伸 / 写真・内藤久雄)
食道ガンが脳に転移した上野英信が逝ったのは、1987年11月21日。享年64歳。
英信の死後、ひとり息子・朱(あかし)さんの家族と同居していた晴子は、原発性腹膜ガンでホスピスにて死去。1997年8月、享年70歳。
『こみち通信 15』――追悼・上野英信(径書房・1988/4/20)に掲載された上野朱さんの一文は、その筆力とともにわたしを圧倒した。
《私も同じ屋根の下に暮らし、民衆の悲しみに寄り添う上野英信と、妻に対して絶対服従を求める上野鋭之進との矛盾を見てきた。そしてその仕事はともかくとして、一家庭人としての父には疑問を抱き続け、父の奥深くに潜む天皇制家父長主義を憎んでいた》
そんな朱さんの憎しみは、死の1ヵ月余りまえ、もつれる舌で「お父さんの右手はどこにあるのか」という父のひとことで崩れさる。
そして「もう一度あの人の子供に生まれてみたい」と記す。
上野晴子著『キジバトの記』(発行=裏山書房・発売=海鳥社・1998/1/15)を発刊当時に読んだとき、わたしは失望した。
今回、再読したが、同じ感想である。
性別に関係なく他人の作品のためには惜しみなく協力した英信は、妻の晴子だけには文学(短歌)を禁じた。
「文学の毒が君の総身に回っている」という英信の言に、わたしは笑うしかない。しかしその理由について、「文学の不幸を知り尽くした人の、妻に対する最後の愛情だったかとも思われる」と記す晴子の見解には失望するのみ。
英信は京都大学時代に才色兼備の女子学生と魅かれあった。が、彼女は「英信が周囲の期待に応えて学問をつづけるならばどこまでも一緒に歩む。けれども、一切をなげうって炭坑へまでついてゆく勇気はない、と正直に告げて去っていった」。
晴子は、そののち立派な学者になったという名も知らぬその彼女を、「曼殊院の君」と呼んでいる。
英信は「曼殊院の君」に裏切られたと思っていたらしいけれど、それは勝手な思惑だ。しかしそれより、晴子も単なるエゴイストの英信に同調している節があるのが、わたしには解せない。
晴子は、結局は英信を尊敬し、自分を筑豊に連れてきてくれたことに感謝していた。
亡くなる直前、晴子は朱さんに「もう一度、お父さんと一緒になりたい」と語ったという。そんな晴子に、わたしはがっかりしてしまうのである。
晴子は結婚に破れ、英信とは再婚である。初婚の男性との関係について晴子は記していない。それが明らかにされると、英信への尊敬の念が理解できるのかもしれない。
家庭で「武装した天皇」であった上野英信の思想性と、なした仕事との矛盾点を、しっかりみつめることのほうが大切だと、わたしは思うのである。
英信はできあがった原稿を最初に妻の晴子にみせたらしいから、夫婦の型としては、木村栄文夫妻と同列なのだろう。
そういえばわたしの友人が、懇意にしている作家とともに、英信と晴子が開いた「筑豊文庫」を訪ねたときの話を聞いたことがある。
英信に師事していたある作家について、「もうダメになった」と評したという。英信は、よほど彼女たちにこころを許していたのだろう。
晴子が来客の接待に追われ、水仕事のしすぎで手が傷だらけになっていた様子が、『キジバトの記』に記されている。
英信を慕う不躾な女性たちを含め、来客たちは、立ち働く晴子の姿をどのように受けとめていたのだろうか。
6月10日は、「妖婦か殉愛のヒロインか」と題して、阿部定事件をとりあげていた。
(文・保科龍朗 / 写真・内藤久雄)
阿部定事件については興味がなかったのだが、保科龍朗氏の筆力には脱帽した。
つぎの視点が、わたしの定に対する認識を変えた。
《定はその運命を潔く引き受けたかにみえた。だが、手記に透かし見える虚実あいまいな内面の真実は、死にきれなかった「殉愛」の聖なるヒロインに人知れずなりきることだったようだ》
