2008年03月

2008年03月24日

樋口一葉「にごりえ」――泣きて後の冷笑(斎藤緑雨の評)

雑用に追われ、気になりながらも更新できませんでした。
それにもかかわらずアクセスしつづけてくださった皆さま、ありがとうございました。

  *

昨年、たまたま書店でみつけた田中優子著『樋口一葉「いやだ!」と云ふ』(集英社新書/2004年7月)は、独特の視点と内容の深さに感心した。
本書で田中優子が論じている一葉の作品のなかから、「にごりえ」をとりあげたい。

本blogで2007年08月07日にアップした「東電OL殺人事件から10年を経て」は、検索によるアクセスがいまもとぎれることがない。
東電OLは風化していないのだなあ、と実感する。
わたしにとって娼婦といえば、「にごりえ」の主人公・お力(りき)である。
東電OLの渡邊泰子は、わたしのなかでは娼婦ではない。

田中優子が巻末でつぎのように記しているのに、わたしはまったく同感である。

自分が置かれている状況、直面している現実が苦痛に満ちていたら、まず「いやだ!」と、全面的に拒否した。「いやだ!」という叫びは、現実生活の中には表さなかった。文字という形で、一葉は叫んだのである

私ももう誰にも遠慮なく「いやだ!」と心の中で叫ぼうと思う。それがなければ、この世にとどまるのは難しいのである

樋口一葉と同じく24歳で肺結核で逝った詩人・富永太郎は、ボードレールの「人工天国」を翻訳し、神経衰弱に苦しんだ。「いやだ!」という叫びを詩に結実させた。
ちなみに一葉が奔馬性結核のため亡くなったのは明治29年(1896)11月23日で、太郎は大正14年(1925)11月12日。
特効薬ストレプトマイシンがアメリカで発見されたのは1944年で、日本では1951年から社会保険適用となる。

明治27年(1894)5月、22歳の一葉は下谷区竜泉寺町(俗称大音寺前・吉原遊郭の近く)から本郷区丸山福山町に転居し、ここが終の棲家となる。
一葉は明治28年(1895)6月2日、川上眉山(かわかみ・びざん)から自伝を書くように勧められ、6月10日か20日ごろ「にごりえ」に着手したらしい。7月いっぱいで第7章までを書きあげ、『文芸倶楽部』の編集者・大橋乙羽に渡し、難航した第8章は8月2日付けで乙羽に送ったらしい。
同年1月20日に初訪問した戸川残花から一葉はドストエフスキーの「罪と罰」(内田魯庵訳)を借り、幾度もくりかえし読んだ。

「にごりえ」の舞台は、丸山福山町にある銘酒屋「菊の井」である。
銘酒屋とは吉原よりはるかに格下の売春宿。
樋口家の付近には、新開地を繁昌させる銘酒屋街がひろがっていた。
お力のモデルは、「浦島」という銘酒屋にいた「小林愛」だという。
一葉は銘酒屋に住む酌婦が相手の男に出す手紙の代筆をしていて、彼女たちから情報を得ていた。
一葉と同じく、お力も頭痛もちである。
「にごりえ」ではお力の頭痛が、理不尽な力に屈せざるを得ない象徴としてあらわれているようにも読める。

田中優子のつぎの見解にわたしは注目した。

娼婦であることのほんとうの苦悩は、身を売ることなのではない。人の死や人の不幸をよそ事にして、「御愁傷さまと脇を向く」しかないことなのだ。お力の中にたまりにたまった悲しさは、そういう非情に身を置くしか生きようのない、人間の悲しさである

7月16日の盆の夜、菊の井の下座敷で客を置きざりにして突然飛びだしたお力は、筋向かいの横町の闇に姿をかくし独りごつ。

ああ嫌だ嫌だ嫌だ、どうしたなら人の声も聞えない物の音もしない、静かな、静かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない処へ行(ゆ)かれるであらう、つまらぬ、くだらぬ、面白くない、情ない悲しい心細い中に、何時(いつ)まで私は止められてゐるのかしら、これが一生か、一生がこれか、ああ嫌だ嫌だ