さて、7月8日は「割烹着に隠された闇」 上野英信と晴子――「キジバトの記」だった。
(文・今田幸伸 / 写真・内藤久雄)
食道ガンが脳に転移した上野英信が逝ったのは、1987年11月21日。享年64歳。
英信の死後、ひとり息子・朱(あかし)さんの家族と同居していた晴子は、原発性腹膜ガンでホスピスにて死去。1997年8月、享年70歳。
『こみち通信 15』――追悼・上野英信(径書房・1988/4/20)に掲載された上野朱さんの一文は、その筆力とともにわたしを圧倒した。
《私も同じ屋根の下に暮らし、民衆の悲しみに寄り添う上野英信と、妻に対して絶対服従を求める上野鋭之進との矛盾を見てきた。そしてその仕事はともかくとして、一家庭人としての父には疑問を抱き続け、父の奥深くに潜む天皇制家父長主義を憎んでいた》
そんな朱さんの憎しみは、死の1ヵ月余りまえ、もつれる舌で「お父さんの右手はどこにあるのか」という父のひとことで崩れさる。
そして「もう一度あの人の子供に生まれてみたい」と記す。
上野晴子著『キジバトの記』(発行=裏山書房・発売=海鳥社・1998/1/15)を発刊当時に読んだとき、わたしは失望した。
今回、再読したが、同じ感想である。
性別に関係なく他人の作品のためには惜しみなく協力した英信は、妻の晴子だけには文学(短歌)を禁じた。
「文学の毒が君の総身に回っている」という英信の言に、わたしは笑うしかない。しかしその理由について、「文学の不幸を知り尽くした人の、妻に対する最後の愛情だったかとも思われる」と記す晴子の見解には失望するのみ。
英信は京都大学時代に才色兼備の女子学生と魅かれあった。が、彼女は「英信が周囲の期待に応えて学問をつづけるならばどこまでも一緒に歩む。けれども、一切をなげうって炭坑へまでついてゆく勇気はない、と正直に告げて去っていった」。
晴子は、そののち立派な学者になったという名も知らぬその彼女を、「曼殊院の君」と呼んでいる。
英信は「曼殊院の君」に裏切られたと思っていたらしいけれど、それは勝手な思惑だ。しかしそれより、晴子も単なるエゴイストの英信に同調している節があるのが、わたしには解せない。
晴子は、結局は英信を尊敬し、自分を筑豊に連れてきてくれたことに感謝していた。
亡くなる直前、晴子は朱さんに「もう一度、お父さんと一緒になりたい」と語ったという。そんな晴子に、わたしはがっかりしてしまうのである。
晴子は結婚に破れ、英信とは再婚である。初婚の男性との関係について晴子は記していない。それが明らかにされると、英信への尊敬の念が理解できるのかもしれない。
家庭で「武装した天皇」であった上野英信の思想性と、なした仕事との矛盾点を、しっかりみつめることのほうが大切だと、わたしは思うのである。
英信はできあがった原稿を最初に妻の晴子にみせたらしいから、夫婦の型としては、木村栄文夫妻と同列なのだろう。
そういえばわたしの友人が、懇意にしている作家とともに、英信と晴子が開いた「筑豊文庫」を訪ねたときの話を聞いたことがある。
英信に師事していたある作家について、「もうダメになった」と評したという。英信は、よほど彼女たちにこころを許していたのだろう。
晴子が来客の接待に追われ、水仕事のしすぎで手が傷だらけになっていた様子が、『キジバトの記』に記されている。
英信を慕う不躾な女性たちを含め、来客たちは、立ち働く晴子の姿をどのように受けとめていたのだろうか。
2006年07月11日
リリー・フランキーの課外授業「ラブレターを書こう」
リリー・フランキー(イラストレーター・作家)の「課外授業ようこそ先輩」(2006/07/01・NHK総合)を愉しみにしていた。
福岡県宮若市立宮田南小学校
制作・オルタスジャパン
正直なところ、期待はずれだったといわねばならない。自分がなにを期待していたのか、録画を観ながら検証したいと思い、ビデオを再生した。
な、なんと、トップシーン・東京タワーの映像の直後、フィルムが「お宝TV――吉村作治が語る"七人の刑事"」(2006/07/07・BS2・19:30〜20:00・制作協力 オルタスジャパン)に移行しているではないか。
過日、「課外授業」の録画を観ようとして巻きもどしたまま放置していたのを忘れ、そこへ「お宝TV」を録画してしまったらしい。
幸いにもリアルタイムで本番組を観ていたが、細部についての記憶は失われている。
そんなわけで、今回は粗雑な内容になることをお許しいただきたい。
以前に、リリー・フランキーが「トップランナー」(NHK教育)に出演し、ベストセラー『東京タワー』について語るのをおもしろく観た。
それよりも強烈な印象を受けたのは、5月の火曜日「知るを楽しむ/私のこだわり人物伝」(NHK教育)で、松田優作についてリリー・フランキーが語った「アニキの呼び声」だった。
わたしが松田優作を好きではないにもかかわらず、リリー・フランキーの茫洋とした表情を崩さない語りを愉しめたのである。
リリー・フランキーは、脂ぎっていない顔の下に隠されている狂気が透けてみえるような、味わいのある顔をしている。どこまでいっても妖しいヒト。
「日本の男は、松田優作が棲みついた男とそうでない男の二種類に分かれる」というリリー・フランキーの持論の信憑性はともかく、男が男に惚れるすさまじさを、脚本家・丸山昇一と松田優作の関係をだぶらせながらみせつけた。
リリー・フランキーの持ち味は、独特の力の抜けかたとナンセンスなユーモア感覚だと、わたしはとらえている。それは「課外授業」にもあらわれていた。
前回のオルタスジャパン制作・山崎貴の「課外授業」に、番組の定型を破った新鮮さがあったので、今回の定型ぶりに落差を感じたのだろう。
全体的に、リリー・フランキー『東京タワー』の宣伝効果が強く、子どもたちの影が薄い。
それにしても、リリー・フランキーらしからぬ平坦な内容に終始したのはなぜなのか。それも彼は織りこみ済みかもしれぬと思うのは、わたしの深読みだろうか。つまり、そんなに簡単なテーマじゃないので、ご期待には添えませんよ、とでもいいたいのではないかと。
彼は、自らは動かず、感動したがる視聴者の貪欲さを斬り捨てたのではないか、とわたしは妄想する。
そのせいかどうか、わたしは番組を観おえたあと、自分ならどんなラブレターを書くだろうかと、わが身におきかえて考えさせられたのである。
授業の冒頭で「テーマを用意してきませんでした」とリリー・フランキーは宣言し、子どもたちを驚かせる。そしてテーマを決めるために、記述式のアンケートを書かせる。その結果、「ほんとうの想いを伝えられない」子どもたちが多いということが判明。ラブレターを書かせるという課題を与える。
これでは予定調和ではないか、という想いがよぎり、いささかしらけた気分になったのは事実だ。
子どもたちが発表したラブレターに、わたしはそれほど感動しなかった。だからこそラブレターを書くむずかしさを感じた、ともいえる。
あたりまえだが、文章でしか表現できないからラブレターを書くのだ。
本気でラブレターを書きたいと思う人間に出逢えただけでも、幸せなのかもしれない。そんなことがなくても、ひとは生きていけるだろうから。
いままで多くの「課外授業ようこそ先輩」を観てきて思うのは、6年生を相手に授業をするため、子どもらしい発想に欠けるのではないかということ。6年生は、おとなと同じ感覚をもつ。4年生相手の授業なら、おもしろくなるのではないか。そのぶん失敗も多いので、リスクは大きいが。
*