気が狂いはせぬかと立ちどまったお力は、客である結城朝之助(ゆうき・とものすけ)に肩を打たれる。16日には必ず来てくれ、とお力は朝之助にいっていたことを忘れていたのだ。
いまだに騒ぎのはげしい下座敷の客を無視して、お力は結城を二階の座敷に連れあげる。
お力は大湯呑で酒をあおり、朝之助に不幸な身の上を告白する。
お力の核となっている話を聞いた朝之助に、「お前は出世を望むな」とだしぬけにいわれてお力は驚く。
お力は朝之助を慕い、諦めつつも「玉の輿」を密かに願っていたらしい。が、それが絶望的であることが確定した。
やさしい言葉をかけつづけてきた朝之助にとって、お力は路傍の石に等しいことが判明した。にもかかわらず、お力は朝之助の下駄をかくして、強引に泊まらせる。
田中優子は《ここの描写に、お力の女としての「甘え」がみえる。これが書ける一葉は「甘え」を知っている》と記しているが、そうだろうか?
わたしには「したたかさ」にみえる。借金を断られても、手紙で再度借金を申し込んだ一葉のしたたかさと重なる。図太いのではなく、せっぱ詰まったうえでのしたたかさなのだ。
お力の告白は朝之助のこころに届いていない。と同時に、朝之助の酷薄さを「お前は出世を望むな」のひとことで表現している一葉には驚嘆する。

妻子もちの源七は町内で少しは巾もあった蒲団屋で、お力に入れあげたため、いまは見るかげもなく貧乏して土方の手伝いをし、八百屋の裏の小さな荒れた家に住んでいる。
お力に逢いに下座敷に来た源七は、間接的に拒絶される。ちょうど上座敷には朝之助がいたが、源七はお力が朝之助を慕っていることは知らない。
どれほど望んでもお力の想いが朝之助に通じないように、源七の想いはお力には通じない。
そんなお力を思い切ることができない源七は、非情にも10年連れそった妻と息子を家から追いだしてしまう。
お力に魂を奪われた源七と女房・お初のやりとりは、きわめてリアルである。

一葉が苦しんで書きあげた第8章の書きだしは、《魂祭り過ぎて幾日、まだ盆提燈のかげ薄淋しき頃、、新開の町を出し棺二つあり、一つは駕にて、一つはさし担ぎにて、駕は菊の井の隠居処よりしのびやかに出ぬ》であり、結語はつぎのようになっている。

恨みは長し人魂か何かしらず筋を引く光り物のお寺の山といふ小高き処より、折ふし飛べるを見し者ありと伝へぬ

源七は、お寺の山でお力を後ろから袈裟がけに切り、自分は切腹。
お力はすべてを引きうける格好で源七に殺されたが、そうでなければ発狂していたかもしれぬという怪しさが、「にごりえ」の世界を覆っているように、わたしは感じる。
富永太郎は発狂の怖れを抱き精神を病んでいたが、一葉もそうだったのかもしれない。

それにしても離縁されても行き処のないお初(28歳くらい)は、息子・太吉をかかえてどのように生計を立てるのか? お初が娼婦に身を落とさないとも限らない。
源七に殺されたお力より、お初の恨みのほうが甚大だと思えてならない。

  *

瀬戸内寂聴『炎凍る 樋口一葉の恋』(小学館文庫/2004年12月)の巻末に、寂聴と前田愛(日本文学研究者)の対談(1983年)が収められているのが興味深い。
半井桃水(なからい・とうすい)や久佐賀義孝(くさか・よしたか)と一葉の関係はプラトニックではなかったと、両者は考えている。
本書の解説を田中優子が書いている。
田中優子の《一葉は見事に「わがままに」金と性を切り離して生きてみせたに違いない》という説に、わたしは同意する。
寂聴は《『にごりえ』は男を知った女でないと書けるものではない》と力説しているが、一葉の作品はわたしが読んだ限り、体験を超える内容のものばかりである。

和田芳恵『一葉の日記』新装版(講談社文芸文庫/2005年4月)は、伝記小説か小説に近い文学作品だという。和田芳恵は一葉の日記を私小説ととらえ、一葉のしたたかさぶりを強調していて、息苦しいほどである。
一葉が桃水と絶交したのは「萩の舎で騒がれたから」ということになっているが、和田芳恵は一葉が《いい人だけれど、仕事や金に縁がないから棄てようと考えていた》とし、《桃水は、逆境にいて、一葉に裏切られたものと考えられる》。