7/7放映の「お宝TV」でとりあげられた「七人刑事」をわたしが観たのは、小学生のころだった。毎週、愉しみにしていたのを憶えている。芦田伸介がいい味をだしていると、生意気にも思っていた。
「お宝TV」で流れたモノクロの映像を観ると、ドラマではなく現実に起きている事件のような錯覚に陥った。
〔参照〕
リリー・フランキー(フリー百科事典『ウィキペディア』)
七人の刑事―TVおたく第一世代
福岡県宮若市立宮田南小学校
制作・オルタスジャパン
正直なところ、期待はずれだったといわねばならない。自分がなにを期待していたのか、録画を観ながら検証したいと思い、ビデオを再生した。
な、なんと、トップシーン・東京タワーの映像の直後、フィルムが「お宝TV――吉村作治が語る"七人の刑事"」(2006/07/07・BS2・19:30〜20:00・制作協力 オルタスジャパン)に移行しているではないか。
過日、「課外授業」の録画を観ようとして巻きもどしたまま放置していたのを忘れ、そこへ「お宝TV」を録画してしまったらしい。
幸いにもリアルタイムで本番組を観ていたが、細部についての記憶は失われている。
そんなわけで、今回は粗雑な内容になることをお許しいただきたい。
以前に、リリー・フランキーが「トップランナー」(NHK教育)に出演し、ベストセラー『東京タワー』について語るのをおもしろく観た。
それよりも強烈な印象を受けたのは、5月の火曜日「知るを楽しむ/私のこだわり人物伝」(NHK教育)で、松田優作についてリリー・フランキーが語った「アニキの呼び声」だった。
わたしが松田優作を好きではないにもかかわらず、リリー・フランキーの茫洋とした表情を崩さない語りを愉しめたのである。
リリー・フランキーは、脂ぎっていない顔の下に隠されている狂気が透けてみえるような、味わいのある顔をしている。どこまでいっても妖しいヒト。
「日本の男は、松田優作が棲みついた男とそうでない男の二種類に分かれる」というリリー・フランキーの持論の信憑性はともかく、男が男に惚れるすさまじさを、脚本家・丸山昇一と松田優作の関係をだぶらせながらみせつけた。
リリー・フランキーの持ち味は、独特の力の抜けかたとナンセンスなユーモア感覚だと、わたしはとらえている。それは「課外授業」にもあらわれていた。
前回のオルタスジャパン制作・山崎貴の「課外授業」に、番組の定型を破った新鮮さがあったので、今回の定型ぶりに落差を感じたのだろう。
全体的に、リリー・フランキー『東京タワー』の宣伝効果が強く、子どもたちの影が薄い。
それにしても、リリー・フランキーらしからぬ平坦な内容に終始したのはなぜなのか。それも彼は織りこみ済みかもしれぬと思うのは、わたしの深読みだろうか。つまり、そんなに簡単なテーマじゃないので、ご期待には添えませんよ、とでもいいたいのではないかと。
彼は、自らは動かず、感動したがる視聴者の貪欲さを斬り捨てたのではないか、とわたしは妄想する。
そのせいかどうか、わたしは番組を観おえたあと、自分ならどんなラブレターを書くだろうかと、わが身におきかえて考えさせられたのである。
授業の冒頭で「テーマを用意してきませんでした」とリリー・フランキーは宣言し、子どもたちを驚かせる。そしてテーマを決めるために、記述式のアンケートを書かせる。その結果、「ほんとうの想いを伝えられない」子どもたちが多いということが判明。ラブレターを書かせるという課題を与える。
これでは予定調和ではないか、という想いがよぎり、いささかしらけた気分になったのは事実だ。
子どもたちが発表したラブレターに、わたしはそれほど感動しなかった。だからこそラブレターを書くむずかしさを感じた、ともいえる。
あたりまえだが、文章でしか表現できないからラブレターを書くのだ。
本気でラブレターを書きたいと思う人間に出逢えただけでも、幸せなのかもしれない。そんなことがなくても、ひとは生きていけるだろうから。
いままで多くの「課外授業ようこそ先輩」を観てきて思うのは、6年生を相手に授業をするため、子どもらしい発想に欠けるのではないかということ。6年生は、おとなと同じ感覚をもつ。4年生相手の授業なら、おもしろくなるのではないか。そのぶん失敗も多いので、リスクは大きいが。
*
7/7放映の「お宝TV」でとりあげられた「七人刑事」をわたしが観たのは、小学生のころだった。毎週、愉しみにしていたのを憶えている。芦田伸介がいい味をだしていると、生意気にも思っていた。
「お宝TV」で流れたモノクロの映像を観ると、ドラマではなく現実に起きている事件のような錯覚に陥った。
〔参照〕
リリー・フランキー(フリー百科事典『ウィキペディア』)
七人の刑事―TVおたく第一世代
2006年07月05日
現代美術家・束芋のひらめき
新聞小説はほとんど読んでいないのだが、数日まえにふと眼に入ったのが朝日新聞・夕刊に連載されている小説「悪人」。作・吉田修一。画・束芋。
数年まえから束芋に注目していたのに、どうしていままで気づかなかったのだろう。
吉田修一については、名前だけは知っていたが、作品を読むのははじめて。「悪人」は、味わいのある文章だし、興味深い内容だ。
ちなみに朝刊には桐野夏生の「メタボラ」が連載されている。初回から読み通すことのできない文章なので、まったく読んでいない。
束芋の画は、小説世界を錬りあげた、挿画を超えた独立した作品である。
文章からイメージされる小説世界を、さらに束芋の画に刺激されることで、別世界にひきずりこまれる。
ここまで存在感のある挿画を、わたしは知らない。
【束芋(たばいも)のプロフィール】
1975年、兵庫県生まれ。本名・田端綾子。
3人姉妹の次女で、予備校生時代に姉と同じクラスになり、ある友人が"田端の妹"という意味の「タバイモ」と呼びはじめた。これに漢字の「束芋」を当てた。
ちなみに姉は「タバアネ」、妹は「イモイモ」。
1999年、京都造形芸術大学芸術学部情報デザインコース卒業。
芸大には、一浪して追加合格で入学し、卒業時は、就職志望の会社にすべて断られた。
卒業制作「にっぽんの台所」が、キリンコンテンポラリーアワード1999」(現キリンアートアワード)にて最優秀作品賞を受賞したのを契機に、世界的にアーティストとして活躍。
束芋の作品は、インスタレーションというジャンルに入る。
ベルギーの美術関係者は、束芋の作品を「俳句のよう」だと評したという。
2002年10月、弱冠26歳で母校・京都造形芸術大学の教授に就任したときは、大きなニュースになった。
*
束芋は、京都芸大の学生には、「○○恐怖症」というふうに、それぞれの恐怖症を課題に制作させたらしい。
そんな束芋は、小学生相手だったら、どのような課題を与えるのだろう。
子どもたちが、束芋の卒業制作「にっぽんの台所」(1999年)で描かれた、まな板の上でサラリーマンが首を切られるアニメをみて、どのような感想をもつのか、興味がある。
われわれは「リストラ」という言葉には不感症になっている。が、まな板のうえで女性(いかにも主婦デス、という太った中年女性)が、中年男性の首を気軽に、かつ容赦なく切ろうとしている図には、独特の不気味さが漂う。
滑稽なアニメに、自分の首が切られようとしているような臨場感がある。
なお束芋自身は、「自分を理解し、素直に表現しているだけで、社会批評をしているつもりはない」とのこと。
〔追記 2006/07/14〕
「ヨロヨロン 束芋」展
東京・品川の原美術館
8月27日まで(7月17日を除く月曜と7月18日休み)
「ヨロヨロン」 束芋 (Fuji-tv ART NET)
〔追記 2006/07/19〕