一葉が桃水と絶交の形をとったのは明治25年(1892)6月。同年11月、花圃の仲介で『うもれ木』を「都の花」に連載。この報告がてら松濤軒という葉茶屋を経営していた桃水を訪問し、関係が復活した。
桃水は一葉に対して、いつも親身な対応をしている。
明治22年(1889)、父の死により17歳で家督相続人となった一葉は、母と妹との生活を維持するため、死ぬまで金策に苦しんだ。
一葉の死後、妹のくには借金とりから逃れるために、一時大橋乙羽宅に身を寄せている。

和田芳恵によると、一葉は吉原という存在を社会悪とも病弊とも考えていたらしい。《実行しきれなかった下層社会の改革運動が、作品の世界に昇華した》と、記している。
一葉が丸山福山町に転居してからすぐれた作品を立てつづけに発表したのは、従兄の樋口幸作の死と関連がある、というのが和田芳恵の説である。、
幸作は"癩病"にかかって亡くなった。当時、遺伝と思われていた病気で死んだことを、一葉は宿命と感じたらしい。
一葉は自分の文名に対し、「お祭りだけにさわがれる神田の神輿」ととらえていた。
一葉の根底にあるのは厭世であり、前述したお力の内言は一葉のものだと考えられる。

  *

田中優子は「にごりえ」が無理心中の浄瑠璃になり得る、ととらえている。
余談だが、2月初旬、わたしは久しぶりに生まれ育った大阪に行き、梅田駅近くのホテルに泊まった。わたしの家はここから車で15分くらいのところにあったのだ。
20代の一時期、わたしがよく利用していた雰囲気のよいそのホテルのバーは、残念なことになくなっていた。
そのホテルの並びにある旭屋書店本店には、かつて数えきれないほど立ち寄り、付近の曽根崎界隈で頻繁に日本酒をのみ、お初天神の近くまできたことがあった。中には入らなかったが、なにか異界という雰囲気があったのを記憶している。当時のわたしは、そこが「曽根崎心中」の現場だということを知らなかったのだが。
今回、そのお初天神に参るつもりでいたのだが、結局はかなわなかった。

そんな経緯もあり、2月29日、NHK教育の芸術劇場で文楽「曽根崎心中」が放映されたのを興味深く観た。
お初天神の正式名称は露天神社(つゆのてんじんじゃ)。
元禄16年(1703)4月7日早朝、遊女・お初と手代・徳兵衛が、曽根崎の露天神の森で心中した事件を基に、近松門左衛門が一気に書きあげた物語が「曽根崎心中」。
人形浄瑠璃「曽根崎心中」の初演は、事件から1ヵ月後の5月7日、道頓堀にある竹本座での公演。
曽根崎心中・観音廻りの意味」をわたしは興味深く読んだ。

それにしても、ひとびとはなぜ「曽根崎心中」に共感するのだろうか。
いのちを賭してもいいと本気で思えるひとに巡りあいたい、という願望のあらわれなのだろうか。
庶民にそういう願望があるということに、わたしはあらためて驚いてしまうのである。

  *

このたび、田中優子のホームページを閲覧した。
天皇制撤廃を表明し、法政大学で『カムイ伝全集』を参考書に使う講義をしているのは、わたしがイメージしていた田中優子像と合致する。しかし平成15年に紫綬褒章を受章しているのには、違和感がある。
勝手ながら、田中優子の思想性がわからなくなってしまったのである。

ところで、朝日新聞・夕刊に3月10日から5回にわたって石牟礼道子のインタビュー記事が連載された。
初回で、聞き手・田中啓介の「70年、第1回大宅壮一賞を辞退なさったのは全編ノンフィクションではないから?」という問いに、石牟礼道子は「はい、はい」と答えている。
わたしの以前からの推理では、水俣の患者さんに寄りそい、シャーマンのような感じで作品化した石牟礼道子としては、自分が受賞することに対し懼れ多いという感覚があったのではないか。
ほんとうの理由を理路整然と述べないところが石牟礼道子らしいと、わたしは想像する。
石牟礼道子の思想が筋金入りであることはたしかだ。













miko3355 at 00:02|この記事のURLTrackBack(0)文学