7月23日(日)、束芋が「トップランナー」(NHK教育・19:00 〜 19:44)に出演します。
〔参照〕
第12回日本現代藝術奨励賞
束芋展:おどろおどろ
現代美術家 束 芋さん(asahi.com マイタウン京都/2005年10月31日)
美術家 束 芋 「にっぽん」という国の色(神戸新聞・2003/01/04)
ArtYuran「Vol.24 束芋(Tabaimo) 」2000/09/22
数年まえから束芋に注目していたのに、どうしていままで気づかなかったのだろう。
吉田修一については、名前だけは知っていたが、作品を読むのははじめて。「悪人」は、味わいのある文章だし、興味深い内容だ。
ちなみに朝刊には桐野夏生の「メタボラ」が連載されている。初回から読み通すことのできない文章なので、まったく読んでいない。
束芋の画は、小説世界を錬りあげた、挿画を超えた独立した作品である。
文章からイメージされる小説世界を、さらに束芋の画に刺激されることで、別世界にひきずりこまれる。
ここまで存在感のある挿画を、わたしは知らない。
【束芋(たばいも)のプロフィール】
1975年、兵庫県生まれ。本名・田端綾子。
3人姉妹の次女で、予備校生時代に姉と同じクラスになり、ある友人が"田端の妹"という意味の「タバイモ」と呼びはじめた。これに漢字の「束芋」を当てた。
ちなみに姉は「タバアネ」、妹は「イモイモ」。
1999年、京都造形芸術大学芸術学部情報デザインコース卒業。
芸大には、一浪して追加合格で入学し、卒業時は、就職志望の会社にすべて断られた。
卒業制作「にっぽんの台所」が、キリンコンテンポラリーアワード1999」(現キリンアートアワード)にて最優秀作品賞を受賞したのを契機に、世界的にアーティストとして活躍。
束芋の作品は、インスタレーションというジャンルに入る。
ベルギーの美術関係者は、束芋の作品を「俳句のよう」だと評したという。
2002年10月、弱冠26歳で母校・京都造形芸術大学の教授に就任したときは、大きなニュースになった。
*
束芋は、京都芸大の学生には、「○○恐怖症」というふうに、それぞれの恐怖症を課題に制作させたらしい。
そんな束芋は、小学生相手だったら、どのような課題を与えるのだろう。
子どもたちが、束芋の卒業制作「にっぽんの台所」(1999年)で描かれた、まな板の上でサラリーマンが首を切られるアニメをみて、どのような感想をもつのか、興味がある。
われわれは「リストラ」という言葉には不感症になっている。が、まな板のうえで女性(いかにも主婦デス、という太った中年女性)が、中年男性の首を気軽に、かつ容赦なく切ろうとしている図には、独特の不気味さが漂う。
滑稽なアニメに、自分の首が切られようとしているような臨場感がある。
なお束芋自身は、「自分を理解し、素直に表現しているだけで、社会批評をしているつもりはない」とのこと。
〔追記 2006/07/14〕
「ヨロヨロン 束芋」展
東京・品川の原美術館
8月27日まで(7月17日を除く月曜と7月18日休み)
「ヨロヨロン」 束芋 (Fuji-tv ART NET)
〔追記 2006/07/19〕
7月23日(日)、束芋が「トップランナー」(NHK教育・19:00 〜 19:44)に出演します。
〔参照〕
第12回日本現代藝術奨励賞
束芋展:おどろおどろ
現代美術家 束 芋さん(asahi.com マイタウン京都/2005年10月31日)
美術家 束 芋 「にっぽん」という国の色(神戸新聞・2003/01/04)
ArtYuran「Vol.24 束芋(Tabaimo) 」2000/09/22
2006年07月03日
中原フク述・村上護編『私の上に降る雪は――わが子 中原中也を語る』
『私の上に降る雪は――わが子 中原中也を語る』(講談社・1973/10/12)を読む。
本書は村上護が、中原中也の母・フク(94歳)から聞いた話(昭和48年1月末から約1ヵ月あまり、2時間×6回)を文章にまとめたものである。巻末に記された村上の解説の日付が昭和48年10月1日となっている。一連の動きが、昭和48年(1973)年という1年間のうちに行われたということになる。
サブタイトル「わが子 中原中也を語る」は、大岡昇平がつけたという。
中原家の長男として両親から期待された中也は、一度も働いたことのない肝(きも)やき息子だった。
中也は父・謙助の葬式に帰っていない。「長い髪をして葬式にでるのはみっともない」と、フクが帰らせなかった。そしてそのことを、あとで後悔したという。
生前の中也は、湯田のあたりで「あれは肝やき息子だ」という評判だったが、のちに「死んで孝行なさいましたな」といわれるという。「湯田に住む者もほんとうに名誉に思っております」と。
大岡昇平が中也と喧嘩したときのことを『中原中也』に記していたが、フクが中也の妻・孝子から聞いた話ではこういう描写になる。
(p.200より引用)
《孝ちゃんはどうすることもできずにみておったといいますが、こまかい男がかかっていくのが、「おかしゅうて、おかしゅうて」と、話してくれたことがありました。中也は誰にでも、けんかを売ったものとみえます。
孝ちゃんにもガミガミやかましゅういうておりました。それで、私は中也に、「孝ちゃんに、あんなにいうもんじゃあないよ。あんたのお嫁さんとしては、よすぎるようなお嫁さんじゃから、かわいがってあげなさいよ」と、いっておりました。りこうな女でしたから、孝ちゃんは中也が怒ると、ケタケタ笑っておりました》
「中也の詩なんか読んでも、しようがない」といっていた医者の父・謙助は、死の床で中也が送った「詩を印刷したうすいもの」を読み、涙をボロボロだしていたという。
一方、フクのほうは、「やれやれ、こんなことを相変わらずつづけておるのかな、とがっかりした気持で読んでおりました」。
謙助は、昭和3年(1928)5月13日に亡くなる。
中也・26歳、孝子・20歳の昭和8年(1933)、結婚。孝子の生まれた上野家と中原家は遠い親類にあたり、孝子には両親がいなかった。
中也が死んで16年ぶりぐらいに、フクは自分の娘としてよそへお嫁にやった。孝子はフクをほんとうの親のように思って、いたわってくれるという。
昭和24年(1949)・文化の日、小林秀雄は山口県から招かれて、「宮本武蔵」という講演をする。
「ぼくが講演に行っても話すことはないけど、中也さんのお母さんの顔でも見に行くつもりで、山口まで行きましょう」といったという。
講演後、松田旅館で宴会が催されたのに、小林秀雄はひとりでフクの家を訪れた。
(p.250より引用)
《「いま歓迎会をするからというて、知事やら何やら、いっぱい人が来ておった。けど、あんななかで飲んでもおもしろくないから、ここへ来ました」
その夜は私の家に泊られて、小林さんは自分のお母さんの話などなさいました。「知らん間に、おっかあが死んだ、おっかあが死んだ。それを知らなくて、ほんとにすまなかった」と、涙を流してくりかえし話されました》
わたしは小林秀雄について詳しくないのだが、本書で唯一仰天したのは、「おっかあ」と母親を呼び、涙を流して詫びる小林秀雄だ。わたしがイメージしていた小林秀雄像に合致しないにすぎない、とはいえ。
さて、中原中也に心酔し、中也と富永太郎が共存するという知人がいる。わたしにはこの異質な詩人が共存することが不可思議なので、理由を訊いた。
「中也の詩には泣ける」と。そして彼女は、「富永太郎あってこその中也であり、小林秀雄だ」と言明していた。
わたしは実際に太郎の詩に泣いたことはないが、中也の詩には泣けないなあ。
本書は村上護が、中原中也の母・フク(94歳)から聞いた話(昭和48年1月末から約1ヵ月あまり、2時間×6回)を文章にまとめたものである。巻末に記された村上の解説の日付が昭和48年10月1日となっている。一連の動きが、昭和48年(1973)年という1年間のうちに行われたということになる。
サブタイトル「わが子 中原中也を語る」は、大岡昇平がつけたという。
中原家の長男として両親から期待された中也は、一度も働いたことのない肝(きも)やき息子だった。
中也は父・謙助の葬式に帰っていない。「長い髪をして葬式にでるのはみっともない」と、フクが帰らせなかった。そしてそのことを、あとで後悔したという。
生前の中也は、湯田のあたりで「あれは肝やき息子だ」という評判だったが、のちに「死んで孝行なさいましたな」といわれるという。「湯田に住む者もほんとうに名誉に思っております」と。
大岡昇平が中也と喧嘩したときのことを『中原中也』に記していたが、フクが中也の妻・孝子から聞いた話ではこういう描写になる。
(p.200より引用)
《孝ちゃんはどうすることもできずにみておったといいますが、こまかい男がかかっていくのが、「おかしゅうて、おかしゅうて」と、話してくれたことがありました。中也は誰にでも、けんかを売ったものとみえます。
孝ちゃんにもガミガミやかましゅういうておりました。それで、私は中也に、「孝ちゃんに、あんなにいうもんじゃあないよ。あんたのお嫁さんとしては、よすぎるようなお嫁さんじゃから、かわいがってあげなさいよ」と、いっておりました。りこうな女でしたから、孝ちゃんは中也が怒ると、ケタケタ笑っておりました》
「中也の詩なんか読んでも、しようがない」といっていた医者の父・謙助は、死の床で中也が送った「詩を印刷したうすいもの」を読み、涙をボロボロだしていたという。
一方、フクのほうは、「やれやれ、こんなことを相変わらずつづけておるのかな、とがっかりした気持で読んでおりました」。
謙助は、昭和3年(1928)5月13日に亡くなる。
中也・26歳、孝子・20歳の昭和8年(1933)、結婚。孝子の生まれた上野家と中原家は遠い親類にあたり、孝子には両親がいなかった。
中也が死んで16年ぶりぐらいに、フクは自分の娘としてよそへお嫁にやった。孝子はフクをほんとうの親のように思って、いたわってくれるという。
昭和24年(1949)・文化の日、小林秀雄は山口県から招かれて、「宮本武蔵」という講演をする。
「ぼくが講演に行っても話すことはないけど、中也さんのお母さんの顔でも見に行くつもりで、山口まで行きましょう」といったという。
講演後、松田旅館で宴会が催されたのに、小林秀雄はひとりでフクの家を訪れた。
(p.250より引用)
《「いま歓迎会をするからというて、知事やら何やら、いっぱい人が来ておった。けど、あんななかで飲んでもおもしろくないから、ここへ来ました」
その夜は私の家に泊られて、小林さんは自分のお母さんの話などなさいました。「知らん間に、おっかあが死んだ、おっかあが死んだ。それを知らなくて、ほんとにすまなかった」と、涙を流してくりかえし話されました》
わたしは小林秀雄について詳しくないのだが、本書で唯一仰天したのは、「おっかあ」と母親を呼び、涙を流して詫びる小林秀雄だ。わたしがイメージしていた小林秀雄像に合致しないにすぎない、とはいえ。
さて、中原中也に心酔し、中也と富永太郎が共存するという知人がいる。わたしにはこの異質な詩人が共存することが不可思議なので、理由を訊いた。
「中也の詩には泣ける」と。そして彼女は、「富永太郎あってこその中也であり、小林秀雄だ」と言明していた。
わたしは実際に太郎の詩に泣いたことはないが、中也の詩には泣けないなあ。